新石器時代以降の黄河下流域の人口史

 古代ゲノムデータに基づいて、新石器時代以降の黄河下流域の人口史を推測した研究(Du et al., 2024)が公表されました。本論文は、おもに山東省から構成される現在の中華人民共和国山東省の新石器時代から7世紀頃(5410~1345年前頃)までの人類69個体のゲノムデータを、山東省全域の現代人325個体や、他の既知の古代人および現代人のゲノムデータと比較し、黄河下流域に位置する山東半島の長期にわたる人口史を推測し、その遺伝的な連続性と変容の程度を明らかにしており、アジア東部の特定地域における長期の人口史を示した点でも注目されます。

 山東半島において、新石器時代の大汶口(Dawenkou)文化中期~後期には、中原の新石器時代農耕民からの顕著な遺伝的影響や、中国南部からのいくらかの遺伝的影響が見られました。大汶口文化に続く山東龍山(Longshan、略してLS)文化期の人口集団は、遺伝的に大汶口文化人口集団と最も密接に関連していました。殷(商)~周王朝期には、中原からの移民と在来の龍山文化人口集団との間の遺伝的混合があり、秦~漢王朝以後には、山東半島の人口集団は遺伝的に現在の山東省人口集団と類似し始めました。これらの知見から、黄河中流域農耕民集団が中期~後期新石器時代において中国北部の近隣人口集団の遺伝的類似性の形成に役割を果たした、と示唆されます。

 山東龍山文化期には水田稲作が行なわれていたので、山東半島は日本列島への稲作の到来において重要な役割を果たしたかもしれず(Robbeets et al., 2021)、日本列島における弥生時代の始まりとの関連の意味でも、山東半島の新石器時代(Neolithic、略してN)以降の人口史は注目されます。先行研究[10]では、中期~後期新石器時代にかけて黄河中流および下流地域では稲作農耕の痕跡の顕著な増加とともに、人類集団のゲノムにおける中国南方の人類集団的な遺伝的構成要素の割合が高まる、と推測されています。

 本論文は、山東半島人類集団のゲノムにおける中国南方の人類集団的な遺伝的構成要素が紀元前3500~紀元前3000年頃にまでさかのぼる可能性を指摘しています。長江流域など、中国南方の人類集団が縄文時代~弥生時代早期にかけて直接的に日本列島に到来したわけではないでしょうが、山東半島まで北上した中国南方の新石器時代人類集団が在来の山東半島集団の一部と混合し、その遺伝的構成要素とともに文化的構成要素を伝え、そうした構成要素が(遼東半島と)朝鮮半島を経由して日本列島に伝わった可能性も考えられます。

 ただ、これまでの古代ゲノム研究(Cooke et al., 2021)からは、中国南方の新石器時代人類集団が縄文時代以降の日本列島の人類集団に大きな遺伝的影響を残した可能性はかなり低そうです(間接的に小さな影響を及ぼした可能性は想定されますが)。しかし、遺伝と文化を安易に関連づけてはならず、稲作や言語や神話など広い意味での文化について、中国南方の新石器時代人類集団が弥生時代以降の日本列島の人類集団に(主要ではないとしても)影響を残した可能性も考えられます。たとえば、中国南方沿岸部の新石器時代集団はオーストロネシア語族集団の主要な祖先と考えられているので[8]、オーストロネシア語族系統の言語が日本語系統に(主要ではないとしても)何らかの影響を及ぼしたのではないか、というわけです。

 本論文は、「中国」における新石器時代以降の人口動態が、先行研究[45]でも推測されていたように、北方から南方への一方的な移動ではなく、南方から北方への移動もあり、遺伝的痕跡が残っていること山東半島という局所的規模において示した点で、意義深いと思います。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では、以下の本論文の翻訳において「civilization」の訳語として「文明」を使います。以下の[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。


●要約

 黄河三角州は中国の新石器時代文明の発展に重要な役割を果たしました。しかし、新石器時辞退移行から現在までのこの地域の人口史は、古代人のゲノムの不足のためあまり理解されていないままです。これは、重要な新石器時代の移行期や王朝史の激動の転換に、とくに当てはまります。本論文は、山東省全域の16ヶ所の都市から収集された現代人325個体とともに、0.008~2.49倍の網羅率で5410~1345年前頃の69個体のゲノム規模データを報告します。大汶口文化中期~後期には、中国中央部の新石器時代黄河農耕民からの祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の顕著な流入および山東半島において地元の狩猟採集民と混合した中国南部祖先系統のいくらかの流入が観察されました。

 山東龍山文化の人々の遺伝的遺産は、大汶口文化と最も密接に関連する、と分かりました。殷~周王朝期には、中原からの移民との在来の龍山文化人口集団の遺伝的混合の証拠がありました。秦~漢王朝以後、この地域の遺伝的組成は現在の山東省人口集団と類似し始めました。本論文の遺伝学的調査結果から、黄河中流域農耕民が中期~後期新石器時代において中国北部の近隣人口集団の遺伝的類似性の形成に役割を果たした、と示唆されます。さらに、本論文の調査結果から、周王朝期における山東半島地域の遺伝的多様性はその複雑な民族性と関連しているかもしれない、と示唆されます。


●研究史

 黄河三角州に位置する山東省は中国東岸にあり、古代中国文明の興隆にとって重要でした。黄河流域の永続的で持続的な恩恵を受けて、古代山東半島は多くの人口を養うことができ、現代の山東省は1億2千万人、つまり世界人口の約1%のいる、高度な人口密集地域を維持しています。しかし、新石器時代の移行から現在にいたる山東半島の人口動態はよく理解されていないままです。これは、大汶口文化期や山東龍山文化期や殷王朝や周王朝や漢王朝など、山東半島における先史時代から歴史時代までの重要な事象についてとくに当てはまります。

 豊富な考古学的発掘から得られた証拠に基づいて、五つの連続した新石器時代および青銅器時代文化が山東省で特定されてきており、それは、後李(Houli)文化(紀元前6300~紀元前5400年頃)と北辛(Beixin)文化(紀元前5400~紀元前4200年頃)と大汶口文化(紀元前4200~紀元前2600年頃)と山東龍山文化(紀元前2600~紀元前2000年頃)と岳石(Yueshi)文化(紀元前1900~紀元前1500年頃)です。これらのうち、中期および後期大汶口文化(Middle and Late Dawenkou、略してMLDWK、紀元前3500~紀元前2600年頃)は山東省の先史時代のうちとくに重要な期間で、考古植物学、動物考古学、雑穀の定住栽培の拡大と養豚産業の繁栄を示唆するヒト遺骸の安定同位体分析、とくに後期大汶口文化(Late Dawenkou、略してLDWK)における大汶口文化人口集団のかなりの増加があります。LDWKは、専門的手工芸産業および生産が発達し、囲壁集落が初めて出現した、重要な移行期とみなされています。

 LDWKに続いて、山東龍山文化はより顕著な社会的階層化を示しました。考古学的発見と比較すると、限定的な遺伝学的標本抽出が先史時代山東の古代の人口動態の理解を妨げてきました。この地域に関する唯一のゲノム規模研究[8]は、變變(Bianbian)遺跡の後期旧石器時代から前期新石器時代にかけての単一個体と後李(Houli)文化の3ヶ所の遺跡に焦点を当てました。その研究では、前期山東個体群は新石器時代のアジア東部北方人やシベリア人やチベット人と遺伝的類似性を共有していた、と確証されました。古代のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析は、紀元前2600年以後の山東におけるハプロタイプ多様性の増加を示唆しており、現代の北方人口集団で存続している龍山文化期前の人口集団からの影響が示唆されます[9]。

 中国北部全体を見ると、先行研究[10]では、黄河中流域農耕民関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、黄河上流域や山西省やモンゴル南部(中華人民共和国内モンゴル自治区)や西遼河(Western Liao River、略してWLR)などの地域へと中期~後期新石器時代に拡大した、と示されました。この遺伝的パターンは、黄河中流域における仰韶(Yangshao)文化の果たした重要な役割に関する考古学的証拠と一致しています。しかし、とくに大汶口文化など重要な新石器時代の移行期における、黄河下流域への黄河関連祖先系統の遺伝的構造および影響の理解には間隙があります。

 殷王朝(紀元前1600年~紀元前1046年頃)および周王朝(紀元前1046年頃~紀元前256年)は、中国の後期青銅器文化の繁栄および青銅器時代(Bronze Age、略してBA)から前期鉄器時代(Early Iron Age、略してEIA)にかけての変容を表しています。殷王朝では、伝統的な儀式や行政とともに、中国の文字の特徴の出現が見られました。山東の西部地域(とくに河南省北部と河北省南部に近い地域)は、殷王朝の政体が出現する以前でさえ反映した中心地でした。『竹書紀年(Bamboo Annals)』を参照すると、前期殷王朝では5回の遷都のうち2回は山東内で起きた可能性が高そうです。周王朝では、行政を強化し、連続的な軍事征服を通じて獲得された広大な領土を管理する必要性に対処するため、周王は任命した家系が管理する集落を設置しました。周王は、貴族の家族やその家臣、つまり諸侯(Zhuhou、地域領主)のため多くの領邦を認可し、政治制度、つまり封建(Fengjian、領邦の境界決定と認可)制度を考案しました。この状況は、中原の人々(諸侯の家族や兵士や奴隷など)の四方(Sifang)への移住を引き起こし、たとえば、現在の山東省の領域となる東の方向です。一部の有力国については、降伏した殷の帰属やその奴隷も諸侯に割り当てられました。山東では、吕尚(Lü Shang)が斉国(Qi State)に、周公旦(Duke of Zhou)が魯国(Lu State)に任命されました。これが、山東省の愛称である「斉魯(Qilu)」の由来です。

 漢王朝(紀元前206~紀元後220年)は4世紀以上にまたがり、中国史における最も影響力のある王朝の一つと考えられています。漢代には、発展した農耕技術や活発な手工芸産業や繁栄した交易がすべて、山東における人口の着実な増加に寄与しました。たとえば、『史記(Shiji、Shih Chi)』や『漢書(Hanshu)』には、臨淄(Linzi)市が古代ローマに匹敵する人数である100万人以上の人口を抱える傑出した商業中心地として台頭した、と記載されています。同時に、人口の大花増加や都市化の進展や安定した通貨制度や絹の道(シルクロード)の発展が、漢帝国とユーラシア諸国との間の地域間の交易と交流を促進し、その影響は遠くパルティアやローマにまで広がりました。

 これまで、山東省の先史時代および歴史時代の重要な期間の古代人のゲノムの報告はありませんでした。山東人口集団の遺伝学的動態をより深く特徴づけるため、本論文は山東省と江蘇省北部の18ヶ所の異なる遺跡から回収された、古代人69個体のゲノム規模データを報告します。本論文のデータセットは、大汶口文化期(29個体)や龍山文化期(13個体)や殷~周代(11個体)や漢~隋代(12個体)や宋~明代(4個体)を含めて、新石器時代の大汶口文化から歴史時代まで密に網羅しています。さらに、山東省全域の16ヶ所の都市の現代人310個体から新たなゲノム規模データが生成されました。この新たなデータセットによって、この地域の広範な考古学的および歴史的記録の文脈内での遺伝的変化の分析が可能となります。本論文の主要な論題は3点で、それは、(1)大きな新石器時代の移行期における山東の人口構造、(2)山東人口集団への新石器時代黄河関連祖先系統の影響、(3)山東集団の遺伝的構成への歴史的に記録された事象の影響です。


●山東省の古代のゲノム規模データ

 山東省の18ヶ所の遺跡の古代人69個体からゲノム規模データが得られ、網羅率の範囲は0.008~2.49倍です(図1A)。較正された放射性炭素年代測定は、これらの個体を5410~1345年前頃に位置づけました(図1B)。標本はいくつかの段階で選別されました。古代ゲノムデータの信頼性は、古代DNAの死後パターンの存在の特定によって検証されました。親族関係はREAD(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)を用いて推定されました。合計で2親等以下の親族関係4組が検出され、網羅率のより低い個体が下流分析から除外されました。以下は本論文の図1です。
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 現代人の汚染は、全個体についてはミトコンドリアに基づくプログラムSchmutzi、全男性個体ではX染色体に基づくANGSDを用いて評価され、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の汚染については2%未満、X染色体の汚染について3%未満が推定されました。各末端の塩基転位(transition、略してTi、ピリミジン塩基間もしくはプリン塩基間の置換)率が3%未満になるよう、C(シトシン)>T(チミン)およびG(グアニン)>A(アデニン)の誤取り込みパターンにしたがって読み取りの各末端から2~11塩基対(bp)刈り取られました。次に、69個体について疑似半数体呼び出しが、124万パネルを用いて生成されました。

 密接な親族関係の個体と低網羅率の個体の除去後、32351~1090325ヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を網羅し、中央値では402070ヶ所のSNPを網羅する古代人64個体が、下流分析に用いられました。本論文では、山東省の16ヶ所の都市の現代の個体群325点の標本が収集され、イルミナ(Illumina)社のBeadChipを用いて遺伝子型決定され、699537ヶ所のSNPが網羅されました。両アレル(対立遺伝子)のSNP部位が保持され、少数アレル頻度は0.1%以上でした。品質管理と1親等および2親等の親族の除去後に、310個体について687295ヶ所のSNPの収集でゲノム規模データが公開されました。このデータセットは、さらなる分析のため本論文の古代の個体群と統合されました。


●経時的な山東人口集団におけるつながりの強化

 本論文ではまず主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行され、古代山東人口集団の全体的なゲノム構造が調べられました。アジア東部現代人で計算されたPCAの結果へ、本論文で新たに生成された古代の個体群のデータが他のアジア東部古代人とともに図示されました(図2)。PCAの結果は三角形のパターンを示し、アジア北東部(Northeast Asia、略してNEA)とアジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)とチベットの人口集団が各頂点に位置します。山東の古代の個体群はおもに、古代の黄河およびSEA人口集団によって形成される勾配に沿って位置しました。以下は本論文の図2です。
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 注目すべきことに、以前に報告された8000年前頃の山東狩猟採集民(Shandong hunter-gatherers、略してSD_HG)は、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)アムール川(Amur River、略してAR)個体群(AR_EN)や悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)の古代の個体群など、AR地域人口集団との余分な遺伝的類似性を示します。しかし、本論文の古代の人口集団は在来の狩猟採集民とは異なり、PCAの結果では4クラスタ(まとまり)を形成しました。具体的には、大汶口文化期の伏佳(Fujia)遺跡と呉村(Wucun)遺跡と西夏侯(Xixiahou)遺跡と大汶口遺跡の個体群はともにクラスタ化し、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)黄河農耕民(黄河_MN)と遺伝的に最も近かった、と示されました。

 大汶口文化期の三里河(Sanlihe)遺跡と城子崖(Chengziya)遺跡と五台(Wutai)遺跡の個体群は別のクラスタを形成し、SEA人口集団との遺伝的類似性を示しました。さらに、大汶口文化期の劉林(Liulin)遺跡と龍山文化期の五台遺跡の個体群は、これらのクラスタの間に位置しました。おもに3000~1000年前頃の山東の歴史時代の人口集団は、ともにクラスタ化し始め、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)および後期青銅器時代(Late Bronze Age、略してLBA)から鉄器時代(Iron Age、略してIA)の農耕民、つまり黄河_LNと黄河_後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)との遺伝的類似性を示し、最終的には現代の山東省人口集団の形成につながります。大汶口文化期の0.041から歴史時代の0.004となる遺伝的分化であるFₛₜ(fixation index、2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)によって証明されるように、山東集団の遺伝的均質性が経時的に増加したことも分かりました。


●山東半島の大汶口文化人口集団への黄河農耕民とSEA人口集団の遺伝的影響

 約1500年間繁栄した大汶口文化は、黄河流域と中国全土における新石器時代への移行に重要な役割を果たしました。この期間に雑穀の定住耕作と養豚が盛んになり、大汶口文化の人口の顕著な増加につながりました。考古学的発見も、仰韶文化と大汶口文化との間の広範な文化的相互作用を明らかにました。これは新たな人工遺物の種類の発見によって証明されており、たとえば、大汶口文化における彩陶鉢(colored pottery bowl)彩陶盆(colored pottery basin)や回旋鉤連紋(coiling linked-hook pattern)や花弁紋(petal-pattern)などです。一方で、仰韶文化においても大汶口文化の影響は明らかで、たとえば、大汶口窯や尊(zun)酒器や豆(dou)脚の椀や杯などです。中国南部の影響に関しては、稲作の考古学的証拠や崧沢(Songze)文化および良渚(Liangzhu)文化関連の人工遺物が大汶口文化において豊富でした。山東の大汶口文化人口集団への黄河農耕民とSEA関連の影響があったのかどうか推測するため、遺伝的データが用いられました。

 f₃形式(黄河農耕民、古代山東人口集団;ムブティ人)の外群f₃統計でまず分析が開始され、中原の黄河農耕民と比較して、本論文の山東人口集団とSD_HGとの間の関係が評価されました。その結果、本論文の山東人口集団はSD_HGよりも黄河農耕民と多くの祖先系統を共有している、と示唆されます。黄河農耕民とSD_HGとの間の遺伝的組成における差異を考えて、次にf₄形式(ムブティ人、参照;山東人口集団、黄河_MN)のf₄統計を利用して、アジア東部の35の代表的な現代および古代の人口集団を含む参照データセットを使って、山東人口集団の遺伝的特性が黄河_MNと比較されました(図3)。以下は本論文の図3です。
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 大汶口文化期の本論文の古代の人口集団は、遺伝的に3下位群に区分できるかもしれません。第一に、二村(Ercun)遺跡および西夏侯遺跡の人口集団はYR_MNと最も密接な遺伝的類似性を示し、f₄のZ得点の範囲は−1.77~0.76で(西夏侯_LDWKによって表されます)、大汶口_黄河と呼ばれる集団を形成します。第二に、伏佳遺跡と五台遺跡と大汶口の人口集団は、變變遺跡や淄博(Boshan)遺跡や小高(Xiaogao)遺跡や小荊山(Xiaojingshan)遺跡を含む在来のSD_HGとの余分な遺伝的類似性を示し、大汶口_HGを形成しており、これは、f₄(ムブティ人、淄博;伏佳_LDWK/五台_LDWK/大汶口_LDWK、黄河_MN)のZ得点の範囲−4.64~−2.98と、f₄(ムブティ人、小高;伏佳_LDWK/五台_LDWK/大汶口_LDWK、黄河_MN)のZ得点の範囲−5.02~−2.27によって証明されます。第三に、五台遺跡と三里河遺跡の人口集団はSEA関連人口集団と強い遺伝的類似性を示し、「大汶口_SEA」集団を形成し、これはf₄(ムブティ人、アミ人;五台_LDWK/三里河_LDWK、黄河_MN)の各Z得点−4.94と−4.25によって証明されます。

 興味深いことに、本論文で最古級の人口集団である劉林_MLDWKは、SD_HGおよびSEA関連人口集団の両方と遺伝的類似性を示し、福建省の前期新石器時代の渓頭(Xitoucun)遺跡の個体を用いたf₄(ムブティ人、小高/渓頭;劉林_MLDWK、黄河_MN)の各Z得点−3.69と−4.68によって証明されます。この結果は、SEA関連祖先系統の遺伝的影響が山東では少なくとも5400年前頃にさかのぼることも示唆しています。先行研究では、黄河_LNが黄河_MNより多くのSEA関連祖先系統に由来する、と明らかになりました[10]。このSEA関連祖先系統が山東における実際のSEAの影響か、あるいは黄河中流域人口集団によって媒介された疑似的なSEAの影響を表しているのかどうか区別するため、f₄形式(ムブティ人、SEA;山東、黄河)のf₄検定が実行されました。劉林_MLDWKと三里河_LDWKは、黄河_MNおよび黄河_LNと比較して、SEA関連人口集団と顕著な類似性を有しています。これらの結果から、こうした人口集団のうち、SEA関連祖先系統の少なくとも一部は、黄河中流域人口集団によって完全に媒介された疑似的なSEAの影響ではなく、SEA人口集団の影響に由来した、と示唆されます。

 次に、qpAdmを用いて、大汶口文化期のこれら古代人口集団の混合割合がモデル化されました(図4)。黄河_MNと最も密接な遺伝的類似性を共有していた二村_MLDWKと西夏侯_LDWKから始めると、両個体群は黄河_MNに由来する100%の祖先系統を示し、山東における黄河_MN関連人口集団を表している、と分かりました。二村_MLDWKの標本規模が限定的なため、他の大汶口文化人口集団のモデル化では、黄河_MN関連祖先系統の代表として西夏侯_LDWKに焦点が当てられました。この初期の遺伝的特性は黄河中流域の刊行されている仰韶文化個体群(黄河_MN)と密接に類似しており、中期~後期新石器時代(Middle-Late Neolithic、略してMLN)における黄河中流域農耕民の東方の山東への人口統計学的拡大を示唆しています。以下は本論文の図4です。
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 大汶口_HG人口集団では、上述の黄河祖先系統に加えて、前期新石器時代にさかのぼる在来のHG関連祖先系統(淄博遺跡個体によって表されます)も保持されています。これは、黄河集団と在来HGとの間のこうした2祖先系統の混合動態を反映していました。一方で、大汶口_SEAはより多くの黄河祖先系統だけではなく、追加のSEA祖先系統も示しており、中国南部から山東への遺伝的流入が示唆されます。さらに、劉林遺跡人口集団は87.1%の寄与の黄河祖先系統と12.9%のSEA祖先系統を有している、と分かり、SEAの影響が少なくとも紀元前3500~紀元前3000年頃にまでさかのぼる可能性を示唆しています。山東南部の劉林遺跡の位置は、SEA人口集団からの遺伝子流動を可能としました。


●山東における龍山文化人口集団への大汶口文化人口集団の遺伝的遺産

 4600年前頃、山東地域では大汶口文化から龍山文化への移行がありました。この移行は、大汶口文化の特徴の継承と発展の両方を表していますが、この移行に人口変化が伴っていたのかどうかは不明でした。f₄分析によって、山東の龍山文化人口集団における異なる2パターンが観察されました(図3)。大汶口文化期の三里河_LDWKとの類似性を示した三里河_LSと城子崖(Chengziya)遺跡の龍山文化期個体群(城子崖_LS)は両方とも、アジア南東部人口集団との遺伝的つながりを示唆しており、つまりf₄(ムブティ人、SD_HG;五台_LS、黄河_MN)< 0(Z < −3)です。qpAdmを用いて、三里河_LSと城子崖_LSの祖先系統は三里河_LDWKから100%由来しているのに対して、五台_LSは伏佳_LDWKからの85.2%の祖先系統を有している、とさらに決定されました(図4)。したがって、龍山文化人口集団は大汶口文化人口集団の遺伝的遺産を継承しており(85.2~100%)、大汶口文化から山東龍山文化への人口連続が示唆されます。これらの調査結果は考古学的データとも一致します。


●歴史時代の山東人口集団へのLBA~IAの黄河農耕民の遺伝的影響

 歴史時代にはf₄結果から、SD_HGの遺伝的遺産が本論文の人口集団から浄化され、f₄形式(ムブティ人、SD_HG;歴史時代山東集団、黄河_MN)のf₄検定では黄河_MNと比較して有意なZ得点を示さず、Z得点の範囲は−0.81~1.36だった、と観察できます(図3)。一方で、f₄形式(ムブティ人、参照;歴史時代山東集団、黄河_LBIA)のf₄検定では黄河_LBIAと比較して有意なZ得点は示されず、Z得点の範囲は−2.45~1.92です。さらに、f₄形式(ムブティ人、黄河_LBIA;歴史時代山東集団、先史時代山東集団)のf₄検定での先史時代山東集団と比較して、歴史時代の山東標本は黄河_LBIAと余分な類似性を有していた、と分かりました。これらの結果は、歴史時代の山東人口集団へのLBA~IAの黄河地域の影響を示唆しています。この影響をさらに調べるため、河南省(黄河_LNと黄河_LBIA)と山東省(三里河_LSと五台_LS)両方の龍山文化と関連する人口集団を用いて、本論文の歴史時代人口集団の混合割合がモデル化されました。この分析の結果、歴史時代の山東人口集団はその祖先系統の60.8~63.1%が河南省の龍山文化関連の黄河_LBIAに、残りの祖先系統は在来の龍山文化関連の三里河_LSに由来するかもしれない、と明らかになりました(図4)。

 さらに、qpAdmモデルは、3000年前(3k)頃の山東集団(山東_3k)内の詳細な遺伝的構造を明らかにしました。中原(黄河_LBIA)の混合割合に基づいて、山東_3k人口集団は3集団に分類され、それは、(1)大汶口_3kと両醇(Liangchun)遺跡の3000年前頃の個体群(両醇_3k)と、(2)黄河_LBIAと在来の山東龍山文化祖先系統の混合を有する呉村_3kと城子崖_3k、(3)在来の山東龍山文化祖先系統100%の西三甲(Xisanjia)遺跡の3000年前頃の個体群(西三甲_3k)です。

 現代の山東省人口集団は、PCA図では歴史時代の人口集団と密接にクラスタ化します。qpAdmを用いると、現代の山東人口集団は山東_2k人口集団か山東_1k人口集団のいずれかの100%の祖先系統の導入によってモデル化できました(図4)。これは、山東人口集団の経時的な遺伝的遺産の連続性を示唆しています。


●中期~後期新石器時代の中国北部における遺伝的類似性:黄河中流域農耕民の影響

 中期~後期新石器時代において、中国北部の主要な考古学的文化は黄河流域およびWLR地域に集中していました。具体的には、これらの文化系列に含まれるのは、黄河上流域の馬家窯(Majiayao)文化(紀元前3300~紀元前2500年頃)も黄河中流域の廟底溝2(Miaodigou II)文化(紀元前3000~紀元前2500年頃)、黄河下流域の大汶口文化(紀元前4000~紀元前2600年頃)、WLR地域の紅山(Hongshan)文化(紀元前4500~紀元前3000年頃)および小河沿(Xiaoheyan)文化(紀元前3000~紀元前2600年頃)です。考古資料では二つの重要な傾向を観察でき、第一に、各地域の新石器時代文化はより複雑になり、独特な局所的文明が出現し、第二に、これらの地域的文化の範囲が拡大し、文化的相互作用が強化されたことです。回旋鉤連紋および花弁紋のある彩文土器の広範な分布によって証明されるように、これらの文化のうち、黄河中流域の中原文化がきわめて重要で主導的役割を果たしました。この土器は仰韶文化に由来し、その後は黄河やWLRや長江流域にさえ拡大しました。厳文明(Yan Wenming)によって提案された、中原中心の重弁花朶式仮説(Central Plains-centric model of double flower pattern)として知られているこの現象は、中原地域の文化的影響を浮き彫りにします。

 本論文はqpAdmモデルを用いて、大汶口_黄河と大汶口_HGと大汶口_SEAから構成される、山東の大汶口文化期における三つの遺伝的構造を特定しました。以前に刊行された[8]在来HG個体群(紀元前7545~紀元前5721年頃)と比較して、本論文の調査結果はこの期間の山東集団の祖先系統における顕著な遺伝的変化を明らかにし、全個体は黄河関連祖先系統を示しており(58.6~100%)、紀元前2700~紀元前2600年頃に先行する黄河中流域農耕民からの強い影響が示唆されます。MLDWK期における中原の同時代のゲノムの不足のため、大汶口文化の西方への拡大が、考古学的調査結果によって示唆されるように、人口移住を含んでいたのかどうか、決定できません。したがって、西方への移住の可能性を除外できません。LDWK期には、黄河中流域の新石器時代農耕民からの人口移動および遺伝的混合と関連する分久賀的革新があり、中国南部からの追加の遺伝子流動(16.7~24%のSEA祖先系統)がありました。さらに、考古学的証拠と一致して、本論文の古代DNAデータも、大汶口文化から山東龍山文化への人口集団の遺伝的遺産を裏づけます。

 先行研究[10]は、中期~後期新石器時代における半径600km以内の周辺地域への黄河中流域からのかなりの遺伝子流動を示しました。qpAdmモデル化を用いると、さまざまな文化集団の個体群は黄河から顕著な遺伝的寄与を受けた、と推定されました。たとえば、後期新石器時代の黄河上流域の斉家(Qijia)文化の個体群が推定80.4%の遺伝的寄与を受け、中期新石器時代のモンゴル南部の廟子溝(Miaozigou)の個体群は80%の寄与を受けましたる同様に、陝西省の石峁(Shimao)文化の個体群は79%の祖先系統、WLRの紅山文化とハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)文化の個体群は、それぞれ60.3%と24.9%の祖先系統を有しています。さらに、古代mtDNAの分析は、中原の仰韶文化の青台(Qingtai)遺跡(紀元前3500~紀元前3000年頃)と山東人口集団との間の密接な母系関係を明らかにしました。遺伝学的証拠から、黄河中流域においてアワを栽培していた農耕民が近隣人口集団に影響を及ぼし、中期~後期新石器時代の中国北部における遺伝的類似性の増加につながった、と示唆されます。これらの調査結果は、中原中心の重弁花朶式仮と一致します。


●LBIAにおける中原と山東の間の人口移動と混合

 紀元前1500年頃以降、中原のLBIA農耕民へと向かう祖先系統における顕著な変化と、歴史時代の山東個体群と現代の人口集団との間の遺伝的類似性がありました。山東_3k~1kの遺伝的構成は、殷代から戦国時代の中原人口集団(黄河_LBIA)や現代の山東省および北方漢人の集団と密接に類似しています。

 歴史的証拠は、中原と山東の間のつながりを裏づけます。まず、殷の基本的な社会組織には強い軍事的側面があり、軍事遠征の記述には神託の記録が豊富で、殷の支配は外部と内部両方の支配において充分な力がありました。現在の山東省に位置する方国(Fangguo、地域国家)のほとんどは殷の王室と微妙な関係で、時には友好国、時には敵国でした。戦争であれ同盟であれ、これらの活動は民族集団の統合を間接的に促進しました。さらに、周武王(King Wu of Zhou)や周公旦(Duke of Zhou)や周康王(King Kang of Zhou)などの人物が率いた軍事作戦は、黄河中流域から山東への人々の大規模な移動をもたらしました。初期周王朝(紀元前1000年頃)における封建制の実施は人口移動をさらに促進し、貴族の家族や兵士や奴隷が現在の陝西省や河南省から現在の山東省に植民しました。周の支配者によって課された同姓不婚(the policy against same-surname marriage)は、中原からの遺民と在来の東夷(Dongyi)との間の結婚を促進し、山東における広範な人口集団の混合につながりました。さらに、『史記』によると、紀元前301~紀元前251年の黄河上流~中流域のより弱い領域の秦国による併合が、難民に斉国への亡命を強いました。これらの歴史的事象は、中原と山東の間の経時的な人口移動と混合の複雑な動態を示しています。

 歴史的記録で、魯や斉や薛(Xue)など周王の支持者が山東の中央部と南西部に位置していた一方で、東方地域は莱(Lai)や莒(Ju)など在来の東夷国家の故地だった、と示されているように、山東の複雑な民族性と関連しているかもしれない山東_3kにおける遺伝的多様性が観察されました。東康留(Dongkangliu)遺跡が薛の首都に近く、両醇遺跡が斉の首都に近いことは、その個体群の祖先系統が100%の黄河_LBIAであることと一致します。比較すると、西三甲遺跡が莱の首都に近いことは、その個体群の100%の在来山東龍山祖先系統に対応します。より大きな標本規模で国家の帰属と遺伝的祖先系統との間の関係を調べるには、さらなる研究が必要です。


●2000年にわたる山東集団の人口連続

 過去2000年間にわたって、古代山東人口集団はしだいに現代の山東省人口集団と密辣に類似するよう変化し、両集団は今では遺伝的に区別できません。秦および漢王朝期、とくに漢代には、古代中国には強い中央集権的制度があり、これ山東内および国家全体の遺伝的交流を促進しました。しかし、漢王朝の後に、前趙(304~329年)や前燕(337~370年)を建国した慕容(Murong)鮮卑や北周(557~581年)を建国した宇文(Yuwen)鮮卑のため、山東の人口集団は大きな損害を被りました。山東の人口集団へのこれら非漢人【漢人という分類を作中の紀元千年紀前半の人類集団に用いてよいのか、疑問は残りますが】支配者の影響は、よく理解されていないままです。そこで、山東集団の遺伝子プールへの、匈奴や鮮卑などアジア北部草原地帯遊牧民の遺伝的寄与[44、45、46]も調べられました。しかし、その調査結果から、金王朝の個体群は漢王朝の個体群よりもNEA関連祖先系統との多くの類似性を示さず、歴史的記録が山東の古代遊牧民の影響を誇張していたかもしれない、と示唆されました。


参考文献:
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Du P. et al.(2024): Genomic dynamics of the Lower Yellow River Valley since the Early Neolithic. Current Biology, 34, 17, 3996–4006.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.07.063

Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
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[8]Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
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[9]Liu J. et al.(2021): Maternal genetic structure in ancient Shandong between 9500 and 1800 years ago. Science Bulletin, 66, 11, 1129-1135.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.01.029
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[10]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
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[44]Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.
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[45]Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
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[46]Damgaard PB. et al.(2018A): 137 ancient human genomes from across the Eurasian steppes. Nature, 557, 7705, 369–374.
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