ラパ・ヌイの人口史
古代ゲノムデータに基づいて、イースター島としても知られているラパ・ヌイ(Rapa Nui)の人口史を検証した研究(Moreno-Mayar et al., 2024)が公表されました。ラパ・ヌイは世界でも有数の孤島で、南アメリカ大陸の西方約3700kmに位置し、最も近い有人島の西方1900km以上に位置しています。モアイと呼ばれる巨石像があることで有名なラパ・ヌイには遅くとも13世紀以降に人類が居住していましたが、ラパ・ヌイにおいて、1722年にヨーロッパ人が、1860年代にペルー人の奴隷狩りの一隊がラパ・ヌイに到来する前に、住民が17世紀に資源を過剰に利用した結果として、「生態系自死(ecocide)」と呼ばれている人口崩壊が起きたのか、ヨーロッパ人の到来前にラパ・ヌイとアメリカ大陸先住民との間に接触があったのか、議論になっています。
本論文は、17世紀後半~20世紀半ばのラパ・ヌイ住民と考えられる15個体のゲノムデータを提示し、「生態系自死」説を裏づけるボトルネック(瓶首効果)の遺伝的痕跡は見つからなかった、と指摘します。また本論文は、1250~1430年頃にラパ・ヌイの住民(もしくはその祖先集団)とアメリカ大陸先住民との間で遺伝的混合が起き、ラパ・ヌイの古代人と現代人のゲノムにはアメリカ大陸先住民的な遺伝的構成要素が10%ほど見られることも指摘します。先行研究[6]でも示されていた、先コロンブス期におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との間の接触の可能性が、改めて明らかになったわけです。これは以前の古代のラパ・ヌイ住民の低品質なゲノムデータでは検出されておらず、古代ゲノム研究においてゲノムデータの品質が重要であることに改めて注意しなければならない、と思います。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
ラパ・ヌイは、世界で最も孤立した居住地の一つです。ラパ・ヌイは、モアイと呼ばれる象徴的な巨石像を含む考古学的記録のため、多くの人々の想像力を捉えてきました。ラパ・ヌイの広範な研究から、二つの顕著な主張が提示されてきました。第一に、ラパ・ヌイの歴史は、最終的に大規模な人口崩壊を招いただろう資源の過剰利用の警鐘的な物語として提示されてきており、これは「生態系自死」説と呼ばれています。第二に、ヨーロッパ人との接触に先行するアメリカ大陸への太平洋横断航海の可能性が、依然として議論されています。[6、7]
本論文では、これらの問題に取り組むため、放射性炭素年代測定され(1670~1950年頃)、全ゲノム配列決定された(網羅率は0.4~25.6倍)ラパ・ヌイ古代人15個体に基づいて、ラパ・ヌイのゲノム史が再構築されました。その結果、これら15個体はポリネシア人起源で、ラパ・ヌイの現代人と最も密接に関連している、と分かり、これはラパ・ヌイへの遺骨返還の取り組みに寄与する調査結果です。有効人口規模の再構築と広範な集団遺伝学的模擬実験を通じて、生態系自死説で提案されたような、1600年代における深刻な人口瓶首効果を含む筋書きは却下されます。さらに、ラパ・ヌイの古代人と現代人はアメリカ大陸先住民との混合の同様の割合(約10%)を有しています。遺伝的年代と放射性炭素年代を統合したベイズ手法を用いて、この混合事象は1250~1430年頃に起きた、と推定されます。
●研究史
ラパ・ヌイは「世界の中心」という意味のテ・ピト・オ・テ・ヘヌア(Te Pito o Te Henua)としても知られ、世界で最も孤立した居住地の一つです。ラパ・ヌイは太平洋のポリネシア三角地帯の最東端、南アメリカ大陸の西方約3700km、最も近い有人島の東方1900km以上に位置します。ラパ・ヌイは遠隔地ですが、考古学と遺伝学の証拠から、西方からのポリネシア人がすでに1250年頃にはラパ・ヌイに到達していた、と示されています。その後の5世紀にわたって、ラパ・ヌイの住民であるラパヌイ人は、象徴的な巨大な石造(モアイ)と記念碑的な石の基壇であるアフ(ahu)によって特徴づけられる文化を発展させました。
ラパ・ヌイは孤立していたため、ヨーロッパ人がラパ・ヌイに到達したのはやっと1722年でした。長年にわたって、ヨーロッパからの訪問者はラパヌイ人に壊滅的な影響を与えており、それは、ヨーロッパからの訪問者が地元住民を殺害し、島民が以前には曝されていなかった致命的な病原体を持ち込んだからです。さらに、1860年代にはペルーの奴隷狩りはラパ・ヌイの人口の1/3を誘拐し、奴隷制度の国際的非難の後に本国に送還されたのはわずか数人でした。その後、天然痘の発生によってラパヌイ人集団は多くが死亡し、推定110個体にまで減少しました。ラパ・ヌイとその住民は、考古学と人類学と遺伝学を用いて広範に研究されてきましたが、依然として議論となっている、ヨーロッパ人との接触に先行するラパヌイ人口史に関する二つの重要な特徴があり、それは、「生態学的自殺」と呼ばれる1600年代におけるヒトを媒介とした大規模な人口崩壊の可能性と、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民との間の太平洋を横断した接触の可能性です。
ラパヌイ人の歴史は、人類による資源の過剰利用への警告物語として提示されてきました。生態学的自殺(生態系自死)説によると、ラパヌイ人は島の森林を伐採し、在来動物を多数殺害して、文化の繁栄と約15000個体に増加した人口を維持しました。その結果、資源不足はいわゆるフリ・モアイ(Huri Moai、モアイ倒し)文化段階、つまり食人にまで激化し、最終的には1600年代における人口と文化の崩壊で頂点に達した飢饉と戦争の時代に至り、彫像の彫刻が急速に終了しました。1700年代のヨーロッパからの訪問者は、ラパヌイ人の人口規模が1500~3000個体の範囲と推定し、これは、生態系自死説によって提案された、人口崩壊を生き残ったのが人口の10~20%との想定に相当します。ラパ・ヌイの環境が人為的活動(たとえば、森林伐採)によって影響を受けたことはよく確証されていますが、これらの変化が人口崩壊につながったのかどうか、もしくはどのようにつながったのか、不明なままです。いくつかの一連の生物人類学と考古学と歴史の証拠が、生態系自死説に異議を唱えるのに使用されてきました。しかし、崩壊仮説は依然としてひじょうに人気があります。
カヌーの建造と修理に必要な木材の枯渇は最終的に、ポリネシア文化の特徴である長距離公開の放棄に起因する島の孤立につながりました。しかし、いくつかの断片的証拠から、ラパ・ヌイは長距離公開の最東端ではなく、ポリネシア人はコロンブス以前に最終的にアメリカ大陸に到達した、と示唆されています[21]。現在の個体群についての遺伝学的研究は、そうした接触を裏づけてきました。現在のラパヌイ人は、そのゲノムにアメリカ大陸先住民およびヨーロッパ人との混合を有している、と分かりました。注目すべきことに、その研究では、アメリカ大陸先住民との混合(1280~1495年頃)は、ヨーロッパ人との混合(1850~1895年頃)に先行する、と推定されました。
さらに最近では、アメリカ大陸先住民との混合がラパ・ヌイの現在の個体群だけではなく、ラパ・イチ(Rapa Iti)島やタヒチやパリサー(Palliser)諸島やヌク・ヒバ(Nuku Hiva)島(北マルケサス諸島)やファトゥ・ヒヴァ(Fatu Hiva)島(南マルケサス諸島)やマンガレヴァ(Mangareva)島の現在の個体群でも検出されました。その研究では、さまざまな島々におけるアメリカ大陸先住民からの遺伝子流動は1150年頃(南マルケサス諸島)~1380年頃(ラパ・ヌイ)と年代測定され、先行研究の推定年代と一致します。しかし、古代ラパヌイ人の古代DNA研究はこれまで二つだけで、アメリカ大陸先住民との混合の証拠は見つかっていません[6]。最初の研究が12個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)に焦点を当てたのに対して、第二の研究[6]はヨーロッパ人との接触前後の5個体の低深度(0.0004~0.0041倍)の全ゲノムデータを分析しました。後者[6]では、下流集団遺伝学的分析から、古代人5個体はポリネシア人だった、と確証されました。しかし、分析されたヒト遺骸は推定されたアメリカ大陸先住民との混合年代の後でさえ、アメリカ大陸先住民祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)はこれら古代人のゲノムでは報告されず[6]、現在の人口集団からのデータに基づく調査結果に疑問が呈されました。
古代ラパヌイ人のゲノム史を推測するため、博物館の記録によるとラパ・ヌイで発見された、古代人15個体の全ゲノム配列決定データが生成されました。これらのゲノムと他の公開されていて利用可能なデータが分析され、これらの個体のゲノム祖先系統が推測され、ラパヌイ人が1600年代に人口崩壊を経たのかどうか、判断され、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民がヨーロッパ人との接触前に混合したのかどうか、調べられました。
●共同体との契約
研究期間中、研究者は島のラパヌイ人共同体やラパ・ヌイ開発委員会(Comisión de Desarrollo Rapa Nui)や国家記念物諮問委員会(Comisión Asesora de Monumentos Nacionales)の代表者と会い、この研究の目的と進行中の結果を提示しました。両委員会とも、研究の継続に賛成票を投じました。この研究の結果は、最初の提出前を含めて数回、共同体に伝えられました。研究者は島において公開講演での研究計画や短い映像やラジオの取材訪問を提示し、ラパヌイ人共同体と最も関係する問題について尋ねる機会が研究者に与えられました。これらの議論は、この研究で調べられた研究主題に盛り込まれました。
●古代ゲノムと放射性炭素年代
厳格な博物館の指針に従い、最小侵襲手法を用いて、フランス国立自然史博物館(Muséum national d’Histoire naturelle)のアルフォンス・ピナール(Alphonse Pinart)の収集物(1877年)とアルフレッド・メトロ(Alfred Métraux)の収集物(1935年)から、ラパヌイ人と分類された15個体の錐体骨と歯の資料が標本抽出されました。これには、可能な限り遊離した歯を回収すること(4個体)と、他の場合には60~120mgの錐体骨粉末(11個体)が含まれます。オックスフォード放射性炭素加速器単位とブリストル放射性炭素加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)で、11個体から直接的な放射性炭素年代が得られました。結果は、炭素同位体比(¹³C/¹²C)を称して同位体分別を補正した、現在を基準とした放射性炭素年代で報告されています。その結果は、海洋性タンパク質の消費に由来する海洋貯蔵効果を考慮して較正され、大まかに1670~1950年の範囲となりました。この範囲のほとんどは1722年のヨーロッパ人との接触の後となりますが、これらの骨格遺骸は博物館の保管所によると収集された年代(つまり、11個体は1877年、4個体は1934~1935年)より前のはずです。したがって、これらの個体が1860年のペルー人の奴隷狩りや、それに続くラパ・ヌイの人口を推定110個体まで激減させた疫病の後に生まれた可能性は低そうです。
古代人15個体の全ゲノムは、網羅率の平均深度0.4~25.6倍の間で配列決定されました。すべてのライブラリについて、5%未満の汚染が推定されました。全ゲノムデータセットを活用するため、GLIMPSEで補完的二倍体遺伝子型が生成されました。ベンチマークおよび情報量削減実験と、参照標本の部分集合でのアレル(対立遺伝子)共有および局所的祖先系統推測分析の繰り返しによって、補完されたデータが検証されました。以下では、集団ゲノム分析にはこれら補完された遺伝子型に依拠し、適切な場合には標準的な疑似半数体呼び出しを用いて、本論文の結果が確認されます。本論文は、古代ラパヌイ人のゲノムデータに加えて、現在のラパヌイ人の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)配列データ、および以前にポリネシア人の遺伝的祖先系統と論証されたものの、起源地が不明なブラジルの国立博物館の2個体の古代ゲノムデータを用いました。後者【ブラジル国立博物館所蔵の2個体】は古代ポリネシア人と呼ばれます。
●ラパヌイ人の祖先から得られた古代ゲノム
古代人15個体と、755094ヶ所のSNP部位で遺伝子型決定された世界規模の30人口集団の調査対象群(フィジーやポリネシアの7島や現在のラパ・ヌイの人々が含まれます)との間の、広範な遺伝的類似性が調べられました。この調査対象群を用いて、参照用の現在のポリネシア人個体群と現在のラパヌイ人との間の重複が最大化され、このラパヌイ人は、医療および歴史的記録によると、他のポリネシア諸島からの混合を有している可能性は低そうです。多次元尺度構成法(multidimensional scaling、略してMDS)では、全個体が次元全体にわたってポリネシア人のゲノム多様性に位置づけられた、と示されました。15個体に基づいてアレル頻度が推定され、f₃形式(ヨルバ人;X、古代の個体群)のf₃統計が計算され、Xはさまざまな現在の人口集団を表します。その結果、古代のほとんどの個体は現在のラパヌイ人と最も多くの遺伝的浮動を共有しており、他のポリネシア諸島民がそれに続く、と分かりました(図1a)。それと一致して、古代の個体群は、オセアニアの参照個体群のより広範な一式[7、39]を検討した場合でさえ、現在のラパヌイ人と最も密接に関連したままでした。以下は本論文の図1です。
連鎖不平衡(linkage disequilibrium、略してLD)情報を用いて、これらの観察を実証するため、IBDseqとancIBDを用いて、新たに配列決定された個体群と他の遠オセアニア(リモートオセアニア)人(フィジー人とポリネシア人)との間で同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)であるゲノム領域が推測されました。その結果、本論文で配列決定された全個体は、最長のIBD断片全体に分布する最大のIBDゲノム割合を相互と共有しており、それに続くのが、現在のラパヌイ人、標本抽出位置が不明の古代ポリネシア人2個体、東西の順での現在のポリネシア人、フィジー人である、と観察されました(図1b)。5%未満のヨーロッパ人との混合を有する現在のラパヌイ人について対応するパターンが観察され、現在のラパヌイ人は古代の個体群および他の現在のラパヌイ人と最大のIBDゲノム割合を共有しています。したがって、これらの結果は二倍体遺伝子型補完と関連する乱れではない、と考えられます。
IBDseqは位相化されていない遺伝子型で動作し、遠オセアニア人は、広範なIBD共有を引き起こすと予測される、歴史的に小さい有効人口規模によって特徴づけられることに要注意です。さらに、より短いIBD断片の正確な呼び出しは困難で、呼び出し手法に応じて異なるかもしれません。したがって、手法に依存しない15 cM(センチモルガン)超のより長いIBD断片に焦点が当てられます。本論文の結果から全体的に、本論文で配列決定された古代の15個体は、現在のラパヌイ人と最も密接に関連している、ラパヌイ人の祖先と論証され、博物館の記録がこの場合には正しいことも示唆しています。ゲノム解析を通じてのこれらの個体の起源の確認は、ラパヌイ人本国送還計画(Ka Haka Hoki Mai Te Mana Tupuna)による本国帰還運動に情報をもたらすでしょう。以下では、本論文で配列決定されたラパヌイ人の祖先15個体が、ラパ・ヌイの現在の個体群と区別するため、古代ラパヌイ人と呼ばれます。
●生物学的親族関係と近縁性
古代ラパヌイ人15個体のゲノムは、1860年代以前(つまり、ラパ・ヌイに大きな影響を及ぼした、ペルーの奴隷狩りとと強制的な本国送還の前)のラパ・ヌイの社会動態の調査の機会を提供します。READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)とNGSrelate2を用いると、古代ラパヌイ人間で1親等もしくは2親等の親族は見つからず、IBD 共有に基づいて3~4親等の単一の組み合わせが検出されました(どの2個体間の15 cM超の最高の推定IBD共有は1000cM未満です)。さらに、古代ラパヌイ人の全組み合わせで推定された近交係数は0.01未満で(補完遺伝子型から推定される場合は、遺伝子型尤度を用いると0.02未満)、その直接的祖先が相互と密接な親族関係ではなかった、と示されます。
ラパ・ヌイにおけるゲノム多様性と近親婚の可能性の一般的概要を得るため、古代ラパヌイ人15個体のゲノムと参照用の古代人および世界規模の現代人[44、45]一式における同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が、疑似半数体データでのhapROH[46]および塩基転位(transition、略してTi、ピリミジン塩基間もしくはプリン塩基間の置換)多型を除く補完された遺伝子型でのPLINKを用いて特定されました。他の世界規模の人口集団と比較して、古代ラパヌイ人はROHにおいてゲノムの大きな割合(たとえばhapROHでは、ラパヌイ人では平均長が198cMなのに対して、ユーラシア人の平均長25cMです)を有しています(図2a)。しかし、これらのROHのほとんどは比較的短く、全ROHの80%は12cM未満で、古代ラパヌイ人15個体は長いROHにおいてそのゲノムの長い断片を有していません。以下は本論文の図2です。
対照的に、たとえばアマゾン地域南部のパイタル・スルイ人(Paiter Suruí)やパキスタンのパンジャブ人(Punjabi)など高度な近親婚の個体群では、ROHの大きな割合は長く、パイタル・スルイ人2個体は76%以上の12cM以上のROH(335cM超)を、パンジャブ人は12cM以上のROHにおいて30cMのうち18cMを有しています。古代ラパヌイ人のROH分布は現在のラパヌイ人(P2077)のゲノムと類似している、と観察されました。それにも関わらず、P2077は古代の個体群より長いROHを有しています(20cM以上の連続においてゲノムの38cM)。さらに、古代ラパヌイ人とは対照的に、他の現在のラパヌイ人6個体におけるROH分布はひじょうに多様でした。ROHの正確な分布は推測手法に依存しますが(PLINKはより短いROHを推測します)、推定された近交係数、および古代ラパヌイ人と近親婚の歴史のある人口集団間のROH長分布の相対的な違いから、ラパヌイ人は低い有効人口規模を有している、との仮説が裏づけられます。しかし、親族間の結婚は、ペルーの奴隷狩り以前には稀だったようで、最近になってより高頻度になったのかもしれません。
●1600年代のラパヌイ人の崩壊に関する証拠はありません
古代ラパヌイ人15個体のゲノムを用いて、生物学的データを使うことで、生態系自死仮説が検証されました。これは、古代ラパヌイ人15個体が提案された崩壊より年代は新しいものの、1860年代のペルーの奴隷狩りに続く人口統計学的事象の影響を受けている可能性が低そうだからです。連鎖不平衡情報に依拠し、信頼性の高いIBD呼び出しを必要としないHapNe-LDで、過去100世代にわたるラパヌイ人の有効人口規模が再構築されました。集団遺伝学では、有効人口規模のじっさいの人口規模への直接的変換は、たとえば人口調査の包含基準もしくは繁殖率の変動のため困難です。したがって、一般的な慣例に従い、その後の模擬実験結果(後述)が定性的および相対的観点で解釈されます(つまり、推定有効人口規模の軌跡と、その変化の時期に焦点を当てます)。
本論文で推定されたHapNe-LD曲線は図2bに示されています。この曲線は、古代ラパヌイ人の誕生の約28世代前(800年前頃)に宰相に達し、その後は着実に増加します。これらの結果は、生態系自死説で主張されたような、1600年代における人口崩壊を示唆していません。しかし、HapNe-LD曲線が最終的には複数の人口統計学的筋額に対応する可能性があり、古代ラパヌイ人はアメリカ大陸先住民との混合を有しているので(後述)、広範な集団遺伝学的模擬実験も使用して、この結果が1600年代の生態系自死および崩壊の筋書きと一致する可能性はあるのかどうか、検証されました。
ラパヌイ人集団に関する最近の調査結果と一致し、主要な5媒介変数で特徴づけられる人口史を仮定して、ゲノムデータが模擬実験されました。それらの媒介変数には、ラパヌイ人集団の開始年代と強度と瓶首効果間の人口増加率(α、図2c)によって決定された2回の人口瓶首効果が含まれます。このモデルでは、瓶首効果1(Tb1とSb1)がラパ・ヌイの最初の移住とおそらく関連する瓶首効果を表しているのに対して、瓶首効果2(Tb2とSb2)は先行研究で提案されたような人口崩壊の可能性と関連する瓶首効果を表しています。各模擬実験データセットについて、過去100世代の有効人口規模が推測され、じっさいのデータと模擬実験されたデータについてHapNe-LD曲線間の差異を測定する計量計測が計算されました。その結果、HapNe-LD曲線は絶対的な有効人口規模の推定を意図するものではない、と浮き彫りになります。むしろ、模擬実験を使っての人口史を区別するため、HapNe-LD曲線が用いられます。
HapNe-LD曲線の距離計量は、ラパ・ヌイの最初の移住後の瓶首効果2が強いか中間である(人口の10~50%しか残らない場合)、もしくは最初の瓶首効果後の成長率(α)が高い(年間0.3%超)モデルと一致しません(図2c)。さらに、Sb2が50%超(弱い瓶首効果2)の模擬実験からSb2が50%以下(強いもしくは中間的な瓶首効果2)の模擬実験を分割する順列検定を用いて、10⁻⁵未満のP値が得られました。HapNe-LD曲線の代替的な要約統計として、1個体における総ROH(SROH)分布も用いられました。その結果、古代ラパヌイ人のSROH分布はひじょうに強い瓶首効果2(Sb2が0.2以下)を含む仮定的状況と一致しない、と分かりました。これらの結果は、最初の移住の後で1800年代以前のラパ・ヌイにおける大きな人口崩壊を裏づけません。むしろこれらの結果から、ラパ・ヌイには、最初の移住後に1860年代まで有効規模が着実増加した、小さな人口集団が居住していた、と示唆されます。異質な祖先系統特性に起因する現在のラパヌイ人集団のモデル化の課題についての考察は、補足情報11.2.2.2項も参照してください。
●ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民の混合
ラパヌイ人の祖先と他の人口集団との間の接触の可能性が調べられました。最初の調査手法として、ADMIXTUREと、アフリカ人やヨーロッパ人やアジア東部人や近東人や遠オセアニア人を含むSNP配列から得られた疑似半数体データが用いられました。混合割合推定への遠オセアニア人における強い遺伝的浮動の影響を最小限とするため、K(系統構成要素数)=5のADMIXTUREが、1回ですべての参照個体と遠オセアニア人1個体を含む別のデータセットで実行されました(図3a)。K=6でも同様の戦略に従いましたが、フィジー人とポリネシア人が追加の参照個体群として含められました。これらの分析は、古代ラパヌイ人の高い割合(平均90%)の祖先系統をポリネシア人的祖先系統構成要素に割り当てました。さらに、すべての古代と現在のラパヌイ人はアメリカ大陸先住民敵祖先系統構成要素を平均的に、それぞれ約10%(6.0~11.4%)と約8%(6.4~10.3%)有していました。対照的に、ヨーロッパ人的祖先系統は現在のラパヌイ人のみで検出され、古代ラパヌイ人では検出されませんでした。以下は本論文の図3です。
これらの結果を確認するため、D形式(ポリネシア人、古代ラパヌイ人;アメリカ大陸先住民もしくはヨーロッパ人、ヨルバ人)のD統計が計算されました(図3b)。ADMIXTUREの結果と一致して、本論文のデータから、古代ラパヌイ人は、他のポリネシア人よりもアメリカ大陸先住民と多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた一方で、ヨーロッパ人とは対称的関係を維持していた、と示されました。対照的に、古代および現在のポリネシア人はアメリカ大陸先住民およびヨーロッパ人と対称的である、との仮説を却下できません。f₄形式(トンガ人、ヨルバ人;古代ポリネシア人、アメリカ大陸先住民)のf₄比を用いて、古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民との混合は6.5~12.4%と推定されました。
これらの結果を、アメリカ大陸先住民祖先系統の証拠が古代ラパヌイ人個体群で見つからなかった先行研究と一致させるため、先行研究[6]の刊行されている利用可能なデータが再分析されました。先行研究[6]と一致して、アメリカ大陸先住民との混合を示唆する統計的に有意なD統計は得られませんでした。しかし、情報量削減実験を通じて、低深度が統計的に有意なD統計の欠如を説明できる、と示されます。さらに、ADMIXTURE手法を用いて、低深度配列決定データによって表される以前に刊行された古代ラパヌイ人5個体のうち3個体で、アメリカ大陸先住民的構成要素が検出されました。
古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民祖先系統の起源を調べるため、RFMixを用いて局所的祖先系統推定が実行され、古代ラパヌイ人のゲノムにおけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民とヨーロッパ人の祖先系統領域が特定されました。分析をアメリカ大陸先住民領域(平均総ゲノム割合は7.9~12.3%)に限定することで、f₃形式(ヨルバ人;アメリカ大陸先住民、古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民領域)のf₃統計が計算され、古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民との混合の最も可能性の高い供給源が評価されました。このf₃統計は中央アンデス高地の古代および現在の人口集団で最小化され、これは、補完に用いられた参照調査対象群におけるペルー人個体群の除外にも堅牢です。さらに、局所的なアメリカ大陸先住民領域に限定しないデータセットでD統計を計算すると、一致する結果が得られました。一部の非案で人口集団の点推定値は最高のf₃(およびD)値の信頼区間と重なることに要注意で、これは恐らく、参照データセットの低解像度のためです。しかし、現在と古代のアンデス人口集団(計算された107通りのうち上位12通りのf₃統計)では一貫して、最高のf₃統計が得られました。
●ヨーロッパ人到来前の太平洋を横断しての接触
混合連鎖不平衡および局所的祖先系統に基づく手法を用いて、古代ラパヌイ人の祖先とアメリカ大陸先住民との間の混合事象が特徴づけられました。ALDER とDATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)を用いて、2供給源人口集団の混合として古代ラパヌイ人15個体がモデル化され、その供給源人口集団は、第一にポリネシア人で、第二に、アフリカかヨーロッパかアジア東部かパプアかアメリカ大陸先住民の人口集団です。その結果、混合連鎖不平衡曲線は、古代ラパヌイ人をポリネシア人とアメリカ大陸先住民の混合としてモデル化したさいに、より低い減衰率を示す、と観察されました(図4a)。対照的に、すべての混合連鎖不平衡曲線の減衰は、供給源に関係なくアメリカ大陸先住民祖先系統を欠いている古代ポリネシア人2個体をモデル化すると、定性的に類似していました。
DATESを用いると、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民の混合は古代の個体群の平均誕生年代の17~32世代前に起きた、と推測されました。本論文はアメリカ大陸先住民との混合年代を絞り込むため、古代ラパヌイ人における推定された局所的祖先系統領域に依存しました。祖先系統あたりの領域長分布が得られ、その領域を用いて、古代ラパヌイ人15個体をまとめて混合年代が推定されました。古代ラパヌイ人における1%未満のヨーロッパ人領域が推定され、これらは本質的にノイズと示唆されます(図4b・c)。したがって、古代ラパヌイ人がポリネシア人とアメリカ大陸先住民の供給源間の1回の2方向混合事象に由来する、とのモデルについて媒介変数が推定されました。この場合、混合は古代ラパヌイ人の誕生の平均年代の15~17世代前に起きた、と推定されます。以下は本論文の図4です。
古代人15個体のさまざまな標本抽出時期を考慮して、遺伝的混合年代と放射性炭素年代を組み込んだ、ラパヌイ人集団の混合の共同年代が推定されました。各個体について、まず混合領域を用いて混合年代が推定され、500回のブートストラップ反復を通じて、95%信頼区間が得られました。次に、ベイズモデル化を用いて、混合年代推定が判断されました。ピナールとメトロの収集物から得られた年代を用いて、それらが、博物館の保管所および刊行されている記録にしたがって、ヒト遺骸が収集された年代に相当する、最終または最新の限界点で別々の年代測定された2期間としてモデル化されました。1世代の時間は25~30年と仮定され、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民の混合事象の最も可能性の高い年代がモデル化されました。各モデルでは、統計的に一致する結果が得られました。1世代の時間を29年と仮定すると、本論文で支持されるモデルは、1336~1402年(68.3%の確率)と1246~1425年(95.4%の確率)の範囲が得られました(図4d)。これらの推定値は、ラパ・ヌイへの移住に関する最新の推定値(1150~1280年頃)と有意に重複しており、この混合事象がラパ・ヌイへの移住に先行しなかった、と強く示唆されます。さらに、これらの推定値から、ラパヌイ人のポリネシア人祖先は、ラパ・ヌイへのヨーロッパ人の最初の出現のずっと前(1722年の364±41年前)に、アメリカ大陸先住民と接触していた、と示されます。
●考察
本論文では、ラパヌイ人の起源と分かった、高品質な古代ポリネシア人のゲノムが提示されます。放射性炭素年代測定では1800年代のこれらの個体は、ラパ・ヌイにおけるヨーロッパ人の最初の到来の後となりますが、ヨーロッパ人との混合を有していません。より重要なのは、これらの個体の年代が、1860年代のペルー人の奴隷狩りおよび破壊的な天然痘発生の後であることです。そのため、このデータセットは、ラパ・ヌイの最初の移住およびヨーロッパ人との接触前のラパヌイ人のゲノム多様性をよく構成している可能性が高そうです。このデータの品質のため、ラパヌイ人の過去における二つの長年の論争に取り組むことができ、それは、ラパ・ヌイにおける自業自得の人口崩壊のよく知られた説と、太平洋を横断してのポリネシア人の航海の範囲およびアメリカ大陸先住民との初期の接触です。
生物学的(ゲノム)データを用いると、元々は森林伐採や資源の過剰利用や戦争の結果と提案された、ラパヌイ人が1600年代に人口崩壊を経た、との証拠は見つかりませんでした。かつてラパ・ヌイは木々に覆われていましたが、その衰退は、他のポリネシアの島々で観察されているように、直接的なヒトの活動と、ポリネシア人の入植者によって持ち込まれた大型ネズミ(ラット)の急増との複合的な結果の可能性が高い、と提案されてきました。一部の著者によると、ラパヌイ人のじっさいの人口規模は、多ければ15000個体に達しただろう、とされています。しかし、18世紀と19世紀のヨーロッパ人の記録およびメトロの推定値から、ラパヌイ人集団は少なければ約3000個体だった、と示唆されます。そうした小さな人口集団は提案された人口崩壊の結果かもしれませんが、この推定は、産業前の人口増加率を想定すると、最初の移住後に着実に増加しただろう人口集団とも一致します。これらの説明は、有効人口規模がラパ・ヌイへの最初の移住後に単調に増加したものの、過去1000年間では小さいままだった、との本論文の推測と一致します。
本論文の結果(および依拠したゲノムデータ)はラパヌイ人の人口統計学的歴史のみに光を当てている、と本論文は強調します。したがって、本論文の結果はラパ・ヌイにおけるヒトの活動の生態学的影響の直接的評価には使用できません。ポリネシアでは人為的影響が広範に見られますが、ラパ・ヌイにおけるそうした変化がヨーロッパ人の接触前の1600年代に人口崩壊をもたらした、との仮説は明確に却下されます。代わりに本論文の結果は、ラパヌイ人集団は変化する環境にも関わらず回復力があったことを裏づけます。
ADMIXTUREと局所的祖先系統推定とf統計を用いて、古代ラパヌイ人15個体全員で約10%のアメリカ大陸先住民との混合が検出され、これはヨーロッパ人との接触後の混合事象と一致しないゲノム多様性パターンです。合同された遺伝学的および放射性測定データに依拠する新手法を用いて、この混合事象は1250~1430年頃(つまり、コロンブスがアメリカ大陸圏に到来し、1722年にヨーロッパ人がラパ・ヌイに到来するずっと前です)と確信的に年代測定されました。ポリネシアのラパヌイ人の祖先が何千kmもの海を横断して、急速で意図的な探検的航海期間にラパ・ヌイに到来したことはよく確証されていますが、アメリカ大陸へのその後の往復の旅の可能性は、依然として議論になっています。とくに、これまでに行なわれた唯一の他の全ゲノムでのラパヌイ人研究では、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民との接触の証拠が見つかりませんでした[6]。
本論文のデータの情報量削減実験を通じて、そのデータセットの網羅率の平均深度(0.0004~0.0041倍)は、本論文で適用されたD統計を用いての具体的な統計的検定の実行に充分な検出力が得られない、と分かりました。古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民構成要素が南アメリカ大陸の太平洋沿岸と最も密接に関連しており、北アメリカ大陸もしくはアンデス山脈の東側の人口集団とは密接に関連していない、との推測は、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との間の太平洋横断の接触をさらに実証します。中央および南アメリカ大陸(とくにエクアドルとコロンビア)におけるゲノム記録が、依然として少ないことに要注意です。したがって、ポリネシア人の祖先と相互作用したアメリカ大陸先住民集団のより適した代理は、これらの地域および他のポリネシアの島々からのヨーロッパ人との接触前のより多くのゲノムデータが利用可能になっていくと、特定できるでしょう。
本論文の調査結果は、ヨーロッパ人との接触前の太平洋横断接触を強く裏づけますが、ゲノムデータを用いて媒介されたこの旅の回数と方向性の確証は依然として困難です。本論文の混合年代推定値は、現在のラパヌイ人について報告された単一の波動の推定値と一致します[7]。本論文の混合年代推定値は、ラパ・ヌイの移住に関する最新の推定値と重なっており、ラパ・ヌイの混合事象と移住を隔てるのは短期間かもしれない、と示唆されます。しかし、本論文の混合年代推定値が他の現在のポリネシア人について得られた推定値[7]に約100~200年間遅れ、古代および現在のラパヌイ人個体群全体で一致していることから、太平洋横断接触はポリネシア人集団全体で複数回起きたかもしれない、と示唆されます。
注目すべきことに、考古学的証拠と口承史では、ヨーロッパ人が南アメリカ大陸に到達する前に、ポリネシアの人々がアメリカ大陸への往復の旅に乗り出す技術と実際的知識を保持していた、と証明されています。したがって、他のポリネシアの島々からり追加のヨーロッパ人との接触前の古代人のゲノムデータが、この過程のより微妙な再構築を可能にするだろう、と予測されます。
ラパヌイ人集団への注目に値する洞察の提供に加えて、本論文で提示されたゲノムから、本論文で標本抽出された古代人15個体はラパヌイ人起源である、と確証されます。この研究をラパヌイ人共同体とその代表者に提示すると、これら祖先の遺骸のラパ・ヌイへの帰還の必要性が、共同体にとっての中心的目標として議論されました。本論文の調査結果は、これら将来の取り組みに寄与するはずです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
ゲノミクス:ラパ・ヌイの人口の歴史を再評価する
ラパ・ヌイの古代住民の衰退は、自滅的な人口崩壊によるものではない可能性が高いと示唆する論文が、Natureに掲載される。これにより、「生態学的自殺」という物議を醸した説は否定された。この発見は、島の人口の歴史に新たな光を当てる。
ラパ・ヌイ(旧名イースター島)は、世界でも最も人里離れた居住地のひとつであり、南米から西に約3700 km、最も近い有人島から東に1900 km以上離れている。この島の人口動態の歴史における2つの重要な特徴が争点となっている。1つは、17世紀に現地の資源を過剰に利用した結果、ラパ・ヌイの人口が崩壊したのか(1860年代にペルー人の奴隷狩りの一隊が到着し、1722年にヨーロッパ人が到着する前)。もう1つは、ラパ・ヌイの住民とネイティブ・アメリカンとの間に太平洋を越えた交流があったのかどうか、という点である。
J. Victor Moreno-Mayarと Anna-Sapfo Malaspinasらは、現在のラパ・ヌイ族のコミュニティーと緊密に協力し、過去500年間にわたって島に住んでいた15人の古代住民のゲノムを研究した。著者らは、17世紀の崩壊に相当する遺伝的ボトルネックの証拠を見つけることはできなかった。その代わり、著者らの分析では、1860年代にペルー人による奴隷狩りによって島の人口の3分の1が強制的に連れ去られるまで、島には小規模な人口が安定して増加していたことが示唆されている。
さらに、分析結果によると、古代の島民は、現在のラパ・ヌイ人と同様に、ネイティブ・アメリカンのDNAを含んでいることが示されている。著者らは、この混血は、西暦1250年から1430年の間に起こった可能性が高いと推定している。考古学的証拠や口頭伝承とあわせて考えると、この発見は、ヨーロッパ人がラパ・ヌイに到着するはるか以前、また、コロンブスがアメリカ大陸に到着するはるか以前から、ポリネシア人が太平洋を渡っていた可能性を示唆している。
これらのゲノムデータは、失われた先祖の遺骨の一部を特定し、返還するのに役立てられる。この論文は、過去の人口における回復力だけでなく、研究における感受性についても物語っている。
古ゲノミクス:過去のラパヌイ人のゲノムから明らかになった回復力とヨーロッパ人到来以前の南北アメリカとの接触
Cover Story:島の歴史:ゲノム解析からラパ・ヌイの集団史が明らかに
表紙は、世界で最も孤立した居住地の1つであるラパ・ヌイ(イースター島としても知られる)にある、印象的なモアイ像である。ラパ・ヌイには少なくとも13世紀から人々が住んでいたことが分かっているが、その歴史の重要な側面については議論が続いている。具体的には、ラパヌイ人が「エコサイド(資源の過剰利用の結果として1600年代に自滅的に招いた集団の崩壊)」を引き起こしたのかどうか、また、ヨーロッパ人到来以前にラパヌイ人とアメリカ先住民の間に何らかの接触があったかどうかである。今回J Moreno-MayarとA Malaspinasたちは、これら2つの疑問に対する答えを提示している。研究チームが、1670〜1950年にラパ・ヌイに住んでいた15人のゲノムを分析した結果、17世紀のエコサイドを裏付ける証拠は見つからなかった。彼らは、そうではなく、この島の人口はこの時期には着実に増加していて、1722年のヨーロッパ人の到来、そして1860年代のペルー人による奴隷狩りによって初めて減少したと推測している。さらに研究チームは、ヨーロッパ人が到来するはるか前の1250〜1430年に、ラパヌイ人がアメリカ先住民と交配していた証拠も発見した。
参考文献:
Moreno-Mayar JV. et al.(2024): Ancient Rapanui genomes reveal resilience and pre-European contact with the Americas. Nature, 633, 8029, 389–397.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07881-4
[6]Fehren-Schmitz L. et al.(2017): Genetic Ancestry of Rapanui before and after European Contact. Current Biology, 27, 20, 3209–3215.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.029
関連記事
[7]Ioannidis AG. et al.(2020): Native American gene flow into Polynesia predating Easter Island settlement. Nature, 583, 7817, 572–577.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2487-2
関連記事
[21]Storey AA. et al.(2007): Radiocarbon and DNA evidence for a pre-Columbian introduction of Polynesian chickens to Chile. PNAS, 104, 25, 10335-10339.
https://doi.org/10.1073/pnas.0703993104
関連記事
[39]Ioannidis AG. et al.(2021): Paths and timings of the peopling of Polynesia inferred from genomic networks. Nature, 597, 7877, 522–526.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03902-8
関連記事
[44]Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations. Nature, 538, 7624, 201–206.
https://doi.org/10.1038/nature18964
関連記事
[45]Malaspinas AS. et al.(2016): A genomic history of Aboriginal Australia. Nature, 538, 7624, 207–214.
https://doi.org/10.1038/nature18299
関連記事
[46]Ringbauer H, Novembre J, and Steinrücken M.(2021): Parental relatedness through time revealed by runs of homozygosity in ancient DNA. Nature Communications, 12, 5425.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25289-w
関連記事
[57]Reich D. et al.(2012): Reconstructing Native American population history. Nature, 488, 7411, 370–374.
https://doi.org/10.1038/nature11258
関連記事
[58]Moreno-Mayar JV. et al.(2018): Early human dispersals within the Americas. Science, 362, 6419, eaav2621.
https://doi.org/10.1126/science.aav2621
関連記事
本論文は、17世紀後半~20世紀半ばのラパ・ヌイ住民と考えられる15個体のゲノムデータを提示し、「生態系自死」説を裏づけるボトルネック(瓶首効果)の遺伝的痕跡は見つからなかった、と指摘します。また本論文は、1250~1430年頃にラパ・ヌイの住民(もしくはその祖先集団)とアメリカ大陸先住民との間で遺伝的混合が起き、ラパ・ヌイの古代人と現代人のゲノムにはアメリカ大陸先住民的な遺伝的構成要素が10%ほど見られることも指摘します。先行研究[6]でも示されていた、先コロンブス期におけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民との間の接触の可能性が、改めて明らかになったわけです。これは以前の古代のラパ・ヌイ住民の低品質なゲノムデータでは検出されておらず、古代ゲノム研究においてゲノムデータの品質が重要であることに改めて注意しなければならない、と思います。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
ラパ・ヌイは、世界で最も孤立した居住地の一つです。ラパ・ヌイは、モアイと呼ばれる象徴的な巨石像を含む考古学的記録のため、多くの人々の想像力を捉えてきました。ラパ・ヌイの広範な研究から、二つの顕著な主張が提示されてきました。第一に、ラパ・ヌイの歴史は、最終的に大規模な人口崩壊を招いただろう資源の過剰利用の警鐘的な物語として提示されてきており、これは「生態系自死」説と呼ばれています。第二に、ヨーロッパ人との接触に先行するアメリカ大陸への太平洋横断航海の可能性が、依然として議論されています。[6、7]
本論文では、これらの問題に取り組むため、放射性炭素年代測定され(1670~1950年頃)、全ゲノム配列決定された(網羅率は0.4~25.6倍)ラパ・ヌイ古代人15個体に基づいて、ラパ・ヌイのゲノム史が再構築されました。その結果、これら15個体はポリネシア人起源で、ラパ・ヌイの現代人と最も密接に関連している、と分かり、これはラパ・ヌイへの遺骨返還の取り組みに寄与する調査結果です。有効人口規模の再構築と広範な集団遺伝学的模擬実験を通じて、生態系自死説で提案されたような、1600年代における深刻な人口瓶首効果を含む筋書きは却下されます。さらに、ラパ・ヌイの古代人と現代人はアメリカ大陸先住民との混合の同様の割合(約10%)を有しています。遺伝的年代と放射性炭素年代を統合したベイズ手法を用いて、この混合事象は1250~1430年頃に起きた、と推定されます。
●研究史
ラパ・ヌイは「世界の中心」という意味のテ・ピト・オ・テ・ヘヌア(Te Pito o Te Henua)としても知られ、世界で最も孤立した居住地の一つです。ラパ・ヌイは太平洋のポリネシア三角地帯の最東端、南アメリカ大陸の西方約3700km、最も近い有人島の東方1900km以上に位置します。ラパ・ヌイは遠隔地ですが、考古学と遺伝学の証拠から、西方からのポリネシア人がすでに1250年頃にはラパ・ヌイに到達していた、と示されています。その後の5世紀にわたって、ラパ・ヌイの住民であるラパヌイ人は、象徴的な巨大な石造(モアイ)と記念碑的な石の基壇であるアフ(ahu)によって特徴づけられる文化を発展させました。
ラパ・ヌイは孤立していたため、ヨーロッパ人がラパ・ヌイに到達したのはやっと1722年でした。長年にわたって、ヨーロッパからの訪問者はラパヌイ人に壊滅的な影響を与えており、それは、ヨーロッパからの訪問者が地元住民を殺害し、島民が以前には曝されていなかった致命的な病原体を持ち込んだからです。さらに、1860年代にはペルーの奴隷狩りはラパ・ヌイの人口の1/3を誘拐し、奴隷制度の国際的非難の後に本国に送還されたのはわずか数人でした。その後、天然痘の発生によってラパヌイ人集団は多くが死亡し、推定110個体にまで減少しました。ラパ・ヌイとその住民は、考古学と人類学と遺伝学を用いて広範に研究されてきましたが、依然として議論となっている、ヨーロッパ人との接触に先行するラパヌイ人口史に関する二つの重要な特徴があり、それは、「生態学的自殺」と呼ばれる1600年代におけるヒトを媒介とした大規模な人口崩壊の可能性と、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民との間の太平洋を横断した接触の可能性です。
ラパヌイ人の歴史は、人類による資源の過剰利用への警告物語として提示されてきました。生態学的自殺(生態系自死)説によると、ラパヌイ人は島の森林を伐採し、在来動物を多数殺害して、文化の繁栄と約15000個体に増加した人口を維持しました。その結果、資源不足はいわゆるフリ・モアイ(Huri Moai、モアイ倒し)文化段階、つまり食人にまで激化し、最終的には1600年代における人口と文化の崩壊で頂点に達した飢饉と戦争の時代に至り、彫像の彫刻が急速に終了しました。1700年代のヨーロッパからの訪問者は、ラパヌイ人の人口規模が1500~3000個体の範囲と推定し、これは、生態系自死説によって提案された、人口崩壊を生き残ったのが人口の10~20%との想定に相当します。ラパ・ヌイの環境が人為的活動(たとえば、森林伐採)によって影響を受けたことはよく確証されていますが、これらの変化が人口崩壊につながったのかどうか、もしくはどのようにつながったのか、不明なままです。いくつかの一連の生物人類学と考古学と歴史の証拠が、生態系自死説に異議を唱えるのに使用されてきました。しかし、崩壊仮説は依然としてひじょうに人気があります。
カヌーの建造と修理に必要な木材の枯渇は最終的に、ポリネシア文化の特徴である長距離公開の放棄に起因する島の孤立につながりました。しかし、いくつかの断片的証拠から、ラパ・ヌイは長距離公開の最東端ではなく、ポリネシア人はコロンブス以前に最終的にアメリカ大陸に到達した、と示唆されています[21]。現在の個体群についての遺伝学的研究は、そうした接触を裏づけてきました。現在のラパヌイ人は、そのゲノムにアメリカ大陸先住民およびヨーロッパ人との混合を有している、と分かりました。注目すべきことに、その研究では、アメリカ大陸先住民との混合(1280~1495年頃)は、ヨーロッパ人との混合(1850~1895年頃)に先行する、と推定されました。
さらに最近では、アメリカ大陸先住民との混合がラパ・ヌイの現在の個体群だけではなく、ラパ・イチ(Rapa Iti)島やタヒチやパリサー(Palliser)諸島やヌク・ヒバ(Nuku Hiva)島(北マルケサス諸島)やファトゥ・ヒヴァ(Fatu Hiva)島(南マルケサス諸島)やマンガレヴァ(Mangareva)島の現在の個体群でも検出されました。その研究では、さまざまな島々におけるアメリカ大陸先住民からの遺伝子流動は1150年頃(南マルケサス諸島)~1380年頃(ラパ・ヌイ)と年代測定され、先行研究の推定年代と一致します。しかし、古代ラパヌイ人の古代DNA研究はこれまで二つだけで、アメリカ大陸先住民との混合の証拠は見つかっていません[6]。最初の研究が12個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)に焦点を当てたのに対して、第二の研究[6]はヨーロッパ人との接触前後の5個体の低深度(0.0004~0.0041倍)の全ゲノムデータを分析しました。後者[6]では、下流集団遺伝学的分析から、古代人5個体はポリネシア人だった、と確証されました。しかし、分析されたヒト遺骸は推定されたアメリカ大陸先住民との混合年代の後でさえ、アメリカ大陸先住民祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)はこれら古代人のゲノムでは報告されず[6]、現在の人口集団からのデータに基づく調査結果に疑問が呈されました。
古代ラパヌイ人のゲノム史を推測するため、博物館の記録によるとラパ・ヌイで発見された、古代人15個体の全ゲノム配列決定データが生成されました。これらのゲノムと他の公開されていて利用可能なデータが分析され、これらの個体のゲノム祖先系統が推測され、ラパヌイ人が1600年代に人口崩壊を経たのかどうか、判断され、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民がヨーロッパ人との接触前に混合したのかどうか、調べられました。
●共同体との契約
研究期間中、研究者は島のラパヌイ人共同体やラパ・ヌイ開発委員会(Comisión de Desarrollo Rapa Nui)や国家記念物諮問委員会(Comisión Asesora de Monumentos Nacionales)の代表者と会い、この研究の目的と進行中の結果を提示しました。両委員会とも、研究の継続に賛成票を投じました。この研究の結果は、最初の提出前を含めて数回、共同体に伝えられました。研究者は島において公開講演での研究計画や短い映像やラジオの取材訪問を提示し、ラパヌイ人共同体と最も関係する問題について尋ねる機会が研究者に与えられました。これらの議論は、この研究で調べられた研究主題に盛り込まれました。
●古代ゲノムと放射性炭素年代
厳格な博物館の指針に従い、最小侵襲手法を用いて、フランス国立自然史博物館(Muséum national d’Histoire naturelle)のアルフォンス・ピナール(Alphonse Pinart)の収集物(1877年)とアルフレッド・メトロ(Alfred Métraux)の収集物(1935年)から、ラパヌイ人と分類された15個体の錐体骨と歯の資料が標本抽出されました。これには、可能な限り遊離した歯を回収すること(4個体)と、他の場合には60~120mgの錐体骨粉末(11個体)が含まれます。オックスフォード放射性炭素加速器単位とブリストル放射性炭素加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)で、11個体から直接的な放射性炭素年代が得られました。結果は、炭素同位体比(¹³C/¹²C)を称して同位体分別を補正した、現在を基準とした放射性炭素年代で報告されています。その結果は、海洋性タンパク質の消費に由来する海洋貯蔵効果を考慮して較正され、大まかに1670~1950年の範囲となりました。この範囲のほとんどは1722年のヨーロッパ人との接触の後となりますが、これらの骨格遺骸は博物館の保管所によると収集された年代(つまり、11個体は1877年、4個体は1934~1935年)より前のはずです。したがって、これらの個体が1860年のペルー人の奴隷狩りや、それに続くラパ・ヌイの人口を推定110個体まで激減させた疫病の後に生まれた可能性は低そうです。
古代人15個体の全ゲノムは、網羅率の平均深度0.4~25.6倍の間で配列決定されました。すべてのライブラリについて、5%未満の汚染が推定されました。全ゲノムデータセットを活用するため、GLIMPSEで補完的二倍体遺伝子型が生成されました。ベンチマークおよび情報量削減実験と、参照標本の部分集合でのアレル(対立遺伝子)共有および局所的祖先系統推測分析の繰り返しによって、補完されたデータが検証されました。以下では、集団ゲノム分析にはこれら補完された遺伝子型に依拠し、適切な場合には標準的な疑似半数体呼び出しを用いて、本論文の結果が確認されます。本論文は、古代ラパヌイ人のゲノムデータに加えて、現在のラパヌイ人の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)配列データ、および以前にポリネシア人の遺伝的祖先系統と論証されたものの、起源地が不明なブラジルの国立博物館の2個体の古代ゲノムデータを用いました。後者【ブラジル国立博物館所蔵の2個体】は古代ポリネシア人と呼ばれます。
●ラパヌイ人の祖先から得られた古代ゲノム
古代人15個体と、755094ヶ所のSNP部位で遺伝子型決定された世界規模の30人口集団の調査対象群(フィジーやポリネシアの7島や現在のラパ・ヌイの人々が含まれます)との間の、広範な遺伝的類似性が調べられました。この調査対象群を用いて、参照用の現在のポリネシア人個体群と現在のラパヌイ人との間の重複が最大化され、このラパヌイ人は、医療および歴史的記録によると、他のポリネシア諸島からの混合を有している可能性は低そうです。多次元尺度構成法(multidimensional scaling、略してMDS)では、全個体が次元全体にわたってポリネシア人のゲノム多様性に位置づけられた、と示されました。15個体に基づいてアレル頻度が推定され、f₃形式(ヨルバ人;X、古代の個体群)のf₃統計が計算され、Xはさまざまな現在の人口集団を表します。その結果、古代のほとんどの個体は現在のラパヌイ人と最も多くの遺伝的浮動を共有しており、他のポリネシア諸島民がそれに続く、と分かりました(図1a)。それと一致して、古代の個体群は、オセアニアの参照個体群のより広範な一式[7、39]を検討した場合でさえ、現在のラパヌイ人と最も密接に関連したままでした。以下は本論文の図1です。
連鎖不平衡(linkage disequilibrium、略してLD)情報を用いて、これらの観察を実証するため、IBDseqとancIBDを用いて、新たに配列決定された個体群と他の遠オセアニア(リモートオセアニア)人(フィジー人とポリネシア人)との間で同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)であるゲノム領域が推測されました。その結果、本論文で配列決定された全個体は、最長のIBD断片全体に分布する最大のIBDゲノム割合を相互と共有しており、それに続くのが、現在のラパヌイ人、標本抽出位置が不明の古代ポリネシア人2個体、東西の順での現在のポリネシア人、フィジー人である、と観察されました(図1b)。5%未満のヨーロッパ人との混合を有する現在のラパヌイ人について対応するパターンが観察され、現在のラパヌイ人は古代の個体群および他の現在のラパヌイ人と最大のIBDゲノム割合を共有しています。したがって、これらの結果は二倍体遺伝子型補完と関連する乱れではない、と考えられます。
IBDseqは位相化されていない遺伝子型で動作し、遠オセアニア人は、広範なIBD共有を引き起こすと予測される、歴史的に小さい有効人口規模によって特徴づけられることに要注意です。さらに、より短いIBD断片の正確な呼び出しは困難で、呼び出し手法に応じて異なるかもしれません。したがって、手法に依存しない15 cM(センチモルガン)超のより長いIBD断片に焦点が当てられます。本論文の結果から全体的に、本論文で配列決定された古代の15個体は、現在のラパヌイ人と最も密接に関連している、ラパヌイ人の祖先と論証され、博物館の記録がこの場合には正しいことも示唆しています。ゲノム解析を通じてのこれらの個体の起源の確認は、ラパヌイ人本国送還計画(Ka Haka Hoki Mai Te Mana Tupuna)による本国帰還運動に情報をもたらすでしょう。以下では、本論文で配列決定されたラパヌイ人の祖先15個体が、ラパ・ヌイの現在の個体群と区別するため、古代ラパヌイ人と呼ばれます。
●生物学的親族関係と近縁性
古代ラパヌイ人15個体のゲノムは、1860年代以前(つまり、ラパ・ヌイに大きな影響を及ぼした、ペルーの奴隷狩りとと強制的な本国送還の前)のラパ・ヌイの社会動態の調査の機会を提供します。READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)とNGSrelate2を用いると、古代ラパヌイ人間で1親等もしくは2親等の親族は見つからず、IBD 共有に基づいて3~4親等の単一の組み合わせが検出されました(どの2個体間の15 cM超の最高の推定IBD共有は1000cM未満です)。さらに、古代ラパヌイ人の全組み合わせで推定された近交係数は0.01未満で(補完遺伝子型から推定される場合は、遺伝子型尤度を用いると0.02未満)、その直接的祖先が相互と密接な親族関係ではなかった、と示されます。
ラパ・ヌイにおけるゲノム多様性と近親婚の可能性の一般的概要を得るため、古代ラパヌイ人15個体のゲノムと参照用の古代人および世界規模の現代人[44、45]一式における同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)が、疑似半数体データでのhapROH[46]および塩基転位(transition、略してTi、ピリミジン塩基間もしくはプリン塩基間の置換)多型を除く補完された遺伝子型でのPLINKを用いて特定されました。他の世界規模の人口集団と比較して、古代ラパヌイ人はROHにおいてゲノムの大きな割合(たとえばhapROHでは、ラパヌイ人では平均長が198cMなのに対して、ユーラシア人の平均長25cMです)を有しています(図2a)。しかし、これらのROHのほとんどは比較的短く、全ROHの80%は12cM未満で、古代ラパヌイ人15個体は長いROHにおいてそのゲノムの長い断片を有していません。以下は本論文の図2です。
対照的に、たとえばアマゾン地域南部のパイタル・スルイ人(Paiter Suruí)やパキスタンのパンジャブ人(Punjabi)など高度な近親婚の個体群では、ROHの大きな割合は長く、パイタル・スルイ人2個体は76%以上の12cM以上のROH(335cM超)を、パンジャブ人は12cM以上のROHにおいて30cMのうち18cMを有しています。古代ラパヌイ人のROH分布は現在のラパヌイ人(P2077)のゲノムと類似している、と観察されました。それにも関わらず、P2077は古代の個体群より長いROHを有しています(20cM以上の連続においてゲノムの38cM)。さらに、古代ラパヌイ人とは対照的に、他の現在のラパヌイ人6個体におけるROH分布はひじょうに多様でした。ROHの正確な分布は推測手法に依存しますが(PLINKはより短いROHを推測します)、推定された近交係数、および古代ラパヌイ人と近親婚の歴史のある人口集団間のROH長分布の相対的な違いから、ラパヌイ人は低い有効人口規模を有している、との仮説が裏づけられます。しかし、親族間の結婚は、ペルーの奴隷狩り以前には稀だったようで、最近になってより高頻度になったのかもしれません。
●1600年代のラパヌイ人の崩壊に関する証拠はありません
古代ラパヌイ人15個体のゲノムを用いて、生物学的データを使うことで、生態系自死仮説が検証されました。これは、古代ラパヌイ人15個体が提案された崩壊より年代は新しいものの、1860年代のペルーの奴隷狩りに続く人口統計学的事象の影響を受けている可能性が低そうだからです。連鎖不平衡情報に依拠し、信頼性の高いIBD呼び出しを必要としないHapNe-LDで、過去100世代にわたるラパヌイ人の有効人口規模が再構築されました。集団遺伝学では、有効人口規模のじっさいの人口規模への直接的変換は、たとえば人口調査の包含基準もしくは繁殖率の変動のため困難です。したがって、一般的な慣例に従い、その後の模擬実験結果(後述)が定性的および相対的観点で解釈されます(つまり、推定有効人口規模の軌跡と、その変化の時期に焦点を当てます)。
本論文で推定されたHapNe-LD曲線は図2bに示されています。この曲線は、古代ラパヌイ人の誕生の約28世代前(800年前頃)に宰相に達し、その後は着実に増加します。これらの結果は、生態系自死説で主張されたような、1600年代における人口崩壊を示唆していません。しかし、HapNe-LD曲線が最終的には複数の人口統計学的筋額に対応する可能性があり、古代ラパヌイ人はアメリカ大陸先住民との混合を有しているので(後述)、広範な集団遺伝学的模擬実験も使用して、この結果が1600年代の生態系自死および崩壊の筋書きと一致する可能性はあるのかどうか、検証されました。
ラパヌイ人集団に関する最近の調査結果と一致し、主要な5媒介変数で特徴づけられる人口史を仮定して、ゲノムデータが模擬実験されました。それらの媒介変数には、ラパヌイ人集団の開始年代と強度と瓶首効果間の人口増加率(α、図2c)によって決定された2回の人口瓶首効果が含まれます。このモデルでは、瓶首効果1(Tb1とSb1)がラパ・ヌイの最初の移住とおそらく関連する瓶首効果を表しているのに対して、瓶首効果2(Tb2とSb2)は先行研究で提案されたような人口崩壊の可能性と関連する瓶首効果を表しています。各模擬実験データセットについて、過去100世代の有効人口規模が推測され、じっさいのデータと模擬実験されたデータについてHapNe-LD曲線間の差異を測定する計量計測が計算されました。その結果、HapNe-LD曲線は絶対的な有効人口規模の推定を意図するものではない、と浮き彫りになります。むしろ、模擬実験を使っての人口史を区別するため、HapNe-LD曲線が用いられます。
HapNe-LD曲線の距離計量は、ラパ・ヌイの最初の移住後の瓶首効果2が強いか中間である(人口の10~50%しか残らない場合)、もしくは最初の瓶首効果後の成長率(α)が高い(年間0.3%超)モデルと一致しません(図2c)。さらに、Sb2が50%超(弱い瓶首効果2)の模擬実験からSb2が50%以下(強いもしくは中間的な瓶首効果2)の模擬実験を分割する順列検定を用いて、10⁻⁵未満のP値が得られました。HapNe-LD曲線の代替的な要約統計として、1個体における総ROH(SROH)分布も用いられました。その結果、古代ラパヌイ人のSROH分布はひじょうに強い瓶首効果2(Sb2が0.2以下)を含む仮定的状況と一致しない、と分かりました。これらの結果は、最初の移住の後で1800年代以前のラパ・ヌイにおける大きな人口崩壊を裏づけません。むしろこれらの結果から、ラパ・ヌイには、最初の移住後に1860年代まで有効規模が着実増加した、小さな人口集団が居住していた、と示唆されます。異質な祖先系統特性に起因する現在のラパヌイ人集団のモデル化の課題についての考察は、補足情報11.2.2.2項も参照してください。
●ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民の混合
ラパヌイ人の祖先と他の人口集団との間の接触の可能性が調べられました。最初の調査手法として、ADMIXTUREと、アフリカ人やヨーロッパ人やアジア東部人や近東人や遠オセアニア人を含むSNP配列から得られた疑似半数体データが用いられました。混合割合推定への遠オセアニア人における強い遺伝的浮動の影響を最小限とするため、K(系統構成要素数)=5のADMIXTUREが、1回ですべての参照個体と遠オセアニア人1個体を含む別のデータセットで実行されました(図3a)。K=6でも同様の戦略に従いましたが、フィジー人とポリネシア人が追加の参照個体群として含められました。これらの分析は、古代ラパヌイ人の高い割合(平均90%)の祖先系統をポリネシア人的祖先系統構成要素に割り当てました。さらに、すべての古代と現在のラパヌイ人はアメリカ大陸先住民敵祖先系統構成要素を平均的に、それぞれ約10%(6.0~11.4%)と約8%(6.4~10.3%)有していました。対照的に、ヨーロッパ人的祖先系統は現在のラパヌイ人のみで検出され、古代ラパヌイ人では検出されませんでした。以下は本論文の図3です。
これらの結果を確認するため、D形式(ポリネシア人、古代ラパヌイ人;アメリカ大陸先住民もしくはヨーロッパ人、ヨルバ人)のD統計が計算されました(図3b)。ADMIXTUREの結果と一致して、本論文のデータから、古代ラパヌイ人は、他のポリネシア人よりもアメリカ大陸先住民と多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた一方で、ヨーロッパ人とは対称的関係を維持していた、と示されました。対照的に、古代および現在のポリネシア人はアメリカ大陸先住民およびヨーロッパ人と対称的である、との仮説を却下できません。f₄形式(トンガ人、ヨルバ人;古代ポリネシア人、アメリカ大陸先住民)のf₄比を用いて、古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民との混合は6.5~12.4%と推定されました。
これらの結果を、アメリカ大陸先住民祖先系統の証拠が古代ラパヌイ人個体群で見つからなかった先行研究と一致させるため、先行研究[6]の刊行されている利用可能なデータが再分析されました。先行研究[6]と一致して、アメリカ大陸先住民との混合を示唆する統計的に有意なD統計は得られませんでした。しかし、情報量削減実験を通じて、低深度が統計的に有意なD統計の欠如を説明できる、と示されます。さらに、ADMIXTURE手法を用いて、低深度配列決定データによって表される以前に刊行された古代ラパヌイ人5個体のうち3個体で、アメリカ大陸先住民的構成要素が検出されました。
古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民祖先系統の起源を調べるため、RFMixを用いて局所的祖先系統推定が実行され、古代ラパヌイ人のゲノムにおけるポリネシア人とアメリカ大陸先住民とヨーロッパ人の祖先系統領域が特定されました。分析をアメリカ大陸先住民領域(平均総ゲノム割合は7.9~12.3%)に限定することで、f₃形式(ヨルバ人;アメリカ大陸先住民、古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民領域)のf₃統計が計算され、古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民との混合の最も可能性の高い供給源が評価されました。このf₃統計は中央アンデス高地の古代および現在の人口集団で最小化され、これは、補完に用いられた参照調査対象群におけるペルー人個体群の除外にも堅牢です。さらに、局所的なアメリカ大陸先住民領域に限定しないデータセットでD統計を計算すると、一致する結果が得られました。一部の非案で人口集団の点推定値は最高のf₃(およびD)値の信頼区間と重なることに要注意で、これは恐らく、参照データセットの低解像度のためです。しかし、現在と古代のアンデス人口集団(計算された107通りのうち上位12通りのf₃統計)では一貫して、最高のf₃統計が得られました。
●ヨーロッパ人到来前の太平洋を横断しての接触
混合連鎖不平衡および局所的祖先系統に基づく手法を用いて、古代ラパヌイ人の祖先とアメリカ大陸先住民との間の混合事象が特徴づけられました。ALDER とDATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)を用いて、2供給源人口集団の混合として古代ラパヌイ人15個体がモデル化され、その供給源人口集団は、第一にポリネシア人で、第二に、アフリカかヨーロッパかアジア東部かパプアかアメリカ大陸先住民の人口集団です。その結果、混合連鎖不平衡曲線は、古代ラパヌイ人をポリネシア人とアメリカ大陸先住民の混合としてモデル化したさいに、より低い減衰率を示す、と観察されました(図4a)。対照的に、すべての混合連鎖不平衡曲線の減衰は、供給源に関係なくアメリカ大陸先住民祖先系統を欠いている古代ポリネシア人2個体をモデル化すると、定性的に類似していました。
DATESを用いると、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民の混合は古代の個体群の平均誕生年代の17~32世代前に起きた、と推測されました。本論文はアメリカ大陸先住民との混合年代を絞り込むため、古代ラパヌイ人における推定された局所的祖先系統領域に依存しました。祖先系統あたりの領域長分布が得られ、その領域を用いて、古代ラパヌイ人15個体をまとめて混合年代が推定されました。古代ラパヌイ人における1%未満のヨーロッパ人領域が推定され、これらは本質的にノイズと示唆されます(図4b・c)。したがって、古代ラパヌイ人がポリネシア人とアメリカ大陸先住民の供給源間の1回の2方向混合事象に由来する、とのモデルについて媒介変数が推定されました。この場合、混合は古代ラパヌイ人の誕生の平均年代の15~17世代前に起きた、と推定されます。以下は本論文の図4です。
古代人15個体のさまざまな標本抽出時期を考慮して、遺伝的混合年代と放射性炭素年代を組み込んだ、ラパヌイ人集団の混合の共同年代が推定されました。各個体について、まず混合領域を用いて混合年代が推定され、500回のブートストラップ反復を通じて、95%信頼区間が得られました。次に、ベイズモデル化を用いて、混合年代推定が判断されました。ピナールとメトロの収集物から得られた年代を用いて、それらが、博物館の保管所および刊行されている記録にしたがって、ヒト遺骸が収集された年代に相当する、最終または最新の限界点で別々の年代測定された2期間としてモデル化されました。1世代の時間は25~30年と仮定され、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民の混合事象の最も可能性の高い年代がモデル化されました。各モデルでは、統計的に一致する結果が得られました。1世代の時間を29年と仮定すると、本論文で支持されるモデルは、1336~1402年(68.3%の確率)と1246~1425年(95.4%の確率)の範囲が得られました(図4d)。これらの推定値は、ラパ・ヌイへの移住に関する最新の推定値(1150~1280年頃)と有意に重複しており、この混合事象がラパ・ヌイへの移住に先行しなかった、と強く示唆されます。さらに、これらの推定値から、ラパヌイ人のポリネシア人祖先は、ラパ・ヌイへのヨーロッパ人の最初の出現のずっと前(1722年の364±41年前)に、アメリカ大陸先住民と接触していた、と示されます。
●考察
本論文では、ラパヌイ人の起源と分かった、高品質な古代ポリネシア人のゲノムが提示されます。放射性炭素年代測定では1800年代のこれらの個体は、ラパ・ヌイにおけるヨーロッパ人の最初の到来の後となりますが、ヨーロッパ人との混合を有していません。より重要なのは、これらの個体の年代が、1860年代のペルー人の奴隷狩りおよび破壊的な天然痘発生の後であることです。そのため、このデータセットは、ラパ・ヌイの最初の移住およびヨーロッパ人との接触前のラパヌイ人のゲノム多様性をよく構成している可能性が高そうです。このデータの品質のため、ラパヌイ人の過去における二つの長年の論争に取り組むことができ、それは、ラパ・ヌイにおける自業自得の人口崩壊のよく知られた説と、太平洋を横断してのポリネシア人の航海の範囲およびアメリカ大陸先住民との初期の接触です。
生物学的(ゲノム)データを用いると、元々は森林伐採や資源の過剰利用や戦争の結果と提案された、ラパヌイ人が1600年代に人口崩壊を経た、との証拠は見つかりませんでした。かつてラパ・ヌイは木々に覆われていましたが、その衰退は、他のポリネシアの島々で観察されているように、直接的なヒトの活動と、ポリネシア人の入植者によって持ち込まれた大型ネズミ(ラット)の急増との複合的な結果の可能性が高い、と提案されてきました。一部の著者によると、ラパヌイ人のじっさいの人口規模は、多ければ15000個体に達しただろう、とされています。しかし、18世紀と19世紀のヨーロッパ人の記録およびメトロの推定値から、ラパヌイ人集団は少なければ約3000個体だった、と示唆されます。そうした小さな人口集団は提案された人口崩壊の結果かもしれませんが、この推定は、産業前の人口増加率を想定すると、最初の移住後に着実に増加しただろう人口集団とも一致します。これらの説明は、有効人口規模がラパ・ヌイへの最初の移住後に単調に増加したものの、過去1000年間では小さいままだった、との本論文の推測と一致します。
本論文の結果(および依拠したゲノムデータ)はラパヌイ人の人口統計学的歴史のみに光を当てている、と本論文は強調します。したがって、本論文の結果はラパ・ヌイにおけるヒトの活動の生態学的影響の直接的評価には使用できません。ポリネシアでは人為的影響が広範に見られますが、ラパ・ヌイにおけるそうした変化がヨーロッパ人の接触前の1600年代に人口崩壊をもたらした、との仮説は明確に却下されます。代わりに本論文の結果は、ラパヌイ人集団は変化する環境にも関わらず回復力があったことを裏づけます。
ADMIXTUREと局所的祖先系統推定とf統計を用いて、古代ラパヌイ人15個体全員で約10%のアメリカ大陸先住民との混合が検出され、これはヨーロッパ人との接触後の混合事象と一致しないゲノム多様性パターンです。合同された遺伝学的および放射性測定データに依拠する新手法を用いて、この混合事象は1250~1430年頃(つまり、コロンブスがアメリカ大陸圏に到来し、1722年にヨーロッパ人がラパ・ヌイに到来するずっと前です)と確信的に年代測定されました。ポリネシアのラパヌイ人の祖先が何千kmもの海を横断して、急速で意図的な探検的航海期間にラパ・ヌイに到来したことはよく確証されていますが、アメリカ大陸へのその後の往復の旅の可能性は、依然として議論になっています。とくに、これまでに行なわれた唯一の他の全ゲノムでのラパヌイ人研究では、ラパヌイ人とアメリカ大陸先住民との接触の証拠が見つかりませんでした[6]。
本論文のデータの情報量削減実験を通じて、そのデータセットの網羅率の平均深度(0.0004~0.0041倍)は、本論文で適用されたD統計を用いての具体的な統計的検定の実行に充分な検出力が得られない、と分かりました。古代ラパヌイ人におけるアメリカ大陸先住民構成要素が南アメリカ大陸の太平洋沿岸と最も密接に関連しており、北アメリカ大陸もしくはアンデス山脈の東側の人口集団とは密接に関連していない、との推測は、ポリネシア人とアメリカ大陸先住民との間の太平洋横断の接触をさらに実証します。中央および南アメリカ大陸(とくにエクアドルとコロンビア)におけるゲノム記録が、依然として少ないことに要注意です。したがって、ポリネシア人の祖先と相互作用したアメリカ大陸先住民集団のより適した代理は、これらの地域および他のポリネシアの島々からのヨーロッパ人との接触前のより多くのゲノムデータが利用可能になっていくと、特定できるでしょう。
本論文の調査結果は、ヨーロッパ人との接触前の太平洋横断接触を強く裏づけますが、ゲノムデータを用いて媒介されたこの旅の回数と方向性の確証は依然として困難です。本論文の混合年代推定値は、現在のラパヌイ人について報告された単一の波動の推定値と一致します[7]。本論文の混合年代推定値は、ラパ・ヌイの移住に関する最新の推定値と重なっており、ラパ・ヌイの混合事象と移住を隔てるのは短期間かもしれない、と示唆されます。しかし、本論文の混合年代推定値が他の現在のポリネシア人について得られた推定値[7]に約100~200年間遅れ、古代および現在のラパヌイ人個体群全体で一致していることから、太平洋横断接触はポリネシア人集団全体で複数回起きたかもしれない、と示唆されます。
注目すべきことに、考古学的証拠と口承史では、ヨーロッパ人が南アメリカ大陸に到達する前に、ポリネシアの人々がアメリカ大陸への往復の旅に乗り出す技術と実際的知識を保持していた、と証明されています。したがって、他のポリネシアの島々からり追加のヨーロッパ人との接触前の古代人のゲノムデータが、この過程のより微妙な再構築を可能にするだろう、と予測されます。
ラパヌイ人集団への注目に値する洞察の提供に加えて、本論文で提示されたゲノムから、本論文で標本抽出された古代人15個体はラパヌイ人起源である、と確証されます。この研究をラパヌイ人共同体とその代表者に提示すると、これら祖先の遺骸のラパ・ヌイへの帰還の必要性が、共同体にとっての中心的目標として議論されました。本論文の調査結果は、これら将来の取り組みに寄与するはずです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
ゲノミクス:ラパ・ヌイの人口の歴史を再評価する
ラパ・ヌイの古代住民の衰退は、自滅的な人口崩壊によるものではない可能性が高いと示唆する論文が、Natureに掲載される。これにより、「生態学的自殺」という物議を醸した説は否定された。この発見は、島の人口の歴史に新たな光を当てる。
ラパ・ヌイ(旧名イースター島)は、世界でも最も人里離れた居住地のひとつであり、南米から西に約3700 km、最も近い有人島から東に1900 km以上離れている。この島の人口動態の歴史における2つの重要な特徴が争点となっている。1つは、17世紀に現地の資源を過剰に利用した結果、ラパ・ヌイの人口が崩壊したのか(1860年代にペルー人の奴隷狩りの一隊が到着し、1722年にヨーロッパ人が到着する前)。もう1つは、ラパ・ヌイの住民とネイティブ・アメリカンとの間に太平洋を越えた交流があったのかどうか、という点である。
J. Victor Moreno-Mayarと Anna-Sapfo Malaspinasらは、現在のラパ・ヌイ族のコミュニティーと緊密に協力し、過去500年間にわたって島に住んでいた15人の古代住民のゲノムを研究した。著者らは、17世紀の崩壊に相当する遺伝的ボトルネックの証拠を見つけることはできなかった。その代わり、著者らの分析では、1860年代にペルー人による奴隷狩りによって島の人口の3分の1が強制的に連れ去られるまで、島には小規模な人口が安定して増加していたことが示唆されている。
さらに、分析結果によると、古代の島民は、現在のラパ・ヌイ人と同様に、ネイティブ・アメリカンのDNAを含んでいることが示されている。著者らは、この混血は、西暦1250年から1430年の間に起こった可能性が高いと推定している。考古学的証拠や口頭伝承とあわせて考えると、この発見は、ヨーロッパ人がラパ・ヌイに到着するはるか以前、また、コロンブスがアメリカ大陸に到着するはるか以前から、ポリネシア人が太平洋を渡っていた可能性を示唆している。
これらのゲノムデータは、失われた先祖の遺骨の一部を特定し、返還するのに役立てられる。この論文は、過去の人口における回復力だけでなく、研究における感受性についても物語っている。
古ゲノミクス:過去のラパヌイ人のゲノムから明らかになった回復力とヨーロッパ人到来以前の南北アメリカとの接触
Cover Story:島の歴史:ゲノム解析からラパ・ヌイの集団史が明らかに
表紙は、世界で最も孤立した居住地の1つであるラパ・ヌイ(イースター島としても知られる)にある、印象的なモアイ像である。ラパ・ヌイには少なくとも13世紀から人々が住んでいたことが分かっているが、その歴史の重要な側面については議論が続いている。具体的には、ラパヌイ人が「エコサイド(資源の過剰利用の結果として1600年代に自滅的に招いた集団の崩壊)」を引き起こしたのかどうか、また、ヨーロッパ人到来以前にラパヌイ人とアメリカ先住民の間に何らかの接触があったかどうかである。今回J Moreno-MayarとA Malaspinasたちは、これら2つの疑問に対する答えを提示している。研究チームが、1670〜1950年にラパ・ヌイに住んでいた15人のゲノムを分析した結果、17世紀のエコサイドを裏付ける証拠は見つからなかった。彼らは、そうではなく、この島の人口はこの時期には着実に増加していて、1722年のヨーロッパ人の到来、そして1860年代のペルー人による奴隷狩りによって初めて減少したと推測している。さらに研究チームは、ヨーロッパ人が到来するはるか前の1250〜1430年に、ラパヌイ人がアメリカ先住民と交配していた証拠も発見した。
参考文献:
Moreno-Mayar JV. et al.(2024): Ancient Rapanui genomes reveal resilience and pre-European contact with the Americas. Nature, 633, 8029, 389–397.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07881-4
[6]Fehren-Schmitz L. et al.(2017): Genetic Ancestry of Rapanui before and after European Contact. Current Biology, 27, 20, 3209–3215.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.029
関連記事
[7]Ioannidis AG. et al.(2020): Native American gene flow into Polynesia predating Easter Island settlement. Nature, 583, 7817, 572–577.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2487-2
関連記事
[21]Storey AA. et al.(2007): Radiocarbon and DNA evidence for a pre-Columbian introduction of Polynesian chickens to Chile. PNAS, 104, 25, 10335-10339.
https://doi.org/10.1073/pnas.0703993104
関連記事
[39]Ioannidis AG. et al.(2021): Paths and timings of the peopling of Polynesia inferred from genomic networks. Nature, 597, 7877, 522–526.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03902-8
関連記事
[44]Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations. Nature, 538, 7624, 201–206.
https://doi.org/10.1038/nature18964
関連記事
[45]Malaspinas AS. et al.(2016): A genomic history of Aboriginal Australia. Nature, 538, 7624, 207–214.
https://doi.org/10.1038/nature18299
関連記事
[46]Ringbauer H, Novembre J, and Steinrücken M.(2021): Parental relatedness through time revealed by runs of homozygosity in ancient DNA. Nature Communications, 12, 5425.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25289-w
関連記事
[57]Reich D. et al.(2012): Reconstructing Native American population history. Nature, 488, 7411, 370–374.
https://doi.org/10.1038/nature11258
関連記事
[58]Moreno-Mayar JV. et al.(2018): Early human dispersals within the Americas. Science, 362, 6419, eaav2621.
https://doi.org/10.1126/science.aav2621
関連記事
この記事へのコメント