中世シチリア島のイスラム教徒とキリスト教徒との間の遺伝的差異と生活の類似
中世シチリア島の人類集団の学際的分析結果を報告した研究(Monnereau et al., 2024)が公表されました。本論文は、中世シチリア島西部に位置するセジェスタ(Segesta)遺跡のキリスト教徒とイスラム教徒の中世の墓地被葬者の、放射性炭素年代測定結果とゲノムデータと同位体データを報告しています。この学際的分析により明らかになったのは、中世シチリア島のキリスト教徒は、イスラム教徒とは遺伝的に異なったままだったのに、食性は実質的に同じだったことです。シチリア島では中世に政治勢力の交代が相次ぎましたが、経済制度は存続したようです。ヨーロッパでは古遺伝学や考古学などによる学際的研究が先史時代でも歴史時代でも盛んになりつつあり、日本でも同様の学際的研究が進展するよう、日本人の一人として期待しています。
●要約
シチリア島の中世は、ビザンツ帝国(ギリシア正教)やアグラブ朝(イスラム教スンニ派)やファーティマ朝(イスラム教シーア派)からノルマン人やシュヴァーベン公国(カトリック)まで、政権交代が続くなど動乱の時代でした。政権交代の局所的影響に新たな光を当てるため、シチリア島西部のセジェスタ遺跡の隣接するイスラム教徒とキリスト教徒の墓地に埋葬された27個体の学際的分析が行なわれました。放射性炭素年代測定とゲノム規模配列決定と安定および放射性同位体データと考古学的記録を組み合わせることによって、二つの共同体間の遺伝的差異が明らかになりましたが、生活の他の側面での連続性の証拠が見つかりました。
歴史学および考古学の証拠は、イスラム教徒の共同体はノルマン人支配期の12世紀までに存在し、キリスト教徒の集落はシュヴァーベン公国支配下の13世紀に現れました。埋葬の放射性炭素年代のベイズ分析により、キリスト教徒墓地の建造後に起きた可能性が高い、イスラム教徒墓地の放棄が見つかり、両方【キリスト教とイスラム教】の信仰の個体群が13世紀前半にこの地域に存在した、と示唆されます。生体分子の結果から、キリスト教徒がセジェスタのイスラム教徒共同体とは遺伝的に異なったままだったのに、食性は実質的に同様だった、と示唆されます。本論文は、中世の政権交代が政治的中心部以外に大きな影響を及ぼし、経済制度が存続し、新たな社会的関係が出現しながら、人口統計学的変化につながった、と論証します。
●研究史
農耕の肥沃さと地中海中央部における戦略的位置のため、シチリア島は長く多様な人々を惹きつけてきました。中世(5~13世紀)には、ローマ人やギリシア人やビザンツ人やイスラム教徒やカトリック教徒のヨーロッパ北部人が支配を巡って争いました。827年に、アグラブ朝(イスラム教スンニ派)の軍隊がアフリカ北部からマツァーラ(Mazara)に到来し、910年までシチリア島全体を征服しました。910年以降、アフリカ北部から到来したファーティマ朝のシーア派イスラム教徒が権力を求め、948年にカルビド(Kalbids)家のファーティマ朝が支配を掌握しました。ファーティマ朝は948~1053年に、帝国の繁栄した州を創設し、パレルモ(Palermo)を首都としました。1061年に、オートヴィル(Hauteville)家に率いられたノルマン人キリスト教徒がメッシーナ(Messina)に侵攻し、ルッジェーロ2世(Roger II)とその後継者の下で1130~1189年にシチリア王国を建てました。1194年には、ホーエンシュタウフェン(Hohenstaufen)朝により率いられたシュヴァーベン公国が王国の支配を掌握し、世界の驚異(stupor mundi)と呼ばれたフリードリヒ2世が1250年に死ぬまで支配しました。
政権交代のこれらのよく記録された歴史はこの期間の地政学的背景を提供しますが、社会と経済の影響の多くはずっと少なくしか認識できません。年代記で目立つエリートはおもに、軍事力と富と権威を通じて政治的および宗教的支配を求めましたが、大衆に与えた影響はとても明確ではありません。歴史資料から、イスラム教徒とキリスト教徒との間の結婚はシチリア島とスペインの両方であったものの、それに反対する試みもあった、と示唆されています。たとえば、ファーティマ朝では973年に、イスラム教徒の旅人であるイブン・ハウカル(Ibn Hawqal)が、シチリア島西部における広範な文化変容を観察しており、イスラム教徒とキリスト教徒との間の混合婚がありました。異教徒間の結婚がその後のノルマン王国/シュヴァーベン公国期にどの程度あったのかは、さらなる調査を必要とする問題のままです。さまざまな媒介変数がこの現象を観察するために使用でき、それには、社会的規範の有用な指標として機能できる、これらの個体の遺伝学的証拠や料理および食性の特徴が含まれます。
ヒト遺骸は、こうした政治的動乱の時代を生きた非エリートの、生活様式や遺伝的および文化的類似性に関する情報の直接的な供給源を提供します。そのためヒト遺骸は、食性パターンは居住地の移動性や遺伝的多様性や親族関係を明らかにする生体分子技術の適用を通じて強化された、強力で独立した証拠の供給源を提供します。本論文はこれらの手法を用いて、12~13世紀にノルマン王国およびシュヴァーベン公国の支配下にあった、シチリア島西部のトラーパニ(Trapani)市のセジェスタ遺跡の隣接する墓地に埋葬された異なる信仰の共同体を調べます(図1a)。ギリシア劇場の端に位置するイスラム教徒の墓地は、75ヶ所の埋葬から構成され、被葬者の顔はメッカの方へ南東を向いていました。その約60m南西には、キリスト教徒墓地が元々は1200年頃に建造された教会の西側に位置しています。キリスト教徒墓地は57基の石造りの墓の複葬で構成されており、被葬者は腕を組んで乱されず仰向けで横たわっていました。以下は本論文の図1です。
本論文は、イスラム教とキリスト教の儀式で埋葬された個体群の分析によって、セジェスタ遺跡の年表の解明、および食性と移動性と遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を通じてその生活様式の側面の比較を目指しました。祖先系統と食性と信仰の間の相関が歴史時代の人口集団で直接的に調べられることは稀で、劇的な政治的移行期における人口統計学と経済と文化の変化の程度の記録はとくに珍しいことです。この目的を達成するため、イスラム教伝統(9個体)とキリスト教伝統(18個体)で埋葬された27個体が、多代理生体分子分析のため選択されました。
この27個体のうち、食性の違いの可能性を評価するための炭素(C)および窒素(N)の安定同位体分析は全員、移動性の水準評価のためのストロンチウム(Sr)と酸素(O)の同位体は17個体が分析され、25個体は墓地の年表改訂のため海洋貯蔵効果を考慮しつつ放射性炭素年代測定されました。イスラム教徒墓地の9個体と、キリスト教徒墓地の18個体のうち、それぞれ8個体と13個体がゲノム規模検査のため評価され、シチリア島のギリシア人の植民地時代だった頃の人類のゲノムデータ(関連記事)など、古代ゲノムデータセット(関連記事)と統合され、遺伝的類似性や人口統計学的連続性やそれぞれの墓地内および両墓地間の親族関係の可能性が調べられました。
●年表と親族関係と祖先系統
セジェスタにおいて同時代に暮らしていた共同体に由来するのかどうか、確証するために、2ヶ所の墓地の埋葬間の年代関係が調べられました。イスラム教徒墓地の9個体とキリスト教徒墓地の16個体から構成される、合計25個体の骨コラーゲンの直接的な加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)年代測定から、イスラム教徒墓地の方がキリスト教徒墓地より早く始まった、と示唆されます(図1b)。ベイズ年代順モデル化では、イスラム教徒の埋葬が770~990年頃(95%の確率、図1b)に始まり、1190~1380年頃に終焉したのに対して、キリスト教徒の埋葬は1140~1220年頃に始まり、1270~1330年頃に終焉した、と推定されます。事後分布の形式的比較から、キリスト教徒の埋葬行為がイスラム教徒の埋葬行為の終焉の前に始まった確率は99.3%と示唆され、そこから、イスラム教徒とキリスト教徒の両共同体は13世紀初頭の一定期間同時に存在した可能性が高い、と結論づけられます。
これらの結果は、キリスト教徒の信山社の到来後に、イスラム教徒はその近くで暮らし続けた、という考古学的証拠を訪韓します。たとえば、セジェスタ遺跡のノルマン人の城から離れた場所で発見された建造物は、この城遺跡でイスラム教徒が取って代わった期間に使用されていた形式である、荒削りの石を土で固めた平面図と建築技術を採用していました。同様に、SAS5地域の居住地水準の発掘から、ハインリヒ6世(シチリア王としての在位は1194~1197年)と反乱軍指導者であるムハンマド・ブン・アッバード(Muhammad Ibn Abbād、1220年頃)両方の硬貨の発見につながりました。
骨格資料のDNA解析を用いて、個体群において遺伝的性別と親族関係が評価されました。AMS年代測定された個体のうち21個体でヒト内在性DNAの抽出に成功し、得られた配列の0.3~42.6%(平均15.4%)を占めており、0.00~1.85倍(平均0.48倍)の核ゲノム網羅率の深度が得られました。DNAの損傷特性と汚染推定値は、最小限のヒトによる汚染のDNA劣化と一致していました。遺伝的性別は成人骨格の骨学的評価とほぼ一致し、例外は個体SGBN9で、骨学的誤認と推定されます。非成人の遺伝的性別から、イスラム教徒墓地の子供1個体が遺伝的に男性(XY)で、キリスト教徒墓地の子供のうち、1個体は遺伝的女性(XX)であり、他の子供7個体は遺伝的に男性(XY)だった、と示されました。
墓地内および墓地間の生物学的親族関係を特定するため、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)ソフトウェアを用いて、核DNAの一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を通じて、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体のハプロタイプ)や1~3親等の親族関係が調べられました。多くの共有されたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と)Y染色体ハプログループ(YHg)は両墓地内の生物学的親族関係を浮き彫りにしましたが、家族関係はキリスト教徒墓地内の核DNAを用いてのみ確証されました。これは個体SGBN 18/ SGBN 19とSGBN 20との間の1親等の関係(つまり、親子かキョウダイ)と特定され、男性乳児は全員17号墓に埋葬されており、同様の年代(SGBN18は1215~1365年前頃、SGBN19は1195~1305年頃、SGBN20は1225~1385年頃)です。配列は3点の完全な錐体骨から得られたので、遺伝学と骨学のデータを組み合わせると、SGBN18とSGBN19(右の錐体骨と左の錐体骨)は同一個体もしくは双子である可能性が高い(以後、両者はSGBN18_19としてともに分析されました)のに対して、SGBN20はキョウダイだった、と示唆されます。他に親族関係(つまり、1~3親等)は識別できませんでした。
次に、片親性遺伝標識が調べられました。ほとんどの個体は、ユーラシア全域に広く分布しているmtDNAハプロタイプを有していましたが、イスラム教徒墓地に埋葬されたSGBN2のmtDNAハプロタイプはL3e5で、これはおもにサハラ砂漠以南のアフリカで見られます。Y染色体ハプロタイプは墓地間の差異を示唆しており、イスラム教徒墓地の個体群はアフリカ北部と関連する(関連記事)E1b1b1b1a(M81)およびE1b1b1b1(M310.1)と、地中海東部と関連するJ2b2a(M241)だったのに対して、キリスト教徒墓地に埋葬された9個体のうち4個体はR1b1a1b(M269)で、これは現在ではおもにヨーロッパ西部で見られるYHgです。
祖先系統のより詳細な調査を行なうため、少なくとも1万ヶ所以上の塩基転換(transversion、ピリミジン塩基とプリン塩基との間の置換)SNPがヒト古ゲノミクスで使用されるヒト起源SNP区画(関連記事)と重複する、ゲノム規模データが分析されました。3段階の地理的水準の調査を使用し、AADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)で利用可能な現代の人口集団の多様性(関連記事)に古代の個体群を投影することによって、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。
141の現代の人口集団の世界規模の区画に対して、セジェスタ遺跡個体群はヨーロッパとアフリカ北部により表されるPCA空間内に収まり、例外は個体SGBN2で、サハラ砂漠以南のアフリカの人口集団の多様性内に収まる、と観察されました。分析を現代のユーラシアおよびアフリカ北部の人口集団に限定すると、イスラム教徒墓地の個体群は相互に類似性を示し、ヨーロッパ南部とヨーロッパ南東部とアフリカ北部と近東の現代の人口集団間に位置し、近東の人口集団には近東とアフリカ北部のユダヤ人集団が含まれる、と観察されました(図2a)。
1個体SGBN7は、近東の人口集団とアフリカ北部の現代の人口集団との間に位置します。キリスト教徒墓地に埋葬された個体群はPCA空間では離れて位置し、一般的にヨーロッパの東部と南部と南東部と西部の現代の人口集団に近くに位置しました。これらの結果はイスラム教徒墓地とキリスト教徒墓地の集団間の遺伝的差異を示唆しており、一方の墓地の個体が他方の墓地の個体とより強い遺伝的類似性を有している事例はありません。利用可能な個体は男性に偏っていた一方で、キリスト教徒墓地の子供の数は、異教徒間の結婚による子供を特定する機会を提供しましたが、そうした子供は検出されませんでした。
ユーラシアとアフリカ北部の規模で調査を続け、シチリア島の鉄器時代のシカニ(Sicani)文化関連個体群(関連記事)との中世シチリア島のイスラム教徒墓地およびキリスト教徒墓地個体群の類似性が評価され、キリスト教徒墓地個体群は古代シチリア島の鉄器時代個体群により占められているPCA空間と重なっていた、と分かりました。個体SGBN2をアフリカの人口集団の文脈で調べると、アフリカ西部および東部の集団とともに位置する、と観察されます(図2b)。以下は本論文の図2です。
キリスト教埋葬儀式を受けた個体と比較してのイスラム教伝統で埋葬された個体間の祖先系統における差異が、ADMIXTUREおよびF統計でさらに調べられました。ADMIXTURE分析から、古代のモロッコとサハラ砂漠以南のアフリカの祖先系統がおもに、イスラム教の儀式で埋葬されたセジェスタ遺跡の個体群内に存在する、と示唆されました(図2c)。外群F₃統計(X、現代と古代の人口集団;北部ジュホアン人)が適用され、セジェスタ遺跡の、キリスト教の儀式下で埋葬された古代の個体群とイスラム教の儀式下で埋葬された古代の個体群、および以前に刊行された古代の現代の人口集団との間で、人口類似性が調べられましたが、有意な類似性は確定されず、それはデータセットにおける塩基転換数の少なさの結果である可能性が高そうです。
●生活様式と食性と移動性
次に、セジェスタ遺跡における食性の生活様式で識別できる違いがあったのかどうか、仮にあったのならば、信仰および祖先系統と相関しているのかどうか、判断されました。安定動態分析を通じての食性調査は、長期の習慣的傾向や経済的慣行や社会的地位を反映しており、それらは全て、単一地域において文化的に異なるかもしれません。この手法は、中世社会の異なる信仰集団(たとえば、キリスト教徒とイスラム教徒)の個体間の食性の違いの判断に採用されてきました。たとえば、骨コラーゲンの窒素(δ¹⁵N)と炭素(δ¹³C)の安定同位体値の違いは、13~16世紀の地中海イベリア半島沿岸のガンディア(Gandia)の多信仰共同体内で指摘されており、イスラム教徒はキリスト教徒と比較して食性では海水魚とC₄植物(たとえば、キビやモロコシやサトウキビ)をより多く消費し、おそらくは陸生動物やC₃植物(この時点での穀類やマメ科植物)などの資源への社会的に制限されていた利用権を反映しています。
セジェスタ遺跡では、AMS年代測定およびゲノム解析で選択された部位と比較して、わずかに多い数のヒト遺骸のから得られた安定同位体分析のため、コラーゲンが抽出され、それは部分的には、より信頼できる人口集団の比較のためでしたが、標本の利用可能性のためでもあります。注目すべきことに、乳児の食性はより広く異なっており、部分的には母乳育児の影響を反映しています。古代DNAの保存状態が良好なため優先的に標的とされる錐体骨は、比較的低い置換率のため、乳児の食性慣行を反映しているかもしれません。重要なことに、イスラム教伝統とキリスト教の伝統下で埋葬された成人間のコラーゲンのδ¹⁵Nとδ¹³C量に、食性の慣習的違いに起因して予測されるかもしれないような、有意な違いはありませんでした(図3a・b)。1個体(SGBN24A)を除く全個体は、C₃植物もしくはC₃植物を食べる陸生動物により占められる食性を示し、マツァーラの10~13世紀の陸生動物相と比較すると、コラーゲン¹³Cにおける有意な濃縮はありませんでした。シチリア島全域の考古植物学遺骸に反映されているように、C₄穀物(キビやモロコシ)の欠如はシチリア島のこの期間で予測されますが、海洋性食料の明らかな欠如は、セジェスタ遺跡が沿岸に近い(約10km)ことを考えると、興味深い事例です。以下は本論文の図3です。
食性をさらに調べるため、より高解像度の化合物特有手法を用いて、成人13個体のコラーゲンから加水分解されたアミノ酸δ¹⁵N値が測定され、このうち5個体がイスラム教徒埋葬、8個体がキリスト教徒埋葬に由来します。アミノ酸は、骨の大量のタンパク質よりも、食性の供給源をたどることができ、より精密かつ正確に定量化される食性供給源の寄与の推定を可能とします。これらのうち、フェニルアラニン(phenylalanine、略してPhe)とグルタミン酸(d glutamic acid、略してGlu)は、栄養状態および海洋性タンパク質消費の程度をより適切に判断するために用いられてきました。このより高解像度の手法を用いても、異なる信仰の被葬者間で識別可能な違いはなく(図3c)、個体の大半は、陸生の植物および動物が優占する食性を示唆する、Glu/Pheのδ¹⁵N値の間隔を有しており、1個体(キリスト教徒埋葬のSGBN15)のみが生涯において海洋性食料をより多く利用していました。この手法を用いて、個体SGBN24のコラーゲンで示された¹³Cの濃縮は、その比較的低い栄養状態のため、海洋性食料ではなく、C₄植物もしくはC₄植物を食べた動物の消費に由来する可能性が最も高いことも確証できます。
歯の標本が利用可能な選択された個体のストロンチウムと酸素の同位体分析の実行により、居住地の移動に関する情報も得られました(図4)。シチリア島の両同位体【ストロンチウムと酸素】の予測される局所的範囲と比較すると、イスラム教とキリスト教どちらの共同体でも、広範な移動の説得力のある証拠はないようです。キリスト教徒墓地の個体群はより広範なストロンチウム同位体比を有しており、それは全体的に、キリスト教徒墓地の個体群の起源がより広範な地域にあることを示唆しているかもしれません。以下は本論文の図4です。
キリスト教徒墓地に埋葬された1個体(SGBN24A)はストロンチウム同位体の外れ値で、その食性ではより高い割合のC₄食料も有しており、外来者だった、との説得力のある証拠を提供します。これは例外で、残りの個体のストロンチウム同位体比はシチリア島の範囲内にある値を反映しているものの、地中海やじっさいヨーロッパ全域の多くの地域でも共有されているので、一定水準の移動はイスラム教とキリスト教のどちらの期間でも除外できません。すべてのδ¹⁸O値も、他の地中海南部の値や、じっさいシチリア島の他の古代の個体群の測定値とも一致します。しかし、注目すべきことに、キリスト教徒墓地の個体群はイスラム教徒墓地の個体群と比較してより高いδ¹⁸O値を有しており、これが示しているのは、その起源の何らかの違いか、おそらく最も可能性が高いのは、ストロンチウム同位体値の違いの欠如を考えると、異なる飲料用水源の利用です。
●中世初期セジェスタ遺跡の多信仰共同体
歴史学と考古学と生体分子の研究を組み合わせて、中世セジェスタ遺跡に埋葬された人口集団に適用すると、共同体と異教徒間の動態を解明できるようになりました。本論文は多代理分析の結果に基づいて、セジェスタ遺跡の共同体が12世紀後期と13世紀初期にそれぞれの墓地を同時に使用していたならば(考古学的発見と利用可能なデータかせは、その可能性がひじょうに高そうです)、本論文で分析されたイスラム教の儀式とキリスト教の儀式で埋葬された個体における異教徒間の結婚もしくは生物学的関係は、殆ど若しくは全くなかった、と提案します。キリスト教徒の埋葬は、シチリア島をイスラム教徒が支配していた期間を通じても明らかにありました。セジェスタ遺跡では、シチリア島のシュヴァーベン公国支配期の遺伝的データは、共同体間の遺伝的均質性の欠如と一致し、キリスト教徒はヨーロッパ現代人とより密接に類似しています。興味深いことに、ストロンチウムと酸素のデータから、1個体を除いて、キリスト教徒の個体が子供期にシチリア島以外に居住していた証拠はほとんどないので、キリスト教徒の個体は前世代の移民の子孫だったかもしれない、と示唆されます。あるいは、この地元の兆候は鉄器時代からノルマン王国期のシチリア島におけるキリスト教徒集団の連続性の結果かもしれませんが、この仮説の調査には、複数の遺跡の個体のより大きな標本規模が必要でしょう。
セジェスタ遺跡の遺伝的データは、シチリア島におけるイスラム教徒とキリスト教の共同体の長期の共存を考えると、驚くべきことかもしれません。ノルマン人の支配は11世紀中期以降シチリア島で行なわれており、シュヴァーベン公国の統治は12世紀末以降ですが、これはまいそう儀式の考古学には反映されていません。セジェスタ遺跡の放射性炭素年代測定から、イスラム教の儀式での埋葬は9~13世紀にかけて行なわれており、多くの異教徒がフリードリヒ2世の治世下で追放された13世紀半ば以後にやっと消滅した、と示されてきました。かなりの祖先系統を共有しているかもしれないアラブ人とベルベル人の集団の区別が難しいことを考慮に入れたとしても、ノルマン人の侵入から1世紀以上経過したセジェスタ遺跡におけるキリスト教埋葬の個体の大半は、イスラム教埋葬の個体群と依然として明確に区別できます。
さらに、以前の古代都市内の埋葬地と居住地域の近さから、イスラム教徒とキリスト教徒は隣接する空間に居住し、市場の利用は同様だった、と示唆されます。この見解は、イスラム教徒とキリスト教徒の共同体がイスラム教支配期とノルマン王国期を通じて町と村で共存していた、と示すノルマン王国期の個人名と土地記録の研究により裏づけられます。イスラム教徒とキリスト教徒は町の異なる地区に居住し、別の墓地に埋葬されましたが、社会的関係はありました。たとえば、1184年には、スペインのイスラム教徒の旅人であるイブン・ジュバイル(Ibn Jubayr)は、イスラム教徒とキリスト教徒との間の異教徒間結婚の事例を観察しており、これはおもに、イスラム教徒の男性とキリスト教徒の女性との間の結婚でした。イブン・ジュバイルは、村落のイスラム教徒が広大な土地でキリスト教徒とともに暮らし、キリスト教徒からの待遇がよかったことも報告しました。パレルモのキリスト教徒の女性は、イスラム教徒のような服装で、流暢なアラビア語を話していました。信仰者間の社会的隔たりは、イスラム教徒とその後のカトリック教徒との間でのみ「明白」になり、セジェスタ遺跡における遺伝学的結果に反映されているようです。
異教徒間の結婚の証拠の欠如とは対照的に、炭素および窒素同位体データから、イスラム教徒とキリスト教徒の両集団は同様の同位体地の食料への利用権があり、魚や肉などの産物への特権的利用権はなく、それはこの手法を用いて容易に区別でき、他の場所でも観察された、と示されます。補足的証拠から、これらは単に広範な食性の類似ではなく、むしろこの期間には共有された調理慣行があった、と示唆されます。とくに、セジェスタ遺跡の12世紀の土器群は、その使用においてある種の混合が示唆される、と発掘者が指摘しており、濾過用壺や手作りの調理鉢など在来様式とイスラム教様式が、外来の個別の皿や鉢とともに見られます。より広範な規模では、シチリア島全域の土器残留物の化学分析から明らかになった証拠は、イスラム教徒支配期からノルマン王国およびシュヴァーベン公国支配期全体にわたる調理された食品の種類の連続性を示します。食性と調理慣行はより複雑な生活様式の2通りの代理を提示しますが、それにも関わらず、職業や居住地や宗教的帰属と強く結びついています。シチリア島では、キリスト教徒政治支配は異教徒間の結婚を妨げましたが、本論文のデータとイブン・ハウカルやイブン・ジュバイルのような個人の歴史的観察から、生活の文化的側面が共同体間で共有されていた、と示唆されます。
●まとめ
セジェスタ遺跡のこの分析は、イスラム教徒とキリスト教徒がシチリア島において長期間(9~13世紀)共存していたことや、イスラム教徒とキリスト教徒の墓地が隣接しており、年代が重なっている遺跡の調査の好機により可能となった、中世における宗教共同体間の相互作用を垣間見る独特な機会です。葬儀考古学は、伝統と文化および宗教の貴族に関する強力な説明を提供しますが、日常生活の詳細を明らかにすることはさほどありません。生体分子調査を用いて、新たな洞察が得られました。同位体分析から、個体群は同様の食性を送っており、広範な移動の証拠はほとんどない、と示唆されますが、遺伝学的分析からは、イスラム教徒とキリスト教徒の個体群はその埋葬地によってのみならず、その遺伝的遺産によっても隔てられており、両共同体間の親族関係の証拠はなかった、と示唆されます。本論文で分析された結果に基づくと、セジェスタ遺跡の両共同体は族内婚規範に従っていたかもしれない、と示唆されますが、これは他の同時代の遺跡のさらなる分析なしでは、中世シチリア島へと一般的に当てはめるべきではありません。この意味で、セジェスタ遺跡は他の遺跡ではこれまで報告されていなかった、シュヴァーベン公国後期の一断片を提供しています。
参考文献:
Monnereau A.(2024): Multi-proxy bioarchaeological analysis of skeletal remains shows genetic discontinuity in a Medieval Sicilian community. ROYAL SOCIETY OPEN SCIENCE, 11, 7, 240436.
https://doi.org/10.1098/rsos.240436
●要約
シチリア島の中世は、ビザンツ帝国(ギリシア正教)やアグラブ朝(イスラム教スンニ派)やファーティマ朝(イスラム教シーア派)からノルマン人やシュヴァーベン公国(カトリック)まで、政権交代が続くなど動乱の時代でした。政権交代の局所的影響に新たな光を当てるため、シチリア島西部のセジェスタ遺跡の隣接するイスラム教徒とキリスト教徒の墓地に埋葬された27個体の学際的分析が行なわれました。放射性炭素年代測定とゲノム規模配列決定と安定および放射性同位体データと考古学的記録を組み合わせることによって、二つの共同体間の遺伝的差異が明らかになりましたが、生活の他の側面での連続性の証拠が見つかりました。
歴史学および考古学の証拠は、イスラム教徒の共同体はノルマン人支配期の12世紀までに存在し、キリスト教徒の集落はシュヴァーベン公国支配下の13世紀に現れました。埋葬の放射性炭素年代のベイズ分析により、キリスト教徒墓地の建造後に起きた可能性が高い、イスラム教徒墓地の放棄が見つかり、両方【キリスト教とイスラム教】の信仰の個体群が13世紀前半にこの地域に存在した、と示唆されます。生体分子の結果から、キリスト教徒がセジェスタのイスラム教徒共同体とは遺伝的に異なったままだったのに、食性は実質的に同様だった、と示唆されます。本論文は、中世の政権交代が政治的中心部以外に大きな影響を及ぼし、経済制度が存続し、新たな社会的関係が出現しながら、人口統計学的変化につながった、と論証します。
●研究史
農耕の肥沃さと地中海中央部における戦略的位置のため、シチリア島は長く多様な人々を惹きつけてきました。中世(5~13世紀)には、ローマ人やギリシア人やビザンツ人やイスラム教徒やカトリック教徒のヨーロッパ北部人が支配を巡って争いました。827年に、アグラブ朝(イスラム教スンニ派)の軍隊がアフリカ北部からマツァーラ(Mazara)に到来し、910年までシチリア島全体を征服しました。910年以降、アフリカ北部から到来したファーティマ朝のシーア派イスラム教徒が権力を求め、948年にカルビド(Kalbids)家のファーティマ朝が支配を掌握しました。ファーティマ朝は948~1053年に、帝国の繁栄した州を創設し、パレルモ(Palermo)を首都としました。1061年に、オートヴィル(Hauteville)家に率いられたノルマン人キリスト教徒がメッシーナ(Messina)に侵攻し、ルッジェーロ2世(Roger II)とその後継者の下で1130~1189年にシチリア王国を建てました。1194年には、ホーエンシュタウフェン(Hohenstaufen)朝により率いられたシュヴァーベン公国が王国の支配を掌握し、世界の驚異(stupor mundi)と呼ばれたフリードリヒ2世が1250年に死ぬまで支配しました。
政権交代のこれらのよく記録された歴史はこの期間の地政学的背景を提供しますが、社会と経済の影響の多くはずっと少なくしか認識できません。年代記で目立つエリートはおもに、軍事力と富と権威を通じて政治的および宗教的支配を求めましたが、大衆に与えた影響はとても明確ではありません。歴史資料から、イスラム教徒とキリスト教徒との間の結婚はシチリア島とスペインの両方であったものの、それに反対する試みもあった、と示唆されています。たとえば、ファーティマ朝では973年に、イスラム教徒の旅人であるイブン・ハウカル(Ibn Hawqal)が、シチリア島西部における広範な文化変容を観察しており、イスラム教徒とキリスト教徒との間の混合婚がありました。異教徒間の結婚がその後のノルマン王国/シュヴァーベン公国期にどの程度あったのかは、さらなる調査を必要とする問題のままです。さまざまな媒介変数がこの現象を観察するために使用でき、それには、社会的規範の有用な指標として機能できる、これらの個体の遺伝学的証拠や料理および食性の特徴が含まれます。
ヒト遺骸は、こうした政治的動乱の時代を生きた非エリートの、生活様式や遺伝的および文化的類似性に関する情報の直接的な供給源を提供します。そのためヒト遺骸は、食性パターンは居住地の移動性や遺伝的多様性や親族関係を明らかにする生体分子技術の適用を通じて強化された、強力で独立した証拠の供給源を提供します。本論文はこれらの手法を用いて、12~13世紀にノルマン王国およびシュヴァーベン公国の支配下にあった、シチリア島西部のトラーパニ(Trapani)市のセジェスタ遺跡の隣接する墓地に埋葬された異なる信仰の共同体を調べます(図1a)。ギリシア劇場の端に位置するイスラム教徒の墓地は、75ヶ所の埋葬から構成され、被葬者の顔はメッカの方へ南東を向いていました。その約60m南西には、キリスト教徒墓地が元々は1200年頃に建造された教会の西側に位置しています。キリスト教徒墓地は57基の石造りの墓の複葬で構成されており、被葬者は腕を組んで乱されず仰向けで横たわっていました。以下は本論文の図1です。
本論文は、イスラム教とキリスト教の儀式で埋葬された個体群の分析によって、セジェスタ遺跡の年表の解明、および食性と移動性と遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を通じてその生活様式の側面の比較を目指しました。祖先系統と食性と信仰の間の相関が歴史時代の人口集団で直接的に調べられることは稀で、劇的な政治的移行期における人口統計学と経済と文化の変化の程度の記録はとくに珍しいことです。この目的を達成するため、イスラム教伝統(9個体)とキリスト教伝統(18個体)で埋葬された27個体が、多代理生体分子分析のため選択されました。
この27個体のうち、食性の違いの可能性を評価するための炭素(C)および窒素(N)の安定同位体分析は全員、移動性の水準評価のためのストロンチウム(Sr)と酸素(O)の同位体は17個体が分析され、25個体は墓地の年表改訂のため海洋貯蔵効果を考慮しつつ放射性炭素年代測定されました。イスラム教徒墓地の9個体と、キリスト教徒墓地の18個体のうち、それぞれ8個体と13個体がゲノム規模検査のため評価され、シチリア島のギリシア人の植民地時代だった頃の人類のゲノムデータ(関連記事)など、古代ゲノムデータセット(関連記事)と統合され、遺伝的類似性や人口統計学的連続性やそれぞれの墓地内および両墓地間の親族関係の可能性が調べられました。
●年表と親族関係と祖先系統
セジェスタにおいて同時代に暮らしていた共同体に由来するのかどうか、確証するために、2ヶ所の墓地の埋葬間の年代関係が調べられました。イスラム教徒墓地の9個体とキリスト教徒墓地の16個体から構成される、合計25個体の骨コラーゲンの直接的な加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)年代測定から、イスラム教徒墓地の方がキリスト教徒墓地より早く始まった、と示唆されます(図1b)。ベイズ年代順モデル化では、イスラム教徒の埋葬が770~990年頃(95%の確率、図1b)に始まり、1190~1380年頃に終焉したのに対して、キリスト教徒の埋葬は1140~1220年頃に始まり、1270~1330年頃に終焉した、と推定されます。事後分布の形式的比較から、キリスト教徒の埋葬行為がイスラム教徒の埋葬行為の終焉の前に始まった確率は99.3%と示唆され、そこから、イスラム教徒とキリスト教徒の両共同体は13世紀初頭の一定期間同時に存在した可能性が高い、と結論づけられます。
これらの結果は、キリスト教徒の信山社の到来後に、イスラム教徒はその近くで暮らし続けた、という考古学的証拠を訪韓します。たとえば、セジェスタ遺跡のノルマン人の城から離れた場所で発見された建造物は、この城遺跡でイスラム教徒が取って代わった期間に使用されていた形式である、荒削りの石を土で固めた平面図と建築技術を採用していました。同様に、SAS5地域の居住地水準の発掘から、ハインリヒ6世(シチリア王としての在位は1194~1197年)と反乱軍指導者であるムハンマド・ブン・アッバード(Muhammad Ibn Abbād、1220年頃)両方の硬貨の発見につながりました。
骨格資料のDNA解析を用いて、個体群において遺伝的性別と親族関係が評価されました。AMS年代測定された個体のうち21個体でヒト内在性DNAの抽出に成功し、得られた配列の0.3~42.6%(平均15.4%)を占めており、0.00~1.85倍(平均0.48倍)の核ゲノム網羅率の深度が得られました。DNAの損傷特性と汚染推定値は、最小限のヒトによる汚染のDNA劣化と一致していました。遺伝的性別は成人骨格の骨学的評価とほぼ一致し、例外は個体SGBN9で、骨学的誤認と推定されます。非成人の遺伝的性別から、イスラム教徒墓地の子供1個体が遺伝的に男性(XY)で、キリスト教徒墓地の子供のうち、1個体は遺伝的女性(XX)であり、他の子供7個体は遺伝的に男性(XY)だった、と示されました。
墓地内および墓地間の生物学的親族関係を特定するため、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)ソフトウェアを用いて、核DNAの一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を通じて、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体のハプロタイプ)や1~3親等の親族関係が調べられました。多くの共有されたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と)Y染色体ハプログループ(YHg)は両墓地内の生物学的親族関係を浮き彫りにしましたが、家族関係はキリスト教徒墓地内の核DNAを用いてのみ確証されました。これは個体SGBN 18/ SGBN 19とSGBN 20との間の1親等の関係(つまり、親子かキョウダイ)と特定され、男性乳児は全員17号墓に埋葬されており、同様の年代(SGBN18は1215~1365年前頃、SGBN19は1195~1305年頃、SGBN20は1225~1385年頃)です。配列は3点の完全な錐体骨から得られたので、遺伝学と骨学のデータを組み合わせると、SGBN18とSGBN19(右の錐体骨と左の錐体骨)は同一個体もしくは双子である可能性が高い(以後、両者はSGBN18_19としてともに分析されました)のに対して、SGBN20はキョウダイだった、と示唆されます。他に親族関係(つまり、1~3親等)は識別できませんでした。
次に、片親性遺伝標識が調べられました。ほとんどの個体は、ユーラシア全域に広く分布しているmtDNAハプロタイプを有していましたが、イスラム教徒墓地に埋葬されたSGBN2のmtDNAハプロタイプはL3e5で、これはおもにサハラ砂漠以南のアフリカで見られます。Y染色体ハプロタイプは墓地間の差異を示唆しており、イスラム教徒墓地の個体群はアフリカ北部と関連する(関連記事)E1b1b1b1a(M81)およびE1b1b1b1(M310.1)と、地中海東部と関連するJ2b2a(M241)だったのに対して、キリスト教徒墓地に埋葬された9個体のうち4個体はR1b1a1b(M269)で、これは現在ではおもにヨーロッパ西部で見られるYHgです。
祖先系統のより詳細な調査を行なうため、少なくとも1万ヶ所以上の塩基転換(transversion、ピリミジン塩基とプリン塩基との間の置換)SNPがヒト古ゲノミクスで使用されるヒト起源SNP区画(関連記事)と重複する、ゲノム規模データが分析されました。3段階の地理的水準の調査を使用し、AADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)で利用可能な現代の人口集団の多様性(関連記事)に古代の個体群を投影することによって、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました。
141の現代の人口集団の世界規模の区画に対して、セジェスタ遺跡個体群はヨーロッパとアフリカ北部により表されるPCA空間内に収まり、例外は個体SGBN2で、サハラ砂漠以南のアフリカの人口集団の多様性内に収まる、と観察されました。分析を現代のユーラシアおよびアフリカ北部の人口集団に限定すると、イスラム教徒墓地の個体群は相互に類似性を示し、ヨーロッパ南部とヨーロッパ南東部とアフリカ北部と近東の現代の人口集団間に位置し、近東の人口集団には近東とアフリカ北部のユダヤ人集団が含まれる、と観察されました(図2a)。
1個体SGBN7は、近東の人口集団とアフリカ北部の現代の人口集団との間に位置します。キリスト教徒墓地に埋葬された個体群はPCA空間では離れて位置し、一般的にヨーロッパの東部と南部と南東部と西部の現代の人口集団に近くに位置しました。これらの結果はイスラム教徒墓地とキリスト教徒墓地の集団間の遺伝的差異を示唆しており、一方の墓地の個体が他方の墓地の個体とより強い遺伝的類似性を有している事例はありません。利用可能な個体は男性に偏っていた一方で、キリスト教徒墓地の子供の数は、異教徒間の結婚による子供を特定する機会を提供しましたが、そうした子供は検出されませんでした。
ユーラシアとアフリカ北部の規模で調査を続け、シチリア島の鉄器時代のシカニ(Sicani)文化関連個体群(関連記事)との中世シチリア島のイスラム教徒墓地およびキリスト教徒墓地個体群の類似性が評価され、キリスト教徒墓地個体群は古代シチリア島の鉄器時代個体群により占められているPCA空間と重なっていた、と分かりました。個体SGBN2をアフリカの人口集団の文脈で調べると、アフリカ西部および東部の集団とともに位置する、と観察されます(図2b)。以下は本論文の図2です。
キリスト教埋葬儀式を受けた個体と比較してのイスラム教伝統で埋葬された個体間の祖先系統における差異が、ADMIXTUREおよびF統計でさらに調べられました。ADMIXTURE分析から、古代のモロッコとサハラ砂漠以南のアフリカの祖先系統がおもに、イスラム教の儀式で埋葬されたセジェスタ遺跡の個体群内に存在する、と示唆されました(図2c)。外群F₃統計(X、現代と古代の人口集団;北部ジュホアン人)が適用され、セジェスタ遺跡の、キリスト教の儀式下で埋葬された古代の個体群とイスラム教の儀式下で埋葬された古代の個体群、および以前に刊行された古代の現代の人口集団との間で、人口類似性が調べられましたが、有意な類似性は確定されず、それはデータセットにおける塩基転換数の少なさの結果である可能性が高そうです。
●生活様式と食性と移動性
次に、セジェスタ遺跡における食性の生活様式で識別できる違いがあったのかどうか、仮にあったのならば、信仰および祖先系統と相関しているのかどうか、判断されました。安定動態分析を通じての食性調査は、長期の習慣的傾向や経済的慣行や社会的地位を反映しており、それらは全て、単一地域において文化的に異なるかもしれません。この手法は、中世社会の異なる信仰集団(たとえば、キリスト教徒とイスラム教徒)の個体間の食性の違いの判断に採用されてきました。たとえば、骨コラーゲンの窒素(δ¹⁵N)と炭素(δ¹³C)の安定同位体値の違いは、13~16世紀の地中海イベリア半島沿岸のガンディア(Gandia)の多信仰共同体内で指摘されており、イスラム教徒はキリスト教徒と比較して食性では海水魚とC₄植物(たとえば、キビやモロコシやサトウキビ)をより多く消費し、おそらくは陸生動物やC₃植物(この時点での穀類やマメ科植物)などの資源への社会的に制限されていた利用権を反映しています。
セジェスタ遺跡では、AMS年代測定およびゲノム解析で選択された部位と比較して、わずかに多い数のヒト遺骸のから得られた安定同位体分析のため、コラーゲンが抽出され、それは部分的には、より信頼できる人口集団の比較のためでしたが、標本の利用可能性のためでもあります。注目すべきことに、乳児の食性はより広く異なっており、部分的には母乳育児の影響を反映しています。古代DNAの保存状態が良好なため優先的に標的とされる錐体骨は、比較的低い置換率のため、乳児の食性慣行を反映しているかもしれません。重要なことに、イスラム教伝統とキリスト教の伝統下で埋葬された成人間のコラーゲンのδ¹⁵Nとδ¹³C量に、食性の慣習的違いに起因して予測されるかもしれないような、有意な違いはありませんでした(図3a・b)。1個体(SGBN24A)を除く全個体は、C₃植物もしくはC₃植物を食べる陸生動物により占められる食性を示し、マツァーラの10~13世紀の陸生動物相と比較すると、コラーゲン¹³Cにおける有意な濃縮はありませんでした。シチリア島全域の考古植物学遺骸に反映されているように、C₄穀物(キビやモロコシ)の欠如はシチリア島のこの期間で予測されますが、海洋性食料の明らかな欠如は、セジェスタ遺跡が沿岸に近い(約10km)ことを考えると、興味深い事例です。以下は本論文の図3です。
食性をさらに調べるため、より高解像度の化合物特有手法を用いて、成人13個体のコラーゲンから加水分解されたアミノ酸δ¹⁵N値が測定され、このうち5個体がイスラム教徒埋葬、8個体がキリスト教徒埋葬に由来します。アミノ酸は、骨の大量のタンパク質よりも、食性の供給源をたどることができ、より精密かつ正確に定量化される食性供給源の寄与の推定を可能とします。これらのうち、フェニルアラニン(phenylalanine、略してPhe)とグルタミン酸(d glutamic acid、略してGlu)は、栄養状態および海洋性タンパク質消費の程度をより適切に判断するために用いられてきました。このより高解像度の手法を用いても、異なる信仰の被葬者間で識別可能な違いはなく(図3c)、個体の大半は、陸生の植物および動物が優占する食性を示唆する、Glu/Pheのδ¹⁵N値の間隔を有しており、1個体(キリスト教徒埋葬のSGBN15)のみが生涯において海洋性食料をより多く利用していました。この手法を用いて、個体SGBN24のコラーゲンで示された¹³Cの濃縮は、その比較的低い栄養状態のため、海洋性食料ではなく、C₄植物もしくはC₄植物を食べた動物の消費に由来する可能性が最も高いことも確証できます。
歯の標本が利用可能な選択された個体のストロンチウムと酸素の同位体分析の実行により、居住地の移動に関する情報も得られました(図4)。シチリア島の両同位体【ストロンチウムと酸素】の予測される局所的範囲と比較すると、イスラム教とキリスト教どちらの共同体でも、広範な移動の説得力のある証拠はないようです。キリスト教徒墓地の個体群はより広範なストロンチウム同位体比を有しており、それは全体的に、キリスト教徒墓地の個体群の起源がより広範な地域にあることを示唆しているかもしれません。以下は本論文の図4です。
キリスト教徒墓地に埋葬された1個体(SGBN24A)はストロンチウム同位体の外れ値で、その食性ではより高い割合のC₄食料も有しており、外来者だった、との説得力のある証拠を提供します。これは例外で、残りの個体のストロンチウム同位体比はシチリア島の範囲内にある値を反映しているものの、地中海やじっさいヨーロッパ全域の多くの地域でも共有されているので、一定水準の移動はイスラム教とキリスト教のどちらの期間でも除外できません。すべてのδ¹⁸O値も、他の地中海南部の値や、じっさいシチリア島の他の古代の個体群の測定値とも一致します。しかし、注目すべきことに、キリスト教徒墓地の個体群はイスラム教徒墓地の個体群と比較してより高いδ¹⁸O値を有しており、これが示しているのは、その起源の何らかの違いか、おそらく最も可能性が高いのは、ストロンチウム同位体値の違いの欠如を考えると、異なる飲料用水源の利用です。
●中世初期セジェスタ遺跡の多信仰共同体
歴史学と考古学と生体分子の研究を組み合わせて、中世セジェスタ遺跡に埋葬された人口集団に適用すると、共同体と異教徒間の動態を解明できるようになりました。本論文は多代理分析の結果に基づいて、セジェスタ遺跡の共同体が12世紀後期と13世紀初期にそれぞれの墓地を同時に使用していたならば(考古学的発見と利用可能なデータかせは、その可能性がひじょうに高そうです)、本論文で分析されたイスラム教の儀式とキリスト教の儀式で埋葬された個体における異教徒間の結婚もしくは生物学的関係は、殆ど若しくは全くなかった、と提案します。キリスト教徒の埋葬は、シチリア島をイスラム教徒が支配していた期間を通じても明らかにありました。セジェスタ遺跡では、シチリア島のシュヴァーベン公国支配期の遺伝的データは、共同体間の遺伝的均質性の欠如と一致し、キリスト教徒はヨーロッパ現代人とより密接に類似しています。興味深いことに、ストロンチウムと酸素のデータから、1個体を除いて、キリスト教徒の個体が子供期にシチリア島以外に居住していた証拠はほとんどないので、キリスト教徒の個体は前世代の移民の子孫だったかもしれない、と示唆されます。あるいは、この地元の兆候は鉄器時代からノルマン王国期のシチリア島におけるキリスト教徒集団の連続性の結果かもしれませんが、この仮説の調査には、複数の遺跡の個体のより大きな標本規模が必要でしょう。
セジェスタ遺跡の遺伝的データは、シチリア島におけるイスラム教徒とキリスト教の共同体の長期の共存を考えると、驚くべきことかもしれません。ノルマン人の支配は11世紀中期以降シチリア島で行なわれており、シュヴァーベン公国の統治は12世紀末以降ですが、これはまいそう儀式の考古学には反映されていません。セジェスタ遺跡の放射性炭素年代測定から、イスラム教の儀式での埋葬は9~13世紀にかけて行なわれており、多くの異教徒がフリードリヒ2世の治世下で追放された13世紀半ば以後にやっと消滅した、と示されてきました。かなりの祖先系統を共有しているかもしれないアラブ人とベルベル人の集団の区別が難しいことを考慮に入れたとしても、ノルマン人の侵入から1世紀以上経過したセジェスタ遺跡におけるキリスト教埋葬の個体の大半は、イスラム教埋葬の個体群と依然として明確に区別できます。
さらに、以前の古代都市内の埋葬地と居住地域の近さから、イスラム教徒とキリスト教徒は隣接する空間に居住し、市場の利用は同様だった、と示唆されます。この見解は、イスラム教徒とキリスト教徒の共同体がイスラム教支配期とノルマン王国期を通じて町と村で共存していた、と示すノルマン王国期の個人名と土地記録の研究により裏づけられます。イスラム教徒とキリスト教徒は町の異なる地区に居住し、別の墓地に埋葬されましたが、社会的関係はありました。たとえば、1184年には、スペインのイスラム教徒の旅人であるイブン・ジュバイル(Ibn Jubayr)は、イスラム教徒とキリスト教徒との間の異教徒間結婚の事例を観察しており、これはおもに、イスラム教徒の男性とキリスト教徒の女性との間の結婚でした。イブン・ジュバイルは、村落のイスラム教徒が広大な土地でキリスト教徒とともに暮らし、キリスト教徒からの待遇がよかったことも報告しました。パレルモのキリスト教徒の女性は、イスラム教徒のような服装で、流暢なアラビア語を話していました。信仰者間の社会的隔たりは、イスラム教徒とその後のカトリック教徒との間でのみ「明白」になり、セジェスタ遺跡における遺伝学的結果に反映されているようです。
異教徒間の結婚の証拠の欠如とは対照的に、炭素および窒素同位体データから、イスラム教徒とキリスト教徒の両集団は同様の同位体地の食料への利用権があり、魚や肉などの産物への特権的利用権はなく、それはこの手法を用いて容易に区別でき、他の場所でも観察された、と示されます。補足的証拠から、これらは単に広範な食性の類似ではなく、むしろこの期間には共有された調理慣行があった、と示唆されます。とくに、セジェスタ遺跡の12世紀の土器群は、その使用においてある種の混合が示唆される、と発掘者が指摘しており、濾過用壺や手作りの調理鉢など在来様式とイスラム教様式が、外来の個別の皿や鉢とともに見られます。より広範な規模では、シチリア島全域の土器残留物の化学分析から明らかになった証拠は、イスラム教徒支配期からノルマン王国およびシュヴァーベン公国支配期全体にわたる調理された食品の種類の連続性を示します。食性と調理慣行はより複雑な生活様式の2通りの代理を提示しますが、それにも関わらず、職業や居住地や宗教的帰属と強く結びついています。シチリア島では、キリスト教徒政治支配は異教徒間の結婚を妨げましたが、本論文のデータとイブン・ハウカルやイブン・ジュバイルのような個人の歴史的観察から、生活の文化的側面が共同体間で共有されていた、と示唆されます。
●まとめ
セジェスタ遺跡のこの分析は、イスラム教徒とキリスト教徒がシチリア島において長期間(9~13世紀)共存していたことや、イスラム教徒とキリスト教徒の墓地が隣接しており、年代が重なっている遺跡の調査の好機により可能となった、中世における宗教共同体間の相互作用を垣間見る独特な機会です。葬儀考古学は、伝統と文化および宗教の貴族に関する強力な説明を提供しますが、日常生活の詳細を明らかにすることはさほどありません。生体分子調査を用いて、新たな洞察が得られました。同位体分析から、個体群は同様の食性を送っており、広範な移動の証拠はほとんどない、と示唆されますが、遺伝学的分析からは、イスラム教徒とキリスト教徒の個体群はその埋葬地によってのみならず、その遺伝的遺産によっても隔てられており、両共同体間の親族関係の証拠はなかった、と示唆されます。本論文で分析された結果に基づくと、セジェスタ遺跡の両共同体は族内婚規範に従っていたかもしれない、と示唆されますが、これは他の同時代の遺跡のさらなる分析なしでは、中世シチリア島へと一般的に当てはめるべきではありません。この意味で、セジェスタ遺跡は他の遺跡ではこれまで報告されていなかった、シュヴァーベン公国後期の一断片を提供しています。
参考文献:
Monnereau A.(2024): Multi-proxy bioarchaeological analysis of skeletal remains shows genetic discontinuity in a Medieval Sicilian community. ROYAL SOCIETY OPEN SCIENCE, 11, 7, 240436.
https://doi.org/10.1098/rsos.240436
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