古田彩「古墳に眠る人々の家族関係」
『日経サイエンス』2024年2月号に掲載された表題の記事を読みました。岡山県津山市の久米三成4号墳の被葬者の家族関係を、DNA解析に基づいて推測した研究が取り上げられています。久米三成4号墳は1977年に墓地造成中に発見され、石棺と人骨が確認されています。久米三成4号墳は前方後方墳の一部で、後方部と前方部の中央にそれぞれ石棺があります。後方部中央の第一の石棺(第一主体部)には、30代~40代の男性と、20代~30代の女性が、顔を逆さ向きにして埋葬されていました。男性の骨の上に女性の骨があることから、男性が先に埋葬された、と推測されています。放射性炭素年代測定の結果、両者の埋葬時期に違いがあり、生前の年齢差は大きかったようです。石棺には、ヤマト王権から下賜されたと考えられる「仿製四獣鏡」や鉄斧や鉄剣などがありました。これらの副葬品や放射性炭素年代測定結果から、久米三成4号墳の年代は古墳時代の前期後半から中期初頭と考えられました。
前方部の石棺(第二主体部)にも2個体が同じように対置して埋葬されており、1個体は50代の高齢女性、もう1個体は11歳前後の子供で、この石棺では副葬品が確認されませんでした。久米三成4号墳、その大きさなどから、比較的小規模な集団の首長のものと推定されています。第一主体部の石棺に埋葬された男性が首長と考えられますが、その他3個体との関係は不明でした。久米三成4号墳の4個体について、近年になってミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、第一主体部の石棺に埋葬されていた男性と女性の核DNAから同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)が調べられた結果、この2個体は親子の可能性が高い、と分かりました。第二主体部の石棺に埋葬された11歳前後の子供は女性で、第一主体部の男性と親子関係にある、と推定されました。第一主体部の女性と第二主体部の女児は姉妹だったわけです。ただ、この2個体のmtDNAハプログループ(mtHg)は異なり(第二主体部の女児はD5c1a、第一主体部の女性はB4c1a1a)、この2個体は異母姉妹の関係となります。第二主体部ら女児とともに埋葬されていた高齢女性は他の3個体と近い血縁関係がなく、3親等より遠い親族か、完全な非血縁者と考えられます。
同じ古墳から複数個体の人類遺骸が見つかると、夫婦およびその子供と考えられることが以前には多かったものの、具体的な根拠はありませんでした。1980年代には、「歯冠計測値法」により、歯の大きさや形態の測定から闕慧遠が判断されました。おもに西日本の古墳被葬者を対象としたこのような研究により、古墳時代前期には、古墳にともに埋葬されるのはキョウダイを中心とした血縁者のみだった、と考えられました(キョウダイ原理)。その人物のために古墳が造営されたと考えられる最初の被葬者については、男女比はほぼ半々で、当時は父系でも母系でもなく双系社会だった、と示唆されます。古墳時代中期には、首長墓に関しては男性被葬者の事例が多くなり、古墳には父とその血縁者が葬られるようになり、双系社会から父系社会への変容が示唆されています。これについては、戦争の影響が指摘されています。古墳時代前期~中期の移行期に、倭国は百済と同盟を締結して高句麗と戦い、戦争頻度の上昇により男性が女性より優位になり、男性中心の父系社会に移行したのではないか、というわけです。
古墳の初葬者は男性が多くなり、その子供や兄弟が同じ墓に埋葬されるようになります。同じ墓に埋葬された筐体間の地位の格差は小さく、父の首長位を兄弟が継承し、共同統治していたと考えられますが、一方が独立して新たな主張系譜を創り、別の古墳に埋葬されることもありました。ただ、歯冠計測は生物学的な親族関係判断の決定的証拠とまでは言えません。その意味で、古代ゲノム研究により、古墳被葬者間の親族関係をずっと高い精度で推定できるようになった意義は大きい、と言えそうです。奈良時代の戸籍から、当時は多産多死で、一夫多妻や再婚が多かったことから、久米三成4号墳の異母姉妹は当時とくに珍しい事例ではなかったようです。上述のように、歯冠計測から、古墳時代前期には同じ古墳に埋葬されるのは血縁者のみだった、と推測されており、これは、婿入りもしくは嫁入りしてきた個体が、出身集団に戻って埋葬されたこと(帰葬)を反映しているのではないか、と考えられています。こうした「帰葬」は、平安時代の上級貴族でも見られます。
古墳時代の埋葬原理を示す遺跡として、他には和歌山県田辺市で1969年に発見された磯間岩陰遺跡があります(関連記事)。磯間岩陰遺跡では、8点の石棺と12個体の人類遺骸が発見されました。磯間岩陰遺跡の被葬者は、首長ではなく一般人と考えられています。副葬品には鉄やシカの角で作られた釣り針があり、漁撈民集団と推測されています。第1号石室(石棺)から第4号石室までは5世紀後半~6世紀初頭、それ以外は6世紀後半に作られた、と考えられています。磯間岩陰遺跡の12個体のmtHgは、M7a1が8個体、N9b1が2個体で、ともに「縄文人」系統とされています。また、第1号石室の2個体の核ゲノム解析から、現代日本人よりも「縄文人」的構成要素の割合が高い、と推測されています。同じ石室に埋葬されている個体のmtHgはおおむね一致しており、第1号石室の男性2個体は2親等もしくは3親等の関係にある、と推測されました。この男性2個体のY染色体ハプログループ(YHg)は異なっており、両者は父系での血縁関係はありません。両者のmtHgは同じですが、1塩基だけ異なっており、変異の可能性もあるので、母系での血縁関係の有無は判断できません。磯間岩陰遺跡は、基本的にはキョウダイ原理による埋葬と言えそうで、同時代(古墳時代中期後半)には首長墓では父系化がかなり進んでいたものの、一般人は依然としてキョウダイ原理による埋葬が主流だったかもしれません。
ただ、第3号石室に埋葬された中年男性のmtHg-D5b2は磯間岩陰遺跡の足りの個体と一致せず、この男性とともに埋葬されている15歳前後の少年のmtDNAは第2号石室の3個体と一致する(M7a1a)ので、中年男性が第2号石室の女性のどちらかの夫で、少年は2人の子供かもしれませんが、その場合、男性は婿入り先で埋葬されたことになります。第3号石室については、最初に埋葬された少年の頭骨が、中年男性の埋葬のさいに外された、と推測されています。こうした埋葬法は紀伊地方ではほぼ見つかっていませんが、石室の底に貝殻と珊瑚を敷き詰めているなどといった特徴が、三浦半島にも見られます。磯間岩陰遺跡と三浦半島は400km以上離れていますが、鹿角製釣り針などで田辺湾と三浦半島にはつながりがあると分かっており、三浦半島出身の第3号石室の中年男性は、婿入り先で死亡したものの、出身地まで遠いため婿入り先で死亡した可能性が指摘されています。
近年の古代ゲノム研究では親族関係分析の進展も目覚ましく(関連記事)、とくにヨーロッパにおいて進んでおり、その中には大規模なものもあります(関連記事)。アジア東部に関しては、ユーラシア西部、とくにヨーロッパよりも古代ゲノム研究は遅れていますが(関連記事)、中国に関しては近年では古代ゲノム研究が大きく発展しており、たとえば中華人民共和国河南省の淮河中流域に位置する後期新石器時代の龍山(Longshan)文化期の平糧台(Pingliangtai)古代都市遺跡の事例が報告されています(関連記事)。日本列島に関しても今後、古代ゲノム研究による親族関係分析の進展が期待されます。
参考文献:
古田彩 (2024)「古墳に眠る人々の家族関係」『日経サイエンス』2024年2月号P58-63
前方部の石棺(第二主体部)にも2個体が同じように対置して埋葬されており、1個体は50代の高齢女性、もう1個体は11歳前後の子供で、この石棺では副葬品が確認されませんでした。久米三成4号墳、その大きさなどから、比較的小規模な集団の首長のものと推定されています。第一主体部の石棺に埋葬された男性が首長と考えられますが、その他3個体との関係は不明でした。久米三成4号墳の4個体について、近年になってミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、第一主体部の石棺に埋葬されていた男性と女性の核DNAから同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)が調べられた結果、この2個体は親子の可能性が高い、と分かりました。第二主体部の石棺に埋葬された11歳前後の子供は女性で、第一主体部の男性と親子関係にある、と推定されました。第一主体部の女性と第二主体部の女児は姉妹だったわけです。ただ、この2個体のmtDNAハプログループ(mtHg)は異なり(第二主体部の女児はD5c1a、第一主体部の女性はB4c1a1a)、この2個体は異母姉妹の関係となります。第二主体部ら女児とともに埋葬されていた高齢女性は他の3個体と近い血縁関係がなく、3親等より遠い親族か、完全な非血縁者と考えられます。
同じ古墳から複数個体の人類遺骸が見つかると、夫婦およびその子供と考えられることが以前には多かったものの、具体的な根拠はありませんでした。1980年代には、「歯冠計測値法」により、歯の大きさや形態の測定から闕慧遠が判断されました。おもに西日本の古墳被葬者を対象としたこのような研究により、古墳時代前期には、古墳にともに埋葬されるのはキョウダイを中心とした血縁者のみだった、と考えられました(キョウダイ原理)。その人物のために古墳が造営されたと考えられる最初の被葬者については、男女比はほぼ半々で、当時は父系でも母系でもなく双系社会だった、と示唆されます。古墳時代中期には、首長墓に関しては男性被葬者の事例が多くなり、古墳には父とその血縁者が葬られるようになり、双系社会から父系社会への変容が示唆されています。これについては、戦争の影響が指摘されています。古墳時代前期~中期の移行期に、倭国は百済と同盟を締結して高句麗と戦い、戦争頻度の上昇により男性が女性より優位になり、男性中心の父系社会に移行したのではないか、というわけです。
古墳の初葬者は男性が多くなり、その子供や兄弟が同じ墓に埋葬されるようになります。同じ墓に埋葬された筐体間の地位の格差は小さく、父の首長位を兄弟が継承し、共同統治していたと考えられますが、一方が独立して新たな主張系譜を創り、別の古墳に埋葬されることもありました。ただ、歯冠計測は生物学的な親族関係判断の決定的証拠とまでは言えません。その意味で、古代ゲノム研究により、古墳被葬者間の親族関係をずっと高い精度で推定できるようになった意義は大きい、と言えそうです。奈良時代の戸籍から、当時は多産多死で、一夫多妻や再婚が多かったことから、久米三成4号墳の異母姉妹は当時とくに珍しい事例ではなかったようです。上述のように、歯冠計測から、古墳時代前期には同じ古墳に埋葬されるのは血縁者のみだった、と推測されており、これは、婿入りもしくは嫁入りしてきた個体が、出身集団に戻って埋葬されたこと(帰葬)を反映しているのではないか、と考えられています。こうした「帰葬」は、平安時代の上級貴族でも見られます。
古墳時代の埋葬原理を示す遺跡として、他には和歌山県田辺市で1969年に発見された磯間岩陰遺跡があります(関連記事)。磯間岩陰遺跡では、8点の石棺と12個体の人類遺骸が発見されました。磯間岩陰遺跡の被葬者は、首長ではなく一般人と考えられています。副葬品には鉄やシカの角で作られた釣り針があり、漁撈民集団と推測されています。第1号石室(石棺)から第4号石室までは5世紀後半~6世紀初頭、それ以外は6世紀後半に作られた、と考えられています。磯間岩陰遺跡の12個体のmtHgは、M7a1が8個体、N9b1が2個体で、ともに「縄文人」系統とされています。また、第1号石室の2個体の核ゲノム解析から、現代日本人よりも「縄文人」的構成要素の割合が高い、と推測されています。同じ石室に埋葬されている個体のmtHgはおおむね一致しており、第1号石室の男性2個体は2親等もしくは3親等の関係にある、と推測されました。この男性2個体のY染色体ハプログループ(YHg)は異なっており、両者は父系での血縁関係はありません。両者のmtHgは同じですが、1塩基だけ異なっており、変異の可能性もあるので、母系での血縁関係の有無は判断できません。磯間岩陰遺跡は、基本的にはキョウダイ原理による埋葬と言えそうで、同時代(古墳時代中期後半)には首長墓では父系化がかなり進んでいたものの、一般人は依然としてキョウダイ原理による埋葬が主流だったかもしれません。
ただ、第3号石室に埋葬された中年男性のmtHg-D5b2は磯間岩陰遺跡の足りの個体と一致せず、この男性とともに埋葬されている15歳前後の少年のmtDNAは第2号石室の3個体と一致する(M7a1a)ので、中年男性が第2号石室の女性のどちらかの夫で、少年は2人の子供かもしれませんが、その場合、男性は婿入り先で埋葬されたことになります。第3号石室については、最初に埋葬された少年の頭骨が、中年男性の埋葬のさいに外された、と推測されています。こうした埋葬法は紀伊地方ではほぼ見つかっていませんが、石室の底に貝殻と珊瑚を敷き詰めているなどといった特徴が、三浦半島にも見られます。磯間岩陰遺跡と三浦半島は400km以上離れていますが、鹿角製釣り針などで田辺湾と三浦半島にはつながりがあると分かっており、三浦半島出身の第3号石室の中年男性は、婿入り先で死亡したものの、出身地まで遠いため婿入り先で死亡した可能性が指摘されています。
近年の古代ゲノム研究では親族関係分析の進展も目覚ましく(関連記事)、とくにヨーロッパにおいて進んでおり、その中には大規模なものもあります(関連記事)。アジア東部に関しては、ユーラシア西部、とくにヨーロッパよりも古代ゲノム研究は遅れていますが(関連記事)、中国に関しては近年では古代ゲノム研究が大きく発展しており、たとえば中華人民共和国河南省の淮河中流域に位置する後期新石器時代の龍山(Longshan)文化期の平糧台(Pingliangtai)古代都市遺跡の事例が報告されています(関連記事)。日本列島に関しても今後、古代ゲノム研究による親族関係分析の進展が期待されます。
参考文献:
古田彩 (2024)「古墳に眠る人々の家族関係」『日経サイエンス』2024年2月号P58-63
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