チベット高原西部の人口史

 チベット高原西部の人類集団の古代ゲノムデータを報告した研究(Bai et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。チベット高原は、現生人類(Homo sapiens)のみならず、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の存在も確認されており、その独特な人類進化史で注目されています(関連記事)。これまでにもチベット高原内部の人口構造が調べられてきましたが(関連記事)、チベット高原西部の人口史は、長期間を網羅する古代ゲノムの不足のため、解明が進んでいません。本論文は、チベット高原西部地域のガリ(Ngari)地区の3500~300年前頃となる65個体のゲノム規模データを報告し、この地域ではチベット高原内外の人口集団との相互作用を維持しながら、3500年前頃以降に遺伝的連続性を維持してきた、と示しています。


●要約

 チベット高原西部は、チベット高原とアジア中央部とアジア南部の間の交差点で、これらの地域をつなぐヒトの移動経路かもしれません。しかし、チベット高原西部の人口史は、この地域の長期間を網羅する古代ゲノムの不足のため、ほとんど調べられていないままです。本論文では、チベット高原西部地域のガリ(Ngari)地区の3500~300年前頃となる65個体のゲノム規模データが報告されました。古代チベット高原西部人口集団は、その遺伝的構成要素の大半をチベット高原南部の人口集団と共有しており、チベット高原の内外の人口集団との相互作用を維持しながら、3500年前頃以降遺伝的連続性を維持してきました。

 チベット高原内では、古代のチベット高原西部人口集団が、1800年前頃以前にチベット高原の南部から南西部への追加の拡大に影響を受けました。チベット高原外では、チベット高原西部の人口集団はアジア南部および中央部の人口集団と少なくとも2000年前頃には相互作用しており、アジア南部関連の遺伝的影響が、ひじょうに限定的にも関わらず、インダス川流域のインダス川流域文明(Indus Valley Civilization、略してIVC)【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「Civilization」を「文明」と訳します】ではなく、アジア中央部のIVC移民に由来しました。新たな遺伝学的データに照らすと、本論文は、チベット高原全域およびチベット高原内の複雑な人口集団の相互作用を明らかにしました。


●研究史

 チベット高原はアジアの東部と中央部と南部の交差点に位置しており、厳しい低酸素環境とともに高い標高により特徴づけられます。低気圧条件や低温や乾燥した気候や高い太陽放射量などを含むこれらの環境的制約にも関わらず、遺伝学的研究から、チベットの高地の現代人は長期の遺伝的連続性を有しており、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前にチベット高原に居住してきた、と示されています【LGM前のチベット高原の人類集団がチベット高原の現代人と遺伝的につながりがあるのか、まだ確定的とは言えないと思いますが】。じっさい、考古学的および遺伝学的証拠は、過去数千年にわたるチベット高原での動的な人口集団の相互作用を示唆しています。これはとくに、チベット高原の北東部など低地地域と隣接する地域において明らかです。考古学と遺伝学両方の証拠は、チベット高原北東部の古代人と、チベット高原に雑穀農耕をもたらした可能性が高い低地アジア北東部人口集団との間の活発な相互作用を示唆しています(関連記事1および関連記事2)。

 チベット高原では、西部は北東部と地理的に異なります。まず、チベット高原西部はほぼ声地の乾燥した草原地帯で、平均標高はチベット高原北東部地域より1500m高い4500mです。さらに、チベット高原西部は、南方ではヒマラヤ山脈の内側、北方では崑崙山脈に隣接しています。この高地と山岳地帯の境界は、ヒトの活動、とくにチベット高原外の人口集団との相互作用に大きな困難を課すと予測されます。それにも関わらず、チベット高原の西端で確認された人工遺物の特徴は、チベット高原周辺のさまざまな文化との類似性を示しており、ある程度の文化的相互作用を示唆しています。注目すべきことに、サングダロングオ(Sangdalongguo、略してSDLG)遺跡やグルヤム(Gurugyam)遺跡やチュヴタグ(Chuvthag)遺跡で発見された黄金の仮面や木製の小像や柄付き鏡は、ネパールやインド亜大陸北西部や新疆ウイグル自治区やユーラシア中央部草原地帯とさえの、相互作用とつながっているかもしれません。さらに、ジー(Dzi)ビーズ(精神的ご利益があると信じられている、銘刻された瑪瑙の玉髄の装飾品)は、類似したビーズの製作技術のため、早くもIVC(インダス川流域「文明」)期に古代インドとつながりがあった、と提案されています。しかし、チベット高原へのこの技術の伝播の経路と過程については、多くの議論があります。

 人口史の理解は、経時的なチベット文化の変容の理解にも重要です。たとえば、チベット高原西部の古代王国であるグゲ(Guge)は、チベット高原全域での仏教の拡大に役割を果たし、カシミールと他のアジア中央部の領域との間の頻繁な文化と交易の交流を行なっていました。しかし、これらの文化的交流が人口移動を含んでいたのかどうかは、不確実なままです。さらに、現在のチベット人は独特な慣行を示し、たとえば、チベット社会内におけるさまざまな割合での一夫一妻と一夫多妻制と一妻多夫の共存です。そうした多様性がチベット文化において一貫して存在しているのか、あるいは最近発達したのかどうかは、不明なままです。

 関連する文化的変化とともに、西チベット人と周辺人口集団との間の古代の相互作用へのさらなる洞察を得るため、3500~300年前頃となるガリ地区の6ヶ所の遺跡の古代人遺骸の配列決定が行なわれ、刊行されているデータと合わせて分析されました。ゲブサイル(Gebusailu、略してGBSL)遺跡の個体群からは、この地域の最古級のヒトの遺伝的データが得られ、3500年前頃までさかのぼります。さらに、古代グゲ王国の最後の住民を埋葬した、と考えられていたグゲ洞窟の1個体が配列決定されました。3500~150年前頃にわたるチベット高原西部に焦点を当てた最初の包括的な古代DNA研究として、本論文の目的は、初期チベット高原西部人口集団の遺伝的特性を示し、チベット高原内外両方の近隣人口集団との複雑な歴史的相互作用を解明することです。


●標本

 ガリ地区の6ヶ所の遺跡の65個体について、約120万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)でゲノム規模データが生成されました(図1)。17個体の直接的な放射性炭素年代測定から、この17個体は較正年代(1950年が基準)で3498~296年前頃に生きていた、と示されました。汚染水準が高く(5%超)、SNP数が少ない(1万未満)の標本の除去あと、64個体が保持されました。これら64個体全体で、配列決定深度の範囲は0.01~8.40倍で、SNP数の範囲は11483~1017598でした。チベット高原全体および周辺地域の以前に刊行された現代人および古代人のゲノムデータが本論文の新たなデータと組み合わされ、チベット高原西部人口集団の遺伝的動態および人口動態が調べられました。以下は本論文の図1です。
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●古代チベット高原西部人口集団の遺伝的な特徴および起源

 古代チベット高原西部個体群の遺伝的特徴を理解するため、多様な現在のユーラシア人口集団で訓練された主成分分析(principal component analysis、略してPCA)図に、古代チベット高原西部個体群が投影されました。古代チベット高原西部個体群はともにクラスタ化し(まとまり)、他の古代および現在のチベット人口集団の範囲内に収まります(図2A)。この観察は、外群f3ヒートマップによりさらに裏づけることができ、全てのチベット高原西部の遺跡の個体群は、外れ値2個体を除いて他の古代チベット高原人口集団とクラスタ化しました(図2B)。具体的には、外れ値2個体を除いて、全てのチベット高原西部個体は類似した祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成要素を共有しており、それは標本の年代に関係なく、他の古代チベット高原人口集団と最も密接でした(図2C)。以下は本論文の図2です。
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 全ての古代チベット高原人口集団のうち、古代チベット高原西部人口集団は古代のチベット自治区ウー・ツァン地域の山南(Shannan)およびシガツェ(Shigatse)人口集団、他の古代チベット高原人口集団より近い、と示されました(図2A・B)。初期チベット高原西部痔と他の古代チベット高原人口集団との間の遺伝的関係にさらに取り組むため、D統計を用いて、本論文で最古となるガリ地区の人口集団である3500年前頃のGBSL人口集団(GBSL_古)と、チベット高原のさまざまな地域の他の古代人口集団との間で共有される遺伝的浮動が測定されました。他の古代チベット高原人口集団と比較して、3500年前頃のGBSL人口集団は、チベット高原南部の人口集団、とくに3000年前頃の山南の人口集団とより多くの遺伝的浮動を共有しています。

 一方で、ガリ地区の個体群は他のチベット高原古代人と比較してアジア中央部人と全体的により近くにクラスタ化し、ADMIXTUREではアジア中央部もしくは南部祖先系統を少量有しています(図2C)。そこで、ガリ地区の人口集団がアジア中央部もしくは草原地帯人口集団からの追加影響を受けたのかどうか、評価されました。しかし、D統計では、3500年前頃となるGBSL遺跡の最古級の個体群(GBSL_古)は、チベット高原南部の同時代およびより新しい人口集団と比較して、アジア中央部もしくは南部の遺伝的構成要素を有意により多く示さない、と分かりました。

 ガリ地区人口集団の祖先の遺伝的構成要素を調べるため、D統計に基づくモデル化手法であるqpAdmを採用して、さまざまなガリ地区人口集団の最適な代理祖先人口集団(「供給源」)の特定と定量化が行なわれました。その結果、3500年前頃のGBSL人口集団は3000年前頃のチベット高原南部人口集団により1方向モデル化できる、と分かりました。この人口集団は2方向でもモデル化でき、有意な混合年代はDATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)を用いて推定できますが(平均119世代、95%信頼区間では53~184世代)、アジア中央部もしくは草原地帯関連構成要素の割合は3%未満です。したがって、チベット高原西部の初期人口集団には、アジア中央部もしくは草原地帯人口集団と数千年前に散発的な相互作用があったものの、アジア中央部もしくは草原地帯人口集団の遺伝的影響は限定的である可能性が高そうです。

 最古級のガリ地区個体群の祖先系統は、チベット高原南部の人口集団と密接にクラスタ化しましたが、より新しいガリ地区の個体群は、アジア中央部および南部の人々との類似性を示しました。他の古代チベット高原個体群と比較して、ピヤングジウェング(Piyangjiweng、略してPYJW)遺跡とサングダロングオ(Sangdalongguo、略してSDLG)遺跡の個体群は、現在のアジア中央部および南部の人口集団の方へとわずかに動いているものの、外れ値2個体(グゲ王国の1個体とSDLG遺跡の1個体)は、チベット人とアジア中央部/南部現代人との間に位置します(図2A)。これらの個体群の有する追加の遺伝的構成要素は、モデルに基づく教師なしクラスタ化(ADMIXTURE)を用いて、多様なユーラシア西部人口集団で観察できます(図2C)。したがって、全体的に、チベット高原西部の初期人口集団の主要な遺伝的構成要素は、チベット高原南部の古代人口集団に由来しました。2300年前頃およびその後の遺跡群におけるチベット高原西部人口集団のみが、アジア中央部もしくは南部人口集団からの有意な遺伝的影響を受けました。


●ガリ地区北西部人口集団の3500年前頃以降の遺伝的連続性

 ここでは、3500~150年前頃となるチベット高原西部の8ヶ所の遺跡から得られた、新規および以前に報告されたゲノムデータ両方が分析されました。これら8ヶ所の遺跡のうち6ヶ所は、GBSLとラガ(Laga)とPYJWとSDLGとグゲとゲリタング(Gelintang、略してGLT)を含んでおり、ガリ地区北西部で地理的に近くに位置していました(図1A)。これらの標本の時間的網羅により、ガリ地区北西部における長期の遺伝的連続性の調査が可能となりました。

 標本抽出されたガリ地区北西部人口集団全体で、全体的に保存された祖先系統が見つかりました。qpAdmは、ガリ地区北西部の6ヶ所の遺跡全ての個体の主要な遺伝的構成要素から構成される、3500年前頃のGBSL祖先系統を示しました。興味深いことに、高度に保存された遺伝的構成要素が、過去1200年間にわたって34kmの距離の異なる2ヶ所の遺跡の個体群で観察されました。具体的には、3500年前頃のGBSL祖先系統は、2300年前頃のGBSLおよびラガ遺跡の個体群により共有されていました。3500年前頃のGBSLの1個体と比較して、2300年前頃のGBSL遺跡およびラガ遺跡の個体群は、他の人口集団からもたらされた余分な遺伝的構成要素は、を有していません(図3A)。これはqpAdmによりさらに確証され、2300年前頃のGBSL遺跡およびラガ遺跡の個体群は3500年前頃のGBSL遺跡個体群による1方向でモデル化でき(図3D)、同じ祖先系統がこれらの個体群で維持されてきた、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
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 わずかに弱い遺伝的連続性がいくつかのより新しい人口集団で観察され、2300年前頃のPYJW個体群と2000年前頃のSDLG個体群は、それ以前の3500年前頃となるGBSL遺跡の1個体と約96%の遺伝的構成要素を共有しています。SDLG遺跡の数個体は、とくに12cM(センチモルガン)以上の同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)をより多く有しており、SDLG8とSDLG15とSDLG17の割合の範囲は21~24%で、最近の近親交配事象を示唆しているかもしれません(関連記事)。ガリ地区外の人口集団からの遺伝子流動は、2300年前頃より新しい人口集団で検出され、3500年前頃のGBSL祖先系統の水準は、最も新しいGLT個体(120年前頃)では約86%に減少していました(図3D)。これらの観察から、ガリ地区北西部の初期人口集団は高度に保存された遺伝的構成要素と限定的な遺伝子流動が優勢で、祖先の遺伝的構成要素のわずかな希釈につながった後の人口集団の混合の増加にも関わらず、比較的高水準の遺伝的連続性が過去3500年間にわたって維持されてきた、と示唆されました。


●ガリ地区人口集団と他のチベット高原人口集団との間の相互作用

 古代ガリ地区人口集団と他のチベット高原人口集団との間のつながりを理解するため、ガリ地区人口集団とチベット高原南部で標本抽出された人口集団(たとえば、山南やシガツェ)との遺伝的関係が調べられ、それは、密接な類似性がPCAと外群f3ヒートマップにおいてこれらの人口集団間で観察されたからです(図2A・B)。標本抽出されたガリ地区人口集団のうち、孔雀川(Kongque River)地域の1800年前頃のプランドゥオワ(Pulanduowa、略してPLDW)遺跡人口集団は、3500年前頃のGBSL個体群(GBSL_古)よりも3000年前頃のチベット高原南部の人口集団(山南遺跡の3000年前頃の個体)とクラスタ化し、これはD統計により裏づけられます(図3B)。

 qpAdmを用いての混合モデル化は類似の結果を示し、PLDW人口集団は山南遺跡の3000年前頃の個体にその祖先系統の全てが由来します(図3D)。3500年前頃のGBSL個体群(GBSL_古)と比較して、シャンクアン川(Xiangquan River)上流域の1600年前頃のクーロングサッハ(Qulongsazha、略してQLSZ)遺跡の人口集団は、3000年前頃のチベット高原南部人口集団(山南遺跡の3000年前頃の個体)とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有していましたが、D値は有意ではありません(図3B)。循環qpAdmの結果では、QLSZ遺跡人口集団は山南遺跡の3000年前頃の個体もしくはGBSL_古のどちらかによって1方向でモデル化できます。これらの結果をD統計の結果と組み合わせると、QLSZ遺跡人口集団の遺伝的構成要素はチベット高原南部人口集団と地元のガリ地区人口集団との間に位置する、と示唆されました。これは予想外ではなく、それは、PLDW遺跡がシガツェおよび山南地域に隣接するガリ地区南東部に位置しており、QLSZ遺跡はPLDW遺跡と他のガリ地区北西部遺跡との間に位置しているからです(図1A)。

 しかし、チベット高原南部人口集団の遺伝的影響はガリ地区北西部には到達せず、それは、ガリ地区北西部の1200年前頃のGBSL遺跡やラガ遺跡やPYJW遺跡や2000年前頃のSDLG遺跡の個体群が、3500年前頃のGBSL個体群と比較して、チベット高原南部/南西部の人口集団と同水準の遺伝的つながりを示したからです。3500年前頃のGBSL個体群はすでに同時代のチベット高原南部人口集団との密接な遺伝的類似性を有してたので、本論文の結果から、古代ガリ地区南部人口集団は、少なくとも1800年前頃には、シガツェ地区から山南地区へと古代の人口集団による影響をさらに受けた、と示されました。「南部から南西部への」チベット人の影響は、地理的位置と相関する遺伝的勾配を示し、ガリ地区北西部には到達しませんでした。


●ガリ地区人口集団とIVC関連人口集団との間の相互作用

 考古学的研究では、チベット高原西部の人口集団は新疆地域やアジア中央部および南部のような周辺地域との密接な文化的つながりを有している、と示されています。先行研究では、アジア中央部関連祖先系統はチベット高原西部に早ければ2300年前頃に影響を及ぼし、最近の歴史時代まで維持された、と明らかになりました(関連記事)。しかし、古代のチベット高原西部人口集団が、アジア中央部以外の地域の人口集団と相互作用したのかどうか、外来の遺伝的影響は経時的にどのように変化したのかは、不明なままでした。

 3500~150年前頃のチベット高原西部および近隣の人口集団間の相互作用を評価するため、さまざまな期間のチベット高原西部人口集団と多様なユーラシア古代人との間で共有される浮動が、D統計を用いて比較されました。SDLG遺跡の全個体のうち、1900年前頃の1個体(SDLG_o)はPCA図において現在のアジア中央部および南部人口集団へと動いている(図2A)と分かり、追加のアジア中央部および南部との遺伝的つながりを示します(図3C)。じっさい、これは多様なアジア中央部および南部人との有意な共有される浮動を示した、SDLG遺跡の唯一の個体です。

 この個体(SDLG_o)のアジア中央部および南部人との遺伝的類似性に寄与した人口集団を判断するため、qpAdmに実装されている「循環構成」が採用されました。実行可能モデルと実行不可能モデルの区別のため、参照一式へと供給源人口集団が循環され、それは、アジア中央部および南部の可能性のある供給源人口集団が密接に関連していたからです(関連記事)。その結果、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)IVC勾配人口集団、つまりシャール1・ソクタ(Shahr I Sokhta)遺跡個体(SIS_BA2)_BA2もしくはゴヌル(Gonur)遺跡個体(ゴヌル2_BA)とチベット祖先系統を含む2方向混合のみが実現可能だった、と分かりました。

 他のガリ地区北西部人口集団のモデル化の結果とともに一貫して分析できるように、GBSL_古+SIS_BA2がSDLG_oの代表モデルとして選択されました(図3D)。この結果は模擬実験によりさらに裏づけられ、その模擬実験では、SIS_BA2祖先系統の割合が本論文のqpAdm モデル化により推定された範囲内に収まる場合、SDLG_oと混合した2供給源人口集団(SIS_BA2とGBSL_古)を用いて模擬実験されたコンピュータで計算された(in silico)個体との間の追加の遺伝子流動は検出されませんでした。

 興味深いことに、SIS_BA2の外れ値は地理的にアジア中央部(イラン)に位置していますが、遺伝的には、アンダマン諸島狩猟採集民関連祖先系統(おそらくは標本抽出されていないアジア南部先住民)を有しており、その独特な遺伝的特性は古代ハラッパ(Harappan)祖先系統と一致します(関連記事)。この祖先系統(IVC)は以前に、IVC内に分布し、いくつかのアジア中央部人口集団に広がった、と示唆されましたが、本論文では、この祖先系統がチベット高原へとさらに拡大し、2000年前頃に在来人口集団と混合したかもしれない、と示されました。


●古代グゲ王国の1個体の遺伝的特性

 グゲ洞窟の歴史時代の1個体の遺伝子も調べられました。グゲは10世紀半ばに樹立された古代の王国で、700年間栄え、1635年に謎の崩壊に至りました。その住民はトゥプト(Tubo、吐蕃)の子孫と考えられており、チベット高原全域にわたる仏教拡大に役割を果たしました、この新たに配列決定された1個体は、放射性炭素年代測定で422~151年前頃と推定され、これはグゲ王国末に向かう期間に収まります。他の古代チベット人と比較して、この個体は外れ値で、アジア中央部および南部人との余分な遺伝的類似性を示しましたが、SDLG_oほどではありませんでした(図2A)。

 また、同時代の100年前頃となるGLT遺跡の1個体と比較すると、アジア中央部人からの有意な遺伝子流動がこのグゲ個体で検出されました。具体的には、qpAdm混合モデル化において、このグゲ個体は約33%のアジア中央部関連祖先系統と約67%のガリ地区在来祖先系統を有していました(図3D)。混合に由来すると推定されるこのアジア中央部祖先系統は、1353年頃に置きました(95%信頼区間で1191~1516年)。これは、他の同時代のチベット高原西部人と比較しての、グゲ王国とアジア中央部人との間の比較的活発で動的な相互作用を示唆します。


●初期チベット高原西部社会における複雑な相続慣行

 チベット高原西部人口集団の相続慣行を理解するため、Y染色体およびミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプロタイプの多様性が調べられ、いくつかの人口集団の家系図が再構築されました。興味深いことに、低いY染色体多様性が2300年前頃のGBSL遺跡および1800年前頃のPLDW遺跡の個体群で観察されました。2300年前頃のGBSL遺跡の全男性のY染色体ハプログループ(YHg)はD1a1a1で、1800年前頃のPLDW遺跡の全男性のYHgはO2a2b1でした。両YHgは、中国のチベット・ビルマ語派話者の特徴です。低い父系の遺伝的多様性と比較して、両遺跡では母系の遺伝的多様性が比較的高くなっています(表1)。

 次に、常染色体と母系(mtDNA)および父系(Y染色体)のハプログループと遺伝的性別から個体間の遺伝的近縁性が組み合わされ、家系図が再構築されました。この情報すべてを活用した後で、2300年前頃のGBSL遺跡の墓で父親1人とその息子2人を含む2世代の1家族が見つかりました(図4A)。さらに、1600年前頃のQLSZ遺跡では、4人の子供がいる男性1人の子孫の、3世代の系統が再構築されました(図4B)。QLSZ遺跡の3世代の系統の第3世代は、男性個体ではなく女性個体を通じて第2世代とつながっていました。第1世代の男性を除いて、子供4人全員のmtDNAハプログループ(mtHg)はM62b1です。興味深いことに、第2世代の男性と第3世代の男性は同じ墓M5に埋葬されていました。QLSZの墓の家族と母系でのみ関連している男性1個体の存在は、2300年前頃のGBSL遺跡の墓における男性優位の家系図とは異なる相続慣行を示唆しました。以下は本論文の図4です。
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●考察

 本論文では、3500~300年前頃のガリ地区の65個体から新たに生成されたゲノムデータを用いて、過去3500年間のチベット高原西部人口集団の遺伝的歴史が再構築されました。一般的に、チベット高原西部の古代人口集団は、チベット高原内外の人口集団との複雑で動的な相互作用とともに、全体的な遺伝的組成において遺伝的類似性を示します。チベット高原内では、GBSL遺跡を含む西部の初期人口集団は、軟部の人口集団と最も密接です。その後、1800年前頃となるPLDW遺跡および1600年前頃となるQLSZ遺跡に代表されるガリ地区南東部の人口集団は、チベット高原南部の古代の人口集団からの追加の遺伝的影響を示します。チベット高原外では、古代のチベット高原西部人口集団には、少なくとも2000年前頃にはアジア中央部および南部の人口集団との相互作用がありました。2300年前頃以降、PYJW遺跡の個体群は青銅器時代アジア中央部人口集団による影響を受け、2000年前頃以後、SDLG遺跡の外れ値1個体が青銅器時代のIVC人口集団と関連する遺伝的構成要素による影響を受けました。

 チベット高原内のさまざまな地域における古代の人口集団の遺伝的特徴と相互作用と具体的な定住過程は、依然として不明です。本論文の結果は、チベット高原西部の古代の人口集団の遺伝的特徴のより深い理解を提供し、それはこの地域に到来した古代の人口集団の過程を示唆しています。2300年前頃にさかのぼるチベット高原西部で最古級となる以前に報告されたPYJW人口集団は、チベット高原南部の隣接する人口集団と比較して、アジア中央部と関連する遺伝的構成要素をすでに、有意により多く有しています(関連記事)。これらアジア中央部の遺伝的構成要素は、最近の混合の結果か、チベット高原西部地域におけるアジア中央部関連人口集団のそれ以前の定住を示唆しているかもしれません。本論文の結果から、3500年前頃のGBSL人口集団や、PYJWと同じ期間のGBSLおよびラガ人口集団が、3000年前頃のチベット高原南部の人口集団と最も密接に関連している、と明らかになります。

 重要なことに、そうした人口集団はアジア中央部もしくは南部からの有意により多い遺伝的構成要素を示しません。これが示唆するのは、3500年前頃のGBSL人口集団により表されるチベット高原西部の初期人口集団は、おもにチベット高原南部の人口集団から遺伝的構成要素を継承し、アジア中央部もしくは南部の遺伝的構成要素の影響はその後で顕著になった、ということです。しかし、チベット高原西部の人口集団がそれ以前の期間にアジア中央部関連痔と混合したものの、アジア中央部関連構成要素はその後で希釈された可能性もあります。新たな結果と以前に報告された結果を組み合わせると、3500年前頃にチベット高原西部にはアジア中央部もしくは南部関連人口集団の定住があった可能性は低そうですが、チベット高原西部に最初に定住した人口集団遺伝的特徴については、さらなる調査が必要です。

 全体的な遺伝的特徴に加えて、チベット高原西部の人口集団内の遺伝的構造も調べられました。興味深いことに、チベット高原西部の人口集団間の遺伝的類似性は、その文化的類似性と密節に一致しています。GBSLやPYJWやSDLGやGLTといった遺跡のようなガリ地区北西部の近隣墓地は、その埋葬形態と文化的遺物において比較的類似しており、この文化様式がひじょうに長期間この地域で安定した存在していたことを示唆しています。同時に、その遺伝的組成も全体として安定していました。

 ガリ地区南東部では、PLDWおよびQLSZ遺跡が相互と類似した考古学的特徴を共有していましたが、上述のガリ地区北西部の遺跡とは区別され、遺伝学でも対応する分離が見つかりましたるさらに、本論文の結果から、PLDW遺跡およびQLSZ遺跡の人口集団は初期の地元のガリ地区人口集団よりも、チベット高原南部の人々からの追加の祖先を有していた、と明らかになります。このパターンは、チベット帝国(トゥプト)の樹立と西方への拡大の前(6~7世紀)となるチベット高原南部からの西方への拡大(1800年以上前)を示唆しているかもしれませんが、この仮説の確証には、この地域に定住していたそれ以前のチベット人の遺伝的データが必要です。これは、チベット高原の南部と西部の人口集団間の相互作用が、歴史的記録で示唆されていたよりもずっと複雑だったことを示唆しています。

 本論文の結果は、チベット高原西部とチベット高原外の人口集団間の相互作用の調査への詳細もより多く提供します。たとえば、先行研究が、3500年前頃のGBSL遺跡を含む初期のチベット高原西部の遺跡と、チョクホパニ(Chokhopani)やメブラク(Mebrak)やサムヅォング(Samdzong)のような2500~1200年前頃のネパール北部の遺跡との間の文化的つながりを示唆しているにも関わらず、本論文の結果は、3500年前頃のGBSL遺跡人口集団がヒマラヤの人々よりもチベット高原南部古代人の方と密接な遺伝的祖先系統を有していた、と示しました。SDLG遺跡ではチベット高原において最初の新疆様式の木製の小像が発掘されましたが、SDLG遺跡のほとんどの個体は外れ値の1個体を除いて、3500年前頃のGBSL遺跡個体群よりも古代新疆の人口集団の方との余分な遺伝的類似性をごくわずかしか有していません。これは、初期のチベット高原西部とネパール北部と新疆の間の類似した遺物の発掘は、実質的な人口移動ではなく文化的交流によりおもに水村されたことを示唆しているかもしれません。

 チベット高原西部の人口集団間の外部からの遺伝的影響の最も顕著な兆候は、SDLG遺跡の1900年前頃の外れ値1個体に由来します。本論文の調査結果から、この外れ値個体は青銅器時代IVC人口集団と関連する遺伝的構成要素の半分以上を有している、と明らかになります。興味深いことに、このSDLG遺跡の外れ値個体内のアジア南部関連の遺伝的構成要素は、SDLG遺跡の外れ値個体に存在していた草原地帯牧畜民およびイラン農耕民関連祖先系が存在しないハラッパ遺跡の個体のような在来のインドのIVC 人口集団ではなく、アジア中央部の混合したIVC 移民に由来していました(関連記事)。

 それにも関わらず、SDLG遺跡の1900年前頃となるこの外れ値1個体においてIVC関連の影響が見つかっただけで、IVC関連構成要素はチベット高原西部のほとんどの個体には存在しませんでした。これらのパターンから、チベット高原西部とIVC関連の人口集団間の相互作用は、人口集団のごく一部において限定的な期間にのみ起き、IVC関連構成要素はその後で希釈された、と示唆されました。生計の変化と関連しているかもしれない低地のアジア東部北方からチベット高原北東部への広範な遺伝子流動と対照的に、チベット高原西部におけるこれらの限定的な相互作用は、交易の結果だった可能性がより高そうです(関連記事)。

 考古学的には、チベット高原とアジア南部地域との間の文化的つながりは、チベット高原で発掘されたビーズ装飾品、とくに「ジービーズ」におもに反映されています。これらの銘刻された瑪瑙製ビーズは、IVCの銘刻された紅玉髄ビーズと同じ人工着色技術を示しますが、ジービーズの起源とその製作技術については議論が続いています。チベット高原で見つかったジービーズの原材料や形や色がIVCの銘刻された紅玉髄ビーズと異なることを考えて、考古学者が示唆しているのは、チベット高原の先住民が関連する技術から学んで適合させた後で、独立してこれらの技術を開発した、ということです。本論文では、遺伝的証拠がチベット高原西部人口集団の小さな割合でのアジア南部祖先系統の存在を明らかにしましたが、この祖先系統の導入はIVC関連祖先系統を有していたアジア中央部の人口集団によって媒介されました。この観察は、ジービーズから推測されたアジア南部人とチベット人との間の比較的弱い文化的つながりとも一致しました。

 さらに、新たに配列決定されたグゲ洞窟の1個体は、チベット高原西部の在来の人口集団とチベット高原外の西方人口集団の混合でした。トゥプト帝国の分裂後の仏教復興の出発点としてのグゲ王国は、インドやネパールやカシミールの古代文化とのつながりで知られています。グゲ王国の壁画や彫刻などの人工遺物も、アジア南部様式の強い影響を示します。興味深いことに、新たに配列決定されたグゲ洞窟の1個体は、アジア中央部と草原地帯とアジア南部の人口集団と関連する遺伝的構成要素を有しており、グゲ王国とこれらの人口集団との間のつながりの可能性が示唆されます。しかし、この観察が、グゲ王国とアジア中央部のカルルク(Qarluq)との間の歴史的に記録されている紛争など、これら人口集団間の直接的な相互作用から生じたのか、あるいはこれらの遺伝的構成要素を有する他の人口集団の影響から生じたのか、不明です。

 古代DNAは、初期の社会的親族関係構造を調査するための強力な手段でもあります。現在のチベット社会は、一夫多妻と一妻多夫の共存など、独自の文化を有しています。本論文では、古代のチベット高原西部の遺跡の相続慣行の違いも観察されます。父系継承が2300年前頃のGBSLでは優勢だったかもしれない、と示唆する証拠があります。しかし、QLSZにおけるその母親を介しての家族の第1および第2世代と関連する第3世代の男性の埋葬は、この家族における女性構成員の役割の認識も示唆しました。本論文は2ヶ所の遺跡の家系図を復元しただけなので、チベット高原におけるこれら親族関係のパターンをより包括的に理解するには、追加のデータのあるさらなる調査が必要です。


参考文献:
Bai F. et al.(2024): Ancient genomes revealed the complex human interactions of the ancient western Tibetans. Current Biology, 34, 12, 2594–2605.E7
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.04.068

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