本村凌二『地中海世界の歴史1 神々のささやく世界 オリエントの文明』
講談社選書メチエの一冊として、2024年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、メソポタミアも含めて地中海世界を広い範囲で把握し、シュメール文化の頃からローマ帝国の東西分裂の頃まで約4000年間の地中海の歴史を、著者1人で執筆する『地中海世界の歴史』全8巻の第1巻となります。時空間的に広範囲の歴史を1人で執筆すると、それぞれの地域および時代について、専門家から異論が提出されそうですが、単独執筆により筋の通った地中海世界史になることも期待され、全8巻を読むつもりです。
本書は地中海世界の長い歴史を対象としているだけに、その前提として、現在のような地中海がいつどのように形成されたのかも、簡潔に取り上げています。現在のような地中海が形成されたのは500万年前頃で、地質学的には中新世から鮮新世への移行期となります。本書は冒頭で、「文化」と「文明」の差異にも言及しています。人間が自然環境と深く関わることによって生み出される生活用式が「文化」で、自然環境の違いを超えて伝わり、より快適な生活空間を享受できるようになるのが「文明」である、と本書は指摘します。当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしているので(関連記事)、『地中海世界の歴史』全8巻を取り上げる記事でも、基本的に「文明」を使いません。
本書で強調されているのは、文字の大きな役割です。文字こそは人類史において大きな飛躍だった、というわけです。日本もそうですが、現代ではほとんどの地域において文字の使用が常識となっており、文字がない世界を想像することは難しくなっているように思います。しかし、無文字世界しか存在しなかった時代は人類史において5000年前頃とごく最近まで続いていた、とも言えるわけで、その認識は重要になってくるでしょう。ただ、視覚表現で情報を伝えることは旧石器時代からあり、現生人類(Homo sapiens)に限定されていなかったようで、文字の前提としてこうした旧石器時代からの長きにわたる視覚表現があったことも考慮しなければならないのでしょう(関連記事)。
シュメール文化には多数の文献(粘土板文書)が残っており、経済・行政文書が多いものの、人々の生活が窺えるような記録もあります。本書でもそうした記録の一部が紹介されていますが、日本に限らず現代社会で共感できるような内容も多く、確かにシュメール文化の人々と現代人とでは世界観や価値観が大きく異なるところも少なからずあるでしょうが、一方で同じ現生人類として共通点も多いことが窺えます。古代人の心情を安易に推測はできませんが、一方で理解困難と考えてその差異を強調することも問題なのでしょう。ウル第三王朝期には「世界最古の法典」も制定され、後にハンムラビ法典にも継承されますが、本書は、弱者救済思想があることに注目し、この2000年後のギリシア・ローマの古典期にそうした観念はなかった、と指摘します。
エジプト史では、アクエンアテン(アメンヘテプ4世)の宗教改革の意義が強調されています。多神教から一神教への変革は人類史においてきわめて重要で、唯一神への心性の変化は当時の人々にとって想像しがたい大きな出来事だった、というわけです。一神教が当たり前の現代社会において、唯一神がなかった世界の観念や、唯一神を受け入れることへの抵抗の大きさなどは、想像しにくいところがあるかもしれません。上述の文字の問題もそうですが、現代人にとっての大前提からできるだけ離れて、当時の歴史をいかに再構築していくかは、歴史学の難しさでも醍醐味でもあり、研究者にとっては力量が評価される問題のようにも思います。
紀元前13世紀末~紀元前12世紀にかけての地中海東部地域における混乱(関連記事)の原因として、近代以降「海の民」が注目されてきましたが、本書でも「海の民」への言及は多くなっています。「海の民」は、さまざまな地域に出自のある混成集団だったようで、その活動の原因としては、旱魃などの気候変動も挙げられています。「海の民」の主要な活動時期は青銅器時代末~鉄器時代初期ですが、この頃レヴァントにおいて一時的にヨーロッパ系の遺伝的痕跡の増加が確認されており(関連記事)、これは「海の民」の活動を表しているかもしれません。この「海の民」から外洋航海技術を得て、地中海に広く拡散していったのが、後のフェニキア人と考えられています。フェニキア人の業績として、本書はアルファベットの開発を特筆しています。
第4章冒頭の、「現生人類につながるホモ・サピエンスが出現したころ、人類は惨めな生物だった。ライオンが食べ残した肉にハイエナやジャッカルが喰らいつき、その残り物をあさることしかできないのだ。恐る恐る死骸に近づき、骨を割って骨髄をすする」との評価は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の狩猟が本格的で、その戦略が柔軟だったこと(関連記事)を考えると、問題があるようにも思います。しかし、一般的にはホモ・エレクトス(Homo erectus)とされているような人類も含めてホモ・サピエンスに分類し、ホモ・サピエンスが200万年前頃に出現した、と想定するような1990年代以降の現生人類アフリカ多地域進化説の観点では、本書のこの指摘に大きな瑕疵があるとは言えないかもしれません。
本書は最後に、「二分心」仮説を取り上げています。太古において人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた、との二分心仮説に著者は以前より肯定的で、右脳が神々の側に、左脳が人間の側にあり、意思決定の重圧によって神々の声(幻聴)が誘発され、「二分心」が失われていく過程で明確な「意識」が芽生えてくるのではないか、と本書は推測します。私は、「神々の声」を「聴ける」人は太古も現在も各文化集団において同じくらいの割合で存在し、それが社会にどの程度受け入れられるのかに関して、時空間的な違いが大きいのではないか、と今では考えています。
本書は地中海世界の長い歴史を対象としているだけに、その前提として、現在のような地中海がいつどのように形成されたのかも、簡潔に取り上げています。現在のような地中海が形成されたのは500万年前頃で、地質学的には中新世から鮮新世への移行期となります。本書は冒頭で、「文化」と「文明」の差異にも言及しています。人間が自然環境と深く関わることによって生み出される生活用式が「文化」で、自然環境の違いを超えて伝わり、より快適な生活空間を享受できるようになるのが「文明」である、と本書は指摘します。当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしているので(関連記事)、『地中海世界の歴史』全8巻を取り上げる記事でも、基本的に「文明」を使いません。
本書で強調されているのは、文字の大きな役割です。文字こそは人類史において大きな飛躍だった、というわけです。日本もそうですが、現代ではほとんどの地域において文字の使用が常識となっており、文字がない世界を想像することは難しくなっているように思います。しかし、無文字世界しか存在しなかった時代は人類史において5000年前頃とごく最近まで続いていた、とも言えるわけで、その認識は重要になってくるでしょう。ただ、視覚表現で情報を伝えることは旧石器時代からあり、現生人類(Homo sapiens)に限定されていなかったようで、文字の前提としてこうした旧石器時代からの長きにわたる視覚表現があったことも考慮しなければならないのでしょう(関連記事)。
シュメール文化には多数の文献(粘土板文書)が残っており、経済・行政文書が多いものの、人々の生活が窺えるような記録もあります。本書でもそうした記録の一部が紹介されていますが、日本に限らず現代社会で共感できるような内容も多く、確かにシュメール文化の人々と現代人とでは世界観や価値観が大きく異なるところも少なからずあるでしょうが、一方で同じ現生人類として共通点も多いことが窺えます。古代人の心情を安易に推測はできませんが、一方で理解困難と考えてその差異を強調することも問題なのでしょう。ウル第三王朝期には「世界最古の法典」も制定され、後にハンムラビ法典にも継承されますが、本書は、弱者救済思想があることに注目し、この2000年後のギリシア・ローマの古典期にそうした観念はなかった、と指摘します。
エジプト史では、アクエンアテン(アメンヘテプ4世)の宗教改革の意義が強調されています。多神教から一神教への変革は人類史においてきわめて重要で、唯一神への心性の変化は当時の人々にとって想像しがたい大きな出来事だった、というわけです。一神教が当たり前の現代社会において、唯一神がなかった世界の観念や、唯一神を受け入れることへの抵抗の大きさなどは、想像しにくいところがあるかもしれません。上述の文字の問題もそうですが、現代人にとっての大前提からできるだけ離れて、当時の歴史をいかに再構築していくかは、歴史学の難しさでも醍醐味でもあり、研究者にとっては力量が評価される問題のようにも思います。
紀元前13世紀末~紀元前12世紀にかけての地中海東部地域における混乱(関連記事)の原因として、近代以降「海の民」が注目されてきましたが、本書でも「海の民」への言及は多くなっています。「海の民」は、さまざまな地域に出自のある混成集団だったようで、その活動の原因としては、旱魃などの気候変動も挙げられています。「海の民」の主要な活動時期は青銅器時代末~鉄器時代初期ですが、この頃レヴァントにおいて一時的にヨーロッパ系の遺伝的痕跡の増加が確認されており(関連記事)、これは「海の民」の活動を表しているかもしれません。この「海の民」から外洋航海技術を得て、地中海に広く拡散していったのが、後のフェニキア人と考えられています。フェニキア人の業績として、本書はアルファベットの開発を特筆しています。
第4章冒頭の、「現生人類につながるホモ・サピエンスが出現したころ、人類は惨めな生物だった。ライオンが食べ残した肉にハイエナやジャッカルが喰らいつき、その残り物をあさることしかできないのだ。恐る恐る死骸に近づき、骨を割って骨髄をすする」との評価は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の狩猟が本格的で、その戦略が柔軟だったこと(関連記事)を考えると、問題があるようにも思います。しかし、一般的にはホモ・エレクトス(Homo erectus)とされているような人類も含めてホモ・サピエンスに分類し、ホモ・サピエンスが200万年前頃に出現した、と想定するような1990年代以降の現生人類アフリカ多地域進化説の観点では、本書のこの指摘に大きな瑕疵があるとは言えないかもしれません。
本書は最後に、「二分心」仮説を取り上げています。太古において人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた、との二分心仮説に著者は以前より肯定的で、右脳が神々の側に、左脳が人間の側にあり、意思決定の重圧によって神々の声(幻聴)が誘発され、「二分心」が失われていく過程で明確な「意識」が芽生えてくるのではないか、と本書は推測します。私は、「神々の声」を「聴ける」人は太古も現在も各文化集団において同じくらいの割合で存在し、それが社会にどの程度受け入れられるのかに関して、時空間的な違いが大きいのではないか、と今では考えています。
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