コーカサスからヨーロッパ東部への農耕の拡大
古代ゲノムデータに基づいてコーカサスからヨーロッパ東部への農耕の拡大を示した研究(Zhur et al., 2024)が公表されました。北コーカサスにおける最古級の農耕集団はダルクベティ・メショコ(Darkveti-Meshoko)文化ですが、この文化集団から近隣の草原地帯牧畜民への遺伝的影響は不明です。本論文は、北コーカサスの最古級の金石併用時代の遺跡であるナリチク(Nalchik)墓地から得られた人類のDNAを用いて、ヴォルガ川下流域の最古級の牧畜民であるフヴァリンスク(Khvalynsk)文化集団とナリチク墓地被葬者との間の遺伝的つながりを示します。ナリチク墓地被葬者の遺伝的構成は、コーカサス狩猟採集民(Caucasus Hunter–Gatherer、略してCHG)とヨーロッパ東部狩猟採集民(Eastern hunter-gatherer、略してEHG)とアジア西部の先土器新石器時代(Pre-Pottery Neolithic、略してPPN)農耕民のつながりを示します。特定のフヴァリンスク文化関連個体は北コーカサス金石併用時代のウナコゾヴォ・ナリチク(Unakozovo-Nalchik)的集団の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を共有していました。これらの知見は、紀元前五千年紀前半において、文化と配偶の交流網によって、アジア西部からコーカサス地方を経由してヨーロッパ東部のドン川とヴォルガ川の間の草原地帯へと農耕および牧畜がもたらされたことを示唆しています。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
ダルクベティ・メショコ文化(紀元前5000~紀元前3500/3000年頃)は北コーカサスにおける、最古級の既知の農耕共同体ですが、近隣草原地帯牧畜民の遺伝的特性への寄与は不明なままでした。本論文は、北コーカサスの最古級の金石併用時代の遺跡であるナリチク墓地のヒトDNAの解析を提示し、これはフヴァリンスク文化のヴォルガ川下流の最初の牧畜民とのつながりを示します。ナリチク墓地の男性の遺伝子型は、コーカサス狩猟採集民とヨーロッパ東部狩猟採集民とアジア西部の先土器新石器時代の農耕民の遺伝子を結びつけます。改良された比較分析から、特定のフヴァリンスク文化個体の遺伝的特性は北コーカサス金石併用時代のウナコゾヴォ・ナリチク型人口集団の遺伝的祖先系統を共有している、と示唆されます。したがって、紀元前五千年紀前半において、文化と配偶の交流網は、アジア西部からコーカサス地方を横断し、ヨーロッパ東部のドン川とヴォルガ川の間の草原地帯への、農耕と牧畜の拡大に役立ったようです。
●研究史
紀元前七千年紀末~紀元前六千年紀初頭に、アジア西部の新石器化は南コーカサスの平原に達し、そこではクラ(Kura)およびアラス(Araxes)川流域全体に、シュラヴェリ・ショムテペ・アラタシェン(Shulaveri-Shomutepe-Aratashen)型の新石器時代遺跡が広がりました。放射性炭素年代の不足のため、同様に同じ頃に西ジョージア(グルジア)に新石器時代遺跡が出現した、と主張することは困難ですが、その可能性は除外できません。しかし、新石器時代型の南コーカサスの文化が北コーカサスに拡大した、との考古学的兆候はありません。こうした全ては、大コーカサス山脈がこれらの文化に影響されないままだったことを示唆しています。この状況の矛盾は、中石器時代以降および紀元前六千年紀末までじっさいに、北コーカサスの人口密度が明らかにきわめて低かったことです。この地域では、紀元前七千年紀~紀元前六千年紀にかけての年代測定されている遺跡は知られていません。この状況では、紀元前五千年紀初頭の北コーカサスにおけるダルクベティやメショコなど多数の金石併用時代遺跡の出現は、人口爆発のように見えました。それは、ここに新石器時代生活様式の主要な変革技術、つまり農耕とウシの繁殖を初めて持ち込んだ人々によるこの地域の定住でした。
この人口集団の起源に関する問題は、北コーカサスにおける新石器化の過程の再構築と、コーカサスに隣接するドン川とヴォルガ川の間のヨーロッパ東部草原地帯地域におけるこの種の経済と関連する要素のその後の拡大についての理解の両方に等しく関連しています。この問題は、遺伝学的分析に利用できるダルクベティ・メショコ型の遺跡と関連する人類学的遺骸の少なさのため解決困難です。30ヶ所ほどの遺跡があり、知られている埋葬は3ヶ所だけで、ウナコゾヴォスカヤ(Unakozovskaya)洞窟1ヶ所の埋葬のみで、1親等の親族関係の人々の遺骸が遺伝学的分析の対象となりました[9]。
この研究の目的は、北コーカサスにおける最古級(紀元前5000/4800年頃)の金石併用時代の集団埋葬地(121ヶ所の埋葬)であるナリチク埋葬地の古代人のDNAのゲノム解析結果を初めて提示することです。この墓地は1929年に発掘され、北コーカサス中央部の山麓とユーラシア草原地帯の前コーカサスの端との間の境界に位置していました。この遺跡の特異性はその文化的特徴にあり、その特徴によってこの遺跡はダルクベティ・メショコ伝統のコーカサス群に分類でき、ヴォルガ川流域で見られるフヴァリンスク遺跡とのつながりがあります。この期間には、北コーカサスの人口集団がちょうど農耕と動物の畜産を習得し始めたばかりの一方で、ヴォルガ川下流域の近隣草原地帯とドン川下流域の草原地帯丘陵地帯の人口集団は、ウシとヤギ/ヒツジの飼育を始めたばかりでした。これは全て、コーカサスにおいてマイコープ(Maikop)文化(紀元前3700~紀元前3000/2900年頃)の約1000年前、草原地帯においてヤムナヤ(Yamnaya)文化のほぼ1500年前に出現しました。その後の青銅器時代には、ヤムナヤ文化の人々は文化および経済発展の傾向とともに、ユーラシアの遺伝的景観を決定づけました[16]。
この文化的および歴史的過程における金石併用時代のダルクベティ・メショコ文化人口集団に割り当てられた役割は、補助的というよりは重要なもので、それは、この人口集団の寄与がなくては、金石併用時代とその後の前期青銅器時代のコーカサスおよび近隣の草原地帯の経済と遺伝の歴史における主要な歴史的傾向を正確に評価できないからです。ダルクベティ・メショコ文化人口集団は北コーカサスに新石器時代生活様式をもたらしただけではなく、ヴォルガ川とドン川の草原地帯人口集団に生産経済の技術を伝えた、と考えられます。本論文はこの仮説の検証の文脈において、ナリチク墓地の墓42基から発見された1個体のゲノム規模解析の結果を提示します。
●ゲノム規模配列決定と片親性遺伝標識の分析
NL1.2.2古代DNA断片のライブラリのゲノム規模配列決定の結果として、155万以上の読み取りが生成され、452778ヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)が特定されました。そのデータから、このゲノムは男性に属し、そのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はT2c1a1、Y染色体ハプログループ(YHg)はR1b1(L1068)だった、と示唆されました。mtDNAとX染色体の異型接合性の程度などの媒介変数によると、標本の汚染は検出されませんでした。
●ナリチクにおける金石併用時代の埋葬から発見された男性1個体の遺伝的クラスタ化
この古代人1個体の遺伝的類似性を定量的に評価するため、まず主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析が実行されました。標本の一覧は表S2に、地理的位置は図1に示されています。以下は本論文の図1です。
PCA空間は現代人の標本を用いて構築され、ナリチク墓地の男性1個体は、次に最初の2固有ベクトルに投影された古代人のゲノムの集合に沿って含まれました(図2)。PCA図上の古代人のゲノムの位置は、考古学的遺跡の地理的座標と相関しています。主成分1(PC1)は東西の方向と、主成分2(PC2)は南北の方向と一致します。PCA図に基づくと、ナリチク墓地の男性1個体(標本の座標はPC1が−0.0131、PC2が0.0018)はユーラシア西部草原地帯の古代の個体群とコーカサス地域の古代の個体群との中間的位置を占めている、と観察されます。北コーカサス山麓草原地帯とプログレス2(Progress 2)遺跡(紀元前4994~紀元前4802年頃となる最古の標本)とヴォニュチュカ1(Vonyuchka 1)遺跡(紀元前4337~紀元前4177年頃)の標本は、フヴァリンスク2遺跡[19]の草原地帯1個体(I0434、紀元前5198~紀元前4853年頃)とともに、PC1-PC2空間でナリチク墓地の男性1個体の近くに位置します。ウナコゾヴォスカヤ(Unakozovskaya)洞窟の標本は同じダルクベティ・メショコ文化に属していますが、コーカサス地域のクラスタ(まとまり)に位置します。以下は本論文の図2です。
図3は、K(系統構成要素数)= 6と等しい祖先人口集団の数での混合分析の結果を提示しています。ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群のゲノムが、コティアス(Kotias)遺跡やサツルビア(Satsurbia)遺跡などのCHGクラスタ、アルハンテペ(Alkhantepe)遺跡やアルスランテペ(Arslantepe)遺跡やアルメニアの銅器時代など南コーカサスの古代人標本、フヴァリンスク遺跡やデレイフカ1(DereivkaI)遺跡やレビャジンカ6(Lebyazhinka VI)遺跡やウクライナの中石器時代などユーラシア西部草原地帯の個体群、同時代や前後の期間近隣地域の他の標本の文脈で分析されました。以下は本論文の図3です。
混合分析では、ウナコゾヴォスカヤ洞窟の古代の個体群は混合図では、アナトリア半島新石器時代と関連する供給源(紫色)、CHG/イラン新石器時代と関連する供給源(濃緑色)、EHG(ヨーロッパ東部狩猟採集民)/ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter-Gatherer、略してWHG)と関連する供給源(橙色)におもに由来する混合祖先系統を有している、と示されました。これは、早ければ6500年前頃となるコーカサスの北側でのこの混合祖先系統の存在を示唆した、先行研究[9]で以前に刊行されたデータと一致します。同様の祖先系統特性は、アナトリア半島とアルメニアの銅器時代となるアレニ1(Areni-1)洞窟の古代の標本で報告されました[9]。
ウナコゾヴォスカヤ洞窟の個体群と比較すると、ナリチク墓地の男性1個体はV2(橙色)構成要素の濃縮を示しており、この構成要素が優勢なのは、EHGやWHGやセルビアの鉄門(Iron Gates)遺跡の狩猟採集民(セルビア_鉄門_HG)やフヴァリンスク2遺跡個体やデレイフカ1遺跡個体や他の標本のように、ユーラシアライブ草原地帯においてです。ナリチク墓地の男性1個体のゲノムにおける草原地帯構成要素の存在の増加は予測され、それは、教会地域(ナリチク墓地)では山脈(ウナコゾヴォスカヤ洞窟)と比較して、より大きな相互作用があったからです。
ナリチク墓地の男性1個体がウナコゾヴォスカヤ洞窟の個体群と比較してEHG/WHGと共有されるアレル(対立遺伝子)の過剰を持っているのか検証するため、F4形式(ヨルバ人、ユーラシア西部草原地帯個体群;ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群、ナリチク墓地個体)のF4統計が実行されました。この統計はEHGとWHGについて、有意に正のZ得点を生成しました。同様の結果は、ナリチク墓地の男性1個体とアレニ1洞窟(アルメニア_銅器時代)の個体群との間で共有されるアレルの過剰を検証すると、F4形式(ヨルバ人、ユーラシア西部草原地帯個体群;アルメニア_銅器時代、ナリチク墓地個体)のF4統計によって得られました。
●外群F3統計
ナリチク墓地の男性1個体のさらなるqpAdmモデル化で使用できる、最も関連する人口集団を見つけるため、ゲノムの外群F3統計が用いられました。混合分析によると、明らかな候補は草原地帯(EHG)、CHGとホツ3b(HotuIIIb)洞窟の個体群(イラン_ホツ3b)のコーカサス地域、新石器時代の人々(候補)でした。本論文で検証範囲であるダルクベティ・メショコ文化および他の文化(検証対象)との古代の人口集団の遺伝的類似性を測定するため、F3統計(検証対象、候補;ヨルバ人)が実行されました。その結果(図4)は、特定のPPN人口集団がナリチク墓地の男性1個体の祖先と相互作用した、との過程を確証します。以下は本論文の図4です。
とくに注目すべきは、フヴァリンスク遺跡およびレビャジンカ遺跡個体群のような草原地帯草原地帯人口集団が、PPN個体群と有意なF3値を生成した、との観察です。さらに、フヴァリンスク遺跡個体の500年前でフヴァリンスク遺跡の北東約300kmに位置するレビャジンカ遺跡個体は、フヴァリンスク遺跡個体よりもトルコ南東部のマルディン(Mardin)近くのボンクル・タルラ(Boncuklu Tarla)遺跡の1個体(マルディン_PPN)の方と強い類似性を示します。おそらく、PPN個体群の衝撃はこれら草原地帯に到達したものの、経時的に在来の古代のEHG集団によって希釈されました。したがって、北コーカサスのの最古級の金石併用時代墓地であるナリチク遺跡の古代人1個体のDNAと、レビャジンカ遺跡個体から、アジア西部のPPNの遺伝的遺産は少なくとも紀元前五千年紀早期までにはユーラシア草原地帯に到達していた、と示唆されます。
●ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とアルメニアの銅器時代の代表のゲノムのモデル化
ナリチク墓地の男性1個体のゲノムに寄与した年代的に遠近両方の人口集団の祖先系統の割合が、qpAdmによって決定されました。このモデルによって、同時代や前後の期間における、CHG/PPNと周辺地域の他集団との間の連続性の検証が可能となります。単純な1方向モデル化の結果では、ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟およびアルメニアの銅器時代文化の個体群が、単一の供給源として、イラクのシャニダール(Shanidar)洞窟のベスタンスール(Bestansur)遺跡のPPN個体(ベスタンスール_PPN)、キプロス島(CYP)の先土器新石器時代B(Pre-Pottery Neolithic B、略してPPNB)個体(CYP_PPNB)、トルコのアスクルホユク(AsklHoyuk)遺跡のPPN個体(トルコ_C_アスクルホユク_PPN)でモデル化できる、と示されました。マルディン_PPNも適合を示したものの、それはナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群のみでした。しかし、ウナコゾヴォスカヤ洞窟の個体群のみが、CHGやイラン_ホツ3bやアゼルバイジャンのメンテシュ(Mentesh)遺跡およびポルテペ(Polutepe)遺跡の個体群など、より古いコーカサスの代表と高い遺伝的類似性を示した、と分かりました。
モデルへの適合性を高めるため、第二の供給源人口集団が分析に含められました。2供給源モデル化の統計では、古代コーカサスの供給源がCHGもしくはイラン_ホツ3bによって表され、ナリチク墓地の男性1個体のゲノムが草原地帯、とくにEHGからの優位な流入を有していた(最大で25.2%)、と裏づけています。アルメニアの銅器時代個体群の祖先系統も、ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群(最大で83.3%)および草原地帯祖先系統(最大で23.5%)との仮定的な遺伝的つながりに対応している、と言及する価値があります。
考古学は当然、ダルクベティ・メショコ文化が農耕と畜産を習得していた、との事実を証明しました。新石器化の遺伝的供給源を検出するため、先土器農耕民のゲノムがCHGおよびEHGとともにqpAdmモデル化で使用されました。第一供給源としてのイラン_ホツ3b 、第二供給源としてのEHG祖先系統、外群としてアナトリア半島新石器時代人口集団のさまざまな組み合わせを有する第三供給源としてのさまざまなPPN祖先系統での3方向混合の結果は、図5Bに提示されています。ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とアルメニアの銅器時代の代表のゲノムに寄与した先土器新石器時代祖先系統の最大割合は、トルコのマルマラ(Marmara)地域のバルシン(Barcin)遺跡の新石器時代(Neolithic、略してN)個体(トルコ_マルマラ_バルシン_N)もしくはアナトリア半島新石器時代集団を外群人口集団として用いると、CYP_PPNB、トルコのPPNのボンクル(Boncuklu)遺跡個体(トルコ_C_ボンクル_PPN)、マルディン_PPN、トルコ_C_アスクルホユク_PPNで確証されました(図5B)。以下は本論文の図5です。
PPNおよびアナトリア半島新石器時代個体群を「供給源」と「外群」として入れ替えると、統計的に有意な組み合わせが減少しましたが、p値が0.05超のの場合、PPNを背景として用いると、アナトリア半島新石器時代個体群からの流入はわずか2~12%でした。4(CHG、EHG、PPN、アナトリア半島新石器時代)もしくは5供給源(CHG、EHG、PPN、アナトリア半島新石器時代、セルビア_HG)を用いてのナリチク墓地の男性1個体およびウナコゾヴォスカヤ洞窟標本のモデル化は、統計的に有意な結果をもたらしませんでした。
●フヴァリンスク2遺跡個体群の祖先系統のモデル化
フヴァリンスク型の遺跡のあるダルクベティ・メショコ伝統の考古学的に記録されているつながりを考慮して、遺伝的水準で、ユーラシア西部草原地帯文化の代表との、ダルクベティ・メショコ/ナリチク墓地の男性1個体の間のつながりの可能性が評価されました。対象としてのフヴァリンスク2遺跡(ロシアのサマラ州のヴォルガ川流域)でのF3形式(X、Y;対象)の混合F3統計ではナリチク墓地の男性1個体もしくはウナコゾヴォスカヤ洞窟標本を第一の供給源として、ロシア_HG_サマラ(レビャジンカ4遺跡)のようなユーラシア西部草原地帯の狩猟採集民を第二の供給源として用いると、有意に負のZ得点が得られ、はウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とナリチク墓地の男性1個体の両方が、草原地帯の人々とともにフヴァリンスク2遺跡人口集団の遺伝的構成の形成について代理とる可能性を示唆しています。
ダルクベティ・メショコ金石併用時代文化の個体群と草原地帯の人々との間の遺伝的相互作用は、その子孫に農耕民関連遺伝的構成要素を伝えたかもしれません。この仮説を検証するため、フヴァリンスク遺跡個体群の3供給源qpAdm分析[19]が実行されました。EHGとイラン_ホツ3bの2供給源が固定され、第三の供給源は、PPN個体群のゲノムを含めて、すべての可能性のある農耕民関連個体群で評価されました。PCAはフヴァリンスク遺跡の異質性を示し、I0434はプログレス2遺跡(紀元前2476~紀元前2303年頃)およびヴォニュチュカ1遺跡(紀元前4337~紀元前4177年頃)の金石併用時代個体群を含む北コーカサスのクラスタとひじょうに密接で、I0433は草原地帯およびEHG標本と密接ですが、I0122はI0433とI0434の中間的位置を示しています。3供給源qpAdmでは、これの標本3点は同じ考古学的分化に帰属するものの、ひじょうに異なる遺伝的祖先系統の背景を有する、と確証されました。I0433は3供給源qpAdmではモデル化できませんでした。I0434とI0122はEHG祖先系統の勾配を示し、それぞれ8%と28%です。最大のPPN祖先系統は標本I0434で検出され(68%)、I0122におけるPPN祖先系統の割合はわずか25%でした(図5B)。
考古学的背景によると、I0122(紀元前4936~紀元前4730年頃)はおそらく高位の個体で、父系で関連する家族上流階層の「黄色」集団の創始者とみなすことができます。I0122のY染色体ハプロタイプはR1b1、mtDNAハプロタイプはH2a1で、サマラ地域では独特です。個体I0433は、mtHg-U5a1、YHg-R1a1(M459)、個体I0434はmtHg-U4d、YHg- Q1(L472)で、ごく質素な副葬品一式が伴っており、個体I0433には副葬品がまったくありませんでした。これら3個体【I0433、I0434、I0433】は「灰色」家族集団に属しています。
PCAと混合とqpAdmモデル化に基づくと、明らかなのは、フヴァリンスク文化個体群は遺伝的に異質で、以下の構成要素の勾配になっていることです。それは、I0434とI0122とI0433の一連の標本における、EHGの増加、PPN(CYP_PPNB、マルディン_PPN、トルコ_C_アスクルホユク_PPN)の減少です。古代CHG(コティアス/サツルビア遺跡個体)もしくは同様のイラン_ホツ3bの構成要素が、これら3点の標本【I0434とI0122とI0433】すべてで検出されました。
●フヴァリンスク遺跡とウナコゾヴォスカヤ洞窟とナリチク遺跡の標本のIBD分析
ダルクベティ・メショコ文化個体群からフヴァリンスク遺跡個体への近い過去の遺伝子流動を検証するため、フヴァリンスク遺跡の個体I0434とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とナリチク墓地の男性1個体の補完されたゲノムが分析されました(図6A)。本論文の調査結果から、ナリチク墓地の男性1個体とヴァリンスク遺跡の標本I0434は2個の最近のハプロタイプの塊を共有している(7番染色体と19版染色体上でそれぞれ44.32センチモルガンと36.29センチモルガン)、と示唆されます。標本間の共通のハプロハプロタイプの全体的な分布から、これら2標本間の系図には少なくとも5ヶ所の枝がある、と示唆されます。以下は本論文の図6です。
ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とフヴァリンスク遺跡のI0434標本との間にはいくつかの共通するハプロハプロタイプがありますが、最近の交配事象の証拠はなく、最大の同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)は35.94 cM(センチモルガン)です。ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群およびナリチク墓地の男性1個体と比較すると、ひじょうに短いIBD(18.76cM)が観察されます。これらのゲノムのハプロタイプの重複は、図6Bで示されるようにごくわずかです。このデータから、フヴァリンスク遺跡のI0434標本のゲノムにはナリチク墓地の男性1個体およびウナコゾヴォスカヤ洞窟個体の祖先からの独立した流入があり、ナリチク墓地の男性1個体からはより新しい遺伝子流動があった、と示唆されます。ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体もしくはナリチク墓地の男性1個体との最近の相互作用の痕跡は、フヴァリンスク遺跡の他のI0122もしくはI0433標本についてはIBD分析では検出されませんでした。
●まとめ
補完されたゲノムでの、PCAと混合とF3およびF4統計とqpAdmとIBD検定を含めて、広範な手法を用いてのナリチク墓地の男性1個体のDNA配列分析は、紀元前5000~紀元前4500年頃における草原地帯の新石器化の最初の波の発生について統計的証拠を提供します。じゅうらいのモデルでは、ナリチク墓地の男性1個体の祖先系統は3供給源、つまりCHGとEHGと新石器時代でモデル化できる、と予測されました。しかし本論文では、PPN人口集団はアナトリア半島新石器時代人口集団とは対照的に、ゲノムに最も大きな影響を及ぼした、と分かりました。PPN構成要素の存在について具体的に焦点が当てられ、ダルクベティ・メショコ文化と密接に関連しているかもしれない、コーカサスおよび草原地帯文化の代表の他の既知のゲノムも分析されました。
ナリチクの金石併用時代墓地のヒト標本男性1点の古遺伝学的分析は、すでに新石器時代の生活様式を達成していた人口集団と、紀元前五千年紀前半に起きた、この人口集団のコーカサスの北側斜面への、次にコーカサス山麓草原地帯およびヴォルガ川下流域へと北進した流れについて、新たな視点を提示します(図7)。以下は本論文の図7です。
予測に反して、ナリチク墓地の男性1個体は遺伝的に、紀元前六千年紀の南コーカサスの近隣の新石器時代人口集団(シュラヴェリ・ショムテペ・アラタシェ型の遺跡)の祖先系統組成とよりも、コーカサスから遠くに居住していた北メソポタミアおよびザグロス山脈のそれ以前(紀元前八千年紀~紀元前七千年紀)の人口集団の方と遺伝的に密接でした。この遺伝的景観の文化的および歴史的背景はまだ完全には理解されておらず、北メソポタミアから北コーカサス、その後さらにヨーロッパ東部草原地帯への遺伝子流動の軌跡は、現在では点線でしか示すことができません。考古資料におけるかなりの間隙は、紀元前八千年紀~紀元前五千年紀の期間におけるこの移動の軌跡の再構築における重要な問題を表しています。
北コーカサスの金石併用時代人口集団と北メソポタミアのPPN社会との間の考古学的つながりは幻想です。これらの人口集団が共有する唯一のものは、かなりの年代の間隙を考えると、現時点で相互に関連しているとみなすことが困難な石の腕輪製作の伝統です。北コーカサスと南コーカサスと北メソポタミアの間の実際の文化的つながりは、メソポタミアの年表によるとウバイド期とウルク期の間の時代以降(ウバイド期の後)にやっと追跡でき、それはメソポタミア北部の北側の地域では、銅器時代後期(紀元前4500~紀元前3800/3500年頃)に相当します(図8)。以下は本論文の図8です。
当時、アラス川流域およびユーフラテス川上流のノルシュンテペ(Norşuntepe)遺跡の後期銅器時代(LC1)集落で知られる独特な櫛形刻印土器が、北コーカサスのメショコおよびミスハコ(Myskhako)遺跡の金石併用時代集落に出現しました。さらに、南コーカサスと北コーカサスに位置する紀元前五千年紀前半の集落は、ザモク(Zamok)遺跡やヴォロンツォヴスカヤ(Vorontsovskaya)洞窟やメンテシュ・テペ(Mentesh Tepe)遺跡のシオニ(Sioni)型の土器と関連しています。アルメニアのアレニ洞窟遺跡もこの後期銅器時代伝統に分類され、この事実はアレニ遺跡に埋葬された個体群とナリチク墓地に埋葬された個体群との間の遺伝的類似性を説明します。より重要なことに、アレニ遺跡個体群における遺伝的特性の草原地帯祖先系統(EHG)の構成要素の存在は、南コーカサスから北コーカサスへの、その後の逆方向の遺伝子の移動がある、遺伝子流動経路の指標として使用できます。
ナリチク墓地の年代を考えると、生産経済技術を有していた人口集団の地理的分布についての南コーカサス経路の出現は、アレニ型の遺跡群に先行し、紀元前五千年紀初期よりもさかのぼるはずです。しかし、南コーカサス、とくに山岳地帯における紀元前六千年紀末~紀元前五千年紀前半の考古学的状況は、依然としてほとんど調べられていません。中石器時代の休止後に、新石器時代後の集団の北方への移動が基本的にはさまざまな景観に適応した再居住だった、と仮定することは公正です。この過程の結果の一つは、紀元前五千年紀前半におけるコーカサスの遅れた新石器化で、金石併用時代には遠くヴォルガ川下流まで近隣の草原地帯の新石器化が続きました。
コーカサス(CHG)およびアジア西部農耕民関連構成要素の組み合わせにおける基礎的な遺伝的祖先系統(EHG)のさまざまな組み合わせを表しているフヴァリンスク遺跡個体群の遺伝的異質性は、北コーカサスと草原地帯の共同体間の配偶のつながりの相対的に低い密度を論証します。これらのつながりは依然として、牧畜技術の伝播には充分で、草原地帯の生活様式における不可逆的変化につながりました。
紀元前五千年紀前半における草原地帯へのコーカサス人口集団の遺伝的浸透は、最初ではなかった可能性が高く、より重要なことに唯一の出来事でもありませんでした。一部のフヴァリンスク遺跡個体におけるEHGとCHGの構成要素の組み合わせによって判断すると、CHG構成要素は、コーカサスの旧石器時代と中石器時代の集団とともに、ずっと早く草原地帯に到達していたかもしれません[32]。もしそうならば、ナリチク墓地に埋葬された個体群とダルクベティ・メショコ人口集団は、紀元前五千年紀前半における西コーカサスおよび北コーカサスと草原地帯への南方人口集団の少なくとも第二の波を表しています。ダルクベティ・メショコ土器と最も類似しているのは、南コーカサスのシオニ型の遺跡で発見されていますが(紀元前五千年紀前半から紀元前四千年紀初頭)、ダルクベティ・メショコ文化の全遺跡で象徴的な種類である石の腕輪が欠けています。シオニのような遺跡の地域を通る経路に加えて、トレビゾンド(Trebizond)とアジャラ(Adjara)の間の黒海沿岸地域を通過する、西コーカサスおよび北コーカサスへの文化的影響の別のまだ知られていない経路があった、と仮定できます。銅器時代については、これらの地域は依然として考古学的な空白地点です。
紀元前五千年紀末から紀元前四千年紀初頭には、この波に別の波(混入面土器複合体)が続き、それは最終的には北コーカサスにおけるマイコープ文化の出現と関連しています。考古学的観点からは、最新のダルクベティ・メショコ遺跡は北コーカサスにおいてマイコープ文化と、南コーカサスにおいてシオニ型と関連していますが、紀元前五千年紀と紀元前四千年紀の南コーカサス経路がどの程度重なっていたのか、まだ言えません。
最後に、マイコープ文化が消滅した紀元前三千年紀初頭において、西コーカサスではマイコープ文化のノヴォスヴォボドナヤ(Novosvobodnaya)形とダルクベティ・メショコ文化遺跡群が支石墓(Dolmen)文化に継承された一方で、北コーカサスでは、おそらくは南方起源の新たな人口集団、つまり北コーカサス文化によって継承された可能性を除外できません。それは、考古学的発見を通じてより鮮明に現れているマイコープ文化の影響ではなく、隣接する草原地帯のヤムナヤ文化人口集団への北コーカサス文化の影響です。
この分析から、北コーカサスと草原地帯におけるコーカサスおよびアジア西部祖先系統の構成要素を有する人口集団出現の歴史は、現在考えられている[9、37]よりずっと複雑である、と推測できます。この状況を考えると、ナリチク墓地のヒト1個体遺伝的特性は、紀元前五千年紀初頭のコーカサスおよびコーカサスの南北の近隣地域における完全な古遺伝学的状況を得るために解決されるべき難問の重要な要素です。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
実証的証拠の観点ではこの研究には限界があるかもしれず、それは、遺伝学的分析に利用できる関連する考古学的標本の数が限られているからです。ナリチク墓地には当初、121ヶ所の埋葬がありました。しかし、これらの埋葬のうち2ヶ所だけが保存され、展示標本として博物館の収集物に含められました。この2ヶ所の埋葬は、埋葬86号および埋葬42号として知られており、埋葬42号は開頭手術のため重要です。国立エルミタージュ美術館は、古遺伝学的分析のため、埋葬42号の標本を提供しました。
これらの制約にも関わらず、利用可能なデータすべてが利用され、提唱した仮説が合わせて支持されます。より堅牢で影響力のある研究を行なうためには、フヴァリンスク文化とダルクベティ・メショコ文化とシオニ型の埋葬遺跡の標本での追加の古遺伝学的分析の実行が必要です。北コーカサスと南コーカサスでは後期銅器時代の埋葬が稀である、と強調することは重要です。この期間の新たな埋葬の発見でやって、追加の遺伝学的分析の実行が可能となるでしょう。
参考文献:
Zhur KV. et al.(2024): Human DNA from the oldest Eneolithic cemetery in Nalchik points the spread of farming from the Caucasus to the Eastern European steppes. iScience, 27, 11, 110963.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2024.110963
[9]Wang CC. et al.(2019): Ancient human genome-wide data from a 3000-year interval in the Caucasus corresponds with eco-geographic regions. Nature Communications, 10, 590.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-08220-8
関連記事
[16]Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
https://doi.org/10.1038/nature14317
関連記事
[19]Mathieson I. et al.(2015): Genome-wide patterns of selection in 230 ancient Eurasians. Nature, 528, 7583, 499–503.
https://doi.org/10.1038/nature16152
関連記事
[32]Bennett EA. et al.(2023): Genome sequences of 36,000- to 37,000-year-old modern humans at Buran-Kaya III in Crimea. Nature Ecology & Evolution, 7, 12, 2160–2172.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02211-9
関連記事
[37]Lazaridis I. et al.(2022): The genetic history of the Southern Arc: A bridge between West Asia and Europe. Science, 377, 6609, eabm4247.
https://doi.org/10.1126/science.abm4247
関連記事
●要約
ダルクベティ・メショコ文化(紀元前5000~紀元前3500/3000年頃)は北コーカサスにおける、最古級の既知の農耕共同体ですが、近隣草原地帯牧畜民の遺伝的特性への寄与は不明なままでした。本論文は、北コーカサスの最古級の金石併用時代の遺跡であるナリチク墓地のヒトDNAの解析を提示し、これはフヴァリンスク文化のヴォルガ川下流の最初の牧畜民とのつながりを示します。ナリチク墓地の男性の遺伝子型は、コーカサス狩猟採集民とヨーロッパ東部狩猟採集民とアジア西部の先土器新石器時代の農耕民の遺伝子を結びつけます。改良された比較分析から、特定のフヴァリンスク文化個体の遺伝的特性は北コーカサス金石併用時代のウナコゾヴォ・ナリチク型人口集団の遺伝的祖先系統を共有している、と示唆されます。したがって、紀元前五千年紀前半において、文化と配偶の交流網は、アジア西部からコーカサス地方を横断し、ヨーロッパ東部のドン川とヴォルガ川の間の草原地帯への、農耕と牧畜の拡大に役立ったようです。
●研究史
紀元前七千年紀末~紀元前六千年紀初頭に、アジア西部の新石器化は南コーカサスの平原に達し、そこではクラ(Kura)およびアラス(Araxes)川流域全体に、シュラヴェリ・ショムテペ・アラタシェン(Shulaveri-Shomutepe-Aratashen)型の新石器時代遺跡が広がりました。放射性炭素年代の不足のため、同様に同じ頃に西ジョージア(グルジア)に新石器時代遺跡が出現した、と主張することは困難ですが、その可能性は除外できません。しかし、新石器時代型の南コーカサスの文化が北コーカサスに拡大した、との考古学的兆候はありません。こうした全ては、大コーカサス山脈がこれらの文化に影響されないままだったことを示唆しています。この状況の矛盾は、中石器時代以降および紀元前六千年紀末までじっさいに、北コーカサスの人口密度が明らかにきわめて低かったことです。この地域では、紀元前七千年紀~紀元前六千年紀にかけての年代測定されている遺跡は知られていません。この状況では、紀元前五千年紀初頭の北コーカサスにおけるダルクベティやメショコなど多数の金石併用時代遺跡の出現は、人口爆発のように見えました。それは、ここに新石器時代生活様式の主要な変革技術、つまり農耕とウシの繁殖を初めて持ち込んだ人々によるこの地域の定住でした。
この人口集団の起源に関する問題は、北コーカサスにおける新石器化の過程の再構築と、コーカサスに隣接するドン川とヴォルガ川の間のヨーロッパ東部草原地帯地域におけるこの種の経済と関連する要素のその後の拡大についての理解の両方に等しく関連しています。この問題は、遺伝学的分析に利用できるダルクベティ・メショコ型の遺跡と関連する人類学的遺骸の少なさのため解決困難です。30ヶ所ほどの遺跡があり、知られている埋葬は3ヶ所だけで、ウナコゾヴォスカヤ(Unakozovskaya)洞窟1ヶ所の埋葬のみで、1親等の親族関係の人々の遺骸が遺伝学的分析の対象となりました[9]。
この研究の目的は、北コーカサスにおける最古級(紀元前5000/4800年頃)の金石併用時代の集団埋葬地(121ヶ所の埋葬)であるナリチク埋葬地の古代人のDNAのゲノム解析結果を初めて提示することです。この墓地は1929年に発掘され、北コーカサス中央部の山麓とユーラシア草原地帯の前コーカサスの端との間の境界に位置していました。この遺跡の特異性はその文化的特徴にあり、その特徴によってこの遺跡はダルクベティ・メショコ伝統のコーカサス群に分類でき、ヴォルガ川流域で見られるフヴァリンスク遺跡とのつながりがあります。この期間には、北コーカサスの人口集団がちょうど農耕と動物の畜産を習得し始めたばかりの一方で、ヴォルガ川下流域の近隣草原地帯とドン川下流域の草原地帯丘陵地帯の人口集団は、ウシとヤギ/ヒツジの飼育を始めたばかりでした。これは全て、コーカサスにおいてマイコープ(Maikop)文化(紀元前3700~紀元前3000/2900年頃)の約1000年前、草原地帯においてヤムナヤ(Yamnaya)文化のほぼ1500年前に出現しました。その後の青銅器時代には、ヤムナヤ文化の人々は文化および経済発展の傾向とともに、ユーラシアの遺伝的景観を決定づけました[16]。
この文化的および歴史的過程における金石併用時代のダルクベティ・メショコ文化人口集団に割り当てられた役割は、補助的というよりは重要なもので、それは、この人口集団の寄与がなくては、金石併用時代とその後の前期青銅器時代のコーカサスおよび近隣の草原地帯の経済と遺伝の歴史における主要な歴史的傾向を正確に評価できないからです。ダルクベティ・メショコ文化人口集団は北コーカサスに新石器時代生活様式をもたらしただけではなく、ヴォルガ川とドン川の草原地帯人口集団に生産経済の技術を伝えた、と考えられます。本論文はこの仮説の検証の文脈において、ナリチク墓地の墓42基から発見された1個体のゲノム規模解析の結果を提示します。
●ゲノム規模配列決定と片親性遺伝標識の分析
NL1.2.2古代DNA断片のライブラリのゲノム規模配列決定の結果として、155万以上の読み取りが生成され、452778ヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)が特定されました。そのデータから、このゲノムは男性に属し、そのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はT2c1a1、Y染色体ハプログループ(YHg)はR1b1(L1068)だった、と示唆されました。mtDNAとX染色体の異型接合性の程度などの媒介変数によると、標本の汚染は検出されませんでした。
●ナリチクにおける金石併用時代の埋葬から発見された男性1個体の遺伝的クラスタ化
この古代人1個体の遺伝的類似性を定量的に評価するため、まず主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析が実行されました。標本の一覧は表S2に、地理的位置は図1に示されています。以下は本論文の図1です。
PCA空間は現代人の標本を用いて構築され、ナリチク墓地の男性1個体は、次に最初の2固有ベクトルに投影された古代人のゲノムの集合に沿って含まれました(図2)。PCA図上の古代人のゲノムの位置は、考古学的遺跡の地理的座標と相関しています。主成分1(PC1)は東西の方向と、主成分2(PC2)は南北の方向と一致します。PCA図に基づくと、ナリチク墓地の男性1個体(標本の座標はPC1が−0.0131、PC2が0.0018)はユーラシア西部草原地帯の古代の個体群とコーカサス地域の古代の個体群との中間的位置を占めている、と観察されます。北コーカサス山麓草原地帯とプログレス2(Progress 2)遺跡(紀元前4994~紀元前4802年頃となる最古の標本)とヴォニュチュカ1(Vonyuchka 1)遺跡(紀元前4337~紀元前4177年頃)の標本は、フヴァリンスク2遺跡[19]の草原地帯1個体(I0434、紀元前5198~紀元前4853年頃)とともに、PC1-PC2空間でナリチク墓地の男性1個体の近くに位置します。ウナコゾヴォスカヤ(Unakozovskaya)洞窟の標本は同じダルクベティ・メショコ文化に属していますが、コーカサス地域のクラスタ(まとまり)に位置します。以下は本論文の図2です。
図3は、K(系統構成要素数)= 6と等しい祖先人口集団の数での混合分析の結果を提示しています。ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群のゲノムが、コティアス(Kotias)遺跡やサツルビア(Satsurbia)遺跡などのCHGクラスタ、アルハンテペ(Alkhantepe)遺跡やアルスランテペ(Arslantepe)遺跡やアルメニアの銅器時代など南コーカサスの古代人標本、フヴァリンスク遺跡やデレイフカ1(DereivkaI)遺跡やレビャジンカ6(Lebyazhinka VI)遺跡やウクライナの中石器時代などユーラシア西部草原地帯の個体群、同時代や前後の期間近隣地域の他の標本の文脈で分析されました。以下は本論文の図3です。
混合分析では、ウナコゾヴォスカヤ洞窟の古代の個体群は混合図では、アナトリア半島新石器時代と関連する供給源(紫色)、CHG/イラン新石器時代と関連する供給源(濃緑色)、EHG(ヨーロッパ東部狩猟採集民)/ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter-Gatherer、略してWHG)と関連する供給源(橙色)におもに由来する混合祖先系統を有している、と示されました。これは、早ければ6500年前頃となるコーカサスの北側でのこの混合祖先系統の存在を示唆した、先行研究[9]で以前に刊行されたデータと一致します。同様の祖先系統特性は、アナトリア半島とアルメニアの銅器時代となるアレニ1(Areni-1)洞窟の古代の標本で報告されました[9]。
ウナコゾヴォスカヤ洞窟の個体群と比較すると、ナリチク墓地の男性1個体はV2(橙色)構成要素の濃縮を示しており、この構成要素が優勢なのは、EHGやWHGやセルビアの鉄門(Iron Gates)遺跡の狩猟採集民(セルビア_鉄門_HG)やフヴァリンスク2遺跡個体やデレイフカ1遺跡個体や他の標本のように、ユーラシアライブ草原地帯においてです。ナリチク墓地の男性1個体のゲノムにおける草原地帯構成要素の存在の増加は予測され、それは、教会地域(ナリチク墓地)では山脈(ウナコゾヴォスカヤ洞窟)と比較して、より大きな相互作用があったからです。
ナリチク墓地の男性1個体がウナコゾヴォスカヤ洞窟の個体群と比較してEHG/WHGと共有されるアレル(対立遺伝子)の過剰を持っているのか検証するため、F4形式(ヨルバ人、ユーラシア西部草原地帯個体群;ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群、ナリチク墓地個体)のF4統計が実行されました。この統計はEHGとWHGについて、有意に正のZ得点を生成しました。同様の結果は、ナリチク墓地の男性1個体とアレニ1洞窟(アルメニア_銅器時代)の個体群との間で共有されるアレルの過剰を検証すると、F4形式(ヨルバ人、ユーラシア西部草原地帯個体群;アルメニア_銅器時代、ナリチク墓地個体)のF4統計によって得られました。
●外群F3統計
ナリチク墓地の男性1個体のさらなるqpAdmモデル化で使用できる、最も関連する人口集団を見つけるため、ゲノムの外群F3統計が用いられました。混合分析によると、明らかな候補は草原地帯(EHG)、CHGとホツ3b(HotuIIIb)洞窟の個体群(イラン_ホツ3b)のコーカサス地域、新石器時代の人々(候補)でした。本論文で検証範囲であるダルクベティ・メショコ文化および他の文化(検証対象)との古代の人口集団の遺伝的類似性を測定するため、F3統計(検証対象、候補;ヨルバ人)が実行されました。その結果(図4)は、特定のPPN人口集団がナリチク墓地の男性1個体の祖先と相互作用した、との過程を確証します。以下は本論文の図4です。
とくに注目すべきは、フヴァリンスク遺跡およびレビャジンカ遺跡個体群のような草原地帯草原地帯人口集団が、PPN個体群と有意なF3値を生成した、との観察です。さらに、フヴァリンスク遺跡個体の500年前でフヴァリンスク遺跡の北東約300kmに位置するレビャジンカ遺跡個体は、フヴァリンスク遺跡個体よりもトルコ南東部のマルディン(Mardin)近くのボンクル・タルラ(Boncuklu Tarla)遺跡の1個体(マルディン_PPN)の方と強い類似性を示します。おそらく、PPN個体群の衝撃はこれら草原地帯に到達したものの、経時的に在来の古代のEHG集団によって希釈されました。したがって、北コーカサスのの最古級の金石併用時代墓地であるナリチク遺跡の古代人1個体のDNAと、レビャジンカ遺跡個体から、アジア西部のPPNの遺伝的遺産は少なくとも紀元前五千年紀早期までにはユーラシア草原地帯に到達していた、と示唆されます。
●ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とアルメニアの銅器時代の代表のゲノムのモデル化
ナリチク墓地の男性1個体のゲノムに寄与した年代的に遠近両方の人口集団の祖先系統の割合が、qpAdmによって決定されました。このモデルによって、同時代や前後の期間における、CHG/PPNと周辺地域の他集団との間の連続性の検証が可能となります。単純な1方向モデル化の結果では、ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟およびアルメニアの銅器時代文化の個体群が、単一の供給源として、イラクのシャニダール(Shanidar)洞窟のベスタンスール(Bestansur)遺跡のPPN個体(ベスタンスール_PPN)、キプロス島(CYP)の先土器新石器時代B(Pre-Pottery Neolithic B、略してPPNB)個体(CYP_PPNB)、トルコのアスクルホユク(AsklHoyuk)遺跡のPPN個体(トルコ_C_アスクルホユク_PPN)でモデル化できる、と示されました。マルディン_PPNも適合を示したものの、それはナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群のみでした。しかし、ウナコゾヴォスカヤ洞窟の個体群のみが、CHGやイラン_ホツ3bやアゼルバイジャンのメンテシュ(Mentesh)遺跡およびポルテペ(Polutepe)遺跡の個体群など、より古いコーカサスの代表と高い遺伝的類似性を示した、と分かりました。
モデルへの適合性を高めるため、第二の供給源人口集団が分析に含められました。2供給源モデル化の統計では、古代コーカサスの供給源がCHGもしくはイラン_ホツ3bによって表され、ナリチク墓地の男性1個体のゲノムが草原地帯、とくにEHGからの優位な流入を有していた(最大で25.2%)、と裏づけています。アルメニアの銅器時代個体群の祖先系統も、ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群(最大で83.3%)および草原地帯祖先系統(最大で23.5%)との仮定的な遺伝的つながりに対応している、と言及する価値があります。
考古学は当然、ダルクベティ・メショコ文化が農耕と畜産を習得していた、との事実を証明しました。新石器化の遺伝的供給源を検出するため、先土器農耕民のゲノムがCHGおよびEHGとともにqpAdmモデル化で使用されました。第一供給源としてのイラン_ホツ3b 、第二供給源としてのEHG祖先系統、外群としてアナトリア半島新石器時代人口集団のさまざまな組み合わせを有する第三供給源としてのさまざまなPPN祖先系統での3方向混合の結果は、図5Bに提示されています。ナリチク墓地の男性1個体とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とアルメニアの銅器時代の代表のゲノムに寄与した先土器新石器時代祖先系統の最大割合は、トルコのマルマラ(Marmara)地域のバルシン(Barcin)遺跡の新石器時代(Neolithic、略してN)個体(トルコ_マルマラ_バルシン_N)もしくはアナトリア半島新石器時代集団を外群人口集団として用いると、CYP_PPNB、トルコのPPNのボンクル(Boncuklu)遺跡個体(トルコ_C_ボンクル_PPN)、マルディン_PPN、トルコ_C_アスクルホユク_PPNで確証されました(図5B)。以下は本論文の図5です。
PPNおよびアナトリア半島新石器時代個体群を「供給源」と「外群」として入れ替えると、統計的に有意な組み合わせが減少しましたが、p値が0.05超のの場合、PPNを背景として用いると、アナトリア半島新石器時代個体群からの流入はわずか2~12%でした。4(CHG、EHG、PPN、アナトリア半島新石器時代)もしくは5供給源(CHG、EHG、PPN、アナトリア半島新石器時代、セルビア_HG)を用いてのナリチク墓地の男性1個体およびウナコゾヴォスカヤ洞窟標本のモデル化は、統計的に有意な結果をもたらしませんでした。
●フヴァリンスク2遺跡個体群の祖先系統のモデル化
フヴァリンスク型の遺跡のあるダルクベティ・メショコ伝統の考古学的に記録されているつながりを考慮して、遺伝的水準で、ユーラシア西部草原地帯文化の代表との、ダルクベティ・メショコ/ナリチク墓地の男性1個体の間のつながりの可能性が評価されました。対象としてのフヴァリンスク2遺跡(ロシアのサマラ州のヴォルガ川流域)でのF3形式(X、Y;対象)の混合F3統計ではナリチク墓地の男性1個体もしくはウナコゾヴォスカヤ洞窟標本を第一の供給源として、ロシア_HG_サマラ(レビャジンカ4遺跡)のようなユーラシア西部草原地帯の狩猟採集民を第二の供給源として用いると、有意に負のZ得点が得られ、はウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とナリチク墓地の男性1個体の両方が、草原地帯の人々とともにフヴァリンスク2遺跡人口集団の遺伝的構成の形成について代理とる可能性を示唆しています。
ダルクベティ・メショコ金石併用時代文化の個体群と草原地帯の人々との間の遺伝的相互作用は、その子孫に農耕民関連遺伝的構成要素を伝えたかもしれません。この仮説を検証するため、フヴァリンスク遺跡個体群の3供給源qpAdm分析[19]が実行されました。EHGとイラン_ホツ3bの2供給源が固定され、第三の供給源は、PPN個体群のゲノムを含めて、すべての可能性のある農耕民関連個体群で評価されました。PCAはフヴァリンスク遺跡の異質性を示し、I0434はプログレス2遺跡(紀元前2476~紀元前2303年頃)およびヴォニュチュカ1遺跡(紀元前4337~紀元前4177年頃)の金石併用時代個体群を含む北コーカサスのクラスタとひじょうに密接で、I0433は草原地帯およびEHG標本と密接ですが、I0122はI0433とI0434の中間的位置を示しています。3供給源qpAdmでは、これの標本3点は同じ考古学的分化に帰属するものの、ひじょうに異なる遺伝的祖先系統の背景を有する、と確証されました。I0433は3供給源qpAdmではモデル化できませんでした。I0434とI0122はEHG祖先系統の勾配を示し、それぞれ8%と28%です。最大のPPN祖先系統は標本I0434で検出され(68%)、I0122におけるPPN祖先系統の割合はわずか25%でした(図5B)。
考古学的背景によると、I0122(紀元前4936~紀元前4730年頃)はおそらく高位の個体で、父系で関連する家族上流階層の「黄色」集団の創始者とみなすことができます。I0122のY染色体ハプロタイプはR1b1、mtDNAハプロタイプはH2a1で、サマラ地域では独特です。個体I0433は、mtHg-U5a1、YHg-R1a1(M459)、個体I0434はmtHg-U4d、YHg- Q1(L472)で、ごく質素な副葬品一式が伴っており、個体I0433には副葬品がまったくありませんでした。これら3個体【I0433、I0434、I0433】は「灰色」家族集団に属しています。
PCAと混合とqpAdmモデル化に基づくと、明らかなのは、フヴァリンスク文化個体群は遺伝的に異質で、以下の構成要素の勾配になっていることです。それは、I0434とI0122とI0433の一連の標本における、EHGの増加、PPN(CYP_PPNB、マルディン_PPN、トルコ_C_アスクルホユク_PPN)の減少です。古代CHG(コティアス/サツルビア遺跡個体)もしくは同様のイラン_ホツ3bの構成要素が、これら3点の標本【I0434とI0122とI0433】すべてで検出されました。
●フヴァリンスク遺跡とウナコゾヴォスカヤ洞窟とナリチク遺跡の標本のIBD分析
ダルクベティ・メショコ文化個体群からフヴァリンスク遺跡個体への近い過去の遺伝子流動を検証するため、フヴァリンスク遺跡の個体I0434とウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とナリチク墓地の男性1個体の補完されたゲノムが分析されました(図6A)。本論文の調査結果から、ナリチク墓地の男性1個体とヴァリンスク遺跡の標本I0434は2個の最近のハプロタイプの塊を共有している(7番染色体と19版染色体上でそれぞれ44.32センチモルガンと36.29センチモルガン)、と示唆されます。標本間の共通のハプロハプロタイプの全体的な分布から、これら2標本間の系図には少なくとも5ヶ所の枝がある、と示唆されます。以下は本論文の図6です。
ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群とフヴァリンスク遺跡のI0434標本との間にはいくつかの共通するハプロハプロタイプがありますが、最近の交配事象の証拠はなく、最大の同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)は35.94 cM(センチモルガン)です。ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体群およびナリチク墓地の男性1個体と比較すると、ひじょうに短いIBD(18.76cM)が観察されます。これらのゲノムのハプロタイプの重複は、図6Bで示されるようにごくわずかです。このデータから、フヴァリンスク遺跡のI0434標本のゲノムにはナリチク墓地の男性1個体およびウナコゾヴォスカヤ洞窟個体の祖先からの独立した流入があり、ナリチク墓地の男性1個体からはより新しい遺伝子流動があった、と示唆されます。ウナコゾヴォスカヤ洞窟個体もしくはナリチク墓地の男性1個体との最近の相互作用の痕跡は、フヴァリンスク遺跡の他のI0122もしくはI0433標本についてはIBD分析では検出されませんでした。
●まとめ
補完されたゲノムでの、PCAと混合とF3およびF4統計とqpAdmとIBD検定を含めて、広範な手法を用いてのナリチク墓地の男性1個体のDNA配列分析は、紀元前5000~紀元前4500年頃における草原地帯の新石器化の最初の波の発生について統計的証拠を提供します。じゅうらいのモデルでは、ナリチク墓地の男性1個体の祖先系統は3供給源、つまりCHGとEHGと新石器時代でモデル化できる、と予測されました。しかし本論文では、PPN人口集団はアナトリア半島新石器時代人口集団とは対照的に、ゲノムに最も大きな影響を及ぼした、と分かりました。PPN構成要素の存在について具体的に焦点が当てられ、ダルクベティ・メショコ文化と密接に関連しているかもしれない、コーカサスおよび草原地帯文化の代表の他の既知のゲノムも分析されました。
ナリチクの金石併用時代墓地のヒト標本男性1点の古遺伝学的分析は、すでに新石器時代の生活様式を達成していた人口集団と、紀元前五千年紀前半に起きた、この人口集団のコーカサスの北側斜面への、次にコーカサス山麓草原地帯およびヴォルガ川下流域へと北進した流れについて、新たな視点を提示します(図7)。以下は本論文の図7です。
予測に反して、ナリチク墓地の男性1個体は遺伝的に、紀元前六千年紀の南コーカサスの近隣の新石器時代人口集団(シュラヴェリ・ショムテペ・アラタシェ型の遺跡)の祖先系統組成とよりも、コーカサスから遠くに居住していた北メソポタミアおよびザグロス山脈のそれ以前(紀元前八千年紀~紀元前七千年紀)の人口集団の方と遺伝的に密接でした。この遺伝的景観の文化的および歴史的背景はまだ完全には理解されておらず、北メソポタミアから北コーカサス、その後さらにヨーロッパ東部草原地帯への遺伝子流動の軌跡は、現在では点線でしか示すことができません。考古資料におけるかなりの間隙は、紀元前八千年紀~紀元前五千年紀の期間におけるこの移動の軌跡の再構築における重要な問題を表しています。
北コーカサスの金石併用時代人口集団と北メソポタミアのPPN社会との間の考古学的つながりは幻想です。これらの人口集団が共有する唯一のものは、かなりの年代の間隙を考えると、現時点で相互に関連しているとみなすことが困難な石の腕輪製作の伝統です。北コーカサスと南コーカサスと北メソポタミアの間の実際の文化的つながりは、メソポタミアの年表によるとウバイド期とウルク期の間の時代以降(ウバイド期の後)にやっと追跡でき、それはメソポタミア北部の北側の地域では、銅器時代後期(紀元前4500~紀元前3800/3500年頃)に相当します(図8)。以下は本論文の図8です。
当時、アラス川流域およびユーフラテス川上流のノルシュンテペ(Norşuntepe)遺跡の後期銅器時代(LC1)集落で知られる独特な櫛形刻印土器が、北コーカサスのメショコおよびミスハコ(Myskhako)遺跡の金石併用時代集落に出現しました。さらに、南コーカサスと北コーカサスに位置する紀元前五千年紀前半の集落は、ザモク(Zamok)遺跡やヴォロンツォヴスカヤ(Vorontsovskaya)洞窟やメンテシュ・テペ(Mentesh Tepe)遺跡のシオニ(Sioni)型の土器と関連しています。アルメニアのアレニ洞窟遺跡もこの後期銅器時代伝統に分類され、この事実はアレニ遺跡に埋葬された個体群とナリチク墓地に埋葬された個体群との間の遺伝的類似性を説明します。より重要なことに、アレニ遺跡個体群における遺伝的特性の草原地帯祖先系統(EHG)の構成要素の存在は、南コーカサスから北コーカサスへの、その後の逆方向の遺伝子の移動がある、遺伝子流動経路の指標として使用できます。
ナリチク墓地の年代を考えると、生産経済技術を有していた人口集団の地理的分布についての南コーカサス経路の出現は、アレニ型の遺跡群に先行し、紀元前五千年紀初期よりもさかのぼるはずです。しかし、南コーカサス、とくに山岳地帯における紀元前六千年紀末~紀元前五千年紀前半の考古学的状況は、依然としてほとんど調べられていません。中石器時代の休止後に、新石器時代後の集団の北方への移動が基本的にはさまざまな景観に適応した再居住だった、と仮定することは公正です。この過程の結果の一つは、紀元前五千年紀前半におけるコーカサスの遅れた新石器化で、金石併用時代には遠くヴォルガ川下流まで近隣の草原地帯の新石器化が続きました。
コーカサス(CHG)およびアジア西部農耕民関連構成要素の組み合わせにおける基礎的な遺伝的祖先系統(EHG)のさまざまな組み合わせを表しているフヴァリンスク遺跡個体群の遺伝的異質性は、北コーカサスと草原地帯の共同体間の配偶のつながりの相対的に低い密度を論証します。これらのつながりは依然として、牧畜技術の伝播には充分で、草原地帯の生活様式における不可逆的変化につながりました。
紀元前五千年紀前半における草原地帯へのコーカサス人口集団の遺伝的浸透は、最初ではなかった可能性が高く、より重要なことに唯一の出来事でもありませんでした。一部のフヴァリンスク遺跡個体におけるEHGとCHGの構成要素の組み合わせによって判断すると、CHG構成要素は、コーカサスの旧石器時代と中石器時代の集団とともに、ずっと早く草原地帯に到達していたかもしれません[32]。もしそうならば、ナリチク墓地に埋葬された個体群とダルクベティ・メショコ人口集団は、紀元前五千年紀前半における西コーカサスおよび北コーカサスと草原地帯への南方人口集団の少なくとも第二の波を表しています。ダルクベティ・メショコ土器と最も類似しているのは、南コーカサスのシオニ型の遺跡で発見されていますが(紀元前五千年紀前半から紀元前四千年紀初頭)、ダルクベティ・メショコ文化の全遺跡で象徴的な種類である石の腕輪が欠けています。シオニのような遺跡の地域を通る経路に加えて、トレビゾンド(Trebizond)とアジャラ(Adjara)の間の黒海沿岸地域を通過する、西コーカサスおよび北コーカサスへの文化的影響の別のまだ知られていない経路があった、と仮定できます。銅器時代については、これらの地域は依然として考古学的な空白地点です。
紀元前五千年紀末から紀元前四千年紀初頭には、この波に別の波(混入面土器複合体)が続き、それは最終的には北コーカサスにおけるマイコープ文化の出現と関連しています。考古学的観点からは、最新のダルクベティ・メショコ遺跡は北コーカサスにおいてマイコープ文化と、南コーカサスにおいてシオニ型と関連していますが、紀元前五千年紀と紀元前四千年紀の南コーカサス経路がどの程度重なっていたのか、まだ言えません。
最後に、マイコープ文化が消滅した紀元前三千年紀初頭において、西コーカサスではマイコープ文化のノヴォスヴォボドナヤ(Novosvobodnaya)形とダルクベティ・メショコ文化遺跡群が支石墓(Dolmen)文化に継承された一方で、北コーカサスでは、おそらくは南方起源の新たな人口集団、つまり北コーカサス文化によって継承された可能性を除外できません。それは、考古学的発見を通じてより鮮明に現れているマイコープ文化の影響ではなく、隣接する草原地帯のヤムナヤ文化人口集団への北コーカサス文化の影響です。
この分析から、北コーカサスと草原地帯におけるコーカサスおよびアジア西部祖先系統の構成要素を有する人口集団出現の歴史は、現在考えられている[9、37]よりずっと複雑である、と推測できます。この状況を考えると、ナリチク墓地のヒト1個体遺伝的特性は、紀元前五千年紀初頭のコーカサスおよびコーカサスの南北の近隣地域における完全な古遺伝学的状況を得るために解決されるべき難問の重要な要素です。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
実証的証拠の観点ではこの研究には限界があるかもしれず、それは、遺伝学的分析に利用できる関連する考古学的標本の数が限られているからです。ナリチク墓地には当初、121ヶ所の埋葬がありました。しかし、これらの埋葬のうち2ヶ所だけが保存され、展示標本として博物館の収集物に含められました。この2ヶ所の埋葬は、埋葬86号および埋葬42号として知られており、埋葬42号は開頭手術のため重要です。国立エルミタージュ美術館は、古遺伝学的分析のため、埋葬42号の標本を提供しました。
これらの制約にも関わらず、利用可能なデータすべてが利用され、提唱した仮説が合わせて支持されます。より堅牢で影響力のある研究を行なうためには、フヴァリンスク文化とダルクベティ・メショコ文化とシオニ型の埋葬遺跡の標本での追加の古遺伝学的分析の実行が必要です。北コーカサスと南コーカサスでは後期銅器時代の埋葬が稀である、と強調することは重要です。この期間の新たな埋葬の発見でやって、追加の遺伝学的分析の実行が可能となるでしょう。
参考文献:
Zhur KV. et al.(2024): Human DNA from the oldest Eneolithic cemetery in Nalchik points the spread of farming from the Caucasus to the Eastern European steppes. iScience, 27, 11, 110963.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2024.110963
[9]Wang CC. et al.(2019): Ancient human genome-wide data from a 3000-year interval in the Caucasus corresponds with eco-geographic regions. Nature Communications, 10, 590.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-08220-8
関連記事
[16]Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
https://doi.org/10.1038/nature14317
関連記事
[19]Mathieson I. et al.(2015): Genome-wide patterns of selection in 230 ancient Eurasians. Nature, 528, 7583, 499–503.
https://doi.org/10.1038/nature16152
関連記事
[32]Bennett EA. et al.(2023): Genome sequences of 36,000- to 37,000-year-old modern humans at Buran-Kaya III in Crimea. Nature Ecology & Evolution, 7, 12, 2160–2172.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02211-9
関連記事
[37]Lazaridis I. et al.(2022): The genetic history of the Southern Arc: A bridge between West Asia and Europe. Science, 377, 6609, eabm4247.
https://doi.org/10.1126/science.abm4247
関連記事
この記事へのコメント