イタリア半島における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行
イタリア半島における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行についての研究(Higham et al., 2024)が公表されました。ヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のみが存在した期間から、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)との共存期間を経て、現生人類のみが存在する期間への変容を意味しています。人類進化史の研究においても、まずヨーロッパにおいて近代的な学術が発展したこともあり、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行に関する研究の蓄積は厚く、現代人とも直接的に関わってくる問題であるだけに、その関心は今でもひじょうに高いように思います。
ヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は、ネアンデルタール人のみの所産と考えられている中部旧石器文化のムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)の縮小および消滅と、現生人類のみの所産と考えられている上部旧石器文化の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)やプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian、先オーリニャック文化)やオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の出現によって特徴づけられます。この間に、中部旧石器とも上部旧石器とも断定的に位置づけることの難しい「移行期インダストリー」があり、ウルツィアン(Ulzzian、ウルツォ文化)やシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)やセレッティアン(Szeletian、セレタ文化)やLRJ(Lincombian–Ranisian–Jerzmanowician、リンコンビアン・ラニシアン・エルツマノウィッチ)などですが、本論文でも指摘されているように、シャテルペロニアンはその「過渡的性格」の見直しを提言されており(Sykes., 2022)、最近の研究では、シャテルペロニアンはIUPよりも「上部旧石器的」と評価されています(Djakovic et al., 2022)。問題を複雑にしているのは、これらのムステリアンと「移行期インダストリー」と初期上部旧石器が時間的に重複している場合もあることです。
そうしたヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期に関する研究において、後期ムステリアンと早期上部旧石器文化が確認されているイタリア半島は重要な地域となります。本論文は、イタリア半島のカヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)とカステルチーヴィタ洞窟(Grotta di Castelcivita)とカラ洞窟(Grotta della Cala)とル・オスクルスキウト岩陰(Riparo l’Oscurusciuto)という4ヶ所の遺跡の新たな年代データを提示し、イタリア半島において、ネアンデルタール人の消滅は初期現生人類の出現に先行していることと、ウルツィアンとプロトオーリナシアンの年代的重複から、両者の担い手が異なるヒト集団である可能性を指摘します。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
旧石器時代のヨーロッパがネアンデルタール人の支配地域から現生人類のみの支配地域へと変容した過程は、究明困難と証明されてきました。曖昧な年代のため、ネアンデルタール人がいつ消滅し、現生人類がネアンデルタール人と重複していたのかどうか、判断は困難でした。イタリアが重要地域なのは、ネアンデルタール人と関連している、と想定される後期ムステリアンインダストリーのみならず、ウルツィアンやオーリナシアンなど初期現生人類の出現と関連する早期上部旧石器時代インダストリーも確認できるからです。本論文は、イタリアの4ヶ所の重要な遺跡である、カヴァッロとカステルチーヴィタとカラとオスクルスキウトから得られた、105年の新たな年代測定決定データセット(放射性炭素年代が74点、発光年代が31点)を提示します。各遺跡の相対的な層序系列とともにこれらの結果を組み入れて、ベイズ依拠年代測定モデルが構築されました。その結果示唆されるのは、(1)この地域においてネアンデルタール人の消滅は初期現生人類の出現に先行し、(2)ウルツィアンとプロトオーリナシアンの年代の部分的重複があったことで、これらのインダストリーがヨーロッパの異なるヒト集団によって製作された可能性を示唆しています。
●研究史
50000~35000年前頃、在来のユーラシア西部人口集団は次第に、元々はアフリカ大陸に由来する現生人類によって次第に置換されました。この時代のヨーロッパは、環境との相互作用のための多様な技術文化的手法を反映している、さまざまな石器製作様式や装飾品慣行や狩猟戦略を示した、文化的実体の万華鏡によって特徴づけられました。主要な4群があり、それは、一般的にネアンデルタール人の所産とされるムステリアン技術複合体、数十年にわたって最後のネアンデルタール人の所産とされてきたいわゆる「移行期インダストリー」(フランスのシャテルペロニアン、イタリア半島とギリシアのウルツィアン、チェコ共和国のセレッティアン、イギリス南部とベルギーとドイツとポーランドのLRJ)、最近になって現生人類と関連づけられた[16、74]ブルガリアとモラヴィアのIUP、現生人類の存在について比較的信頼できる代理と考えられている4万年前頃のオーリナシアン技術複合体(プロトオーリナシアンおよび前期オーリナシアン)です[2]。これらの技術複合体のほとんどがイタリア半島に存在するので、イタリア半島地域は重要な役割を担っており、この期間を記録する重要な層序系列を伴う多くの遺跡があります。
過去10年間、多くの議論がイタリア半島の遺跡から得られ、この地域の全体的な時間的状況を固めています。以前の見解は、顕著に過小評価された実際の年代の結果が優勢でした。この進歩にも関わらず、いくつかの問題が未解決で、改善された年代測定モデル化によって回答可能かもしれません。最も差し迫った問題の一つは、先行するムステリアンの存在との関連におけるウルツィアンの年代順の拡大と、その初期の出現における地域的差異の可能性です。ウルツィアン集団はすでに空白だった地域を植民したのか、あるいは在来住民と直接的に接触したのでしょうか?ウルツィアン集団の出現はウルツィアンが特定されてきたより広い地域全体でほぼ同時だったかもしれないのでしょうか?ウルツィアンの始まりをムステリアン人口集団の終焉と見なせることを考えると、地域規模でのこの技術複合体の始まりと年代範囲の記録が重要になります。もう一つの興味深い問題は、考古学的記録におけるウルツィアンの明らかに急速な消滅、およびオーリナシアンの出現との関係で、特定の遺跡群における層序学的証拠によって示唆されているように、ある集団の別の集団による単なる置換と扱いますか?あるいは、カヴァッロ洞窟やカラ洞窟などの遺跡における最後のウルツィアン集団の石器インダストリーで示唆されているように、在来住民と新参者との間の急速な統合を見ているのでしょうか?オーリナシアンに関する問題、とくにその初期段階を調べると、プロトオーリナシアンはこの問題の解明に洞察を提供できるかもしれません。
本論文では、これらの問題を解決できるかもしれない、イタリア半島南部の4ヶ所の重要な考古学的層序からの105点の放射性炭素および発光年代測定が提示されます。この4ヶ所の遺跡とは、カヴァッロ洞窟、カステルチーヴィタ洞窟、カラ洞窟、オスクルスキウト岩陰です。本論文の目的は、(1)イタリア半島南部におけるムステリアンの終末期の存在とウルツィアンの到来/消滅とオーリナシアンの到来の信頼できる地域的枠組みの取得、(2)年代および層序学的データの統合がイタリア半島中央部~南部のムステリアン/ウルツィアンおよびウルツィアン/オーリナシアン間の相互作用の可能性を示唆するのか、あるいは除外するのかどうかの検証、(3)イタリア半島の南北間を直接的に比較する、イタリア半島全域の現生人類の拡散年代および経路に関する超地域規模での推測です。
最近の研究は、イタリア半島の考古学的技術複合体に存在する多様性に関する理解を大きく改善してきており、これは中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行の根底にある過程の理解にかなり役立ってきました。イタリア半島におけるムステリアンの最終段階は、おもにルヴァロワ(Levallois)および円盤状政策手法によって特徴づけられ、それらには、剥片や細長い原形や石刃や時には小石刃を得るための石核からの注意深い調整が含まれます。このより多くの層の層状でさえある製作へと向かう変化は、ヨーロッパ全域で反映されている傾向です。ムステリアン期には、地元の石材供給源が好まれ、象徴的行動は一般的に欠けています(図1)。イタリア半島におけるオーリナシアンの初期段階は、年代層序の連続で一貫して見られる、いわゆるプロトオーリナシアンと前期オーリナシアン両方の文化的異形によって特徴づけられます。両文化は体系的な小石刃製作を示します。プロトオーリナシアンでは小石刃が打面石核の縮小に由来したのに対して、前期オーリナシアンでは、狩猟採集民における移動性増加と関連している可能性が高い、竜骨型石核(carinated core)利用の顕著な増加が観察されます。いくつかの動産芸術作品とともに、磨製骨器と個人的装飾品と着色物質が、イタリア半島のオーリナシアン期には広範に記録されています。以下は本論文の図1です。
2011年以前には、ウルツィアンは数ヶ所の遺跡で見つかった遺物の過渡的な一群で、ネアンデルタール人と関連づけられており、それはおもにシャテルペロニアンとの推定される類似性に基づいていました。最初にウルツィアンが記載されたイタリア半島南部のカヴァッロ洞窟で1964年に回収されたヒトの乳歯2点の2011年の再分析から、この乳歯2点は現生人類に属し、較正年代で45000~43000年前頃になる、と示唆されました[15]。つまりこれは、現生人類がヨーロッパに少なくともこの時期(当時、カヴァッロ洞窟の年代はヨーロッパにおける現生人類と関連する最古級の年代でした)には存在していたことを意味します。それ以降、ブルガリアのバチョキロ(Bacho Kiro)洞窟[16]とフランス地中海地域のマンドリン洞窟(Grotte Mandrin)[17]における現生人類のより古い出現の存在から、現生人類はウルツィアンのさらに前にヨーロッパに存在していた、と示されました。
最近の研究は、機械的に投射される武器(矢および/もしくは投槍の使用)や個人的装飾品および着色物質の果たした大きな役割や磨製骨器の体系的製作を含めて生計戦略の重要な違いに起因する、ムステリアンのヒト集団とよりも上部旧石器時代とのウルツィアンのより近い行動類似性を示してきました。さらに、ウルツィアンの独特な特徴は、ムステリアンにおける使用とは概念的に大きく異なる製作体系である、台石上での両極打撃顕著な使用を伴う、剥片と小石刃に基づくインダストリーで構成される、という事実にあります[26]。
ウルツィアンの再評価は、この技術複合体を以前にはネアンデルタール人に帰属させたことを覆した他に、残りの「移行期」遺物群をネアンデルタール人に帰属させることに関して疑問を提起しました。最近の研究では、ドイツのテューリンゲン州(Thuringia)のオーラ川(Orla River)流域に位置するラニス(Ranis)のイルゼン洞窟(Ilsenhöhle)遺跡のLRJ技術複合体もおそらく現生人類によって製作された、と論証され、他の研究者の疑いを確証しました。最後に、シャテルペロニアンインダストリーは先行するムステリアン伝統を反映しているのではなく、上部旧石器時的な技術類型論的特徴を示すので、シャテルペロニアン技術複合体も現生人類と関連しているかもしれない、と仮定した学者もいました。したがって、これまで中部旧石器時代から上部旧石器時代の境界で仮定されてきた「移行期インダストリー」の概念と、じっさい「移行期」との用語自体がしだいに疑問を呈されるようになり、先行するムステリアンからの直接的認知がないことに起因して、その関連性と意味をじょじょに失いつつあります。
層序的には、ウルツィアンは常にムステリアンの上で見つかり、両者の間でほとんどの事例で堆積学的不整合が存在します。イタリアでは、遺跡は北東部や中央部に存在し、北東部ではフマネ洞窟(Grotta di Fumane)やブロイオン岩陰(Riparo Broion)、中央部ではトスカーナのラ・ファブリカ洞窟(Grotta La Fabbrica)やラティウムのコッレ・ロトンド(Colle Rotondo)で、とくにイタリア半島の南部では最も重要な層序系列が見られ、たとえば、カヴァッロ洞窟、ウルツォ岩陰洞窟C(Grotta Riparo di Uluzzo C)、セッラ・シコラ洞窟(Grotta di Serra Cicora)、マリオ・ベルナルディーニ洞窟(Grotta Mario Bernardini)、カラ洞窟、カステルチーヴィタ洞窟、ロッチャ・サン・セバスティアーノ洞窟(Grotta Roccia San Sebastiano)です。イタリア中央部~南部では、オーリナシアンの最初期段階が上述のウルツィアン遺跡(ラ・ファブリカ洞窟、セッラ・シコラ洞窟、カラ洞窟、カステルチーヴィタ洞窟)で確認されており、そうした遺跡ではオーリナシアンの最初期段階は一貫してウルツィアンの上に位置し、ウルツィアンとオーリナシアンとの間で層序的不連続(たとえば、遺物のない堆積物、堆積学的中断、侵食事象)がひじょうに多く見られます(図2)。ウルツィアンが存在しないモチ岩陰(Riparo Mochi)やボンブリーニ岩陰(Riparo Bombrini)などイタリア北部の特定の遺跡群でも、層序学的中断は観察されます。この層序学的中断は侵食事象によって特徴づけられ、後期ムステリアン層とその後のプロトオーリナシアン層との間の明確な区分を生み出します。本論文で調べられる4ヶ所の遺跡はすべて、イタリアの中央部~南部地域で見つかっています。以下は本論文の図2です。
カヴァッロ洞窟(以下、カヴァッロと表記)には、深い7mの厚さの考古学的層序があり、中部旧石器時代(N~F層)とウルツィアン(E~D層)とロマネリアン(Romanellian)となる最終上部旧石器時代(B層)と新石器時代(A層)が含まれます。ウルツィアンの層序は主要な3文化段階に区分され(E3層の古代期、E2-1層の発展期、D層の最終期)、上層のFaおよび下層のC2と命名された二つのテフラ(降下火砕堆積物)層間に位置します。Fa層は45500±1000年前のY-6テフラ(パンテッレリーア島の緑色凝灰岩)に帰属させられますが、C2はカンパニア溶結凝灰岩(Campanian Ignimbrite、略してCI)となる39850±140年前のY-5噴火として特定されています。後期ムステリアンとネアンデルタール人との間の関連は、F2層のネアンデルタール人遺骸の発見によって確証されました。
カステルチーヴィタ洞窟(以下、カステルチーヴィタと表記)はチレント地域にあり、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行の全体を網羅しています(後期ムステリアン、ウルツィアン、プロトオーリナシアン、前期オーリナシアン)。ムステリアンの最下層は以前には39000±1300年前と42700±900年前と放射性炭素年代測定(非較正)されましたが、これらの年代は大きく過小評価されている可能性が高い、と認められました。36120±360年前の非較正年代が、最上部ウルツィアン層rsaで得られました。人為的層序はその上部で多層の流華石で埋まっており、流華石ではY-5(IC)噴火に属する火山層が重なり合っています。堆積学的不整合が最後のムステリアンと最初期ウルツィアンとの間に存在します。
カラ洞窟(以下、カラと表記)も、チレント地域に位置する沿岸部の遺跡です。2ヶ所の主要な区域が発掘され、第1区域は規模が約12m²、深さが約3mの試掘坑であり、洞窟の中央部に位置し、「内部連続」と呼ばれています。第2区域は規模が約28m²で、洞窟入口に近く、「吹き抜け連続」として知られています。カラの全体的な考古学的連続体は、約7万年前のムステリアンから青銅器時代までを網羅しており、ウルツィアンとオーリナシアンで始まる重要で詳細な上部旧石器時代連続が含まれています。「吹き抜け」では、カラのオーリナシアンとウルツィアンとムステリアンの層の以前の年代は、驚くべきことに他の遺跡で確証されたパターンと一致せず、放射性炭素年代は予測よりずっと新しいものでした。1970年代のフローレンス放射性炭素研究所と1990年代のオックスフォード放射性炭素加速器単位(Oxford Radiocarbon Accelerator Unit、略してORAU)で、一部が得られました。すべての測定は炭もしくは焼けた骨で得られ、その状況にとってはかなり新しすぎる年代でした。これは、実際の年代が過小評価されることま多い焼けた骨の軽率な選択と、炭の標本の堅牢な前処理の欠如に起因します。これらの結果はカラ遺跡の年代に関する考察から除外するのが最適と考えられます。
ル・オスクルスキウト岩陰は現在のイオニア沿岸から約20kmのジノーザ(Ginosa)峡谷に位置する岩陰遺跡で、オスクルスキウトとも呼ばれます。オスクルスキウト遺跡には急峻な岩壁の底部に位置する約6mの厚さの堆積物が保存されており、いくつかのムステリアン層の証拠が含まれています。発掘された部分では、ムステリアンの居住床(層序単位15)は55000±2000年前のエポメオ山(Mount Epomeo)の緑色凝灰岩の層序単位14である火山噴火によって埋まっていたのが、明らかにされました。その上に位置する層序単位では、層序単位1の底部で利用可能な放射性炭素年代のみによると較正年代で42000~40000年前頃(95.4%の確率)に終わる、ほぼ連続的なムステリアンの占拠が得られました。最上部の層序単位(4~1)では、発掘区域は侵食過程のため大きく縮小しています。
●放射性炭素年代測定
カステルチーヴィタとカヴァッロとカラとオスクルスキウトの放射性炭素年代測定は、それぞれ表1~4で報告されています。カステルチーヴィタでは、窒素含有率分析の適用で、合計19点の骨の標本が得られ、そのうち16点で許容可能なコラーゲン収量が得られました。その後で得られた骨の加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)測定は、コラーゲンでは比例して低いものでした。その化学的前処理が理想的ではなかったことを読者に警告するため、「OxA-X-」の接頭辞が付与されました。境界面12(ウルツィアンのrpi、G13-2区画、12層下部)の骨1点の断片2点がAMS年代測定され、これは限外濾過法を用いて単一アミノ酸ヒドロキシプロリン(single amino acid hydroxyproline、略してHYP)で調整されました。両方の骨断片2点間の統計的類似性から、塊状骨コラーゲンにおいて顕著な汚染はない可能性が高そうである、と示唆されますが、この結論をすべての塊状骨コラーゲンに確信的に拡張する場合、より多くの比較が必要でしょう。
●発光年代測定
発光年代の状況は表5に、その結果は表6に示されます。カステルチーヴィタでは、すべての年代測定は深さと一致し、数千年間しか網羅していないようです。ムステリアン層の標本は同様の年代で、48600±3300年前(CTC_X7030_SB13)と47000±3700年前(CTC_X7030_SB12)です。ムステリアンとウルツィアンとの間の境界の層(rsi境界面18)の年代は39200±3100年前(CTC_X7028_SB11)です。ウルツィアン層のこれらの年代測定の範囲は、41800±2400年前、39500±3500年前、37900±2900年前です。ウルツィアンとプロトオーリナシアンとの間の境界の層では、42400±2800年前の結果が得られ、これは1σ誤差での層序の残りと一致します。その後のプロトオーリナシアンと前期オーリナシアンの層の3点の年代測定は、42400±3700年前と38900±2900年前と36700±3300年前です。
カラでは、すべての年代測定は1σで深さと一致します。ムステリアン層の5点の年代測定の範囲は、74900±8800~50700±5500年前です。ウルツィアン層の4点の年代測定の範囲は、44000±4400~402000±3400年前です。1点の年代測定がオーリナシアン層から得られ、36600±2400年前です。オスクルスキウトの発掘された層序の底部では、特定されていなかったテフラ層の推定年代値が66000±4400年前です。層序単位26と24と19の年代測定は、それぞれ66800±4400年前と60600±3300年前と56500±4400年前です。層序単位13の年代は66600±3700年前で、2σでは層序の残りと一致します。その後の層序単位では、年代測定は1σで一致し、その範囲は52000±3700年前(層序単位11)から38000±2300年前(層序単位3)です。
●ベイズモデル化
OxCalソフトウェア4.4版とIntCal20およびMarine20較正曲線を用いて、年代測定結果で各遺跡のベイズモデルが構築されました。カステルチーヴィタについて構築されたベイズモデルは、外れ値が少なく堅牢なようです(図3)。すべての外れ値確率の範囲は4~10%の間でした。収束値の平均は98.9%でした。ムステリアン層の底部の標本で充分な年代測定可能な炭素を得ることができなかったため、カステルチーヴィタ遺跡におけるヒトの居住開始を確実には年代測定できませんでした。境界面24(カステルチーヴィタ遺跡の最古級の区画)の始まりは最古級の年代層で、この範囲は較正年代で47800~44000年前頃(全範囲は95%の確率)です。最新のムステリアンは境界面19、および境界面18からウルツィアンの開始までのヒトによる洞窟の半ば放棄された段階と関連しています。この境界面内で確認されたのは、8点の道具だけでした。最終ムステリアン境界について、較正年代で43850~43070年前の範囲の最高確率密度(highest probability density、略してHPD)が得られました。以下は本論文の図3です。
ウルツィアンの開始は較正年代で43540~42840年前頃に始まる、と推定されています。境界面11の終わりに、ウルツィアンが終わり、オーリナシアンの初期段階であるプロトオーリナシアンが観察されます。この放射性炭素年代は密にまとまっており、そのモデルは較正年代で40400~39850年前頃の事後範囲を推定します。オーリナシアン層は一連の流華石によって覆われており、この流華石にはCI(もしくは海洋環境ではY-5)噴火の混合層のテフラが含まれています。この前には、CI直前の堆積物で、境界面10および9(上部)のプロトオーリナシアンと、境界面6(上部)と4(下部)の前期オーリナシアンの層序において光刺激ルミネッセンス発光(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)年代が得られ、それはCIの下の年代およびCIに属する年代と完全に一致します。前期オーリナシアンのgic段階の炉床から得られたAMS年代測定は、OSL年代とよく一致します。テフラの堆積物では、洞窟のヒトの居住期間とともにオーリナシアンの層序は終わります。図4は、酸素(O)同位体について、北グリーンランド氷床コア計画(North Greenland Ice Core Project、略してNGRIP)δ¹⁸O曲線と比較した、カステルチーヴィタ遺跡のモデルにおける主要な境界が示されています。以下は本論文の図4です。
カヴァッロ遺跡の年代モデルには、以前に得られた貝殻の年代測定や、重要な初期ウルツィアン層E3の炭および骨での新たな放射性炭素年代測定が含まれます(図5)。これらの骨は、窒素含有率手法を用いて検査されました。OxA-39972-41397の骨の年代範囲は、完全なコラーゲンが残っていると確認され、その後で年代測定されました。単一アミノ酸分析を用いてこれらの年代測定が目指されましたが、抽出後のコラーゲン含有量が少なくすぎ、代わりに限外濾過法実施要綱を用いて年代測定されました。海洋性貝殻の年代測定には、定義されていない海洋貯蔵補正(もしくはDelta_R)値が用いられました。通常、海洋較正曲線とともに先行研究の手法を用いてDelta_R値が適用されますが、標本がひじょうに古く、とくに局所的な彫像の時間的変化の観点で、いくつかの仮定が含まれます。したがって、Delta_R値を変動させ、モデルが最も可能性の高い値を定義できるようにしました。ここでも、C_Dateコマンドを用いて、Y-6およびY-5の灰の層について、テフラのアルゴン/アルゴン(Ar/Ar)年代が含められました。Y-6テフラはモデルの基部に向かって位置し、カヴァッロ遺跡におけるムステリアンの終焉を示します。その下には、フィレンツェ研究所の2点の年代測定が含められました。モデルからOxA-21072が除外され、それは過小評価された結果だからです。以下は本論文の図5です。
E3のウルツィアン層は8点のAMSで年代測定され、そのうち5点には理想的な標準誤差より高いことに加えて、いくつかの注意点があります。「OxA-X-」接頭辞で示される4点の年代測定は、比例してコラーゲン収量が少なく、0.3~0.4%の範囲でした。5番目の測定(OxA-41397)は、燃焼での予測される炭素含有量より少なくなりました(16.6%)。この放射性炭素年代測定は、下限年代と解釈すべきです。6番目の測定(OxA-39972)である炭の年代は酸化と段階的燃焼法で処理され、年代は38110±580年前です。これらの手法では信頼できるAMS年代が得られるので、この測定が正確とみなされます。
このモデルはテフラの年代と放射性炭素年代測定結果との間の良好な一致を示します。3点の注目すべき外れ値がありました。D2期の貝殻の年代測定であるOxA-19257では、事後外れ値確率100%が得られたので、モデルの実行の100%で重み付けが下げられ、ベイズモデルの結果での影響として無視できます。E3の骨の年代測定の1点は、事後外れ値確率を高めました(OxA-X- 3125-16では49%)。将来の研究では、本論文で得られた測定から大きな年代の変更があるのかどうか調べるため、この重要な層のより大きくより保存状態の良好な骨もしくは歯の年代測定の試みに焦点があてられるでしょう。当分は、最古級のウルツィアンの較正年代はカヴァッロでは少なくとも42650~42150年前頃であるものの、このモデルにおける上限年代(terminus post quem)として機能するY-6テフラの年代である較正年代で45000±1000年前より古くはない、と結論づけられます。
カラ洞窟は年代測定の難しい遺跡でした。窒素含有率手法を用いて数点の骨標本が検証されましたが(表3)、残念ながら、これらは全てひじょうに少なく(窒素含有率は0.03~0.09%)、有意なコラーゲンもしくはタンパク質が残っていないことを示唆します。分析のため炭標本も選択されました。得られた1点の重要な結果は、C7区画の炉床のすぐ下で見つかった1点の濃縮から得られた炭標本1点の年代でした。この標本はカラ・アトリオ(Cala Atrio)層序の最上部のオーリナシアンに属しており、境界面12に由来するOSL年代(X7042)の層序的に上に位置することとよく一致します(表6)。まとめると、この結果から、カラのオーリナシアンは較正年代で42050~37400年前頃(95.4%)に始まり、ウルツィアンからプロトオーリナシアンへの移行と大まかに一致する、と示唆されます。しかし、カラのモデルは事後的に精度が低いことに影響を受けています(図6)。それにも関わらず、本論文の結果から、ウルツィアンは以前の放射性炭素年代測定に基づいて考えられていたほど新しくはなく、後期ムステリアンからウルツィアンにかけての層序は今や、時間的に較正年代で45000~40000年前頃に位置し、それ以後ではない、と示されます。ウルツィアンの開始境界は較正年代で45150~40400年前頃(68.3%の確率)と推定されます。これは、より正確に年代測定された他の遺跡で確証されたパターンと一致します。以下は本論文の図6です。
オスクルスキウト遺跡では、10点のOSL年代と1点のAMS年代測定が得られました(図7)。層序からの回収可能な炭の欠如と、オスクルスキウト遺跡のどの骨でもコラーゲンが不足していたため、放射性炭素年代はまたしても困難でした。層序単位11の炭標本1点では、前処理後に回収可能な炭素が得られませんでした。本論文で構築されたベイズモデルにおいて、層序単位14のエポメオ山の緑色凝灰岩から得られた以前のカリウム(K)・アルゴン(Ar)年代が含められました。その上のOSL年代は、正しい年代順に収まりました。1点の測定(X7050)は外れ値で(86%)、層序単位13の位置には古すぎると思われます。この外れ値は層序的に、すべて較正年代で55000年前頃にまとまるエポメオ山の緑色凝灰岩の年代より上に位置しているので、X7050で検出された外れ値の観点では、その信頼性に大きく依存します。さらなる研究が必要です。この層序単位に由来する以前に得られたベータ分析社のAMS年代も、外れ値確率が49%です。得られた唯一のAMS年代は層序単位1に由来しましたが、燃焼時の炭素について予測より低い値のため、「より大きい年代(41600年前頃以前)」となりました。これは当然、下限年代で、ベイズモデルには含められません。以下は本論文の図7です。
まとめると、オスクルスキウトのモデルはこの重要な遺跡のムステリアンについて堅牢な層序を提供します。しかし、移行期層(ウルツィアンとプロトオーリナシアン)の欠如は、世界のこの地域におけるネアンデルタール人から現生人類への生物文化的移行の考察において、その重要性を制約します。さらに、最終ムステリアンの年代推定値の精度は、ネアンデルタール人がイタリア半島で消滅した年代(層序単位1の終焉の年代範囲は95.4%の確率では較正年代で42950~34400年前頃ですが、層序単位3の終焉の分布は二峰性で、その分布のほとんどは較正年代で4万年前頃以前です)の調査においてその重要性を制約します。これらの理由で、オスクルスキウト遺跡は以下の結果の統合ではさらには考察されません。
●考察
本論文で提示された結果は、イタリアにおけるウルツィアンおよびより広く中部旧石器時代から上部旧石器時代への連続の、これまでで最も広範な年代測定研究を表しています。本論文で構築されたさまざまなモデルにおける重要な移行から得られたHPDは、時空間的パターンを調べ、本論文でのさまざまな技術複合体の同時代性および最初/最後の出現に関する問題に回答するため比較できます。この考察を通じて、ムステリアン技術複合体はネアンデルタール人のみと関連しており、ウルツィアンおよびプロトオーリナシアンは現生人類とのみ関連している、と想定されます。
まず、最終ムステリアンの境界からHPDが比較されます。この分析にはカヴァッロおよびカステルチーヴィタと、以前に年代測定されたモチ岩陰やフマネ洞窟[60]やリオ・セッコ洞窟(Grotta di Rio Secco)やブロイオン岩陰[62]やレアリ洞窟(Grotta Reali)など他のイタリアの遺跡が含まれます(図8)。まとめると、10点のAMS年代測定に基づくこの結果は密接に一致しているようで、堅牢です。高度な重複と類似性が観察され、これが示唆するのは、較正年代で43000年前頃までにムステリアンはイタリア半島の全体にわたって終焉したものの、一部の遺跡(たとえば、リオ・セッコ洞窟)では、ムステリアンの存在がこのずっと前に終焉したようである、ということです。この結果はイタリア半島のムステリアンのほぼ同時の終焉(もしくはネアンデルタール人によるこれらの遺跡の放棄)年代を強く示唆します。以下は本論文の図8です。
カヴァッロでは、Fa層のY-6テフラは、ネアンデルタール人による洞窟の放棄のよく定義された限年代(terminus ante quem)を表しています。この薄い層は最後のムステリアンのFI層を覆っており、ウルツィアンの存在の基準を構成するFs層からFI層を分離します。層序的には、後期ムステリアンとウルツィアンとの間の年代間隔は堆積作用の中断に相当します。E3層の年代から、カヴァッロ遺跡のウルツィアンの始まりは以前の判断[15]より新しいかもしれず、そのため層序学的証拠のさらなる確証を提供する、と示唆されます。これが示唆するのは、ウルツィアンにより表される現生人類の到来前に、ネアンデルタール人はカヴァッロ遺跡、おそらくはより広範な地域を去った、ということです。これはより多くの適切に年代測定されてベイズモデル化された遺跡で検証できますが、現在の証拠では、堅牢な結論のようです。先行研究[60]の手法を最用いてイタリア半島全域の終ムステリアンの確率分布が計算され、個々のモデルの境界がある期間内の事前分布として扱われました。これによって、最終ムステリアンの較正年代は43700~41850年前頃(95.4%の確率)となります(図8)。
次に、ウルツィアンおよびプロトオーリナシアンインダストリーの開始境界を表すモデルの部分を始めます。これらは図9に要約されています。ウルツィアンのHPDは3点が含まれているだけです。最近のカンパニア州のモンドラゴーネ(Mondragone)のロッチャ・サン・セバスティアーノ洞窟の中部旧石器時代から上部旧石器時代の堆積物からも利用可能ですが、この遺跡のウルツィアン層内の一部の混合の特定のため、検討されません。フマネ洞窟のA3期では、古代からのある程度の堆積後の攪乱も認められており、恐らくはA2層のプロトオーリナシアンの住民の行なった活動が原因です。したがって、この層の年代データは、少なくともA3遺物群の徹底的な化石生成論および地質考古学的改訂が行なわれ、新たなAMSおよびOSL年代が刊行されるまで、注意深く扱われねばなりません。以下は本論文の図9です。
OxCalの順序命令を用いて、構築されたモデルについて境界における事象の最も可能性の高い順番が判断されました。カステルチーヴィタ遺跡では、ウルツィアンの開始はムステリアンの終焉と一致するので、その分布は同じです。本論文の分析では、カステルチーヴィタ遺跡のウルツィアンはカヴァッロ遺跡より古い(97.9%の確率)、と示され、ネアンデルタール人の放棄もしくは消滅に続く、現生人類によるカヴァッロ遺跡のウルツィアン占拠における間隙との上述の見解が裏づけられます。あるいは、これまで徹底的に年代測定されていないカヴァッロ遺跡の最古級のウルツィアンは、実際の年代のわずかな過小評価を表しています。
この結果は、ブロイオン岩陰とも比較されました(図9)。その結果、カステルチーヴィタ遺跡のウルツィアンは77.1%の確率でブロイオン遺跡の同じ段階の前に始まったものの、ブロイオン遺跡のウルツィアンはさほど適切に年代測定されておらず、間違いなくさらなる研究が必要である、と分かりました。全体的に、本論文のモデル化の結果から、ウルツィアンはイタリア半島の北部と南部で同時には始まらなかった、と示唆されます。現時点のデータはウルツィアンがイタリア半島南部で最初に出現したことを示唆しますが、イタリア半島北部のデータが限定的であることに要注意です。
もう一つの重要な問題は、イタリア半島におけるプロトオーリナシアンの拡散において時空間的パターンがあるのかどうかです。数人の学者は北方から南方へのプロトオーリナシアン技術複合体の移動の可能性を示唆してきましたが、この検証のためのデータは充分ではありませんでした。これをさらに調べるため、フマネ洞窟とモチ岩陰とカステルチーヴィタ遺跡のプロトオーリナシアン(カラ遺跡はHPD領域の不正確のため除外されました)についてHPDが比較されました(図9)。HPDにおける勾配が観察されるので、モチ岩陰の最古級のHPDはイタリア半島北部に出現し、次にそのわずか後にカステルチーヴィタ遺跡でイタリア半島南部に出現します。統計的観点では、モチ岩陰のプロトオーリナシアンのHPDはカステルチーヴィタ遺跡よりも大幅に古くなります。本論文の順序分析から、モチ岩陰は98.9%の確率でカステルチーヴィタ遺跡に先行し、フマネ洞窟は68.1%の確率でカステルチーヴィタ遺跡よりも遅い、と確証されます。これは、プロトオーリナシアンがイタリア半島北部でより古くに始まり、次に遅れてイタリア半島南部で始まったことを示唆します。興味深いことに、このデータからは、イタリア半島南部において、ずっと後までプロトオーリナシアンが存在しない状況でウルツィアンが存続したことも示されます。これは、これらの遺跡からモデル化されたデータの以前の観察と一致します。たとえば、記録が最も信頼できるカステルチーヴィタ遺跡では、ウルツィアンとプロトオーリナシアンの境界は較正年代で41770~39940年前頃です。
年代命令を用いて、すべての遺跡の3点の主要な技術複合体について年代の全範囲も調べられました。これらは図10に示されています。この結果は基本的に、上述の観察を裏づけます。イタリア半島北部における最古級のプロトオーリナシアンとイタリア半島南部における最新のウルツィアンとの間で、ある程度の重複があります。OxCal でKDE(Kernel Density Estimate、カーネル密度推定)モデルを用いて構築されたモデルと、この年代範囲が比較されました(図10)。KDEモデルの結果から、イタリア半島全域でウルツィアンは較正年代で43120~41370年前頃(68.2%の確率)および44580~39790年前頃(95.4%の確率)のうち42200年前頃の直前に集中する、と示されます。本論文はより正確な年代範囲内でのウルツィアンの長さの制約も可能とし、ウルツィアン技術複合体が合計でちょうど2000年間存続し、それはこのインダストリーの製作者がプロトオーリナシアン技術複合体の担い手によって同化/置換される前のことで、これはカラ遺跡やカヴァッロ遺跡のD層やカステルチーヴィタ遺跡のrsaにおけるオーリナシアン的技術要素の存在(縁側背付き小石刃、オーリナシアン石刃、層状製作戦略の特定の人工遺物と再加工されていない小石刃)によって示唆されている、と示します。以下は本論文の図10です。
後期ムステリアンとウルツィアンとの間の年代層序学的間隙は、ムステリアンからの特性が識別可能ではないウルツィアンの石器一式の技術類型論的特徴によって裏づけられます。ウルツィアンとオーリナシアンとの間の会計の定義はより困難で、それは、層序的記録から得られたデータと石器インダストリーがある場合には矛盾しているように見えるからです。ラ・ファブリカ洞窟やラ・カラ(La Cala)のような遺跡における堆積学的不連続性の証拠がありますが、対照的に、カヴァッロ遺跡やカラ遺跡やカステルチーヴィタ遺跡における最新のウルツィアン層におけるオーリナシアン的石器要素の存在が注目され、これは単なる置換ではなく、文化的相互作用、おそらくはプロトオーリナシアンによるウルツィアンの同化過程を示唆しているかもしれません。この同化過程は、その後のイタリア半島南部のプロトオーリナシアンおよび前期オーリナシアン期における、ウルツィアンの顕著な特徴である両極技術の採用によってさらに裏づけられます。興味深いことに、両極技術はイタリア半島北部全域のオーリナシアンでは、顕著に少ないか、欠如さえしています。これまで、ウルツィアンとプロトオーリナシアンの連続を含む遺跡は信頼できる状況を提供するには少なすぎ、置換と同化の両方が局所的規模では有効と考えられるかもしれません。データの視覚化に役立てるため、時空間的地図が作成され(図11)、この地図は時空間全体にわたるさまざまなインダストリーのKDE時間範囲の分布を示します。以下は本論文の図11です。
先行研究は、イタリア半島へのウルツィアン技術を有するヒトについて、可能性のある2経路を提案しました。一方の仮説がギリシアからプッリャ州までのオトラント海峡を横断する直接的通過を示唆したのに対して、もう一方の仮説は、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3における、現代のアンコーナ(Ancona)の南側となるコーネロ・プロモントリー(Conero Promontory)を横断してそこから拡大する、バルカン半島のアドリア海沿いの経路を提案しました。オトラント海経路は、渡海の難しさにも関わらず、プッリャ州における年代測定の示した45000年前頃となるウルツィアンの最初の出現と一致する、と考えられています。
本論文で提示された年代測定データはオトラント海経路に有利なようですが、二つの異なる拡散経路の可能性を除外できず、イタリア半島北部(たとえば、フマネ洞窟)からのより多くのデータがこの状況を大きく変える可能性も残っています。しかし、プロトオーリナシアンの拡散に関しては、異なる筋書きも現れます。このインダストリーは、ウルツィアンがイタリア半島南部でまだ存続していた較正年代で42000年前頃にモチ岩陰においてイタリア半島北西部にまず出現します。プロトオーリナシアンの遅れた出現はカステルチーヴィタ遺跡においてとくに明らかで、注目すべきことに、カヴァッロ遺跡ではプロトオーリナシアン層が完全に欠けています。層序学的にウルツィアンの堆積物と重なっているプロトオーリナシアンの存在のあり得る証拠は近隣のセッラ・シコラ遺跡において特定されてきましたが、セッラ・シコラ洞窟の年代および改訂された考古学的データの欠如のため、課題となっています。
ウルツィアンおよびオーリナシアン集団の時間的重複は、これらのインダストリーが単一の人口集団によって作られたのか、あるいは異なる集団によって作られたのか、ということに関して問題を提起します。ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase、略してPO)」、ブルガリアのバチョキロ(Bacho Kiro)洞窟、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された洞窟群のズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる頂上の丘、シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手などの遺跡から発見された、ヨーロッパにおける最古級の現生人類集団に関する最近の遺伝学的証拠では、現生人類のいくつかの異なる人口集団がユーラシアの早期上部旧石器時代には存在した、と示されてきました[72~75]。先行研究[74]では、人口置換の連続的な波がヨーロッパの中部旧石器時代から上部旧石器時代において起きたかもしれない、と示唆されました(他の参考文献[75]も参照)。イタリア半島のウルツィアンおよびプロトオーリナシアンインダストリーも、異なる人口集団によって製作されたかもしれません。あるいは、これらのインダストリーはさまざまな地理的地域の単一の人口集団の適応戦略における差異を反映しているのかもしれません。最後に、混合集団もしくは交雑した人口集団の共存は除外できません。ウルツィアンの状況で発見されたヒト遺骸からの古代の回収は、これら代替案の解決とこの期間におけるヒトの移動および文化的交流の複雑な動態の調査において重要な段階になるでしょう[76]。
まとめると、本論文では、中部旧石器時代から上部旧石器時代にわたるイタリアの4ヶ所の遺跡からAMSおよびOSL年代測定一式が得られました。ベイズモデルは強い収束と堅牢な結果を示し、有意性の外れ値はあるとしてもごく僅かです。AMSおよびOSL年代測定結果はよく一致しており、これは考古学的年代測定ではあまり見られません。この結果によって、イタリア半島全域のムステリアンの終焉やウルツィアンおよびプロトオーリナシアンの開始年代を示すモデルにおいて重要な境界の比較が、それによって詳細な年代の解釈が可能となります。最古級のウルツィアンの年代は以前に考えられていた[60]よりもやや新しく、これはおもに更新されたIntCal20較正曲線に起因します。ウルツィアンは、以前に示唆されたように較正年代で45000年前頃の直後に始まるのではなく、較正年代で43120~41370年前頃(68.2%の確率)および44580~39790年前頃(95.4%の確率)となります。データは限定的ですが、この結果はイタリア半島南部にわけるウルツィアンのわずかに古い出現を示唆しています。これは、確認された物質文化と装飾品の観点で、イタリアおよびギリシア全域のウルツィアンの顕著な均質性および強い独自性にも関わらず、当てはまります。ウルツォ湾(Uluzzo Bay)では、開始がわずかに遅いと示唆されていますが、これはカヴァッロ遺跡における最古級のE3層の年代測定の難しさで隠されているかもしれません。これは、引き続き研究していることです。
ネアンデルタール人がイタリア半島を去った可能性が最も高い、という意味で、イタリア半島においてウルツィアンの拡大前にネアンデルタール人の人口減少があったかもしれない、との証拠も見られます。たとえばカヴァッロ遺跡では、ウルツィアンの存在はY-6テフラの堆積後にようやく始まり、ウルツィアン技術複合体の開始の上限年代を提供します。より広範な証拠から、42500年前頃にイタリア半島へと拡散した初期現生人類集団はおそらく、在来のネアンデルタール人とは、あったとしても殆ど遭遇しなかった、と示唆されます。
参考文献:
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ヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は、ネアンデルタール人のみの所産と考えられている中部旧石器文化のムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)の縮小および消滅と、現生人類のみの所産と考えられている上部旧石器文化の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)やプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian、先オーリニャック文化)やオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の出現によって特徴づけられます。この間に、中部旧石器とも上部旧石器とも断定的に位置づけることの難しい「移行期インダストリー」があり、ウルツィアン(Ulzzian、ウルツォ文化)やシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)やセレッティアン(Szeletian、セレタ文化)やLRJ(Lincombian–Ranisian–Jerzmanowician、リンコンビアン・ラニシアン・エルツマノウィッチ)などですが、本論文でも指摘されているように、シャテルペロニアンはその「過渡的性格」の見直しを提言されており(Sykes., 2022)、最近の研究では、シャテルペロニアンはIUPよりも「上部旧石器的」と評価されています(Djakovic et al., 2022)。問題を複雑にしているのは、これらのムステリアンと「移行期インダストリー」と初期上部旧石器が時間的に重複している場合もあることです。
そうしたヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期に関する研究において、後期ムステリアンと早期上部旧石器文化が確認されているイタリア半島は重要な地域となります。本論文は、イタリア半島のカヴァッロ洞窟(Grotta del Cavallo)とカステルチーヴィタ洞窟(Grotta di Castelcivita)とカラ洞窟(Grotta della Cala)とル・オスクルスキウト岩陰(Riparo l’Oscurusciuto)という4ヶ所の遺跡の新たな年代データを提示し、イタリア半島において、ネアンデルタール人の消滅は初期現生人類の出現に先行していることと、ウルツィアンとプロトオーリナシアンの年代的重複から、両者の担い手が異なるヒト集団である可能性を指摘します。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
旧石器時代のヨーロッパがネアンデルタール人の支配地域から現生人類のみの支配地域へと変容した過程は、究明困難と証明されてきました。曖昧な年代のため、ネアンデルタール人がいつ消滅し、現生人類がネアンデルタール人と重複していたのかどうか、判断は困難でした。イタリアが重要地域なのは、ネアンデルタール人と関連している、と想定される後期ムステリアンインダストリーのみならず、ウルツィアンやオーリナシアンなど初期現生人類の出現と関連する早期上部旧石器時代インダストリーも確認できるからです。本論文は、イタリアの4ヶ所の重要な遺跡である、カヴァッロとカステルチーヴィタとカラとオスクルスキウトから得られた、105年の新たな年代測定決定データセット(放射性炭素年代が74点、発光年代が31点)を提示します。各遺跡の相対的な層序系列とともにこれらの結果を組み入れて、ベイズ依拠年代測定モデルが構築されました。その結果示唆されるのは、(1)この地域においてネアンデルタール人の消滅は初期現生人類の出現に先行し、(2)ウルツィアンとプロトオーリナシアンの年代の部分的重複があったことで、これらのインダストリーがヨーロッパの異なるヒト集団によって製作された可能性を示唆しています。
●研究史
50000~35000年前頃、在来のユーラシア西部人口集団は次第に、元々はアフリカ大陸に由来する現生人類によって次第に置換されました。この時代のヨーロッパは、環境との相互作用のための多様な技術文化的手法を反映している、さまざまな石器製作様式や装飾品慣行や狩猟戦略を示した、文化的実体の万華鏡によって特徴づけられました。主要な4群があり、それは、一般的にネアンデルタール人の所産とされるムステリアン技術複合体、数十年にわたって最後のネアンデルタール人の所産とされてきたいわゆる「移行期インダストリー」(フランスのシャテルペロニアン、イタリア半島とギリシアのウルツィアン、チェコ共和国のセレッティアン、イギリス南部とベルギーとドイツとポーランドのLRJ)、最近になって現生人類と関連づけられた[16、74]ブルガリアとモラヴィアのIUP、現生人類の存在について比較的信頼できる代理と考えられている4万年前頃のオーリナシアン技術複合体(プロトオーリナシアンおよび前期オーリナシアン)です[2]。これらの技術複合体のほとんどがイタリア半島に存在するので、イタリア半島地域は重要な役割を担っており、この期間を記録する重要な層序系列を伴う多くの遺跡があります。
過去10年間、多くの議論がイタリア半島の遺跡から得られ、この地域の全体的な時間的状況を固めています。以前の見解は、顕著に過小評価された実際の年代の結果が優勢でした。この進歩にも関わらず、いくつかの問題が未解決で、改善された年代測定モデル化によって回答可能かもしれません。最も差し迫った問題の一つは、先行するムステリアンの存在との関連におけるウルツィアンの年代順の拡大と、その初期の出現における地域的差異の可能性です。ウルツィアン集団はすでに空白だった地域を植民したのか、あるいは在来住民と直接的に接触したのでしょうか?ウルツィアン集団の出現はウルツィアンが特定されてきたより広い地域全体でほぼ同時だったかもしれないのでしょうか?ウルツィアンの始まりをムステリアン人口集団の終焉と見なせることを考えると、地域規模でのこの技術複合体の始まりと年代範囲の記録が重要になります。もう一つの興味深い問題は、考古学的記録におけるウルツィアンの明らかに急速な消滅、およびオーリナシアンの出現との関係で、特定の遺跡群における層序学的証拠によって示唆されているように、ある集団の別の集団による単なる置換と扱いますか?あるいは、カヴァッロ洞窟やカラ洞窟などの遺跡における最後のウルツィアン集団の石器インダストリーで示唆されているように、在来住民と新参者との間の急速な統合を見ているのでしょうか?オーリナシアンに関する問題、とくにその初期段階を調べると、プロトオーリナシアンはこの問題の解明に洞察を提供できるかもしれません。
本論文では、これらの問題を解決できるかもしれない、イタリア半島南部の4ヶ所の重要な考古学的層序からの105点の放射性炭素および発光年代測定が提示されます。この4ヶ所の遺跡とは、カヴァッロ洞窟、カステルチーヴィタ洞窟、カラ洞窟、オスクルスキウト岩陰です。本論文の目的は、(1)イタリア半島南部におけるムステリアンの終末期の存在とウルツィアンの到来/消滅とオーリナシアンの到来の信頼できる地域的枠組みの取得、(2)年代および層序学的データの統合がイタリア半島中央部~南部のムステリアン/ウルツィアンおよびウルツィアン/オーリナシアン間の相互作用の可能性を示唆するのか、あるいは除外するのかどうかの検証、(3)イタリア半島の南北間を直接的に比較する、イタリア半島全域の現生人類の拡散年代および経路に関する超地域規模での推測です。
最近の研究は、イタリア半島の考古学的技術複合体に存在する多様性に関する理解を大きく改善してきており、これは中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行の根底にある過程の理解にかなり役立ってきました。イタリア半島におけるムステリアンの最終段階は、おもにルヴァロワ(Levallois)および円盤状政策手法によって特徴づけられ、それらには、剥片や細長い原形や石刃や時には小石刃を得るための石核からの注意深い調整が含まれます。このより多くの層の層状でさえある製作へと向かう変化は、ヨーロッパ全域で反映されている傾向です。ムステリアン期には、地元の石材供給源が好まれ、象徴的行動は一般的に欠けています(図1)。イタリア半島におけるオーリナシアンの初期段階は、年代層序の連続で一貫して見られる、いわゆるプロトオーリナシアンと前期オーリナシアン両方の文化的異形によって特徴づけられます。両文化は体系的な小石刃製作を示します。プロトオーリナシアンでは小石刃が打面石核の縮小に由来したのに対して、前期オーリナシアンでは、狩猟採集民における移動性増加と関連している可能性が高い、竜骨型石核(carinated core)利用の顕著な増加が観察されます。いくつかの動産芸術作品とともに、磨製骨器と個人的装飾品と着色物質が、イタリア半島のオーリナシアン期には広範に記録されています。以下は本論文の図1です。
2011年以前には、ウルツィアンは数ヶ所の遺跡で見つかった遺物の過渡的な一群で、ネアンデルタール人と関連づけられており、それはおもにシャテルペロニアンとの推定される類似性に基づいていました。最初にウルツィアンが記載されたイタリア半島南部のカヴァッロ洞窟で1964年に回収されたヒトの乳歯2点の2011年の再分析から、この乳歯2点は現生人類に属し、較正年代で45000~43000年前頃になる、と示唆されました[15]。つまりこれは、現生人類がヨーロッパに少なくともこの時期(当時、カヴァッロ洞窟の年代はヨーロッパにおける現生人類と関連する最古級の年代でした)には存在していたことを意味します。それ以降、ブルガリアのバチョキロ(Bacho Kiro)洞窟[16]とフランス地中海地域のマンドリン洞窟(Grotte Mandrin)[17]における現生人類のより古い出現の存在から、現生人類はウルツィアンのさらに前にヨーロッパに存在していた、と示されました。
最近の研究は、機械的に投射される武器(矢および/もしくは投槍の使用)や個人的装飾品および着色物質の果たした大きな役割や磨製骨器の体系的製作を含めて生計戦略の重要な違いに起因する、ムステリアンのヒト集団とよりも上部旧石器時代とのウルツィアンのより近い行動類似性を示してきました。さらに、ウルツィアンの独特な特徴は、ムステリアンにおける使用とは概念的に大きく異なる製作体系である、台石上での両極打撃顕著な使用を伴う、剥片と小石刃に基づくインダストリーで構成される、という事実にあります[26]。
ウルツィアンの再評価は、この技術複合体を以前にはネアンデルタール人に帰属させたことを覆した他に、残りの「移行期」遺物群をネアンデルタール人に帰属させることに関して疑問を提起しました。最近の研究では、ドイツのテューリンゲン州(Thuringia)のオーラ川(Orla River)流域に位置するラニス(Ranis)のイルゼン洞窟(Ilsenhöhle)遺跡のLRJ技術複合体もおそらく現生人類によって製作された、と論証され、他の研究者の疑いを確証しました。最後に、シャテルペロニアンインダストリーは先行するムステリアン伝統を反映しているのではなく、上部旧石器時的な技術類型論的特徴を示すので、シャテルペロニアン技術複合体も現生人類と関連しているかもしれない、と仮定した学者もいました。したがって、これまで中部旧石器時代から上部旧石器時代の境界で仮定されてきた「移行期インダストリー」の概念と、じっさい「移行期」との用語自体がしだいに疑問を呈されるようになり、先行するムステリアンからの直接的認知がないことに起因して、その関連性と意味をじょじょに失いつつあります。
層序的には、ウルツィアンは常にムステリアンの上で見つかり、両者の間でほとんどの事例で堆積学的不整合が存在します。イタリアでは、遺跡は北東部や中央部に存在し、北東部ではフマネ洞窟(Grotta di Fumane)やブロイオン岩陰(Riparo Broion)、中央部ではトスカーナのラ・ファブリカ洞窟(Grotta La Fabbrica)やラティウムのコッレ・ロトンド(Colle Rotondo)で、とくにイタリア半島の南部では最も重要な層序系列が見られ、たとえば、カヴァッロ洞窟、ウルツォ岩陰洞窟C(Grotta Riparo di Uluzzo C)、セッラ・シコラ洞窟(Grotta di Serra Cicora)、マリオ・ベルナルディーニ洞窟(Grotta Mario Bernardini)、カラ洞窟、カステルチーヴィタ洞窟、ロッチャ・サン・セバスティアーノ洞窟(Grotta Roccia San Sebastiano)です。イタリア中央部~南部では、オーリナシアンの最初期段階が上述のウルツィアン遺跡(ラ・ファブリカ洞窟、セッラ・シコラ洞窟、カラ洞窟、カステルチーヴィタ洞窟)で確認されており、そうした遺跡ではオーリナシアンの最初期段階は一貫してウルツィアンの上に位置し、ウルツィアンとオーリナシアンとの間で層序的不連続(たとえば、遺物のない堆積物、堆積学的中断、侵食事象)がひじょうに多く見られます(図2)。ウルツィアンが存在しないモチ岩陰(Riparo Mochi)やボンブリーニ岩陰(Riparo Bombrini)などイタリア北部の特定の遺跡群でも、層序学的中断は観察されます。この層序学的中断は侵食事象によって特徴づけられ、後期ムステリアン層とその後のプロトオーリナシアン層との間の明確な区分を生み出します。本論文で調べられる4ヶ所の遺跡はすべて、イタリアの中央部~南部地域で見つかっています。以下は本論文の図2です。
カヴァッロ洞窟(以下、カヴァッロと表記)には、深い7mの厚さの考古学的層序があり、中部旧石器時代(N~F層)とウルツィアン(E~D層)とロマネリアン(Romanellian)となる最終上部旧石器時代(B層)と新石器時代(A層)が含まれます。ウルツィアンの層序は主要な3文化段階に区分され(E3層の古代期、E2-1層の発展期、D層の最終期)、上層のFaおよび下層のC2と命名された二つのテフラ(降下火砕堆積物)層間に位置します。Fa層は45500±1000年前のY-6テフラ(パンテッレリーア島の緑色凝灰岩)に帰属させられますが、C2はカンパニア溶結凝灰岩(Campanian Ignimbrite、略してCI)となる39850±140年前のY-5噴火として特定されています。後期ムステリアンとネアンデルタール人との間の関連は、F2層のネアンデルタール人遺骸の発見によって確証されました。
カステルチーヴィタ洞窟(以下、カステルチーヴィタと表記)はチレント地域にあり、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行の全体を網羅しています(後期ムステリアン、ウルツィアン、プロトオーリナシアン、前期オーリナシアン)。ムステリアンの最下層は以前には39000±1300年前と42700±900年前と放射性炭素年代測定(非較正)されましたが、これらの年代は大きく過小評価されている可能性が高い、と認められました。36120±360年前の非較正年代が、最上部ウルツィアン層rsaで得られました。人為的層序はその上部で多層の流華石で埋まっており、流華石ではY-5(IC)噴火に属する火山層が重なり合っています。堆積学的不整合が最後のムステリアンと最初期ウルツィアンとの間に存在します。
カラ洞窟(以下、カラと表記)も、チレント地域に位置する沿岸部の遺跡です。2ヶ所の主要な区域が発掘され、第1区域は規模が約12m²、深さが約3mの試掘坑であり、洞窟の中央部に位置し、「内部連続」と呼ばれています。第2区域は規模が約28m²で、洞窟入口に近く、「吹き抜け連続」として知られています。カラの全体的な考古学的連続体は、約7万年前のムステリアンから青銅器時代までを網羅しており、ウルツィアンとオーリナシアンで始まる重要で詳細な上部旧石器時代連続が含まれています。「吹き抜け」では、カラのオーリナシアンとウルツィアンとムステリアンの層の以前の年代は、驚くべきことに他の遺跡で確証されたパターンと一致せず、放射性炭素年代は予測よりずっと新しいものでした。1970年代のフローレンス放射性炭素研究所と1990年代のオックスフォード放射性炭素加速器単位(Oxford Radiocarbon Accelerator Unit、略してORAU)で、一部が得られました。すべての測定は炭もしくは焼けた骨で得られ、その状況にとってはかなり新しすぎる年代でした。これは、実際の年代が過小評価されることま多い焼けた骨の軽率な選択と、炭の標本の堅牢な前処理の欠如に起因します。これらの結果はカラ遺跡の年代に関する考察から除外するのが最適と考えられます。
ル・オスクルスキウト岩陰は現在のイオニア沿岸から約20kmのジノーザ(Ginosa)峡谷に位置する岩陰遺跡で、オスクルスキウトとも呼ばれます。オスクルスキウト遺跡には急峻な岩壁の底部に位置する約6mの厚さの堆積物が保存されており、いくつかのムステリアン層の証拠が含まれています。発掘された部分では、ムステリアンの居住床(層序単位15)は55000±2000年前のエポメオ山(Mount Epomeo)の緑色凝灰岩の層序単位14である火山噴火によって埋まっていたのが、明らかにされました。その上に位置する層序単位では、層序単位1の底部で利用可能な放射性炭素年代のみによると較正年代で42000~40000年前頃(95.4%の確率)に終わる、ほぼ連続的なムステリアンの占拠が得られました。最上部の層序単位(4~1)では、発掘区域は侵食過程のため大きく縮小しています。
●放射性炭素年代測定
カステルチーヴィタとカヴァッロとカラとオスクルスキウトの放射性炭素年代測定は、それぞれ表1~4で報告されています。カステルチーヴィタでは、窒素含有率分析の適用で、合計19点の骨の標本が得られ、そのうち16点で許容可能なコラーゲン収量が得られました。その後で得られた骨の加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)測定は、コラーゲンでは比例して低いものでした。その化学的前処理が理想的ではなかったことを読者に警告するため、「OxA-X-」の接頭辞が付与されました。境界面12(ウルツィアンのrpi、G13-2区画、12層下部)の骨1点の断片2点がAMS年代測定され、これは限外濾過法を用いて単一アミノ酸ヒドロキシプロリン(single amino acid hydroxyproline、略してHYP)で調整されました。両方の骨断片2点間の統計的類似性から、塊状骨コラーゲンにおいて顕著な汚染はない可能性が高そうである、と示唆されますが、この結論をすべての塊状骨コラーゲンに確信的に拡張する場合、より多くの比較が必要でしょう。
●発光年代測定
発光年代の状況は表5に、その結果は表6に示されます。カステルチーヴィタでは、すべての年代測定は深さと一致し、数千年間しか網羅していないようです。ムステリアン層の標本は同様の年代で、48600±3300年前(CTC_X7030_SB13)と47000±3700年前(CTC_X7030_SB12)です。ムステリアンとウルツィアンとの間の境界の層(rsi境界面18)の年代は39200±3100年前(CTC_X7028_SB11)です。ウルツィアン層のこれらの年代測定の範囲は、41800±2400年前、39500±3500年前、37900±2900年前です。ウルツィアンとプロトオーリナシアンとの間の境界の層では、42400±2800年前の結果が得られ、これは1σ誤差での層序の残りと一致します。その後のプロトオーリナシアンと前期オーリナシアンの層の3点の年代測定は、42400±3700年前と38900±2900年前と36700±3300年前です。
カラでは、すべての年代測定は1σで深さと一致します。ムステリアン層の5点の年代測定の範囲は、74900±8800~50700±5500年前です。ウルツィアン層の4点の年代測定の範囲は、44000±4400~402000±3400年前です。1点の年代測定がオーリナシアン層から得られ、36600±2400年前です。オスクルスキウトの発掘された層序の底部では、特定されていなかったテフラ層の推定年代値が66000±4400年前です。層序単位26と24と19の年代測定は、それぞれ66800±4400年前と60600±3300年前と56500±4400年前です。層序単位13の年代は66600±3700年前で、2σでは層序の残りと一致します。その後の層序単位では、年代測定は1σで一致し、その範囲は52000±3700年前(層序単位11)から38000±2300年前(層序単位3)です。
●ベイズモデル化
OxCalソフトウェア4.4版とIntCal20およびMarine20較正曲線を用いて、年代測定結果で各遺跡のベイズモデルが構築されました。カステルチーヴィタについて構築されたベイズモデルは、外れ値が少なく堅牢なようです(図3)。すべての外れ値確率の範囲は4~10%の間でした。収束値の平均は98.9%でした。ムステリアン層の底部の標本で充分な年代測定可能な炭素を得ることができなかったため、カステルチーヴィタ遺跡におけるヒトの居住開始を確実には年代測定できませんでした。境界面24(カステルチーヴィタ遺跡の最古級の区画)の始まりは最古級の年代層で、この範囲は較正年代で47800~44000年前頃(全範囲は95%の確率)です。最新のムステリアンは境界面19、および境界面18からウルツィアンの開始までのヒトによる洞窟の半ば放棄された段階と関連しています。この境界面内で確認されたのは、8点の道具だけでした。最終ムステリアン境界について、較正年代で43850~43070年前の範囲の最高確率密度(highest probability density、略してHPD)が得られました。以下は本論文の図3です。
ウルツィアンの開始は較正年代で43540~42840年前頃に始まる、と推定されています。境界面11の終わりに、ウルツィアンが終わり、オーリナシアンの初期段階であるプロトオーリナシアンが観察されます。この放射性炭素年代は密にまとまっており、そのモデルは較正年代で40400~39850年前頃の事後範囲を推定します。オーリナシアン層は一連の流華石によって覆われており、この流華石にはCI(もしくは海洋環境ではY-5)噴火の混合層のテフラが含まれています。この前には、CI直前の堆積物で、境界面10および9(上部)のプロトオーリナシアンと、境界面6(上部)と4(下部)の前期オーリナシアンの層序において光刺激ルミネッセンス発光(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)年代が得られ、それはCIの下の年代およびCIに属する年代と完全に一致します。前期オーリナシアンのgic段階の炉床から得られたAMS年代測定は、OSL年代とよく一致します。テフラの堆積物では、洞窟のヒトの居住期間とともにオーリナシアンの層序は終わります。図4は、酸素(O)同位体について、北グリーンランド氷床コア計画(North Greenland Ice Core Project、略してNGRIP)δ¹⁸O曲線と比較した、カステルチーヴィタ遺跡のモデルにおける主要な境界が示されています。以下は本論文の図4です。
カヴァッロ遺跡の年代モデルには、以前に得られた貝殻の年代測定や、重要な初期ウルツィアン層E3の炭および骨での新たな放射性炭素年代測定が含まれます(図5)。これらの骨は、窒素含有率手法を用いて検査されました。OxA-39972-41397の骨の年代範囲は、完全なコラーゲンが残っていると確認され、その後で年代測定されました。単一アミノ酸分析を用いてこれらの年代測定が目指されましたが、抽出後のコラーゲン含有量が少なくすぎ、代わりに限外濾過法実施要綱を用いて年代測定されました。海洋性貝殻の年代測定には、定義されていない海洋貯蔵補正(もしくはDelta_R)値が用いられました。通常、海洋較正曲線とともに先行研究の手法を用いてDelta_R値が適用されますが、標本がひじょうに古く、とくに局所的な彫像の時間的変化の観点で、いくつかの仮定が含まれます。したがって、Delta_R値を変動させ、モデルが最も可能性の高い値を定義できるようにしました。ここでも、C_Dateコマンドを用いて、Y-6およびY-5の灰の層について、テフラのアルゴン/アルゴン(Ar/Ar)年代が含められました。Y-6テフラはモデルの基部に向かって位置し、カヴァッロ遺跡におけるムステリアンの終焉を示します。その下には、フィレンツェ研究所の2点の年代測定が含められました。モデルからOxA-21072が除外され、それは過小評価された結果だからです。以下は本論文の図5です。
E3のウルツィアン層は8点のAMSで年代測定され、そのうち5点には理想的な標準誤差より高いことに加えて、いくつかの注意点があります。「OxA-X-」接頭辞で示される4点の年代測定は、比例してコラーゲン収量が少なく、0.3~0.4%の範囲でした。5番目の測定(OxA-41397)は、燃焼での予測される炭素含有量より少なくなりました(16.6%)。この放射性炭素年代測定は、下限年代と解釈すべきです。6番目の測定(OxA-39972)である炭の年代は酸化と段階的燃焼法で処理され、年代は38110±580年前です。これらの手法では信頼できるAMS年代が得られるので、この測定が正確とみなされます。
このモデルはテフラの年代と放射性炭素年代測定結果との間の良好な一致を示します。3点の注目すべき外れ値がありました。D2期の貝殻の年代測定であるOxA-19257では、事後外れ値確率100%が得られたので、モデルの実行の100%で重み付けが下げられ、ベイズモデルの結果での影響として無視できます。E3の骨の年代測定の1点は、事後外れ値確率を高めました(OxA-X- 3125-16では49%)。将来の研究では、本論文で得られた測定から大きな年代の変更があるのかどうか調べるため、この重要な層のより大きくより保存状態の良好な骨もしくは歯の年代測定の試みに焦点があてられるでしょう。当分は、最古級のウルツィアンの較正年代はカヴァッロでは少なくとも42650~42150年前頃であるものの、このモデルにおける上限年代(terminus post quem)として機能するY-6テフラの年代である較正年代で45000±1000年前より古くはない、と結論づけられます。
カラ洞窟は年代測定の難しい遺跡でした。窒素含有率手法を用いて数点の骨標本が検証されましたが(表3)、残念ながら、これらは全てひじょうに少なく(窒素含有率は0.03~0.09%)、有意なコラーゲンもしくはタンパク質が残っていないことを示唆します。分析のため炭標本も選択されました。得られた1点の重要な結果は、C7区画の炉床のすぐ下で見つかった1点の濃縮から得られた炭標本1点の年代でした。この標本はカラ・アトリオ(Cala Atrio)層序の最上部のオーリナシアンに属しており、境界面12に由来するOSL年代(X7042)の層序的に上に位置することとよく一致します(表6)。まとめると、この結果から、カラのオーリナシアンは較正年代で42050~37400年前頃(95.4%)に始まり、ウルツィアンからプロトオーリナシアンへの移行と大まかに一致する、と示唆されます。しかし、カラのモデルは事後的に精度が低いことに影響を受けています(図6)。それにも関わらず、本論文の結果から、ウルツィアンは以前の放射性炭素年代測定に基づいて考えられていたほど新しくはなく、後期ムステリアンからウルツィアンにかけての層序は今や、時間的に較正年代で45000~40000年前頃に位置し、それ以後ではない、と示されます。ウルツィアンの開始境界は較正年代で45150~40400年前頃(68.3%の確率)と推定されます。これは、より正確に年代測定された他の遺跡で確証されたパターンと一致します。以下は本論文の図6です。
オスクルスキウト遺跡では、10点のOSL年代と1点のAMS年代測定が得られました(図7)。層序からの回収可能な炭の欠如と、オスクルスキウト遺跡のどの骨でもコラーゲンが不足していたため、放射性炭素年代はまたしても困難でした。層序単位11の炭標本1点では、前処理後に回収可能な炭素が得られませんでした。本論文で構築されたベイズモデルにおいて、層序単位14のエポメオ山の緑色凝灰岩から得られた以前のカリウム(K)・アルゴン(Ar)年代が含められました。その上のOSL年代は、正しい年代順に収まりました。1点の測定(X7050)は外れ値で(86%)、層序単位13の位置には古すぎると思われます。この外れ値は層序的に、すべて較正年代で55000年前頃にまとまるエポメオ山の緑色凝灰岩の年代より上に位置しているので、X7050で検出された外れ値の観点では、その信頼性に大きく依存します。さらなる研究が必要です。この層序単位に由来する以前に得られたベータ分析社のAMS年代も、外れ値確率が49%です。得られた唯一のAMS年代は層序単位1に由来しましたが、燃焼時の炭素について予測より低い値のため、「より大きい年代(41600年前頃以前)」となりました。これは当然、下限年代で、ベイズモデルには含められません。以下は本論文の図7です。
まとめると、オスクルスキウトのモデルはこの重要な遺跡のムステリアンについて堅牢な層序を提供します。しかし、移行期層(ウルツィアンとプロトオーリナシアン)の欠如は、世界のこの地域におけるネアンデルタール人から現生人類への生物文化的移行の考察において、その重要性を制約します。さらに、最終ムステリアンの年代推定値の精度は、ネアンデルタール人がイタリア半島で消滅した年代(層序単位1の終焉の年代範囲は95.4%の確率では較正年代で42950~34400年前頃ですが、層序単位3の終焉の分布は二峰性で、その分布のほとんどは較正年代で4万年前頃以前です)の調査においてその重要性を制約します。これらの理由で、オスクルスキウト遺跡は以下の結果の統合ではさらには考察されません。
●考察
本論文で提示された結果は、イタリアにおけるウルツィアンおよびより広く中部旧石器時代から上部旧石器時代への連続の、これまでで最も広範な年代測定研究を表しています。本論文で構築されたさまざまなモデルにおける重要な移行から得られたHPDは、時空間的パターンを調べ、本論文でのさまざまな技術複合体の同時代性および最初/最後の出現に関する問題に回答するため比較できます。この考察を通じて、ムステリアン技術複合体はネアンデルタール人のみと関連しており、ウルツィアンおよびプロトオーリナシアンは現生人類とのみ関連している、と想定されます。
まず、最終ムステリアンの境界からHPDが比較されます。この分析にはカヴァッロおよびカステルチーヴィタと、以前に年代測定されたモチ岩陰やフマネ洞窟[60]やリオ・セッコ洞窟(Grotta di Rio Secco)やブロイオン岩陰[62]やレアリ洞窟(Grotta Reali)など他のイタリアの遺跡が含まれます(図8)。まとめると、10点のAMS年代測定に基づくこの結果は密接に一致しているようで、堅牢です。高度な重複と類似性が観察され、これが示唆するのは、較正年代で43000年前頃までにムステリアンはイタリア半島の全体にわたって終焉したものの、一部の遺跡(たとえば、リオ・セッコ洞窟)では、ムステリアンの存在がこのずっと前に終焉したようである、ということです。この結果はイタリア半島のムステリアンのほぼ同時の終焉(もしくはネアンデルタール人によるこれらの遺跡の放棄)年代を強く示唆します。以下は本論文の図8です。
カヴァッロでは、Fa層のY-6テフラは、ネアンデルタール人による洞窟の放棄のよく定義された限年代(terminus ante quem)を表しています。この薄い層は最後のムステリアンのFI層を覆っており、ウルツィアンの存在の基準を構成するFs層からFI層を分離します。層序的には、後期ムステリアンとウルツィアンとの間の年代間隔は堆積作用の中断に相当します。E3層の年代から、カヴァッロ遺跡のウルツィアンの始まりは以前の判断[15]より新しいかもしれず、そのため層序学的証拠のさらなる確証を提供する、と示唆されます。これが示唆するのは、ウルツィアンにより表される現生人類の到来前に、ネアンデルタール人はカヴァッロ遺跡、おそらくはより広範な地域を去った、ということです。これはより多くの適切に年代測定されてベイズモデル化された遺跡で検証できますが、現在の証拠では、堅牢な結論のようです。先行研究[60]の手法を最用いてイタリア半島全域の終ムステリアンの確率分布が計算され、個々のモデルの境界がある期間内の事前分布として扱われました。これによって、最終ムステリアンの較正年代は43700~41850年前頃(95.4%の確率)となります(図8)。
次に、ウルツィアンおよびプロトオーリナシアンインダストリーの開始境界を表すモデルの部分を始めます。これらは図9に要約されています。ウルツィアンのHPDは3点が含まれているだけです。最近のカンパニア州のモンドラゴーネ(Mondragone)のロッチャ・サン・セバスティアーノ洞窟の中部旧石器時代から上部旧石器時代の堆積物からも利用可能ですが、この遺跡のウルツィアン層内の一部の混合の特定のため、検討されません。フマネ洞窟のA3期では、古代からのある程度の堆積後の攪乱も認められており、恐らくはA2層のプロトオーリナシアンの住民の行なった活動が原因です。したがって、この層の年代データは、少なくともA3遺物群の徹底的な化石生成論および地質考古学的改訂が行なわれ、新たなAMSおよびOSL年代が刊行されるまで、注意深く扱われねばなりません。以下は本論文の図9です。
OxCalの順序命令を用いて、構築されたモデルについて境界における事象の最も可能性の高い順番が判断されました。カステルチーヴィタ遺跡では、ウルツィアンの開始はムステリアンの終焉と一致するので、その分布は同じです。本論文の分析では、カステルチーヴィタ遺跡のウルツィアンはカヴァッロ遺跡より古い(97.9%の確率)、と示され、ネアンデルタール人の放棄もしくは消滅に続く、現生人類によるカヴァッロ遺跡のウルツィアン占拠における間隙との上述の見解が裏づけられます。あるいは、これまで徹底的に年代測定されていないカヴァッロ遺跡の最古級のウルツィアンは、実際の年代のわずかな過小評価を表しています。
この結果は、ブロイオン岩陰とも比較されました(図9)。その結果、カステルチーヴィタ遺跡のウルツィアンは77.1%の確率でブロイオン遺跡の同じ段階の前に始まったものの、ブロイオン遺跡のウルツィアンはさほど適切に年代測定されておらず、間違いなくさらなる研究が必要である、と分かりました。全体的に、本論文のモデル化の結果から、ウルツィアンはイタリア半島の北部と南部で同時には始まらなかった、と示唆されます。現時点のデータはウルツィアンがイタリア半島南部で最初に出現したことを示唆しますが、イタリア半島北部のデータが限定的であることに要注意です。
もう一つの重要な問題は、イタリア半島におけるプロトオーリナシアンの拡散において時空間的パターンがあるのかどうかです。数人の学者は北方から南方へのプロトオーリナシアン技術複合体の移動の可能性を示唆してきましたが、この検証のためのデータは充分ではありませんでした。これをさらに調べるため、フマネ洞窟とモチ岩陰とカステルチーヴィタ遺跡のプロトオーリナシアン(カラ遺跡はHPD領域の不正確のため除外されました)についてHPDが比較されました(図9)。HPDにおける勾配が観察されるので、モチ岩陰の最古級のHPDはイタリア半島北部に出現し、次にそのわずか後にカステルチーヴィタ遺跡でイタリア半島南部に出現します。統計的観点では、モチ岩陰のプロトオーリナシアンのHPDはカステルチーヴィタ遺跡よりも大幅に古くなります。本論文の順序分析から、モチ岩陰は98.9%の確率でカステルチーヴィタ遺跡に先行し、フマネ洞窟は68.1%の確率でカステルチーヴィタ遺跡よりも遅い、と確証されます。これは、プロトオーリナシアンがイタリア半島北部でより古くに始まり、次に遅れてイタリア半島南部で始まったことを示唆します。興味深いことに、このデータからは、イタリア半島南部において、ずっと後までプロトオーリナシアンが存在しない状況でウルツィアンが存続したことも示されます。これは、これらの遺跡からモデル化されたデータの以前の観察と一致します。たとえば、記録が最も信頼できるカステルチーヴィタ遺跡では、ウルツィアンとプロトオーリナシアンの境界は較正年代で41770~39940年前頃です。
年代命令を用いて、すべての遺跡の3点の主要な技術複合体について年代の全範囲も調べられました。これらは図10に示されています。この結果は基本的に、上述の観察を裏づけます。イタリア半島北部における最古級のプロトオーリナシアンとイタリア半島南部における最新のウルツィアンとの間で、ある程度の重複があります。OxCal でKDE(Kernel Density Estimate、カーネル密度推定)モデルを用いて構築されたモデルと、この年代範囲が比較されました(図10)。KDEモデルの結果から、イタリア半島全域でウルツィアンは較正年代で43120~41370年前頃(68.2%の確率)および44580~39790年前頃(95.4%の確率)のうち42200年前頃の直前に集中する、と示されます。本論文はより正確な年代範囲内でのウルツィアンの長さの制約も可能とし、ウルツィアン技術複合体が合計でちょうど2000年間存続し、それはこのインダストリーの製作者がプロトオーリナシアン技術複合体の担い手によって同化/置換される前のことで、これはカラ遺跡やカヴァッロ遺跡のD層やカステルチーヴィタ遺跡のrsaにおけるオーリナシアン的技術要素の存在(縁側背付き小石刃、オーリナシアン石刃、層状製作戦略の特定の人工遺物と再加工されていない小石刃)によって示唆されている、と示します。以下は本論文の図10です。
後期ムステリアンとウルツィアンとの間の年代層序学的間隙は、ムステリアンからの特性が識別可能ではないウルツィアンの石器一式の技術類型論的特徴によって裏づけられます。ウルツィアンとオーリナシアンとの間の会計の定義はより困難で、それは、層序的記録から得られたデータと石器インダストリーがある場合には矛盾しているように見えるからです。ラ・ファブリカ洞窟やラ・カラ(La Cala)のような遺跡における堆積学的不連続性の証拠がありますが、対照的に、カヴァッロ遺跡やカラ遺跡やカステルチーヴィタ遺跡における最新のウルツィアン層におけるオーリナシアン的石器要素の存在が注目され、これは単なる置換ではなく、文化的相互作用、おそらくはプロトオーリナシアンによるウルツィアンの同化過程を示唆しているかもしれません。この同化過程は、その後のイタリア半島南部のプロトオーリナシアンおよび前期オーリナシアン期における、ウルツィアンの顕著な特徴である両極技術の採用によってさらに裏づけられます。興味深いことに、両極技術はイタリア半島北部全域のオーリナシアンでは、顕著に少ないか、欠如さえしています。これまで、ウルツィアンとプロトオーリナシアンの連続を含む遺跡は信頼できる状況を提供するには少なすぎ、置換と同化の両方が局所的規模では有効と考えられるかもしれません。データの視覚化に役立てるため、時空間的地図が作成され(図11)、この地図は時空間全体にわたるさまざまなインダストリーのKDE時間範囲の分布を示します。以下は本論文の図11です。
先行研究は、イタリア半島へのウルツィアン技術を有するヒトについて、可能性のある2経路を提案しました。一方の仮説がギリシアからプッリャ州までのオトラント海峡を横断する直接的通過を示唆したのに対して、もう一方の仮説は、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)3における、現代のアンコーナ(Ancona)の南側となるコーネロ・プロモントリー(Conero Promontory)を横断してそこから拡大する、バルカン半島のアドリア海沿いの経路を提案しました。オトラント海経路は、渡海の難しさにも関わらず、プッリャ州における年代測定の示した45000年前頃となるウルツィアンの最初の出現と一致する、と考えられています。
本論文で提示された年代測定データはオトラント海経路に有利なようですが、二つの異なる拡散経路の可能性を除外できず、イタリア半島北部(たとえば、フマネ洞窟)からのより多くのデータがこの状況を大きく変える可能性も残っています。しかし、プロトオーリナシアンの拡散に関しては、異なる筋書きも現れます。このインダストリーは、ウルツィアンがイタリア半島南部でまだ存続していた較正年代で42000年前頃にモチ岩陰においてイタリア半島北西部にまず出現します。プロトオーリナシアンの遅れた出現はカステルチーヴィタ遺跡においてとくに明らかで、注目すべきことに、カヴァッロ遺跡ではプロトオーリナシアン層が完全に欠けています。層序学的にウルツィアンの堆積物と重なっているプロトオーリナシアンの存在のあり得る証拠は近隣のセッラ・シコラ遺跡において特定されてきましたが、セッラ・シコラ洞窟の年代および改訂された考古学的データの欠如のため、課題となっています。
ウルツィアンおよびオーリナシアン集団の時間的重複は、これらのインダストリーが単一の人口集団によって作られたのか、あるいは異なる集団によって作られたのか、ということに関して問題を提起します。ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase、略してPO)」、ブルガリアのバチョキロ(Bacho Kiro)洞窟、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された洞窟群のズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる頂上の丘、シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手などの遺跡から発見された、ヨーロッパにおける最古級の現生人類集団に関する最近の遺伝学的証拠では、現生人類のいくつかの異なる人口集団がユーラシアの早期上部旧石器時代には存在した、と示されてきました[72~75]。先行研究[74]では、人口置換の連続的な波がヨーロッパの中部旧石器時代から上部旧石器時代において起きたかもしれない、と示唆されました(他の参考文献[75]も参照)。イタリア半島のウルツィアンおよびプロトオーリナシアンインダストリーも、異なる人口集団によって製作されたかもしれません。あるいは、これらのインダストリーはさまざまな地理的地域の単一の人口集団の適応戦略における差異を反映しているのかもしれません。最後に、混合集団もしくは交雑した人口集団の共存は除外できません。ウルツィアンの状況で発見されたヒト遺骸からの古代の回収は、これら代替案の解決とこの期間におけるヒトの移動および文化的交流の複雑な動態の調査において重要な段階になるでしょう[76]。
まとめると、本論文では、中部旧石器時代から上部旧石器時代にわたるイタリアの4ヶ所の遺跡からAMSおよびOSL年代測定一式が得られました。ベイズモデルは強い収束と堅牢な結果を示し、有意性の外れ値はあるとしてもごく僅かです。AMSおよびOSL年代測定結果はよく一致しており、これは考古学的年代測定ではあまり見られません。この結果によって、イタリア半島全域のムステリアンの終焉やウルツィアンおよびプロトオーリナシアンの開始年代を示すモデルにおいて重要な境界の比較が、それによって詳細な年代の解釈が可能となります。最古級のウルツィアンの年代は以前に考えられていた[60]よりもやや新しく、これはおもに更新されたIntCal20較正曲線に起因します。ウルツィアンは、以前に示唆されたように較正年代で45000年前頃の直後に始まるのではなく、較正年代で43120~41370年前頃(68.2%の確率)および44580~39790年前頃(95.4%の確率)となります。データは限定的ですが、この結果はイタリア半島南部にわけるウルツィアンのわずかに古い出現を示唆しています。これは、確認された物質文化と装飾品の観点で、イタリアおよびギリシア全域のウルツィアンの顕著な均質性および強い独自性にも関わらず、当てはまります。ウルツォ湾(Uluzzo Bay)では、開始がわずかに遅いと示唆されていますが、これはカヴァッロ遺跡における最古級のE3層の年代測定の難しさで隠されているかもしれません。これは、引き続き研究していることです。
ネアンデルタール人がイタリア半島を去った可能性が最も高い、という意味で、イタリア半島においてウルツィアンの拡大前にネアンデルタール人の人口減少があったかもしれない、との証拠も見られます。たとえばカヴァッロ遺跡では、ウルツィアンの存在はY-6テフラの堆積後にようやく始まり、ウルツィアン技術複合体の開始の上限年代を提供します。より広範な証拠から、42500年前頃にイタリア半島へと拡散した初期現生人類集団はおそらく、在来のネアンデルタール人とは、あったとしても殆ど遭遇しなかった、と示唆されます。
参考文献:
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