篠川賢『国造 大和政権と地方豪族』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。国造の設置は、記紀によると成務「天皇」の時に始まりました。ただ、成務天皇の実在性には疑問が呈されており、本書も成務天皇の国風諡号が7世紀風(タラシヒコ)であることから、その実在性には否定的で、あくまでも記紀の歴史認識だと指摘しています。本書は『隋書』に基づき、7世紀初頭には「クニ」という行政組織が存在していたので、その現地管掌者としての国造も存在していただろう、と推測します。『隋書』の倭国関連記事は推古天皇の頃に相当し、『日本書紀』では国造関連の記事が見えます。本書は、『日本書紀』の記事で国造の実在がたどれるのは宣化天皇の時代までと指摘します。また本書は銘文の比較から、宣化天皇よりも前には国造は存在しなかった、と推測します。
本書は国造の設置はクニの設定を伴うものだと指摘し、『日本書紀』の589年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)7月の記事に注目します。これは崇峻天皇の時代となり、国造制が東山道・東海道・北陸道の広範囲にわたって一斉に施行されたのだろう、と本書は推測します。一方、西日本に関しては、九州で国造制が施行されたのは528年の磐井の乱の鎮圧後だっただろう、と本書は推測します。中国と四国に国造制が施行されたのは磐井の乱以前と推測されています。磐井の乱は継体天皇の時代となりますが、本書は、継体天皇は地方から大和に入った可能性が高く、この頃に畿内にも国造が任命された、と推測します。地方から大和に入った継体天皇にとって、畿内もいくつかの範囲(クニ)に分けて統轄させる必要があった、というわけです。
国造には多様な意味があり、本書では、(1)ヤマト政権の地方官、(2)地方官としての国造を輩出している(もしくは輩出していた)一族全体の呼称、(3)律令制下の国造、(4)姓としての国造、(5)702年に定められた国造氏に分類しています。本書は、(2)と(5)が一致するとは限らない、とも指摘しています。国造制の範囲について本書は、東北地方南部にまでは及んでいなかった、と推測しています。国造制はいわゆる大化改新のさいに廃止されたとも言われていますが、本書は、646年正月の改新詔の段階でも国造は廃止されておらず、天武朝の国境画定事業により廃止が決定され、律令制下において制度としての「新国造」は存在しなかった、と推測します。
本書は国造の設置はクニの設定を伴うものだと指摘し、『日本書紀』の589年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)7月の記事に注目します。これは崇峻天皇の時代となり、国造制が東山道・東海道・北陸道の広範囲にわたって一斉に施行されたのだろう、と本書は推測します。一方、西日本に関しては、九州で国造制が施行されたのは528年の磐井の乱の鎮圧後だっただろう、と本書は推測します。中国と四国に国造制が施行されたのは磐井の乱以前と推測されています。磐井の乱は継体天皇の時代となりますが、本書は、継体天皇は地方から大和に入った可能性が高く、この頃に畿内にも国造が任命された、と推測します。地方から大和に入った継体天皇にとって、畿内もいくつかの範囲(クニ)に分けて統轄させる必要があった、というわけです。
国造には多様な意味があり、本書では、(1)ヤマト政権の地方官、(2)地方官としての国造を輩出している(もしくは輩出していた)一族全体の呼称、(3)律令制下の国造、(4)姓としての国造、(5)702年に定められた国造氏に分類しています。本書は、(2)と(5)が一致するとは限らない、とも指摘しています。国造制の範囲について本書は、東北地方南部にまでは及んでいなかった、と推測しています。国造制はいわゆる大化改新のさいに廃止されたとも言われていますが、本書は、646年正月の改新詔の段階でも国造は廃止されておらず、天武朝の国境画定事業により廃止が決定され、律令制下において制度としての「新国造」は存在しなかった、と推測します。
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