氣賀澤保規『則天武后』

 講談社学術文庫の一冊として、2016年11月に講談社より刊行されました。本書の親本『則天武后』は1995年に白帝社より刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、則天武后(武則天、武照)を唐代前半の歴史に位置づけた伝記です。則天武后の没年は705年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)11月26日ですが、生年については複数説あり、623~625年説や627~631年説が提示されています。本書は則天武后の母親の年齢などを考慮して、623年説を採用しています。則天武后の父親である武士彠は李淵(唐の高祖)の決起に参加した、唐建国の功臣の一人で、李淵とは親しかったものの、唐初期においてその中核に位置していたわけではありませんでした。武士彠は唐の第2代皇帝である李世民(太宗)の治世下でも、要職に起用されました。

 本書は李淵の出自に北方遊牧民的性格が強いことを指摘し、則天武后のような女性が政治で活躍したことも、唐王室の出自に由来するのではないか、と推測します。唐王室の出自が儒教的枠組みの強い社会ならば、則天武后のような女性の政治での活躍も難しかったのかもしれません。隋末唐初の混乱は唐の太宗の治世で安定しますが(貞観の治)、本書は、太宗の治世は隋の煬帝を踏襲したところがあり、太宗はそれを強く意識したため、煬帝の暴政を強調し、また皇太子だった兄の殺害という負い目もあって、自身が名君であることを喧伝した、と本書は指摘します。名君たろうと心がけていた太宗も治世の後半には気の緩みも出たようで、強く自戒していたはずの後継者問題で躓いてしまい、皇太子を廃し、晋王の李治(高宗)が皇太子に建てられます。

 則天武后が当初、太宗の後宮に入ったことはよく知られているように思います。それは636年頃のことで、則天武后に与えられた才人という地位は、宮中ではさほど高くなく、また太宗から寵愛されることはなかったようです。649年5月、太宗が没し、翌月1日に高宗が即位します。則天武后はこの高宗と結ばれ、後には高宗の皇后となるわけですが、本書は、病床の太宗を看病していた時に、則天武后と高宗は通じ合ったのではないか、と推測します。儒教観念が強い朝廷要人にとって、これは倫理的に許されない行為だったので、則天武后が再び表の舞台に出るには、出家を挟まねばならなかった、と本書は推測します。

 高宗の後宮も、後継者をめぐり暗闘が繰り広げられていました。則天武后はすでに652年、息子の李弘(義宗)を出産しており、合計で息子を4人、娘を3人儲けましたが、娘を犠牲にしてまで、高宗の後宮での暗闘に勝利した、と伝わっています。則天武后を高宗の皇后に立てることには、重臣の猛反対がありましたが、ついに655年10月19日、則天武后は皇后に立てられます。通俗的な印象通り本書でも、高宗は病勝ちの気が弱い人物で、則天武后に骨抜きにされていた、と描かれています。太宗の皇后の兄で朝廷において長きにわたって重鎮だった長孫無忌も659年には粛清され、則天武后は朝廷で実質的な権限を掌握しますが、直接的な政治は受け入れられず、「垂簾の政」によって高宗と重臣を監視します。則天武后は、太宗に十数年仕えて政治的経験を積み、臣下の能力を的確に見極め、利用価値がなくなると簡単に見限ることのできる冷徹な人物で、親族も邪魔とあれば次々と殺害しました。675年4月25日には、皇太子だった息子の李弘や李賢さえ殺害しています。

 病弱だった高宗は683年12月4日に没し、則天武后の息子で皇太子となっていた李顕(中宗)が即位します。すでに則天武后は即位する決意を固めていたようですが、時期尚早と判断したのでしょう。しかし、中宗は凡庸な人物だったようで、安易に母の則天武后と対立し、翌年2月に退位させられます。その後で即位したのが則天武后の息子である李旦(睿宗)で、睿宗は母に政治を総覧するよう進言し、則天武后の本格的な治世が始まります。則天武后は、かつて排斥した異母兄の息子たちを重用していき、密告を積極的に用いて、政権基盤を固めるとともに、則天武后の周囲には出自が定かではないような人物も出入りするようになります。

 則天武后は、仏教や儒教なども利用して自身の即位の正当化のための理論を配下に構築させていき、科挙も活用します。これによって、家格だけに頼る出世が難しくなっていき、本書は、則天武后が貴族制の終わりと君主独裁制の始まりを明確に意識していた可能性も指摘します。入念な準備の末に、690年9月9日、則天武后はついに皇帝に即位し、国号を周として、自らは聖神皇帝と名乗ります。ただ則天武后は、623年生まれだとすると、この時点ですでに数え年68歳で、まだ健康で気力が充実しているとはいえ、皇帝に即位するには遅すぎた、とも言えます。則天武后は新王朝を樹立したものの、権力の継承について確たる構想はなく、様子見をしていたのではないか、と本書は推測します。けっきょく、則天武后は698年3月に息子の李顕(中宗)を都に呼び戻し、再び皇帝とします。これには、狄仁傑が深く関わっていたようです。狄仁傑は対外政策でも則天武后に重用されましたが、これは、突厥の復興(突厥第二帝国)などの大きな情勢変化を見て、これまで内向きになりすぎていた方針を則天武后が改めようとしたからではないか、と本書は推測します。

 気力の充実していた則天武后も、さすがに加齢には逆らえず、気力が衰え、以前ほど統制がきかなくなります。最晩年の則天武后は若い張易之と張昌宗の兄弟を寵愛していましたが、この兄弟に対する反感は強く、兄弟そろって収賄などの罪で告発されます。則天武后は張易之と張昌宗を何とか庇いますが、すでに気力と体力の衰えは明らかで、703年末には寝込むようになります。ついに705年1月22日、宰相の張柬之などによる政変で則天武后は退位に追い込まれ、1月25日に中宗が復位し、国号は周から唐に戻されます。則天武后は寝込んだまま、705年11月26日、没します。

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