Reza Aslan『人類はなぜ<神>を生み出したのか?』
レザー・アスラン(Reza Aslan)著、白須英子訳で、文藝春秋社より2020年2月に刊行されました。原書の刊行は2019年です。電子書籍での購入です。本書は、人類史における「神」というか「宗教」の起源を検証し、その対象範囲は先史時代から歴史時代まで、現生人類(Homo sapiens)に留まらず、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)にまで及んでいます。考古学や古人類学や宗教学や歴史学などひじょうに広範囲の分野を扱うだけに、各分野の専門家からの批判もあるでしょうが、視点と論理の一貫性の観点からは、こうした大きな問題に取り組む本を単独で執筆する意義もあるのではないか、とも思います。
宗教の起源の痕跡として本書が重視するのは埋葬で、死者は霊魂として別の境域にいる、つまり来世を認識していることが表れている、というわけです。本書は、現生人類だけではなく、ネアンデルタール人やホモ・エレクトス(Homo erectus)もこの点では共通していた、と指摘しますが、ネアンデルタール人は埋葬を行なっていた可能性が高いとしても、ホモ・エレクトスについては、まだその確たる証拠は得られていないように思います。こうした霊魂はやがて、他の生物や星や山などに宿ることができる精霊となり、人格化されて名前を与えられ、神話が生まれ、神々として崇拝されます。あらゆる事物に「霊魂」は宿る、との認識こそ心の世界の本質で、このアニミズムは人類最古の宗教と呼べそうな発想だった可能性が高い、と本書は指摘します。本書は、神的存在を人格化したい自然な衝動が人類にはあることを指摘します。
本書は先史時代における信仰の痕跡として洞窟壁画も重視しており、それが有名なヨーロッパだけではなく、オセアニアやワラセアでも見られることを指摘しています。なお本書は、スペインのエル・カスティーヨ(El Castillo)洞窟の壁画が現生人類の所産と推測していますが、少なくとも40800年以上前の壁画については、41000年以上前のエル・カスティーヨ洞窟の堆積物でネアンデルタール人系統のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されているので(関連記事)、ネアンデルタール人の所産である可能性も考えられます。本書は先史時代の洞窟壁画について、ほとんどは人類の居住が適していない場所に描かれていることを重視し、画像化された神話になっていた可能性を指摘します。
こうした洞窟壁画には半人半獣像も描かれており、本書はこれを、人類史における最古級の神としての「獣たちの王」と呼んでいます。この「獣たちの王」は後世にまで広く信じられ、完新世にはユーラシア大陸からアメリカ大陸まで広く見られ、本書は「原始的アニミズム」から完新世の「獣たちの王」のような高度な信仰体系がどのように形成されていったのか、更新世までさかのぼって検証します。本書は、インドネシア領のスラウェシ島の4万年以上前の具象的な洞窟壁画の事例から、そうした慣習がさらにさかのぼる可能性を指摘しますが、最近、スラウェシ島の具象的な洞窟壁画の年代が5万年以上前までさかのぼる可能性を示した研究(関連記事)により、本書の見解が改めて裏付けられています。さらに本書は、ネアンデルタール人の洞窟壁画(関連記事)や洞窟深部の建造物(関連記事)の事例から、こうした宗教感情の起源が現生人類の出現以前にさかのぼる可能性を指摘します。ただ本書は、宗教が本質的に社会の協調関係を促進するわけではなく、人類の進化において一様に適応度を高めたわけではなく、他の既存の進化的適応において偶然に生じた副産物だったかもしれない、と推測します。
そこで本書が注目するのは、「過敏な動作主探知装置(Hypersensitive Agency Detection Device、略してHADD)」です。狩猟採集の過程で、人類は予期せぬ出来事の背後にヒト的な動作や動機を感じ取るようになり、これは進化の過程で利点だった可能性があり、この警戒心のおかげで、たとえば樹木の幹を捕食者や敵対者と誤判断することが頻繁にあったとしても、脅威を避けられる可能性が高まった、というわけです。これは潜在的脅威に対する無意識の反応でしたが、神を信じる上での基盤となりました。このHADDおよび同様に生得的な「心の理論」により、人類は樹木の幹などにも人類の心(魂)を見いだすことがあります。しかし、それが信仰体系の形成に至る詳細な過程については、まだ説明が困難です。
人類史において農耕の開始が重要な転機だったことは、多くの人が認めるところでしょう。本書も、農耕開始が人類を大きく変えた、と指摘します。農耕により時間の観念が発達し、牧畜も始まり、地球を共有する動物との不思議な連帯感は地球そのものへの連帯感へと移行した、というのが本書の見通しです。本書は、この過程で人類が男性の神々を連想させる天界から、母なる女神としての地球へと信仰の対象を変えていった、と指摘します。この過程で、生贄として奉げられた神から被造物が生まれ出る、という概念が初めて生じ、それはキリスト教の聖体拝領などにも継承された、と本書は把握します。一方で、農耕の開始により個人の健康状態は悪化する傾向にあったことも、本書は指摘します。本書は、農耕の開始が信仰においても革命をもたらし、自然の改変によって人類は初めて、自身が宇宙の一部ではなく中心と想定し始めた、と把握しています。これによって、原始的なアニミズムから組織化された宗教への大規模な移行が起きたのではないか、というわけです。この過程で、人間に似た神を作ろうとする意識的努力の結果、「神」は事実上人間になった、と本書は把握します。
農耕に続いて人類史で大きな転機となったのが文字の発明で、神的存在を人格化せずにはいられない、現生人類(以外の人類も含まれるかもしれませんが)の認知に深く根づいた衝動が顕在化した、と本書は指摘します。世界で最初に文字を開発して使用したメソポタミア文化では、主要な神の大半は特定の都市国家と結びついていました。神の人格化はエジプト文化やインド・ヨーロッパ語族集団でも進みますが、古典期ギリシアにおいて神々の基本的性質の見直しが始まります。それは、外観でも本性でも人間とはまるっきり違う、不変の特異な存在としての「唯一の神」を求める動向でした。こうした後の一神教とも共通要素のある神の観念の変容では、エジプトのアクエンアテン(アメンヘテプ4世)が有名で、本書でも取り上げられていますが、「最初の一神教」の試みは挫折します。本書は史上2番目の一神教体制導入の試みとして、ゾロアスター教を挙げます。ただ、ゾロアスター教の「開祖」とされるザラスシュトラの年代について、本書は紀元前1100年頃としますが、紀元前千年紀前半の方が有力なようです。本書は、古代イラン高原における神々の他の文化と異なる特徴として、自然界の基本要素の神格化ではなく、特定の部族にも都市国家にもつながっておらず、「真理」や「善」や「正義」といった抽象的概念が擬人化されていたことを挙げています。
本書は、人類の宗教史において一神教の歴史がわずか3000年間ほどしかないことを強調します。一神教は唯一の神を崇拝し、他の神々を否定することが特徴で、それは一人の神を崇拝するものの、他の神の存在も前提とする拝一神観(モノラトリー)とは異なり、一神教は強要を伴うことが多い、と本書は指摘します。一神教は容易に受け入れられず、多くの人々に受容されたのは、神々を認めつつ、そのなかで首位に立つ神を認める、単一神教(ヘノセイズム)でした。本書はこれを、神的存在を人格化したい無意識の衝動の結果と関連づけます。ただ、単一神教には、1人の神が他の神々の属性を引き受けることになり、最高神の特性と矛盾し、整合性を失いかねない危険性があり、故に単一神教が一神教へと変容することは滅多にない、と本書は指摘します。この矛盾の解消法の一つは、古典期ギリシアの一部知識人のように、神を非人間化することです。
一神教形成の歴史で本書が重視するのは、当然ではありますがユダヤ教で、バビロン捕囚時に、ユダヤ人の守護神であるヤハウェも敗北し、消え去る運命だったのに、母国から追放されたユダヤ人には小さな宗教改革集団が存在しました。この改革派は、エルサレムの崩壊と自身の追放はヤハウェの計画の一部で、バビロニアから新たにもたらされたマルドゥクを信仰しようとするユダヤ人は、ヤハウェにより罰されるのではないか、と考えました。それまでのユダヤ人は、自らの重要な出自であるカナン人の神「エル」と混合して一体化した、モーセに由来する(とされている)ミデヤンの神「ヤハウェ」を信仰していましたが、それは一神教ではなくせいぜい拝一神観でした。バビロン捕囚による自身の悲惨な敗北を合理化するため、ユダヤ人において一神教が形成された、というのが本書の見通しです。
この一神教としてのユダヤ教から派生したキリスト教においてイエスは神格化されますが、人間の神格化と神の人格化は表裏一体で、その意味では、イエスの神格化はこれまでの歴史の流れに沿ったものとも言えます。ただ本書は、イエスの神格化がそれまでの人間の神格化と異なるのは、大勢いる神の一人を人間が具現化したのではなく、唯一の神が一個人の人間として顕れたと考えられたことだ、と指摘します。これはキリスト教徒にとっても受け入れにくい概念で、イエスの位置づけをめぐってさまざまな公会議が開催されました。中には、イエスとヤハウェを分離する論者もいましたが、ローマ教会はユダヤ人の唯一絶対神観(モノセイズム)に拘り、それは神学的理由のみならず、政治的理由もあったかもしれない、と本書は指摘します。ローマの司教下の統治制度を確立しようとする側にとって、「唯一の神」と「唯一の司教」が好都合だった、というわけです。こうしたイエスの位置づけをめぐる初期キリスト教の混乱の妥協策が、325年のニカイア公会議で提示された「三位一体」だった、と指摘します。しかし、これでイエスの位置づけをめぐる混乱が収拾されたわけではなく、ヨーロッパにおいてキリスト教神学を方向づけたのは、4世紀後半~5世紀前半にかけて活動したアウグスティヌスでした。
キリスト教から6世紀ほど遅れて台頭した世界宗教がアラビア半島から勃興したイスラム教ですが、本書はその前提として、当時アラビア半島においてユダヤ教やキリスト教などさまざまな宗教の神々が自由に取り入れられており、それらの神々は唯一の神であるアッラーがさまざまな形で姿を顕しているものにすぎない、と考えられていたことを挙げています。こうした観念は、主要な神々がすべて仏の垂迹とされた、前近代日本の在り様(関連記事)と似たところがあり、本書でも「汎神論(パンセイズム)」としてさまざまな宗教の事例が取り上げられているように、現生人類にとって一般的な発想なのかもしれません。故に、ムハンマドがアッラーを森羅万象の唯一神と主張しても、神学的には大きな抵抗は起きませんでした。ただ、ムハンマドの言動が当時のアラブ人の宗教体制に二つの重要な刷新をもたらし、それによってメッカの支配層との間に不和が生じた、と本書は指摘します。それは、ムハンマドが、排他的一神教体制を明確に取り入れるよう主張したことと、アッラーをユダヤ教の神(ヤハウェ)と同一視したことです。ムハンマドの首長にはユダヤ教の影響がひじょうに大きく、イスラム教も独立した宗教として分岐する前にはユダヤ教の一派として始まった、と主張する歴史家もいるそうです。イスラム教には、ムハンマドが厳しく偶像崇拝を禁じながら、『クルアーン』では神を擬人化した描写が満ちている、という矛盾が存在し、神的存在を人格化しようとする現生人類(だけではなかったかもしれませんが)の生得的な衝動が不変であることを、本書は指摘します。こうした矛盾について、イスラム教の学者の大半は「戯言(カラーム)」と退けてきましたが、この矛盾に対する対処として現れたのが神秘主義(スーフィズム)だった、と本書は把握しています。この神秘主義の行きつくところが、「神」は存在するすべてに遍在している、との観念(汎神論)でした。
本書は人類の宗教史を壮大に描き出しており、冒頭で述べたように、扱う範囲が広大なだけに、各分野の専門家からは批判や異論も多く提示されるとは思いますが、単独執筆らしい筋の通った構成になっていると思います。ただ、対象範囲がおもに更新世のヨーロッパと完新世の広義の地中海世界(関連記事)で、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸への言及は少なく、後半はほぼセム系一神教の形成と展開をたどった歴史となっており、仏教やヒンズー教など他の宗教はごくわずかしか取り上げられていないので、そうしたところは単独執筆の限界と言えるかもしれません。それでも本書は、進化心理学的観点も踏まえつつ、壮大な人類の宗教史になっており、私にとっては、人類の進化の観点からも得るところが多々あって有益でした。
参考文献:
Aslan R.著(2020)、白須英子訳『人類はなぜ<神>を生み出したのか?』(文藝春秋社、原書の刊行は2019年)
宗教の起源の痕跡として本書が重視するのは埋葬で、死者は霊魂として別の境域にいる、つまり来世を認識していることが表れている、というわけです。本書は、現生人類だけではなく、ネアンデルタール人やホモ・エレクトス(Homo erectus)もこの点では共通していた、と指摘しますが、ネアンデルタール人は埋葬を行なっていた可能性が高いとしても、ホモ・エレクトスについては、まだその確たる証拠は得られていないように思います。こうした霊魂はやがて、他の生物や星や山などに宿ることができる精霊となり、人格化されて名前を与えられ、神話が生まれ、神々として崇拝されます。あらゆる事物に「霊魂」は宿る、との認識こそ心の世界の本質で、このアニミズムは人類最古の宗教と呼べそうな発想だった可能性が高い、と本書は指摘します。本書は、神的存在を人格化したい自然な衝動が人類にはあることを指摘します。
本書は先史時代における信仰の痕跡として洞窟壁画も重視しており、それが有名なヨーロッパだけではなく、オセアニアやワラセアでも見られることを指摘しています。なお本書は、スペインのエル・カスティーヨ(El Castillo)洞窟の壁画が現生人類の所産と推測していますが、少なくとも40800年以上前の壁画については、41000年以上前のエル・カスティーヨ洞窟の堆積物でネアンデルタール人系統のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されているので(関連記事)、ネアンデルタール人の所産である可能性も考えられます。本書は先史時代の洞窟壁画について、ほとんどは人類の居住が適していない場所に描かれていることを重視し、画像化された神話になっていた可能性を指摘します。
こうした洞窟壁画には半人半獣像も描かれており、本書はこれを、人類史における最古級の神としての「獣たちの王」と呼んでいます。この「獣たちの王」は後世にまで広く信じられ、完新世にはユーラシア大陸からアメリカ大陸まで広く見られ、本書は「原始的アニミズム」から完新世の「獣たちの王」のような高度な信仰体系がどのように形成されていったのか、更新世までさかのぼって検証します。本書は、インドネシア領のスラウェシ島の4万年以上前の具象的な洞窟壁画の事例から、そうした慣習がさらにさかのぼる可能性を指摘しますが、最近、スラウェシ島の具象的な洞窟壁画の年代が5万年以上前までさかのぼる可能性を示した研究(関連記事)により、本書の見解が改めて裏付けられています。さらに本書は、ネアンデルタール人の洞窟壁画(関連記事)や洞窟深部の建造物(関連記事)の事例から、こうした宗教感情の起源が現生人類の出現以前にさかのぼる可能性を指摘します。ただ本書は、宗教が本質的に社会の協調関係を促進するわけではなく、人類の進化において一様に適応度を高めたわけではなく、他の既存の進化的適応において偶然に生じた副産物だったかもしれない、と推測します。
そこで本書が注目するのは、「過敏な動作主探知装置(Hypersensitive Agency Detection Device、略してHADD)」です。狩猟採集の過程で、人類は予期せぬ出来事の背後にヒト的な動作や動機を感じ取るようになり、これは進化の過程で利点だった可能性があり、この警戒心のおかげで、たとえば樹木の幹を捕食者や敵対者と誤判断することが頻繁にあったとしても、脅威を避けられる可能性が高まった、というわけです。これは潜在的脅威に対する無意識の反応でしたが、神を信じる上での基盤となりました。このHADDおよび同様に生得的な「心の理論」により、人類は樹木の幹などにも人類の心(魂)を見いだすことがあります。しかし、それが信仰体系の形成に至る詳細な過程については、まだ説明が困難です。
人類史において農耕の開始が重要な転機だったことは、多くの人が認めるところでしょう。本書も、農耕開始が人類を大きく変えた、と指摘します。農耕により時間の観念が発達し、牧畜も始まり、地球を共有する動物との不思議な連帯感は地球そのものへの連帯感へと移行した、というのが本書の見通しです。本書は、この過程で人類が男性の神々を連想させる天界から、母なる女神としての地球へと信仰の対象を変えていった、と指摘します。この過程で、生贄として奉げられた神から被造物が生まれ出る、という概念が初めて生じ、それはキリスト教の聖体拝領などにも継承された、と本書は把握します。一方で、農耕の開始により個人の健康状態は悪化する傾向にあったことも、本書は指摘します。本書は、農耕の開始が信仰においても革命をもたらし、自然の改変によって人類は初めて、自身が宇宙の一部ではなく中心と想定し始めた、と把握しています。これによって、原始的なアニミズムから組織化された宗教への大規模な移行が起きたのではないか、というわけです。この過程で、人間に似た神を作ろうとする意識的努力の結果、「神」は事実上人間になった、と本書は把握します。
農耕に続いて人類史で大きな転機となったのが文字の発明で、神的存在を人格化せずにはいられない、現生人類(以外の人類も含まれるかもしれませんが)の認知に深く根づいた衝動が顕在化した、と本書は指摘します。世界で最初に文字を開発して使用したメソポタミア文化では、主要な神の大半は特定の都市国家と結びついていました。神の人格化はエジプト文化やインド・ヨーロッパ語族集団でも進みますが、古典期ギリシアにおいて神々の基本的性質の見直しが始まります。それは、外観でも本性でも人間とはまるっきり違う、不変の特異な存在としての「唯一の神」を求める動向でした。こうした後の一神教とも共通要素のある神の観念の変容では、エジプトのアクエンアテン(アメンヘテプ4世)が有名で、本書でも取り上げられていますが、「最初の一神教」の試みは挫折します。本書は史上2番目の一神教体制導入の試みとして、ゾロアスター教を挙げます。ただ、ゾロアスター教の「開祖」とされるザラスシュトラの年代について、本書は紀元前1100年頃としますが、紀元前千年紀前半の方が有力なようです。本書は、古代イラン高原における神々の他の文化と異なる特徴として、自然界の基本要素の神格化ではなく、特定の部族にも都市国家にもつながっておらず、「真理」や「善」や「正義」といった抽象的概念が擬人化されていたことを挙げています。
本書は、人類の宗教史において一神教の歴史がわずか3000年間ほどしかないことを強調します。一神教は唯一の神を崇拝し、他の神々を否定することが特徴で、それは一人の神を崇拝するものの、他の神の存在も前提とする拝一神観(モノラトリー)とは異なり、一神教は強要を伴うことが多い、と本書は指摘します。一神教は容易に受け入れられず、多くの人々に受容されたのは、神々を認めつつ、そのなかで首位に立つ神を認める、単一神教(ヘノセイズム)でした。本書はこれを、神的存在を人格化したい無意識の衝動の結果と関連づけます。ただ、単一神教には、1人の神が他の神々の属性を引き受けることになり、最高神の特性と矛盾し、整合性を失いかねない危険性があり、故に単一神教が一神教へと変容することは滅多にない、と本書は指摘します。この矛盾の解消法の一つは、古典期ギリシアの一部知識人のように、神を非人間化することです。
一神教形成の歴史で本書が重視するのは、当然ではありますがユダヤ教で、バビロン捕囚時に、ユダヤ人の守護神であるヤハウェも敗北し、消え去る運命だったのに、母国から追放されたユダヤ人には小さな宗教改革集団が存在しました。この改革派は、エルサレムの崩壊と自身の追放はヤハウェの計画の一部で、バビロニアから新たにもたらされたマルドゥクを信仰しようとするユダヤ人は、ヤハウェにより罰されるのではないか、と考えました。それまでのユダヤ人は、自らの重要な出自であるカナン人の神「エル」と混合して一体化した、モーセに由来する(とされている)ミデヤンの神「ヤハウェ」を信仰していましたが、それは一神教ではなくせいぜい拝一神観でした。バビロン捕囚による自身の悲惨な敗北を合理化するため、ユダヤ人において一神教が形成された、というのが本書の見通しです。
この一神教としてのユダヤ教から派生したキリスト教においてイエスは神格化されますが、人間の神格化と神の人格化は表裏一体で、その意味では、イエスの神格化はこれまでの歴史の流れに沿ったものとも言えます。ただ本書は、イエスの神格化がそれまでの人間の神格化と異なるのは、大勢いる神の一人を人間が具現化したのではなく、唯一の神が一個人の人間として顕れたと考えられたことだ、と指摘します。これはキリスト教徒にとっても受け入れにくい概念で、イエスの位置づけをめぐってさまざまな公会議が開催されました。中には、イエスとヤハウェを分離する論者もいましたが、ローマ教会はユダヤ人の唯一絶対神観(モノセイズム)に拘り、それは神学的理由のみならず、政治的理由もあったかもしれない、と本書は指摘します。ローマの司教下の統治制度を確立しようとする側にとって、「唯一の神」と「唯一の司教」が好都合だった、というわけです。こうしたイエスの位置づけをめぐる初期キリスト教の混乱の妥協策が、325年のニカイア公会議で提示された「三位一体」だった、と指摘します。しかし、これでイエスの位置づけをめぐる混乱が収拾されたわけではなく、ヨーロッパにおいてキリスト教神学を方向づけたのは、4世紀後半~5世紀前半にかけて活動したアウグスティヌスでした。
キリスト教から6世紀ほど遅れて台頭した世界宗教がアラビア半島から勃興したイスラム教ですが、本書はその前提として、当時アラビア半島においてユダヤ教やキリスト教などさまざまな宗教の神々が自由に取り入れられており、それらの神々は唯一の神であるアッラーがさまざまな形で姿を顕しているものにすぎない、と考えられていたことを挙げています。こうした観念は、主要な神々がすべて仏の垂迹とされた、前近代日本の在り様(関連記事)と似たところがあり、本書でも「汎神論(パンセイズム)」としてさまざまな宗教の事例が取り上げられているように、現生人類にとって一般的な発想なのかもしれません。故に、ムハンマドがアッラーを森羅万象の唯一神と主張しても、神学的には大きな抵抗は起きませんでした。ただ、ムハンマドの言動が当時のアラブ人の宗教体制に二つの重要な刷新をもたらし、それによってメッカの支配層との間に不和が生じた、と本書は指摘します。それは、ムハンマドが、排他的一神教体制を明確に取り入れるよう主張したことと、アッラーをユダヤ教の神(ヤハウェ)と同一視したことです。ムハンマドの首長にはユダヤ教の影響がひじょうに大きく、イスラム教も独立した宗教として分岐する前にはユダヤ教の一派として始まった、と主張する歴史家もいるそうです。イスラム教には、ムハンマドが厳しく偶像崇拝を禁じながら、『クルアーン』では神を擬人化した描写が満ちている、という矛盾が存在し、神的存在を人格化しようとする現生人類(だけではなかったかもしれませんが)の生得的な衝動が不変であることを、本書は指摘します。こうした矛盾について、イスラム教の学者の大半は「戯言(カラーム)」と退けてきましたが、この矛盾に対する対処として現れたのが神秘主義(スーフィズム)だった、と本書は把握しています。この神秘主義の行きつくところが、「神」は存在するすべてに遍在している、との観念(汎神論)でした。
本書は人類の宗教史を壮大に描き出しており、冒頭で述べたように、扱う範囲が広大なだけに、各分野の専門家からは批判や異論も多く提示されるとは思いますが、単独執筆らしい筋の通った構成になっていると思います。ただ、対象範囲がおもに更新世のヨーロッパと完新世の広義の地中海世界(関連記事)で、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸への言及は少なく、後半はほぼセム系一神教の形成と展開をたどった歴史となっており、仏教やヒンズー教など他の宗教はごくわずかしか取り上げられていないので、そうしたところは単独執筆の限界と言えるかもしれません。それでも本書は、進化心理学的観点も踏まえつつ、壮大な人類の宗教史になっており、私にとっては、人類の進化の観点からも得るところが多々あって有益でした。
参考文献:
Aslan R.著(2020)、白須英子訳『人類はなぜ<神>を生み出したのか?』(文藝春秋社、原書の刊行は2019年)
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