楊海英『モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち』
講談社現代新書の一冊として、講談社より2024年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、女性に焦点を当てたモンゴル帝国の歴史で、逸話を多く引用し、物語的にも読めるようになっており、一般層にも面白く読み進められる構成になっていると思います。モンゴル帝国以降、ユーラシア草原地帯においてチンギス・ハーンの父系子孫が尊重され、大きな権威を有していたことは、現代日本社会でも割と知られているように思います。しかし、モンゴルやその前身となるさまざまな遊牧民社会は、母親の身分を問わないような、帝国時代のオスマン家に見られる極端な父系志向の集団(関連記事)ではなかったことが、本書を読むと了解されます。もっとも、そのオスマン帝国も、外戚の影響力を警戒して、そうした極端な父系を志向したものの、スレイマン1世以降は、中央高官や宦官長や高位ウラマーとともに、母后や后妃が重要な政治的役割を担うこともあったようです。
私が強い関心を抱いている人類進化史の観点からは、父系にきょくたんに偏るわけではないモンゴル帝国の在り様は、現生人類(Homo sapiens)としてはよく見られる一類型のように思われます。現生人類には、父系親族集団を築いて女性が出生集団から離れる傾向にある父系的社会も、母系親族集団を築いて男性が出生集団を離れる傾向にある母系的社会も、どちらかの傾向が決定的に強いわけではないさまざまな社会も存在し、相続や家政、さらには地域から国家単位の政治への男女の関与と権限の違いもさまざまですが、「双系的」というか、男女問わず出生集団を離れても出生集団とつながりが維持され、それが社会において時空間や階層間で程度の差はあれ少なくとも一定以上の影響力を有していることこそ、現生人類社会の重要な特徴だと思います。
現生類人猿(現在当ブログでは、語義にしたがって現代人を類人猿に含めておらず、類人猿を単系統群ではなく側系統群と把握しています)社会が基本的には非母系で、現代人と最も近縁な現生分類群であるチンパンジー属が父系的社会を築き、現代人と次に近縁な現生分類群であるゴリラ属の一部が時に父系的集団を築くことから(関連記事)、現代人系統は当初父系的社会を築いており、次第に「双系的」社会へと移行したのではないか、と推測されます。じっさい、現代人の直接的な祖先ではなさそうな人類系統のアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)とパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)では女性が出生集団を離れ、男性が出生集団に留まった、と推測されており、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についても、同様だったもっと強力な証拠が得られていて(ただ、ネアンデルタール人社会がある程度「双系的」だった可能性も無視できないでしょう)、人類の「原始社会」は「母系氏族制」で、社会の「発展」とともに「父系社会」が出現した、というような、唯物史観で採用されて今でも根強く残っていそうな見解は、根本的に間違っているように思います(関連記事)。
本書の主題から話が逸れてしまいましたが、本書の提示する女性の役割に焦点を当てたモンゴル帝国像は、一見すると父系に偏ったように思える社会においても、母系というか女性の役割が大きいことを含めて、現生人類の一類型を示しているように思い、その具体的な様相は興味深いものでした。本書はモンゴル帝国だけではなく、その前身となった集団も含めて、多様な遊牧民集団も取り上げていますが、本書の対象読者のほとんどが日本人と想定されているだろうこともあってか、前近代漢字文化圏に見られるレヴィ=レート婚(レビラト婚)の野蛮視など、文字文化の発達した社会における遊牧民社会への偏見も指摘しています。
一見すると父系に偏ったように思える遊牧社会における女性の役割の大きさの具体的事例の一部として、モンゴルでは母親の愛を謳歌した歌や叙事詩と比較して、父親を題材にした歌がずっと少ないことを、本書は挙げています。そうした背景として本書が挙げるのは、ユーラシア遊牧社会の特徴です。遊牧社会では、経済を掌握して日常的に運営しているのは女性で、男性は戦士であって家庭の日常的な経済には関わらない、というわけです。遊牧社会における女性の役割の大きさは、モンゴルの拡大における有力勢力との双方向の婚姻関係構築にも表れているようで、じっさいに政治で大きな役割を果たした女性も珍しくありませんでした。遊牧社会における有力な女性政治指導者に対する尊称であるガトン(可敦)はハーン(可汗)とともに用いられ、文字記録ではすでに北魏時代から見られるそうです。
モンゴルにおける女性の地位の高さは、本書で紹介されている、チンギス・ハーン(テムージン)が第一夫人であるボルテに大英雄には相応しくない弱気とも思える配慮を見せたり、弟のハサルとの不和を母親のウゲルンに叱責され、ひたすら謝ったりした逸話からも窺えます。当時のモンゴルの女性が、漢字文化圏ではなくヨーロッパのキリスト教世界からはどう見えたのかも、本書は取り上げています。フランチェスコ修道会のプラノ・デ・カルピニは、モンゴルの女性が男性のように馬に乗り、矢を射る女性もいることを報告し、ギョーム・ド・ルブルクは、バト(バアトゥ、バトゥ)の24人の妻が、それぞれ大きな家を1軒ずつ有していた、と記しています。
モンゴルの女性の役割が主題である本書は、姻戚関係も詳しく取り上げており、モンゴル帝国の第4代ハーンのムンケとその弟で第5代ハーンのフビライの即位に貢献したのは、チンギス・ハーンの長男ジョチの次男バトの強力な支持があったからで、その支持の背景として、バトの母親とフビライの妃が姉妹だったことを挙げています。この姉妹は、チンギス・ハーンの母親ウゲルンや第一夫人であるボルテと同じくコンギラート部出身で、コンギラート部とチンギス・ハーンの家系との婚姻は幾重にもわたりました。こうした通婚によってチンギス・ハーンは勢力を拡大して維持し、当然、チンギス・ハーンの娘や妹たちも有力な一族へと嫁ぎます。ハーンに即位したモンケとフビライの母親がキリスト教ネストリウス派の信者だったように、モンゴルにおける宗教への寛容さが窺えます。
チンギス・ハーンを継承したのはオゴダイ・ハーンでしたが、本書での評価は低く、偉大な父に取り入る小賢しさはあったものの、酒に溺れた平凡な人物とされています。1242年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)12月11日、オゴダイ・ハーンは没し、その後4年半にわたって、モンゴル帝国の大ハーンは空位となります。モンゴル帝国にとってこの困難なこの時期に、政治を運営したのは、オゴダイ・ハーンの第六皇后だったトゥレゲネ・ガトンでした。その後も、オゴダイ・ハーンの後継者となったグユクの妃であるオグル・ガイミシュ、チンギス・ハーンの末子でモンケとフビライの父親であるトロイ(トルイ、トゥルイ)の妻ソルカクタニ・ベキ、チャガータイ(チャガタイ)家のオルキナ・ガトンといった女性がモンゴル帝国の政治運営に関わりました。チンギス・ハーンの息子たちやその後継者と側近は、帝国全体の安定的運営よりも自身の領地拡張に熱心で、相互の緊張関係が高まる中で、帝都ハラ・ホリム(カラコルム)や中央アジアで政治を運営していたのは女性辰だった、というわけです。
ただ、後世に男性たちが残した年代記では、こうした女性たちの功績があまり描かれず、むしろ無能とか悪人とか描こうとする意図があったのではないか、と本書は指摘します。後にモンゴル勢力圏の東方のハーンを子孫がほとんど独占したソルカクタニ・ベキを否定する作品はほとんどないものの、モンケ以降、子孫がモンゴル帝国の大ハーンから除外されることになったトゥレゲネ・ガトンは、後世の年代記での評価が芳しくない、と本書は指摘します。トゥレゲネ・ガトンは夫のオゴダイ・ハーン没後、帝都ハラ・ホリムで見事に権力を掌握しますが、それはオゴダイ・ハーンの存命中から政治に関与していたことが大きかったようです。1246年、トゥレゲネ・ガトンの根回しによってクリルタイで息子のグユクが大ハーンに選出され、その直後にトゥレゲネ・ガトンは没します。
トゥレゲネ・ガトンの根回しによって即位したグユク・ハーンは、即位後間もない1248年に没し、本書も指摘するように、不審死だったようです。グユクの父であるオゴダイの即位時にも、チンギス・ハーンの末子トロイの死は謀略と考えられており、勢力が広大になれば、それだけ配下や利権も増えるわけで、各勢力の当主自体にさほど野心がなかったとしても、謀略を駆使してでも自勢力の拡大・保持に走らねばならないところがあったのかもしれません。グユク急死後大ハーンはしばらく空位となり、バトの根回しによって、1251年にケルレン河畔で開かれたクリルタイでトルイとソルカクタニ・ベキとの間の息子のムンケが大ハーンに即位します。ムンケは自分の即位に不満なオゴダイ家とチャガータイ家を抑圧するとともに、その宮廷はオゴダイ家とは異なった様相を示していたようで、オゴダイ家時代にはイスラム教徒の大臣や有力商人が多数いたのに、ムンケ・ハーンの時代はネストリウス派の雰囲気が濃い、と本書は指摘します。
ムンケは南宋への遠征中の1259年8月、伝染病で急逝し、翌年4月に南モンゴルの開平府で開催されたクリルタイで、フビライが大ハーンへの即位を宣言します。一方で、フビライの弟で帝都ハラ・ホリムの留守を任されていたアリク・ブハもクリルタイを開催し、フビライに1ヶ月遅れながら大ハーンに推戴されます。この時点では、先帝の葬儀に参加せず、モンゴル帝国の南東隅に割拠するフビライの方が明らかに「反乱者」だった、と本書は指摘します。フビライとアリク・ブハの兄弟間抗争はユーラシア規模で6年間続き、アリク・ブハがフビライに投降して終わりました。ユーラシア各地のチンギス・ハーンの子孫たちはこれ以降、イラン高原(フレグ・ウルス)とキプチャク草原(ジョチ・ウルス)、中央アジアのマーワラ・アンナフル、東方のモンゴル高原と華北(大元ウルス)などをそれぞれの根拠地としていきますが、この男性たちが政治的内紛に没頭していた期間に、各ウルスの内政を運営していたのは女性たちだった、と本書は指摘します。
フビライは大ハーンに即位後、兄のムンケ・ハーンと同様に中華地域への勢力拡大を図りますが、それに対して、モンゴル人はあくまでもユーラシア草原地帯に留まるべきと考えたのが、オゴダイ・ハーンの第四子であるハシの息子のハイドゥでした。ハイドゥはフビライと対立し、それはフビライ死後まで続きます。フビライ・ハーンの治世でも、滅んだ南宋の皇帝妃も手厚くもてなし、江南の知識人の好感を得るなど、コンギラート部出身の后妃チャムブイ・ガトンの果たした役割が大きかったことを本書は描き出しています。チャムブイ・ガトンがチベット仏教に強い関心を抱いていたことから、大都はチベット仏教色の強い都市になったようです。
1294年、長期にわたって大ハーンとして君臨したフビライが没すると、大元ウルスでは政治的に不安定な状況に陥り、フビライ・ハーンの後継者となった孫のテムルの時代を経て、相次いで大ハーンに即位したハイシャンとアユールバルワダの母親であるダギ・ガトンが大ハーンの継承に大きな影響力を有し、ハイシャンとアユールバルワダの死亡後は、1320年に孫(アユールバルワダの息子)のシディバラを即位させるなど、実権を掌握しましたが、1323年2月にダギ・ガトンが没すると、シディバラは政変により殺害されます。この後も政争は収まりませんでしたが、1333年に即位したカイシャンの孫であるトゴーンテムール(トゴン・テムル)は、朱元璋によって1368年に大都を追われた後も、死亡した1370年まで、長期にわたってハーン位を維持し続けました。
トゴーンテムールは政争で朝鮮半島へと追放されていた期間に出会った高麗出身の奇氏(ウルジイホトク)を寵愛しましたが、高麗がモンゴル帝国に服属して以降、モンゴル帝国と高麗の間の政略結婚が盛んになり、高麗出身者は大元ウルスの宮廷で多数派を占めるようになります。華北の有力者や大元ウルスの東方三王家が、忍耐強く勤勉と評判の高麗出身の少年少女を家庭内使用人(家童)として雇うのは一般的となります。そこで朝鮮半島の有力者は、これをさらに組織化・制度化していき、「高麗貢女」が大元ウルスに提供されるようになり、1231~1363年の間に、少なくとも1479人の「高麗貢女」が大元ウルスに入ったそうです。ドゴーンテムール・ハーンは皇后のウルジイホトクを寵愛しましたが、ウルジイホトクは儒教観念で育っており、そうした宮中の雰囲気の中で、漢字文化で育った政治家はレヴィ=レート婚の禁止をドゴーンテムール・ハーンに要請し、1340年にはついにレヴィ=レート婚が禁止されます。ただ、著者の故郷のオルドスで1970年代までレヴィ=レート婚が続いたように、この禁止令が草原部で実効力を有したとは考えられない、と本書は指摘します。トゴーンテムールの治世は、気候悪化とも関連する14世紀のユーラシア規模の危機によって、統治が揺らいでいきます。長城以南では反乱が相次ぎ、レヴィ=レート婚禁止のような儒教的政策を進める大都のドゴーンテムール・ハーンへの反感もあったのか、コンギラート部や東方三王家は反乱への対処に消極的で、大元ウルスは1368年に大都を喪失します。
大元ウルスは大都の喪失後、明に対して軍事的優勢に立つ局面もあったものの、次第に劣勢になり、帝都ハラ・ホリムは明軍に放火されて廃墟と化していき、1388年にはフビライ家が一旦断絶し、アリク・ブハの末裔がハーンとなります。14世紀のユーラシア規模の危機においてモンゴル帝国の支配が解体していく中で、東方では高麗の軍人だった李成桂が新たに朝鮮王朝を築き、西方ではチャガータイ家に仕える家柄の出身のテムール(ティムール)が台頭します。この頃には、西方に展開していたモンゴル人は、ジョチ・ウルスもそうだったように、テュルク系言語を母語として、イスラム教を信仰するようになります。ユーラシア草原地帯はチンギス・ハーン以前のような群雄割拠状態に戻り、チンギス・ハーン以降、その父系子孫に限られていたハーンも、1453年にはついにオイラートのエセンが即位します。エセン・ハーンはチンギス・ハーンの父系子孫を殺害していきますが、エセン・ハーンの娘のチチクはチンギス・ハーンの父系子孫との間に男子を儲け、父の意向に背いて「貴種」である息子を守ろうとし、ユーラシア草原地帯におけるチンギス・ハーンの強い威光が15世紀にも衰えていなかった、と窺えます。この男子はバヤンムンクと命名され、後にその息子のバトムンクがモンゴルの再統一を果たし、「中興の祖」と崇められます(バトムンク・ダヤン・ハーン)が、それにはマンドル・ハーンの妃で「賢明な妃」と呼ばれ、マンドル・ハーンの死後、かなり年少と考えられるバトムンクと結婚したマンドハイの貢献が大きかったことを、本書は指摘します。
本書は、これまでの日本社会の通俗的な歴史観では見えにくかったと思われる、モンゴル、さらにはユーラシア遊牧社会における女性の役割を描き出しています。近現代日本社会において、ユーラシア遊牧社会における女性の役割を軽視するような通俗的歴史観が定着したように思われるのは、日本が近代以降、とくに第二次世界大戦後に常用漢字の使用が一般的になっても、一応は漢字文化圏に留まったことが大きいのでしょう。つまり、13世紀後半のモンゴル襲来(文永・弘安の役)などはあったものの、前近代において基本的にユーラシア遊牧社会と直接的に接触する機会がきわめて少なかった日本のユーラシア遊牧社会観が、近代以降のヨーロッパの学術および小説や映像作品などの大衆文化とともに、あるいはそれ以上に、前近代から現代にかけての中華地域の漢字文献から強い影響を受けているのではないか、というわけです。レヴィ=レート婚など、本書からは遊牧社会と中華地域との間の価値観の違いの大きさが浮き彫りになり、漢字文化圏の日本は中華地域の漢字文献の価値観をかなりの程度内面化してしまい、遊牧社会を「野蛮」とみなすような心性が根強くあるのではないか、と考えています。まあ、こう思うのは、現代日本社会に生まれ育った日本人の一人として、日本およびヨーロッパ中心主義とともに、「中華中心主義」も克服しなければならないのではないか、との十数年以上前からの個人的な問題意識のためでもあります(関連記事)。ただ、当時、「日本・中華・ヨーロッパ中心主義のなかで、現代日本において中華中心主義を克服しやすいだろうと私が認識している」と述べたのは、今となってはかなり見通しが甘かった、と反省しており、私のような凡人にとってはとくに、「中華中心主義」の克服は日本中心主義やヨーロッパ中心主義との比較で容易と安易には断定できない、と今では考えを改めていますが。
参考文献:
楊海英(2024)『モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち』(講談社)
私が強い関心を抱いている人類進化史の観点からは、父系にきょくたんに偏るわけではないモンゴル帝国の在り様は、現生人類(Homo sapiens)としてはよく見られる一類型のように思われます。現生人類には、父系親族集団を築いて女性が出生集団から離れる傾向にある父系的社会も、母系親族集団を築いて男性が出生集団を離れる傾向にある母系的社会も、どちらかの傾向が決定的に強いわけではないさまざまな社会も存在し、相続や家政、さらには地域から国家単位の政治への男女の関与と権限の違いもさまざまですが、「双系的」というか、男女問わず出生集団を離れても出生集団とつながりが維持され、それが社会において時空間や階層間で程度の差はあれ少なくとも一定以上の影響力を有していることこそ、現生人類社会の重要な特徴だと思います。
現生類人猿(現在当ブログでは、語義にしたがって現代人を類人猿に含めておらず、類人猿を単系統群ではなく側系統群と把握しています)社会が基本的には非母系で、現代人と最も近縁な現生分類群であるチンパンジー属が父系的社会を築き、現代人と次に近縁な現生分類群であるゴリラ属の一部が時に父系的集団を築くことから(関連記事)、現代人系統は当初父系的社会を築いており、次第に「双系的」社会へと移行したのではないか、と推測されます。じっさい、現代人の直接的な祖先ではなさそうな人類系統のアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)とパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)では女性が出生集団を離れ、男性が出生集団に留まった、と推測されており、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についても、同様だったもっと強力な証拠が得られていて(ただ、ネアンデルタール人社会がある程度「双系的」だった可能性も無視できないでしょう)、人類の「原始社会」は「母系氏族制」で、社会の「発展」とともに「父系社会」が出現した、というような、唯物史観で採用されて今でも根強く残っていそうな見解は、根本的に間違っているように思います(関連記事)。
本書の主題から話が逸れてしまいましたが、本書の提示する女性の役割に焦点を当てたモンゴル帝国像は、一見すると父系に偏ったように思える社会においても、母系というか女性の役割が大きいことを含めて、現生人類の一類型を示しているように思い、その具体的な様相は興味深いものでした。本書はモンゴル帝国だけではなく、その前身となった集団も含めて、多様な遊牧民集団も取り上げていますが、本書の対象読者のほとんどが日本人と想定されているだろうこともあってか、前近代漢字文化圏に見られるレヴィ=レート婚(レビラト婚)の野蛮視など、文字文化の発達した社会における遊牧民社会への偏見も指摘しています。
一見すると父系に偏ったように思える遊牧社会における女性の役割の大きさの具体的事例の一部として、モンゴルでは母親の愛を謳歌した歌や叙事詩と比較して、父親を題材にした歌がずっと少ないことを、本書は挙げています。そうした背景として本書が挙げるのは、ユーラシア遊牧社会の特徴です。遊牧社会では、経済を掌握して日常的に運営しているのは女性で、男性は戦士であって家庭の日常的な経済には関わらない、というわけです。遊牧社会における女性の役割の大きさは、モンゴルの拡大における有力勢力との双方向の婚姻関係構築にも表れているようで、じっさいに政治で大きな役割を果たした女性も珍しくありませんでした。遊牧社会における有力な女性政治指導者に対する尊称であるガトン(可敦)はハーン(可汗)とともに用いられ、文字記録ではすでに北魏時代から見られるそうです。
モンゴルにおける女性の地位の高さは、本書で紹介されている、チンギス・ハーン(テムージン)が第一夫人であるボルテに大英雄には相応しくない弱気とも思える配慮を見せたり、弟のハサルとの不和を母親のウゲルンに叱責され、ひたすら謝ったりした逸話からも窺えます。当時のモンゴルの女性が、漢字文化圏ではなくヨーロッパのキリスト教世界からはどう見えたのかも、本書は取り上げています。フランチェスコ修道会のプラノ・デ・カルピニは、モンゴルの女性が男性のように馬に乗り、矢を射る女性もいることを報告し、ギョーム・ド・ルブルクは、バト(バアトゥ、バトゥ)の24人の妻が、それぞれ大きな家を1軒ずつ有していた、と記しています。
モンゴルの女性の役割が主題である本書は、姻戚関係も詳しく取り上げており、モンゴル帝国の第4代ハーンのムンケとその弟で第5代ハーンのフビライの即位に貢献したのは、チンギス・ハーンの長男ジョチの次男バトの強力な支持があったからで、その支持の背景として、バトの母親とフビライの妃が姉妹だったことを挙げています。この姉妹は、チンギス・ハーンの母親ウゲルンや第一夫人であるボルテと同じくコンギラート部出身で、コンギラート部とチンギス・ハーンの家系との婚姻は幾重にもわたりました。こうした通婚によってチンギス・ハーンは勢力を拡大して維持し、当然、チンギス・ハーンの娘や妹たちも有力な一族へと嫁ぎます。ハーンに即位したモンケとフビライの母親がキリスト教ネストリウス派の信者だったように、モンゴルにおける宗教への寛容さが窺えます。
チンギス・ハーンを継承したのはオゴダイ・ハーンでしたが、本書での評価は低く、偉大な父に取り入る小賢しさはあったものの、酒に溺れた平凡な人物とされています。1242年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)12月11日、オゴダイ・ハーンは没し、その後4年半にわたって、モンゴル帝国の大ハーンは空位となります。モンゴル帝国にとってこの困難なこの時期に、政治を運営したのは、オゴダイ・ハーンの第六皇后だったトゥレゲネ・ガトンでした。その後も、オゴダイ・ハーンの後継者となったグユクの妃であるオグル・ガイミシュ、チンギス・ハーンの末子でモンケとフビライの父親であるトロイ(トルイ、トゥルイ)の妻ソルカクタニ・ベキ、チャガータイ(チャガタイ)家のオルキナ・ガトンといった女性がモンゴル帝国の政治運営に関わりました。チンギス・ハーンの息子たちやその後継者と側近は、帝国全体の安定的運営よりも自身の領地拡張に熱心で、相互の緊張関係が高まる中で、帝都ハラ・ホリム(カラコルム)や中央アジアで政治を運営していたのは女性辰だった、というわけです。
ただ、後世に男性たちが残した年代記では、こうした女性たちの功績があまり描かれず、むしろ無能とか悪人とか描こうとする意図があったのではないか、と本書は指摘します。後にモンゴル勢力圏の東方のハーンを子孫がほとんど独占したソルカクタニ・ベキを否定する作品はほとんどないものの、モンケ以降、子孫がモンゴル帝国の大ハーンから除外されることになったトゥレゲネ・ガトンは、後世の年代記での評価が芳しくない、と本書は指摘します。トゥレゲネ・ガトンは夫のオゴダイ・ハーン没後、帝都ハラ・ホリムで見事に権力を掌握しますが、それはオゴダイ・ハーンの存命中から政治に関与していたことが大きかったようです。1246年、トゥレゲネ・ガトンの根回しによってクリルタイで息子のグユクが大ハーンに選出され、その直後にトゥレゲネ・ガトンは没します。
トゥレゲネ・ガトンの根回しによって即位したグユク・ハーンは、即位後間もない1248年に没し、本書も指摘するように、不審死だったようです。グユクの父であるオゴダイの即位時にも、チンギス・ハーンの末子トロイの死は謀略と考えられており、勢力が広大になれば、それだけ配下や利権も増えるわけで、各勢力の当主自体にさほど野心がなかったとしても、謀略を駆使してでも自勢力の拡大・保持に走らねばならないところがあったのかもしれません。グユク急死後大ハーンはしばらく空位となり、バトの根回しによって、1251年にケルレン河畔で開かれたクリルタイでトルイとソルカクタニ・ベキとの間の息子のムンケが大ハーンに即位します。ムンケは自分の即位に不満なオゴダイ家とチャガータイ家を抑圧するとともに、その宮廷はオゴダイ家とは異なった様相を示していたようで、オゴダイ家時代にはイスラム教徒の大臣や有力商人が多数いたのに、ムンケ・ハーンの時代はネストリウス派の雰囲気が濃い、と本書は指摘します。
ムンケは南宋への遠征中の1259年8月、伝染病で急逝し、翌年4月に南モンゴルの開平府で開催されたクリルタイで、フビライが大ハーンへの即位を宣言します。一方で、フビライの弟で帝都ハラ・ホリムの留守を任されていたアリク・ブハもクリルタイを開催し、フビライに1ヶ月遅れながら大ハーンに推戴されます。この時点では、先帝の葬儀に参加せず、モンゴル帝国の南東隅に割拠するフビライの方が明らかに「反乱者」だった、と本書は指摘します。フビライとアリク・ブハの兄弟間抗争はユーラシア規模で6年間続き、アリク・ブハがフビライに投降して終わりました。ユーラシア各地のチンギス・ハーンの子孫たちはこれ以降、イラン高原(フレグ・ウルス)とキプチャク草原(ジョチ・ウルス)、中央アジアのマーワラ・アンナフル、東方のモンゴル高原と華北(大元ウルス)などをそれぞれの根拠地としていきますが、この男性たちが政治的内紛に没頭していた期間に、各ウルスの内政を運営していたのは女性たちだった、と本書は指摘します。
フビライは大ハーンに即位後、兄のムンケ・ハーンと同様に中華地域への勢力拡大を図りますが、それに対して、モンゴル人はあくまでもユーラシア草原地帯に留まるべきと考えたのが、オゴダイ・ハーンの第四子であるハシの息子のハイドゥでした。ハイドゥはフビライと対立し、それはフビライ死後まで続きます。フビライ・ハーンの治世でも、滅んだ南宋の皇帝妃も手厚くもてなし、江南の知識人の好感を得るなど、コンギラート部出身の后妃チャムブイ・ガトンの果たした役割が大きかったことを本書は描き出しています。チャムブイ・ガトンがチベット仏教に強い関心を抱いていたことから、大都はチベット仏教色の強い都市になったようです。
1294年、長期にわたって大ハーンとして君臨したフビライが没すると、大元ウルスでは政治的に不安定な状況に陥り、フビライ・ハーンの後継者となった孫のテムルの時代を経て、相次いで大ハーンに即位したハイシャンとアユールバルワダの母親であるダギ・ガトンが大ハーンの継承に大きな影響力を有し、ハイシャンとアユールバルワダの死亡後は、1320年に孫(アユールバルワダの息子)のシディバラを即位させるなど、実権を掌握しましたが、1323年2月にダギ・ガトンが没すると、シディバラは政変により殺害されます。この後も政争は収まりませんでしたが、1333年に即位したカイシャンの孫であるトゴーンテムール(トゴン・テムル)は、朱元璋によって1368年に大都を追われた後も、死亡した1370年まで、長期にわたってハーン位を維持し続けました。
トゴーンテムールは政争で朝鮮半島へと追放されていた期間に出会った高麗出身の奇氏(ウルジイホトク)を寵愛しましたが、高麗がモンゴル帝国に服属して以降、モンゴル帝国と高麗の間の政略結婚が盛んになり、高麗出身者は大元ウルスの宮廷で多数派を占めるようになります。華北の有力者や大元ウルスの東方三王家が、忍耐強く勤勉と評判の高麗出身の少年少女を家庭内使用人(家童)として雇うのは一般的となります。そこで朝鮮半島の有力者は、これをさらに組織化・制度化していき、「高麗貢女」が大元ウルスに提供されるようになり、1231~1363年の間に、少なくとも1479人の「高麗貢女」が大元ウルスに入ったそうです。ドゴーンテムール・ハーンは皇后のウルジイホトクを寵愛しましたが、ウルジイホトクは儒教観念で育っており、そうした宮中の雰囲気の中で、漢字文化で育った政治家はレヴィ=レート婚の禁止をドゴーンテムール・ハーンに要請し、1340年にはついにレヴィ=レート婚が禁止されます。ただ、著者の故郷のオルドスで1970年代までレヴィ=レート婚が続いたように、この禁止令が草原部で実効力を有したとは考えられない、と本書は指摘します。トゴーンテムールの治世は、気候悪化とも関連する14世紀のユーラシア規模の危機によって、統治が揺らいでいきます。長城以南では反乱が相次ぎ、レヴィ=レート婚禁止のような儒教的政策を進める大都のドゴーンテムール・ハーンへの反感もあったのか、コンギラート部や東方三王家は反乱への対処に消極的で、大元ウルスは1368年に大都を喪失します。
大元ウルスは大都の喪失後、明に対して軍事的優勢に立つ局面もあったものの、次第に劣勢になり、帝都ハラ・ホリムは明軍に放火されて廃墟と化していき、1388年にはフビライ家が一旦断絶し、アリク・ブハの末裔がハーンとなります。14世紀のユーラシア規模の危機においてモンゴル帝国の支配が解体していく中で、東方では高麗の軍人だった李成桂が新たに朝鮮王朝を築き、西方ではチャガータイ家に仕える家柄の出身のテムール(ティムール)が台頭します。この頃には、西方に展開していたモンゴル人は、ジョチ・ウルスもそうだったように、テュルク系言語を母語として、イスラム教を信仰するようになります。ユーラシア草原地帯はチンギス・ハーン以前のような群雄割拠状態に戻り、チンギス・ハーン以降、その父系子孫に限られていたハーンも、1453年にはついにオイラートのエセンが即位します。エセン・ハーンはチンギス・ハーンの父系子孫を殺害していきますが、エセン・ハーンの娘のチチクはチンギス・ハーンの父系子孫との間に男子を儲け、父の意向に背いて「貴種」である息子を守ろうとし、ユーラシア草原地帯におけるチンギス・ハーンの強い威光が15世紀にも衰えていなかった、と窺えます。この男子はバヤンムンクと命名され、後にその息子のバトムンクがモンゴルの再統一を果たし、「中興の祖」と崇められます(バトムンク・ダヤン・ハーン)が、それにはマンドル・ハーンの妃で「賢明な妃」と呼ばれ、マンドル・ハーンの死後、かなり年少と考えられるバトムンクと結婚したマンドハイの貢献が大きかったことを、本書は指摘します。
本書は、これまでの日本社会の通俗的な歴史観では見えにくかったと思われる、モンゴル、さらにはユーラシア遊牧社会における女性の役割を描き出しています。近現代日本社会において、ユーラシア遊牧社会における女性の役割を軽視するような通俗的歴史観が定着したように思われるのは、日本が近代以降、とくに第二次世界大戦後に常用漢字の使用が一般的になっても、一応は漢字文化圏に留まったことが大きいのでしょう。つまり、13世紀後半のモンゴル襲来(文永・弘安の役)などはあったものの、前近代において基本的にユーラシア遊牧社会と直接的に接触する機会がきわめて少なかった日本のユーラシア遊牧社会観が、近代以降のヨーロッパの学術および小説や映像作品などの大衆文化とともに、あるいはそれ以上に、前近代から現代にかけての中華地域の漢字文献から強い影響を受けているのではないか、というわけです。レヴィ=レート婚など、本書からは遊牧社会と中華地域との間の価値観の違いの大きさが浮き彫りになり、漢字文化圏の日本は中華地域の漢字文献の価値観をかなりの程度内面化してしまい、遊牧社会を「野蛮」とみなすような心性が根強くあるのではないか、と考えています。まあ、こう思うのは、現代日本社会に生まれ育った日本人の一人として、日本およびヨーロッパ中心主義とともに、「中華中心主義」も克服しなければならないのではないか、との十数年以上前からの個人的な問題意識のためでもあります(関連記事)。ただ、当時、「日本・中華・ヨーロッパ中心主義のなかで、現代日本において中華中心主義を克服しやすいだろうと私が認識している」と述べたのは、今となってはかなり見通しが甘かった、と反省しており、私のような凡人にとってはとくに、「中華中心主義」の克服は日本中心主義やヨーロッパ中心主義との比較で容易と安易には断定できない、と今では考えを改めていますが。
参考文献:
楊海英(2024)『モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち』(講談社)
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