唐代の長安の人類遺骸のゲノムデータ
唐代の人類遺骸のゲノムデータを報告した研究(Lv et al., 2024)が公表されました。唐代、とくにその都である長安(Chang’an)は、「国際色」が豊かだった、と一般的に考えられているように思います。本論文は、現在の中華人民共和国陝西省西安(Xi’an)市に位置する、唐代の長安の幸福林帯(Xingfulindai、略してXFLD)遺跡から得られた人類遺骸7点のゲノムデータを報告します。この7個体のうち4個体(XFLD_1)は、黄河中流域の瓦店(Wadian)遺跡や平糧台(Pingliangtai)遺跡や郝家台(Haojiatai)遺跡といった後期新石器時代集団と遺伝的に均質で、ユーラシア西部もしくは他の非黄河関連系統からの遺伝的影響はありませんでした。しかし、残りの3個体では、この黄河中流域の後期新石器時代集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)に加えて、3~15%のユーラシア西部関連祖先系統が確認されました。本論文は、唐代長安の「国際色」豊かな性格を、遺伝学的観点から改めて示しています。この記事における時代区分の略称は、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、後期青銅器時代(Late Bronze Age、略してLBA)、後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)、歴史時代(historical era、略してH)です。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
唐王朝(618~907年)の古代長安は【当時の】世界の最大級にして最も人口の多い都市の一つで、世界的に有名なシルクロード(絹の道)の東端として機能していました。しかし、長安の人々の遺伝学と、西方地域と関連する遺伝子流動がこの国際都市において広がっていたのかどうかについては、ほとんど知られていません。本論文は、長安の唐王朝期となる幸福林帯遺跡から得られた7点のゲノムを提示します。XFLDの7個体のうち4個体(XFLD_1)は、黄河中流域の瓦店遺跡や平糧台遺跡や郝家台遺跡の後期新石器時代人口集団(黄河_LN)と遺伝的に均質で、ユーラシア西部もしくは他の非黄河関連系統からの遺伝的影響はありませんでした。残りのXFLDの3個体は、黄河_LN関連祖先系統と3~15%のユーラシア西部関連祖先系統の混合でした。XFLD_1とユーラシア西部関連祖先系統の混合は、現在の陝西省の北部および中央部における遺伝的差異の主要な勾配をもたらしました。本論文は遺伝学的観点から、歴史時代における中国の領域【この文脈で「中国」との表記の使用には問題があるようにも思います】内のシルクロード沿いの黄河_LN関連祖先系統の広範な分布を強調し、長安におけるユーラシア横断の交流の直接的証拠を提供しました。
●背景
現在の陝西省の省都である西安市は黄河流域の関中(Guanzhong)平原の中央部に位置しており、南方では秦嶺山脈(Qinling Mountains)、北方では渭水(Wei River)に隣接しています。周王朝(紀元前1111~紀元前221年【この年代については、異論があるかもしれません】)から唐王朝(618~907年)まで、13の封建王朝が西安(長安市としても知られています)に首都を置きました。繁栄した唐王朝期には、長安市は古代世界の最大級の都市中心地の一つに成長しました。長安の政治的および経済的制度は、中国の後世、さらには近隣諸国に影響を及ぼしました。唐王朝の長安市は、シルクロードの東端としても機能しました。このよく知られている古代の交易路は中国をアジア中央部およびヨーロッパと結びつけ、唐帝国と西方地域との間の物質文化と技術の交流も促進しました。
最近の古代DNA研究では、黄河中流域の新石器時代の仰韶(Yangshao)文化関連祖先系統が黄河上流域の古代人に遺伝的遺産を残し[1]、西方ではチベット高原[2]と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタン[3]、北方では西遼河流域と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部と陝西省北部[1]、南方では中国南西部の内陸部と中国南東部の沿岸部[4、5]、東方では日本列島[6]に遺伝的影響が及んでいる、と報告されました。しかし、黄河中流域関連祖先系統の拡大が古代中国の中心地である長安の遺伝的組成に及ぼした影響の程度は、古代ゲノムデータの不足のため不明なままです。
古代DNAは、アジアの頭部と中央部の交差点における、ユーラシア東部および西部と関連する祖先系統間の遺伝的相互作用も明らかにしました。東トルキスタンでは、青銅器時代の遺伝子プールは、タリム盆地の在来の小河(Xiaohe)遺跡個体関連祖先系統と、ユーラシア西部草原地帯牧畜民やクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)を有するアルタイ南部地域のチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化の人々を含めての外来祖先系統と、古代アジア北東部関連祖先系統のさまざまな水準の混合によって形成され、鉄器時代と歴史時代の東トルキスタンの人々は、青銅器時代の東トルキスタンの人々と比較して、アジア中央部および東部から追加の遺伝子流動を受け取りました[3]。
河西回廊の最西端、つまり中原と東トルキスタンを直接的につなぐ通路では、甘粛省の佛爺廟湾(Foyemiaowan)遺跡個体群によって表される歴史時代の全個体(佛爺廟湾_H)は、後期新石器時代黄河中流域関連祖先系統(黄河_LNによって表されます)の直接的子孫で、例外となる【外れ値(outlier、略してo)の】2個体は、年代が曹魏(Cao-Wei、220~266年【日本では一般的には265年とされていますが、西暦に換算すると266年となります】)と唐王朝(618~907年)で(つまり、佛爺廟湾_曹魏_oと佛爺廟湾_唐_o)、ユーラシア東西の混合特性を示します[7]。しかし、甘粛省の黒水国(Heishuiguo)遺跡個体など、非黄河関連系統の遺伝的寄与は、歴史時代の河西回廊の中央部および東部(黒水国_Hと黄河上流_IAによって表されます)では検出されませんでした[7]。さらに、歴史記録では、突厥や鮮卑やソグド人などの非漢人が唐王朝には居住していたことも示唆されました。
非漢人関連系統が古代中国の中心部の遺伝子プールに及ぼした影響の程度を調べるためには、古代ゲノムデータが緊急に必要でした。これまで、長安の歴史は広範に研究されてきましたが、古代長安のゲノム研究は限られていました。この間隙を埋めるため、中国北部の陝西省西安市に位置する唐王朝期の考古学的遺跡であるXFLDから得られた、24点の標本が検査されました。5個体は較正年代(1950年が基準)で904~1286年前頃となり、唐王朝(1332~1043年前)の年代期間となります。7個体からゲノム規模の古代DNAデータの取得に成功しました。本論文の目的は以下の3点の調査で、それは、(1)新石器時代黄河中流域関連祖先系統とのXFLDの人々の遺伝的関係、(2)アジア中央部およびユーラシア西部関連祖先系統が唐帝国の中心部である長安にまで広がっていたのかどうか、(3)唐王朝のXFLDの人々が現在の人口集団にどう影響を及ぼしたのか、です。
●古代DNAの確実性
ヒト内在性含有量は、3.37~77.62%の範囲と推定されました。各ゲノムから得られた配列データは、死後の損傷を示唆する、ヌクレオチドの誤取り込みパターンを示しました。全個体は低水準の現代人からの汚染率を示しました。遺伝子型決定で死後のDNA損傷の影響を軽減するために、各読み取りの両端9塩基対を隠蔽した後で、常染色体網羅率の平均深度は、120万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)では0.05~21.5732倍、少なくとも1回の読み取りで網羅される120万SNPでの数は63463~1228428と推定されました。親族関係分析では、個体の全組み合わせは親族関係ではなかった、と確証されました。集団遺伝学的分析のため、XFLD個体群の遺伝子型データが、刊行されている124万データセットおよびヒト起源データセットと統合されました。
●XFLD個体群の遺伝的特性の特徴
本論文の新たに生成されたXFLDの7個体の遺伝的特徴を理解するため、ヒト起源データセットに基づいて主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。ユーラシア東西の現代人(図1B)とユーラシア東部のみの現代人(図1C)によって計算された最初の2主成分(PC)に、古代の個体群が投影されました。研究対象のXFLD個体群は、アジア東部現代人の遺伝的差異内に収まりました。具体的には、XFLDの全個体は、瓦店遺跡や平糧台遺跡や郝家台遺跡の後期新石器時代の龍山(Longshan)文化の人々(つまり、黄河_LN)、および後期青銅器時代~鉄器時代の人々(黄河_LBIA)によって表される、黄河中流域関連人口集団とクラスタ化します(まとまります)。黄河中流域人口集団とXFLD個体群との間の強い類似性は外群f₃統計によっても裏づけられ、黄河中流域関連祖先系統が少なくとも唐王朝期には長安に到来していた、との直接的証拠が提供されます。XFLDの全個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)系統は、アジア北部および南部の現代人で一般的に見られました。XFLDの1個体のmtDNAハプログループmtHg-F1a1aは、アジア東部よりもアジア南東部の方で一般的でした。以下は本論文の図1です。
XFLDの1個体(つまり、XFLDM850)が、XFLDの残りの個体と比較して、PC1に沿ってユーラシア西部人口集団の方へと動いたことも注目されました(図1B)。定量的に、124万パネルでf₄(ヨルバ人、X;XFLDの各個体、黄河_LN/黄河_LBIA)が実行され、古代ユーラシアの人口集団が黄河中流域関連祖先系統よりもXFLD個体群と多くの類似性を共有していたのかどうか、検証されました。非漢人関連祖先系統からXFLD個体群への、僅かではあるものの検出可能な遺伝的影響を把握するため、Z得点=2が統計的有意性を示す判定境界として設定されました。その結果、XFLDの3個体(つまり、XFLDM850とXFLDM114とXFLDM19)は、黄河_LN/黄河_LBIAと比較して、一部の古代アジア中央部もしくはユーラシア西部人口集団とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と観察されました。f₄を計算するために、塩基転換(transversion、ピリミジン塩基とプリン塩基との間の置換)のみのSNPを用いると、いくらかのユーラシア西部関連兆候も観察されました。すべてのf₄統計の指揮で、4人口集団での重複する塩基転換SNPは5万未満で(相対的に限定的です)、すべての変異に基づくすべてのユーラシア西部関連の兆候が塩基転換SNPで観察されたわけではないことに要注意です。
予測されたように、対でのqpWaveモデル化は、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19と黄河_LN/黄河_LBIAとの間の遺伝的異質性を裏づけました。他の4個体(つまり、XFLDM114とXFLDM635とXFLDM682とXFLDM764)は、対でのqpWave分析では黄河_LN/黄河_LBIAとクレード(単系統群)を形成しました。したがって、これらの4個体はXFLD_1として単一の主要クラスタに統合されました。XFLD_1についての1方向の黄河_LN/黄河_LBIAのqpWaveモデル化の堅牢性は、統計的にXFLD_1もしくは黄河_LN/黄河_LBIAとより近いとして、本論文のf₄統計から特定された人口集団の追加によって確証されました。f₄統計と対でのqpWave分析は、XFLD_1と唐王朝の近隣の咸陽の人々や、歴史時代の河西回廊人口集団(黒水国_H、佛爺廟湾_H、黄河上流_IAによって表されます)との間の人口集団の組み合わせの相対的な遺伝的均一性も裏づけました。
外群f₃統計によって推測される、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19と黄河中流域関連祖先系統との間で共有される高度な遺伝的浮動に従って、XFLD_1と黄河_LBIAが、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の代理供給源として用いられました。同様に、f₄(ヨルバ人、X;XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19、黄河_LN/黄河_LBIA)から推測される黄河中流域関連祖先系統とよりも、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の方と多くのアレルを共有していた人口集団が、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の第二供給源として用いられました。その結果、qpAdmで実行された2供給源混合モデル化が、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19を、XFLD_1/YR_LN/YR_LBIAとわずかな(3~15%の範囲)ユーラシア西部関連祖先系統構成要素の混合としてモデル化に成功した、と分かりました(図2B)。常染色体上で約15%のユーラシア西部関連祖先系統を有する個体XFLDM850は、中東の現代人で観察されるY染色体系統であるE1b1b1b2a1a1a1a1f1b(Z21014)も有していました。Y染色体系統E1b1b1b2a1a1~は、近東の古代の個体群でも観察されました[9]。以下は本論文の図2です。
次に、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の混合時期を明らかにするため、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)が適用されました。その結果、8回の結果のうち6回で、混合は個体XFLDM850の時代の約10世代前(1世代29年と仮定すると、329~617年頃)に起きたと推定され、これは五胡十六国(304~439年)と隋王朝(589~618年)の間に相当する、と裏づけられた、と分かりました。個体XFLDM850の他の2回の結果では、混合が40~60世代前に置き、戦国時代(紀元前403~紀元前221年)および西周王朝(紀元前1111~紀元前770年頃)に相当する、と示唆されました。個体XFLDM19の混合年代は15~300世代前で、新石器時代から後漢(東漢)王朝(25~220年)に相当します。個体XFLDM114の混合年代は27~157世代前で、新石器時代から前漢(西漢)王朝(紀元前206~紀元後8年)に相当します。
●現代の陝西省の漢人へのXFLD個体群の寄与
先行研究で刊行された陝西省の北部と中央部と南部の現代の漢人への、XFLD個体群の遺伝的寄与が定量化されました。外群f₃統計では、XFLD個体群は、西安の漢人(漢人_陝西省_西安と表示されます)ではなく、中国中央部の漢人(浙江省と湖北省と江蘇省の漢人によって表されます)および朝鮮人と最も強い遺伝的類似性を共有していた、と観察されました。f₄形式(ヨルバ人、XFLD個体群;漢人i 、漢人j)の対称f₄統計は、iとjは中国の漢人集団のあらゆる組み合わせで、XFLD_1が地元の漢人(つまり、漢人_陝西省_西安)とよりも、中国中央部の漢人の方とアレルを多く共有していた、と示唆しました。次に、現在の陝西省人口集団がXFLD個体群の直接的子孫かどうか、調べられました。
まず、f₃形式(供給源1、供給源2;対象)の混合f₃統計を用いて、対象の混合兆候が評価されました。Z得点が−2未満の統計的に有意な負のf₃値から、対象人口集団は供給源1および供給源2と関連する人口集団の混合かもしれない、と示唆されました。陝西省北部および中央部、つまり楡林(Yulin)市と延安(Yan’an)市とXiangyang【検索しても湖北省の襄陽市しか見つかりませんでした】と西安市と渭南(Weinan)市と宝鶏(Baoji)市の漢人は、XFLD_1とユーラシア西部人との間の混合かもしれない、と観察され、陝西省南部、つまり漢中(Hanzhong)市と安康(Ankang)市の漢人は、XFLD_ 1とアジア東部南方人との間の兆候を示しました。
陝西省の各漢人集団の妥当な混合モデルを調べるため、さらにqpAdmが適用されました。混合f₃統計の結果が示唆したように、陝西省北部および中央部の漢人集団は、XFLD_1と約2~5%のユーラシア西部関連祖先系統との間の混合としてモデル化できる、と分かりました。西省北部および中央部の漢人集団の混合割合は、個体XFLDM114およびXFLDM19と類似していました。陝西省南部の漢人は、XFLD_1と、台湾の鉄器時代の漢本(Hanben)遺跡個体(台湾_漢本)によって表されるアジア東部南方関連祖先系統との間の混合として説明できます。供給源としてユーラシア西部現代人および中国中央部の現代漢人を用いると、山西省の北部(漢人_陝西省_楡林によって表されます)および南部(漢人_陝西省_西安によって表されます)の漢人について、ALDERは1000~1500年前頃の混合時間の一貫した推定値を生成しました。
●考察
これまで、関中平原の西安と関連する古代DNA研究は、新石器時代の仰韶文化と関連する西安市の半坡(Banpo)遺跡から発見された2個体の、ミトコンドリアの超可変領域のDNA断片に限られています。しかし、参照人口集団と方法論的枠組みによって制約されており、新石器時代の西安の人口動態史は不明なままです。以前の古代ゲノム研究は、西安の近隣の新石器時代の人々の区別可能な遺伝的特性を明らかにしており、つまりは、北方では石峁(Shimao)遺跡の後期新石器時代個体(石峁_LN)によって表される陝西省北部、東方では黄河_LNと龍山文化期の仰韶村(Yangshaocun)遺跡個体(黄河_仰韶村_龍山)によって表される河南省、西方では黄河上流_LN[1]によって表される河西回廊の東部地域です(図2A)。陝西省北部と河西回廊の東部地域では、石峁遺跡(石峁_LN)と斉家(Qijia)文化関連遺跡群(黄河上流_LN)の後期新石器時代個体群が、アジア北東部古代人(Ancient Northeast Asia、略してANA)と黄河_MNの混合でした[1]。
河南省では、平糧台遺跡と瓦店遺跡と郝家台遺跡の後期新石器時代の龍山文化関連人口集団(黄河_LN)が、河南省の小呉(Xiaowu)遺跡および汪溝(Wanggou)遺跡の先行する中期新石器時代の仰韶文化人口集団(黄河_MN)と比較すると、追加のアジア東部南方関連祖先系統を受け取りました[1]。最近刊行された、後期新石器時代の龍山文化と関連する、河南省三門峡市の仰韶村(西安市と隣接しています)遺跡の個体群のゲノムは、石峁_LNと関連する遺伝的特性を示しました[12]。仰韶村の龍山文化期の人々(仰韶村_龍山)は、後期新石器時代の【現在の】西安市の人々の遺伝的特性として仮定できます。仰韶村_龍山は黄河_LNと遺伝的に均質ではなく、仰韶村の龍山文化期の全個体が、黄河_LNのように黄河_MNと比較して追加のアジア東部南方関連祖先系統を有していた、というわけではありませんでした。
しかし、本論文では、黄河_LNと関連する遺伝的特性が、歴史時代の中国の領域内【この表現には問題があるように思います】のシルクロードに沿って広く分布していた、と観察されました(図2B)。唐王朝期のXFLDの7個体のうち4個体(XFLD_1)は、非黄河系統からの有意な寄与なしにYR_LN/YR_LBIAの直接的子孫としてモデル化でき、歴史記録によると古代中国の中心部にかつて居住していた、匈奴や鮮卑や西方地域と関連する系統を示唆しています。咸陽市[16]と河西回廊の歴史時代[7]の人口集団(黒水国_H、佛爺廟湾_H、黄河上流_IAによって表されます)も、XFLD_1およびYR_LN/YR_LBIAと遺伝的に均一でした。これらの結果から、YR_LNと関連する祖先系統の強い西方への拡大が、陝西省および河西回廊における遺伝的置換、つまり、新石器時代の石峁_LN/仰韶村_龍山/黄河上流_LNと関連する祖先系統から歴史時代のYR_LNと関連する祖先系統への置換につながった、と示唆されました。
XFLDの7個体のうち3個体では、僅かではあるものの検出可能な(約3~15%)ユーラシア西部関連祖先系統も検出されました(図2B)。qpAdm分析では、多くの遺伝的に区別可能な集団がXFLDM850/XFLDM114/XFLDM19のユーラシア西部関連供給源として使用できることに要注意です。XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19におけるユーラシア西部関連祖先系統の限定的な遺伝的遺産は、どの種類のユーラシア西部関連祖先系統もしくは人口集団がXFLDM850/XFLDM114/XFLDM19に直接的に寄与したのか、判断することをより困難にします。XFLDM114/XFLDM19の混合時期は、少なくとも漢王朝(紀元前206~紀元前220年)には起きていた、と推定されました。XFLDM850の混合時期は、少なくとも隋王朝(589~618年)には起きていた、と推定されました。これらの結果は、古代中国における漢人(という分類を紀元千年紀の人類集団に用いてよいのか、疑問は残りますが)と非漢人との間の結婚に関する歴史記録と一致します。DATESソフトウェアは単一の波動的な混合のみを考慮したことに、要注意です。じっさいの人口集団の混合は、連続的過程だったかもしれません。したがって、長安における頻繁なユーラシア東西の接触の期間の開始は、DATESソフトウェアによって推定された混合年代に先行するかもしれません。これは驚くべきことではなく、それは、大陸間の物質および文化伝播は早くも青銅器時代には起きていたからです。
山東省や河南省や山西省など現在の北方漢人も、XFLD_1もしくはYR_LNの直接的子孫でした。しかし、陝西省の漢人は一般に、XFLD_1と比較して低水準のユーラシア西部関連祖先系統を受け取りました(図2C)。陝西省北部および中央部の漢人集団における混合の年代は、ALDERソフトウェアによって1000~1500年前頃と推定され、これは隋および唐王朝(589~907年)ら相当し、この期間はシルクロード交易の盛時で、漢人と非漢人の間の頻繁な通婚がありました。DATESソフトウェアのように、ALDERは単一の波動の混合モデルを仮定しました。したがって、陝西省の北部および中央部の漢人集団における混合事象は、少なくとも隋および唐王朝期には起きていました。これは、唐王朝期のXFLDの3個体がすでに現在の陝西省中央部の漢人集団と類似した遺伝的特性を獲得していた、との観察と一致します。
陝西省南部の漢人はXFLD_1と比較して、より多くのアジア東部南方関連祖先系統を受け取っており、ユーラシア西部関連祖先系統の痕跡はありませんでした(図2C)。歴史的には、現在の陝西省南部は大元ウルス(元王朝、1279~1368年【元王朝の期間としてこの年代には問題があり、大元ウルスは現在の北京となる大都から撤退した後も存続していました】)まで陝西省の管轄に含められませんでした。東から西へ400~500km、北から南へ100~500kmにまたがる秦嶺山脈は、陝西省の中央部と南部との間の境界として機能しています。秦嶺山脈は、中国の南北間の、地質と地理と生態系と環境と気候と文化さえの自然の境界でもあります。したがって、陝西省南部の漢人集団が、江蘇省や上海市など長江三角州の漢人と類似した遺伝的特性を示したことは、驚くべきではありません。秦嶺山脈は、ユーラシア西部関連祖先系統の南方への遺伝子流動とアジア東部南方関連祖先系統の北方への遺伝子流動にとって地理的障壁と考えることができます。
本論文は、単一の遺跡と古代人7個体のゲノムにのみ基づいているので、長安における完全な遺伝的多様性を表していないかもしれないことに要注意です。唐王朝期の長安市の遺伝的歴史を包括的に解明するには、XFLDもしくは他の遺跡の追加となる古代人のゲノムデータが必要です。陝西省およびその周辺の唐王朝期以前のヒト遺骸に関する将来の考古遺伝学的研究は、古代中国の祖先系統と非漢人祖先系統との間の相互作用のより包括的な理解に寄与するでしょう。
●まとめ
本論文では、唐王朝期のXFLD遺跡の古代人7個体のゲノムの分析によって、唐王朝の都である長安の人口動態の歴史が調べられました。その結果、XFLD個体群は2群に分類される、と観察されました。一方は、瓦店遺跡や平糧台遺跡や郝家台遺跡の個体群によって表される新石器時代黄河中流域の人々(黄河_LN)の直接的子孫で、もう一方は黄河_LNと3~15%のユーラシア西部関連祖先系統との間の混合でした。長安(西安市)に暮らす現在の漢人集団は、おもに黄河中流域関連祖先系統を示す傾向にあり、遺伝的構成の約3%がユーラシア西部起源です。これらの結果は、古代の長安の個体群の人口動態への新たな洞察を提供し、ユーラシアの東西の人類集団間の遺伝子および文化の交流と統合に関する理解を拡張します。
参考文献:
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https://doi.org/10.1371/journal.pone.0288128
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●要約
唐王朝(618~907年)の古代長安は【当時の】世界の最大級にして最も人口の多い都市の一つで、世界的に有名なシルクロード(絹の道)の東端として機能していました。しかし、長安の人々の遺伝学と、西方地域と関連する遺伝子流動がこの国際都市において広がっていたのかどうかについては、ほとんど知られていません。本論文は、長安の唐王朝期となる幸福林帯遺跡から得られた7点のゲノムを提示します。XFLDの7個体のうち4個体(XFLD_1)は、黄河中流域の瓦店遺跡や平糧台遺跡や郝家台遺跡の後期新石器時代人口集団(黄河_LN)と遺伝的に均質で、ユーラシア西部もしくは他の非黄河関連系統からの遺伝的影響はありませんでした。残りのXFLDの3個体は、黄河_LN関連祖先系統と3~15%のユーラシア西部関連祖先系統の混合でした。XFLD_1とユーラシア西部関連祖先系統の混合は、現在の陝西省の北部および中央部における遺伝的差異の主要な勾配をもたらしました。本論文は遺伝学的観点から、歴史時代における中国の領域【この文脈で「中国」との表記の使用には問題があるようにも思います】内のシルクロード沿いの黄河_LN関連祖先系統の広範な分布を強調し、長安におけるユーラシア横断の交流の直接的証拠を提供しました。
●背景
現在の陝西省の省都である西安市は黄河流域の関中(Guanzhong)平原の中央部に位置しており、南方では秦嶺山脈(Qinling Mountains)、北方では渭水(Wei River)に隣接しています。周王朝(紀元前1111~紀元前221年【この年代については、異論があるかもしれません】)から唐王朝(618~907年)まで、13の封建王朝が西安(長安市としても知られています)に首都を置きました。繁栄した唐王朝期には、長安市は古代世界の最大級の都市中心地の一つに成長しました。長安の政治的および経済的制度は、中国の後世、さらには近隣諸国に影響を及ぼしました。唐王朝の長安市は、シルクロードの東端としても機能しました。このよく知られている古代の交易路は中国をアジア中央部およびヨーロッパと結びつけ、唐帝国と西方地域との間の物質文化と技術の交流も促進しました。
最近の古代DNA研究では、黄河中流域の新石器時代の仰韶(Yangshao)文化関連祖先系統が黄河上流域の古代人に遺伝的遺産を残し[1]、西方ではチベット高原[2]と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタン[3]、北方では西遼河流域と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部と陝西省北部[1]、南方では中国南西部の内陸部と中国南東部の沿岸部[4、5]、東方では日本列島[6]に遺伝的影響が及んでいる、と報告されました。しかし、黄河中流域関連祖先系統の拡大が古代中国の中心地である長安の遺伝的組成に及ぼした影響の程度は、古代ゲノムデータの不足のため不明なままです。
古代DNAは、アジアの頭部と中央部の交差点における、ユーラシア東部および西部と関連する祖先系統間の遺伝的相互作用も明らかにしました。東トルキスタンでは、青銅器時代の遺伝子プールは、タリム盆地の在来の小河(Xiaohe)遺跡個体関連祖先系統と、ユーラシア西部草原地帯牧畜民やクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)を有するアルタイ南部地域のチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化の人々を含めての外来祖先系統と、古代アジア北東部関連祖先系統のさまざまな水準の混合によって形成され、鉄器時代と歴史時代の東トルキスタンの人々は、青銅器時代の東トルキスタンの人々と比較して、アジア中央部および東部から追加の遺伝子流動を受け取りました[3]。
河西回廊の最西端、つまり中原と東トルキスタンを直接的につなぐ通路では、甘粛省の佛爺廟湾(Foyemiaowan)遺跡個体群によって表される歴史時代の全個体(佛爺廟湾_H)は、後期新石器時代黄河中流域関連祖先系統(黄河_LNによって表されます)の直接的子孫で、例外となる【外れ値(outlier、略してo)の】2個体は、年代が曹魏(Cao-Wei、220~266年【日本では一般的には265年とされていますが、西暦に換算すると266年となります】)と唐王朝(618~907年)で(つまり、佛爺廟湾_曹魏_oと佛爺廟湾_唐_o)、ユーラシア東西の混合特性を示します[7]。しかし、甘粛省の黒水国(Heishuiguo)遺跡個体など、非黄河関連系統の遺伝的寄与は、歴史時代の河西回廊の中央部および東部(黒水国_Hと黄河上流_IAによって表されます)では検出されませんでした[7]。さらに、歴史記録では、突厥や鮮卑やソグド人などの非漢人が唐王朝には居住していたことも示唆されました。
非漢人関連系統が古代中国の中心部の遺伝子プールに及ぼした影響の程度を調べるためには、古代ゲノムデータが緊急に必要でした。これまで、長安の歴史は広範に研究されてきましたが、古代長安のゲノム研究は限られていました。この間隙を埋めるため、中国北部の陝西省西安市に位置する唐王朝期の考古学的遺跡であるXFLDから得られた、24点の標本が検査されました。5個体は較正年代(1950年が基準)で904~1286年前頃となり、唐王朝(1332~1043年前)の年代期間となります。7個体からゲノム規模の古代DNAデータの取得に成功しました。本論文の目的は以下の3点の調査で、それは、(1)新石器時代黄河中流域関連祖先系統とのXFLDの人々の遺伝的関係、(2)アジア中央部およびユーラシア西部関連祖先系統が唐帝国の中心部である長安にまで広がっていたのかどうか、(3)唐王朝のXFLDの人々が現在の人口集団にどう影響を及ぼしたのか、です。
●古代DNAの確実性
ヒト内在性含有量は、3.37~77.62%の範囲と推定されました。各ゲノムから得られた配列データは、死後の損傷を示唆する、ヌクレオチドの誤取り込みパターンを示しました。全個体は低水準の現代人からの汚染率を示しました。遺伝子型決定で死後のDNA損傷の影響を軽減するために、各読み取りの両端9塩基対を隠蔽した後で、常染色体網羅率の平均深度は、120万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)では0.05~21.5732倍、少なくとも1回の読み取りで網羅される120万SNPでの数は63463~1228428と推定されました。親族関係分析では、個体の全組み合わせは親族関係ではなかった、と確証されました。集団遺伝学的分析のため、XFLD個体群の遺伝子型データが、刊行されている124万データセットおよびヒト起源データセットと統合されました。
●XFLD個体群の遺伝的特性の特徴
本論文の新たに生成されたXFLDの7個体の遺伝的特徴を理解するため、ヒト起源データセットに基づいて主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。ユーラシア東西の現代人(図1B)とユーラシア東部のみの現代人(図1C)によって計算された最初の2主成分(PC)に、古代の個体群が投影されました。研究対象のXFLD個体群は、アジア東部現代人の遺伝的差異内に収まりました。具体的には、XFLDの全個体は、瓦店遺跡や平糧台遺跡や郝家台遺跡の後期新石器時代の龍山(Longshan)文化の人々(つまり、黄河_LN)、および後期青銅器時代~鉄器時代の人々(黄河_LBIA)によって表される、黄河中流域関連人口集団とクラスタ化します(まとまります)。黄河中流域人口集団とXFLD個体群との間の強い類似性は外群f₃統計によっても裏づけられ、黄河中流域関連祖先系統が少なくとも唐王朝期には長安に到来していた、との直接的証拠が提供されます。XFLDの全個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)系統は、アジア北部および南部の現代人で一般的に見られました。XFLDの1個体のmtDNAハプログループmtHg-F1a1aは、アジア東部よりもアジア南東部の方で一般的でした。以下は本論文の図1です。
XFLDの1個体(つまり、XFLDM850)が、XFLDの残りの個体と比較して、PC1に沿ってユーラシア西部人口集団の方へと動いたことも注目されました(図1B)。定量的に、124万パネルでf₄(ヨルバ人、X;XFLDの各個体、黄河_LN/黄河_LBIA)が実行され、古代ユーラシアの人口集団が黄河中流域関連祖先系統よりもXFLD個体群と多くの類似性を共有していたのかどうか、検証されました。非漢人関連祖先系統からXFLD個体群への、僅かではあるものの検出可能な遺伝的影響を把握するため、Z得点=2が統計的有意性を示す判定境界として設定されました。その結果、XFLDの3個体(つまり、XFLDM850とXFLDM114とXFLDM19)は、黄河_LN/黄河_LBIAと比較して、一部の古代アジア中央部もしくはユーラシア西部人口集団とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と観察されました。f₄を計算するために、塩基転換(transversion、ピリミジン塩基とプリン塩基との間の置換)のみのSNPを用いると、いくらかのユーラシア西部関連兆候も観察されました。すべてのf₄統計の指揮で、4人口集団での重複する塩基転換SNPは5万未満で(相対的に限定的です)、すべての変異に基づくすべてのユーラシア西部関連の兆候が塩基転換SNPで観察されたわけではないことに要注意です。
予測されたように、対でのqpWaveモデル化は、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19と黄河_LN/黄河_LBIAとの間の遺伝的異質性を裏づけました。他の4個体(つまり、XFLDM114とXFLDM635とXFLDM682とXFLDM764)は、対でのqpWave分析では黄河_LN/黄河_LBIAとクレード(単系統群)を形成しました。したがって、これらの4個体はXFLD_1として単一の主要クラスタに統合されました。XFLD_1についての1方向の黄河_LN/黄河_LBIAのqpWaveモデル化の堅牢性は、統計的にXFLD_1もしくは黄河_LN/黄河_LBIAとより近いとして、本論文のf₄統計から特定された人口集団の追加によって確証されました。f₄統計と対でのqpWave分析は、XFLD_1と唐王朝の近隣の咸陽の人々や、歴史時代の河西回廊人口集団(黒水国_H、佛爺廟湾_H、黄河上流_IAによって表されます)との間の人口集団の組み合わせの相対的な遺伝的均一性も裏づけました。
外群f₃統計によって推測される、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19と黄河中流域関連祖先系統との間で共有される高度な遺伝的浮動に従って、XFLD_1と黄河_LBIAが、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の代理供給源として用いられました。同様に、f₄(ヨルバ人、X;XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19、黄河_LN/黄河_LBIA)から推測される黄河中流域関連祖先系統とよりも、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の方と多くのアレルを共有していた人口集団が、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の第二供給源として用いられました。その結果、qpAdmで実行された2供給源混合モデル化が、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19を、XFLD_1/YR_LN/YR_LBIAとわずかな(3~15%の範囲)ユーラシア西部関連祖先系統構成要素の混合としてモデル化に成功した、と分かりました(図2B)。常染色体上で約15%のユーラシア西部関連祖先系統を有する個体XFLDM850は、中東の現代人で観察されるY染色体系統であるE1b1b1b2a1a1a1a1f1b(Z21014)も有していました。Y染色体系統E1b1b1b2a1a1~は、近東の古代の個体群でも観察されました[9]。以下は本論文の図2です。
次に、XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19の混合時期を明らかにするため、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)が適用されました。その結果、8回の結果のうち6回で、混合は個体XFLDM850の時代の約10世代前(1世代29年と仮定すると、329~617年頃)に起きたと推定され、これは五胡十六国(304~439年)と隋王朝(589~618年)の間に相当する、と裏づけられた、と分かりました。個体XFLDM850の他の2回の結果では、混合が40~60世代前に置き、戦国時代(紀元前403~紀元前221年)および西周王朝(紀元前1111~紀元前770年頃)に相当する、と示唆されました。個体XFLDM19の混合年代は15~300世代前で、新石器時代から後漢(東漢)王朝(25~220年)に相当します。個体XFLDM114の混合年代は27~157世代前で、新石器時代から前漢(西漢)王朝(紀元前206~紀元後8年)に相当します。
●現代の陝西省の漢人へのXFLD個体群の寄与
先行研究で刊行された陝西省の北部と中央部と南部の現代の漢人への、XFLD個体群の遺伝的寄与が定量化されました。外群f₃統計では、XFLD個体群は、西安の漢人(漢人_陝西省_西安と表示されます)ではなく、中国中央部の漢人(浙江省と湖北省と江蘇省の漢人によって表されます)および朝鮮人と最も強い遺伝的類似性を共有していた、と観察されました。f₄形式(ヨルバ人、XFLD個体群;漢人i 、漢人j)の対称f₄統計は、iとjは中国の漢人集団のあらゆる組み合わせで、XFLD_1が地元の漢人(つまり、漢人_陝西省_西安)とよりも、中国中央部の漢人の方とアレルを多く共有していた、と示唆しました。次に、現在の陝西省人口集団がXFLD個体群の直接的子孫かどうか、調べられました。
まず、f₃形式(供給源1、供給源2;対象)の混合f₃統計を用いて、対象の混合兆候が評価されました。Z得点が−2未満の統計的に有意な負のf₃値から、対象人口集団は供給源1および供給源2と関連する人口集団の混合かもしれない、と示唆されました。陝西省北部および中央部、つまり楡林(Yulin)市と延安(Yan’an)市とXiangyang【検索しても湖北省の襄陽市しか見つかりませんでした】と西安市と渭南(Weinan)市と宝鶏(Baoji)市の漢人は、XFLD_1とユーラシア西部人との間の混合かもしれない、と観察され、陝西省南部、つまり漢中(Hanzhong)市と安康(Ankang)市の漢人は、XFLD_ 1とアジア東部南方人との間の兆候を示しました。
陝西省の各漢人集団の妥当な混合モデルを調べるため、さらにqpAdmが適用されました。混合f₃統計の結果が示唆したように、陝西省北部および中央部の漢人集団は、XFLD_1と約2~5%のユーラシア西部関連祖先系統との間の混合としてモデル化できる、と分かりました。西省北部および中央部の漢人集団の混合割合は、個体XFLDM114およびXFLDM19と類似していました。陝西省南部の漢人は、XFLD_1と、台湾の鉄器時代の漢本(Hanben)遺跡個体(台湾_漢本)によって表されるアジア東部南方関連祖先系統との間の混合として説明できます。供給源としてユーラシア西部現代人および中国中央部の現代漢人を用いると、山西省の北部(漢人_陝西省_楡林によって表されます)および南部(漢人_陝西省_西安によって表されます)の漢人について、ALDERは1000~1500年前頃の混合時間の一貫した推定値を生成しました。
●考察
これまで、関中平原の西安と関連する古代DNA研究は、新石器時代の仰韶文化と関連する西安市の半坡(Banpo)遺跡から発見された2個体の、ミトコンドリアの超可変領域のDNA断片に限られています。しかし、参照人口集団と方法論的枠組みによって制約されており、新石器時代の西安の人口動態史は不明なままです。以前の古代ゲノム研究は、西安の近隣の新石器時代の人々の区別可能な遺伝的特性を明らかにしており、つまりは、北方では石峁(Shimao)遺跡の後期新石器時代個体(石峁_LN)によって表される陝西省北部、東方では黄河_LNと龍山文化期の仰韶村(Yangshaocun)遺跡個体(黄河_仰韶村_龍山)によって表される河南省、西方では黄河上流_LN[1]によって表される河西回廊の東部地域です(図2A)。陝西省北部と河西回廊の東部地域では、石峁遺跡(石峁_LN)と斉家(Qijia)文化関連遺跡群(黄河上流_LN)の後期新石器時代個体群が、アジア北東部古代人(Ancient Northeast Asia、略してANA)と黄河_MNの混合でした[1]。
河南省では、平糧台遺跡と瓦店遺跡と郝家台遺跡の後期新石器時代の龍山文化関連人口集団(黄河_LN)が、河南省の小呉(Xiaowu)遺跡および汪溝(Wanggou)遺跡の先行する中期新石器時代の仰韶文化人口集団(黄河_MN)と比較すると、追加のアジア東部南方関連祖先系統を受け取りました[1]。最近刊行された、後期新石器時代の龍山文化と関連する、河南省三門峡市の仰韶村(西安市と隣接しています)遺跡の個体群のゲノムは、石峁_LNと関連する遺伝的特性を示しました[12]。仰韶村の龍山文化期の人々(仰韶村_龍山)は、後期新石器時代の【現在の】西安市の人々の遺伝的特性として仮定できます。仰韶村_龍山は黄河_LNと遺伝的に均質ではなく、仰韶村の龍山文化期の全個体が、黄河_LNのように黄河_MNと比較して追加のアジア東部南方関連祖先系統を有していた、というわけではありませんでした。
しかし、本論文では、黄河_LNと関連する遺伝的特性が、歴史時代の中国の領域内【この表現には問題があるように思います】のシルクロードに沿って広く分布していた、と観察されました(図2B)。唐王朝期のXFLDの7個体のうち4個体(XFLD_1)は、非黄河系統からの有意な寄与なしにYR_LN/YR_LBIAの直接的子孫としてモデル化でき、歴史記録によると古代中国の中心部にかつて居住していた、匈奴や鮮卑や西方地域と関連する系統を示唆しています。咸陽市[16]と河西回廊の歴史時代[7]の人口集団(黒水国_H、佛爺廟湾_H、黄河上流_IAによって表されます)も、XFLD_1およびYR_LN/YR_LBIAと遺伝的に均一でした。これらの結果から、YR_LNと関連する祖先系統の強い西方への拡大が、陝西省および河西回廊における遺伝的置換、つまり、新石器時代の石峁_LN/仰韶村_龍山/黄河上流_LNと関連する祖先系統から歴史時代のYR_LNと関連する祖先系統への置換につながった、と示唆されました。
XFLDの7個体のうち3個体では、僅かではあるものの検出可能な(約3~15%)ユーラシア西部関連祖先系統も検出されました(図2B)。qpAdm分析では、多くの遺伝的に区別可能な集団がXFLDM850/XFLDM114/XFLDM19のユーラシア西部関連供給源として使用できることに要注意です。XFLDM850/XFLDM114/XFLDM19におけるユーラシア西部関連祖先系統の限定的な遺伝的遺産は、どの種類のユーラシア西部関連祖先系統もしくは人口集団がXFLDM850/XFLDM114/XFLDM19に直接的に寄与したのか、判断することをより困難にします。XFLDM114/XFLDM19の混合時期は、少なくとも漢王朝(紀元前206~紀元前220年)には起きていた、と推定されました。XFLDM850の混合時期は、少なくとも隋王朝(589~618年)には起きていた、と推定されました。これらの結果は、古代中国における漢人(という分類を紀元千年紀の人類集団に用いてよいのか、疑問は残りますが)と非漢人との間の結婚に関する歴史記録と一致します。DATESソフトウェアは単一の波動的な混合のみを考慮したことに、要注意です。じっさいの人口集団の混合は、連続的過程だったかもしれません。したがって、長安における頻繁なユーラシア東西の接触の期間の開始は、DATESソフトウェアによって推定された混合年代に先行するかもしれません。これは驚くべきことではなく、それは、大陸間の物質および文化伝播は早くも青銅器時代には起きていたからです。
山東省や河南省や山西省など現在の北方漢人も、XFLD_1もしくはYR_LNの直接的子孫でした。しかし、陝西省の漢人は一般に、XFLD_1と比較して低水準のユーラシア西部関連祖先系統を受け取りました(図2C)。陝西省北部および中央部の漢人集団における混合の年代は、ALDERソフトウェアによって1000~1500年前頃と推定され、これは隋および唐王朝(589~907年)ら相当し、この期間はシルクロード交易の盛時で、漢人と非漢人の間の頻繁な通婚がありました。DATESソフトウェアのように、ALDERは単一の波動の混合モデルを仮定しました。したがって、陝西省の北部および中央部の漢人集団における混合事象は、少なくとも隋および唐王朝期には起きていました。これは、唐王朝期のXFLDの3個体がすでに現在の陝西省中央部の漢人集団と類似した遺伝的特性を獲得していた、との観察と一致します。
陝西省南部の漢人はXFLD_1と比較して、より多くのアジア東部南方関連祖先系統を受け取っており、ユーラシア西部関連祖先系統の痕跡はありませんでした(図2C)。歴史的には、現在の陝西省南部は大元ウルス(元王朝、1279~1368年【元王朝の期間としてこの年代には問題があり、大元ウルスは現在の北京となる大都から撤退した後も存続していました】)まで陝西省の管轄に含められませんでした。東から西へ400~500km、北から南へ100~500kmにまたがる秦嶺山脈は、陝西省の中央部と南部との間の境界として機能しています。秦嶺山脈は、中国の南北間の、地質と地理と生態系と環境と気候と文化さえの自然の境界でもあります。したがって、陝西省南部の漢人集団が、江蘇省や上海市など長江三角州の漢人と類似した遺伝的特性を示したことは、驚くべきではありません。秦嶺山脈は、ユーラシア西部関連祖先系統の南方への遺伝子流動とアジア東部南方関連祖先系統の北方への遺伝子流動にとって地理的障壁と考えることができます。
本論文は、単一の遺跡と古代人7個体のゲノムにのみ基づいているので、長安における完全な遺伝的多様性を表していないかもしれないことに要注意です。唐王朝期の長安市の遺伝的歴史を包括的に解明するには、XFLDもしくは他の遺跡の追加となる古代人のゲノムデータが必要です。陝西省およびその周辺の唐王朝期以前のヒト遺骸に関する将来の考古遺伝学的研究は、古代中国の祖先系統と非漢人祖先系統との間の相互作用のより包括的な理解に寄与するでしょう。
●まとめ
本論文では、唐王朝期のXFLD遺跡の古代人7個体のゲノムの分析によって、唐王朝の都である長安の人口動態の歴史が調べられました。その結果、XFLD個体群は2群に分類される、と観察されました。一方は、瓦店遺跡や平糧台遺跡や郝家台遺跡の個体群によって表される新石器時代黄河中流域の人々(黄河_LN)の直接的子孫で、もう一方は黄河_LNと3~15%のユーラシア西部関連祖先系統との間の混合でした。長安(西安市)に暮らす現在の漢人集団は、おもに黄河中流域関連祖先系統を示す傾向にあり、遺伝的構成の約3%がユーラシア西部起源です。これらの結果は、古代の長安の個体群の人口動態への新たな洞察を提供し、ユーラシアの東西の人類集団間の遺伝子および文化の交流と統合に関する理解を拡張します。
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