本村凌二『地中海世界の歴史3 白熱する人間たちの都市 エーゲ海とギリシアの文明』
講談社選書メチエの一冊として、2024年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書が対象とする主要な地域はギリシアというかエーゲ海地域ですが、扱う年代は紀元前三千年紀~マケドニアの台頭の頃までとなり、第2巻ではアッシリア帝国とペルシア帝国まで扱われましたが、本書では年代がさかのぼることになります。紀元前三千年紀から紀元前1200年頃のエーゲ海に限らず地中海世界の広範な混乱(関連記事)までの期間、エーゲ海の文化は、前半はクレタ島のミノア文化、後半はギリシア「本土」のミュケナイ文化により象徴されます。
紀元前三千年紀に青銅器文化が栄えたクレタ島では、紀元前二千年紀に強力な統治機構が出現し、宮殿は紀元前1700年頃の大地震で打撃を受けたものの、その後で再建されました。しかし、紀元前15世紀半ばにクレタ島の宮殿は火災により失われました。ミュケナイ文化ではギリシア語古語を表す線文字Bが用いられ、当時の社会状況が窺えます。ミュケナイ文化は貢納王政的社会だったようで、この点では後のギリシアのポリス(都市国家)の構造とはかなり異なることになります。この点で、ミュケナイ文化などエーゲ海地域の王国と古代オリエント社会との類似性も考えられますが、エーゲ海地域の主要作物は、新石器時代のコムギとオオムギから青銅器時代にはオリーブとブドウへと変わり、作物の交換が必要となります。この交換の場が宮殿で、生産と流通の再分配を掌握した首長制が出現し、エーゲ海地域の貢納王政は、オリエント地域の中央集権的性格とは異なる、と指摘されています。ミュケナイ文化も、紀元前1200年頃の地中海世界の広範な混乱の中で、王宮が炎上するなど衰退していったようです。
こうしたエーゲ海地域の青銅器時代文化を生み出したギリシア人は、ミュケナイ文化期には「アカイア人」として知られていたようで、「ギリシア人」は後世のローマ人が与えた語に由来します。ミュケナイ文化の衰退とともに線文字Bが憑分かれ亡くなり、紀元前1200年頃以降の数百年間は「暗黒時代」とも呼ばれています。ただ本書は、そうした用語に文字のみを文化創造の基本とする偏見があるのではないか、と指摘します。本書は、吟遊詩人などにも表れている口承技術の高さを重視し、ホメロスの叙事詩との高い類似性、さらにはホメロスの作品の背後に長期にわたる多くの吟遊詩人が存在したことを指摘します。これは、『史記』に口承文学というか市井の芝居が取り入れられている、との宮崎市定氏の見解とも通ずるところが多いように思います。本書は、「暗黒時代」に語り継がれた英雄譚に、神々を畏怖するだけではなく、偉大な自己への確信を抱く人々が搭乗する、心性史の転換を見ています。本書はこの心性史の転換期において、「罪」や「罰」といった新たな観念が見られるようになった、と指摘します。
英雄譚が語り継がれた「暗黒時代」の後にギリシア世界というかエーゲ海地域では、経済活動の活発化を背景とした「集住(シュノイキスモス)」によってポリスが成立しますが、本書は、「暗黒時代」の前後で指導者の性格が大きく変わった可能性を指摘します。ミュケナイ文化期の、民主とは隔たった強力な王から、暗黒時代を経てポリス期には、「豪族」とも言えるような、民衆(デーモス)よりずっと富裕ではあるものの民衆に近い指導者(バシレウス)へと変わった、というわけです。この時代のギリシアの平民は、王や貴族に隷属していたわけではなく、かなりのところ自立しており、それが民主政の基盤となったようです。こうしてエーゲ海地域ではポリスが成立し、アルファベットの導入により文字も再び使われるようになりますが(本書はギリシアのアルファベットの意義として、母音文字の追加を挙げています)、そうしたポリスの出現に、エジプト人やとくにフェニキア人からの大きな影響があったのではないか、と本書は推測します。
ポリスの出現以降、紀元前8~紀元前7世紀にかけて、ギリシア人の植民活動は活発化し、黒海沿岸も含めて地中海世界へと広範に拡大しましたが、それは母市であるポリスの勢力拡大というよりは、人口増加に伴う土地の不足や権力争いの敗者の逃亡などの結果で、政治的には母市と植民市は独立した関係にありました。また本書は、紀元前8世紀以降のギリシア世界において集落形態はポリスだけではなく、中心市を有さない集落がいくつか集まり、一つの連合体を形成しているような、エトノスも存在したことを指摘します。本書は、ギリシア本土においてポリスが成立したのはより東側の地域だったことを指摘し、つまり東方の「先進地域」に近い場所でその影響を受けつつポリスが成立した、というわけです。後には、エトノス的形態からポリス的形態への変容も見られました。
ポリスでは紀元前7世紀半ば頃以降、ほとんどのポリスにおいて武具自弁の階層が増え、重装歩兵による密集軍団が形成されていきます。この点で、ギリシア世界は地中海の他地域に対して数世紀間優位に立ち、この密集隊戦術でとくに強さを示したのがスパルタでした。スパルタはその「軍国主義」で知られていますが、それは多数の隷属民(ヘイロータイ)の反乱に備える必要があったからです。なお、スパルタはギリシアの他地域と比較して、女性の役割と地位においてかなり解放されていたところがあったようです。ポリス出現以降のギリシア世界における学術の目覚ましい発展はよく知られていますが、その傾向が最初に現れたのは、「先進的」なオリエントに最も近いイオニア地方でした。イオニア地方の自然哲学者は、神話に依拠せず、万物の根源を直接的に追求します。
ギリシア世界のポリスの栄光として有名なのが、ペルシア戦争(ペルシア・ギリシア戦争)での勝利です。ギリシア世界のポリス、とくにアテナイの強さは、その規模が強大であることだけではなく、自由平等の意識にある、と本性は指摘します。各市民が自ら国家に対する責任と義務を自覚することで、ポリスは強くなる、というわけです。本書は、スパルタがこれに気づいており、それ故にアテナイの民主政を早期に潰そうとしたのかもしれない、と指摘します。ペルシア戦争の影響でよく知られているのは、海戦でアテナイの下層市民が勝利に貢献したため、政治的発言力が増したことで、本書もこの問題を重視していますが、本書は下層市民自身が自らの立場をどう認識していたのか、という観点から教育に注目しています。ギリシア語で「教育」を意味する「パイデイア」は、ホメロスの叙事詩に出てこず、紀元前5世紀後半のペロポネソス戦争前半期までの文献でも、「教育」の意味で使われているわけではないそうです。既知の文献における「パイデイア」の初出は紀元前467年とのことですが、「子育て」といった意味だったようです。紀元前423年初演のアリストファネス『雲』で、「教育」というような意味合いでの「パイデイア」が用いられており、「古い教育」と「新しい教育」の論争が描かれています。古来の音楽や詩文を教え、神話や伝説を素直に受け入れ、道徳教育を重視する質実剛健な「古い教育」と、弁論の技術を授け、神話や伝説に堂々と不信の目を向け、性の解放すら唱えた「新しい教育」とが退避されています。ただ本書は、紀元前5世紀のアテナイに「古い教育」と「新しい教育」の論争が本当にあった、と想定することには慎重です。当時のアテナイにおいて、教育制度が整備されていたわけではなく、幼児期だけのごく初歩的な教育が行なわれていただけで、一定以上の年齢でさらに教育を受けたのは、ごく少数の富裕層だけだっただろう、というわけです。本書は、当時のギリシア世界において「教育(パイデイア)」に期待されていたのは良俗の躾であり、知育や学習の訓練ではなかった、と指摘します。
ペルシア戦争の後、アテナイはデロス同盟の諸ボリスへの抑圧傾向を強めていきますが、それによりギリシア世界を統一したわけではなく、アテナイへの反感がペロポネソス戦争へとつながり、アテナイは敗北します。本書は、ペリクレスがアテナイへのスパルタの敵意を避けることはできない、と判断して東方の大国であるペルシア帝国と協定を結んだのではないか、と推測します。アテナイは紀元前5世紀半ばには「帝国」への道を歩んでいるかのようにも見えましたが、ペロポネソス戦争でスパルタを盟主とするペロポネソス同盟に敗れます。しかし、新たにギリシア世界の覇者となったスパルタも、アテナイと同様にギリシア世界を一元的に支配で来たわけではありません。アテナイも紀元前4世紀後半には復興していきましたし、スパルタは新興のテーバイに敗れて没落します。しかし、そのテーバイも、指導者の相次ぐ死により覇権拡大は挫折し、紀元前4世紀半ばのギリシア世界は、有力ポリスが散在して対立する、混迷の時代となります。ギリシア世界においてこうした戦乱と混乱の続く中で、兵士の担い手だった市民層で没落する者が多く、傭兵に頼るようになり、ポリス市民としての自覚が薄れていきます。
本書は最後に、ギリシア世界の特徴として、性差が大きく、女性は概して抑圧されており、公然と活動する機会がほとんどなかったことや、奴隷の存在がプラトンやアリストテレスのような世界史上で一線級の哲学者でも大前提とされていたことを指摘します。こうして奴隷の存在が大前提となると、かつては叙事詩人ヘシオドスのように、労働は恥ではなく、働かないことこそ恥なのだ、といった観念から、紀元前4世紀には、農耕を含めて生産労働そのものが自由市民には厭わしい、といった観念へと変わっていき、本書はそこに、世界史における古典古代社会の特殊性を見ています。本書は、こうした観念の変化により、ポリス市民との自覚が希薄になっていったのではないか、と指摘します。本書はそうした古典古代のギリシア世界の際立った新しい特徴として「観察」を挙げており、ギリシア世界が近代に結びつく学問の基礎を築いたのは、そうした「新しさ」にあったのかもしれません。
紀元前三千年紀に青銅器文化が栄えたクレタ島では、紀元前二千年紀に強力な統治機構が出現し、宮殿は紀元前1700年頃の大地震で打撃を受けたものの、その後で再建されました。しかし、紀元前15世紀半ばにクレタ島の宮殿は火災により失われました。ミュケナイ文化ではギリシア語古語を表す線文字Bが用いられ、当時の社会状況が窺えます。ミュケナイ文化は貢納王政的社会だったようで、この点では後のギリシアのポリス(都市国家)の構造とはかなり異なることになります。この点で、ミュケナイ文化などエーゲ海地域の王国と古代オリエント社会との類似性も考えられますが、エーゲ海地域の主要作物は、新石器時代のコムギとオオムギから青銅器時代にはオリーブとブドウへと変わり、作物の交換が必要となります。この交換の場が宮殿で、生産と流通の再分配を掌握した首長制が出現し、エーゲ海地域の貢納王政は、オリエント地域の中央集権的性格とは異なる、と指摘されています。ミュケナイ文化も、紀元前1200年頃の地中海世界の広範な混乱の中で、王宮が炎上するなど衰退していったようです。
こうしたエーゲ海地域の青銅器時代文化を生み出したギリシア人は、ミュケナイ文化期には「アカイア人」として知られていたようで、「ギリシア人」は後世のローマ人が与えた語に由来します。ミュケナイ文化の衰退とともに線文字Bが憑分かれ亡くなり、紀元前1200年頃以降の数百年間は「暗黒時代」とも呼ばれています。ただ本書は、そうした用語に文字のみを文化創造の基本とする偏見があるのではないか、と指摘します。本書は、吟遊詩人などにも表れている口承技術の高さを重視し、ホメロスの叙事詩との高い類似性、さらにはホメロスの作品の背後に長期にわたる多くの吟遊詩人が存在したことを指摘します。これは、『史記』に口承文学というか市井の芝居が取り入れられている、との宮崎市定氏の見解とも通ずるところが多いように思います。本書は、「暗黒時代」に語り継がれた英雄譚に、神々を畏怖するだけではなく、偉大な自己への確信を抱く人々が搭乗する、心性史の転換を見ています。本書はこの心性史の転換期において、「罪」や「罰」といった新たな観念が見られるようになった、と指摘します。
英雄譚が語り継がれた「暗黒時代」の後にギリシア世界というかエーゲ海地域では、経済活動の活発化を背景とした「集住(シュノイキスモス)」によってポリスが成立しますが、本書は、「暗黒時代」の前後で指導者の性格が大きく変わった可能性を指摘します。ミュケナイ文化期の、民主とは隔たった強力な王から、暗黒時代を経てポリス期には、「豪族」とも言えるような、民衆(デーモス)よりずっと富裕ではあるものの民衆に近い指導者(バシレウス)へと変わった、というわけです。この時代のギリシアの平民は、王や貴族に隷属していたわけではなく、かなりのところ自立しており、それが民主政の基盤となったようです。こうしてエーゲ海地域ではポリスが成立し、アルファベットの導入により文字も再び使われるようになりますが(本書はギリシアのアルファベットの意義として、母音文字の追加を挙げています)、そうしたポリスの出現に、エジプト人やとくにフェニキア人からの大きな影響があったのではないか、と本書は推測します。
ポリスの出現以降、紀元前8~紀元前7世紀にかけて、ギリシア人の植民活動は活発化し、黒海沿岸も含めて地中海世界へと広範に拡大しましたが、それは母市であるポリスの勢力拡大というよりは、人口増加に伴う土地の不足や権力争いの敗者の逃亡などの結果で、政治的には母市と植民市は独立した関係にありました。また本書は、紀元前8世紀以降のギリシア世界において集落形態はポリスだけではなく、中心市を有さない集落がいくつか集まり、一つの連合体を形成しているような、エトノスも存在したことを指摘します。本書は、ギリシア本土においてポリスが成立したのはより東側の地域だったことを指摘し、つまり東方の「先進地域」に近い場所でその影響を受けつつポリスが成立した、というわけです。後には、エトノス的形態からポリス的形態への変容も見られました。
ポリスでは紀元前7世紀半ば頃以降、ほとんどのポリスにおいて武具自弁の階層が増え、重装歩兵による密集軍団が形成されていきます。この点で、ギリシア世界は地中海の他地域に対して数世紀間優位に立ち、この密集隊戦術でとくに強さを示したのがスパルタでした。スパルタはその「軍国主義」で知られていますが、それは多数の隷属民(ヘイロータイ)の反乱に備える必要があったからです。なお、スパルタはギリシアの他地域と比較して、女性の役割と地位においてかなり解放されていたところがあったようです。ポリス出現以降のギリシア世界における学術の目覚ましい発展はよく知られていますが、その傾向が最初に現れたのは、「先進的」なオリエントに最も近いイオニア地方でした。イオニア地方の自然哲学者は、神話に依拠せず、万物の根源を直接的に追求します。
ギリシア世界のポリスの栄光として有名なのが、ペルシア戦争(ペルシア・ギリシア戦争)での勝利です。ギリシア世界のポリス、とくにアテナイの強さは、その規模が強大であることだけではなく、自由平等の意識にある、と本性は指摘します。各市民が自ら国家に対する責任と義務を自覚することで、ポリスは強くなる、というわけです。本書は、スパルタがこれに気づいており、それ故にアテナイの民主政を早期に潰そうとしたのかもしれない、と指摘します。ペルシア戦争の影響でよく知られているのは、海戦でアテナイの下層市民が勝利に貢献したため、政治的発言力が増したことで、本書もこの問題を重視していますが、本書は下層市民自身が自らの立場をどう認識していたのか、という観点から教育に注目しています。ギリシア語で「教育」を意味する「パイデイア」は、ホメロスの叙事詩に出てこず、紀元前5世紀後半のペロポネソス戦争前半期までの文献でも、「教育」の意味で使われているわけではないそうです。既知の文献における「パイデイア」の初出は紀元前467年とのことですが、「子育て」といった意味だったようです。紀元前423年初演のアリストファネス『雲』で、「教育」というような意味合いでの「パイデイア」が用いられており、「古い教育」と「新しい教育」の論争が描かれています。古来の音楽や詩文を教え、神話や伝説を素直に受け入れ、道徳教育を重視する質実剛健な「古い教育」と、弁論の技術を授け、神話や伝説に堂々と不信の目を向け、性の解放すら唱えた「新しい教育」とが退避されています。ただ本書は、紀元前5世紀のアテナイに「古い教育」と「新しい教育」の論争が本当にあった、と想定することには慎重です。当時のアテナイにおいて、教育制度が整備されていたわけではなく、幼児期だけのごく初歩的な教育が行なわれていただけで、一定以上の年齢でさらに教育を受けたのは、ごく少数の富裕層だけだっただろう、というわけです。本書は、当時のギリシア世界において「教育(パイデイア)」に期待されていたのは良俗の躾であり、知育や学習の訓練ではなかった、と指摘します。
ペルシア戦争の後、アテナイはデロス同盟の諸ボリスへの抑圧傾向を強めていきますが、それによりギリシア世界を統一したわけではなく、アテナイへの反感がペロポネソス戦争へとつながり、アテナイは敗北します。本書は、ペリクレスがアテナイへのスパルタの敵意を避けることはできない、と判断して東方の大国であるペルシア帝国と協定を結んだのではないか、と推測します。アテナイは紀元前5世紀半ばには「帝国」への道を歩んでいるかのようにも見えましたが、ペロポネソス戦争でスパルタを盟主とするペロポネソス同盟に敗れます。しかし、新たにギリシア世界の覇者となったスパルタも、アテナイと同様にギリシア世界を一元的に支配で来たわけではありません。アテナイも紀元前4世紀後半には復興していきましたし、スパルタは新興のテーバイに敗れて没落します。しかし、そのテーバイも、指導者の相次ぐ死により覇権拡大は挫折し、紀元前4世紀半ばのギリシア世界は、有力ポリスが散在して対立する、混迷の時代となります。ギリシア世界においてこうした戦乱と混乱の続く中で、兵士の担い手だった市民層で没落する者が多く、傭兵に頼るようになり、ポリス市民としての自覚が薄れていきます。
本書は最後に、ギリシア世界の特徴として、性差が大きく、女性は概して抑圧されており、公然と活動する機会がほとんどなかったことや、奴隷の存在がプラトンやアリストテレスのような世界史上で一線級の哲学者でも大前提とされていたことを指摘します。こうして奴隷の存在が大前提となると、かつては叙事詩人ヘシオドスのように、労働は恥ではなく、働かないことこそ恥なのだ、といった観念から、紀元前4世紀には、農耕を含めて生産労働そのものが自由市民には厭わしい、といった観念へと変わっていき、本書はそこに、世界史における古典古代社会の特殊性を見ています。本書は、こうした観念の変化により、ポリス市民との自覚が希薄になっていったのではないか、と指摘します。本書はそうした古典古代のギリシア世界の際立った新しい特徴として「観察」を挙げており、ギリシア世界が近代に結びつく学問の基礎を築いたのは、そうした「新しさ」にあったのかもしれません。
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