楊海英『世界を不幸にする植民地主義国家・中国』

 2020年12月に徳間書店より刊行されました。電子書籍での購入です。本書は中国の独特なナショナリズムを「中国流官制ナショナリズム」と呼び、それが中国に支配されている地域や日本も含めてその近隣諸国にとって問題のある概念であるとともに、脅威となっていることを指摘します。本書が対象としている主要な(というかほぼ全ての)読者は日本人でしょうから、全体的には、日本人に中国への「甘い期待」というか「一方的な片想い」を見直すよう、提言する基調となっています。確かに、日本と中華人民共和国の国交成立(1972年)から1989年の天安門事件の頃までの「日中蜜月期」には、こうした提言が重要だったでしょうが、もう20年近くにわたって対中感情がずっと悪い日本社会においては、それを相対化する一般向け書籍の方が必要ではないか、とも思います。

 ただ、日本では前近代より「中国」というか中華地域への憧憬が強く、「日中蜜月期」の「中国に好意的な」言説が今でも根強く残っているというか、払拭できていない側面も多分にあるでしょうし、何よりも、経済規模でも多くの分野の技術でも中国が日本を圧倒的に上回った現在、もはや日本は「中国に勝てない」ので中国に従属せよ、との言説(じっさいには、そこまで露骨な表現ではないとしても、実質的には中国への従属を日本に迫る見解は次第に増えているようにも思います)も今後強化されるでしょうから、本書のように「中国」を相対化し、突き放すような言説は現在でも日本社会において重要なのではないか、とも考えています。

 日本から中国への「一方的な片想い」の事例としては、たとえば中華人民共和国成立以前では、日本社会における孫文への高い評価や好感が挙げられています。その孫文は強烈な漢民族(という概念は当時確立される過程にあった、と言えるかもしれませんが)主義者で、ダイチン・グルン(大清帝国)が日清戦争で敗北したことも、「異民族王朝」打倒の好機として歓迎していたくらいですが(関連記事)、本書は、孫文に代表される「駆逐する側」に関心が集まりがちな日本では、「駆逐される側」にも視線を転じる必要があるのではないか、と提言しています。

 著者はモンゴル人なので、漢人に「駆逐される側」でも、とくにモンゴルに分量を割いています。近代史において、中華人民共和国成立前からモンゴル人は漢人による迫害を受けてきましたが、とくに文化大革命期には漢人を主体とする中国政府から大きな被害を受け、本書はこれを「ジェノサイド」と評価しています。本書によると、当時、内モンゴル自治区には約140万人のモンゴル人が暮らしており、そのうち約346000人が逮捕され、少なくとも27900人が殺害され、約12万人には身体に障害が残るほど虐待されました。その「ジェノサイド」を正当化する論理として、「文明人」対「野蛮人」という構図が理論化されていた、と本書は指摘します。もちろん、中華人民共和国においては、農耕地帯の漢人が「文明人」、草原のモンゴル人が「野蛮人」とされます。これは、中国共産党の独創ではなく、かなりのところ「中国」の伝統的な世界観に由来する、と言えるでしょう。一方で本書の記述からは、モンゴル人には漢人の風習が「野蛮」に見えるのだろうな、と思えるところもあります。当然のことではありますが、安易に「文明」と「野蛮」の構図を設定し、大前提とすべきではないでしょう。

 本書はおもにモンゴルを対象として、中華人民共和国の少数民族地域の支配を植民地と批判します。内モンゴル自治区と中国の他地域で少なくとも公式には法律の適用に違いはないでしょうから、内モンゴル自治区や新疆ウイグル自治区などを「植民地」と厳密に定義できないようにも思いますが、中華人民共和国の少数民族地域支配が「植民地的」であることは、中華人民共和国が拡張志向の強い帝国主義国家であることともに否定できないように思います。本書には、私の見識では気づかない誤りや誇張や偏見もあるでしょうが、全体的には、近年のモンゴル語教育をめぐる動向などからも、中華人民共和国の体制教義的な歴史観や世界観よりも本書で提示された見解の方がはるかに妥当である、と私は確信しています。

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