バージニア州の植民地初期の上流階層のゲノムデータ
現在のアメリカ合衆国バージニア州の植民地初期の上流階層のゲノムデータを報告した研究(Owsley et al., 2024)が公表されました。本論文は、バージニア州ジェームズタウンの教会に埋葬された、17世紀初期に死亡したの人類遺骸2個体のゲノム解析結果を報告しています。これらの個体は植民地初期の上流階層の一族で、名前も特定されており、系図では省略されていた非嫡出子の特定も可能となりました。こうした名前の判明している歴史上の人物の古代DNA研究は、今後ますます盛んになっていくでしょうし、日本に関しても同様の研究の進展が期待されますが、そこに倫理的問題(Alpaslan-Roodenberg et al., 2021)があることも否定できず、その解決が必要となります。
●要約
本論文は、バージニア州ジェームズタウンの北アメリカ入植地の1608~1616年教会の内陣に埋葬されたヒト骨格2点の古代DNAデータを報告します。利用可能な考古学と骨学と文書の証拠から、これらの個体は、植民地の初代総督であるトマス・ウェスト(Thomas West)、および第3代総督であるデ・ラ・ウェア男爵(Baron De La Warr)の血族となる、フェルディナンド・ウェンマン卿(Sir Ferdinando Wenman、Ferdinando WeymanもしくはFerdinando Wainmenとの綴りもあります)とウィリアム・ウェスト大尉(Captain William West)である、と示唆されます。骨格のゲノム解析は、両者がともにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)-H10eを有するという、予期せぬ母系の近縁性を特定します。この珍しい事例において、古代DNAは歴史研究をさらに促し、ウェスト家の非嫡出子の発見につながりました。これは、系図記録からの意図的ではない身元省略の可能性の高い側面です。以下は本論文の概略図です。
●研究史
1994年に、ジェームズタウン再発見考古学者は、1607年のジェームズ砦(James Fort)の埋もれていた証拠を明らかにしました(図1)。ジェームズタウンもしくはジェームズ市として知られているこの初期北アメリカイングランド入植地内では、初期教会の証拠を含めて、植民地に到着した移民によって維持された信仰と儀式の物質遺骸が保存されています。2010~2019年の発掘では、入植地の第2の、その後の第3・第4・第5教会の基部と重なる、1608年教会の遺物が発見されました。第3教会は1617年、第4教会は1647年、第5教会はベーコンの反乱後の1680年に建設されました。これらの建物の境界内では、ヒト遺骸が発見されてきており、最近の研究はこれらの個体の生活に関する理解を深めつつあります。以下は本論文の図1です。
ジェームズタウンから回収されたヒト遺骸の研究への詳細な総合的手法は、さまざまなデータ情報源を統合し、時には死亡した遺恨の記録と一致する個々の骨格に関する生物歴史に達します。たとえば、ジェームズ砦の外で、船長の主要な幕僚とともに棺に埋葬された成人男性1個体の骨格は、バージニア植民地事業の擁護者で、短い病気後の死と埋葬が1607年8月に記録されている、バーソロミュー・ゴスノールド(Bartholomew Gosnold)と考えられています。他の事例では、骨と埋葬の状況や関連する人工遺物と外傷の痕跡は、ジェームズタウンの出来事および無名の犠牲者の歴史的言及と一致します。これらには、骨格が生存のための食人の痕跡を示す女性が含まれており、これは1609~1610年の冬に入植地で起きたとされる暴力事件と一致します。
2013年には、ジェームズ砦内の中央に位置する1608年教会から4基の並んだ墓が発掘されました。英国国教会の東側の内陣の埋葬は、これら4個体の高い地位を表しています。死が教会の短期の使用(1608~1616年頃)と一致する高位入植者に関する歴史的情報を骨学および考古学のデータと相互参照すると、これらの男性は、ロバート・ハント牧師(Reverend Robert Hunt、1569~1608年)、ガブリエル・アーチャー大尉(Captain Gabriel Archer、1575~1609年)、フェルディナンド・ウェンマン卿(1576~1610年)、ウィリアム・ウェスト大尉(1586~1610年頃)と特定されました。
本論文は、これら4点の骨格のうち、フェルディナンド・ウェンマン卿およびウィリアム・ウェスト大尉と考えられている2点の古代DNA解析を報告します。両者は、ジェームズタウン植民地の初代総督であるトマス・ウェストと第3代総督であるデ・ラ・ウェア男爵の血族と考えられています。当初、この研究は、姓を持つウィリアム・ウェスト大尉を通じて、ウェスト家系のY染色体DNAの回収を試みました。この手法の目的は、将来トマス・ウェストの身元と一致すると明らかになるかもしれない遺骸との、比較のための参照データの獲得でした。トマス・ウェストは植民地への帰航中に1618年に海上で死亡しました。その埋葬地は不明ですが、ジェームズタウンかもしれません。これに関してウィリアム・ウェスト大尉のY染色体DNAを使用できる前に、その親子関係を確認する必要があり、それは、文書記録で親子関係が明確に定義されていなかったからです。したがって、この研究の目的には、ウィリアム・ウェストとフェルディナンド・ウェンマンの海賊関係の調査もあり、よく記録されている系図は、フェルディナンド・ウェンマンがトマス・ウェストの従弟であることを示しています。
骨の保存状態が悪かったため、この研究でDNAが回収され、結果が得られるのか、確実ではありませんでした。しかし、この2個体の埋葬の分析で、古代DNAは保存状態の悪い遺骸でさえ身元の解釈を明確にできる、と論証されます。じっさい、古代DNAは男性2個体の一方について非嫡出子の特定において重要な構成要素と証明され、このおそらくは高位の個体についてほとんど記録されていない理由を説明しました。同時に、ゲノムデータの重要性は、身元特定の学際的手法がなくては実現されなかったでしょう。この研究は、考古学的遺骸のそうした調査における古代DNAの使用を論証し、入植地、とくに16世紀後半~17世紀初期の文化的規範の背景における、親族関係の役割を強調します。
●個体JR2992CとJR170C
ジェームズタウンの1608年教会の内陣区域に埋葬された個体(図2)のうち、2個体(JR2992CとJR170C)は棺の様式が一致しており、この場合は稀にしか使用されない擬人的形態でした。形状の類似性と建造に用いられた高品質な釘から、同じ熟練の大工が比較的短期間で両方の棺を作った、と示唆されました。この証拠と男性2個体の死亡時推定年齢は、フェルディナンド・ウェンマン卿およびウィリアム・ウェスト大尉について知られていることと一致します。以下は本論文の図2です。
フェルディナンド・ウェンマン(JR2992C)はアメリカ大陸で死亡した最初間イングランドの騎士で、トマス・ウェストの従弟でした。フェルディナンド・ウェンマンは血縁と婚姻の両方で、エリザベス朝期のイングランドのひじょうに有名な一族と親族関係にありました。対照的に、ウィリアム・ウェスト大尉(JR170C)の家系は曖昧です。ウィリアム・ウェストはトマス・ウェストの甥、別の資料では「親族」と記録されており、系図の再調査に基づくと、トマス・ウェストのオジである可能性がより高そうです。フェルディナンド・ウェンマンは1610年6月に、34歳の経験豊富な軍士官およびバージニア会社の投資家としてバージニアに来ました。1610年7月もしくは8月までに、フェルディナンド・ウェンマンは死亡しました。ウィリアム・ウェスト大尉は、同じ頃にアメリカ大陸先住民との争いで死亡しました。両者の教会内陣での正式な埋葬は、トマス・ウェストによって個人的に指揮された可能性が高そうです。
フェルディナンド・ウェンマン卿の生涯は比較的よく記録されていますが、ウィリアム・ウェスト大尉について知られていることのほぼ全ては、ジョージ・パーシー(George Percy)の「A Trewe Relacyon」に由来します。これは、1609年の海洋投機(Sea Venture)号のバミューダ諸島での難破と1612年のバージニアからの出発までの間にジェームズタウンで起きた出来事の、直接的記録です。ジョージ・パーシーはまず1610年8月9日にウィリアム・ウェストに言及しており、この時、ウィリアム・ウェストはその拳銃を空中に発砲することで、地元の先住民集団に対しての襲撃を合図しました。トマス・ウェストはその後(日付は明記されていません)、砦の建設のため、現代のバージニア州リッチモンドに近い滝まで、川をさかのぼりました。トマス・ウェストは個の旅を生き残りましたが、パーシーが死亡と記録中に、「その親族であるウィリアム・ウェスト」とあります。
JR170Cと特定された骨格は、20代前半の男性です。注目されるのは、この骨内の異常に高水準の鉛で、ICP-MS( inductively coupled plasma mass spectrometry、誘導結合プラズマ質量分析法)による測定では126.8 ppmで、これは内陣に埋葬された男性4個体では、フェルディナンド・ウェンマンに次ぐ2番目の高さでした。鉛への曝露は植民地期における経済的および社会的地位の指標として使用されてきており、高価なシロメと鉛の釉薬の陶器で食べ物を消費した個体はこの釉薬の微細断片も摂取し、その骨に重金属が蓄積します。個体JR170Cでも、精巧な銀の縁取りと光沢のある絹の軍用帯の遺物が見つかり、軍用帯は大尉の階級を示す衣服です。
ウィリアム・ウェストのトマス・ウェストおよびフェルディナンド・ウェンマンとの具体的な関係は不明でした。ウィリアム・ウェストはトマス・ウェストの甥ではあり得ず、それは、ウィリアム・ウェストの年齢の子供がいるほど年長のトマス・ウェストの兄弟はいなかったからです。ウィリアム・ウェストはトマス・ウェストの兄弟ではなく、従弟でもなかったようで、それは、同じくトマスと呼ばれる第2代デ・ラ・ウェア男爵のトマス・ウェストの父親には、この時期の紋章調査では記載されている3人の姉妹しかおらず、いずれもウィリアム・ウェストの母親とは特定されなかったからです。したがって、トマス・ウェスト総督の親族としてのウィリアム・ウェストの身元は、当時知られていたものの、それ以降に歴史の中で曖昧になった関係を示しています。
●古代DNA解析
ゲノムデータが、個体JR2992Cの側頭骨と個体JR170Cの科学大臼歯から生成されました。両骨格は比較的悪いDNA保存状態を示し、配列決定されたのは、約120万の標的常染色体SNP(single nucleotide polymorphism、一塩基多型)部位のうち、個体JR2992Cでは合計76449ヶ所、個体JR170Cではわずか12657ヶ所でした(表1)。DNA保存状態が悪かったにも関わらず、両個体をmtHg-H10eに分類するには充分でした。mtHg-H系統はユーラシア西部の大半で一般的に観察され、ヨーロッパ西部現代人において最高頻度で見られ、ヨーロッパ西部ではすべてのmtHgの40%以上を占めます。この系統内では、比較的稀なmtHg-H10eはヨーロッパにおいて複数の古代の個体で観察されており、それにはフィンランドの中世の2個体が含まれます。以下は本論文の表1です。
大まかなY染色体ハプログループ(YHg)割り当てが得られ、個体JR2992CはYHg-I1、個体JR170CはYHg-Fです。YHg-Iはより基底的なYHg-F内に収まりますが、個体JR170Cが、より多くの情報を利用可能ならば、このより具体的なYHgにも割り当てられる可能性を確実に除外するのに充分な解像度(SNP部位のCTS7593とPF3660で観察されたアレルに基づきます)がありました。これらの結果から、この2個体は近い過去の父系祖先(たとえば、父親や父系祖父や父系曾祖父)を共有していなかった、と示唆されました。
これら2個体について核ゲノム全体の低網羅率にも関わらず、常染色体データは、この2個体が1親等の親族である可能性は低い、と結論づけるのに充分でした(Olalde et al., 2019)。推定された近縁係数0.12は、3親等の関係と一致します(イトコ同士で共有される程度)。しかし、この推定値と関連する95%信頼区間はひじょうに大きく(-0.049~0.280)、密接な遺伝的関係がなかったかもしれませんが、その共有されているmtHgは、両者は密接な遺伝的関係だった可能性がより高いことを意味しています。
個体JR2992Cと個体JR170Cのゲノムがユーラシア西部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の局在化に一般的用いられる形式である、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)図へと投影されると、このジェームズタウンの男性は既知のブリテン島祖先系統を有する個体とまとまりました(図3)。しかし、とくに個体JR170Cについて、大きな95%信頼区間もこれらの推定位置の周囲で観察されました。したがって、これら男性2個体で得ることのできた少量の常染色体DNAデータに基づくと、これらの遺伝的データで実行された追加の分析の結果の解釈は要注意です。以下は本論文の図3です。
●個体JR2992Cと個体JR170Cとの間の家族関係の解明
個体JR2992Cと個体JR170CのDNA保存状態は、この2個体が密接な遺伝的関係を共有しているのかどうか、決定的に確認するためにゲノム規模データを使用する(Olalde et al., 2019)には悪すぎますが、両個体のmtHg-H10eへの割り当ては、両者間の親族関係の可能性に光を当てます。mtDNAは母系で継承され、mtHgを共有している個体が、過去のある人で母系祖先を通じて関連していることを意味しています。mtHg-H10eは7000~5700年前頃に出現したので、最新の共有母系祖先の時期は、mtDNAのみの分析を通じて判断できません。しかし、これら男性2個体は1608年教会の内陣で相互に近くで埋葬されており、歴史上では両者が親族と言及されています。mtHg-H10eはイギリスでは比較的稀で、現代人と歴史時代の人類両方のDNAデータを参照した最近の研究では、3594個体のうち2個体のみで見つかりました。ジェームズタウンの個体群のうち1個体がmtHg-H10eであることを考えると、他の個体もmtHg-H10eである可能性は、両者が密接な母系親族でないならば、0.056%(つまり、3594個体のうち2個体)となるでしょう。これは低い確率なので、両者が密接な母系親族である、とある程度の確実性で結論づけることができます。
姓に基づいて、フェルディナンド・ウェンマン卿とウィリアム・ウェスト大尉は、初代デ・ラ・ウェア男爵であるウィリアム・ウェスト(年長)にさかのぼる共有された父系のつながりを通じて親族関係にあった、と元々は仮定されていました。歴史および系図研究では、ウィリアム・ウェスト(年長)は1532年に生まれ、ウィリアムという名前の息子に既知の遺言書もしくは遺言の証拠を残さずに1595年に死亡した、と確証されました。ウィリアム・ウェスト(年長)は2回結婚しており、1554年頃にエリザベス・ストレンジ(Elizabeth Strange)と、1579年以後にアン・スイフト(Anne Swift)と結婚しました。ウィリアム・ウェスト(年長)とエリザベス・ストレンジとの間にはジェーン(Jane)とメアリ(Mary)とエリザベスという3人の娘、およびその法定相続人であるトマス・ウェストという息子1人がいました(図4)。ウィリアム・ウェスト(年長)に生き残っているウィリアムという名の息子がいたならば、ウィリアムは2番目の妻であるアンの息子だったでしょう。しかし、アンとウィリアム・ウェスト(年長)との間には、記録されている子供はいませんでした。さらに、ウィリアム・ウェスト大尉の生年は、1598年に12歳でケンブリッジ大学への入学が許可されたと推定されることに基づくと、1586年頃だったようです。この生年が確かならば、その時アンは、通常は出産可能年齢を過ぎた50歳以上だったでしょう。以下は本論文の図4です。
歴史研究では、1610年にバージニアを去る前に、ウィリアム・ウェスト大尉は書面ではない(口頭の)遺言書を残し、それは1616年に、当時の大規模なイングランドの土地の遺言書を扱うカンタベリー大権裁判所(Prerogative Court of Canterbury)で証明された、と明らかになりました。ウィリアム・ウェスト大尉は、リチャード・ブラント(Richard Blount)の妻で、ウィリアム・ウェスト(年長)の娘であるメアリ・ブラント(綴りはMary BlountもしくはMary Blunt)に財産を遺言で譲りました。ウィリアム・ウェスト大尉(年少)の親子関係が何であれ、アン・スイフト・ウェストが2番目の夫であるウィリアム・ウェスト(年長)の死後にウィリアム・ウェスト大尉と密接な関係になかったことは明確なようですが、メアリ・ブラントはウィリアム・ウェスト大尉と密接な関係だったかもしれません。この遺言書、およびとくにゲノム証拠は、ウィリアム・ウェスト(年長)の娘たちとその子孫に焦点を当てた、歴史および系図研究を更新しました。
ウィリアム・ウェスト(年長)の結婚した娘であるジェーン・ウェスト・ウェンマンとメアリ・ウェスト・ブラントには、複数の出征記録がありました(図4)。さらに、メアリにはウィリアム・ウェスト(年少)が生まれたと思われるのと同じ頃に生まれた子供がいました。ウィリアム・ウェスト(年長)の最も若い娘であるエリザベス・ウェストには、結婚もしくは子供がいた記録はありませんでした。したがって、利用可能な系図情報では、ウィリアム・ウェスト(年少)の母親を特定できませんでした。
ウィリアム・ウェスト(年少)の母親の解決は、1616年のブラント対アボット(Abbott)の法廷訴状(イギリス国立公文書館の日付不明の書類)で最終的に分かりました。その訴状では、ウィリアム・ウェスト大尉(年少)はメアリ・ブラントによって、その死亡した未婚の妹の代わりに育てられた、と述べられています。この情報は、ウィリアム・ウェスト(年少)が、その遺言書の受取人としてメアリ・ブラントを指名した選択を説明します。エリザベスは父の世帯で暮らしていたさいに死亡した時、その宝石をラワのためウィリアム・ウェスト(年少)に残しました。ウィリアム・ウェスト(年長)の死後、その2番目の妻であるアン・スイフトは、その宝石の官吏を引き継ぎました。アンの死後、その宝石はアンの3番目の夫の財産へと移されました。ウィリアム・ウェスト大尉(年少)の死後、その伯母で、華夷呉蘭であり遺言書受取人であるメアリ・ブラントは、遺産の回収を試みました。ブラント対アボットの2点の抜粋は、これらの複雑な関係を明らかにしています【本論文ではこの抜粋2点が引用されていますが、17世紀初期の表記のようで、私の学識ではとても適切に訳せなかったため、省略します】。
ウィリアム・ウェスト大尉(年少)はエリザベスのイトコと記録では述べられていますが、これが文字通りだったことを示唆する家族関係は知られていません。代わりに、当時はまだ子供だったウィリアム・ウェスト(年少)が「唯一のCozenもしくは友人」と述べられていることは、許容しやすく罪が課せられない言葉で、ウィリアム・ウェスト(年少)が実はエリザベスの息子だと示唆しているようです。ウィリアム・ウェスト(年少)がエリザベスの息子との暗号化された言葉と公的な文書による承認の欠如は、ウィリアム・ウェスト(年少)が非嫡出子であることを裏づけます。これは、エリザベスが結婚しなかった理由も説明しており、それは、婚姻外の子供を儲けることで、エリザベスは結婚できなくなり、かなりの恥辱を受ける可能性が高くなるからです。この窮地は、ウィリアム・ウェスト(年少)が名前を与えられ、ウェスト姓を保持した理由も説明できます。
産業化前のイングランドにおける非嫡出子の研究は、16世紀後期と17世紀初期に非嫡出子の存在が頂点に達したことを説明しており、この期間には、社会経済的要因の収束と、繰り返しの疫病に起因する高い移動性がありました。非嫡出子の研究は貧困と移民を経た共同体におけるより高い割合(利用可能な記録に基づいて偏っていることが多くあります)を示しますが、本論文は、この時代の著名なイングランドの家系内における非嫡出子を明らかにします。この事例から何を学ぶことができるでしょうか?
本論文では、裕福な家系における非嫡出子の特定は困難かもしれず、それは、これらの関係が多くの場合に記録されている家系から除外されているから、と示されます。貧しい人々はそうした出生を隠す選択もしくは動機が少なく、それは、教会もしくは裁判所から援助求めることが多かったからです。結果として、非嫡出子の誕生と関連するより厳しい扱いと態度は貧しい人々に示されました。1978年の研究では、17世紀初期イングランドにおける私生児への処罰の再調査で、「ひじょうに耐えられないのは貧しい人々の私生児であり、私生児そのものではなかった」と要約しています。非嫡出子の養育が経済的に可能な両親もしくは家族(オバやオジや祖父母)はさほど辛抱しませんでしたが、婚姻外出生の汚名は家族と子供の両方に残りました。上述の【この記事では翻訳を省略した】法廷の事例から、裕福な人々は非嫡出子の経済的影響から免れなかった、と論証されるものの、ウィリアム・ウェスト大尉の物語が幼少期の養育と関連する財産をめぐる争いで終わることは適切なようです。
非嫡出子の事例におけるもう一つの共通性は注目すべきで、それは出生共同体からの離脱です。非嫡出子の子供の両親は、子供の地位を隠すため、生まれた共同体から移動することが多くありました。成人のウィリアム・ウェスト大尉は、イングランドを去り、ジェームズタウンへの事業に加わる個人的利点を理解していた可能性が高そうです。ウィリアム・ウェスト大尉は年長の2人のイトコに伴って到来したので、ウィリアム・ウェスト大尉の家族も、より大きな経済的および社会的機会を提供する地への出発を勧めた可能性が高い、と推測できます。
非嫡出子がウィリアム・ウェスト大尉にその短い生涯においてどの程度影響を及ぼしたのかはほぼ不明ですが、遺伝学と公文書研究によって明らからなったように、その物語は、非嫡出子に対する態度ではないとしても、有名な17世紀イングランドの1家族の活動を記録しています。ウェスト家は、エリザベスとその子供を養育する経済的富を持っており、そうすることを選択しました。エリザベスはその父親の世帯の一部に死ぬまで留まりました。その後、ウィリアム・ウェスト大尉の世話は、母方の伯母が引き受けました。ウィリアム・ウェスト大尉の祖父は、エリザベスが願ったようなウィリアム・ウェスト大尉の世話を怠りましたが、ウィリアム・ウェスト大尉は教育を受け、その後で兵役に就くことができました。兵役は、家産のより少ない割合を約束されていた地主家族の若い息子や遠縁の者にとって、一般的選択でした。そうした地主家族の若い息子や遠縁の者は時に、生活水準をより確実にするため、軍隊に入るか、他の事業に投資しました。ウィリアム・ウェスト大尉とフェルディナンド・ウェンマン卿の両者にとって、ウェスト家とのつながりは、その従弟であるトマス・ウェスト総督の下で、新たな植民地において地位を得るのに役立ちました。両者の期待は短期で立たれましたが、両者はジェームズタウンの教会内で名誉ある場所に埋葬されました。そうした名誉は、イングランドではウィリアム・ウェスト大尉には与えられなかったでしょう。
●まとめ
本論文は、古代DNAが祖先系統だけではなく高位の17世紀の家族の非嫡出子の歴史的事例の特定にも手段として使用できる、と初めて論証します。古代DNA解析の結果に基づいて、広範な系図および歴史研究が、ウィリアム・ウェスト大尉とフェルディナンド・ウェンマン卿との間の、とくに母系に沿った関係の解明に役立ちました。裁判所の記録では、ウィリアム・ウェスト大尉は、初代デ・ラ・ウェア男爵となるウィリアム・ウェスト(年長)未婚の娘である、エリザベスの非嫡出子の息子だった、と示唆されています。エリザベス・ストレンジの娘であるジェーンとメアリとエリザベスは、同じmtHgを共有していたでしょう。フェルディナンド・ウェンマン卿とエリザベス・ストレンジの娘の子供【孫】としてのウィリアム・ウェスト大尉も、同じmtHgを共有しているでしょう。
これら男性2個体【ウィリアム・ウェスト大尉とフェルディナンド・ウェンマン卿】について報告された古代DNAは、一方【ウィリアム・ウェスト大尉】について以前には記録されていなかった側面を明らかにし、その血統について研究者が抱いていた当初の認識を変えます。本論文では、ウェスト家の系統について正確な父方の参照データの確保はできませんでしたが、古代DNAの調査結果は、とくに他の種類のデータ(つまり、考古学や骨格生物学や化学的分析や系図や歴史的一次資料)の文脈内で、特定に提供する明確さの点で評価されます。本論文は、植民化に誰が関わっていたのか、ということのみならず、おそらくはその理由についても、問題により適切に答えるための学際的手法の必要性をさらに強化します。
参考文献:
Alpaslan-Roodenberg S. et al.(2021): Ethics of DNA research on human remains: five globally applicable guidelines. Nature, 599, 7883, 41–46.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04008-x
関連記事
Olalde I. et al.(2019): The genomic history of the Iberian Peninsula over the past 8000 years. Science, 363, 6432, 1230-1234.
https://doi.org/10.1126/science.aav4040
関連記事
Owsley DW. et al.(2024): Historical and archaeogenomic identification of high-status Englishmen at Jamestown, Virginia. Antiquity, 98, 400, 1040–1054.
https://doi.org/10.15184/aqy.2024.94
●要約
本論文は、バージニア州ジェームズタウンの北アメリカ入植地の1608~1616年教会の内陣に埋葬されたヒト骨格2点の古代DNAデータを報告します。利用可能な考古学と骨学と文書の証拠から、これらの個体は、植民地の初代総督であるトマス・ウェスト(Thomas West)、および第3代総督であるデ・ラ・ウェア男爵(Baron De La Warr)の血族となる、フェルディナンド・ウェンマン卿(Sir Ferdinando Wenman、Ferdinando WeymanもしくはFerdinando Wainmenとの綴りもあります)とウィリアム・ウェスト大尉(Captain William West)である、と示唆されます。骨格のゲノム解析は、両者がともにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)-H10eを有するという、予期せぬ母系の近縁性を特定します。この珍しい事例において、古代DNAは歴史研究をさらに促し、ウェスト家の非嫡出子の発見につながりました。これは、系図記録からの意図的ではない身元省略の可能性の高い側面です。以下は本論文の概略図です。
●研究史
1994年に、ジェームズタウン再発見考古学者は、1607年のジェームズ砦(James Fort)の埋もれていた証拠を明らかにしました(図1)。ジェームズタウンもしくはジェームズ市として知られているこの初期北アメリカイングランド入植地内では、初期教会の証拠を含めて、植民地に到着した移民によって維持された信仰と儀式の物質遺骸が保存されています。2010~2019年の発掘では、入植地の第2の、その後の第3・第4・第5教会の基部と重なる、1608年教会の遺物が発見されました。第3教会は1617年、第4教会は1647年、第5教会はベーコンの反乱後の1680年に建設されました。これらの建物の境界内では、ヒト遺骸が発見されてきており、最近の研究はこれらの個体の生活に関する理解を深めつつあります。以下は本論文の図1です。
ジェームズタウンから回収されたヒト遺骸の研究への詳細な総合的手法は、さまざまなデータ情報源を統合し、時には死亡した遺恨の記録と一致する個々の骨格に関する生物歴史に達します。たとえば、ジェームズ砦の外で、船長の主要な幕僚とともに棺に埋葬された成人男性1個体の骨格は、バージニア植民地事業の擁護者で、短い病気後の死と埋葬が1607年8月に記録されている、バーソロミュー・ゴスノールド(Bartholomew Gosnold)と考えられています。他の事例では、骨と埋葬の状況や関連する人工遺物と外傷の痕跡は、ジェームズタウンの出来事および無名の犠牲者の歴史的言及と一致します。これらには、骨格が生存のための食人の痕跡を示す女性が含まれており、これは1609~1610年の冬に入植地で起きたとされる暴力事件と一致します。
2013年には、ジェームズ砦内の中央に位置する1608年教会から4基の並んだ墓が発掘されました。英国国教会の東側の内陣の埋葬は、これら4個体の高い地位を表しています。死が教会の短期の使用(1608~1616年頃)と一致する高位入植者に関する歴史的情報を骨学および考古学のデータと相互参照すると、これらの男性は、ロバート・ハント牧師(Reverend Robert Hunt、1569~1608年)、ガブリエル・アーチャー大尉(Captain Gabriel Archer、1575~1609年)、フェルディナンド・ウェンマン卿(1576~1610年)、ウィリアム・ウェスト大尉(1586~1610年頃)と特定されました。
本論文は、これら4点の骨格のうち、フェルディナンド・ウェンマン卿およびウィリアム・ウェスト大尉と考えられている2点の古代DNA解析を報告します。両者は、ジェームズタウン植民地の初代総督であるトマス・ウェストと第3代総督であるデ・ラ・ウェア男爵の血族と考えられています。当初、この研究は、姓を持つウィリアム・ウェスト大尉を通じて、ウェスト家系のY染色体DNAの回収を試みました。この手法の目的は、将来トマス・ウェストの身元と一致すると明らかになるかもしれない遺骸との、比較のための参照データの獲得でした。トマス・ウェストは植民地への帰航中に1618年に海上で死亡しました。その埋葬地は不明ですが、ジェームズタウンかもしれません。これに関してウィリアム・ウェスト大尉のY染色体DNAを使用できる前に、その親子関係を確認する必要があり、それは、文書記録で親子関係が明確に定義されていなかったからです。したがって、この研究の目的には、ウィリアム・ウェストとフェルディナンド・ウェンマンの海賊関係の調査もあり、よく記録されている系図は、フェルディナンド・ウェンマンがトマス・ウェストの従弟であることを示しています。
骨の保存状態が悪かったため、この研究でDNAが回収され、結果が得られるのか、確実ではありませんでした。しかし、この2個体の埋葬の分析で、古代DNAは保存状態の悪い遺骸でさえ身元の解釈を明確にできる、と論証されます。じっさい、古代DNAは男性2個体の一方について非嫡出子の特定において重要な構成要素と証明され、このおそらくは高位の個体についてほとんど記録されていない理由を説明しました。同時に、ゲノムデータの重要性は、身元特定の学際的手法がなくては実現されなかったでしょう。この研究は、考古学的遺骸のそうした調査における古代DNAの使用を論証し、入植地、とくに16世紀後半~17世紀初期の文化的規範の背景における、親族関係の役割を強調します。
●個体JR2992CとJR170C
ジェームズタウンの1608年教会の内陣区域に埋葬された個体(図2)のうち、2個体(JR2992CとJR170C)は棺の様式が一致しており、この場合は稀にしか使用されない擬人的形態でした。形状の類似性と建造に用いられた高品質な釘から、同じ熟練の大工が比較的短期間で両方の棺を作った、と示唆されました。この証拠と男性2個体の死亡時推定年齢は、フェルディナンド・ウェンマン卿およびウィリアム・ウェスト大尉について知られていることと一致します。以下は本論文の図2です。
フェルディナンド・ウェンマン(JR2992C)はアメリカ大陸で死亡した最初間イングランドの騎士で、トマス・ウェストの従弟でした。フェルディナンド・ウェンマンは血縁と婚姻の両方で、エリザベス朝期のイングランドのひじょうに有名な一族と親族関係にありました。対照的に、ウィリアム・ウェスト大尉(JR170C)の家系は曖昧です。ウィリアム・ウェストはトマス・ウェストの甥、別の資料では「親族」と記録されており、系図の再調査に基づくと、トマス・ウェストのオジである可能性がより高そうです。フェルディナンド・ウェンマンは1610年6月に、34歳の経験豊富な軍士官およびバージニア会社の投資家としてバージニアに来ました。1610年7月もしくは8月までに、フェルディナンド・ウェンマンは死亡しました。ウィリアム・ウェスト大尉は、同じ頃にアメリカ大陸先住民との争いで死亡しました。両者の教会内陣での正式な埋葬は、トマス・ウェストによって個人的に指揮された可能性が高そうです。
フェルディナンド・ウェンマン卿の生涯は比較的よく記録されていますが、ウィリアム・ウェスト大尉について知られていることのほぼ全ては、ジョージ・パーシー(George Percy)の「A Trewe Relacyon」に由来します。これは、1609年の海洋投機(Sea Venture)号のバミューダ諸島での難破と1612年のバージニアからの出発までの間にジェームズタウンで起きた出来事の、直接的記録です。ジョージ・パーシーはまず1610年8月9日にウィリアム・ウェストに言及しており、この時、ウィリアム・ウェストはその拳銃を空中に発砲することで、地元の先住民集団に対しての襲撃を合図しました。トマス・ウェストはその後(日付は明記されていません)、砦の建設のため、現代のバージニア州リッチモンドに近い滝まで、川をさかのぼりました。トマス・ウェストは個の旅を生き残りましたが、パーシーが死亡と記録中に、「その親族であるウィリアム・ウェスト」とあります。
JR170Cと特定された骨格は、20代前半の男性です。注目されるのは、この骨内の異常に高水準の鉛で、ICP-MS( inductively coupled plasma mass spectrometry、誘導結合プラズマ質量分析法)による測定では126.8 ppmで、これは内陣に埋葬された男性4個体では、フェルディナンド・ウェンマンに次ぐ2番目の高さでした。鉛への曝露は植民地期における経済的および社会的地位の指標として使用されてきており、高価なシロメと鉛の釉薬の陶器で食べ物を消費した個体はこの釉薬の微細断片も摂取し、その骨に重金属が蓄積します。個体JR170Cでも、精巧な銀の縁取りと光沢のある絹の軍用帯の遺物が見つかり、軍用帯は大尉の階級を示す衣服です。
ウィリアム・ウェストのトマス・ウェストおよびフェルディナンド・ウェンマンとの具体的な関係は不明でした。ウィリアム・ウェストはトマス・ウェストの甥ではあり得ず、それは、ウィリアム・ウェストの年齢の子供がいるほど年長のトマス・ウェストの兄弟はいなかったからです。ウィリアム・ウェストはトマス・ウェストの兄弟ではなく、従弟でもなかったようで、それは、同じくトマスと呼ばれる第2代デ・ラ・ウェア男爵のトマス・ウェストの父親には、この時期の紋章調査では記載されている3人の姉妹しかおらず、いずれもウィリアム・ウェストの母親とは特定されなかったからです。したがって、トマス・ウェスト総督の親族としてのウィリアム・ウェストの身元は、当時知られていたものの、それ以降に歴史の中で曖昧になった関係を示しています。
●古代DNA解析
ゲノムデータが、個体JR2992Cの側頭骨と個体JR170Cの科学大臼歯から生成されました。両骨格は比較的悪いDNA保存状態を示し、配列決定されたのは、約120万の標的常染色体SNP(single nucleotide polymorphism、一塩基多型)部位のうち、個体JR2992Cでは合計76449ヶ所、個体JR170Cではわずか12657ヶ所でした(表1)。DNA保存状態が悪かったにも関わらず、両個体をmtHg-H10eに分類するには充分でした。mtHg-H系統はユーラシア西部の大半で一般的に観察され、ヨーロッパ西部現代人において最高頻度で見られ、ヨーロッパ西部ではすべてのmtHgの40%以上を占めます。この系統内では、比較的稀なmtHg-H10eはヨーロッパにおいて複数の古代の個体で観察されており、それにはフィンランドの中世の2個体が含まれます。以下は本論文の表1です。
大まかなY染色体ハプログループ(YHg)割り当てが得られ、個体JR2992CはYHg-I1、個体JR170CはYHg-Fです。YHg-Iはより基底的なYHg-F内に収まりますが、個体JR170Cが、より多くの情報を利用可能ならば、このより具体的なYHgにも割り当てられる可能性を確実に除外するのに充分な解像度(SNP部位のCTS7593とPF3660で観察されたアレルに基づきます)がありました。これらの結果から、この2個体は近い過去の父系祖先(たとえば、父親や父系祖父や父系曾祖父)を共有していなかった、と示唆されました。
これら2個体について核ゲノム全体の低網羅率にも関わらず、常染色体データは、この2個体が1親等の親族である可能性は低い、と結論づけるのに充分でした(Olalde et al., 2019)。推定された近縁係数0.12は、3親等の関係と一致します(イトコ同士で共有される程度)。しかし、この推定値と関連する95%信頼区間はひじょうに大きく(-0.049~0.280)、密接な遺伝的関係がなかったかもしれませんが、その共有されているmtHgは、両者は密接な遺伝的関係だった可能性がより高いことを意味しています。
個体JR2992Cと個体JR170Cのゲノムがユーラシア西部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の局在化に一般的用いられる形式である、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)図へと投影されると、このジェームズタウンの男性は既知のブリテン島祖先系統を有する個体とまとまりました(図3)。しかし、とくに個体JR170Cについて、大きな95%信頼区間もこれらの推定位置の周囲で観察されました。したがって、これら男性2個体で得ることのできた少量の常染色体DNAデータに基づくと、これらの遺伝的データで実行された追加の分析の結果の解釈は要注意です。以下は本論文の図3です。
●個体JR2992Cと個体JR170Cとの間の家族関係の解明
個体JR2992Cと個体JR170CのDNA保存状態は、この2個体が密接な遺伝的関係を共有しているのかどうか、決定的に確認するためにゲノム規模データを使用する(Olalde et al., 2019)には悪すぎますが、両個体のmtHg-H10eへの割り当ては、両者間の親族関係の可能性に光を当てます。mtDNAは母系で継承され、mtHgを共有している個体が、過去のある人で母系祖先を通じて関連していることを意味しています。mtHg-H10eは7000~5700年前頃に出現したので、最新の共有母系祖先の時期は、mtDNAのみの分析を通じて判断できません。しかし、これら男性2個体は1608年教会の内陣で相互に近くで埋葬されており、歴史上では両者が親族と言及されています。mtHg-H10eはイギリスでは比較的稀で、現代人と歴史時代の人類両方のDNAデータを参照した最近の研究では、3594個体のうち2個体のみで見つかりました。ジェームズタウンの個体群のうち1個体がmtHg-H10eであることを考えると、他の個体もmtHg-H10eである可能性は、両者が密接な母系親族でないならば、0.056%(つまり、3594個体のうち2個体)となるでしょう。これは低い確率なので、両者が密接な母系親族である、とある程度の確実性で結論づけることができます。
姓に基づいて、フェルディナンド・ウェンマン卿とウィリアム・ウェスト大尉は、初代デ・ラ・ウェア男爵であるウィリアム・ウェスト(年長)にさかのぼる共有された父系のつながりを通じて親族関係にあった、と元々は仮定されていました。歴史および系図研究では、ウィリアム・ウェスト(年長)は1532年に生まれ、ウィリアムという名前の息子に既知の遺言書もしくは遺言の証拠を残さずに1595年に死亡した、と確証されました。ウィリアム・ウェスト(年長)は2回結婚しており、1554年頃にエリザベス・ストレンジ(Elizabeth Strange)と、1579年以後にアン・スイフト(Anne Swift)と結婚しました。ウィリアム・ウェスト(年長)とエリザベス・ストレンジとの間にはジェーン(Jane)とメアリ(Mary)とエリザベスという3人の娘、およびその法定相続人であるトマス・ウェストという息子1人がいました(図4)。ウィリアム・ウェスト(年長)に生き残っているウィリアムという名の息子がいたならば、ウィリアムは2番目の妻であるアンの息子だったでしょう。しかし、アンとウィリアム・ウェスト(年長)との間には、記録されている子供はいませんでした。さらに、ウィリアム・ウェスト大尉の生年は、1598年に12歳でケンブリッジ大学への入学が許可されたと推定されることに基づくと、1586年頃だったようです。この生年が確かならば、その時アンは、通常は出産可能年齢を過ぎた50歳以上だったでしょう。以下は本論文の図4です。
歴史研究では、1610年にバージニアを去る前に、ウィリアム・ウェスト大尉は書面ではない(口頭の)遺言書を残し、それは1616年に、当時の大規模なイングランドの土地の遺言書を扱うカンタベリー大権裁判所(Prerogative Court of Canterbury)で証明された、と明らかになりました。ウィリアム・ウェスト大尉は、リチャード・ブラント(Richard Blount)の妻で、ウィリアム・ウェスト(年長)の娘であるメアリ・ブラント(綴りはMary BlountもしくはMary Blunt)に財産を遺言で譲りました。ウィリアム・ウェスト大尉(年少)の親子関係が何であれ、アン・スイフト・ウェストが2番目の夫であるウィリアム・ウェスト(年長)の死後にウィリアム・ウェスト大尉と密接な関係になかったことは明確なようですが、メアリ・ブラントはウィリアム・ウェスト大尉と密接な関係だったかもしれません。この遺言書、およびとくにゲノム証拠は、ウィリアム・ウェスト(年長)の娘たちとその子孫に焦点を当てた、歴史および系図研究を更新しました。
ウィリアム・ウェスト(年長)の結婚した娘であるジェーン・ウェスト・ウェンマンとメアリ・ウェスト・ブラントには、複数の出征記録がありました(図4)。さらに、メアリにはウィリアム・ウェスト(年少)が生まれたと思われるのと同じ頃に生まれた子供がいました。ウィリアム・ウェスト(年長)の最も若い娘であるエリザベス・ウェストには、結婚もしくは子供がいた記録はありませんでした。したがって、利用可能な系図情報では、ウィリアム・ウェスト(年少)の母親を特定できませんでした。
ウィリアム・ウェスト(年少)の母親の解決は、1616年のブラント対アボット(Abbott)の法廷訴状(イギリス国立公文書館の日付不明の書類)で最終的に分かりました。その訴状では、ウィリアム・ウェスト大尉(年少)はメアリ・ブラントによって、その死亡した未婚の妹の代わりに育てられた、と述べられています。この情報は、ウィリアム・ウェスト(年少)が、その遺言書の受取人としてメアリ・ブラントを指名した選択を説明します。エリザベスは父の世帯で暮らしていたさいに死亡した時、その宝石をラワのためウィリアム・ウェスト(年少)に残しました。ウィリアム・ウェスト(年長)の死後、その2番目の妻であるアン・スイフトは、その宝石の官吏を引き継ぎました。アンの死後、その宝石はアンの3番目の夫の財産へと移されました。ウィリアム・ウェスト大尉(年少)の死後、その伯母で、華夷呉蘭であり遺言書受取人であるメアリ・ブラントは、遺産の回収を試みました。ブラント対アボットの2点の抜粋は、これらの複雑な関係を明らかにしています【本論文ではこの抜粋2点が引用されていますが、17世紀初期の表記のようで、私の学識ではとても適切に訳せなかったため、省略します】。
ウィリアム・ウェスト大尉(年少)はエリザベスのイトコと記録では述べられていますが、これが文字通りだったことを示唆する家族関係は知られていません。代わりに、当時はまだ子供だったウィリアム・ウェスト(年少)が「唯一のCozenもしくは友人」と述べられていることは、許容しやすく罪が課せられない言葉で、ウィリアム・ウェスト(年少)が実はエリザベスの息子だと示唆しているようです。ウィリアム・ウェスト(年少)がエリザベスの息子との暗号化された言葉と公的な文書による承認の欠如は、ウィリアム・ウェスト(年少)が非嫡出子であることを裏づけます。これは、エリザベスが結婚しなかった理由も説明しており、それは、婚姻外の子供を儲けることで、エリザベスは結婚できなくなり、かなりの恥辱を受ける可能性が高くなるからです。この窮地は、ウィリアム・ウェスト(年少)が名前を与えられ、ウェスト姓を保持した理由も説明できます。
産業化前のイングランドにおける非嫡出子の研究は、16世紀後期と17世紀初期に非嫡出子の存在が頂点に達したことを説明しており、この期間には、社会経済的要因の収束と、繰り返しの疫病に起因する高い移動性がありました。非嫡出子の研究は貧困と移民を経た共同体におけるより高い割合(利用可能な記録に基づいて偏っていることが多くあります)を示しますが、本論文は、この時代の著名なイングランドの家系内における非嫡出子を明らかにします。この事例から何を学ぶことができるでしょうか?
本論文では、裕福な家系における非嫡出子の特定は困難かもしれず、それは、これらの関係が多くの場合に記録されている家系から除外されているから、と示されます。貧しい人々はそうした出生を隠す選択もしくは動機が少なく、それは、教会もしくは裁判所から援助求めることが多かったからです。結果として、非嫡出子の誕生と関連するより厳しい扱いと態度は貧しい人々に示されました。1978年の研究では、17世紀初期イングランドにおける私生児への処罰の再調査で、「ひじょうに耐えられないのは貧しい人々の私生児であり、私生児そのものではなかった」と要約しています。非嫡出子の養育が経済的に可能な両親もしくは家族(オバやオジや祖父母)はさほど辛抱しませんでしたが、婚姻外出生の汚名は家族と子供の両方に残りました。上述の【この記事では翻訳を省略した】法廷の事例から、裕福な人々は非嫡出子の経済的影響から免れなかった、と論証されるものの、ウィリアム・ウェスト大尉の物語が幼少期の養育と関連する財産をめぐる争いで終わることは適切なようです。
非嫡出子の事例におけるもう一つの共通性は注目すべきで、それは出生共同体からの離脱です。非嫡出子の子供の両親は、子供の地位を隠すため、生まれた共同体から移動することが多くありました。成人のウィリアム・ウェスト大尉は、イングランドを去り、ジェームズタウンへの事業に加わる個人的利点を理解していた可能性が高そうです。ウィリアム・ウェスト大尉は年長の2人のイトコに伴って到来したので、ウィリアム・ウェスト大尉の家族も、より大きな経済的および社会的機会を提供する地への出発を勧めた可能性が高い、と推測できます。
非嫡出子がウィリアム・ウェスト大尉にその短い生涯においてどの程度影響を及ぼしたのかはほぼ不明ですが、遺伝学と公文書研究によって明らからなったように、その物語は、非嫡出子に対する態度ではないとしても、有名な17世紀イングランドの1家族の活動を記録しています。ウェスト家は、エリザベスとその子供を養育する経済的富を持っており、そうすることを選択しました。エリザベスはその父親の世帯の一部に死ぬまで留まりました。その後、ウィリアム・ウェスト大尉の世話は、母方の伯母が引き受けました。ウィリアム・ウェスト大尉の祖父は、エリザベスが願ったようなウィリアム・ウェスト大尉の世話を怠りましたが、ウィリアム・ウェスト大尉は教育を受け、その後で兵役に就くことができました。兵役は、家産のより少ない割合を約束されていた地主家族の若い息子や遠縁の者にとって、一般的選択でした。そうした地主家族の若い息子や遠縁の者は時に、生活水準をより確実にするため、軍隊に入るか、他の事業に投資しました。ウィリアム・ウェスト大尉とフェルディナンド・ウェンマン卿の両者にとって、ウェスト家とのつながりは、その従弟であるトマス・ウェスト総督の下で、新たな植民地において地位を得るのに役立ちました。両者の期待は短期で立たれましたが、両者はジェームズタウンの教会内で名誉ある場所に埋葬されました。そうした名誉は、イングランドではウィリアム・ウェスト大尉には与えられなかったでしょう。
●まとめ
本論文は、古代DNAが祖先系統だけではなく高位の17世紀の家族の非嫡出子の歴史的事例の特定にも手段として使用できる、と初めて論証します。古代DNA解析の結果に基づいて、広範な系図および歴史研究が、ウィリアム・ウェスト大尉とフェルディナンド・ウェンマン卿との間の、とくに母系に沿った関係の解明に役立ちました。裁判所の記録では、ウィリアム・ウェスト大尉は、初代デ・ラ・ウェア男爵となるウィリアム・ウェスト(年長)未婚の娘である、エリザベスの非嫡出子の息子だった、と示唆されています。エリザベス・ストレンジの娘であるジェーンとメアリとエリザベスは、同じmtHgを共有していたでしょう。フェルディナンド・ウェンマン卿とエリザベス・ストレンジの娘の子供【孫】としてのウィリアム・ウェスト大尉も、同じmtHgを共有しているでしょう。
これら男性2個体【ウィリアム・ウェスト大尉とフェルディナンド・ウェンマン卿】について報告された古代DNAは、一方【ウィリアム・ウェスト大尉】について以前には記録されていなかった側面を明らかにし、その血統について研究者が抱いていた当初の認識を変えます。本論文では、ウェスト家の系統について正確な父方の参照データの確保はできませんでしたが、古代DNAの調査結果は、とくに他の種類のデータ(つまり、考古学や骨格生物学や化学的分析や系図や歴史的一次資料)の文脈内で、特定に提供する明確さの点で評価されます。本論文は、植民化に誰が関わっていたのか、ということのみならず、おそらくはその理由についても、問題により適切に答えるための学際的手法の必要性をさらに強化します。
参考文献:
Alpaslan-Roodenberg S. et al.(2021): Ethics of DNA research on human remains: five globally applicable guidelines. Nature, 599, 7883, 41–46.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04008-x
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Olalde I. et al.(2019): The genomic history of the Iberian Peninsula over the past 8000 years. Science, 363, 6432, 1230-1234.
https://doi.org/10.1126/science.aav4040
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Owsley DW. et al.(2024): Historical and archaeogenomic identification of high-status Englishmen at Jamestown, Virginia. Antiquity, 98, 400, 1040–1054.
https://doi.org/10.15184/aqy.2024.94
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