伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』
講談社学術文庫の一冊として、2006年9月に講談社より刊行されました。本書の親本『十二世紀ルネサンス 西欧世界へのアラビア文明の影響』は岩波書店より1993年に刊行されました。電子書籍での購入です。今となっては親本の刊行は31年前とかなり古いものの、この問題については通俗的見解を表面的に把握しているくらいなので、本書で基本的な知見を得ようと考えました。日本で「12世紀ルネサンス」が取り上げられるようになったのは第二次世界大戦後とのことですが、欧米ではすでに戦間期からこの問題は注目されており、12世紀は西ヨーロッパの近現代文化の根本となる文化的基盤が準備された時代だった、と考えられるようになったそうです。その後、一般的に言われているルネサンスの期間よりも、12世紀の方が創造的で造型的な時代だった、との評価も提示されました。
ヨーロッパにおいて12世紀が巨大な転換期となった原因はさまざまに考えられますが、本書はイスラム教文化圏との遭遇を重視しています。それまで、閉鎖的な地方の一文化圏にすぎなかった西ヨーロッパ世界が、先進的なイスラム教文化圏に接し、その進んだ学術と文化を取り入れた結果としての12世紀ルネサンスだった、というわけです。ただ本書によると、欧米で12世紀ルネサンスが論じられる場合、イスラム教文化圏の影響が無視されないまでも、西ヨーロッパ世界の内部的事件として把握される傾向があるそうです。
12世紀ルネサンスはさまざまな分野にわたりますが、科学に関しては、17世紀の「科学革命」の先駆者が14世紀にまでさかのぼる、と20世紀初頭に示されます。著者はそうした潮流の中で研究していき、14世紀の西ヨーロッパ科学の勃興の奥にはさらなる背景があった、と気づいたそうです。それが、西ヨーロッパとアラビア科学との接触で、この12世紀ルネサンスにおいて、西ヨーロッパ世界はイスラム教文化圏から優れた成果を取り入れて消化した、というのが本書の見通しです。
12世紀ルネサンスの前の西ヨーロッパでは、ユークリッドやアルキメデスやプトレマイオスやアリストテレスなどさえ知られておらず、ギリシア科学は西ヨーロッパ世界では一旦途絶えて、ビザンツ文化圏からイスラム教文化圏へと入り、西ヨーロッパ世界はビザンツとイスラム教の文化圏からギリシア科学を知り、「文明」の仲間入りをした、と本書は指摘します。また本書は、イスラム教文化圏が、古典期ギリシアの科学を単にヨーロッパに伝えただけではなく、それを消化したうえで、多くの知見を追加し、イスラム教文化圏独自の思想が栄えた、と指摘します。
ただ、カトリック擁護側(と言ってしまうと私の強すぎる偏見かもしれませんが)からは、カトリック教会は古典期ギリシア文化の成果を保存および研究しており、中世ヨーロッパにおける古典期ギリシア文化研究にイスラム教勢力の果たした役割が過大評価されているのではないか、との見解が提示されています(関連記事)。しかし、現在の分類で言うと自然科学系の古典期ギリシアの成果については、本書の見解の方がずっと妥当に思えます。本書は、この12世紀ルネサンスによって西ヨーロッパ世界は根本的に質的変貌を遂げた、と把握しています。本書は中世(5~14世紀頃)西ヨーロッパ世界について、12世紀の前は「暗黒時代」との評価はある程度仕方ないものの、12世紀以後はそうとは断じて言えない、と指摘します。
一方で本書は、12世紀ルネサンスがイスラム教文化圏とのより深い接触のみで生じたとは考えておらず、内在的要因の一つとして、西ヨーロッパ世界における封建制の確立を挙げています。国家と教会の分離が封建国家の確立をもたらし、宗教的にも政治的にも安定し、近代国民国家の基礎が形成されていった、というわけです。本書が重視する内在的要因には、9世紀頃から始まった「農業革命」の結果としての、食料生産の増大もあります。また本書は内在的要因の一つとして、「商業の復活」も挙げています。11世紀末以降、ヨーロッパでは毛織物などの産業が勃興し、商人の活発な活動が見られるようになった、というわけです。これと関連して、都市の勃興にも本書は注目しています。都市では商人や職人の階層が形成されていき、研究と教育の場としての大学も成立します。これと関連して本書は、「知識人」が初めて台頭した、と指摘します。こうした内在的要因が12世紀ルネサンスを可能にした、というわけです。また本書は、商業の復活や都市の勃興や大学の成立にもイスラム教文化圏かの影響があったのではないか、と推測します。
12世紀ルネサンスの頃のヨーロッパとイスラム教文化圏との関係では十字軍が有名で、十字軍によってイスラム教文化圏からさまざまな文化がもたらされた、との通俗的見解は根強そうですが、宗教的熱狂に発する十字軍にはイスラム教文化圏に学ぼうという意欲はなく、12世紀ルネサンスの経路とはならなかった、と本書は指摘します。東方の十字軍に対して西方のレコンキスタ(再征服運動)は、十字軍と同じく宗教的動機に基づいているものの、12世紀ルネサンスに影響を及ぼした、と本書は評価しています。この違いの一因として、イベリア半島ではレコンキスタ運動以前にヨーロッパ人とアラブ人が長期間共存していたことを、本書は挙げています。本書は12世紀ルネサンスの経路として、このスペインとシチリア島と北イタリアを挙げています。北イタリアの商人はコンスタンティノープルと密接な通商関係を維持しており、それがビザンツ帝国の文化の西ヨーロッパ世界への導入につながったわけです。
この西ヨーロッパ世界の12世紀ルネサンスにおいて、自然観が変化していった、と本書は指摘します。西ヨーロッパ世界ではそれまで、自然は神の摂理の対象で、道徳的象徴と考えられていましたが、自然を理性で考え、自然そのものを合理的に追及するようになった、というわけです。この転換にイスラム教文化圏からの影響は大きかったわけですが、では、イスラム教文化圏はどのように高度な科学水準に到達したのかを、本書は検証します。本書は、ギリシアの最高の精密科学だった「ヘレニズム期の科学」の高度な内容が、ローマ帝国の東西分裂後にビザンツ帝国(東ローマ帝国)へと伝わり、5~7世紀にシリア文化圏へと伝わって、それがアラビア語へと翻訳され、その後で直接的にギリシア語の学術文献がアラビア語へと翻訳されたことで、8~9世紀にかけてイスラム教文化圏で「アラビア・ルネサンス」が起きた、との見通しを提示しています。この過程で重要な役割を果たしたのが、キリスト教の「異端」であるネストリウス派と単性論で、ビザンツ帝国によって「異端」として迫害されたことで、ビザンツ帝国のヘレニズム学術がシリアおよびアラビアへと伝わったわけです。このアラビア語へと翻訳されたヘレニズム学術がラテン語へと翻訳され、12世紀ルネサンスにつながった、というわけです。
ヨーロッパにおいて12世紀が巨大な転換期となった原因はさまざまに考えられますが、本書はイスラム教文化圏との遭遇を重視しています。それまで、閉鎖的な地方の一文化圏にすぎなかった西ヨーロッパ世界が、先進的なイスラム教文化圏に接し、その進んだ学術と文化を取り入れた結果としての12世紀ルネサンスだった、というわけです。ただ本書によると、欧米で12世紀ルネサンスが論じられる場合、イスラム教文化圏の影響が無視されないまでも、西ヨーロッパ世界の内部的事件として把握される傾向があるそうです。
12世紀ルネサンスはさまざまな分野にわたりますが、科学に関しては、17世紀の「科学革命」の先駆者が14世紀にまでさかのぼる、と20世紀初頭に示されます。著者はそうした潮流の中で研究していき、14世紀の西ヨーロッパ科学の勃興の奥にはさらなる背景があった、と気づいたそうです。それが、西ヨーロッパとアラビア科学との接触で、この12世紀ルネサンスにおいて、西ヨーロッパ世界はイスラム教文化圏から優れた成果を取り入れて消化した、というのが本書の見通しです。
12世紀ルネサンスの前の西ヨーロッパでは、ユークリッドやアルキメデスやプトレマイオスやアリストテレスなどさえ知られておらず、ギリシア科学は西ヨーロッパ世界では一旦途絶えて、ビザンツ文化圏からイスラム教文化圏へと入り、西ヨーロッパ世界はビザンツとイスラム教の文化圏からギリシア科学を知り、「文明」の仲間入りをした、と本書は指摘します。また本書は、イスラム教文化圏が、古典期ギリシアの科学を単にヨーロッパに伝えただけではなく、それを消化したうえで、多くの知見を追加し、イスラム教文化圏独自の思想が栄えた、と指摘します。
ただ、カトリック擁護側(と言ってしまうと私の強すぎる偏見かもしれませんが)からは、カトリック教会は古典期ギリシア文化の成果を保存および研究しており、中世ヨーロッパにおける古典期ギリシア文化研究にイスラム教勢力の果たした役割が過大評価されているのではないか、との見解が提示されています(関連記事)。しかし、現在の分類で言うと自然科学系の古典期ギリシアの成果については、本書の見解の方がずっと妥当に思えます。本書は、この12世紀ルネサンスによって西ヨーロッパ世界は根本的に質的変貌を遂げた、と把握しています。本書は中世(5~14世紀頃)西ヨーロッパ世界について、12世紀の前は「暗黒時代」との評価はある程度仕方ないものの、12世紀以後はそうとは断じて言えない、と指摘します。
一方で本書は、12世紀ルネサンスがイスラム教文化圏とのより深い接触のみで生じたとは考えておらず、内在的要因の一つとして、西ヨーロッパ世界における封建制の確立を挙げています。国家と教会の分離が封建国家の確立をもたらし、宗教的にも政治的にも安定し、近代国民国家の基礎が形成されていった、というわけです。本書が重視する内在的要因には、9世紀頃から始まった「農業革命」の結果としての、食料生産の増大もあります。また本書は内在的要因の一つとして、「商業の復活」も挙げています。11世紀末以降、ヨーロッパでは毛織物などの産業が勃興し、商人の活発な活動が見られるようになった、というわけです。これと関連して、都市の勃興にも本書は注目しています。都市では商人や職人の階層が形成されていき、研究と教育の場としての大学も成立します。これと関連して本書は、「知識人」が初めて台頭した、と指摘します。こうした内在的要因が12世紀ルネサンスを可能にした、というわけです。また本書は、商業の復活や都市の勃興や大学の成立にもイスラム教文化圏かの影響があったのではないか、と推測します。
12世紀ルネサンスの頃のヨーロッパとイスラム教文化圏との関係では十字軍が有名で、十字軍によってイスラム教文化圏からさまざまな文化がもたらされた、との通俗的見解は根強そうですが、宗教的熱狂に発する十字軍にはイスラム教文化圏に学ぼうという意欲はなく、12世紀ルネサンスの経路とはならなかった、と本書は指摘します。東方の十字軍に対して西方のレコンキスタ(再征服運動)は、十字軍と同じく宗教的動機に基づいているものの、12世紀ルネサンスに影響を及ぼした、と本書は評価しています。この違いの一因として、イベリア半島ではレコンキスタ運動以前にヨーロッパ人とアラブ人が長期間共存していたことを、本書は挙げています。本書は12世紀ルネサンスの経路として、このスペインとシチリア島と北イタリアを挙げています。北イタリアの商人はコンスタンティノープルと密接な通商関係を維持しており、それがビザンツ帝国の文化の西ヨーロッパ世界への導入につながったわけです。
この西ヨーロッパ世界の12世紀ルネサンスにおいて、自然観が変化していった、と本書は指摘します。西ヨーロッパ世界ではそれまで、自然は神の摂理の対象で、道徳的象徴と考えられていましたが、自然を理性で考え、自然そのものを合理的に追及するようになった、というわけです。この転換にイスラム教文化圏からの影響は大きかったわけですが、では、イスラム教文化圏はどのように高度な科学水準に到達したのかを、本書は検証します。本書は、ギリシアの最高の精密科学だった「ヘレニズム期の科学」の高度な内容が、ローマ帝国の東西分裂後にビザンツ帝国(東ローマ帝国)へと伝わり、5~7世紀にシリア文化圏へと伝わって、それがアラビア語へと翻訳され、その後で直接的にギリシア語の学術文献がアラビア語へと翻訳されたことで、8~9世紀にかけてイスラム教文化圏で「アラビア・ルネサンス」が起きた、との見通しを提示しています。この過程で重要な役割を果たしたのが、キリスト教の「異端」であるネストリウス派と単性論で、ビザンツ帝国によって「異端」として迫害されたことで、ビザンツ帝国のヘレニズム学術がシリアおよびアラビアへと伝わったわけです。このアラビア語へと翻訳されたヘレニズム学術がラテン語へと翻訳され、12世紀ルネサンスにつながった、というわけです。
この記事へのコメント