寺西貞弘『道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2024年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書冒頭で述べられているように、道鏡は戦前には平将門および足利尊氏(高氏)とともに「天下の三大悪人」と称されていました。戦後、平将門と足利尊氏は、大河ドラマの主人公となったように、通俗的な印象は戦前よりかなりよくなっているでしょうが、道鏡の通俗的印象は、戦前そのままではないとしても、今でも悪いように思われます。本書は、そうした道鏡に対する通俗的印象を形成することになったさまざまな伝承にも言及しつつ、道鏡の生涯を検証しています。道鏡については子供の頃から関心があったので、当ブログでも、瀧浪貞子『敗者の日本史2 奈良朝の政変と道鏡』(関連記事)や勝浦令子『孝謙・称徳天皇』(関連記事)や鷺森浩幸『藤原仲麻呂と道鏡』(関連記事)といった道鏡関連の一般向けの本を取り上げてきました。
道鏡は物部氏一族とされる弓削氏の出身で、傍系と考えられるものの、その縁で義淵僧正の供侍童子として良弁の弟子と推測されています。道鏡の生年は不明ですが、705年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃と推定されています。道鏡をめぐる怪しげな伝承はすでに平安時代初期からあり、道鏡は称徳(孝謙)天皇と765年に同衾し、それ故に称徳天皇から重用された、というものです。ただ、称徳天皇(孝謙上皇)の道鏡寵愛が表面化するのは763年です。平安時代初期の成立と考えられる『日本霊異記』に見えるこの同衾伝承は、道鏡の太政大臣禅師の時代設定として語られている、と本書は指摘します。この同衾伝承から派生したのか、道鏡と称徳との間の性愛伝説が複数の史料で語られていますが、いずれも道鏡と称徳の時代から数世紀も経て編纂されており、本書はその事実性に疑問を呈します。本書は、こうした伝承の背景に、称徳(孝謙)天皇による道鏡の寵愛を説明するための、「下種の勘繰り」があったのではないか、と推測します。
では実際には、道鏡はどのような人物で、称徳(孝謙)天皇とどのような関係にあったのか、何を根拠に検証していくのかが問題となりますが、本書はおもに同時代の正倉院文書に基づき、『続日本紀』も用います。道鏡の出家は729年頃と推測されています。道鏡は747年までに得度し、762年6月7日までに授戒していたことは分かるものの、いつ授戒したのかは不明です。ただ、その前年には内道場の禅師だったことを示す史料があるので、753年までに授戒していた可能性が高そうです。道鏡はサンスクリット語をほぼ習得していたようで、きわめて優れた人物だった、と本書は評価します。道鏡は、国家仏教が推奨する大乗経典よりも、呪術的な経典に興味を抱いたようです。日本では飛鳥時代以降、僧侶は医薬に詳しいとされており、それは仏教の本質にはなかったもので、日本において呪術的信仰と融合したものだろう、と本書は推測します。天武朝以降、朝廷は仏教が呪術的行為に関わることを禁じており、道鏡は朝廷はとって排除されるべき僧侶だったものの、称徳天皇の寵愛により異例の出世を遂げた、というわけです。
本書は道鏡を寵愛した称徳(孝謙)天皇について、配偶者を持つことが許されず、忠誠を誓っていたはずの人物が謀反を起こし(濡れ衣も含めて)、その中には藤原広嗣など血縁の近い人物もいたことから、きわめて猜疑心が強かっただろう、と推測しています。道鏡と称徳(孝謙)天皇の出会いについて本書は、道鏡の政治的立場の変化が初めて史料に見える763年9月4日をさほどさかのぼらないだろう、と推測しています。この2年前の10月から前年5月まで、孝謙太上天皇は保良宮に行幸して病となり、同行していた道鏡が看病禅師を務め、これが両者の出会いだっただろう、と本書は推測します。その理由として本書は、道鏡は753年に内道場の禅師に列せられており、保良宮への行幸への道鏡の同行が事務的な命令にすぎない、と考えられることを挙げます。孝謙太上天皇が道鏡を寵愛した理由について本書は、猜疑心が強い孝謙太上天皇にとって、両親は全面的に信頼および尊敬できる数少ない人で、聖武太上天皇の看病禅師の一人と考えられる道鏡はその最期を知り、孝謙太上天皇に語れる立場にあり、道鏡の出自が謀反を企てるほどの勢力のある氏族ではなかったから、と推測しています。同様に、謀反を企てるほどの勢力のある氏族ではない、との理由で称徳(孝謙)天皇に重用されたのが吉備真備でした。
孝謙太上天皇は、道鏡の寵愛について諫言してきた淳仁天皇との対立を深めていきます。ただ、遅くとも762年5月には孝謙太上天皇は道鏡を寵愛していたものの、道鏡が僧綱に大抜擢された763年9月4日まで、1年5ヶ月ほど要しています。本書はその理由として、道鏡の出自と経験が僧綱就任に相応しくなかったこと以上に、現任の僧綱の一人の更迭理由のこじつけの難しさを重視しています。道鏡の寵愛について孝謙太上天皇を諫めた淳仁天皇は、一般的には藤原仲麻呂の傀儡と考えられています。ただ本書は、淳仁天皇は仲麻呂派か否かに関わらない政治を志向した、と推測しています。また本書は、孝謙太上天皇が仲麻呂の動向を警戒していたにも関わらず、仲麻呂の謀叛勃発の時点で鈴印を淳仁天皇に管理させており、仲麻呂の子息の訓儒麻呂は鈴印を奪取しようとしたものの、淳仁天皇の確保に務めた様子がなく、淳仁天皇も動座しようとした気配さえない、と指摘します。つまり、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱において、淳仁天皇は蚊帳の外に置かれていた、というわけです。
本書はこうした文脈で当時の政治情勢を把握し、道鏡の寵愛について孝謙太上天皇を淳仁天皇が諫めたのは、仲麻呂の傀儡だった淳仁天皇が、政敵の道鏡を警戒し、孝謙太上天皇から道鏡を引き離そうとして、仲麻呂の指示に従った結果だったから、との見解を批判します。本書は、仲麻呂にとって、一介の看病禅師にすぎない道鏡は政治的脅威ではなく、むしろ孝謙太上天皇が道鏡に現を抜かすことこそ望ましく、淳仁天皇が孝謙太上天皇を諫めたのは、皇室を思う純然たる気持ちだったのではないか、というわけです。淳仁天皇は道鏡の寵愛の件で孝謙太上天皇を諫めたことにより、孝謙太上天皇との関係が悪化します。本書は、孝謙太上天皇と不和になった淳仁天皇はもはや利用価値のない存在で、仲麻呂と淳仁天皇の蜜月関係は762年5月23日に終わった、と推測します。この時点で、孝謙太上天皇と仲麻呂の関係は表面的には険悪ではなかったようですが、仲麻呂により推進された新羅遠征が孝謙太上天皇により実質的に中止されると、一気に関係が悪化した、と本書は推測します。
本書の見解では、淳仁天皇は仲麻呂の乱に関わっていなかったことになります。しかし、764年9月の仲麻呂の乱の翌月の淳仁天皇廃位の詔では、仲麻呂との同心が理由とされています。ただ、それは「聞いたところによると」といったきわめて曖昧な理由で、淳仁天皇が仲麻呂に与した明らかな証拠は提示されなかった、と本書は指摘します。仲麻呂の乱の終結直後の764年9月28日、道鏡は大臣禅師に任ぜられますが、淳仁天皇はそれに強く反対したのではないか、と本書は推測します。称徳天皇(孝謙太上天皇)は淳仁天皇を退位させ淡路配流としたものの(淡路廃帝)、道鏡重用に対する反対の結集核となり得る淡路廃帝の動向を強く警戒しており、道鏡を太政大臣禅師に任ずる765年閏10月2日までには淡路廃帝を抹殺する必要があった、と本書は推測します。淡路廃帝はその前月に死亡し、称徳天皇の命によると考えられます。
称徳朝において、道鏡は太政大臣禅師、さらには法王に任ぜられ、権勢を振るった、と言われています。それらが具体的にどのような権能を有していたのか、本書はまず、仲麻呂の乱直後の道鏡の大臣禅師就任の過程を検証します。道鏡が大臣禅師に任じられたのは、称徳天皇が僧籍にあるからと明言されています。大臣禅師は待遇面では大臣に准ずるとされており、あくまでも議政官ではなく、その職務は称徳天皇の仏道修行の指導だろう、と本書は推測します。また太政大臣禅師は、俗界を除く仏教界限定の統率者との意味で、職責において大臣禅師と変わらず、その格付けを左右の大臣から太政大臣と同じに変えただけだろう、と本書は推測します。766年には道鏡は法王に任ぜられましたが、これも、格付けを天皇と同じに改めたにすぎない、と本書は指摘します。つまり、道鏡は太政官の首班ではなかった、というわけです。これに伴い、道鏡の弟である弓削浄人は、わずか8年間で無位が従二位大納言にまで昇進しています。本書は、弓削浄人の政治的厚遇も、淳仁天皇の排除により可能となったことを指摘します。道鏡はこのように破格の出世を遂げますが、それへの焦りもあり、太政大臣への就任は拒んだものの、天皇の仏教指導に限った太政大臣禅師への就任は容認し、そうした道鏡の無欲にも見える態度が、猜疑心の強い称徳天皇にとってきわめて好ましく、道鏡を重用したのではないか、と本書は推測します。
道鏡について最も有名だろう宇佐八幡託宣事件については、主体者や目的などについて、複数の見解が提示されています。本書は、この資源の首謀者は明らかに称徳天皇で、称徳天皇は重祚後、皇族以外からの後継者選択をすでに構想しており、そのために天皇の擁立と廃位の権は自分にある、との父親の聖武天皇の言葉を創作し、道鏡の即位がとても支配層に受け入れられないことを理解していたので、宇佐八幡神の託宣により道鏡の即位の実行を図った、と推測しています。道鏡を即位させようとした奏上自体が称徳天皇の意思によるもので、それが偽りと認定されても、称徳天皇にそうした汚名を着せることは、「正史」である『続日本紀』にはできなかった、というわけです。
770年8月4日、称徳天皇が崩御すると、道鏡はただちに同月21日、造下野国薬師寺別当に左遷されます。弟の弓削浄人が流罪だったことと比較すると、きわめて寛大な措置だった、と本書は評価しています。称徳天皇は、崩御の前に長期にわたって人事不省だったようです。称徳天皇が人事不省に陥ったのは、少なくとも770年5月11日以後でしたが、すでにその頃から左大臣の藤原永手や右大臣の吉備真備といった反道鏡派による道鏡追放の動きが活発化したいただろう、と本書は推測します。人事不省に陥った称徳天皇と唯一会えたのは、吉備真備の近親(姉もしくは妹)と考えられる吉備由利でした。称徳天皇の後継者は白壁王(光仁天皇)で、称徳天皇の遺言とされていますが、実際は重臣6人による協議の結果だろう、と本書は推測します。『続日本紀』には、軽々しく力役を課したとか、政治と刑罰は峻厳でみだりに殺戮をしたとか、冤罪が多かったとか道鏡への批判が記載されていますが、道鏡は太政官政治に関わっていなかったので、これは実質的に称徳天皇の政治を批判している、と本書は指摘します。道鏡を重用したのは称徳天皇なので、道鏡を法により処分するならば、称徳天皇の非を示さねばならず、それ故に道鏡は左遷ですまされた、と本書は推測します。
道鏡は物部氏一族とされる弓削氏の出身で、傍系と考えられるものの、その縁で義淵僧正の供侍童子として良弁の弟子と推測されています。道鏡の生年は不明ですが、705年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃と推定されています。道鏡をめぐる怪しげな伝承はすでに平安時代初期からあり、道鏡は称徳(孝謙)天皇と765年に同衾し、それ故に称徳天皇から重用された、というものです。ただ、称徳天皇(孝謙上皇)の道鏡寵愛が表面化するのは763年です。平安時代初期の成立と考えられる『日本霊異記』に見えるこの同衾伝承は、道鏡の太政大臣禅師の時代設定として語られている、と本書は指摘します。この同衾伝承から派生したのか、道鏡と称徳との間の性愛伝説が複数の史料で語られていますが、いずれも道鏡と称徳の時代から数世紀も経て編纂されており、本書はその事実性に疑問を呈します。本書は、こうした伝承の背景に、称徳(孝謙)天皇による道鏡の寵愛を説明するための、「下種の勘繰り」があったのではないか、と推測します。
では実際には、道鏡はどのような人物で、称徳(孝謙)天皇とどのような関係にあったのか、何を根拠に検証していくのかが問題となりますが、本書はおもに同時代の正倉院文書に基づき、『続日本紀』も用います。道鏡の出家は729年頃と推測されています。道鏡は747年までに得度し、762年6月7日までに授戒していたことは分かるものの、いつ授戒したのかは不明です。ただ、その前年には内道場の禅師だったことを示す史料があるので、753年までに授戒していた可能性が高そうです。道鏡はサンスクリット語をほぼ習得していたようで、きわめて優れた人物だった、と本書は評価します。道鏡は、国家仏教が推奨する大乗経典よりも、呪術的な経典に興味を抱いたようです。日本では飛鳥時代以降、僧侶は医薬に詳しいとされており、それは仏教の本質にはなかったもので、日本において呪術的信仰と融合したものだろう、と本書は推測します。天武朝以降、朝廷は仏教が呪術的行為に関わることを禁じており、道鏡は朝廷はとって排除されるべき僧侶だったものの、称徳天皇の寵愛により異例の出世を遂げた、というわけです。
本書は道鏡を寵愛した称徳(孝謙)天皇について、配偶者を持つことが許されず、忠誠を誓っていたはずの人物が謀反を起こし(濡れ衣も含めて)、その中には藤原広嗣など血縁の近い人物もいたことから、きわめて猜疑心が強かっただろう、と推測しています。道鏡と称徳(孝謙)天皇の出会いについて本書は、道鏡の政治的立場の変化が初めて史料に見える763年9月4日をさほどさかのぼらないだろう、と推測しています。この2年前の10月から前年5月まで、孝謙太上天皇は保良宮に行幸して病となり、同行していた道鏡が看病禅師を務め、これが両者の出会いだっただろう、と本書は推測します。その理由として本書は、道鏡は753年に内道場の禅師に列せられており、保良宮への行幸への道鏡の同行が事務的な命令にすぎない、と考えられることを挙げます。孝謙太上天皇が道鏡を寵愛した理由について本書は、猜疑心が強い孝謙太上天皇にとって、両親は全面的に信頼および尊敬できる数少ない人で、聖武太上天皇の看病禅師の一人と考えられる道鏡はその最期を知り、孝謙太上天皇に語れる立場にあり、道鏡の出自が謀反を企てるほどの勢力のある氏族ではなかったから、と推測しています。同様に、謀反を企てるほどの勢力のある氏族ではない、との理由で称徳(孝謙)天皇に重用されたのが吉備真備でした。
孝謙太上天皇は、道鏡の寵愛について諫言してきた淳仁天皇との対立を深めていきます。ただ、遅くとも762年5月には孝謙太上天皇は道鏡を寵愛していたものの、道鏡が僧綱に大抜擢された763年9月4日まで、1年5ヶ月ほど要しています。本書はその理由として、道鏡の出自と経験が僧綱就任に相応しくなかったこと以上に、現任の僧綱の一人の更迭理由のこじつけの難しさを重視しています。道鏡の寵愛について孝謙太上天皇を諫めた淳仁天皇は、一般的には藤原仲麻呂の傀儡と考えられています。ただ本書は、淳仁天皇は仲麻呂派か否かに関わらない政治を志向した、と推測しています。また本書は、孝謙太上天皇が仲麻呂の動向を警戒していたにも関わらず、仲麻呂の謀叛勃発の時点で鈴印を淳仁天皇に管理させており、仲麻呂の子息の訓儒麻呂は鈴印を奪取しようとしたものの、淳仁天皇の確保に務めた様子がなく、淳仁天皇も動座しようとした気配さえない、と指摘します。つまり、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱において、淳仁天皇は蚊帳の外に置かれていた、というわけです。
本書はこうした文脈で当時の政治情勢を把握し、道鏡の寵愛について孝謙太上天皇を淳仁天皇が諫めたのは、仲麻呂の傀儡だった淳仁天皇が、政敵の道鏡を警戒し、孝謙太上天皇から道鏡を引き離そうとして、仲麻呂の指示に従った結果だったから、との見解を批判します。本書は、仲麻呂にとって、一介の看病禅師にすぎない道鏡は政治的脅威ではなく、むしろ孝謙太上天皇が道鏡に現を抜かすことこそ望ましく、淳仁天皇が孝謙太上天皇を諫めたのは、皇室を思う純然たる気持ちだったのではないか、というわけです。淳仁天皇は道鏡の寵愛の件で孝謙太上天皇を諫めたことにより、孝謙太上天皇との関係が悪化します。本書は、孝謙太上天皇と不和になった淳仁天皇はもはや利用価値のない存在で、仲麻呂と淳仁天皇の蜜月関係は762年5月23日に終わった、と推測します。この時点で、孝謙太上天皇と仲麻呂の関係は表面的には険悪ではなかったようですが、仲麻呂により推進された新羅遠征が孝謙太上天皇により実質的に中止されると、一気に関係が悪化した、と本書は推測します。
本書の見解では、淳仁天皇は仲麻呂の乱に関わっていなかったことになります。しかし、764年9月の仲麻呂の乱の翌月の淳仁天皇廃位の詔では、仲麻呂との同心が理由とされています。ただ、それは「聞いたところによると」といったきわめて曖昧な理由で、淳仁天皇が仲麻呂に与した明らかな証拠は提示されなかった、と本書は指摘します。仲麻呂の乱の終結直後の764年9月28日、道鏡は大臣禅師に任ぜられますが、淳仁天皇はそれに強く反対したのではないか、と本書は推測します。称徳天皇(孝謙太上天皇)は淳仁天皇を退位させ淡路配流としたものの(淡路廃帝)、道鏡重用に対する反対の結集核となり得る淡路廃帝の動向を強く警戒しており、道鏡を太政大臣禅師に任ずる765年閏10月2日までには淡路廃帝を抹殺する必要があった、と本書は推測します。淡路廃帝はその前月に死亡し、称徳天皇の命によると考えられます。
称徳朝において、道鏡は太政大臣禅師、さらには法王に任ぜられ、権勢を振るった、と言われています。それらが具体的にどのような権能を有していたのか、本書はまず、仲麻呂の乱直後の道鏡の大臣禅師就任の過程を検証します。道鏡が大臣禅師に任じられたのは、称徳天皇が僧籍にあるからと明言されています。大臣禅師は待遇面では大臣に准ずるとされており、あくまでも議政官ではなく、その職務は称徳天皇の仏道修行の指導だろう、と本書は推測します。また太政大臣禅師は、俗界を除く仏教界限定の統率者との意味で、職責において大臣禅師と変わらず、その格付けを左右の大臣から太政大臣と同じに変えただけだろう、と本書は推測します。766年には道鏡は法王に任ぜられましたが、これも、格付けを天皇と同じに改めたにすぎない、と本書は指摘します。つまり、道鏡は太政官の首班ではなかった、というわけです。これに伴い、道鏡の弟である弓削浄人は、わずか8年間で無位が従二位大納言にまで昇進しています。本書は、弓削浄人の政治的厚遇も、淳仁天皇の排除により可能となったことを指摘します。道鏡はこのように破格の出世を遂げますが、それへの焦りもあり、太政大臣への就任は拒んだものの、天皇の仏教指導に限った太政大臣禅師への就任は容認し、そうした道鏡の無欲にも見える態度が、猜疑心の強い称徳天皇にとってきわめて好ましく、道鏡を重用したのではないか、と本書は推測します。
道鏡について最も有名だろう宇佐八幡託宣事件については、主体者や目的などについて、複数の見解が提示されています。本書は、この資源の首謀者は明らかに称徳天皇で、称徳天皇は重祚後、皇族以外からの後継者選択をすでに構想しており、そのために天皇の擁立と廃位の権は自分にある、との父親の聖武天皇の言葉を創作し、道鏡の即位がとても支配層に受け入れられないことを理解していたので、宇佐八幡神の託宣により道鏡の即位の実行を図った、と推測しています。道鏡を即位させようとした奏上自体が称徳天皇の意思によるもので、それが偽りと認定されても、称徳天皇にそうした汚名を着せることは、「正史」である『続日本紀』にはできなかった、というわけです。
770年8月4日、称徳天皇が崩御すると、道鏡はただちに同月21日、造下野国薬師寺別当に左遷されます。弟の弓削浄人が流罪だったことと比較すると、きわめて寛大な措置だった、と本書は評価しています。称徳天皇は、崩御の前に長期にわたって人事不省だったようです。称徳天皇が人事不省に陥ったのは、少なくとも770年5月11日以後でしたが、すでにその頃から左大臣の藤原永手や右大臣の吉備真備といった反道鏡派による道鏡追放の動きが活発化したいただろう、と本書は推測します。人事不省に陥った称徳天皇と唯一会えたのは、吉備真備の近親(姉もしくは妹)と考えられる吉備由利でした。称徳天皇の後継者は白壁王(光仁天皇)で、称徳天皇の遺言とされていますが、実際は重臣6人による協議の結果だろう、と本書は推測します。『続日本紀』には、軽々しく力役を課したとか、政治と刑罰は峻厳でみだりに殺戮をしたとか、冤罪が多かったとか道鏡への批判が記載されていますが、道鏡は太政官政治に関わっていなかったので、これは実質的に称徳天皇の政治を批判している、と本書は指摘します。道鏡を重用したのは称徳天皇なので、道鏡を法により処分するならば、称徳天皇の非を示さねばならず、それ故に道鏡は左遷ですまされた、と本書は推測します。
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