古代の皇位継承について
今日(2024年10月27日)、いよいよ衆院選投票日を迎えましたが、今回は、議席数も選挙後の政権の在り様も、私のような政治家やその近い関係者でも報道機関もしくは選挙情勢調査機関の勤務者でも政治学者でもない者には、予測が難しく、かなり不透明なように思え、衆院選後に政治的混乱が長引くのではないか、と懸念しています。今回の衆院選でもネットで情報を収集しましたが、女系での皇位継承を容認する候補者には投票しない、といった意見も目立ちました。まあ、私の検索の偏りもあるのでしょうが。この問題について、議論の前提として有益と思われる荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』を以前取り上げましたが(関連記事)、この問題と関連する具体的な情報を省略していたので、備忘録として短く記載しておきます。なお、この記事では便宜的に、天皇号が使用されていなかったと思われる時代の君主(大王)にも天皇号を使用します。
皇位継承で男系を強硬に主張する人は、ネットでは「声が大きい」ため目立つものの、2019年の世論調査では、21%の男系維持派より74%の女系容認派の方がずっと多くなっています。女系容認派には皇位継承問題について関心の低い人が多いのか、皇位継承問題を論じるのに積極的なのに対して、男系維持は皇位継承問題に強い関心を抱いている人が多いため、ネットでは目立つ、という構造になっているのかもしれません。また、男系維持派には、女系容認派は皇位継承問題への関心が低く、詳しく知らないため女系での皇位継承を容認しているのであって、自分たちが「啓蒙」すれば男系維持派は増える、との見込みもあるのだとしたら、皇位継承問題についてネットでは男系維持派の方が目立つことは自然とも言えそうです。
とはいえ、女系容認派の方が男系維持派より圧倒的に多いわけで、ネットでは男系維持派を批判・揶揄・嘲笑する人も珍しくありません。そうした人たちの中でよく見かけるのが、古代の皇位継承では女系も容認されていた、との見解で、元明天皇から元正天皇、斉明天皇(皇極天皇)から天智天皇への皇位継承などが根拠とされています。しかし、『古代天皇家の婚姻戦略』で指摘されていた飛鳥時代から奈良時代における女性皇族(現在の皇族に相当する用語は古代では皇親)の厳しい婚姻規制を考えると、少なくとも飛鳥時代から奈良時代の皇位継承において、女系が容認されていたと解釈するのは無理筋と思います。
古代の女性皇族の厳しい婚姻規制は、『古代天皇家の婚姻戦略』で具体的に取り上げられています。『養老令』の「継嗣令」第4条には、諸王(皇族)は内親王(天皇の娘、天皇から見て孫以上の遠い血縁関係だと女王)を娶り、臣下は五世王を娶ることができるものの、内親王を娶ることはできない、とあります。当時、天皇から見て玄孫(四世王)までが皇族で、五世王は皇族ではありませんでしたが、王(男性)と女王(女性)の呼称は、五世王でも許されていました。天平年間に成立した『大宝令』の注釈書である『令集解』から、すでに『大宝令』にもほぼ同じ規定があった、と窺えます。『古代天皇家の婚姻戦略』は、律令制の前にこうした規定の例外と解釈できるかもしれないごく少数の事例もあるものの、それらは確定的な事例ではない、と指摘し、こうした女性皇族の厳しい婚姻規制は6世紀までさかのぼるかもしれない、と推測します。この女性皇族の厳しい婚姻規制は、平安時代には緩和されていきます。平安京遷都直前の793年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には、現任の大臣と良家の子や孫は三世と四世の女王を、藤原氏は二世の女王を娶ることができるようになりました。ただ、そうした婚姻で生まれた子供が皇族として認められたわけではありません。
こうした女性皇族の厳しい婚姻規制と、男性皇族にはそうした厳しい婚姻規制がなく、多様な出自の女性との結婚が記録されていることを踏まえると、少なくとも飛鳥時代から奈良時代にかけて、皇族は基本的に男系集団として認識されており、女系での皇位継承は容認されていなかった、と考えるのが妥当だと思います。当時もその後も、天皇に即位できるのは原則的に、皇族として生まれた者だけでした(唯一の例外は平安時代の醍醐天皇)。古代の女性天皇はいずれも皇族として生まれており、皇族は基本的に父系集団として認識されていたと思われるので、元明天皇から元正天皇および斉明天皇(皇極天皇)から天智天皇への皇位継承は、当時「女系が容認されていた」ことを証明するわけではない、と私は考えています。光明子の立后を巡る状況からは、立后への不満があった、と窺われますが、それは、当時皇后(的な地位)には皇族が立てられると考えられており、さらには皇后の即位も想定されていたからなのでしょう。少なくとも飛鳥時代以降、皇位継承は男女ともにあり得たものの、それは女性の即位も認められていた、という意味での緩やかな男系原理に基づいていたのでしょう。皇位継承の在り様についての議論は自由であるべきとしても、少なくとも前近代において長く、皇位継承で「女系が容認されていた」わけではないことは踏まえておくべきでしょう。
ただ、皇位継承問題について、5世紀にまでさかのぼるとどうだったのか、不明なところがあります。いわゆる倭の五王の事例からは、男系相続志向を読み取れるかもしれませんが、継体天皇の事例は、男系志向が強いながらも、女系も容認されていたことを意味しているのかもしれません。尤も、継体天皇は、父系でのつながりこそ前皇統と遠く、応神天皇の父系子孫との系図は後付けかもしれませんが、おそらくは広い意味での皇族(王族)の一員と認められており、それ故に「入婿」のような形で即位したのではないか、と推測しています。継体天皇の即位は、王権簒奪と言えるような事例ではなく、むしろ672年の壬申の乱の方が、父系では前王権と強いつながりを有していたものの、王権簒奪的性格は強かったのではないか、と考えています。
一方で、古代の皇位継承が「緩やかな男系原理」に基づいていたとしても、当時の皇族で極度の近親婚が盛行していたように、あくまでも社会最上層の特殊な在り様で、社会全体の傾向を反映していなかった可能性は高いように思います。古代の日本社会は、「男系」と「女系」というか、「父系」と「母系」の観点では、父方と母方双方との関係を維持する「双系社会」と考えられています。双系的社会は古代日本に限らず現生人類(Homo sapiens)に広く見られる特徴で、おそらく人類は元々、「父系的」というか、雌が出生集団から離れる父系親族集団を形成していたのでしょうが、現代人につながる系統のある時点で、雌ではなく雄が出生集団から離れるような社会も出現し、出生集団から離れた後でも出生集団とのつながりを維持する、現在見られる柔軟な「双系社会」を形成するようになった、と私は考えています(関連記事)。その意味で、古代の日本社会を、「原始的な母系社会」から「父系社会」へと「発展」する「過渡期」にあった、と評価する見解には同意できません。
現代人社会あるいは記録に見える過去の社会には、「父系」的な事例も「母系」的な事例もありますが、チンギス・ハーンの父系子孫が尊重され、大きな権威を有していたユーラシア草原地帯においても、母方とのつながりの重要性が窺えます(関連記事)。その意味で、「双系社会」が現生人類社会の本質だろう、と私は考えています。アウストラロピテクス属やパラントロプス属やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)については、「父系社会」だったことを強く示唆する知見が得られていますが(関連記事)、現生人類の本質的特徴である「双系社会」が現生人類のみに存在したとは限らず、ネアンデルタール人にも見られた可能性を想定できます。その場合、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の時点で、現代人と通ずるような「双系社会」がすでに出現していたのでしょう。尤も、ネアンデルタール人系統で独自に「双系社会」が出現した可能性も想定されますが、現時点では、ネアンデルタール人が「双系社会」もしくは「母系社会」を築いたことを示唆する直接的証拠は得られておらず、「父系社会」を強く示唆する証拠のみが得られていると思います。
皇位継承で男系を強硬に主張する人は、ネットでは「声が大きい」ため目立つものの、2019年の世論調査では、21%の男系維持派より74%の女系容認派の方がずっと多くなっています。女系容認派には皇位継承問題について関心の低い人が多いのか、皇位継承問題を論じるのに積極的なのに対して、男系維持は皇位継承問題に強い関心を抱いている人が多いため、ネットでは目立つ、という構造になっているのかもしれません。また、男系維持派には、女系容認派は皇位継承問題への関心が低く、詳しく知らないため女系での皇位継承を容認しているのであって、自分たちが「啓蒙」すれば男系維持派は増える、との見込みもあるのだとしたら、皇位継承問題についてネットでは男系維持派の方が目立つことは自然とも言えそうです。
とはいえ、女系容認派の方が男系維持派より圧倒的に多いわけで、ネットでは男系維持派を批判・揶揄・嘲笑する人も珍しくありません。そうした人たちの中でよく見かけるのが、古代の皇位継承では女系も容認されていた、との見解で、元明天皇から元正天皇、斉明天皇(皇極天皇)から天智天皇への皇位継承などが根拠とされています。しかし、『古代天皇家の婚姻戦略』で指摘されていた飛鳥時代から奈良時代における女性皇族(現在の皇族に相当する用語は古代では皇親)の厳しい婚姻規制を考えると、少なくとも飛鳥時代から奈良時代の皇位継承において、女系が容認されていたと解釈するのは無理筋と思います。
古代の女性皇族の厳しい婚姻規制は、『古代天皇家の婚姻戦略』で具体的に取り上げられています。『養老令』の「継嗣令」第4条には、諸王(皇族)は内親王(天皇の娘、天皇から見て孫以上の遠い血縁関係だと女王)を娶り、臣下は五世王を娶ることができるものの、内親王を娶ることはできない、とあります。当時、天皇から見て玄孫(四世王)までが皇族で、五世王は皇族ではありませんでしたが、王(男性)と女王(女性)の呼称は、五世王でも許されていました。天平年間に成立した『大宝令』の注釈書である『令集解』から、すでに『大宝令』にもほぼ同じ規定があった、と窺えます。『古代天皇家の婚姻戦略』は、律令制の前にこうした規定の例外と解釈できるかもしれないごく少数の事例もあるものの、それらは確定的な事例ではない、と指摘し、こうした女性皇族の厳しい婚姻規制は6世紀までさかのぼるかもしれない、と推測します。この女性皇族の厳しい婚姻規制は、平安時代には緩和されていきます。平安京遷都直前の793年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には、現任の大臣と良家の子や孫は三世と四世の女王を、藤原氏は二世の女王を娶ることができるようになりました。ただ、そうした婚姻で生まれた子供が皇族として認められたわけではありません。
こうした女性皇族の厳しい婚姻規制と、男性皇族にはそうした厳しい婚姻規制がなく、多様な出自の女性との結婚が記録されていることを踏まえると、少なくとも飛鳥時代から奈良時代にかけて、皇族は基本的に男系集団として認識されており、女系での皇位継承は容認されていなかった、と考えるのが妥当だと思います。当時もその後も、天皇に即位できるのは原則的に、皇族として生まれた者だけでした(唯一の例外は平安時代の醍醐天皇)。古代の女性天皇はいずれも皇族として生まれており、皇族は基本的に父系集団として認識されていたと思われるので、元明天皇から元正天皇および斉明天皇(皇極天皇)から天智天皇への皇位継承は、当時「女系が容認されていた」ことを証明するわけではない、と私は考えています。光明子の立后を巡る状況からは、立后への不満があった、と窺われますが、それは、当時皇后(的な地位)には皇族が立てられると考えられており、さらには皇后の即位も想定されていたからなのでしょう。少なくとも飛鳥時代以降、皇位継承は男女ともにあり得たものの、それは女性の即位も認められていた、という意味での緩やかな男系原理に基づいていたのでしょう。皇位継承の在り様についての議論は自由であるべきとしても、少なくとも前近代において長く、皇位継承で「女系が容認されていた」わけではないことは踏まえておくべきでしょう。
ただ、皇位継承問題について、5世紀にまでさかのぼるとどうだったのか、不明なところがあります。いわゆる倭の五王の事例からは、男系相続志向を読み取れるかもしれませんが、継体天皇の事例は、男系志向が強いながらも、女系も容認されていたことを意味しているのかもしれません。尤も、継体天皇は、父系でのつながりこそ前皇統と遠く、応神天皇の父系子孫との系図は後付けかもしれませんが、おそらくは広い意味での皇族(王族)の一員と認められており、それ故に「入婿」のような形で即位したのではないか、と推測しています。継体天皇の即位は、王権簒奪と言えるような事例ではなく、むしろ672年の壬申の乱の方が、父系では前王権と強いつながりを有していたものの、王権簒奪的性格は強かったのではないか、と考えています。
一方で、古代の皇位継承が「緩やかな男系原理」に基づいていたとしても、当時の皇族で極度の近親婚が盛行していたように、あくまでも社会最上層の特殊な在り様で、社会全体の傾向を反映していなかった可能性は高いように思います。古代の日本社会は、「男系」と「女系」というか、「父系」と「母系」の観点では、父方と母方双方との関係を維持する「双系社会」と考えられています。双系的社会は古代日本に限らず現生人類(Homo sapiens)に広く見られる特徴で、おそらく人類は元々、「父系的」というか、雌が出生集団から離れる父系親族集団を形成していたのでしょうが、現代人につながる系統のある時点で、雌ではなく雄が出生集団から離れるような社会も出現し、出生集団から離れた後でも出生集団とのつながりを維持する、現在見られる柔軟な「双系社会」を形成するようになった、と私は考えています(関連記事)。その意味で、古代の日本社会を、「原始的な母系社会」から「父系社会」へと「発展」する「過渡期」にあった、と評価する見解には同意できません。
現代人社会あるいは記録に見える過去の社会には、「父系」的な事例も「母系」的な事例もありますが、チンギス・ハーンの父系子孫が尊重され、大きな権威を有していたユーラシア草原地帯においても、母方とのつながりの重要性が窺えます(関連記事)。その意味で、「双系社会」が現生人類社会の本質だろう、と私は考えています。アウストラロピテクス属やパラントロプス属やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)については、「父系社会」だったことを強く示唆する知見が得られていますが(関連記事)、現生人類の本質的特徴である「双系社会」が現生人類のみに存在したとは限らず、ネアンデルタール人にも見られた可能性を想定できます。その場合、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の時点で、現代人と通ずるような「双系社会」がすでに出現していたのでしょう。尤も、ネアンデルタール人系統で独自に「双系社会」が出現した可能性も想定されますが、現時点では、ネアンデルタール人が「双系社会」もしくは「母系社会」を築いたことを示唆する直接的証拠は得られておらず、「父系社会」を強く示唆する証拠のみが得られていると思います。
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