山田重郎『アッシリア 人類最古の帝国』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2024年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。アッシリアは「帝国」としての期間こそ、後続のペルシア帝国やローマ帝国よりずっと短かったものの、紀元前三千年紀に都市国家として出現した時代から紀元前7世紀後半の滅亡まで、国家としての存続期間は長かったように思います。本書は国家としての長い歴史を有するアッシリアの概説で、「帝国」時代だけではなく、紀元前三千年紀の都市国家時代以降を取り上げます。
アッシリア(ギリシア語)は都市アッシュルを起源として発展し、アッカド語ではマート・アッシュル(アッシュルの地)と呼ばれます。アッシュル市周辺では、アッカド語の北方方言であるアッシリア方言が話されており、アッカド語はアジア西部を中心に使用される多くのセム系言語の一つでした。アッカド語はセム語族の一派(東セム語)で、紀元前二千年紀にはメソポタミアとその周辺の「共通語」となり、ヘレニズム時代まで各地で使用されました。アッシリアに関する史料の大半は楔形文字で、アッシリアの版図やその影響圏で発見されています。こうした楔形文字の(準)同時代史料の他に、後代の史料としてヘブライ語聖書やヘロドトス『歴史』などがあります。アッシリアの歴史が詳しく分かるのは、史料が豊富に残っている紀元前二千年紀以降で、紀元前三千年紀については考古学的研究と断片的な文字記録しかありません。
アッシリアの時代区分は、紀元前20世紀半ば~紀元前18世紀が古アッシリア時代、紀元前17世紀~紀元前15世紀の中間期(暗黒時代)を経て、史料の豊富な紀元前14~紀元前11世紀の中アッシリア時代が続き、紀元前10~紀元前7世紀の新アッシリア時代には、とくに史料が豊富です。こうした時代区分は、アッカド語アッシリア方言の変化と史料の区分に基づいた仮定的なもので、アッシュル/アッシリアの王朝史は断絶なく継続していました。アッシリアの年代は、史料と考古学的研究に基づいて、新アッシリア時代についてはほぼ確定していますが、紀元前二千年紀前半については異なる学説が提示されており、時には100年ほどの違いもあるようです。
アッシリアの起源地であるアッシュル付近は、降水量がきわめて少なく、平坦な沖積平野が続くイラク南部とは異なり、起伏があり、天水農耕を可能とする年間300mm以上の降水量があります。アッシュルは神名でもありますが、地名と神名のどちらが先かは不明です。アッシュルには紀元前2600年頃から紀元後14世紀まで、ほぼ4000年間途切れることなく人類が居住し続けました。アッシリアは長命な国家でしたが、その起源地のアッシュルも集落として長命だったわけです。紀元前23~紀元前21世紀には、アッシュルはアッカド王朝やウル第三王朝などメソポタミア南部の強大な国の影響下にあったようです。ウル第三王朝が衰退し滅亡すると、紀元前2025年頃に、アッシュルは少数の有力な商人が主導する都市国家として独立し、紀元前18世紀前半にかけて商業都市として繁栄しました。アッシリア商人はアナトリア半島中央部にまで進出し、多数の記録が残されています。アッシュルからアナトリア半島には錫と織物(おもに毛織物)が、アナトリア半島からアッシュルには金や銀がもたらされました。錫はエラム商人によってアフガニスタン方面からアッシュルにもたらされた、と推測されています。こうした交易は、アッシュル市とアナトリア半島の政治権力によって管理されていました。
当時のアッシリアは有力商人による集団指導体制で、その中から毎年1人「リンム」が選ばれ、後の領域国家時代の王に相当するのは「執政官」や「大人」や「(王たる)アッシュル神の代理人」などと呼ばれましたが、後代の王のような絶対的権力者はいなかったようです。これらの執政官は、後に王統譜に組み込まれていったようですが、その中には外来のアムル系と推測される人々がいました。当時のアッシュルの人口構成は複雑だったようで、土着のアッカド語アッシリア方言を母語とする人々のみならず、アムル系の人々やフリ系の人々もいました。紀元前18世紀半ばになると、アッシュル関連の同時代文書が激減し、「暗黒時代」を迎えて、アッシュルはハンムラビのバビロン第一王朝の影響下に置かれたようです。
紀元前16世紀半ば頃、フリ系のミッタニ(ミタンニ)がメソポタミア北部とその周辺で勢力を拡大し、紀元前15世紀後半には、西方はシリアから東方はザグロス山麓までを勢力圏とし、アッシュルは紀元前15世紀半ば~紀元前14世紀初頭までミッタニに従属していたようです。それでも、アッシュルは固有領土を確保し、エジプトやバビロニアなどと外交関係を築き、紀元前14世紀後半には領域国家アッシリアへと変容していきます(中アッシリア王国)。アッシリアは、古くからの大国エジプトとも対等な姿勢で関係を築きます。ミッタニ滅亡後、アッシリアはシリアへの侵出をめぐって大国のヒッタイトと緊張関係にあったようです。アッシリア王のトゥクルティ・ニヌルタ1世は、ヒッタイトと戦って多数の捕虜を得たようで、南方では敵対関係にあったバビロニアと戦い、バビロンを陥落させ、支配しました。トゥクルティ・ニヌルタ1世は中アッシリア王国時代で最大の勢力圏を築きましたが、晩年には危機的状況に陥り、紀元前1197年頃、息子に殺害されます。
この後、長期にわたってアッシリア王国の政治体制は動揺し、紀元前12世紀後半~紀元前11世紀前半のティグラト・ピレセル1世の代に、再び領土の拡張が目指されます。トゥクルティ・ニヌルタ1世の晩年の前後は、地中海東部地域~メソポタミア地域にかけて交易も含めて複雑なつながりが破壊され、ヒッタイトのような大国が滅亡するなど、激動の時代でしたが(関連記事)、アッシリアはこの大混乱期を滅亡せず何とか乗り越えたようです。ただ、ティグラト・ピレセル1世の領土拡大方針は、遊牧集団の攻撃により頓挫し、アッシリア王国の広域支配は打撃を受けます。ティグラト・ピレセル1世の時代には、古くからの独自の暦(アッシリア暦)に代わって、春を新年とするバビロニア暦が用いられるようになります。アッシリア暦もバビロニア暦も太陰太陽暦でしたが、アッシリアではバビロニア暦の導入後、アッシリア暦は現在のイスラム暦のような純粋太陰暦に変わっていきました。
中アッシリア時代は混乱と衰退で終焉を迎え、紀元前10世紀~紀元前7世紀末の滅亡までが新アッシリア時代となります。中アッシリア時代末の衰退と混乱は紀元前10世紀半ば頃まで続き、紀元前10世紀後半以降、アッシリアはトゥクルティ・ニヌルタ2世の代に一旦失った領土を回復していきます。紀元前9世紀前半にトゥクルティ・ニヌルタ2世から王位を継承したアッシュルナツィルパル(アッシュル・ナツィル・アプリ)2世の代には、アッシリアはアジア西部で最大の王国となります。アッシュルナツィルパル2世はアッシュルの北方約70kmに位置するカルフ(現在のニムルド)に新首都を建設し、これは、カルフが交通の要衝だったためですが、アッシュルの有力な支配層を遠ざけ、王権の強化にもつながりました。カルフの主神に選ばれたのは、メソポタミアで主神とされるニップル市のエンリル神の子である、戦神ニヌルタでした。アッシュル神は紀元前二千年紀後半までには、エンリル神と同一視され、「アッシリアのエンリル」として世界の頂点に君臨する神とみなされるようになります。ニヌルタは「アッシリアのエンリル」の息子でもあり、アッシリア王は「アッシュル神の代理人」および「エンリル神の行政官」として、ニヌルタの化身と解釈されました。
アッシュルナツィルパル2世の息子のシャルマネセル3世の代には、アッシリアの支配圏が拡大し、西方ではシリア北部のほとんどの王国がアッシリアの属国となります。ただ、西方への固有領土の拡大はほぼユーフラテス川を越えず、中アッシリア時代に概念化された「アッシュルの地」の範囲を大きく越えないよう意図的に制御されており、その範囲外には属国が広がっていました。ただ、シャルマネセル3世の晩年には、王の衰えもあってか国政は混乱していたようで、この「分権化の時代」は紀元前8世紀半ば頃まで続きます。王の軍事遠征が目立たず、有力な官僚の功績が見られる「分権化の時代」は、アッシリアの国力衰退を反映しているのか、アッシリアの国力が全体として上昇した「充電期間」だったのか、見解が分かれていますが、内乱を制し、「分権化の時代」に終止符を打ったティグラト・ピレセル3世の時代に、アッシリアは遠方への大規模な軍事遠征によって一気に領土を拡大したことから、「分権化の時代」にアッシリアが少なくとも一定以上国力を蓄積していた可能性は高そうです。
ティグラト・ピレセル3世は、出自に曖昧なところがあり、アダド・ネラリ3世の息子と称した碑文もありますが、正式な王位継承候補ではなかった可能性が高そうです。ティグラト・ピレセル3世は「アッシュルの地」の範囲外に大きく領土を広げ、晩年にはバビロン王権も掌握し、バビロンで正式な王として即位します。アッシリアの領土拡大とともに行政州が再編され、紀元前7世紀前半のエサルハドンの代には、基本的に均一な行財政規模の50以上の行政州に分割されました。この過程でアッシリアは、征服地の住民をアッシリア中心へと連行し、土地開発や建築や軍事に従事させるそれまでの捕囚政策に加えて、被征服地の住民を多数遠方の各地に植民させ、住民が連行された土地には別の遠方地の捕囚民を連行させるという、多方向の強制移住政策を行ないました。これにより、異なる出身地の集団を混在させ、住民がまとまって反乱する可能性を減少させるとともに、国内要所の強化が進められました。アッシリアの強制移住政策による人口移動は、150万人ほどと推定されています。この過程で多数のアラム系住民が取り込まれ、アッシリア中心部の標準言語であるアッシリア語に加えて、アラム語が公用語的な地位を占めるようになりました。こうしてアッシリアは、多様な言語と文化の集団が、本来の居住地から切り離されて他集団と複雑に混在する、「史上最初の帝国」となりました。注目されるのは、アッシリアが政策面では、捕囚民本来の文化的独自性を完全に消滅させようとはしなかったことです。
紀元前722年に即位したサルゴン2世は、出自に曖昧なところがあることから、「新王朝」を樹立した、とも考えられてきましたが、ティグラト・ピレセル3世の息子との系図もあります。サルゴン2世が、ティグラト・ピレセル3世の息子だとしても、母親はアッシリアの西方地域出身だった可能性があり、それまでのアッシリア王統で繰り返し採用されていた即位名とは異なることなどから、サルゴン2世が「新王朝」の創始者だった可能性を指摘します。じっさい、「簒奪者」であるサルゴン2世への反感からか、サルゴン2世の即位直後は政治的に混乱していたようです。サルゴン2世は叛乱を鎮圧し、さらに領土を拡大していきます。サルゴン2世はバビロニアを北部のバビロン州と南部のガンブル州に分割し、アッシリアの行政官に支配させましたが、バビロンで過ごす時間が長く、バビロンの伝統文化に心酔していたようです。サルゴン2世は新たな首都としてドゥル・シャルキンを建設しますが、新首都建設が終わった翌年の紀元前705年にアナトリア半島で戦死します。しかも、サルゴン2世の遺体はアッシリアに戻らず、不慮の死によって墓に葬られない使者の霊は地価の冥界から悪霊として地上に現れ、人々に危害を加える、と思っていたアッシリアの人々にはたいへんな衝撃だったようです。
父のサルゴン2世を継いだセンナケリブは、皇太子としてすでに父王を補佐しており、その王位継承は円滑に行なわれたようです。センナケリブは、不吉な最期を遂げた父王から距離を置くためか、碑文にはサルゴン2世の息子とは記さず、サルゴン2世が新たに建設した首都であるドゥル・シャルキン(「サルゴンの砦」との意味)を避け、南方のニネヴェに遷都しますが、古くからの都市ニネヴェにただ戻ったわけではなく、大改造を行なっています。王位継承は円滑に行なわれたものの、サルゴン2世の戦死は衝撃的で、辺境各地において叛乱が続発します。センナケリブはニネヴェの大改造が一段落した紀元前694年に、軍事遠征を活発化させます。センナケリブはアッシリアから離反したバビロンに攻め入り、苦戦しつつも紀元前689年に陥落させ、バビロンを徹底的に破壊します。傑出した都市だったバビロンの破壊は衝撃的で、センナケリブはその正当化を試みますが、アッシリアとバビロニアとの宗教・文化・政治的緊張関係はその後も続きました。
センナケリブは当初、長子のウルドゥ・ムリッスを後継者と考えていましたが、紀元前683年頃には年少の息子エサルハドン(アッシュル・アフ・イディナ)を皇太子とします。当然、ウルドゥ・ムリッスとその支持者は憤慨し、エサルハドンは西方のハニガルバトへと逃れます。紀元前681年、ウルドゥ・ムリッスは父のセンナケリブを殺害し、エサルハドンは直ちにニネヴェへと進軍し、この反乱を鎮圧して即位します。センナケリブの死はバビロンを破壊したためと考えたエサルハドンは、バビロンを復興します。エサルハドンはエジプトにも遠征し、征服に成功しますが、その後しばらくして反乱が起きます。エジプト以外にも各地で反乱が起き、病弱だったエサルハドンは苦悩したようです。しかし、各地に張り巡らされた監視網によって、反乱は直ちに鎮圧されます。自身の経験から、エサルハドンは用意周到に息子への王位継承を準備していたようで、アッシュルバニパルにアッシリア王位を、その兄のシャマシュ・シュム・ウキンにバビロニア王位を継がせることにします。エサルハドンは紀元前669年、エジプトでの反乱に対処する陣中で没し、アッシュルバニパルがアッシリア王に即位します。
皇太子として英才教育を受けたアッシュルバニパルは、直ちにエジプトに派兵し、制圧するとともに、各地の反乱を鎮圧していきます。アッシュルバニパルの兄でバビロニア王のシャマシュ・シュム・ウキンも、弟からの政治的干渉に反発して大規模な反アッシリア同盟を形成し、紀元前652年に決起して4年間にわたって戦いは続きましたが、アッシリアが優勢となり、シャマシュ・シュム・ウキンは死亡し、紀元前648年に主要都市のバビロンとボルシッパは降伏します。シャマシュ・シュム・ウキンの死後、バビロニアではカンダラヌが王として立てられ、アッシリアの傀儡と考えられますが、その出自と政治的役割の詳細は不明です。アッシュルバニパルはエラムとも戦いを続け、その王都マダクトゥや聖都スサなどを破壊し、財産や人々を略奪します。この徹底的な戦いの後、エラムにはアッシリアに抵抗する力は残っていなかったようです。英才教育を受けたアッシュルバニパルは知識人としての自負が強かったようで、ニネヴェで大規模な文書収集事業を行なっています。
アッシュルバニパルはバビロニアを再度支配し、エラムを最終的に妥当して、アッシリアの全盛期を築いたかのように見えましたが、紀元前637年以降のアッシュルバニパルの碑文は確認されていません。単にまだ発見されていないだけかもしれませんが、何らかの混乱が起きていた可能性も、本書は指摘します。そのため、アッシュルバニパルの治世末期はよく分かっておらず、アッシュルバニパルの没年も紀元前631年~紀元前627年まで複数説があります。アッシュルバニパルの後継者となったアッシュル・エテル・イラニは年少で、アッシリアにおいて王権強化と相互補完的に宦官が優遇されていたこともあり、宦官長のシン・シュム・リシルが後見したようです。アッシュル・エテル・イラニの最期は不明ですが、王位簒奪を図った者により殺された、と推測されています。混戦の中で王位を継承したのは宦官長のシン・シュム・リシルでした。この混乱の中でバビロニアではナボポラサルがバビロンを掌握してバビロニア王として即位し、この過程で争いの中でシン・シュム・リシルは殺害されたようです。
アッシリアでは、アッシュルバニパルの息子であるシン・シャル・イシュクンが即位し、バビロニアの支配回復を図りましたが、ナボポラサルの支配を覆すことはできず、逆に領土を奪われていきます。紀元前615年、アッシリアは古都アッシュルに迫ったバビロニア軍を撃退しますが、ザグロス地域からメディアが反アッシリア陣営に加わり、紀元前614年には古都アッシュルを陥落させます。古都アッシュルの陥落はアッシリアにとって大きな衝撃だったようで、紀元前612年、バビロニアとメディアの連合軍はついにニネヴェを攻め落とします。アッシリアの残党はその後も復興を試み、シン・シャル・イシュクンの息子と考えられるアッシュル・ウバリトがアッシリア西方の拠点都市ハランで即位します。ただ、アッシュル・ウバリトは即位後も「王子」と呼ばれており、アッシリアの王はアッシュルにおいて即位式を行なって初めて、正式にアッシリア王として認知される伝統があったので、アッシュル・ウバリトの正式な称号は「王子(皇太子)」に留まった、と推測されています。紀元前610年にバビロニアとメディアの連合軍はハランを攻め落とし、アッシュル・ウバリトはエジプト軍の支援を得て、バビロニア軍を一度は破ったものの、ハランを奪還できず、これ以降、アッシュル・ウバリトの動向は不明で、ついにアッシリア王国も滅亡します。ただ、アッシリアの遺民の一部は共同体を形成し、その後もバビロニアやメディアの主権を認めて生き残ったようです。現在でも、「アッシリア人」を自認する集団がおり、長く「アラム人」や「シリア人」と自称していましたが、19世紀にアッシリアの考古学的研究が進むと、「アッシリア人」としての民族意識を主張するようになります。
こうしてアッシリアは滅亡したわけですが、後世からは、大帝国が短期間で滅亡に追い込まれたように見えます。本書はアッシリア滅亡の要因をいくつか挙げていますが、その一つが不安定な王位継承です。本書がもう一つ指摘しているのが、「常に拡大する国家」アッシリアの国家経営の行き詰まりです。強制移住も含めて人々や物資の収奪によって拡大したアッシリアは、範囲拡大によって軍事行動とその結果としての拡大が難しくなると、収奪の対象を失い、支配地域に導入された複雑な税制では財政を補えなかったのではないか、と本書は指摘します。アッシリアの膨張によって支配下に入った人々の多くは「帝国臣民」としての自覚を持たず、誰が支配者でも構わないと考えていたことも、アッシリア滅亡の一因として本書は挙げます。また、古環境の研究から、紀元前675~紀元前550年頃は降水量が少なかったことも指摘されています。その結果アッシリアは、飢饉によって食料経済の点で追い詰められたのではないか、というわけです。
本書を読んでの私の印象では、アッシリアは王位継承が不安定で、代替わりごとに反乱が起きているように見え、紀元前7世紀後半の混乱を切り抜け、「帝国」としてもっと存続した可能性も、史実の「最盛期」を迎える前、たとえば紀元前7世紀初頭以前に滅亡した可能性もあるのかな、と思いました。アッシリアの古代ゲノム研究はあまり進んでいないように思われ、私が把握しているのは青銅器時代の1個体くらいで(関連記事)、他には新アッシリア時代の宮殿の煉瓦から植物のDNAが確認されていますが(関連記事)、本書でも指摘されたアッシリアの強制移住については、古代ゲノム研究の進展によって文献と考古学的記録だけでは不明な点も明らかになるのではないか、と期待されます。
アッシリア(ギリシア語)は都市アッシュルを起源として発展し、アッカド語ではマート・アッシュル(アッシュルの地)と呼ばれます。アッシュル市周辺では、アッカド語の北方方言であるアッシリア方言が話されており、アッカド語はアジア西部を中心に使用される多くのセム系言語の一つでした。アッカド語はセム語族の一派(東セム語)で、紀元前二千年紀にはメソポタミアとその周辺の「共通語」となり、ヘレニズム時代まで各地で使用されました。アッシリアに関する史料の大半は楔形文字で、アッシリアの版図やその影響圏で発見されています。こうした楔形文字の(準)同時代史料の他に、後代の史料としてヘブライ語聖書やヘロドトス『歴史』などがあります。アッシリアの歴史が詳しく分かるのは、史料が豊富に残っている紀元前二千年紀以降で、紀元前三千年紀については考古学的研究と断片的な文字記録しかありません。
アッシリアの時代区分は、紀元前20世紀半ば~紀元前18世紀が古アッシリア時代、紀元前17世紀~紀元前15世紀の中間期(暗黒時代)を経て、史料の豊富な紀元前14~紀元前11世紀の中アッシリア時代が続き、紀元前10~紀元前7世紀の新アッシリア時代には、とくに史料が豊富です。こうした時代区分は、アッカド語アッシリア方言の変化と史料の区分に基づいた仮定的なもので、アッシュル/アッシリアの王朝史は断絶なく継続していました。アッシリアの年代は、史料と考古学的研究に基づいて、新アッシリア時代についてはほぼ確定していますが、紀元前二千年紀前半については異なる学説が提示されており、時には100年ほどの違いもあるようです。
アッシリアの起源地であるアッシュル付近は、降水量がきわめて少なく、平坦な沖積平野が続くイラク南部とは異なり、起伏があり、天水農耕を可能とする年間300mm以上の降水量があります。アッシュルは神名でもありますが、地名と神名のどちらが先かは不明です。アッシュルには紀元前2600年頃から紀元後14世紀まで、ほぼ4000年間途切れることなく人類が居住し続けました。アッシリアは長命な国家でしたが、その起源地のアッシュルも集落として長命だったわけです。紀元前23~紀元前21世紀には、アッシュルはアッカド王朝やウル第三王朝などメソポタミア南部の強大な国の影響下にあったようです。ウル第三王朝が衰退し滅亡すると、紀元前2025年頃に、アッシュルは少数の有力な商人が主導する都市国家として独立し、紀元前18世紀前半にかけて商業都市として繁栄しました。アッシリア商人はアナトリア半島中央部にまで進出し、多数の記録が残されています。アッシュルからアナトリア半島には錫と織物(おもに毛織物)が、アナトリア半島からアッシュルには金や銀がもたらされました。錫はエラム商人によってアフガニスタン方面からアッシュルにもたらされた、と推測されています。こうした交易は、アッシュル市とアナトリア半島の政治権力によって管理されていました。
当時のアッシリアは有力商人による集団指導体制で、その中から毎年1人「リンム」が選ばれ、後の領域国家時代の王に相当するのは「執政官」や「大人」や「(王たる)アッシュル神の代理人」などと呼ばれましたが、後代の王のような絶対的権力者はいなかったようです。これらの執政官は、後に王統譜に組み込まれていったようですが、その中には外来のアムル系と推測される人々がいました。当時のアッシュルの人口構成は複雑だったようで、土着のアッカド語アッシリア方言を母語とする人々のみならず、アムル系の人々やフリ系の人々もいました。紀元前18世紀半ばになると、アッシュル関連の同時代文書が激減し、「暗黒時代」を迎えて、アッシュルはハンムラビのバビロン第一王朝の影響下に置かれたようです。
紀元前16世紀半ば頃、フリ系のミッタニ(ミタンニ)がメソポタミア北部とその周辺で勢力を拡大し、紀元前15世紀後半には、西方はシリアから東方はザグロス山麓までを勢力圏とし、アッシュルは紀元前15世紀半ば~紀元前14世紀初頭までミッタニに従属していたようです。それでも、アッシュルは固有領土を確保し、エジプトやバビロニアなどと外交関係を築き、紀元前14世紀後半には領域国家アッシリアへと変容していきます(中アッシリア王国)。アッシリアは、古くからの大国エジプトとも対等な姿勢で関係を築きます。ミッタニ滅亡後、アッシリアはシリアへの侵出をめぐって大国のヒッタイトと緊張関係にあったようです。アッシリア王のトゥクルティ・ニヌルタ1世は、ヒッタイトと戦って多数の捕虜を得たようで、南方では敵対関係にあったバビロニアと戦い、バビロンを陥落させ、支配しました。トゥクルティ・ニヌルタ1世は中アッシリア王国時代で最大の勢力圏を築きましたが、晩年には危機的状況に陥り、紀元前1197年頃、息子に殺害されます。
この後、長期にわたってアッシリア王国の政治体制は動揺し、紀元前12世紀後半~紀元前11世紀前半のティグラト・ピレセル1世の代に、再び領土の拡張が目指されます。トゥクルティ・ニヌルタ1世の晩年の前後は、地中海東部地域~メソポタミア地域にかけて交易も含めて複雑なつながりが破壊され、ヒッタイトのような大国が滅亡するなど、激動の時代でしたが(関連記事)、アッシリアはこの大混乱期を滅亡せず何とか乗り越えたようです。ただ、ティグラト・ピレセル1世の領土拡大方針は、遊牧集団の攻撃により頓挫し、アッシリア王国の広域支配は打撃を受けます。ティグラト・ピレセル1世の時代には、古くからの独自の暦(アッシリア暦)に代わって、春を新年とするバビロニア暦が用いられるようになります。アッシリア暦もバビロニア暦も太陰太陽暦でしたが、アッシリアではバビロニア暦の導入後、アッシリア暦は現在のイスラム暦のような純粋太陰暦に変わっていきました。
中アッシリア時代は混乱と衰退で終焉を迎え、紀元前10世紀~紀元前7世紀末の滅亡までが新アッシリア時代となります。中アッシリア時代末の衰退と混乱は紀元前10世紀半ば頃まで続き、紀元前10世紀後半以降、アッシリアはトゥクルティ・ニヌルタ2世の代に一旦失った領土を回復していきます。紀元前9世紀前半にトゥクルティ・ニヌルタ2世から王位を継承したアッシュルナツィルパル(アッシュル・ナツィル・アプリ)2世の代には、アッシリアはアジア西部で最大の王国となります。アッシュルナツィルパル2世はアッシュルの北方約70kmに位置するカルフ(現在のニムルド)に新首都を建設し、これは、カルフが交通の要衝だったためですが、アッシュルの有力な支配層を遠ざけ、王権の強化にもつながりました。カルフの主神に選ばれたのは、メソポタミアで主神とされるニップル市のエンリル神の子である、戦神ニヌルタでした。アッシュル神は紀元前二千年紀後半までには、エンリル神と同一視され、「アッシリアのエンリル」として世界の頂点に君臨する神とみなされるようになります。ニヌルタは「アッシリアのエンリル」の息子でもあり、アッシリア王は「アッシュル神の代理人」および「エンリル神の行政官」として、ニヌルタの化身と解釈されました。
アッシュルナツィルパル2世の息子のシャルマネセル3世の代には、アッシリアの支配圏が拡大し、西方ではシリア北部のほとんどの王国がアッシリアの属国となります。ただ、西方への固有領土の拡大はほぼユーフラテス川を越えず、中アッシリア時代に概念化された「アッシュルの地」の範囲を大きく越えないよう意図的に制御されており、その範囲外には属国が広がっていました。ただ、シャルマネセル3世の晩年には、王の衰えもあってか国政は混乱していたようで、この「分権化の時代」は紀元前8世紀半ば頃まで続きます。王の軍事遠征が目立たず、有力な官僚の功績が見られる「分権化の時代」は、アッシリアの国力衰退を反映しているのか、アッシリアの国力が全体として上昇した「充電期間」だったのか、見解が分かれていますが、内乱を制し、「分権化の時代」に終止符を打ったティグラト・ピレセル3世の時代に、アッシリアは遠方への大規模な軍事遠征によって一気に領土を拡大したことから、「分権化の時代」にアッシリアが少なくとも一定以上国力を蓄積していた可能性は高そうです。
ティグラト・ピレセル3世は、出自に曖昧なところがあり、アダド・ネラリ3世の息子と称した碑文もありますが、正式な王位継承候補ではなかった可能性が高そうです。ティグラト・ピレセル3世は「アッシュルの地」の範囲外に大きく領土を広げ、晩年にはバビロン王権も掌握し、バビロンで正式な王として即位します。アッシリアの領土拡大とともに行政州が再編され、紀元前7世紀前半のエサルハドンの代には、基本的に均一な行財政規模の50以上の行政州に分割されました。この過程でアッシリアは、征服地の住民をアッシリア中心へと連行し、土地開発や建築や軍事に従事させるそれまでの捕囚政策に加えて、被征服地の住民を多数遠方の各地に植民させ、住民が連行された土地には別の遠方地の捕囚民を連行させるという、多方向の強制移住政策を行ないました。これにより、異なる出身地の集団を混在させ、住民がまとまって反乱する可能性を減少させるとともに、国内要所の強化が進められました。アッシリアの強制移住政策による人口移動は、150万人ほどと推定されています。この過程で多数のアラム系住民が取り込まれ、アッシリア中心部の標準言語であるアッシリア語に加えて、アラム語が公用語的な地位を占めるようになりました。こうしてアッシリアは、多様な言語と文化の集団が、本来の居住地から切り離されて他集団と複雑に混在する、「史上最初の帝国」となりました。注目されるのは、アッシリアが政策面では、捕囚民本来の文化的独自性を完全に消滅させようとはしなかったことです。
紀元前722年に即位したサルゴン2世は、出自に曖昧なところがあることから、「新王朝」を樹立した、とも考えられてきましたが、ティグラト・ピレセル3世の息子との系図もあります。サルゴン2世が、ティグラト・ピレセル3世の息子だとしても、母親はアッシリアの西方地域出身だった可能性があり、それまでのアッシリア王統で繰り返し採用されていた即位名とは異なることなどから、サルゴン2世が「新王朝」の創始者だった可能性を指摘します。じっさい、「簒奪者」であるサルゴン2世への反感からか、サルゴン2世の即位直後は政治的に混乱していたようです。サルゴン2世は叛乱を鎮圧し、さらに領土を拡大していきます。サルゴン2世はバビロニアを北部のバビロン州と南部のガンブル州に分割し、アッシリアの行政官に支配させましたが、バビロンで過ごす時間が長く、バビロンの伝統文化に心酔していたようです。サルゴン2世は新たな首都としてドゥル・シャルキンを建設しますが、新首都建設が終わった翌年の紀元前705年にアナトリア半島で戦死します。しかも、サルゴン2世の遺体はアッシリアに戻らず、不慮の死によって墓に葬られない使者の霊は地価の冥界から悪霊として地上に現れ、人々に危害を加える、と思っていたアッシリアの人々にはたいへんな衝撃だったようです。
父のサルゴン2世を継いだセンナケリブは、皇太子としてすでに父王を補佐しており、その王位継承は円滑に行なわれたようです。センナケリブは、不吉な最期を遂げた父王から距離を置くためか、碑文にはサルゴン2世の息子とは記さず、サルゴン2世が新たに建設した首都であるドゥル・シャルキン(「サルゴンの砦」との意味)を避け、南方のニネヴェに遷都しますが、古くからの都市ニネヴェにただ戻ったわけではなく、大改造を行なっています。王位継承は円滑に行なわれたものの、サルゴン2世の戦死は衝撃的で、辺境各地において叛乱が続発します。センナケリブはニネヴェの大改造が一段落した紀元前694年に、軍事遠征を活発化させます。センナケリブはアッシリアから離反したバビロンに攻め入り、苦戦しつつも紀元前689年に陥落させ、バビロンを徹底的に破壊します。傑出した都市だったバビロンの破壊は衝撃的で、センナケリブはその正当化を試みますが、アッシリアとバビロニアとの宗教・文化・政治的緊張関係はその後も続きました。
センナケリブは当初、長子のウルドゥ・ムリッスを後継者と考えていましたが、紀元前683年頃には年少の息子エサルハドン(アッシュル・アフ・イディナ)を皇太子とします。当然、ウルドゥ・ムリッスとその支持者は憤慨し、エサルハドンは西方のハニガルバトへと逃れます。紀元前681年、ウルドゥ・ムリッスは父のセンナケリブを殺害し、エサルハドンは直ちにニネヴェへと進軍し、この反乱を鎮圧して即位します。センナケリブの死はバビロンを破壊したためと考えたエサルハドンは、バビロンを復興します。エサルハドンはエジプトにも遠征し、征服に成功しますが、その後しばらくして反乱が起きます。エジプト以外にも各地で反乱が起き、病弱だったエサルハドンは苦悩したようです。しかし、各地に張り巡らされた監視網によって、反乱は直ちに鎮圧されます。自身の経験から、エサルハドンは用意周到に息子への王位継承を準備していたようで、アッシュルバニパルにアッシリア王位を、その兄のシャマシュ・シュム・ウキンにバビロニア王位を継がせることにします。エサルハドンは紀元前669年、エジプトでの反乱に対処する陣中で没し、アッシュルバニパルがアッシリア王に即位します。
皇太子として英才教育を受けたアッシュルバニパルは、直ちにエジプトに派兵し、制圧するとともに、各地の反乱を鎮圧していきます。アッシュルバニパルの兄でバビロニア王のシャマシュ・シュム・ウキンも、弟からの政治的干渉に反発して大規模な反アッシリア同盟を形成し、紀元前652年に決起して4年間にわたって戦いは続きましたが、アッシリアが優勢となり、シャマシュ・シュム・ウキンは死亡し、紀元前648年に主要都市のバビロンとボルシッパは降伏します。シャマシュ・シュム・ウキンの死後、バビロニアではカンダラヌが王として立てられ、アッシリアの傀儡と考えられますが、その出自と政治的役割の詳細は不明です。アッシュルバニパルはエラムとも戦いを続け、その王都マダクトゥや聖都スサなどを破壊し、財産や人々を略奪します。この徹底的な戦いの後、エラムにはアッシリアに抵抗する力は残っていなかったようです。英才教育を受けたアッシュルバニパルは知識人としての自負が強かったようで、ニネヴェで大規模な文書収集事業を行なっています。
アッシュルバニパルはバビロニアを再度支配し、エラムを最終的に妥当して、アッシリアの全盛期を築いたかのように見えましたが、紀元前637年以降のアッシュルバニパルの碑文は確認されていません。単にまだ発見されていないだけかもしれませんが、何らかの混乱が起きていた可能性も、本書は指摘します。そのため、アッシュルバニパルの治世末期はよく分かっておらず、アッシュルバニパルの没年も紀元前631年~紀元前627年まで複数説があります。アッシュルバニパルの後継者となったアッシュル・エテル・イラニは年少で、アッシリアにおいて王権強化と相互補完的に宦官が優遇されていたこともあり、宦官長のシン・シュム・リシルが後見したようです。アッシュル・エテル・イラニの最期は不明ですが、王位簒奪を図った者により殺された、と推測されています。混戦の中で王位を継承したのは宦官長のシン・シュム・リシルでした。この混乱の中でバビロニアではナボポラサルがバビロンを掌握してバビロニア王として即位し、この過程で争いの中でシン・シュム・リシルは殺害されたようです。
アッシリアでは、アッシュルバニパルの息子であるシン・シャル・イシュクンが即位し、バビロニアの支配回復を図りましたが、ナボポラサルの支配を覆すことはできず、逆に領土を奪われていきます。紀元前615年、アッシリアは古都アッシュルに迫ったバビロニア軍を撃退しますが、ザグロス地域からメディアが反アッシリア陣営に加わり、紀元前614年には古都アッシュルを陥落させます。古都アッシュルの陥落はアッシリアにとって大きな衝撃だったようで、紀元前612年、バビロニアとメディアの連合軍はついにニネヴェを攻め落とします。アッシリアの残党はその後も復興を試み、シン・シャル・イシュクンの息子と考えられるアッシュル・ウバリトがアッシリア西方の拠点都市ハランで即位します。ただ、アッシュル・ウバリトは即位後も「王子」と呼ばれており、アッシリアの王はアッシュルにおいて即位式を行なって初めて、正式にアッシリア王として認知される伝統があったので、アッシュル・ウバリトの正式な称号は「王子(皇太子)」に留まった、と推測されています。紀元前610年にバビロニアとメディアの連合軍はハランを攻め落とし、アッシュル・ウバリトはエジプト軍の支援を得て、バビロニア軍を一度は破ったものの、ハランを奪還できず、これ以降、アッシュル・ウバリトの動向は不明で、ついにアッシリア王国も滅亡します。ただ、アッシリアの遺民の一部は共同体を形成し、その後もバビロニアやメディアの主権を認めて生き残ったようです。現在でも、「アッシリア人」を自認する集団がおり、長く「アラム人」や「シリア人」と自称していましたが、19世紀にアッシリアの考古学的研究が進むと、「アッシリア人」としての民族意識を主張するようになります。
こうしてアッシリアは滅亡したわけですが、後世からは、大帝国が短期間で滅亡に追い込まれたように見えます。本書はアッシリア滅亡の要因をいくつか挙げていますが、その一つが不安定な王位継承です。本書がもう一つ指摘しているのが、「常に拡大する国家」アッシリアの国家経営の行き詰まりです。強制移住も含めて人々や物資の収奪によって拡大したアッシリアは、範囲拡大によって軍事行動とその結果としての拡大が難しくなると、収奪の対象を失い、支配地域に導入された複雑な税制では財政を補えなかったのではないか、と本書は指摘します。アッシリアの膨張によって支配下に入った人々の多くは「帝国臣民」としての自覚を持たず、誰が支配者でも構わないと考えていたことも、アッシリア滅亡の一因として本書は挙げます。また、古環境の研究から、紀元前675~紀元前550年頃は降水量が少なかったことも指摘されています。その結果アッシリアは、飢饉によって食料経済の点で追い詰められたのではないか、というわけです。
本書を読んでの私の印象では、アッシリアは王位継承が不安定で、代替わりごとに反乱が起きているように見え、紀元前7世紀後半の混乱を切り抜け、「帝国」としてもっと存続した可能性も、史実の「最盛期」を迎える前、たとえば紀元前7世紀初頭以前に滅亡した可能性もあるのかな、と思いました。アッシリアの古代ゲノム研究はあまり進んでいないように思われ、私が把握しているのは青銅器時代の1個体くらいで(関連記事)、他には新アッシリア時代の宮殿の煉瓦から植物のDNAが確認されていますが(関連記事)、本書でも指摘されたアッシリアの強制移住については、古代ゲノム研究の進展によって文献と考古学的記録だけでは不明な点も明らかになるのではないか、と期待されます。
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