北アメリカ大陸太平洋沿岸の絶滅したイヌの歴史

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、北アメリカ大陸太平洋沿岸の絶滅したイヌの遺伝的歴史に関する研究(Lin et al., 2023)が報道されました。日本語の解説記事もあります。北アメリカ大陸の太平洋北西部(Pacific Northwest、略してPNW)沿岸の沿岸セイリッシュ(Coast Salish)など複数の先住民集団は、独特な羊毛質の下毛のイヌを飼育および管理維持し、これらのイヌの毛は織物に使われていました。本論文は、1859年にマトン(Mutton)と命名された沿岸セイリッシュの羊毛質犬(woolly dog)の既知の標本を配列決定しました。マトンはヨーロッパ植民地のイヌからの遺伝子移入が限定的で、それ以外は遺伝的多様性が欠けており、これらのイヌはその被毛を維持するため注意深く繁殖管理されていた、と示唆されます。伝統的な知識と歴史的記録と遺伝的データとを組み込むことによって、これらのイヌの重要性とその喪失における植民地主義の役割が解明されます。この研究は、歴史学的研究において先住民集団を組み込もうとする試みの増加に加わります。以下、敬称は省略します。


●要約

 PNWの沿岸セイリッシュの祖先社会は、千年以上にわたって繁殖と世話が行なわれた、長毛の「羊毛質犬」を長く飼育しました。しかし、イヌの毛織物伝統は19世紀に衰退し、その個体群は失われました。本論文では、1859年に収集された、「マトン」の保存された毛皮からゲノムおよび同位体データが分析されました。マトンは、入植者の植民政策の開始に先行する、優勢な植民地前の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有する、北アメリカ大陸在来イヌの唯一の既知の事例です。その独特な羊毛質の表現型と関連するかもしれない、遺伝的多様体候補が特定されました。これらのデータは、羊毛質犬や沿岸セイリッシュ社会内のその重要性や植民地政策がその消滅とどのように直接的に関連するのかについて、共有されている伝統的知識と記憶に関連する沿岸セイリッシュの長老や知識の番人や織物職人の取材と統合されました。


●研究史

 イヌは北アメリカ大陸北西部経由で15000年前頃にユーラシアからアメリカ大陸へともたらされ、何千年間もPNWの先住民社会に遍在してきました(関連記事)。セイリッシュ海地域の沿岸セイリッシュ人(図1A)は複数の異なる種類のイヌを飼っており、それは狩猟犬や村落犬や織物用に刈られた厚い羊毛質の下毛のある「羊毛質犬」です。イヌの毛織物毛布は、シロイワヤギの毛織物や水鳥の羽毛やヤナギランや穂綿のような植物繊維と混紡されることが多かったので、高級文化財でした。羊毛質犬は一部の沿岸セイリッシュの言語では、スクウェメーイ(sqwemá:y)やスケーハ(ske’-ha)やスクウェメイ(sqwǝméy̓)やスクウベイ(sqwbaý)やケベオ(QebeO)として知られており、19世紀のスコーミッシュ(Skokomish)/トゥナ(Twana)の籠に描かれているように、一部の共同体の象徴でした。以下は本論文の図1です。
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 セイリッシュの織物に関する最初の包括的な本は、背勝ち什の博物館のほとんどの沿岸セイリッシュの織物毛布を精査し、おもにイヌの毛を含んでいるのかどうか、問題を提起し、その繊維の紡糸特性について論争しました。さらに、羊毛質犬に由来すると考えられる動物考古学的遺骸が、5000年前頃以降の沿岸セイリッシュの領域の数十ヶ所の遺跡で発見されてきました(図1A)。最後のコースト・セイリッシュ・ウーリー・ドッグ(Coast Salish woolly dog、略してCSWG)は19世紀後半/20世紀初頭に生息していた可能性が高そうです。羊毛質犬に言及しているその後の写真や記録は20世紀にまで及んでいますが、これらの事例は混合祖先系統もしくは非在来品種を反映している可能性が高そうです。

 イヌの毛織物の衰退は以前には、19世紀初期におけるイギリスとアメリカ合衆国の貿易会社による機械製毛布の急増のためとされてきました。しかし、この説明は、盛装のような高位の品物で、毛織職人によって長年使用されていたことに反映されているような、羊毛質犬の文化的重要性を無視しています。沿岸セイリッシュ社会における役割を考えると、イヌの毛織物の伝統全体が単に輸入織物の容易な入手可能性のため放棄された可能性は低そうです。さらに、この説明では、入植者の植民政策に直面して、文化的に関連する慣行を維持する毛織職人の努力が無視されています。儀式用毛布の着用は、毛布の製作者と着用者と共同体を結びつけるので、精神的に変化をもたらすものでした。絶滅したCSWGの唯一の既知の毛皮は「マトン」で、マトンは北西境界調査中(1857~1862年)に博物学者で民族学者のジョージ・ギブス(George Gibbs)により世話をされていたイヌです。ギブスの現地日記とスミソニアン博物館の台帳(USNM A4401-A4425)によると、マトンは病気になり、1859年後半に死亡しました。その毛皮と下肢はスミソニアン博物館に保管されています(USNM 4762)。

 本論文は、ゲノム解析と民族誌研究と安定同位体および動物考古学的分析と公文書記録を組み合わせて、祖先系統や羊毛質の遺伝的基盤や最終的な衰退を含めて、この象徴的なイヌの歴史を調べます。マトンの核ゲノムが平均網羅率3.4倍の深度で配列決定され、比較のため、近隣のセミアモー湾(Semiahmoo Bay)地域の羊毛質ではない村落のイヌ(以後、SBイヌと呼ば理ます)が低網羅率(0.5倍)で配列決定されました。さらなるゲノムの背景のため、ニューファンドランド島のポート・オー・チョワ(Port au Choix)の古代(較正年代で4020年前頃)のイヌ1個体(AL3194)の網羅率が1.9倍から11.9倍へと増加され、アラスカのテシェクプク湖(Teshekpuk Lake)の古代(3763年前頃)のイヌ1個体(ALAS_015、網羅率は1.23倍)と、現代のコヨーテ3個体と21系統の品種を表す現代のイヌ59個体のゲノムが配列決定されました。

 マトンとSBイヌの炭素(C)および窒素(N)の安定同位体(δ¹³Cとδ¹⁵N)分析も行なわれ、食性生活史における実質的な違いについて検証されました。最後に、この研究は沿岸セイリッシュの7人の長老と知識の番人と毛織物職人に、羊毛質犬に関する家族史や伝統的知識について取材し、ゲノム解析の解釈のための文化的枠組みを提供しました。この取材は、ブリティッシュコロンビア(British Columbia、略してBC)のステーロー(Stó:lō)やスクアミッシュ(Suquamish)やスヌネイムクス(Snuneymuxw)やマスキーム(Musqueam)民族、ワシントン州のスクアミッシュやスコーミッシュ/トゥナを含めて、いくつかの沿岸セイリッシュ共同体にまたがっています。


●羊毛質犬の起源

 北アメリカ大陸の北西部全体に、羊毛質犬に関する多くの口承史や起源物語があります。スコーミッシュ/トゥナの長老であるマイケル・パーヴェル(Michael Pavel)は、羊毛質犬を含めて全てが親族として認識されていた以前には、すべての「人々」が家族だった、と報告しています。高位のクウォーントラン(Qw’ó:ntl’an)人女性は、全てのものが一家族だった時代に羊毛質犬にその系統がたどれる人々の事例です。パーヴェルによると、起源の物語では、羊毛質犬は毛の贈り物を与えられ、毛の集め方や加工方法や紡ぎ方や毛の織り方を女性に教えることができた」とのことです。

 初期の植民地探検家や学者は、羊毛質犬は日本に起源があるか、カナダの北部亜寒帯に広西チワン族自治区があるディネ人(Dene)によって沿岸セイリッシュに最近持ち込まれた、と推測しました。しかし、沿岸セイリッシュ地域の形態巣学的に異なるイヌの動物考古学的遺骸から、羊毛質犬の飼育はヨーロッパ人の植民の5000年前には存在していた、と示唆されます。さらに、長年の口承史と伝統的知識から、羊毛質犬は何千年もの間沿岸セイリッシュ社会の一部だった、と考えられます。

 マトンが先植民地のイヌの祖先系統だったのか、あるいは入植者のイヌの祖先系統だったのか検証するため、そのミトコンドリアゲノムが世界規模の標本抽出から得られた207個体の古代および現代のイヌと比較されました。マトンのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプロタイプはA2bで、これはイヌがユーラシアから初めてアメリカ大陸へと到達した後に出現しました(関連記事)。いわゆる先植民地期のイヌ(pre-colonial dogs、略してPCD)のこのmtDNA系統のほとんどは、ヨーロッパによる植民地化の後に消滅しました(関連記事1および関連記事2)。

 マトンと最も近いmtDNAの所有個体は、BC(ブリティッシュコロンビア)のプリンスルパート湾(Prince Rupert Harbour)の古代(1500年前頃)のイヌ1個体(PRD10)です(図2A)。PRD10は、mtDNAのデータセットにおけるPNWの唯一の考古学的なイヌで、この類似性はこの地域におけるマトンの母方祖先系統の深い起源を反映しています。アラスカの現代と古代(620年前頃)のイヌの組み合わせは、マトンとPRD10の分類のクレード(単系統群)を形成し、北アメリカ大陸北部における長期の母系集団構造をさらに強調します。対照的に、SBイヌのmtDNAハプロタイプはA1aで、これはほとんどの現代のヨーロッパのイヌと類似しており、最も一般的な現在の世界規模のハプロタイプです(本論文の分析では207個体のうち64個体)。以下は本論文の図2です。
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 マトンの母系の分岐に時間枠を位置づけるため、ミトコンドリア系統発生で分子時計分析が実行されました。その結果は、マトンとPRD10とアラスカのイヌ2個体を含む下位クレードについて、4776~1853年前頃(95%事後確率密度)と推定されるミトコンドリアの共通祖先を示唆します(図2A)。単一個体の分析に制約されていますが、この年代はセイリッシュ海周辺地域における小柄な「羊毛質」のイヌの動物考古学的遺骸の出現増加と一般的に一致します。

 マトンの核祖先系統を評価するため、世界中に分布する古代と現代のイヌ217個体が分析されました。外群f3統計から、マトンは他のイヌとよりPCDの方、具体的にはニューファンドランド島のポート・オー・チョワのイヌ1個体(4020年前頃)およびヴァージニア州のウィーノク古町(Weyanoke Old Town)のイヌ1個体(1000年前頃)の考古学的遺骸とかなり多くの遺伝的浮動を共有している、と明らかになります(図2B)。マトンはヨーロッパによる植民地化と先植民地期のイヌの導入後に生きていたので、D統計を用いて導入された系統からの遺伝子流動が検証されました。その結果、ヨーロッパの品種は強く正のD統計を示す、と分かり、マトンの非PCD祖先系統は導入されたヨーロッパのイヌに由来する可能性が最も高い、と示唆されます(図2C)。

 これらの結果を洗練するため、現代ヨーロッパの6品種(チャイニーズ・クレステッド犬とイングリッシュ・コッカー・スパニエルとダルメシアンとジャーマンシェパードとラゴット・ロマニョーロとポヂュギース・ウォーター犬)でf4比検定が用いられ、マトンは84%のPCD祖先系統と16%(11.9~19.9%)のヨーロッパ祖先系統を有していた、と推定されました(図2D)。しかし、全ての順列にわたる推定値はおおむね一貫しており(図2D)、ヨーロッパ祖先系統はマトンの遺伝的背景ではおよそ曾祖父母1個体程度と示唆されます。対照的に、外群f3統計では、同時代のSBイヌは高度に混合している、と示唆され、シベリアとアラスカの古代のイヌと最大の類似性を示します。マトンにおけるPCD祖先系統とヨーロッパ祖先系統の領域の分布は、混合時期へのいくつかのさらなる洞察を提供できます。この手法は最近の混合およびPCD供給源集団のデータの不足のため不正確ですが、マトンのヨーロッパ系のイヌとの混合は10.8±4.9世代前に起きた、と推定されます。1世代3年間と仮定すると、この分析はマトンの誕生の32年前頃を示唆しており、植民地化後の混合と一致します。

 マトンとSBイヌとの間の食性の違いについて検証するため、骨コラーゲンと体毛のケラチンでδ¹³Cとδ¹⁵Nの安定同位体分析が実行されました。SBイヌはPNWの考古学的イヌ遺骸と類似した高いδ¹³Cおよびδ¹⁵N値を有しており、伝統的な海洋資源に基づく食性が示唆されます。マトンの同位体値はより多くの陸生的でC₃植物の豊富な食性を明らかにしており、マトンの初期からのギブスとの生活と旅を反映している可能性が高そうです。

 植民地化後のPCD祖先系統の高い割合の存続は、沿岸セイリッシュの人々の、非在来イヌからの遺伝子流動の圧力に抵抗しての品種維持の、協調した試みを反映しているかもしれません。マトンは伝統的な羊毛質犬飼育の末期近くに生きていました。マトンは混合祖先系統を有していましたが、その遺伝的背景は同時代のSBイヌと比較してPCDの祖先が優勢です。これは、羊毛質犬が衰退するまでの、その独特な遺伝的構成と表現型を維持するための、注意深い管理を示唆しているかもしれません。マトンのヨーロッパ祖先系統の割合は、マトンが生きていた頃の激しい文化的移動も浮き彫りにし、入植者のもたらしたイヌとの交雑が羊毛質犬の生存にどのように脅威を与えたかもしれないのか、示しています。


●羊毛質犬のゲノムへの人々の影響

 羊毛質犬は愛される拡大家族の構成員として扱われていました。マスキーム人の熟練織物職人であるデブラ・クワセン・スパロウ(Debra qwasen Sparrow)によると、彼女の曽祖父であるエド・スパロウ(Ed Sparrow、1898~1998年)は彼女に、「全ての村に羊毛質犬がおり、羊毛質犬はヤギの毛と混ぜ、次に引き裂いて紡いだので、金のようだった」と語りました。イヌは沿岸セイリッシュの女性にとって富と地位の一形態も構成しており、女性は、羊毛質の毛を維持するため、イヌを注意深く管理し、イヌを島もしくは囲いに隔離し、その繁殖を厳密に管理しました。島の名前はイヌとのつながりを反映していることが多く、たとえば、ブリティッシュコロンビアのスヌネイムクス地域のナナイモ(Nanaimo)のキャメロン島では「小さなイヌ(sqwiqwmi)」です羊毛質犬と狩猟もしくは村落のイヌとの交雑の防止は、その独特な毛の特徴の維持にとって重要で、それはひじょうに長く縮れた下毛のある柔らかい被毛で、紡績性がひじょうに高く、温かい毛布紡績後を作れました。これらの管理慣行が、入植者の植民地政策の開始後のマトンのPCD祖先系統の長きにわたる維持に寄与した可能性は高そうです。

 羊毛質の毛の長期飼育は羊毛質犬の有効集団規模を制約した可能性が高く、それはヌクレオチド多様性、したがってマトンの異型接合性に反映されているでしょう。マトンの異型接合性は、同じ網羅率に低解像度処理された現生品種(51個体)および村落のイヌ(42個体)の最低範囲に位置する、と分かりました(図3A)。さらに、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)は世界中の異型接合性よりも最近の集団動態をより適切に反映します。低網羅率に最適化されたROH手法を用いると、マトンのゲノムの15.7%は250万塩基対もしくはそれ以上のROHにある、と推定され、再び現代の品種の範囲内です。ポート・オー・チョワの古代のイヌ1個体も低いゲノム異型接合性と11.3%のROHを有しているので、マトンの低い異型接合性は、小さなPCD創始者集団からの共有された個体群動態史を部分的に反映しているかもしれません(図3A)。最近のヨーロッパ系との混合のため、マトンのゲノムはその近い羊毛質犬の祖先よりも必然的に異型接合的となります。以下は本論文の図3です。
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 羊毛質であることの遺伝的機序の証拠を探すため、マトンのコード領域内で観察された非同義変異の濃縮、つまりミスセンス多様体(アミノ酸が変わるような変異)と同義多様体との間の比率(dN/dS)の最尤依拠推定が用いられました。全てのイヌと外群で充分な配列網羅率のある11112個の遺伝子が評価され、選択候補特定は、マトンにおいてdN/dSが増加しているものの、PCD1個体を含めて他の3個体のイヌでは非同義変異を欠いている遺伝子に限定されました(図3B)。選択の検出力は基本的に単一のゲノムのみでは限られていますが、高い系統固有のdN/dS値を有している遺伝子の候補一式が特定されました。羊毛質犬では、正の選択の候補として125個の遺伝子が特定されました。これらのうち、28個には、毛の成長周期のモデルに基づいて毛の成長および毛包再生との妥当なつながりがあり、細胞複製や増殖や細胞外基質構成要素の形成や血管新生や関連過程と関連しています(図3C)。

 マトンにおける候補選択遺伝子にはKANK2が含まれ、これはヒトにおける毛幹の遺伝的疾患の原因となるステロイド伝達調節因子です。マトンにおける独特な非同義変異は、ヒトにおいて「羊毛質」的な毛の表現型を引き起こすKANK2変異と隣接するアミノ酸にあります。KRT77は、上皮と毛包において細胞の構造的統一性の原因となるケラチン遺伝子族の構成員です。ケラチン遺伝子の変異は、他のイヌやラットやマウスでは巻き毛の表現型、ヒトでは羊毛質的な毛と遺伝性脱毛と関連しており、ケナガマンモスでは複数のKRT遺伝子が選択を経ました。CERS3とPRDM5とHAPLN1は、ヒトにおいて皮膚もしくは結合組織の統一性維持と関連しています。GPNMBは表皮において複数の細胞機能に関わっており、色素沈着を媒介しているかもしれません。現生のイヌの品種において毛の特徴を関連づけた以前の文献から、15個の特定の多様体も手動で評価されました。長い毛をもたらす広範なFGF5変異とは別に、マトンは現時点でデータのある全事例で祖先的アレル(対立遺伝子)を示し、羊毛質犬の独特な表現型の独立起源を示しています。


●象徴的な品種の消滅への植民地政策の影響

 19世紀を通じての羊毛質犬の衰退は、完全には理解されていません。この地域への交易用毛布の流入が羊毛質犬の飼育放棄につながった、との言説は、複雑な仮定的状況を単純化しています。マトンの捕獲場所の可能性が最も高いステーロー地域では1857年(マトンの誕生の前年)まで、フォート・ラングリー(Fort Langley)における入植者の人口はわずか数十人の定住者で構成されていました。その翌年、33000人以上の採掘者が1858年のフレーザー川のゴールドラッシュ時に、現在のブリティッシュコロンビアに到来しました。この大規模な移住は、採掘者と植民地当局と先住民の間の紛争を引き起こしました。一方で、先住民集団は1830~1832年の間に推定で2/3に減少しました。1700年代から1862年にかけてほぼ1世代ごとの天然痘の流行は、BCのいくつかの村落先住民の90%以上を死に追いやり、おたふく風邪や結核やインフルエンザなど他のもたらされた疾患のため安定した人口の減少が伴いました。

 羊毛質犬の生存は、飼育者の生存に依存しました。疾患に加えて、拡大する植民地政策が文化的激変や先住民の置換や品種を管理する能力の低下を増大させました。政策は先住民の統治と固有の権利を標的とし、先住民の文化観光の意図的な公民権剥奪と不法化をもたらしました。羊毛質犬と織物の知識の世話人である先住民女性は、とくに標的とされました。宣教運動は社会における字を製の役割を減少させ、1876年のインディアン法は地方統治への女性の参加を明示的に禁止し、女性の基本的な財産権を否定し、その活動を制限しました。20世紀には、文化的知識の伝達は、子供を家族から引き離し、文化を抑圧するために設計された強制的な寄宿制教育によって、さらに妨害されました。

 植民地政策のこれら相次ぐ波を通じて、羊毛質犬の飼育や毛の加工や紡績や織物と関連する重要な知識の伝達は妨害されました。2022年時点で95歳となるステーローの長老であるレナ・ポイント・ボルトン(Rena Point Bolton)は、彼女の曾祖母であるテツィミヤ(Th’etsimiya)がどのように、羊毛質犬を飼っていたものの、手放さざるを得なかったのか、「警察とインディアンの代理人と祭祀がいました。イヌは許可されませんでした。彼女(曾祖母)はイヌを処分しなくてはなりませんでした」と回想しています。イヌは高位と伝統的慣行を表しており、それはイギリスとその後にはカナダのしはいを脅かしたので、同化政策によって排除されました。織物の伝統は完全には失われず、それは、多くの文化的教育と専門的技術の継承が密かに行なわれたからでした。ボルトンは、「我々は伝統的な紡錘車(shxwqáqelets)で紡ぐことは許可されませんでした。ヨーロッパ式の紡錘車で紡ぐことはできましたが、伝統的な紡錘車(shxwqáqelets)で紡ぐことはできませんでした。織機を使用できず、それを持ち出してみヤスカ、博物館もしくは収集家に寄付しました(中略)ヨーロッパ人が到来し、我々を植民地化し、それが終わった時の世代で、地下に潜行したのはわずか数人でした。私の祖母と母はそのうちの2人でした」と述べました。

 PNWの人々が先祖の土地にどのように手をかけ、管理し、多様で高度に局所的な植物を栽培し、海洋性食料を獲得していたのか、論証する研究が増えつつあります。羊毛質犬も同様に、局所的で多様だったかもしれません。本論文は沿岸セイリッシュのイヌに焦点を当てましたが、PNWの非セイリッシュ人も羊毛質犬を飼っていました。たとえば、バンクーバー島西部のヌー・チャ・ヌヒ(Nuu-chah-nulth)人は、伝えられるところではより大きく、茶色や斑や黒色や灰色や白色を含めて、多様な毛色を有していた、さまざまな羊毛質犬を飼っていました。これらの違いは、18世紀と19世紀の探検家によって記されているように、人口集団に固有だったか、広範な表現型の多様性の結果だったかもしれず、さまざまな先住民共同体間の交易を反映しています。

 織物と羊毛質犬は沿岸セイリッシュの文化と社会に絡み合っており、それは祖先の故地の長期にわたる管理かに分離できません。織物職人と芸術家と長老は、伝統的もしくは慣習的な織物の知識と慣行の再生を促進し続けています。スヌネイムクスの芸術家であるエリオット・クウラスルトゥン・ホワイト=ヒル(Eliot Kwulasultun White-Hill)は、「ある意味で、狩猟採集民社会としての我々に関する人々の理解の解明が始まっています(中略)羊毛質犬との我々の関係、カマス畑や二枚貝の養殖所との我々の関係、土地や森林の手入れ(中略)これらは全て、人々が沿岸セイリッシュ文化について当然と考えているものよりずっと複雑な体系を示します」と述べました。


参考文献:
Lin AT. et al.(2023): The history of Coast Salish “woolly dogs” revealed by ancient genomics and Indigenous Knowledge. Science, 382, 6676, 1303–1308.
https://doi.org/10.1126/science.adi6549

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