中世ハンガリーのアバ一族の起源
古代ゲノムデータに基づく中世ハンガリーのアバ(Aba)一族の起源に関する研究(Varga et al., 2024)が公表されました。本論文は古代ゲノムデータに基づいて、中世ハンガリーにおいてたいへん重要な役割を果たし、広範な領域を支配して、影響力のある人物を輩出したアバ一族の構成員を特定しています。また、アバ一族の父系がモンゴルにまでたどれることや、ハンガリーの貴族およびハンガリー征服時の第一世代の移民上流階層とのアバ一族のつながりも明らかになりました。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
アバ一族は中世ハンガリーにおいてたいへん重要な役割を果たし、広範な領域を支配して、影響力のある人物を輩出しました。アバ一族の政治的中心地だったアバサールのネクロポリス(大規模共同墓地)の遺骸で考古遺伝学的研究が行なわれ、一族の構成員が特定され、その遺伝的起源が調べられました。19個体の全ゲノム配列決定(Whole Genome Sequencing、略してWGS)データと放射性炭素年代測定を用いて、密接な親族関係の結びつきのあるアバ一族の構成員6個体が特定されました。男性4個体は同一のY染色体ハプログループ(YHg)N1a1a1a1a4∼を有しており、本論文の系統発生分析ではこの王族の父系がモンゴルにまでたどれて、ハンガリー人の征服とともにカルパチア盆地へと移住したことが示唆されます。ADMIXTUREと主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とqpAdmを含むゲノム解析は、本論文の系統発生の調査結果と一致するユーラシア東部の遺伝的パターンを明らかにしました。同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)分析は一族の親族関係を確証し、アールパード(Árpád)一族やバートリ(Báthory)一族やコルヴィヌス(Corvinus)一族のような著名なハンガリーの貴族およびハンガリー征服時の第一世代の移民上流階層とのつながりを明らかにしました。以下は本論文の要約図です。
●研究史
過去数十年間、考古学と考古遺伝学との間の強力は、有名な歴史上の人物の遺骸の特定およびその一族の歴史の調査に新たな手段を開いてきました。そうした組み合わされた手法は、リチャード3世の骨格やロマノフ家の構成員の遺骸やストックホルムの創設者であるビルイェル・マグヌソン(Birger Magnusson、ビルイェル・ヤール)の特定を可能としました。この手法は、有名なハンガリー王であるマティアス・コルヴィヌス(Matthias Corvinus、マーチャーシュ1世)の子孫[4]や、中世ヨーロッパ中央部の最も著名な貴族の一つであるバートリ家の構成員の特定にも重要でした。考古遺伝学的手法は、ハンガリーの最初の王族であるアールパード王朝の構成員の特定、およびそのゲノム遺産の分析も容易にしました[9]。したがって、考古遺伝学は先史時代と歴史時代両方の研究に取り組むための貴重な手法となってきました。
アバ一族は中世においてハンガリー北部のヘヴェシュ(Heves)県に広大な領土を有していた、最も著名なハンガリーの貴族の一つでした。アバ一族の民族的起源は、歴史的記録において議論の対象です。現存最古のハンガリーの中世の歴史文書である匿名の『事績(Gesta)』によると、アバ氏族の開祖であるエド(Ed)とエデマン(Edemen)は、ハンガリー征服の絵に現在のロシアで征服ハンガリー人の部族同盟と提携していたクマン人(Cuman)首長でした。その結果、エドとエデマンはアールパード公爵(Prince Árpád)によってハンガリー北部の広大な領土を与えられました。クマン人のみが11世紀半ばにこの地域へと移動したと分かっているので、匿名の文献はアールモシュ(Álmos)家とアールパード家の到来前に暮らしていたこの集団を、時代錯誤的にクマン人と呼んでいいたようです。13世紀の歴史家であるケーザイ・シモン(Simon of Kéza、Kézai Simon)と、その後の14世紀の『彩飾年代記(Chronicon Pictum)』によると、アバ氏族の祖先であるエドとエデマンは、中世ハンガリーの歴史伝統によるとフンのアッティラ大王(Attila, the grand King of Huns)の伝説的な息子であるチャバ(Csaba)の息子でした。最も新しい歴史書である『彩飾年代記』は、アバ一族とアールパード家には直接的な共通祖先であるアッティラの息子チャバがいただろう、と初めて主張しました。現代の歴史家は、クマン人とフン人の起源を東方にたどることができるため、アバ一族の東方起源を提案しています。アバ家系とつながる最も可能性の高い祖先集団は、ハザール・カガン国から分離し、征服の直前にハンガリー人に加わったカバール(Kabar)氏族です。
アバ氏族の名誉ある開祖のアバ・シャームエル(Samuel Aba、Sámuel Aba、990~1044年頃)は当初、1000~1038年に支配したハンガリー最初のキリスト教徒王であるイシュトヴァーン1世(St. Stephen I、István I)に仕えました。シャームエルは初代国王の「義兄弟(sororius)」でした。一つのあり得る説明は、これがシャームエルの地位上昇に起因する、イシュトヴァーン1世の姉妹の1人との結婚を意味していた、というものです。他の可能性は、シャームエルがイシュトヴァーン1世の姉妹の息子、つまり甥だった、というものです。したがって、この結婚と子孫を通じて、アバ一族はアールパード王朝との親族関係を確立しました。シャームエルはその後、ハンガリー王国の3番目の君主(統治は1041~1044)王に即位し、ハンガリー最初の選出された王となりました。シャームエルの社会的および政治的出世は、その一族の推定される顕著な尊い出自に影響を受けたかもしれない、と推測されます。
イシュトヴァーン1世の死後、権力は甥のオルセオロ・ペーテル(Peter Orseolo、Péter Orseolo、ペーテル1世、統治は1038~1041年と1044~1046年)に継承されました。ペーテルは強硬な統治を行ない、外国の貴族を重要な地位に任命し、ハンガリーの民衆の間で不満が出ました。その結果、1041年に反乱が勃発し、ペーテル1世は廃位し、その後で反逆者に大きな影響力を有しているシャームエル・アバが即位しました。しかし、シャームエル・アバの統治は短命でした。内外の敵との戦いの3年後、シャームエル・アバは1044年にメーンフェー(Ménfő)の戦いで、ドイツの君主ハインリヒ3世(Henrik III、Heinrich III)に支持された王位請求者ペーテル1世と対決し、死亡しました。
シャームエル王の遺骸は、10世紀後半と11世紀前半にアバ氏族の政治的拠点だったアバサールにシャームエル王が設立した教会の完成まで、一時的に埋葬されました。その数年後、シャームエル王の遺骸は掘り起こされ、アバサールの教会に安置されました。シャームエル王の没落にも関わらず、アバ一族家の存在は中世ハンガリーの政治情勢において存続しました。11世紀と12世紀の歴史的記録にはアバ一族についての情報が欠けていますが、13世紀以降の歴史的記録では、アバ一族の名前は文献に定期的に見えます。この時までに、アバ氏族は数十の一族に分裂しており、そのうち一部は王国内で広範な領土を有していました。アバ一族は13世紀~15世紀において、高官および寡頭政治の支配者としてさえ、政治的影響力を振るいました。
アバサールはアバ氏族にとっての重要な政治的中心地としての地位を維持し、多くの子孫の永眠地として機能した、と推定されます。ハンガリーの年代記によると、アバサールの修道院はシャームエル・アバによって11世紀前半に資金提供されましたが、1261年にベーラ4世(Béla IV)によって発行された免状で初めて記録されました。その後の数世紀には、この修道院とその領地は、ナナイ・コンポルティ(Nánai Kompolti)やチョバーンカ(Csobánka)やウグライ(Ugrai)の一族および他のハンガリー貴族など、氏族のさまざまな支族の間で多くの所有権の争いの対象となりました。14世紀末までにこの修道院の重要性は高まり、それは、アバサールの大修道院長がローマ教皇ボニファティウス9世(Popes Boniface IX)およびグレゴリウス12世(Gregory XII)の勅書で12回言及されたからです。17世紀には、この修道院の領地は何回かの所有権論争に巻き込まれ、その後、この修道院は記録から消え、時間の経過とともに衰退しました。
2020~2022年に、ハンガリー研究所考古学部門がハンガリー北部のアバサール・ボルト=テテェー(Abasár Bolt-tető)遺跡で発掘を行ない、シャームエル・アバによっておもに設立された教会の遺構を明らかにしました(図1A・B)。この発掘では、教会の存在のさまざまな段階が明らかになり、建設と修復と破壊の事実の証拠が得られました。王墓は特定できませんでしたが、アバ一族の著名な構成員に属する墓が教会建物内で発見されました。聖壇では、石蓋のある発掘された墓1基(図1C)はアバ一族の紋章の彫刻が特徴です(図1D)。石蓋の縁の碑文から、アバ氏族の2個体ヤーノシュ(János)およびミハーイ(Mihály)が15世紀初期に安置された、と明らかになりました。アバ一族のさまざまな支族が13~14世紀にヘヴェシュ県の広範な領域を支配しており、上述のように、中世の免状によると、この修道院はアバ氏族の少なくとも3系統の異なる支族に属していました。したがって、この2個体が正確にはどの支族に属していたのか、不明です。さらに、二重墓が教会建物の幾何学的中心で発見され、その石蓋もアバ氏族紋章で飾られていました(図1E)。聖壇内で2基以上の墓が発見され(図1F)、合計で少なくとも5ヶ所の著名な埋葬が見つかり、これらは明らかに重要な一族の構成員に属していました。これらの墓では複数の骨格が複数の層で発見されたので、一部の事例では、考古学的手法のみでは著名な個体の特定が困難でした。考古学的調査結果の詳細は、「STAR Methods」の説明を参照してください。以下は本論文の図1です。
王墓と王の遺骸は特定できませんでしたが、教会内に埋葬された個体群の考古遺伝学的分析は、中世ハンガリーの最も影響力のある王朝の一つの遺伝的起源の調査にとって、比類のない機会を提供しました。アルパード一族の父系が以前に特定されたので[9]、アルパード一族がアバ一族と同じ父系を共有していたのかどうか、判断する機会も得られました。アバ一族と、バートリ一族やコルヴィヌス一族など中世ハンガリーの他の著名な貴族の家系の構成員との間のつながりの可能性も調査できました。本論文では、一族の構成員を特定し、その親族関係を確証し、アバ一族の父系の系統的つながりを分析するための、考古学と遺伝学の方法論の組み合わせを用いて、考古遺伝学的調査の結果が提示されます。本論文ではさらに、最先端のゲノム解析技術を用いて、その祖先の遺産を示します。
●アバサールの中世のゲノムデータセット
中世の慣行のため、王と著名な人物は教会の範囲内に埋葬されました。したがって、建物内で発掘されたすべての頭蓋から標本が収集されました。複数の埋葬が聖壇内の目立つ墓と教会の幾何学的中心で発見されましたが、慎重な分析を通じて、アバ一族の構成員かもしれないおもな墓を特定できました。これらの目立つ遺骸は本論文では、HUAS55B、HUAS57、HUAS581、HUAS59B、HUAS261、HUAS262と呼ばれます。発掘と考古学的発見の包括的説明については、「STAR Methods」を参照してください。
アバサールの屋内の合計38個体の遺骸からのDNA抽出に成功しました。二本鎖配列決定ライブラリが構築され、部分的なウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理が組み込まれました。アバサールの標本19点のライブラリは品質基準を満たし、配列決定されて平均ゲノム網羅率1.6倍(0.5~3.11倍)に達しました。観察された死後損傷(postmortem damage、略してPMD)比は、古代DNAの一般的パターンと一致しました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)における汚染と男性のX染色体上の多型部位の異型接合性についての厳格な検定は、本論文のデータセットにおける最小水準の汚染を明らかにしました。先行研究の遺伝的性別推定の適用によって、遺骸2個体が遺伝的に女性だった一方で、残りの標本は男性と決定的に判断されました(補足表S1)。DNA抽出とライブラリの準備と配列決定とPMDと汚染と性別判断のより詳細な情報も、補足表S1に提供されています。
9点の骨格の放射性炭素分析から、アバサール遺跡の期間は12~15世紀の範囲と年代測定されました(表1)。この分析は、歴史的およびおもに考古学的データを裏づけ、埋葬がハンガリーの中世王国期に帰属する可能性を確証します。具体的には、石で覆われた墓の注目される3個体の年代は13世紀後半~14世紀末で、埋葬が15世紀のごく初期に行なわれたことを示唆する、石蓋に刻まれたおおよその年代とほぼ一致します。しかし、本論文の後述の標本で示されるように、放射性炭素年代測定は一般的に、連続する2世代間を正確に区別するのに必要な精度が欠けています。
●親族関係分析
アバサール・ボルト=テテェー遺跡はアバ氏族の家族墓地と考えられていたので、査対象の個体間の親族関係や調同一の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)ハプロタイプの発見が予想されました。correctKinを用いての親族関係分析によって、片親性遺伝標識データによってさらに裏づけられるいくつかの家族のつながりが明らかになりました。二つの小家族が上述の目立つ墓から特定され、一方は4個体(HUAS55B、HUAS59B、HUAS57、HUAS581)、もう一方は2個体(HUAS261、HUAS262)から構成されます。
女性1個体と男性3個体を含む家族が、教会の聖壇から発掘されました。男性2個体(HUAS57、HUAS581)は5親等の親族と分かりました。注目すべきことに、これらは彫刻された石蓋のある墓(図1C)から発掘され、その碑文はアバ氏族の重要な男性2個体の構成員が埋葬された、と示しています。同じ家族の他の構成員、つまり男性のHUAS55Bと女性のHUAS59Bは聖壇の2基の発見された墓から発掘され(図1F)、同一のミトコンドリアハプロタイプを有する相互の1親等の親族と分かりました。女性個体HUAS59Bが、碑文のある墓の、個体HUAS57とは3親等の親族、個体HUAS581とは4親等の親族だったのに対して、男性個体HUAS55Bは個体HUAS57の4親等の親族で、個体HUAS581との関係は、5親等を超えていたので判断できませんでした。個体HUAS55BおよびHUAS59Bは、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)でも確証されたように明らかに母親と息子の関係で、それは、この2個体が相互とゲノムの全体長の3477 cM(センチモルガン)を共有していたからです。この家族の再構築された妥当な家系図については、図S1を参照してください。
教会の幾何学的中心の目立つ石蓋のある二重墓(図1E)で見つかった親族関係にある他の男性2個体(HUAS261、HUAS262)は、3親等の親族と判断されました。石蓋のある装飾墓から発掘さされた4個体全員が、同じY染色体ハプログループ(YHg)N1a1a1a1a4∼を共有していたことは注目に値し、同じ拡大家族もしくは氏族の2支族がこの墓地で特定されたことを示唆します。その後のIBD分析では、この2家族はじっさいに同じ拡大家族の2支族だった、と確証されました。
●アバ一族父系の系統的つながり
拡大アバ一族の男性5個体のうち4個体は同じYHg-N1a1a1a1a4~を有していました。本論文の包括的分析は、YHg-N1a1a1a1a4~の多様な系統的つながりと、その下位系統を明らかにしました(図2)。遺伝子系譜学国際協会(International Society of Genetic Genealogy、略してISOGG)2020年版の遺伝子標識でYleafソフトウェアを活用し、アバ一族の系統はYHg-N1a1a1a1a4a2~(A9408)内の下位系統に分類でき、例外は標本HUAS57で、YHg-N1a1a1a1a4a2~のA9408遺伝子標識上の網羅が欠けていました。注目すべきことにもハンガリー人を征服した上流階層2個体も、モンゴルのアル・グント(Ar Gunt)遺跡の未刊行の匈奴上流階層の1個体(AG6F)とともに、この同じ下位系統のYHgを共有していました。これは、征服者とともにカルパチア盆地に到来した系統について、モンゴル起源を示唆します。以下は本論文の図2です。
Yfullデータベースの遺伝子標識および現代人のデータで本論文の分析を強化することによって、古代人標本を系統樹のより深い支系内に位置づけることができました。YHg-N1a1a1a1a4a2~(A9408)は東西の支系に二分します。東方の支系N-Y70200は現代の中国と韓国の個体群に存在し、未刊行の匈奴の標本はこの下位支系に割り当てられます。西方の支系N-PH1612はおもにヨーロッパ人で見つかり、YHg-N-A9407の後で、さらにN-PH1896とN-A9416の下位2支系に分岐します。征服者の標本は、同時代のトルコの1個体およびハンガリーの2個体とともに、N-PH1896とN-A9407に属します。アバ一族の系統は、現代のクロアチアの男性1個体とともに、N-A9416に割り当てられました。N-A9416の下位YHgは、ハンガリー人とチュヴァシ人とブルガリア人それぞれ1個体にも存在します。
YHg-N1a1a1a1a4a~の最初の同定は、後期青銅器時代となる石板墓(Slab Grave)文化のモンゴルの1個体にさかのぼります[29]。現時点で、YHg-N1a1a1a1a4a~はヤクート人(Yakut)男性において最高の割合を示し、エヴェンキ人(Evenk)およびエヴェン人(Even)でとくに一般的です。これらの調査結果は、内陸アジアにおける起源を強く示唆します。本論文の系統樹はこの話をさらに裏づけ、下位支系のN-PH1612はハンガリー人の征服を含めて中世の移動によってヨーロッパとハンガリーに到来した、と明らかにします。
●墓地の片親性遺伝標識ハプログループと系統的つながり
アバサールのミトコンドリアゲノムは高い異質性を示し、18系統の異なるハプロタイプが決定されました(補足表S1C)。個体HUAS55BおよびHUAS59Bは同じR0bハプロタイプに属し、親族関係分析の結果と一致します。未刊行系統のほとんど(14/18)はカルパチア盆地の選好する人口集団で検出されてきており[32]、いくつかの系統はバートリ一族の中世後期ハンガリー人上流階層墓地に存在しました。刊行されている全ミトコンドリアゲノムデータベースとの比較に基づくと、8系統は近東(H13a1d、R0b、T2)および/もしくは草原地帯(H28、T1a1、I1b、HV14a、J1c5a)起源の可能性が高そうですが、残りはヨーロッパ起源の可能性が最も高そうです。
家族墓地の事例で予測されたように、YHgはずっと少ない多様性を示しました。男性17個体のうち、ISOGGのY染色体系統樹の13の下位支系が存在しました。YHg-N1a1a1a1a4~の王族に属する個体群に加えて、異なるYHgのI1~・I2~・R1a1a1b1~・R1a1a1b2~・R1b~系統が単一の個体群に存在した一方で、1組はYHg-R1a1a1b1a2b3a3a2g2~でした。ミトコンドリア系統と同様に、Y染色体系統のほとんど(12/17)はヨーロッパ起源でした。その系統のうちかなりの数(7/17)はカルパチア盆地の以前の期間で検出され、いくつかの系統は同時代のハンガリー上流階層において高頻度でした[32]。王室系統の他に、明らかなアジア起源の唯一のYHg-R1a1a1b2a2a3c2~が検出されました。この系統はYHg-R1aのアジアの支系、具体的にはシンタシュタ(Sintashta)文化およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化の人々において中期~後期青銅器時代に出現した、R1a1a1b2a2a~(Z2125)に属しています。この系統はスキタイ人とその子孫集団に広がりました[34~36]。アバサールで見られる下位YHgはフン人標本で検出されており[37]、その下位YHgはカルパチア盆地のフン人およびアヴァール人において高頻度でした[32]。この系統はパジリク(Pazyryk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)や康居(Kangju)の人々でも見つかりました[38]。現在、YHg-R1a1a1b2a2a3c2~はおもにユーラシア東部および中央部の男性で観察され、ロシアのタタール人ではより高頻度です。
●アバサール遺跡以外のゲノムの遺産
片親性遺伝標識の分析はアバ氏族のアジア内陸部と東部の父系起源を明らかにしましたが、これらの祖先のつながりがゲノム内でも認識できるのかどうか、との問題が提起されます。この問題に取り組むため、ADMIXTUREと主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とqpAdmの検出力を活用して、ゲノム解析が実行されました。
K(系統構成要素数)=7でのADMIXTURE分析は、アバサール集団と中世初期ドイツおよびスロバキアのゲルマン人集団との間の、驚くほど類似したゲノム構成要素パターンを明らかにしました。さらに、征服期の庶民(村落)墓地のハンガリー人標本は、顕著に類似した遺伝的特性を示しました(図3)。アバサール集団のゲノムはそれぞれ、0~3.5%のガナサン人(Nganasan)、6~11%のヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter-Gatherer、略してWHG)、38~45%のヨーロッパ新石器時代農耕民、0~3.5%のシェ人(She)、0~9%のイラン新石器時代集団、3.5~13%の前期青銅器時代ユーラシア西部集団、29~39%の古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)と関連するゲノム構成要素で構成されています。ユーラシア東部人(ガナサン人とシェ人)的な構成要素は、少ない東方祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の存在を示唆しています。以下は論文の図3です。
ヨーロッパ人のPCA(図4)では、標本の大半はともにクラスタ化し(まとまり)、ヨーロッパ中央部の人口集団群から分離し、征服したハンガリー人の方へと動いており、一部の外れ値は現在のハンガリー人の分散内に収まります。アバサール遺跡クラスタはアールパード王朝個体群のゲノムや、中世後期のハンガリーおよびポーランドの著名な王朝であるバートリ一族の2王朝の個体群と重なります。注目すべきことに、アバサール遺跡クラスタはペリチェイ(Pericei)のバートリ一族の墓地の他の標本と重なります。アバサール・ボルト=テテェー遺跡とペリチェイ墓地は貴族の墓地と考えられているので、この観察は中世ハンガリー貴族層の特徴的で均一なゲノム組成を示唆しています。ユーラシア人のPCAでは、アバサール集団も現代ヨーロッパ人と比較と手顕著な東方への遺伝的移動を示しました。さらに、ほとんどの標本は9~11世紀の征服ハンガリー人の遺伝的勾配と重なりました(図4)。ADMIXTUREとPCA両方の調査結果は、アバサール集団のゲノムの東方とのつながりを強調し、カルパチア盆地への草原地帯からの移民のその後の流入と関連しているかもしれません。以下は本論文の図4です。
アバサール標本におけるアジア人のゲノム要素の妥当な供給源を特定するため、qpAdm分析が実行されました。左側の人口集団一覧では、カルパチア盆地とヨーロッパ中央部の同時代およびそれ以前の中世人口集団が含められ、前者はコーカサス北部のアナパ(Anapa)遺跡の中世の1集団、後者は中世のカルパチア盆地の東方からの移民集団です。「基礎モデル戦略」の実行によって、ほぼ全ての標本について、数十もの妥当な2供給源モデルが得られました(図5)。以下は本論文の図5です。
標本2点(HUAS257、HUAS450)は単一のヨーロッパ人供給源でモデル化でき、ゲルマンもしくはカルパチア盆地供給源とクレード(単系統群)を形成し、他の2個体(HUAS261、HUAS55B)は主要なヨーロッパ人供給源と少数のアジア人供給源の混合として明らかにモデル化できます。他の全標本では、qpAdmはADMIXTUREとPCAの結果を補助して、ヨーロッパとさまざまな東方供給源の混合を示唆しました。類似のp値を有するこれらのゲノムの怒涛なモデルは、単一供給源の説明を裏づけたか、アジア(フン人、アヴァール人、征服ハンガリー人)および/もしくはコーカサス起源の有意な少数の構成要素を特定しました。これらのゲノムにおけるアジア人祖先系統の平均割合の範囲は、4.3~10.4%でした。
●共有IBD分析
より詳細な規模でアバサール個体群の遺伝的関係を特定するため、ゲノム補完が活用され、ancIBDを用いてIBD分析が実行されました。先行研究[32]で刊行されたアバサール個体群とフン人やアヴァール人や征服ハンガリー人のゲノム間で、8cM以上の共有IBD断片が特定されました。ペリチェイ個体群やコルヴィヌス一族[4]やアールパード一族など、ハンガリーの追加の中世標本とのIBD共有も検証されました。図6のIBD図では、アバサール標本と10cMの最小累積IBD長の他の標本との間で検出された全てのIBDのつながりが示されています。以下は本論文の図6です。
まず、IBD図は家族のパターンを明確に示しており、家族の組み合わせ間で共有されたIBDの累積長は、correctKinによって測定された系図上の近縁性と密接に一致します。注目すべきことに、この分析は二つの異なる家族の構成員間の共有IBDの顕著な量を明らかにしており、そうした構成員間の約6~7親等の関係を示唆しています。これは、単一の拡大家族もしくは氏族内の二つの支系の特定を強調します。さらに、この二つの家族との遠い親族として、追加のアバサール遺骸の標本2点(HUAS390、HUAS82)が特定され、アバ氏族の遠い親族関係にある支系も教会内に埋葬された、と示唆されます。この観察は、13~15世紀における修道院を治めていたアバ氏族の少なくとも3支系を記録している歴史的データと一致します。
重要なことに、共有IBDに基づくと、これらの一族は、コルヴィヌス一族[4]やバートリ一族を含めて、中世および近世ハンガリーの貴族の家系と遠いつながりを示します。一部のアバサール標本とアールパード王朝の構成員との間の共有IBDは、この二つの一族間の少なくとも1回の結婚を述べている歴史的記録と一致します。さらに、アバサール遺跡で発掘されたさまざまな標本は、さまざまな貴族の個体とはIBDを共有しているものの、上述のアバ一族とは共有しておらず、ハンガリー王国の他の貴族との協力関係を示唆しています。
ハンガリー征服の上流階層の移民の中核とのIBDのつながり[32]から、アバ一族の征服者との遺伝的関係はカルパチア盆地におけるハンガリー人の定住に先行する、と示唆されます。この結論は、本論文の系統的調査の結果と一致し、少数の東方ゲノム構成要素が征服ハンガリー人に由来することを決定的に確証します。
●考察
シャームエル・アバを含めて中世ハンガリーの諸王は、キリスト教君主の慣行に従って、伝統的に教会に埋葬されました。中世ハンガリーの支配者のほぼ半分はその最終的な安息地を、イシュトヴァーン1世によって創立されたセーケシュフェヘールヴァール(Székesfehérvár)大聖堂の冠状大聖堂内としましたが、他の王は個人的に設立したか、葬儀の目的で改修した教会に埋葬されました。残念ながら、経時的な荒廃は、これらの教会の破壊につながり、多くの王の墓が失われました。1848年に発見されたベーラ3世(Béla III)の無傷の埋葬は、稀な例外でした。ハンガリーの年代記によると、シャームエル・アバは自身が設立したアバサールの修道院に埋葬されました。しかし、シャームエル・アバの埋葬地と関連する協会は何世紀も経て消滅し、アバサール・ボルト=テテェー遺跡は最も可能性の高い場所として特定されました。新たな発掘の考古学的調査結果は、これがシャームエル・アバ王の修道院だったことを確証する、さらなる証拠を提供しました。
教会内の石の墓では、ヒト遺骸が主要な解剖学的順序で発見されました。いくつかの墓には一次的および二次的な位置の両方に並べられた複数の骨格が含まれており、世代にわたって継続的に墓が再利用されたことを示唆します。骨格の納骨堂的な配置の事例は、多くの遺骸が掘り起こされ、その後に、おそらくは再建や改築作業や墓泥棒や伝染病もしくは戦争に起因する集団墓地埋葬の期間に、まとめて共同墓地に埋葬された事象を示唆しました。この破壊の部分は1241~1242年のモンゴルの侵入と関連している可能性が高く、それは、この遺跡がキリスト教の教会を荒らし、墓を略奪すると知られていた【こうしたモンゴル軍の悪評は、ヨーロッパ世界では誇張されている側面もありそうですが】、タタール軍の進軍経路沿いに位置しているからです。したがって、考古学的調査では、シャームエル・アバの王室の埋葬を正確に特定するのは困難でした。
王の墓の場所を特定できませんでしたが、発掘によって教会内の著名な一族の構成員の埋葬が明らかになり、アバ一族の歴史におけるこの境界の持続的重要性が強調されます。すべて石蓋で装飾されており、アバ氏族の紋章を刻んだ二重墓1基と単一墓1基が発見されました。聖壇の墓には、15世紀のアバ一族の構成員であるヤーノシュとミハーイの埋葬を示唆する碑文があり、アバサールの修道院を含めて、現在のハンガリーのヘヴェシュ県の広大な領土が、コンポルティやウグライやチョバーンカを含めて、アバ氏族のさまざまな支族によって所有されていた、とする歴史的記録と一致します。これら目立つ墓の男性4個体は同じYHgを共有しており、アバ一族の2支系を表している可能性が高そうです。共有IBD分析の結果では、一方の大家族の2支系がこれらの墓で発見され、これらの個体は、他のハンガリーの貴族と拡大親族関係網を有していたので明らかに貴族だった、と確証されました。したがって、考古学および考古遺伝学のデータから、アバ氏族がアバサール・ボルト=テテェー遺跡で特定された、と示唆され、これらの結果は歴史的記録と一致します。
本論文のIBD分析は、中世ハンガリー貴族間の動的なつながりを明らかにし、それは文献で知られているものと、以前には知られていなかったものの両方です。結婚を介しての関係は、アバ一族とアールパード一族との間の歴史的記録さで示唆されていましたが、アバ一族とバートリ一族の関係、またアバ一族とコルヴィヌス一族の関係おいてデータが不足しています。それにも関わらず、これら著名なハンガリーの一族すべての間の系図のつながりが検出され、特定されたつながりがこれら一族間の直接的もしくは間接的な結婚であると定義できないとしても、頻繁な結婚関係の存在を示唆しています。この結果は、アバ一族と征服ハンガリー人第1世代の移民の中核との間の直接的つながりも明らかにしており、このつながりが征服期に先行することを示唆しています。それは、アバ一族の祖先が放浪し征服したハンガリー人部族の構成員だったことを示唆しており、同様に系統的つながりの結果と一致します。
アバ一族の民族的起源について、歴史資料はフン人とクマン人の起源を提案してきましたが、歴史家の間での優勢な総意は、ハザール人(Khazar)もしくはカバル人(Kabar)の祖先や、直接的な征服者貴族を支持する傾向にあります。本論文の系統的結果では、アバ一族の父系はアジア内陸部起源のYHg-N1a1a1a1a4~に属する、と明らかになります。これは、フン人やクマン人やカバル人やハザール人の集団とのつながり可能性と一致します。しかし、アバ一族の父系のより深く特徴づけられた下位YHgであるN-A9416はヨーロッパ東部で確認されたN-PH1612下位系統に属しており、このYHgの保有者の大半は現在のハンガリーに位置しています。最古級の標本には、征服ハンガリー人の上流階層2個体が含まれています。注目すべきことに、YHg-N1a1a1a1a4~の追加の征服者標本2点が特定されました。しかし、その後、これらの個体は本論文の分析から除外され、それは、これらの標本のYHg決定が混成に基づく増幅産物配列決定手法に依拠しており、この手法は内部の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)標識についての情報を欠いていたからです。すべての利用可能なデータを広陵すると、本論文の結果は、アバ一族の父系の征服ハンガリー人における上流階層父系との関連を強く裏づけます。アバ一族の父系祖先は、征服ハンガリー人部族の高位個体の1人を含んでいるかもしれません。
ハンガリーの年代記では、アバ一族とアールパード一族の両方が、フン帝国の大王であるアッティラの子孫と特定されています。これは、この2氏族の父系が同じであることを示唆しているのでしょう。アールパード一族の父系YHg-R1aが以前に特定されたので、アバ一族で特定された父系と一致せず、今ではこの可能性を決定的に除外できます。それにも関わらず、どちらかの王室の家系【アバ一族とアールパード一族】がアッティラの子孫であるとの証明されていない主張が存続しています。詳細なWGSデータはねアールパード一族の父系祖先がユーラシア東部起源と明らかにし、フン人とのつながりの可能性があります。本論文では、アバ一族もフン/匈奴との系統的つながりが論証され、両一族【アバ一族とアールパード一族】はこの尊重される系図の信頼できる候補です。
ゲノム水準の分析は、片親性遺伝標識のデータと一致します。ADMIXTUREとPCAの分析は両方とも、調査対象の中世の個体群におけるわずかなアジア人祖先系統を示唆しました。qpAdm分析も、アバサール個体群のゲノムの大半における注目に値するわずかなアジア東部構成要素を特定しましたが、この構成要素の低い割合のため、このログラムでは正確な起源を特定できませんでした。潜在的な供給源にはフン人やアヴァール人や征服ハンガリー人が含まれますが、IBDの結果から、わずかなアジア人構成要素は征服ハンガリー人に由来する可能性が高い、と提案されます。要約すると、すべての遺伝学的結果は一貫して、アバ一族が征服ハンガリー人の部族上流階層の1部族の子孫だったひとを示しています。
●この研究の限界
集団遺伝学的分析は、利用可能な参照ゲノムによって制約されます。さらに、その主要なヨーロッパ人構成要素に加えて、調査されたゲノムにはごく少ない構成要素(アジアとコーカサス)が含まれており、その構成要素の正確な特定は、利用可能な手法では不可能です。本論文は、アバ一族全体もしくはより広範な人口集団の完全な代表ではないかもしれない、19個体の遺骸に基づいています。限定的な標本規模は、偏りや過度な一般化につながるかもしれません。放射性炭素年代測定には、固有の不確実性があります。較正誤差もしくは貯蔵効果が、遺骸について確立された年表の正確さに影響を及ぼすかもしれません。発見されたユーラシア東部の遺伝的パターンは、ハンガリーの征服移住の範囲を超えた、複雑な混合事象を反映しているかもしれません。現代の人口集団や他の歴史上の人物との遺伝的比較は、同時代の遺伝的データの利用可能性と品質によって制約されるかもしれません。
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●要約
アバ一族は中世ハンガリーにおいてたいへん重要な役割を果たし、広範な領域を支配して、影響力のある人物を輩出しました。アバ一族の政治的中心地だったアバサールのネクロポリス(大規模共同墓地)の遺骸で考古遺伝学的研究が行なわれ、一族の構成員が特定され、その遺伝的起源が調べられました。19個体の全ゲノム配列決定(Whole Genome Sequencing、略してWGS)データと放射性炭素年代測定を用いて、密接な親族関係の結びつきのあるアバ一族の構成員6個体が特定されました。男性4個体は同一のY染色体ハプログループ(YHg)N1a1a1a1a4∼を有しており、本論文の系統発生分析ではこの王族の父系がモンゴルにまでたどれて、ハンガリー人の征服とともにカルパチア盆地へと移住したことが示唆されます。ADMIXTUREと主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とqpAdmを含むゲノム解析は、本論文の系統発生の調査結果と一致するユーラシア東部の遺伝的パターンを明らかにしました。同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)分析は一族の親族関係を確証し、アールパード(Árpád)一族やバートリ(Báthory)一族やコルヴィヌス(Corvinus)一族のような著名なハンガリーの貴族およびハンガリー征服時の第一世代の移民上流階層とのつながりを明らかにしました。以下は本論文の要約図です。
●研究史
過去数十年間、考古学と考古遺伝学との間の強力は、有名な歴史上の人物の遺骸の特定およびその一族の歴史の調査に新たな手段を開いてきました。そうした組み合わされた手法は、リチャード3世の骨格やロマノフ家の構成員の遺骸やストックホルムの創設者であるビルイェル・マグヌソン(Birger Magnusson、ビルイェル・ヤール)の特定を可能としました。この手法は、有名なハンガリー王であるマティアス・コルヴィヌス(Matthias Corvinus、マーチャーシュ1世)の子孫[4]や、中世ヨーロッパ中央部の最も著名な貴族の一つであるバートリ家の構成員の特定にも重要でした。考古遺伝学的手法は、ハンガリーの最初の王族であるアールパード王朝の構成員の特定、およびそのゲノム遺産の分析も容易にしました[9]。したがって、考古遺伝学は先史時代と歴史時代両方の研究に取り組むための貴重な手法となってきました。
アバ一族は中世においてハンガリー北部のヘヴェシュ(Heves)県に広大な領土を有していた、最も著名なハンガリーの貴族の一つでした。アバ一族の民族的起源は、歴史的記録において議論の対象です。現存最古のハンガリーの中世の歴史文書である匿名の『事績(Gesta)』によると、アバ氏族の開祖であるエド(Ed)とエデマン(Edemen)は、ハンガリー征服の絵に現在のロシアで征服ハンガリー人の部族同盟と提携していたクマン人(Cuman)首長でした。その結果、エドとエデマンはアールパード公爵(Prince Árpád)によってハンガリー北部の広大な領土を与えられました。クマン人のみが11世紀半ばにこの地域へと移動したと分かっているので、匿名の文献はアールモシュ(Álmos)家とアールパード家の到来前に暮らしていたこの集団を、時代錯誤的にクマン人と呼んでいいたようです。13世紀の歴史家であるケーザイ・シモン(Simon of Kéza、Kézai Simon)と、その後の14世紀の『彩飾年代記(Chronicon Pictum)』によると、アバ氏族の祖先であるエドとエデマンは、中世ハンガリーの歴史伝統によるとフンのアッティラ大王(Attila, the grand King of Huns)の伝説的な息子であるチャバ(Csaba)の息子でした。最も新しい歴史書である『彩飾年代記』は、アバ一族とアールパード家には直接的な共通祖先であるアッティラの息子チャバがいただろう、と初めて主張しました。現代の歴史家は、クマン人とフン人の起源を東方にたどることができるため、アバ一族の東方起源を提案しています。アバ家系とつながる最も可能性の高い祖先集団は、ハザール・カガン国から分離し、征服の直前にハンガリー人に加わったカバール(Kabar)氏族です。
アバ氏族の名誉ある開祖のアバ・シャームエル(Samuel Aba、Sámuel Aba、990~1044年頃)は当初、1000~1038年に支配したハンガリー最初のキリスト教徒王であるイシュトヴァーン1世(St. Stephen I、István I)に仕えました。シャームエルは初代国王の「義兄弟(sororius)」でした。一つのあり得る説明は、これがシャームエルの地位上昇に起因する、イシュトヴァーン1世の姉妹の1人との結婚を意味していた、というものです。他の可能性は、シャームエルがイシュトヴァーン1世の姉妹の息子、つまり甥だった、というものです。したがって、この結婚と子孫を通じて、アバ一族はアールパード王朝との親族関係を確立しました。シャームエルはその後、ハンガリー王国の3番目の君主(統治は1041~1044)王に即位し、ハンガリー最初の選出された王となりました。シャームエルの社会的および政治的出世は、その一族の推定される顕著な尊い出自に影響を受けたかもしれない、と推測されます。
イシュトヴァーン1世の死後、権力は甥のオルセオロ・ペーテル(Peter Orseolo、Péter Orseolo、ペーテル1世、統治は1038~1041年と1044~1046年)に継承されました。ペーテルは強硬な統治を行ない、外国の貴族を重要な地位に任命し、ハンガリーの民衆の間で不満が出ました。その結果、1041年に反乱が勃発し、ペーテル1世は廃位し、その後で反逆者に大きな影響力を有しているシャームエル・アバが即位しました。しかし、シャームエル・アバの統治は短命でした。内外の敵との戦いの3年後、シャームエル・アバは1044年にメーンフェー(Ménfő)の戦いで、ドイツの君主ハインリヒ3世(Henrik III、Heinrich III)に支持された王位請求者ペーテル1世と対決し、死亡しました。
シャームエル王の遺骸は、10世紀後半と11世紀前半にアバ氏族の政治的拠点だったアバサールにシャームエル王が設立した教会の完成まで、一時的に埋葬されました。その数年後、シャームエル王の遺骸は掘り起こされ、アバサールの教会に安置されました。シャームエル王の没落にも関わらず、アバ一族家の存在は中世ハンガリーの政治情勢において存続しました。11世紀と12世紀の歴史的記録にはアバ一族についての情報が欠けていますが、13世紀以降の歴史的記録では、アバ一族の名前は文献に定期的に見えます。この時までに、アバ氏族は数十の一族に分裂しており、そのうち一部は王国内で広範な領土を有していました。アバ一族は13世紀~15世紀において、高官および寡頭政治の支配者としてさえ、政治的影響力を振るいました。
アバサールはアバ氏族にとっての重要な政治的中心地としての地位を維持し、多くの子孫の永眠地として機能した、と推定されます。ハンガリーの年代記によると、アバサールの修道院はシャームエル・アバによって11世紀前半に資金提供されましたが、1261年にベーラ4世(Béla IV)によって発行された免状で初めて記録されました。その後の数世紀には、この修道院とその領地は、ナナイ・コンポルティ(Nánai Kompolti)やチョバーンカ(Csobánka)やウグライ(Ugrai)の一族および他のハンガリー貴族など、氏族のさまざまな支族の間で多くの所有権の争いの対象となりました。14世紀末までにこの修道院の重要性は高まり、それは、アバサールの大修道院長がローマ教皇ボニファティウス9世(Popes Boniface IX)およびグレゴリウス12世(Gregory XII)の勅書で12回言及されたからです。17世紀には、この修道院の領地は何回かの所有権論争に巻き込まれ、その後、この修道院は記録から消え、時間の経過とともに衰退しました。
2020~2022年に、ハンガリー研究所考古学部門がハンガリー北部のアバサール・ボルト=テテェー(Abasár Bolt-tető)遺跡で発掘を行ない、シャームエル・アバによっておもに設立された教会の遺構を明らかにしました(図1A・B)。この発掘では、教会の存在のさまざまな段階が明らかになり、建設と修復と破壊の事実の証拠が得られました。王墓は特定できませんでしたが、アバ一族の著名な構成員に属する墓が教会建物内で発見されました。聖壇では、石蓋のある発掘された墓1基(図1C)はアバ一族の紋章の彫刻が特徴です(図1D)。石蓋の縁の碑文から、アバ氏族の2個体ヤーノシュ(János)およびミハーイ(Mihály)が15世紀初期に安置された、と明らかになりました。アバ一族のさまざまな支族が13~14世紀にヘヴェシュ県の広範な領域を支配しており、上述のように、中世の免状によると、この修道院はアバ氏族の少なくとも3系統の異なる支族に属していました。したがって、この2個体が正確にはどの支族に属していたのか、不明です。さらに、二重墓が教会建物の幾何学的中心で発見され、その石蓋もアバ氏族紋章で飾られていました(図1E)。聖壇内で2基以上の墓が発見され(図1F)、合計で少なくとも5ヶ所の著名な埋葬が見つかり、これらは明らかに重要な一族の構成員に属していました。これらの墓では複数の骨格が複数の層で発見されたので、一部の事例では、考古学的手法のみでは著名な個体の特定が困難でした。考古学的調査結果の詳細は、「STAR Methods」の説明を参照してください。以下は本論文の図1です。
王墓と王の遺骸は特定できませんでしたが、教会内に埋葬された個体群の考古遺伝学的分析は、中世ハンガリーの最も影響力のある王朝の一つの遺伝的起源の調査にとって、比類のない機会を提供しました。アルパード一族の父系が以前に特定されたので[9]、アルパード一族がアバ一族と同じ父系を共有していたのかどうか、判断する機会も得られました。アバ一族と、バートリ一族やコルヴィヌス一族など中世ハンガリーの他の著名な貴族の家系の構成員との間のつながりの可能性も調査できました。本論文では、一族の構成員を特定し、その親族関係を確証し、アバ一族の父系の系統的つながりを分析するための、考古学と遺伝学の方法論の組み合わせを用いて、考古遺伝学的調査の結果が提示されます。本論文ではさらに、最先端のゲノム解析技術を用いて、その祖先の遺産を示します。
●アバサールの中世のゲノムデータセット
中世の慣行のため、王と著名な人物は教会の範囲内に埋葬されました。したがって、建物内で発掘されたすべての頭蓋から標本が収集されました。複数の埋葬が聖壇内の目立つ墓と教会の幾何学的中心で発見されましたが、慎重な分析を通じて、アバ一族の構成員かもしれないおもな墓を特定できました。これらの目立つ遺骸は本論文では、HUAS55B、HUAS57、HUAS581、HUAS59B、HUAS261、HUAS262と呼ばれます。発掘と考古学的発見の包括的説明については、「STAR Methods」を参照してください。
アバサールの屋内の合計38個体の遺骸からのDNA抽出に成功しました。二本鎖配列決定ライブラリが構築され、部分的なウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理が組み込まれました。アバサールの標本19点のライブラリは品質基準を満たし、配列決定されて平均ゲノム網羅率1.6倍(0.5~3.11倍)に達しました。観察された死後損傷(postmortem damage、略してPMD)比は、古代DNAの一般的パターンと一致しました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)における汚染と男性のX染色体上の多型部位の異型接合性についての厳格な検定は、本論文のデータセットにおける最小水準の汚染を明らかにしました。先行研究の遺伝的性別推定の適用によって、遺骸2個体が遺伝的に女性だった一方で、残りの標本は男性と決定的に判断されました(補足表S1)。DNA抽出とライブラリの準備と配列決定とPMDと汚染と性別判断のより詳細な情報も、補足表S1に提供されています。
9点の骨格の放射性炭素分析から、アバサール遺跡の期間は12~15世紀の範囲と年代測定されました(表1)。この分析は、歴史的およびおもに考古学的データを裏づけ、埋葬がハンガリーの中世王国期に帰属する可能性を確証します。具体的には、石で覆われた墓の注目される3個体の年代は13世紀後半~14世紀末で、埋葬が15世紀のごく初期に行なわれたことを示唆する、石蓋に刻まれたおおよその年代とほぼ一致します。しかし、本論文の後述の標本で示されるように、放射性炭素年代測定は一般的に、連続する2世代間を正確に区別するのに必要な精度が欠けています。
●親族関係分析
アバサール・ボルト=テテェー遺跡はアバ氏族の家族墓地と考えられていたので、査対象の個体間の親族関係や調同一の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)ハプロタイプの発見が予想されました。correctKinを用いての親族関係分析によって、片親性遺伝標識データによってさらに裏づけられるいくつかの家族のつながりが明らかになりました。二つの小家族が上述の目立つ墓から特定され、一方は4個体(HUAS55B、HUAS59B、HUAS57、HUAS581)、もう一方は2個体(HUAS261、HUAS262)から構成されます。
女性1個体と男性3個体を含む家族が、教会の聖壇から発掘されました。男性2個体(HUAS57、HUAS581)は5親等の親族と分かりました。注目すべきことに、これらは彫刻された石蓋のある墓(図1C)から発掘され、その碑文はアバ氏族の重要な男性2個体の構成員が埋葬された、と示しています。同じ家族の他の構成員、つまり男性のHUAS55Bと女性のHUAS59Bは聖壇の2基の発見された墓から発掘され(図1F)、同一のミトコンドリアハプロタイプを有する相互の1親等の親族と分かりました。女性個体HUAS59Bが、碑文のある墓の、個体HUAS57とは3親等の親族、個体HUAS581とは4親等の親族だったのに対して、男性個体HUAS55Bは個体HUAS57の4親等の親族で、個体HUAS581との関係は、5親等を超えていたので判断できませんでした。個体HUAS55BおよびHUAS59Bは、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)でも確証されたように明らかに母親と息子の関係で、それは、この2個体が相互とゲノムの全体長の3477 cM(センチモルガン)を共有していたからです。この家族の再構築された妥当な家系図については、図S1を参照してください。
教会の幾何学的中心の目立つ石蓋のある二重墓(図1E)で見つかった親族関係にある他の男性2個体(HUAS261、HUAS262)は、3親等の親族と判断されました。石蓋のある装飾墓から発掘さされた4個体全員が、同じY染色体ハプログループ(YHg)N1a1a1a1a4∼を共有していたことは注目に値し、同じ拡大家族もしくは氏族の2支族がこの墓地で特定されたことを示唆します。その後のIBD分析では、この2家族はじっさいに同じ拡大家族の2支族だった、と確証されました。
●アバ一族父系の系統的つながり
拡大アバ一族の男性5個体のうち4個体は同じYHg-N1a1a1a1a4~を有していました。本論文の包括的分析は、YHg-N1a1a1a1a4~の多様な系統的つながりと、その下位系統を明らかにしました(図2)。遺伝子系譜学国際協会(International Society of Genetic Genealogy、略してISOGG)2020年版の遺伝子標識でYleafソフトウェアを活用し、アバ一族の系統はYHg-N1a1a1a1a4a2~(A9408)内の下位系統に分類でき、例外は標本HUAS57で、YHg-N1a1a1a1a4a2~のA9408遺伝子標識上の網羅が欠けていました。注目すべきことにもハンガリー人を征服した上流階層2個体も、モンゴルのアル・グント(Ar Gunt)遺跡の未刊行の匈奴上流階層の1個体(AG6F)とともに、この同じ下位系統のYHgを共有していました。これは、征服者とともにカルパチア盆地に到来した系統について、モンゴル起源を示唆します。以下は本論文の図2です。
Yfullデータベースの遺伝子標識および現代人のデータで本論文の分析を強化することによって、古代人標本を系統樹のより深い支系内に位置づけることができました。YHg-N1a1a1a1a4a2~(A9408)は東西の支系に二分します。東方の支系N-Y70200は現代の中国と韓国の個体群に存在し、未刊行の匈奴の標本はこの下位支系に割り当てられます。西方の支系N-PH1612はおもにヨーロッパ人で見つかり、YHg-N-A9407の後で、さらにN-PH1896とN-A9416の下位2支系に分岐します。征服者の標本は、同時代のトルコの1個体およびハンガリーの2個体とともに、N-PH1896とN-A9407に属します。アバ一族の系統は、現代のクロアチアの男性1個体とともに、N-A9416に割り当てられました。N-A9416の下位YHgは、ハンガリー人とチュヴァシ人とブルガリア人それぞれ1個体にも存在します。
YHg-N1a1a1a1a4a~の最初の同定は、後期青銅器時代となる石板墓(Slab Grave)文化のモンゴルの1個体にさかのぼります[29]。現時点で、YHg-N1a1a1a1a4a~はヤクート人(Yakut)男性において最高の割合を示し、エヴェンキ人(Evenk)およびエヴェン人(Even)でとくに一般的です。これらの調査結果は、内陸アジアにおける起源を強く示唆します。本論文の系統樹はこの話をさらに裏づけ、下位支系のN-PH1612はハンガリー人の征服を含めて中世の移動によってヨーロッパとハンガリーに到来した、と明らかにします。
●墓地の片親性遺伝標識ハプログループと系統的つながり
アバサールのミトコンドリアゲノムは高い異質性を示し、18系統の異なるハプロタイプが決定されました(補足表S1C)。個体HUAS55BおよびHUAS59Bは同じR0bハプロタイプに属し、親族関係分析の結果と一致します。未刊行系統のほとんど(14/18)はカルパチア盆地の選好する人口集団で検出されてきており[32]、いくつかの系統はバートリ一族の中世後期ハンガリー人上流階層墓地に存在しました。刊行されている全ミトコンドリアゲノムデータベースとの比較に基づくと、8系統は近東(H13a1d、R0b、T2)および/もしくは草原地帯(H28、T1a1、I1b、HV14a、J1c5a)起源の可能性が高そうですが、残りはヨーロッパ起源の可能性が最も高そうです。
家族墓地の事例で予測されたように、YHgはずっと少ない多様性を示しました。男性17個体のうち、ISOGGのY染色体系統樹の13の下位支系が存在しました。YHg-N1a1a1a1a4~の王族に属する個体群に加えて、異なるYHgのI1~・I2~・R1a1a1b1~・R1a1a1b2~・R1b~系統が単一の個体群に存在した一方で、1組はYHg-R1a1a1b1a2b3a3a2g2~でした。ミトコンドリア系統と同様に、Y染色体系統のほとんど(12/17)はヨーロッパ起源でした。その系統のうちかなりの数(7/17)はカルパチア盆地の以前の期間で検出され、いくつかの系統は同時代のハンガリー上流階層において高頻度でした[32]。王室系統の他に、明らかなアジア起源の唯一のYHg-R1a1a1b2a2a3c2~が検出されました。この系統はYHg-R1aのアジアの支系、具体的にはシンタシュタ(Sintashta)文化およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化の人々において中期~後期青銅器時代に出現した、R1a1a1b2a2a~(Z2125)に属しています。この系統はスキタイ人とその子孫集団に広がりました[34~36]。アバサールで見られる下位YHgはフン人標本で検出されており[37]、その下位YHgはカルパチア盆地のフン人およびアヴァール人において高頻度でした[32]。この系統はパジリク(Pazyryk)文化(紀元前500~紀元前200年頃)や康居(Kangju)の人々でも見つかりました[38]。現在、YHg-R1a1a1b2a2a3c2~はおもにユーラシア東部および中央部の男性で観察され、ロシアのタタール人ではより高頻度です。
●アバサール遺跡以外のゲノムの遺産
片親性遺伝標識の分析はアバ氏族のアジア内陸部と東部の父系起源を明らかにしましたが、これらの祖先のつながりがゲノム内でも認識できるのかどうか、との問題が提起されます。この問題に取り組むため、ADMIXTUREと主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とqpAdmの検出力を活用して、ゲノム解析が実行されました。
K(系統構成要素数)=7でのADMIXTURE分析は、アバサール集団と中世初期ドイツおよびスロバキアのゲルマン人集団との間の、驚くほど類似したゲノム構成要素パターンを明らかにしました。さらに、征服期の庶民(村落)墓地のハンガリー人標本は、顕著に類似した遺伝的特性を示しました(図3)。アバサール集団のゲノムはそれぞれ、0~3.5%のガナサン人(Nganasan)、6~11%のヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter-Gatherer、略してWHG)、38~45%のヨーロッパ新石器時代農耕民、0~3.5%のシェ人(She)、0~9%のイラン新石器時代集団、3.5~13%の前期青銅器時代ユーラシア西部集団、29~39%の古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)と関連するゲノム構成要素で構成されています。ユーラシア東部人(ガナサン人とシェ人)的な構成要素は、少ない東方祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の存在を示唆しています。以下は論文の図3です。
ヨーロッパ人のPCA(図4)では、標本の大半はともにクラスタ化し(まとまり)、ヨーロッパ中央部の人口集団群から分離し、征服したハンガリー人の方へと動いており、一部の外れ値は現在のハンガリー人の分散内に収まります。アバサール遺跡クラスタはアールパード王朝個体群のゲノムや、中世後期のハンガリーおよびポーランドの著名な王朝であるバートリ一族の2王朝の個体群と重なります。注目すべきことに、アバサール遺跡クラスタはペリチェイ(Pericei)のバートリ一族の墓地の他の標本と重なります。アバサール・ボルト=テテェー遺跡とペリチェイ墓地は貴族の墓地と考えられているので、この観察は中世ハンガリー貴族層の特徴的で均一なゲノム組成を示唆しています。ユーラシア人のPCAでは、アバサール集団も現代ヨーロッパ人と比較と手顕著な東方への遺伝的移動を示しました。さらに、ほとんどの標本は9~11世紀の征服ハンガリー人の遺伝的勾配と重なりました(図4)。ADMIXTUREとPCA両方の調査結果は、アバサール集団のゲノムの東方とのつながりを強調し、カルパチア盆地への草原地帯からの移民のその後の流入と関連しているかもしれません。以下は本論文の図4です。
アバサール標本におけるアジア人のゲノム要素の妥当な供給源を特定するため、qpAdm分析が実行されました。左側の人口集団一覧では、カルパチア盆地とヨーロッパ中央部の同時代およびそれ以前の中世人口集団が含められ、前者はコーカサス北部のアナパ(Anapa)遺跡の中世の1集団、後者は中世のカルパチア盆地の東方からの移民集団です。「基礎モデル戦略」の実行によって、ほぼ全ての標本について、数十もの妥当な2供給源モデルが得られました(図5)。以下は本論文の図5です。
標本2点(HUAS257、HUAS450)は単一のヨーロッパ人供給源でモデル化でき、ゲルマンもしくはカルパチア盆地供給源とクレード(単系統群)を形成し、他の2個体(HUAS261、HUAS55B)は主要なヨーロッパ人供給源と少数のアジア人供給源の混合として明らかにモデル化できます。他の全標本では、qpAdmはADMIXTUREとPCAの結果を補助して、ヨーロッパとさまざまな東方供給源の混合を示唆しました。類似のp値を有するこれらのゲノムの怒涛なモデルは、単一供給源の説明を裏づけたか、アジア(フン人、アヴァール人、征服ハンガリー人)および/もしくはコーカサス起源の有意な少数の構成要素を特定しました。これらのゲノムにおけるアジア人祖先系統の平均割合の範囲は、4.3~10.4%でした。
●共有IBD分析
より詳細な規模でアバサール個体群の遺伝的関係を特定するため、ゲノム補完が活用され、ancIBDを用いてIBD分析が実行されました。先行研究[32]で刊行されたアバサール個体群とフン人やアヴァール人や征服ハンガリー人のゲノム間で、8cM以上の共有IBD断片が特定されました。ペリチェイ個体群やコルヴィヌス一族[4]やアールパード一族など、ハンガリーの追加の中世標本とのIBD共有も検証されました。図6のIBD図では、アバサール標本と10cMの最小累積IBD長の他の標本との間で検出された全てのIBDのつながりが示されています。以下は本論文の図6です。
まず、IBD図は家族のパターンを明確に示しており、家族の組み合わせ間で共有されたIBDの累積長は、correctKinによって測定された系図上の近縁性と密接に一致します。注目すべきことに、この分析は二つの異なる家族の構成員間の共有IBDの顕著な量を明らかにしており、そうした構成員間の約6~7親等の関係を示唆しています。これは、単一の拡大家族もしくは氏族内の二つの支系の特定を強調します。さらに、この二つの家族との遠い親族として、追加のアバサール遺骸の標本2点(HUAS390、HUAS82)が特定され、アバ氏族の遠い親族関係にある支系も教会内に埋葬された、と示唆されます。この観察は、13~15世紀における修道院を治めていたアバ氏族の少なくとも3支系を記録している歴史的データと一致します。
重要なことに、共有IBDに基づくと、これらの一族は、コルヴィヌス一族[4]やバートリ一族を含めて、中世および近世ハンガリーの貴族の家系と遠いつながりを示します。一部のアバサール標本とアールパード王朝の構成員との間の共有IBDは、この二つの一族間の少なくとも1回の結婚を述べている歴史的記録と一致します。さらに、アバサール遺跡で発掘されたさまざまな標本は、さまざまな貴族の個体とはIBDを共有しているものの、上述のアバ一族とは共有しておらず、ハンガリー王国の他の貴族との協力関係を示唆しています。
ハンガリー征服の上流階層の移民の中核とのIBDのつながり[32]から、アバ一族の征服者との遺伝的関係はカルパチア盆地におけるハンガリー人の定住に先行する、と示唆されます。この結論は、本論文の系統的調査の結果と一致し、少数の東方ゲノム構成要素が征服ハンガリー人に由来することを決定的に確証します。
●考察
シャームエル・アバを含めて中世ハンガリーの諸王は、キリスト教君主の慣行に従って、伝統的に教会に埋葬されました。中世ハンガリーの支配者のほぼ半分はその最終的な安息地を、イシュトヴァーン1世によって創立されたセーケシュフェヘールヴァール(Székesfehérvár)大聖堂の冠状大聖堂内としましたが、他の王は個人的に設立したか、葬儀の目的で改修した教会に埋葬されました。残念ながら、経時的な荒廃は、これらの教会の破壊につながり、多くの王の墓が失われました。1848年に発見されたベーラ3世(Béla III)の無傷の埋葬は、稀な例外でした。ハンガリーの年代記によると、シャームエル・アバは自身が設立したアバサールの修道院に埋葬されました。しかし、シャームエル・アバの埋葬地と関連する協会は何世紀も経て消滅し、アバサール・ボルト=テテェー遺跡は最も可能性の高い場所として特定されました。新たな発掘の考古学的調査結果は、これがシャームエル・アバ王の修道院だったことを確証する、さらなる証拠を提供しました。
教会内の石の墓では、ヒト遺骸が主要な解剖学的順序で発見されました。いくつかの墓には一次的および二次的な位置の両方に並べられた複数の骨格が含まれており、世代にわたって継続的に墓が再利用されたことを示唆します。骨格の納骨堂的な配置の事例は、多くの遺骸が掘り起こされ、その後に、おそらくは再建や改築作業や墓泥棒や伝染病もしくは戦争に起因する集団墓地埋葬の期間に、まとめて共同墓地に埋葬された事象を示唆しました。この破壊の部分は1241~1242年のモンゴルの侵入と関連している可能性が高く、それは、この遺跡がキリスト教の教会を荒らし、墓を略奪すると知られていた【こうしたモンゴル軍の悪評は、ヨーロッパ世界では誇張されている側面もありそうですが】、タタール軍の進軍経路沿いに位置しているからです。したがって、考古学的調査では、シャームエル・アバの王室の埋葬を正確に特定するのは困難でした。
王の墓の場所を特定できませんでしたが、発掘によって教会内の著名な一族の構成員の埋葬が明らかになり、アバ一族の歴史におけるこの境界の持続的重要性が強調されます。すべて石蓋で装飾されており、アバ氏族の紋章を刻んだ二重墓1基と単一墓1基が発見されました。聖壇の墓には、15世紀のアバ一族の構成員であるヤーノシュとミハーイの埋葬を示唆する碑文があり、アバサールの修道院を含めて、現在のハンガリーのヘヴェシュ県の広大な領土が、コンポルティやウグライやチョバーンカを含めて、アバ氏族のさまざまな支族によって所有されていた、とする歴史的記録と一致します。これら目立つ墓の男性4個体は同じYHgを共有しており、アバ一族の2支系を表している可能性が高そうです。共有IBD分析の結果では、一方の大家族の2支系がこれらの墓で発見され、これらの個体は、他のハンガリーの貴族と拡大親族関係網を有していたので明らかに貴族だった、と確証されました。したがって、考古学および考古遺伝学のデータから、アバ氏族がアバサール・ボルト=テテェー遺跡で特定された、と示唆され、これらの結果は歴史的記録と一致します。
本論文のIBD分析は、中世ハンガリー貴族間の動的なつながりを明らかにし、それは文献で知られているものと、以前には知られていなかったものの両方です。結婚を介しての関係は、アバ一族とアールパード一族との間の歴史的記録さで示唆されていましたが、アバ一族とバートリ一族の関係、またアバ一族とコルヴィヌス一族の関係おいてデータが不足しています。それにも関わらず、これら著名なハンガリーの一族すべての間の系図のつながりが検出され、特定されたつながりがこれら一族間の直接的もしくは間接的な結婚であると定義できないとしても、頻繁な結婚関係の存在を示唆しています。この結果は、アバ一族と征服ハンガリー人第1世代の移民の中核との間の直接的つながりも明らかにしており、このつながりが征服期に先行することを示唆しています。それは、アバ一族の祖先が放浪し征服したハンガリー人部族の構成員だったことを示唆しており、同様に系統的つながりの結果と一致します。
アバ一族の民族的起源について、歴史資料はフン人とクマン人の起源を提案してきましたが、歴史家の間での優勢な総意は、ハザール人(Khazar)もしくはカバル人(Kabar)の祖先や、直接的な征服者貴族を支持する傾向にあります。本論文の系統的結果では、アバ一族の父系はアジア内陸部起源のYHg-N1a1a1a1a4~に属する、と明らかになります。これは、フン人やクマン人やカバル人やハザール人の集団とのつながり可能性と一致します。しかし、アバ一族の父系のより深く特徴づけられた下位YHgであるN-A9416はヨーロッパ東部で確認されたN-PH1612下位系統に属しており、このYHgの保有者の大半は現在のハンガリーに位置しています。最古級の標本には、征服ハンガリー人の上流階層2個体が含まれています。注目すべきことに、YHg-N1a1a1a1a4~の追加の征服者標本2点が特定されました。しかし、その後、これらの個体は本論文の分析から除外され、それは、これらの標本のYHg決定が混成に基づく増幅産物配列決定手法に依拠しており、この手法は内部の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)標識についての情報を欠いていたからです。すべての利用可能なデータを広陵すると、本論文の結果は、アバ一族の父系の征服ハンガリー人における上流階層父系との関連を強く裏づけます。アバ一族の父系祖先は、征服ハンガリー人部族の高位個体の1人を含んでいるかもしれません。
ハンガリーの年代記では、アバ一族とアールパード一族の両方が、フン帝国の大王であるアッティラの子孫と特定されています。これは、この2氏族の父系が同じであることを示唆しているのでしょう。アールパード一族の父系YHg-R1aが以前に特定されたので、アバ一族で特定された父系と一致せず、今ではこの可能性を決定的に除外できます。それにも関わらず、どちらかの王室の家系【アバ一族とアールパード一族】がアッティラの子孫であるとの証明されていない主張が存続しています。詳細なWGSデータはねアールパード一族の父系祖先がユーラシア東部起源と明らかにし、フン人とのつながりの可能性があります。本論文では、アバ一族もフン/匈奴との系統的つながりが論証され、両一族【アバ一族とアールパード一族】はこの尊重される系図の信頼できる候補です。
ゲノム水準の分析は、片親性遺伝標識のデータと一致します。ADMIXTUREとPCAの分析は両方とも、調査対象の中世の個体群におけるわずかなアジア人祖先系統を示唆しました。qpAdm分析も、アバサール個体群のゲノムの大半における注目に値するわずかなアジア東部構成要素を特定しましたが、この構成要素の低い割合のため、このログラムでは正確な起源を特定できませんでした。潜在的な供給源にはフン人やアヴァール人や征服ハンガリー人が含まれますが、IBDの結果から、わずかなアジア人構成要素は征服ハンガリー人に由来する可能性が高い、と提案されます。要約すると、すべての遺伝学的結果は一貫して、アバ一族が征服ハンガリー人の部族上流階層の1部族の子孫だったひとを示しています。
●この研究の限界
集団遺伝学的分析は、利用可能な参照ゲノムによって制約されます。さらに、その主要なヨーロッパ人構成要素に加えて、調査されたゲノムにはごく少ない構成要素(アジアとコーカサス)が含まれており、その構成要素の正確な特定は、利用可能な手法では不可能です。本論文は、アバ一族全体もしくはより広範な人口集団の完全な代表ではないかもしれない、19個体の遺骸に基づいています。限定的な標本規模は、偏りや過度な一般化につながるかもしれません。放射性炭素年代測定には、固有の不確実性があります。較正誤差もしくは貯蔵効果が、遺骸について確立された年表の正確さに影響を及ぼすかもしれません。発見されたユーラシア東部の遺伝的パターンは、ハンガリーの征服移住の範囲を超えた、複雑な混合事象を反映しているかもしれません。現代の人口集団や他の歴史上の人物との遺伝的比較は、同時代の遺伝的データの利用可能性と品質によって制約されるかもしれません。
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