オーストラリアの人類史
オーストラリアの人類史に関する概説(Gross., 2024)が公表されました。本論文はオーストラリアの初期人類史の概説で、おもに現生人類(Homo sapiens)のオーストラリアへの初期拡散に焦点を当てていますが、更新世の寒冷期には現在のオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きで、サフルランドを構成していました。また本論文は、現代のオーストラリア先住民における、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの相対的に強い遺伝的影響にも言及ししています。オーストラリアの人類史について、とくに考古学分野の最近の研究をよく把握できていなかったので、本論文は私にとってたいへん有益でした。ただ、本論文はオーストラリアへの人類最初の到来を7万年前頃もしくはそれ以前と想定していますが、この想定年代は早すぎるかもしれませんし(関連記事)、仮に7万年以上前にオーストラリアに人類が到達していても、現代のオーストラリア先住民との遺伝的つながりが殆どない可能性も考えられます。
●要約
アフリカから拡大した現生人類は、現在のオーストラリアとタスマニア島とパプアニューギニアから構成されるサフル大陸に7万年前頃に到達しました。ヒトの移動と環境変化をモデル化した研究は今や、遺伝学および考古学のデータを補完し、ヒトが新たな大陸をどのように征服したのか、より詳細な全体像を描きます。
●研究史
アフリカからの移住は更新世末(11700年前頃)までに南極大陸を除く全ての対立に到達し、狩猟採集民の祖先の印象的な功績です。後期更新世の拡大を調査している研究者は、ユーラシアにおける複雑な状況の解明に多大な努力を費やしてきており、ユーラシアでは、現生人類(Homo sapiens)が、アフリカから現生人類より速く拡散した人類集団の子孫であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)およびデニソワ人と重複し、混合しました。これら後者の人口集団【ネアンデルタール人とデニソワ人】は最終的に地球上から消滅し、現代人のゲノムに痕跡を残すだけとなり、現代人のゲノムでは、ネアンデルタール人からの遺産は非アフリカ系現代人のDNAの最大で4%を占めますが、デニソワ人のDNAはアジア南部【東南部】とオセアニアにおいてより希少かつ局在化しています(関連記事)。
その後のアメリカ大陸の征服は、重要な問題が依然として議論中とはいえ、とくにアマゾン地域の先コロンブス期住民がその環境をどの程度形成したのかについて、遺伝学と考古学のデータの組み合わせにより合理的によく網羅されています。対照的にオーストラリアでは、ゲノム研究は最近やっと行なわれ、考古学的発見は疎らで、それは部分的には、今ではオーストラリア大陸大半を占める極限環境条件や海面上昇による重要な景観の喪失のためです。最初のオーストラリア人の移動をモデル化し、そうした人々が曝された環境変化を考慮した最近の研究は、新たな大陸【オーストラリア大陸】における初期人類の拡散に関する理解の深化に新たな方法を提供します。
●移住のモデル化
オーストラリアの土地は、75000年前頃の後期更新世には大きく異なっていました。海面低下は、現在のパプアニューギニアとタスマニア島とオーストラリアが一つのより大きな大陸として結ばれていたことを意味し、これは、北西大陸棚の一部で当時はより大きな大陸の北部沿岸地域だった、ティモール島とオーストラリアの指すに因んで遡及的にサフルと呼ばれています。したがって、アジア南東部の陸地は【オーストラリアから】現在よりずっと近かったものの、スンダとサフルの大陸棚の間の島嶼群であるワラセアからサフルに最初のヒトが達するには、深水域の横断が依然として必要でした。ワラセア地域は、この地域の植物相と動物相がアジアとオーストラリアの両生物相と顕著に異な根ことに気づいたアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace、1823~1913年)にちなんで命名され、ウォレス線はワラセアをアジアから隔てます。サフルへの二つの進入経路が妥当な選択肢として考えられており、それは、ティモール島から現在のオーストラリアの北西部沿岸の水没地域へと向かう南方経路と、スラウェシ島を経由してパプアニューギニアへと向かう北方経路です。
オーストラリアのシドニー大学のトリスタン・サレス(Tristan Salles)氏およびフリンダース大学のイアン・モファット(Ian Moffat)氏とその同僚は、これら進入地点からの狩猟採集民人口集団の拡散をモデル化しました。以前のモデルとは対照的にこの研究は、氷期が後退し、気候が温暖化するにつれて、経路に沿った環境条件が経時的にどのように変化したのか、検討しました。この研究は、可能性の高い拡大を予測するため、狩猟採集民の採食いどうの数学的モデルを用いた初めての研究でもあります。いわゆるレヴィ飛行は、現代の狩猟採集民共同体の研究に用いられてきて、これらの人口集団の生存のための短距離と長距離の移動の最適選択を説明すると分かってきた、無作為歩行モデルの一種です。注目すべきことに、研究者は拡大速度を設定しなかったものの、そのモデルを考古学的データ点の助けによって較正しました。
これらのモデルによると、最初の到来は、水路や沿岸低地や他の適した環境に沿って、南方進入地点から全方向で拡大したかもしれません。西パプアの北方進入地点からは、二つの主要な経路が、現在はオーストラリアの最北端の2ヶ所の半島の陸地間のカーペンタリア湾である、カーペンタリア湖のどちらかの側に出現します。一般的に、モデル化された移動は事前に予測される経路を組み込みますが、以前の分析で仮定されてきた優先経路である、いわゆる高速道路に沿った移動に高度に焦点を当てた証拠を示しません。アメリカ合衆国ローガン市のユタ州立大学のステファニー・クラブツリー(Stefani Crabtree)氏と同僚は、最適経路としてこれらの高速道路を特定しました。たとえば、フリンダース大学のコーリー・ブラッドショー(Corey Bradshaw)氏と同僚は最近、オーストラリア大陸全域のヒトの拡散速度を推定するため、細胞状自動装置モデル化と組み合わせて、この高速道路を用いました。この研究は、ヒトがオーストラリア大陸に浸透するのに1万年間を要したかもしれない、との結論に達し、それは以前に提案された推定値の2倍の長さです。
より新しい研究で地図化されたより多様な拡散経路は、全ての既知の遺跡を通押し、研究者は、発見と大まかに一致する居住時期の予測が可能となります。重要なことに、この気候発達モデルと組みあわされたモデル化された経路によって研究者は、考古学的調査がまだ行なわれていないものの、成果をもたらすと証明されるかもしれない場所の予測が可能となります。対象となる一部の重要地域は今では海水に没しており、それには、サフルの移住にとって進入地点もしくはその一つだったかもしれない、オーストラリアへ北西部沿岸沖の大陸棚も含まれます。
●水没した土地
オーストラリアのグリフィス大学のカシー・ノーマン(Kasih Norman)氏と同僚は、北西大陸棚の広範な水深測定に基づいて、現在の海岸線を超えた景観をモデル化しました。サフルにおける最も可能性の高い到来時期である7万年前頃について、この研究は9000年前頃まで安定していた広範な群島を説明しました。これらの島々はワラセアの島々からの到来者にとって、ひじょうに類似した、したがって歓迎すべき生息地を提供しました。そこから、その後の世代はサフル本土へと拡大し、今ではキンバリーおよびアーネムランド(Arnhem Land)として知られている地域に到達したかもしれません。
2万年前頃となる最終氷期の最盛期であるその後の段階において、北西大陸棚は大きな淡水湖のある連続した陸地だったに違いありません。モデル化から、今では水没した地域がその期間には最大50万人を養えたかもしれない、と示唆されます。この好適期は14500~14100年前頃に急速な海面上昇を引き起こした融解水波動と、それに続く12000年前頃に恥じ来る第二の海面上昇によってかなり急速に終了しました。
北西大陸棚低地の住民は、キンバリーとアーネムランドのより高い土地に逃げたに違いなく、そこでは考古学的証拠がこの期間の岩絵の新様式の突然の出現を示します。以下の図1は、西オーストラリアキンバリーのビッゲ島(Bigge Island)のワリー湾(Wary Bay)の洞窟で、ウナンバル人(Wunambal)が描いた岩絵で、雲と雨の精霊を表している、ワンジナ(Wandjina)の姿を示しています。
●多様なゲノム
オーストラリア先住民は依然として、ゲノム科学により充分には把握されていません。これは、ヨーロッパ人の植民地主義者との断絶した関係、およびその結果としての先住民共同体における西洋の考えへの不信に基づいて、容易に説明できます。ヒトの歴史と生物学の理解において残る間隙の他に、ゲノム情報の不足も、先住民共同体にさらなる不利益を蓄積し、それは、ゲノム情報の不足が現代医療の恩恵の多くから先住民共同体を排除するからです。
オーストラリア先住民委員会は、オーストラリア国立大学で補完されている7000点の生物標本の歴史的収集を、先住民が多数を占める管財下に置くよう、提案しました。これは、2016年の先住民ゲノム国立研究所(National Centre for Indigenous Genomics、略してNCIG)の創設につながりました。NCIGはそれ以降、あらゆる生物医学研究が現代の基準に従って完全な知識のある同意で行なわれるよう、保証するために先住民共同体とともに機能してきました。
オーストラリア国立大学のマシュー・スリコックス(Matthew Silcocks)氏と同僚はNCIGとともに研究してきており、同組織の最近の取り組みにおいて、オーストラリア先住民159個体の標本から得られたゲノムデータを分析しました(関連記事)。この標本は、さまざまな気候条件の範囲を網羅しています。テイウィ諸島民59個体は、広範なパマ・ニュンガン(Pama–Nyungan)語族と無関係な言語集団からの初めての先住民ゲノムを表しています。一方で、オーストラリアの27の語族は、ゲノムではまだ表されていません。共同体の一部しか把握できていないにも関わらず、この研究は、オーストラリアがアフリカ外で最も顕著な遺伝的多様性を有している、という明確な証拠を見つけました。これは、ゲノムに反映されている人口史により説明できます。サフルの新世界へと拡散しながら、狩猟採集民は当初、大きな有効人口規模でつながりを保っていました。
注目すべきことに、パプア人はオーストラリア先住民から遅くとも30000~27000年前頃に隔離されました。オーストラリア先住民内の集団はその後で約1万年間孤立し、これは大陸内部の大半が棲みにくくなった気候変化を反映しています。テイウィ諸島民は19000年前頃に切り離され、これは海面上昇によりその故地が島へと縮小した数千年前のことでした。複数集団へのこれらの分岐は、オーストラリア大陸の豊富な言語多様性にも反映されています。
さまざまな変わりやすい気候地域で、人口は2万年前頃まで増加し、その後で減少しました。6000年前頃までに、大きな有効人口規模が、長期間孤立したままなので、独自の特徴的な遺伝的多様体を進化させた、小さいものの安定した人口集団に続きました。これらは多くの場合、共同体内で高度に同型接合的です。以前には認識されていなかった遺伝的多様性を網羅する参照ゲノムの所有は、医学的理由のため重要です。それは、世界の他地域のゲノムに存在しない遺伝的特徴は、医学的分析において病原性として誤って解釈されるかもしれないからです。さらに、薬物有害反応は、薬物検査された患者人口集団から遺伝的にずっと除外された先住民人口集団においてより可能性が高くなります。
この以前には隠されていた遺伝的多様性を考慮しないことから生じるかもしれない問題の劇的な影響はテイウィ諸島民ほぼ500人の最近の遺伝薬理学的研究により提供されます。クイーンズランド工科大学のスムドゥ・ランギカ・サマラシンゲ(Sumudu Rangika Samarasinghe)氏と同僚は、被験者全員が少なくとも1個の臨床的に関連する遺伝子型を有し、3/4が19ヶ所の薬理学的に重要な部位の選択でそのうち少なくとも3個を有している、と明らかにしました。
人口の半数以上が、鎮痛剤やスタチンや抗凝血剤や抗レトロウイルス剤や抗鬱剤や抗精神病剤を含めて、広く使用されている薬物の処理に影響を及ぼすと予測されている、遺伝的多様体を有していました。この人口集団におけるあらゆる薬物療法の前に、薬理ゲノミクスの検査が必要になり、薬理ゲノミクス研究は一般的により多様で包括的になるべきだろう、と研究者は結論づけています。オーストラリア大陸とその周辺の島々全体で、検討すべき多くのヒト多様性が依然としてあります。それは、約7万年かそれ以上のヒトの歴史に根ざしています。
参考文献:
Gross M.(2024): Ancient Australia. Current Biology, 34, 11, R513–R515.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.05.025
●要約
アフリカから拡大した現生人類は、現在のオーストラリアとタスマニア島とパプアニューギニアから構成されるサフル大陸に7万年前頃に到達しました。ヒトの移動と環境変化をモデル化した研究は今や、遺伝学および考古学のデータを補完し、ヒトが新たな大陸をどのように征服したのか、より詳細な全体像を描きます。
●研究史
アフリカからの移住は更新世末(11700年前頃)までに南極大陸を除く全ての対立に到達し、狩猟採集民の祖先の印象的な功績です。後期更新世の拡大を調査している研究者は、ユーラシアにおける複雑な状況の解明に多大な努力を費やしてきており、ユーラシアでは、現生人類(Homo sapiens)が、アフリカから現生人類より速く拡散した人類集団の子孫であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)およびデニソワ人と重複し、混合しました。これら後者の人口集団【ネアンデルタール人とデニソワ人】は最終的に地球上から消滅し、現代人のゲノムに痕跡を残すだけとなり、現代人のゲノムでは、ネアンデルタール人からの遺産は非アフリカ系現代人のDNAの最大で4%を占めますが、デニソワ人のDNAはアジア南部【東南部】とオセアニアにおいてより希少かつ局在化しています(関連記事)。
その後のアメリカ大陸の征服は、重要な問題が依然として議論中とはいえ、とくにアマゾン地域の先コロンブス期住民がその環境をどの程度形成したのかについて、遺伝学と考古学のデータの組み合わせにより合理的によく網羅されています。対照的にオーストラリアでは、ゲノム研究は最近やっと行なわれ、考古学的発見は疎らで、それは部分的には、今ではオーストラリア大陸大半を占める極限環境条件や海面上昇による重要な景観の喪失のためです。最初のオーストラリア人の移動をモデル化し、そうした人々が曝された環境変化を考慮した最近の研究は、新たな大陸【オーストラリア大陸】における初期人類の拡散に関する理解の深化に新たな方法を提供します。
●移住のモデル化
オーストラリアの土地は、75000年前頃の後期更新世には大きく異なっていました。海面低下は、現在のパプアニューギニアとタスマニア島とオーストラリアが一つのより大きな大陸として結ばれていたことを意味し、これは、北西大陸棚の一部で当時はより大きな大陸の北部沿岸地域だった、ティモール島とオーストラリアの指すに因んで遡及的にサフルと呼ばれています。したがって、アジア南東部の陸地は【オーストラリアから】現在よりずっと近かったものの、スンダとサフルの大陸棚の間の島嶼群であるワラセアからサフルに最初のヒトが達するには、深水域の横断が依然として必要でした。ワラセア地域は、この地域の植物相と動物相がアジアとオーストラリアの両生物相と顕著に異な根ことに気づいたアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace、1823~1913年)にちなんで命名され、ウォレス線はワラセアをアジアから隔てます。サフルへの二つの進入経路が妥当な選択肢として考えられており、それは、ティモール島から現在のオーストラリアの北西部沿岸の水没地域へと向かう南方経路と、スラウェシ島を経由してパプアニューギニアへと向かう北方経路です。
オーストラリアのシドニー大学のトリスタン・サレス(Tristan Salles)氏およびフリンダース大学のイアン・モファット(Ian Moffat)氏とその同僚は、これら進入地点からの狩猟採集民人口集団の拡散をモデル化しました。以前のモデルとは対照的にこの研究は、氷期が後退し、気候が温暖化するにつれて、経路に沿った環境条件が経時的にどのように変化したのか、検討しました。この研究は、可能性の高い拡大を予測するため、狩猟採集民の採食いどうの数学的モデルを用いた初めての研究でもあります。いわゆるレヴィ飛行は、現代の狩猟採集民共同体の研究に用いられてきて、これらの人口集団の生存のための短距離と長距離の移動の最適選択を説明すると分かってきた、無作為歩行モデルの一種です。注目すべきことに、研究者は拡大速度を設定しなかったものの、そのモデルを考古学的データ点の助けによって較正しました。
これらのモデルによると、最初の到来は、水路や沿岸低地や他の適した環境に沿って、南方進入地点から全方向で拡大したかもしれません。西パプアの北方進入地点からは、二つの主要な経路が、現在はオーストラリアの最北端の2ヶ所の半島の陸地間のカーペンタリア湾である、カーペンタリア湖のどちらかの側に出現します。一般的に、モデル化された移動は事前に予測される経路を組み込みますが、以前の分析で仮定されてきた優先経路である、いわゆる高速道路に沿った移動に高度に焦点を当てた証拠を示しません。アメリカ合衆国ローガン市のユタ州立大学のステファニー・クラブツリー(Stefani Crabtree)氏と同僚は、最適経路としてこれらの高速道路を特定しました。たとえば、フリンダース大学のコーリー・ブラッドショー(Corey Bradshaw)氏と同僚は最近、オーストラリア大陸全域のヒトの拡散速度を推定するため、細胞状自動装置モデル化と組み合わせて、この高速道路を用いました。この研究は、ヒトがオーストラリア大陸に浸透するのに1万年間を要したかもしれない、との結論に達し、それは以前に提案された推定値の2倍の長さです。
より新しい研究で地図化されたより多様な拡散経路は、全ての既知の遺跡を通押し、研究者は、発見と大まかに一致する居住時期の予測が可能となります。重要なことに、この気候発達モデルと組みあわされたモデル化された経路によって研究者は、考古学的調査がまだ行なわれていないものの、成果をもたらすと証明されるかもしれない場所の予測が可能となります。対象となる一部の重要地域は今では海水に没しており、それには、サフルの移住にとって進入地点もしくはその一つだったかもしれない、オーストラリアへ北西部沿岸沖の大陸棚も含まれます。
●水没した土地
オーストラリアのグリフィス大学のカシー・ノーマン(Kasih Norman)氏と同僚は、北西大陸棚の広範な水深測定に基づいて、現在の海岸線を超えた景観をモデル化しました。サフルにおける最も可能性の高い到来時期である7万年前頃について、この研究は9000年前頃まで安定していた広範な群島を説明しました。これらの島々はワラセアの島々からの到来者にとって、ひじょうに類似した、したがって歓迎すべき生息地を提供しました。そこから、その後の世代はサフル本土へと拡大し、今ではキンバリーおよびアーネムランド(Arnhem Land)として知られている地域に到達したかもしれません。
2万年前頃となる最終氷期の最盛期であるその後の段階において、北西大陸棚は大きな淡水湖のある連続した陸地だったに違いありません。モデル化から、今では水没した地域がその期間には最大50万人を養えたかもしれない、と示唆されます。この好適期は14500~14100年前頃に急速な海面上昇を引き起こした融解水波動と、それに続く12000年前頃に恥じ来る第二の海面上昇によってかなり急速に終了しました。
北西大陸棚低地の住民は、キンバリーとアーネムランドのより高い土地に逃げたに違いなく、そこでは考古学的証拠がこの期間の岩絵の新様式の突然の出現を示します。以下の図1は、西オーストラリアキンバリーのビッゲ島(Bigge Island)のワリー湾(Wary Bay)の洞窟で、ウナンバル人(Wunambal)が描いた岩絵で、雲と雨の精霊を表している、ワンジナ(Wandjina)の姿を示しています。
●多様なゲノム
オーストラリア先住民は依然として、ゲノム科学により充分には把握されていません。これは、ヨーロッパ人の植民地主義者との断絶した関係、およびその結果としての先住民共同体における西洋の考えへの不信に基づいて、容易に説明できます。ヒトの歴史と生物学の理解において残る間隙の他に、ゲノム情報の不足も、先住民共同体にさらなる不利益を蓄積し、それは、ゲノム情報の不足が現代医療の恩恵の多くから先住民共同体を排除するからです。
オーストラリア先住民委員会は、オーストラリア国立大学で補完されている7000点の生物標本の歴史的収集を、先住民が多数を占める管財下に置くよう、提案しました。これは、2016年の先住民ゲノム国立研究所(National Centre for Indigenous Genomics、略してNCIG)の創設につながりました。NCIGはそれ以降、あらゆる生物医学研究が現代の基準に従って完全な知識のある同意で行なわれるよう、保証するために先住民共同体とともに機能してきました。
オーストラリア国立大学のマシュー・スリコックス(Matthew Silcocks)氏と同僚はNCIGとともに研究してきており、同組織の最近の取り組みにおいて、オーストラリア先住民159個体の標本から得られたゲノムデータを分析しました(関連記事)。この標本は、さまざまな気候条件の範囲を網羅しています。テイウィ諸島民59個体は、広範なパマ・ニュンガン(Pama–Nyungan)語族と無関係な言語集団からの初めての先住民ゲノムを表しています。一方で、オーストラリアの27の語族は、ゲノムではまだ表されていません。共同体の一部しか把握できていないにも関わらず、この研究は、オーストラリアがアフリカ外で最も顕著な遺伝的多様性を有している、という明確な証拠を見つけました。これは、ゲノムに反映されている人口史により説明できます。サフルの新世界へと拡散しながら、狩猟採集民は当初、大きな有効人口規模でつながりを保っていました。
注目すべきことに、パプア人はオーストラリア先住民から遅くとも30000~27000年前頃に隔離されました。オーストラリア先住民内の集団はその後で約1万年間孤立し、これは大陸内部の大半が棲みにくくなった気候変化を反映しています。テイウィ諸島民は19000年前頃に切り離され、これは海面上昇によりその故地が島へと縮小した数千年前のことでした。複数集団へのこれらの分岐は、オーストラリア大陸の豊富な言語多様性にも反映されています。
さまざまな変わりやすい気候地域で、人口は2万年前頃まで増加し、その後で減少しました。6000年前頃までに、大きな有効人口規模が、長期間孤立したままなので、独自の特徴的な遺伝的多様体を進化させた、小さいものの安定した人口集団に続きました。これらは多くの場合、共同体内で高度に同型接合的です。以前には認識されていなかった遺伝的多様性を網羅する参照ゲノムの所有は、医学的理由のため重要です。それは、世界の他地域のゲノムに存在しない遺伝的特徴は、医学的分析において病原性として誤って解釈されるかもしれないからです。さらに、薬物有害反応は、薬物検査された患者人口集団から遺伝的にずっと除外された先住民人口集団においてより可能性が高くなります。
この以前には隠されていた遺伝的多様性を考慮しないことから生じるかもしれない問題の劇的な影響はテイウィ諸島民ほぼ500人の最近の遺伝薬理学的研究により提供されます。クイーンズランド工科大学のスムドゥ・ランギカ・サマラシンゲ(Sumudu Rangika Samarasinghe)氏と同僚は、被験者全員が少なくとも1個の臨床的に関連する遺伝子型を有し、3/4が19ヶ所の薬理学的に重要な部位の選択でそのうち少なくとも3個を有している、と明らかにしました。
人口の半数以上が、鎮痛剤やスタチンや抗凝血剤や抗レトロウイルス剤や抗鬱剤や抗精神病剤を含めて、広く使用されている薬物の処理に影響を及ぼすと予測されている、遺伝的多様体を有していました。この人口集団におけるあらゆる薬物療法の前に、薬理ゲノミクスの検査が必要になり、薬理ゲノミクス研究は一般的により多様で包括的になるべきだろう、と研究者は結論づけています。オーストラリア大陸とその周辺の島々全体で、検討すべき多くのヒト多様性が依然としてあります。それは、約7万年かそれ以上のヒトの歴史に根ざしています。
参考文献:
Gross M.(2024): Ancient Australia. Current Biology, 34, 11, R513–R515.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.05.025
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