中世イベリア半島北部の司教の遺骸の学際的研究

 中世イベリア半島北部の司教の遺骸の学際的な分析結果を報告した研究(Pérez-Ramallo et al., 2024)が公表されました。本論文は、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)への巡礼と関わる重要人物とされている、イリア・フラビア(Iria Flavia)のテオドミロ(Teodomiro)司教と推測される遺骸の、骨学と同位体と古代DNAの分析結果を統合しています。古代ゲノム研究が最も進んでいる地域はヨーロッパなので(Mallick et al., 2024)、ヨーロッパではこうした歴史時代の人名が推測される個体の古代ゲノム解析も今や珍しくなく、日本人の一人としては、日本列島でもそうした研究が進むよう、期待しています。


●要約

 聖使徒聖ヤコブ(セント・ジェームズ)の後、イリア・フラビアのテオドミロ司教はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼と関わる最重要人物です。テオドミロは820~830年の間に神の啓示を受けた後に使徒の墓を発見したとされていますが、1955年に彼の名前が刻まれた墓碑が発見されるまで、その存在そのものもが議論となっていました。本論文は、骨考古学と放射性炭素年代測定と安定同位体と古代DNAの分析を組み合わせる、多角的な分析手法を用いて、墓碑と関連する人骨はまず間違いなくテオドミロ司教の地上の遺骸を表している、と判断します。以下は本論文の概略図です。
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●研究史

 生物考古学的分析の技術革新は、個人の生活史、とくによく研究されている歴史的背景との組み合わせでの再現能力を劇的に高めました。リチャード3世やツタンカーメンやロマノフ家などの歴史上の人物から、アイスマン(Wang et al., 2023)と呼ばれているエッツィ(Ötzi)など幸運な発見まで、今や個人の生涯にわたる祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)や移動性や食性の調査が可能です。それにも関わらず、骨学や古代DNAや多同位体の分析など複数の分析手法を組み合わせた研究は、多くの重要な歴史時代の期間では依然として稀です。8~10世紀にヨーロッパではキリスト教の拡大と成長が続き、政治権力の重要な柱としての採用と、同時に起きた「聖遺物熱(キリストおよびその弟子と関連するヒト遺骸が、ヨーロッパ大陸全域で宗教機関に切望されました)」の爆発的増加によって、この期間はそうした研究にとくに適しています。

 スペイン北部のサンティアゴ・デ・コンポステーラは、9世紀前半使徒聖ヤコブの墓が発見されたと言われてから、キリスト教世界の重要な精神的中心地の一つとなりました。ヨーロッパの多様な社会的階層とさまざまな地域の純利医者が、この聖遺物を尋ねるため、長距離の旅をしました。まもなく、ムサンティアゴ・デ・コンポステーラは訪問者と精神的関連性をめぐってローマやエルサレムと直接的に競合し、キリスト教とカトリックの3大宗教中心地の一つにまで昇格しました。11世紀と12世紀の歴史資料、たとえば、コンポステーラ教会長では、コンポステーラ司教および大司教であるディエゴ・ヘルミレス(Diego Gelmírez)の統治機関の最も関連する事象を記録した12世紀の文書である『コンポステーラの歴史』は、墓の発見についての口承伝統を記録し、1人の男性がサンティアゴ・デ・コンポステーラを宗教的に有名にするのに重要な役割を果たしました。『コンポステーラの歴史』では、820~830年の間に、地元の隠修士の指示に従って、断食と迷走の日々の後に、イリア・フラビアのテオドミロ司教は、エルサレムで41~44年に斬首された殉教者だった使徒聖ヤコブの遺骸が、現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの放棄された墓地にある、との啓示を受けた、記されています。その遺骸の発掘後に、アストゥリアス王アルフォンソ2世とその宮廷はオビエド(Oviedo)から遺跡まで行進し、サンティアゴの道(Camino de Santiago)の最初の巡礼経路(いわゆる原始の道)を作りました(図1)。以下は本論文の図1です。
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 世界的なキリスト教巡礼の歴史におけるテオドミロの役割にも関わらず、聖ヤコブの発見の物語は、何世紀も事実と虚構の混合とみなされ、多くの人はイリア・フラビアの司教の存在を疑いました。しかし、1955年には、考古学者のマヌエル・チャモソ(Manuel Chamoso)がサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の床で救助札業を行ない、テオドミロ司教に言及している碑文の刻まれた墓石と、そのすぐ下にある、テオドミロ自身とすぐに推定された年長男性1個体の断片的遺骸を発見しました(図2)。それにも関わらず、これらの主張は、骨学的再評価で、人骨が違う墓にともに埋葬された年長の女性1個体のものだった、と結論づけられ、数十年後に異議を唱えられました。本論文は、これらの遺骸の最初の学際的研究において、骨学的分析と放射性炭素(¹⁴C)年代そくていと複数の同位体分析と古代DNA解析を組み合わせます。その結果、この個体はテオドミロ司教である可能性が高い、との主張が裏づけられ、歴史上の人物の身元解明、および倫理的枠組み内で行なわれる場合での過去とそこに生きた個人の理解の深化における、考古学の重要な役割が強調されます。


●考古学および歴史的背景

 イリア・フラビア司教区は、イベリア半島のイスラム教勢力征服後も残った、数少ない司教区の一つでした。イベリア半島北西部では千年紀後半に他地域から司祭が移住し、聖ヤコブの墓の「発見」によって、地域の支配者は領土結束の主張のための象徴的人物となりました。これは、ヨーロッパ西部の他のキリスト教王国との連合の仕組みで、アル・アンダルスのカリフに対する戦いの象徴でした。それにも関わらず、テオドミロの神の啓示と、その後数世紀後に収集された聖ヤコブや使徒の弟子とされる遺骸の発見以外に、テオドミロの生涯についてほとんど知られていません。じっさい、1955年に大聖堂の床下での碑文の刻まれた墓石の発見で、初めてテオドミロの存在がより確信的に受け入れられるようになりました(図2)。以下は本論文の図2です。
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 この石碑は、ヨーロッパ西部のキリスト教の地理の形成に重要と他でも記録されている1個体の存在を確証しただけではなく、その死の正確な年代(847年10月20日)も提供しました。アルフォンソ3世の聖堂(872~1075年)の破壊から生じた0.8mの瓦礫層が、元々の埋葬地から移動した二次堆積と思われる、関節の離れた人骨の集合から墓石を隔てました(図3~図5)。この堆積の当初の解釈は、12世紀における新たな宗教的中心地の建設に続く墓の攪乱の産物として、サンティアゴ大聖堂の中世ネクロポリス(大規模共同墓地)で行なわれたごく最近の研究で裏づけられています。この建設はテオドミロの墓にも影響を及ぼし、その遺骸は移動させられ、おそらくその墓は大聖堂の床の新たな高さに合わせるため高く上げられ、テオドミロ司教の安息の場をより適切に示しています(図3)。以下は本論文の図3です。
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 歴史資料と最近の考古学的研究は、高い宗教的もしくは社会経済的地位の人口集団の構成員は同じ地域に、したがって他の歴史上および宗教上の人物のさらなる墓石の蓋も含めて埋葬された、と記録しています(図4)。以下は本論文の図4です。
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 1955年には、注意深く採取した後で、カレラ(Carreró)教授による骨の骨学的研究が行なわれ、おそらくは成人男性1個体とカレラ教授は結論づけました。考古学的背景および石棺の蓋とともに、これによって、チャモソ・ラマス(Chamoso Lamas)とその協力者は、イリア・フラビアのテオドミロの遺骸だ、と主張することになりました。しかし、30年後に、以前の研究中に撮られた写真に基づく骨学的再評価(骨の利用が許可されていなかったため)では、この遺骸は50~70歳の女性と結論づけられました。この再評価では、遺骸は元々の位置にあり、1955年にチャモソ・ラマスによって示唆されたような、二次堆積ではない、と主張されています。以下は本論文の図5です。
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 したがって、これは無名の個人の墓と関連づけられ、テオドミロ司教の遺骸がおそらくはロマネスク様式の大聖堂の建設中に埋葬された納骨堂とは関連していません。この再評価以降、この墓および墓と関連するヒト遺骸の特定に関する議論が続いてきました。本論文は、骨学と生体分子の技術を組み合わせて、最初の分析を提示し、その目的は、この個体の詳細な生物学的特性の確証と、その年代と地理的起源と食性と社会的地位への新たな洞察の提供です。これらのデータを利用可能な歴史的および考古学的背景と比較すると、これらの遺骸がサンティアゴ・デ・コンポステーラの使徒聖ヤコブとされる墓の発見者のものかどうか、解明するのに役立つでしょう。


●資料と手法

 1955年に発見されたテオドミロの墓石(NCS200)と関連する人骨の骨学的分析が更新され、発掘された遺骸の最小個体数と年齢および性別が推定されました。切歯2点と小臼歯1点と肋骨1点が、同位体分析と放射性炭素年代測定と古代DNA解析のため採取されました。骨は、肉眼観察と拡大鏡を用いて観察されました。しかし、90点の要素のうち39点しか識別できず、分析数は限定的です。さらに、骨は同じ中世のネクロポリスから発見された他の個体より相対的に保存状態は良好でしたが、化石生成論的変の兆候を示しており、摩耗/侵食得点は1~2でした(図6)。以下は本論文の図6です。
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 骨によって表される最小個体数は1と判断され、生物学的性別判断と死亡時年齢推定は、確立されている頭蓋と歯の摩耗の形態学的基準を用いて行なわれました。年齢推定には、若い成人(20~35歳)、中年の成人(35~49歳)、高齢の成人(50歳以上)との広範囲が用いられました。肋骨1本を用いて、この個体の絶対年代が確証され、歴史および考古学の史料と比較されました。歴史資料では、テオドミロは819~847年にイリア・フラビアの司教で、847年は石棺の蓋(図2)に刻まれたテオドミロの死亡年です。放射性炭素年代測定は、OxCal第4.4版とIntCal20較正曲線を用いて較正されました。肋骨の断片1点が炭素(δ¹³C)と窒素(δ¹⁵N)の骨コラーゲン安定同位体値のため標本抽出され、右側下顎第一小臼歯のエナメル質は、歯の生体燐灰石の酸素(δ¹⁸Oₐₚ)および炭素(δ¹³Cₐₚ)同位体値のため標本抽出され、個体NCS200の社会的地位および地理的起源に関する情報が提供されます。

 ヨーロッパにおけるヒトの遺伝的差異は、少なくとも鉄器時代以降に存在した強い地理的構造を示します(Antonio et al., 2024)。考古学的および現代の個体のゲノム規模データの比較によって、過去におけるヒトの起源や移住や混合についての推測が可能となります。そうした分析は、表現型の特徴に関する情報も提供できる数十万もの遺伝的標識を反映しているので堅牢ですが、世代ごとの組換えと浮動のため、ゲノムデータを用いての8世代を超える親族関係の追跡はほぼ困難となります。本論文はゲノムデータを用いて、この個体NCS200の性別を確証し、その潜在的な地理的起源を調べます。右側上顎切歯2点が、スウェーデンのストックホルム大学の古遺伝学総合施設(Centre for Palaeogenetics 、略してCPG)古代DNA施設で標本抽出されました。


●骨考古学と安定同位体と放射性炭素年代測定

 骨考古学分析の結果から、このヒト遺骸は華奢な体格の高齢成人男性1個体に属する、と論証されます。頭蓋外縫合線の評価と歯の摩耗は、それぞれ45.2±12.6歳と45歳以上の死亡時年齢を提供します。放射性炭素年代測定結果から、この骨の較正年代は673~820年です(表1)。以下は本論文の表1です。
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 個体NCS200の安定同位体値は、δ¹⁵Nでは+10.2‰、δ¹³Cでは–19.6‰、δ¹⁸Oₐₚでは–2.9‰、δ¹³Cₐₚでは–10.8‰でした(表1、図7および図8)。以下は本論文の図7および図8です。
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●全ゲノム解析

 個体NCS200について、網羅率1.8倍で全常染色体ゲノムデータが生成されました。平均断片長と各読み取りの両端の脱アミノ化パターンは、ゲノムデータの古代の性質を裏づけます(表2)。ミトコンドリアとX染色体の汚染推定値は、汚染水準が無視できることを示唆しています(表2)。個体の生物学的性別は、男性と判断されました。以下は本論文の表2です。
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 個体NCS200は、刊行されているイベリア半島(Olalde et al., 2019)とカナリア諸島(Rodríguez-Varela et al., 2017)の鉄器時代~中世後期の個体群とともに、AADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)第54.1版(Mallick et al., 2024)から得られた124万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)とヒト起源(Human Origins、略してHO)のデータセットを用いて、現代のユーラシア西部およびアフリカ北部の人口集団の最初の2主成分に投影されました。この主成分分析(principal component analysis、略してPCA)の結果では、個体NCS200は現代ヨーロッパ人の差異の外に位置し、現代アフリカ北部人口集団の方へと向かい、イベリア半島のローマ期個体群や西ゴート人やイスラム教支配期個体群に近い、と示唆されます(図9A)。以下は本論文の図9です。
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 教師なしADMIXTURE分析はK(系統構成要素数)=5でこれらの観察を確証し、個体NCS200は、他のイベリア半島ローマ期個体群やイベリア半島南部の西ゴート人やイスラム教支配期個体群と同様の水準の、ヨーロッパ(紫色)とアフリカ北部(橙色)と中東コーカサス的な構成要素を有しています(図9B)。イベリア半島の鉄器時代個体群やイベリア半島北部の西ゴート人やイベリア半島のカロリング朝個体群と比較しての、これらの集団【イベリア半島ローマ期個体群やイベリア半島南部の西ゴート人やイスラム教支配期個体群】におけるアフリカ北部的な構成要素の相対的に高い割合から、その祖先は、ローマ期か、もっと新しくイスラム教支配の帰還もしくはその後に、アフリカ北部からの遺伝子流動を受け取った、と示唆されます。


●考察

 死亡時年齢が45歳以上との骨学的評価を考えると、この遺骸がテオドミロであるとの過程は、テオドミロが早い段階で司教に任命されたことを意味しているかもしれません。司教の任命は少なくとも30歳以上であることが求められましたが、通常は尊重されませんでした。個体NCS200の同位体値は、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂中世のネクロポリスの他の個体(25個体)から得られた値と比較されました(図7)。これらの個体のδ¹⁵N同位体の範囲は+8.7~12.3‰(平均±標準誤差は+10.9±0.8‰)で、δ¹³Cの範囲は–20.0~–16.0‰(平均±標準誤差は–17.8±0.8‰)、δ¹³Cₐₚ(17個体)は–14.2~–6.4‰(平均±標準誤差は–10.2±2.2‰)です。個体NCS200は炭素と窒素両方の下限に近く、C₃植物と動物性タンパク質の混合食性に、海洋性および/もしくはC₄植物タンパク質の消費が伴うものの、司教に与えられる社会的地位で予測されるよりは動物性タンパク質の摂取が少ない、と示唆されます。

 個体NCS200のδ¹⁸Oₐₚ(–2.9‰)は地元の範囲内(–4.2~–2.9‰、平均±標準誤差は–3.6±0.6‰)に収まります(図8)。右側科学第一小臼歯のエナメル質は2~3歳の間に発達し始め、6~7歳までに完全に形成されます。テオドミロは、少なくとも819年に司教に任命されて以降、サンティアゴ・デ・コンポステーラの南西約20kmに位置するイリア・フラビアに居住していたでしょう(図1)。個体NCS200がじっさいにテオドミロならば、本論文の結果から、テオドミロは生涯の初期を、イリア・フラビア地域か、少なくとも同様のδ¹⁸Oₐₚ値のスペイン北部のより広範な地域で過ごした、と示唆されるでしょう。δ¹⁸Oの変動規模が広いことから、特定の標本抽出された個体を特定の場所に割り当てるさいには要注意で、理想的にはストロンチウム同位体分析で称号確認すべきですが、個体NCS200の生活史はイベリア半島のこの地域に集中していた、と注意深く示唆できるかもしれません。

 以前は在来の宗教的および社会的上流階層と分類されていたサンティアゴ・デ・コンポステーラ標本の個体群は、δ¹⁵N値の範囲が+11.4~+12.3‰(平均±標準誤差は+11.9±0.4‰)、δ¹³C値の範囲が–18.4~–17.2‰(平均±標準誤差は–17.6±0.5‰)、δ¹³Cₐₚ値が–14.2~–8.7‰(平均±標準誤差は–11.3±2.3‰)です(図8)。個体NCS200のδ¹⁵N値とδ¹³C値はこのネクロポリスの同じ区域に埋葬された他の個体より小さいものの、これらの個体の多くがサンティアゴ・デ・コンポステーラの歴史においてその後の期間であることに要注意です。個体NCS200と同様の年代で、同じく石棺に埋葬された個体群の測定されたδ¹⁵N値とδ¹³C値の範囲は、δ¹⁵N値(2個体)がともに+10.3‰、δ¹³C値(2個体)が–20.0‰と–18.4‰、δ¹³Cₐₚ値(5個体)が–14.2~–8.4‰(平均±標準誤差は–11.8±2.3‰)で、個体NCS200とずっと類似しており、おそらくはそうした比較における特定の社会的および歴史的状況の考慮の必要性を示唆しています。

 サンティアゴ・デ・コンポステーラで得られた考古学的および同位体値から、9世紀後半の経済状況は11もしくは12世紀よりもずっとみすぼらしかった、と示唆されます。個体NCS200は、9世紀半ば以降にイベリア半島の北西部に存在したセント・フルクトゥオス(Saint Fructuous )の規則に従っていたかもしれず、この規則では、修道士の食事はパンと葡萄酒を中心に野菜や豆類や果物を摂取し、肉類、とくに4本足の動物は厳格に避けるべきとされていました。

 個体NCS200をテオドミロと特定できるのに重要な放射性炭素年代測定の結果を解釈するさいには、いくつかの要因を考慮せねばなりません。まず、年代測定された標本は肋骨の断片で、骨の代謝率は10~15年と急速です。したがって、年代測定に用いられたコラーゲンは、個体NCS200の死亡の10~15年前に形成されました。さらに、海洋性タンパク質の直接的もしくは間接的消費は「貯蔵効果」をもたらし、海洋性消費者の放射性炭素(¹⁴C)濃度低下をもたらし、「より古い」放射性炭素年代決定につながります。個体NCS200のδ¹⁵Nとδ¹³Cとδ¹³Cₐₚの結果は、同じ遺跡の一部の高い社会的地位の個体よりも小さい割合ではあるものの、海洋性タンパク質がその食性の一部を形成していたかもしれない(表1、図7および図8)、という可能性を示唆します。

 結果として、放射性炭素分析結果への、海洋貯蔵効果もしくは骨の代謝率の影響を除外できません。したがって、計算された年代(673~820年)は、記録されているテオドミロの死亡年(847年)に近いものの、正確には同じではありませんが、そうした影響を考慮するならば、個体NCS200がテオドミロであることと一致します。さらに、テオドミロは最初の大聖堂の周辺に埋葬された初期の人々のうち1人だった可能性が高く、最初の大聖堂はアルフォンソ2世(820/830~872年)によって人口密度の低い地域内に建てられ、この地域は後になってやっと、人口増加を経ました。放射性炭素の結果から、これまでのところ、個体NCS200はサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の中世のネクロポリス全体にわたって最古級の年代の個体である、と確証されます。

 古代DNAの結果から、個体NCS200は男性と確証され、歴史的な骨学的不確実性が解決され、テオドミロとの特定と一致します。歴史的観点から、個体NCS200がテオドミロと仮定すると、いくつかの仮説が個体NCS200の遺伝的祖先系統と一致します。中世盛期には、ガリシアの司教は社会的貴族の構成員で、君主との交流を担当していました。テオドミロの遺伝的起源は、ヒスパニア・ローマと西ゴートの上流階層間で起きたかもしれない人口統計学的相互作用、あるいは、イベリア半島の南部および中央部地域におけるイスラム教勢力による征服後のキリスト教徒とイスラム教徒の上流階層間の混合からに由来する可能性があります。サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂のネクロポリスで分析され、ストロンチウム同位体および安定酸素同位体分析に基づいて外来と特定された個体のうち数人は、イベリア半島中央部および南部出身だったかもしれません。歴史文書は、オドアリア(Odoario)司教など、アフリカ北部およびアル・アンダルスからイベリア半島北西部へと移住してきた個体群に言及しており、オドアリア司教は8世紀にルーゴ(Lugo)の最も近い司教管区を再建し、元々はアフリカ北部出身でした。したがって、テオドミロの祖先系統はアル・アンダルスからアストゥリアス王国へのキリスト教徒の移住と関連しているかもしれず、キリスト教徒とイスラム教徒との間の社会的区別を曖昧にする、キリスト教王国の上流階層と聖職者の間の祖先系統の複雑さを浮き彫りにします。


●まとめ

 生物考古学的技術の組み合わせの適用は、存在自体が破壊しの発見まで議論されていた、テオドミロ司教の可能性のある遺骸に関する問題の解明に役立ちつつあります。限界と、本論文の結果の解釈に払うべき注意にも関わらず、これらのデータは、1955年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の床下の碑文の刻まれた墓石と関連して発見されたヒト遺骸がテオドミロ司教のものである、という可能性を裏づけます。骨考古学と古代DNAと安定同位体の分析から、この遺骸は高齢の成人男性個体のもので、おそらくは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの周辺地域か、現在のパドロン(Padrón)となるイリア・フラビアの近くに居住していた司教から予測される、地理的もしくは気候的に近い場所で育った、と示唆されます。個体NCS200の食性同位体値は、動物性タンパク質の摂取量の少なさを示唆し、これはサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂のネクロポリスの墓埋葬の同時代の個体群と類似しており、使徒聖ヤコブとされる遺骸の発見後のこの場所のみすぼらしい状況か、あるいは肉食を制限する修道士の規則に従っていたことを反映しているかもしれません。放射性炭素年代測定の結果は、テオドミロの記録されている死亡年(847年)と重なりませんが、遺骸の年代を確証し、海洋彫像効果および/もしくは骨の代謝率の影響の可能性を考慮すると、個体NCS200がテオドミロ司教である可能性と大まかには一致します。

 全ゲノム配列決定は、個体NCS200の祖先系統への顕著なアフリカ北部からの寄与を明らかにしており、これはローマ期のアフリカ北部祖先系統もしくはもっと新しいアル・アンダルス期の混合に相当するかもしれません。アル・アンダルス期の混合との仮説は、8~11世紀のイベリア半島における、キリスト教とイスラム教の人口集団の複雑な社会的および人口統計学的相互作用を浮き彫りにするでしょう。これらの可能性の区別には、さらなる古文書研究と追加の個体の古代DNAおよびストロンチウム同位体分析が必要です。本論文の結果はさらに、歴史上の人物の遺骸を調査するさいの倫理的考慮と、歴史上の人物を中心に構築された物語が過去と同じくらい容易に現在の社会的構成を反映しているかもしれない道筋の重要性を浮き彫りにします。尊重して扱うことで、歴史と考古学のデータの密接な取り込み、および地元期間との協力と明確で問題主導の研究の枠組み内での学際的手法の適用を通じて、過去の人々の生涯についてより詳細に解明し始めることができます。

 この場合、データは、使徒聖ヤコブとその2人の弟子の墓の発見者として、「サンティアゴの道」の現象のなかでひじょうに関連性が高い、歴史上の人物であるテオドミロの存在を裏づけます。この情報は、遺骸の保存に直接的に貢献し、サンティアゴ大聖堂における礼拝の特別な場を促進し、教会と都市への訪問を増やすでしょう。それは、テオドミロがガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラの歴史にとってだけではなく、スペインとヨーロッパとカトリックの歴史にとって重要な人物を表しているからです。それにも関わらず、本論文はテオドミロの複雑さの可能性を浮き彫りにし、考古学と宗教的伝統との相互作用の別の事例を示し、信仰に関連する歴史的な問題の検証もしくは解決、および過去の個人へのより微妙な洞察の発展に役立ちます。本論文は、過去の宗教に焦点を当てる歴史学者と考古学者が、生物考古学を、矛盾ではなく調査の補完的な手段とみなすべきである、と論証することを願っています。


参考文献:
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