金子拓『長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、長篠合戦の「実像」だけではなく、通俗的な長篠合戦像の形成過程も検証しており、新書であることを意識してか、一般向けに分かりやすい構成になっているように思います。近代以降の長篠合戦像の基礎となったのは参謀本部編纂の『日本戦史』で、その認識を広く一般に広めたのは徳富蘇峰『近世日本国民史』でした。そうした状況で、『日本戦史』において特筆されていたわけではない長篠合戦を戦術革命とする認識が、日本史研究者の見解が徳富蘇峰などにより採用されていくことで、浸透していきました。そうした長篠合戦画期説は、吉川英治や山岡荘八の小説などによりさらに一般に浸透していき、司馬遼太郎の小説により、現在も大きな影響力を有する長篠合戦像が広く定着します。ただ、小説の長篠合戦像が司馬遼太郎的な認識に染まったわけではないようです。

 本書は1575年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)5月21日の長篠合戦へと至る経緯も、武田信玄による徳川領侵攻までさかのぼって詳しく検証しており、織田信長と徳川家康と武田勝頼の思惑も考察しています。勝頼が、提携している本願寺を信長が攻撃する、との情報を得たことも、徳川領への武田軍の侵攻を促したようですが、勝頼は岡崎城の徳川家臣の武田への内通を期待していたようで、これは1575年4月と推測される大岡弥四郎事件につながったようです。この謀叛が鎮圧もしくは未遂に変わったことで、武田軍は岡崎城ではなく野田方面に進軍したようです。勝頼は長篠城を攻める前から信長の動向を気にしていたようですが、この時点で信長にとっての主敵は本願寺だったようです。本書は、信長が長篠合戦において軍勢を隠すような布陣で臨み、馬防柵を築いたのは、武田軍に防御的に対応し、対本願寺戦のため兵力の損失をできるだけ防ごうとしたからではないか、と推測します。

 長篠合戦の経過について、信長は家臣や上杉謙信に書状で伝えています。信長は、数万人を討ち果たした、と伝えるなど戦果を誇張しているところもあります。一方勝頼は、家臣宛の書状で、先手となった部隊に損害があったことと、無事だった家臣の名前を告げています。長篠合戦について、信長が明らかに勝ったと認識し、その戦果を(過大気味に)誇っているのに対して、勝頼は、さすがに勝ったとまでは述べていないものの、曖昧な表現になっています。大将以外の長篠合戦参加者の証言もあり、直接本人が書き残したわけではないとしても、本人の語りを伝えた史料は存在し、織田方では前田利家の証言が伝わっています。本書は、こうした長篠合戦に参加した人々の直接的な書状や語りを伝えた史料から、午後2時頃には決着がついていた、と指摘します。ただ、開戦時間には違いがあり、午前5時から午後0時までさまざまです。武田軍は、部隊ごとに入れ替わりながら突入してきたようで、全軍での一斉攻撃ではありません。織田・徳川軍は、基本的には柵の外に出ないで戦ったようです。

 鉄砲の役割については、特筆する史料も触れない史料もあります。本書は、長篠合戦における鉄砲の役割が、江戸時代以降の文献で強く印象づけられるようになったことを指摘します。これは長篠合戦における他の要素についても同様で、たとえば長篠合戦で顕著な武功を示した酒井家と奥平家に残る史料から、もともと共有されていた長篠合戦をめぐる話に、さまざまな情報や挿話が付加されていったことを、本書は指摘します。また本書は長篠合戦に関する、文字記録だけではなく絵画も取り上げています。戦いを絵にすることは、すでに中世初期の12世紀頃に始まったようで、長篠合戦の時点では長い伝統があったわけです。

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