インドにおける古代ゲノム研究の受容に関する問題点
インドにおける古代ゲノム研究の受容に関する問題点を指摘した解説(Chandrashekhar., 2024)が公表されました。この記事では、インドのヒンドゥー教信者の民族主義者が、古代ゲノム研究を自民族中心的に都合よく解釈しており、それをインドの現政権が後押しすることに、警鐘を鳴らしています。インドの国粋主義的風潮で、考古学や人類学や歴史学の研究成果を都合よく解釈したそのような主張が広まっていることは、歴史文化ライブラリーの一冊として吉川弘文館より2008年3月に刊行された堀晄『古代インド文明の謎』においてすでに指摘されていたので(関連記事)、日本でも十数年前からそうした問題を認識していた人は少なくないかもしれません(当時は、まだ古代ゲノム研究の成果でインド人の起源を本格的に論じられる段階ではありませんでしたが)。
こうした問題は、インドに限らず世界各地で生じ得るわけで、現代日本社会でも、アイヌ集団は13世紀に北海道へと南下して「縄文人」の子孫を征服した侵略者だった、というような言説をネットで容易に見つけられます。ただ、そうした言説を主張するのは基本的に「声の大きな人」なので、実際にどの程度浸透しているのか、分かりにくいところもあり、そうした言説を否定的立場から相手にすることで、かえって広まる危険性も懸念されます。一方で、そうした言説はすでにかなり浸透していて、無視できる段階にはないのかもしれず、こうした問題への対処には難しさがあります。
また、現在おそらく世界規模で「woke」が学術界に浸透していること(分野によって浸透度の差は大きいかもしれませんが)を考えると、インドのヒンドゥー教信者は「マジョリティ」なので、学術的知見でこの解説のように自由に批判できても、「マイノリティ」が学術的知見に反する信念や世界観を抱き、それを教科書などに反映するよう求めれば、そうした言動をこの解説のように批判できるのか、といった問題も、反「woke」側と明確に自認している私は想定しています。まあ、そうした問題設定自体が「魂の悪いマジョリティ」による「抑圧」である、と「woke」側からは糾弾されそうですが、ともかく、古代ゲノム研究の一般層における受容には今後さまざまな問題が生じるでしょうから、色々と考えていかねばなりません。以下がこの解説の翻訳ですが、敬称は省略します。
1世紀前に考古学者は、現在のインドとパキスタンであるインダス川沿いで5000~3500年前頃に繁栄した、洗練された青銅器時代文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】を明らかにしました。広大な要塞都市や素晴らしい人工遺物を含むこの発見は、この地域の歴史の書き換えに役立ちました。今では、インドの考古学者は、そうした発掘中に発見された300点以上の人骨と断片的な骨から抽出されたDNAを用いて、インド人の起源に新たな光を当てよう、と考えています。先月【2024年10月】インドの大衆媒体で初めて報告された計画には、この地域における古代の祖先と移住へのより多くの洞察を提供する「大きな価値と可能性」があると、この研究には関わっていない生物医療ゲノミクスインド国立研究所の創設者である遺伝学者のパーサ・マジャンダー(Partha Majumder)は述べています。
しかし、この計画は政治的に敏感な議論を煽る、もしくは解決するかもしれません。長年、インドの現在の政府【インド人民党のモディ政権のことでしょうか】と提携してきたヒンドゥー教信者の民族主義者は、中国からヨーロッパ中央部まで広がるユーラシア草原地帯【この文脈で「中国」を用いるのは適切ではなく、モンゴルやユーラシア東部と表記すべきと思いますが】からの古代の移民がインド社会の発展に重要な役割を果たした、と示唆する研究の調査結果の受容に消極的でした。
このDNA研究は、文科省傘下の70年の歴史のある研究所であるインド人類学調査局(Anthropological Survey of India、略してASI)によって行なわれ、植民地期の発掘の生物遺骸を保管しています。ASIは、骨や他の組織から古代DNAを分離する施設のあるインドの2ヶ所の実験室のうち1ヶ所である、インド政府出資のビルバル・サーニ古科学研究所(Birbal Sahni Institute of Palaeosciences)と協力しています。
ASIの局長であるBV・シャルマ(BV Sharma)によると、ほとんどの骨格遺骸はインダス川流域のハラッパ(Harappa)遺跡やモヘンジョダロ(Mohenjo-Daro)遺跡や他の古代の集落における1920年代~1950年代後半に行なわれた発掘に由来します。骨から抽出された古代DNAを現代人のDNA配列と比較することで、「インドの人口集団の歴史に関するより多くの洞察や、食性と生活環境と疾患に関する情報が得られるよう、期待しています」とBV・シャルマは『サイエンス誌』に述べています。研究者はインドの人口集団の起源について多くをすでに知っていますが、「埋める必要のある年表には間隙があります」と、この計画に関わっているバナラス・ヒンドゥー大学(Banaras Hindu University)の集団遺伝学者であるギャネシュワー・チョーベイ(Gyaneshwer Chaubey)は述べています。たとえば、科学者は数千年前にガンジス川沿いで稲作をしていた人々についてほとんど知らない、とギャネシュワー・チョーベイは述べています。以下はモヘンジョダロ遺跡の人類遺骸の写真です。
研究者は2025年末までに分析を完了したい、と考えていますが、骨からの古代DNA抽出は困難かもしれません。熱帯気候でのDNA分解は速く、骨の発掘や扱いについての過去の慣行が問題を悪化させてきたかもしれません、とシャルマは指摘します。「しかし、現在の進歩した技術であれば、そこからより多くのものを得ることができるかもしれません」とシャルマは述べています。「古いDNA標本の10%もしくは20%を分離して分析できさえすれば、役に立つでしょう」と、この研究に関わっていない細胞分子生物学研究所の主席科学者であるクマラサミー・タンガラージュ(Kumarasamy Thangaraj)は述べています。
他の研究者はこの試みを歓迎しており、アジア南部は世界の最も多様な人口集団のいる地域の一つではあるものの、ゲノム研究では標本が不充分です、と指摘します。インドの人口集団の構造と祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)に関する現在の理解の大半は、現代人から採取されたDNAの研究に由来しており、それら現代人のデータは「より古いDNA標本によって裏づけられるか検証できるならば、価値があるでしょう」とマジャンダーは述べています。古代DNAはこの地域におけるヒトの疾患の進化の理解についてとくに重要かもしれません、とタンガラージュは述べます。たとえば、インドの人口集団は、高水準の族内婚(氏族内の結婚慣行)のため潜性(劣性)もしくは稀な疾患にかかりやすく、古代ゲノム科学はそうした疾患の起源に光を当てるかもしれません、とタンガラージュは指摘、します。
しかし、インド人の起源についてDNAが語ることは政治的に偏っているかもしれません。骨の一部は3800~3500年前頃の期間かもしれず、その頃に、かつてはアーリア人と呼ばれていた草原地帯から到来したヤムナヤ(Yamnaya)文化の牧畜民がインドに移住してきた、と考えられています。この地域の古典言語であるサンスクリット語はこれらの移民に由来する、と歴史家は考えています。しかし、多くのヒンドゥー教信者の民族主義者はこの筋書きを軽視するか拒否しており、それは部分的には、この地域を征服した色白の肌のアーリア人種についての植民地的な言説との関連が残っているからです(実際には、ヤムナヤ文化集団は遊牧民で、小さな波で到来した可能性が高い、と専門家は述べています)。ヒンドゥー教信者の族主義者は代わりに逆の順序を主張しており、つまりは、アーリア人がインドに先住していて、最終的にはその言語と文化をアジア中央部およびヨーロッパへと伝えた、というわけです。
ほとんどの学者はこの見解を支持していませんが、この見解はインドの与党であるインド人民党のヒンドゥー教信者の民族主義者の支持者や一部のインドの大衆媒体では、依然として人気があります。たとえば、2019年に多くのインドの報道関係者が、インダス川流域に暮らしていた女性1個体の4500年前頃の骨格から得られた古代DNAに関する研究(関連記事)によって、この女性1個体が草原地帯祖先系統を有していなかったため、「アーリア人の移住」がなかったと証明された、と報告しました。実際にはこの研究は、草原地帯の移住がその後で起きた、という他の証拠を裏づけただけでした。しかし、【2024年?】4月に、インド政府は広く使われている12年生の歴史教科書を微修正し、草原地帯からの移住の筋書きを突き崩すものとして、この研究を提示しました。この新たな研究は主流の科学的理解を「洗練する」にすぎず、それを覆すものではない可能性が高そうです、とチョーベイは述べています。チョーベイは、遺伝学的な調査結果がこの政治的主張を終わらせることには、疑いを抱いています。「科学者が混乱しているのではなく、政治家が混乱しています」とチョーベイは述べています。
参考文献:
Chandrashekhar V.(2024): In politically sensitive study, India looks to DNA to track ancient migrations. Science, 386, 6722, 607.
https://doi.org/10.1126/science.zrm8yw9
こうした問題は、インドに限らず世界各地で生じ得るわけで、現代日本社会でも、アイヌ集団は13世紀に北海道へと南下して「縄文人」の子孫を征服した侵略者だった、というような言説をネットで容易に見つけられます。ただ、そうした言説を主張するのは基本的に「声の大きな人」なので、実際にどの程度浸透しているのか、分かりにくいところもあり、そうした言説を否定的立場から相手にすることで、かえって広まる危険性も懸念されます。一方で、そうした言説はすでにかなり浸透していて、無視できる段階にはないのかもしれず、こうした問題への対処には難しさがあります。
また、現在おそらく世界規模で「woke」が学術界に浸透していること(分野によって浸透度の差は大きいかもしれませんが)を考えると、インドのヒンドゥー教信者は「マジョリティ」なので、学術的知見でこの解説のように自由に批判できても、「マイノリティ」が学術的知見に反する信念や世界観を抱き、それを教科書などに反映するよう求めれば、そうした言動をこの解説のように批判できるのか、といった問題も、反「woke」側と明確に自認している私は想定しています。まあ、そうした問題設定自体が「魂の悪いマジョリティ」による「抑圧」である、と「woke」側からは糾弾されそうですが、ともかく、古代ゲノム研究の一般層における受容には今後さまざまな問題が生じるでしょうから、色々と考えていかねばなりません。以下がこの解説の翻訳ですが、敬称は省略します。
1世紀前に考古学者は、現在のインドとパキスタンであるインダス川沿いで5000~3500年前頃に繁栄した、洗練された青銅器時代文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】を明らかにしました。広大な要塞都市や素晴らしい人工遺物を含むこの発見は、この地域の歴史の書き換えに役立ちました。今では、インドの考古学者は、そうした発掘中に発見された300点以上の人骨と断片的な骨から抽出されたDNAを用いて、インド人の起源に新たな光を当てよう、と考えています。先月【2024年10月】インドの大衆媒体で初めて報告された計画には、この地域における古代の祖先と移住へのより多くの洞察を提供する「大きな価値と可能性」があると、この研究には関わっていない生物医療ゲノミクスインド国立研究所の創設者である遺伝学者のパーサ・マジャンダー(Partha Majumder)は述べています。
しかし、この計画は政治的に敏感な議論を煽る、もしくは解決するかもしれません。長年、インドの現在の政府【インド人民党のモディ政権のことでしょうか】と提携してきたヒンドゥー教信者の民族主義者は、中国からヨーロッパ中央部まで広がるユーラシア草原地帯【この文脈で「中国」を用いるのは適切ではなく、モンゴルやユーラシア東部と表記すべきと思いますが】からの古代の移民がインド社会の発展に重要な役割を果たした、と示唆する研究の調査結果の受容に消極的でした。
このDNA研究は、文科省傘下の70年の歴史のある研究所であるインド人類学調査局(Anthropological Survey of India、略してASI)によって行なわれ、植民地期の発掘の生物遺骸を保管しています。ASIは、骨や他の組織から古代DNAを分離する施設のあるインドの2ヶ所の実験室のうち1ヶ所である、インド政府出資のビルバル・サーニ古科学研究所(Birbal Sahni Institute of Palaeosciences)と協力しています。
ASIの局長であるBV・シャルマ(BV Sharma)によると、ほとんどの骨格遺骸はインダス川流域のハラッパ(Harappa)遺跡やモヘンジョダロ(Mohenjo-Daro)遺跡や他の古代の集落における1920年代~1950年代後半に行なわれた発掘に由来します。骨から抽出された古代DNAを現代人のDNA配列と比較することで、「インドの人口集団の歴史に関するより多くの洞察や、食性と生活環境と疾患に関する情報が得られるよう、期待しています」とBV・シャルマは『サイエンス誌』に述べています。研究者はインドの人口集団の起源について多くをすでに知っていますが、「埋める必要のある年表には間隙があります」と、この計画に関わっているバナラス・ヒンドゥー大学(Banaras Hindu University)の集団遺伝学者であるギャネシュワー・チョーベイ(Gyaneshwer Chaubey)は述べています。たとえば、科学者は数千年前にガンジス川沿いで稲作をしていた人々についてほとんど知らない、とギャネシュワー・チョーベイは述べています。以下はモヘンジョダロ遺跡の人類遺骸の写真です。
研究者は2025年末までに分析を完了したい、と考えていますが、骨からの古代DNA抽出は困難かもしれません。熱帯気候でのDNA分解は速く、骨の発掘や扱いについての過去の慣行が問題を悪化させてきたかもしれません、とシャルマは指摘します。「しかし、現在の進歩した技術であれば、そこからより多くのものを得ることができるかもしれません」とシャルマは述べています。「古いDNA標本の10%もしくは20%を分離して分析できさえすれば、役に立つでしょう」と、この研究に関わっていない細胞分子生物学研究所の主席科学者であるクマラサミー・タンガラージュ(Kumarasamy Thangaraj)は述べています。
他の研究者はこの試みを歓迎しており、アジア南部は世界の最も多様な人口集団のいる地域の一つではあるものの、ゲノム研究では標本が不充分です、と指摘します。インドの人口集団の構造と祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)に関する現在の理解の大半は、現代人から採取されたDNAの研究に由来しており、それら現代人のデータは「より古いDNA標本によって裏づけられるか検証できるならば、価値があるでしょう」とマジャンダーは述べています。古代DNAはこの地域におけるヒトの疾患の進化の理解についてとくに重要かもしれません、とタンガラージュは述べます。たとえば、インドの人口集団は、高水準の族内婚(氏族内の結婚慣行)のため潜性(劣性)もしくは稀な疾患にかかりやすく、古代ゲノム科学はそうした疾患の起源に光を当てるかもしれません、とタンガラージュは指摘、します。
しかし、インド人の起源についてDNAが語ることは政治的に偏っているかもしれません。骨の一部は3800~3500年前頃の期間かもしれず、その頃に、かつてはアーリア人と呼ばれていた草原地帯から到来したヤムナヤ(Yamnaya)文化の牧畜民がインドに移住してきた、と考えられています。この地域の古典言語であるサンスクリット語はこれらの移民に由来する、と歴史家は考えています。しかし、多くのヒンドゥー教信者の民族主義者はこの筋書きを軽視するか拒否しており、それは部分的には、この地域を征服した色白の肌のアーリア人種についての植民地的な言説との関連が残っているからです(実際には、ヤムナヤ文化集団は遊牧民で、小さな波で到来した可能性が高い、と専門家は述べています)。ヒンドゥー教信者の族主義者は代わりに逆の順序を主張しており、つまりは、アーリア人がインドに先住していて、最終的にはその言語と文化をアジア中央部およびヨーロッパへと伝えた、というわけです。
ほとんどの学者はこの見解を支持していませんが、この見解はインドの与党であるインド人民党のヒンドゥー教信者の民族主義者の支持者や一部のインドの大衆媒体では、依然として人気があります。たとえば、2019年に多くのインドの報道関係者が、インダス川流域に暮らしていた女性1個体の4500年前頃の骨格から得られた古代DNAに関する研究(関連記事)によって、この女性1個体が草原地帯祖先系統を有していなかったため、「アーリア人の移住」がなかったと証明された、と報告しました。実際にはこの研究は、草原地帯の移住がその後で起きた、という他の証拠を裏づけただけでした。しかし、【2024年?】4月に、インド政府は広く使われている12年生の歴史教科書を微修正し、草原地帯からの移住の筋書きを突き崩すものとして、この研究を提示しました。この新たな研究は主流の科学的理解を「洗練する」にすぎず、それを覆すものではない可能性が高そうです、とチョーベイは述べています。チョーベイは、遺伝学的な調査結果がこの政治的主張を終わらせることには、疑いを抱いています。「科学者が混乱しているのではなく、政治家が混乱しています」とチョーベイは述べています。
参考文献:
Chandrashekhar V.(2024): In politically sensitive study, India looks to DNA to track ancient migrations. Science, 386, 6722, 607.
https://doi.org/10.1126/science.zrm8yw9
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