大河ドラマ『光る君へ』第28回「一帝二后」

 今回は、藤原道長(三郎)の娘で、一条天皇に入内した彰子の立后と、娘を出産した紫式部(まひろ)の子育てが描かれました。出家したとはいえ、すでに一条天皇の后として定子がいるのに、彰子が立后されたことは、当時としては前例がなく、当時の貴族には忌避する感情も強かったのではないか、とも思いますが、おそらくは道長の意向を踏まえて、藤原行成が「理論」づけ、彰子は立后されました。本作ではこの過程が、世に安寧をもたらすため、安倍晴明など貴族に勧められて道長がやむを得ず認めたように描かれており、道長の権勢欲が原因ではなかった、との解釈で話が展開しています。

 本作の道長は、権勢欲が強くない一方で、民への配慮が強く、貴族としては清らかな人物として描かれてきました。彰子の入内と立后も、そうした道長の人物造形に沿った話になっており、もちろん物語として破綻しているわけではありませんが、歴史ドラマであることを考えると、さすがに道長を美化しすぎているのではないか、とは思います。ここまで本作を楽しんで視聴してきましたが、道長を美化しすぎているようにも思われるので、本作への評価もこのところ下がり気味です。ただ、紫式部は没年不明なので、本作がどの年代まで描くのか分かりませんが、道長が準主人公なだけに、道長の死まで話が続くのだとしたら、最終回まで見ずに本作の評価を下げるのは早計かな、とも思います。何よりも、陣定や道長と藤原実資が日記を書くところなど、一般にはあまり知られていなかっただろう当時の貴族の在り様をしっかり描いているところは、歴史ドラマとしての本作の意義だと思います。今回、道長と源明子との間の子供たちが初めて登場しましたが、その中にいた藤原能信が摂関家に政治的大打撃を与える役割を果たすことになるわけで、さすがに本作ではそこまで描かれないでしょうが、源倫子の息子たちと明子の息子たちの対立というか微妙な関係は、後半に描かれるかもしれず、注目しています。

 彰子が立后されたのは1000年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)2月で、この時点で満年齢ではまだ11歳だったようですから、妊娠の可能性はほぼなかったでしょうし、彰子が成長しても皇子を出産するとも限りません。すでに定子は皇子(敦康親王)を出産していましたが、今回、彰子の立后から1年も経たずに、皇女(媄子内親王)を出産したさいに亡くなって、敦康親王は彰子が養育することになります(当初は、彰子の母親である倫子が主体的に養育したのでしょうが)。彰子が皇子を出産するとも限らないので、せめて血縁の近い(とはいっても、姪の息子ですから4親等の関係でしかありませんが)敦康親王を養育して、彰子が皇子を出産できなかった場合の保険にしておこう、と道長は考えたのでしょう。本作の彰子は現時点で、自己主張が強いわけではなく無口ですから、今後の成長が見どころになるのではないか、と楽しみにしていますが、その契機は敦康親王の養育だったのかもしれず、本作ではどう描かれるのか、注目されます。彰子役の見上愛氏は、まだ満年齢で11歳程度の彰子の子供っぽさをよく表現しているように思います。今回で退場となった定子を演じた高畑充希氏も、定子が子供時代には子供っぽさをよく表現していたと思います。また、定子没後の清少納言がどう描かれるのかも注目されます。

 紫式部は娘を出産し、実父が道長と知っているにも関わらず、夫の藤原宣孝は可愛がり、賢子と名づけます。宣孝は実子ではないと知っている娘を可愛がり、これまでも捉えどころのない人物として描かれてきただけに、この描写には納得のいくところもありますが、その本心が、道長との縁を利用しての出世なのか、あるいは別の思惑や感情があるのか、気になるところです。宣孝は間もなく退場すると思われるので、紫式部と宣孝の夫婦関係がどのような終焉を迎えるのか、『源氏物語』の執筆動機やその内容とも関わってくるかもしれないので、注目しています。本作では、『源氏物語』において、光源氏が「不義の子」の「加害者」にも「被害者」にもなったのは、紫式部の実体験が大きく影響している、という設定なのかもしれません。

この記事へのコメント