荒川紘『龍の起源』
角川ソフィア文庫の一冊として、KADOKAWAから2021年1月に刊行されました。本書は、1996年に紀伊國屋書店から刊行された『龍の起源』の文庫版です。電子書籍での購入です。西方世界のドラゴン(英語)やドラコーン(ギリシア語)などと東方世界の漢字文化圏の龍などは、関連しているならば共通の起源地があるのか、あるいは、蛇などの動物から各地で創造されたもので、翻訳時に自文化の概念に近そうな用語が当てはめられただけで、関係ないのかなど、素朴な疑問から本書を読みました。
本書はまず、東方世界には2種の龍が「棲息」しており、それは中国産の龍(ロン)とインド産のナーガだと指摘します。日本では、前者は馴染み深いものの、後者はそうではなく、元々はコブラの龍と指摘されています。両者は蛇の要素を共有しているものの、姿形の隔たりは大きく、同一の「種」とは言えない、と本書は指摘します。しかし、仏教がインドから中国へ伝えられると、ナーガは龍と理解されました。中国における龍の歴史は古く、紀元前14世紀の殷代にはすでに存在しており、「龍」に相当する文字が見られます。王権と龍の関係が強まり、皇帝の容貌が「龍顔」と呼ばれるなど、中国史では龍は王権の象徴でした。また龍は水との関係が深く、雨や洪水の原因と考えられてきました。龍が皇帝と結びつくと、天空を飛翔する龍との観念が生まれます。龍が特別な聖なる獣とみなされるようになるのとは逆に、蛇はその毒性が強調され、疎まれる動物となっていきます。
サンスクリット語のナーガは「龍」と訳され、「龍王」とはサンスクリット語のナーガ・ラージャの訳語です。仏教が衰退したインドではナーガを見ることは難しく、カンボジアなどアジア南東部ではナーガの造形が多く残っています。ナーガはインドに生息するコブラの神で、蛇の髪は仏教に特有ではなく、バラモン教でも「アヒ」という蛇神が見られました。インドにおいて蛇はインド・ヨーロッパ語族の到来前から信仰されており、インド・ヨーロッパ語族集団の主神だったインドラに敵対する「障碍物」とみなされるようになったものの、土着の民衆では蛇信仰がしぶとく生きており、土着信仰を受け入れた仏教の勃興に伴い、蛇信仰も本来の善神としての性格で表舞台に現れた、と本書は推測します。ヒンドゥー教でも土着の蛇信仰が取り入れられ、守護神であり豊穣の神でもありました。本書は、インド仏教と漢字に通じた僧侶たちがナーガを龍と訳したのは、ともに蛇の化身として発展し、水の神や守護神といった共通点があったからではないか、と推測します。
ヨーロッパのドラゴンは「龍」と訳されてきましたが、2足のドラゴンと4足の龍、肥満気味のドラゴンと細身の龍、悪魔的存在のドラゴンと聖獣の龍など、違いが大きく、同一の「種」とは言い難い、と本書は指摘します。一方で、ドラゴンも龍と同様に、いくつかの動物の混成された爬虫類的怪獣で、体表は蛇の鱗で覆われている、といった共通点もあります。ヨーロッパのドラゴンはインドのナーガよりも中国の龍に近い「種」に見える、と本書は指摘します。ヨーロッパのドラゴンの原型と考えられる図像は、シュメール文化で見つかっており、蛇を基体とし、水と関係している点では中国の龍に近い、と本書は指摘します。ただ、シュメールの龍(ティアマト)は厭われる性質もあったことが、中国の龍との相違点です。本書はここに、ヨーロッパのドラゴンとの共通点を見ています。エジプトでは、「龍」と言えるような存在はおらず、ウラエウスはコブラ神という点でインドのナーガと類似しており、悪蛇アペプ神は龍と蛇の中間「種」である中国の蛟のような段階で「進化」が止まった、と本書は評価します。
ヘブライ語聖書(旧約聖書)には、レヴィアタンと呼ばれる「龍」が登場し、世界秩序の創造にさいして退治されます。ユダヤ人にとってレヴィアタンは、ユダヤ人を迫害したとされるエジプト王国の象徴と考えられていたようです。「龍」の宇宙論は、メソポタミアからイスラエルへと伝わったようです。ギリシア語聖書(新約聖書)では、「ヨハネの黙示録」に、7つの頭と10本の角を有し、頭には7個の冠があるとされる、「赤い龍」が登場します。聖書世界では、龍は神の仇敵で悪魔的な存在と考えられていました。一方で、蛇はユダヤ人には必ずしも邪悪視されておらず、蛇崇拝もあり、それは初期キリスト教で「異端」とされたグノーシス派に継承されました。「悪龍」と「善蛇」の関係は、中国における「善龍」と「悪蛇」とは逆の関係になり、同様の関係はメソポタミアやエジプトともつながっている、と本書は指摘します。
ギリシア神話には多くの「龍」が登場し、英雄に打倒されます。「龍」を倒すことがギリシアの英雄に欠かせない資質だったわけです。ギリシアではさまざまな怪物がドラコーンと呼ばれており、自然の動物にはない霊力を有しており、爬虫類的な空想の怪物と考えられていました。ギリシアでは蛇的なドラコーンが一般的で、本書は、オリエント世界の「龍」退治の神話がギリシアへと伝播したのではないか、と推測します。ただ本書は、ギリシアのドラコーンには先住民の信仰も関係している、と推測されています。アテナイの守護神であるアテナには、蛇を産んだとか、養育したとかいった伝承が残され、ミノア文化には蛇を伴う女神像があります。ギリシアでは、蛇を守護神として崇拝していた人々がおり、紀元前2000年頃に到来したゼウスなど天の神々を信仰する人々により、蛇は敵役を担わされた一方で、オリエント世界からは「龍」退治の神話が伝播し、土着の蛇と外来の「龍」との混淆となるドラコーンが生まれた、と本書は推測します。ギリシア神話の蛇には、リンゴの樹や黄金の羊皮を見張る守護神的な性格もありますが、それは土着の蛇信仰を継承している、と推測されます。
中世ヨーロッパの代表的な「龍」はドラゴンで、キリスト教の聖人から退治される役割を担わされています。中世ヨーロッパの典型的なドラゴンは、緑や黒みがかった鱗に覆われた爬虫類的な動物で、コウモリに似た翼を有し、2本足で、火と毒を吐きます。ドラゴンは中世では実在の動物と考えられていましたが、動物分類学の進展とともに、空想の産物とみなされていきます。西方の「龍」の特徴は、善悪両方の性格を有していることです。形態面では、古代には多頭が一般的でしたが、中世には多頭の「龍」は消えます。西方の「龍」の特徴としては、翼が一般的であることも挙げられます。西方の「龍」の東方の「龍」との大きな違いは、両者ともに水と関係が深いものの、後者は雨との関係がないことで、雨をもたらすのが、東方では「龍」だったのに対して、西方では「龍」を退治する神々でした。
これら世界各地の「龍」の共通点と相違点から、本書は「龍」の起源を検証します。「龍らしい龍」が生まれたのは古代でも中国とメソポタミアで、インドやエジプトではありませんでした。また、「龍」と蛇の近縁性も見られます。そこで本書は、蛇信仰について検証します。ヨーロッパの新石器時代の遺跡からは、蛇を象った遺物が多数発掘されています。本書は、蛇を水と豊穣に結びつけたのは、旧石器時代以来豊穣の象徴だった男根像との類似性だった、と推測します。また本書は、蛇に対する人間の先天的な嫌悪感情も重視します。恐怖心が畏怖に変わるのではないか、というわけです。蛇の信仰は農耕開始より前にさかのぼるかもしれないものの、高揚したのは新石器時代以降だろう、と本書は推測します。蛇信仰は農耕文化とともに世界的に広がりましたが、蛇の遍在性も考えると、伝播だけではなく、あらゆる場所で蛇信仰が発生したこと可能性も考慮すべきである、と本書は指摘します。それでも、蛇信仰において農耕の影響は大きく、たとえば中国の龍とインドのナーガとの類似性については、稲作を通じた近い起源があったかもしれない、と本書は指摘します。蛇と水の結びつきについては、豊穣性による抽象的関係とともに、水を象徴する渦巻文との関連も本書は指摘します。
「龍らしい龍」が古代でも中国とメソポタミアのみで生まれた理由について、まずメソポタミアでは、先住民に信仰されていた蛇は退治されねばならず、大河による被害もあることから蛇が悪神視されるようになり、大河に小さな蛇は似合わず、蛇を基体としながら巨大な「龍らしい龍」が創造されたのではないか、と本書は推測します。中国も、大河流域で農耕文化が発達した点ではメソポタミアと同様ですが、聖なる動物と考えられており、自然を人間に敵対するものではなく、自然に従うことを理想とする思想とつながっているのではないか、と本書は推測します。こうした思想や文化の比較が妥当なのか、今後も調べていきたい問題ではあります。本書は、「龍」とは政治かされた蛇である、と定義します。
メソポタミアや中国と同様に大河で農耕文化や国家権力が発達したインドとエジプトで「龍らしい龍」が出現しなかった理由について、まずインドでは、大型の蛇(キングコブラなど)が棲息しており、あえて特別な怪獣を想像する必要がなかった、と指摘します。エジプトについては、ヒクソスによる一時的な支配はあったものの、在来集団による支配が長く続き、インドと同じく大型のコブラが棲息していたからではないか、と本書は推測します。つまり、コブラの不在が「龍らしい龍」を生んだ、というわけです。シュメール文化で生まれたメソポタミアの「龍」は、その後でユダヤ教やキリスト教に継承され、ヨーロッパでドラゴンが誕生しますが、その性格は一貫して反権力の象徴でした。アジア南東部は中国の龍とインドのナーガの接点でしたが、チョンソン山脈を境に東西に分かれていた、と本書は指摘します。中国の龍は、朝鮮半島と日本列島にも到来しました。
ここで問題となるのが、中国の龍とメソポタミアの「龍」との関係です。それぞれ独立して「龍」が現れたとも考えられますが、中国で龍が現れた殷代後期には、青銅器や馬車や天文や暦法が現れ、これらの多くが西方起源と推測されることから、本書は中国の龍における西方世界、とくにメソポタミアからの影響の可能性を考慮すべきと指摘します。ただ、中国には龍が独自に誕生する条件もあったので、影響というよりは、中国の龍の誕生を西方世界の文物が触発したのではないか、と本書は推測します。
また本書は、蛇以外の神聖視された動物について、ユーラシアの南北で違いが見られることも指摘し、具体的には南方のウシと北方のウマです。ウマを用いた軽戦車はユーラシアの東西に広がり、ウマはユーラシア世界で共通の権力の象徴となりました。本書はユーラシア以外の「龍」的存在の蛇の神も取り上げており、メソアメリカでは、オルメカ文化やテオティワカン文化やマヤ文化やアステカ文化などで、共通して蛇形の神が祀られていました。こうしたアメリカ大陸の蛇の神も、雨と関連していました。本書は、アメリカ大陸における農耕の発生、さらには蛇神信仰にユーラシア大陸集団が関わった可能性も指摘しますが、アメリカ大陸の人類集団の起源がユーラシア大陸にあるのは確かとしても、アメリカ大陸に人類集団が定着した後で、ユーラシアから到来した集団がアメリカ大陸の農耕開始に関わった可能性はきわめて低いように思います。
日本の龍は中国文化圏に位置づけられますが、龍の淵源である蛇信仰は世界各地で普遍的に見られ、本書は日本の龍の前史として、中国の龍の影響を受けない前の蛇信仰にも着目します。縄文時代中期の土器には、具象的な造形は少ないものの、その中で目立つのは蛇の装飾です。縄文時代にある程度の植物栽培が行なわれていた可能性は高いので、この蛇信仰はそれと関連しているかもしれません。なお、親本の刊行年代を考えると仕方のないことですが、本書は縄文時代における稲作の可能性も指摘しているものの、最近の考古学では、日本列島において縄文時代に穀物農耕は晩期最終末を除いてなかった、との見解が現在では有力になっています(関連記事)。
弥生時代には土器から蛇の文様が消え、それは、中国において龍が政治権力の象徴となり、雨乞いの対象となったのに対して、蛇が旱魃をもたらす反豊穣の動物と見られていたことと関連しているのではないか、と本書は推測します。弥生時代後期の土器には、龍と見られる図像が描かれ、銅鏡の図柄には龍が好んで使われました。弥生時代の土器では流水文が多く使われるようになり、縄文時代には主流だった渦巻文の数は少なくなりますが、これは湧水に依拠した栽培から灌漑への移行と関わっているかもしれない、と本書は推測します。銅鐸でも流水文は多用されました。文献では、八俣大蛇が龍と考えられますが、八俣大蛇退治には西方神話からの影響が指摘されています。この八俣大蛇神話は、「天」を奉ずる勢力が在来の蛇信仰の勢力を抑えた、という歴史的展開を反映している、と本書は推測します。また本書は、アマテラスが蛇の神だった可能性も指摘します。政治権力の点では、天皇は中国の皇帝と異なり、龍を避けた、と指摘されています。本書はその理由を、龍は土着の蛇と同類とみなされたから、と推測します。また本書は、龍や蛇が人間化していった結果として、河童が誕生した、と推測し、天狗は山に棲む河童と把握しています。
本書はまず、東方世界には2種の龍が「棲息」しており、それは中国産の龍(ロン)とインド産のナーガだと指摘します。日本では、前者は馴染み深いものの、後者はそうではなく、元々はコブラの龍と指摘されています。両者は蛇の要素を共有しているものの、姿形の隔たりは大きく、同一の「種」とは言えない、と本書は指摘します。しかし、仏教がインドから中国へ伝えられると、ナーガは龍と理解されました。中国における龍の歴史は古く、紀元前14世紀の殷代にはすでに存在しており、「龍」に相当する文字が見られます。王権と龍の関係が強まり、皇帝の容貌が「龍顔」と呼ばれるなど、中国史では龍は王権の象徴でした。また龍は水との関係が深く、雨や洪水の原因と考えられてきました。龍が皇帝と結びつくと、天空を飛翔する龍との観念が生まれます。龍が特別な聖なる獣とみなされるようになるのとは逆に、蛇はその毒性が強調され、疎まれる動物となっていきます。
サンスクリット語のナーガは「龍」と訳され、「龍王」とはサンスクリット語のナーガ・ラージャの訳語です。仏教が衰退したインドではナーガを見ることは難しく、カンボジアなどアジア南東部ではナーガの造形が多く残っています。ナーガはインドに生息するコブラの神で、蛇の髪は仏教に特有ではなく、バラモン教でも「アヒ」という蛇神が見られました。インドにおいて蛇はインド・ヨーロッパ語族の到来前から信仰されており、インド・ヨーロッパ語族集団の主神だったインドラに敵対する「障碍物」とみなされるようになったものの、土着の民衆では蛇信仰がしぶとく生きており、土着信仰を受け入れた仏教の勃興に伴い、蛇信仰も本来の善神としての性格で表舞台に現れた、と本書は推測します。ヒンドゥー教でも土着の蛇信仰が取り入れられ、守護神であり豊穣の神でもありました。本書は、インド仏教と漢字に通じた僧侶たちがナーガを龍と訳したのは、ともに蛇の化身として発展し、水の神や守護神といった共通点があったからではないか、と推測します。
ヨーロッパのドラゴンは「龍」と訳されてきましたが、2足のドラゴンと4足の龍、肥満気味のドラゴンと細身の龍、悪魔的存在のドラゴンと聖獣の龍など、違いが大きく、同一の「種」とは言い難い、と本書は指摘します。一方で、ドラゴンも龍と同様に、いくつかの動物の混成された爬虫類的怪獣で、体表は蛇の鱗で覆われている、といった共通点もあります。ヨーロッパのドラゴンはインドのナーガよりも中国の龍に近い「種」に見える、と本書は指摘します。ヨーロッパのドラゴンの原型と考えられる図像は、シュメール文化で見つかっており、蛇を基体とし、水と関係している点では中国の龍に近い、と本書は指摘します。ただ、シュメールの龍(ティアマト)は厭われる性質もあったことが、中国の龍との相違点です。本書はここに、ヨーロッパのドラゴンとの共通点を見ています。エジプトでは、「龍」と言えるような存在はおらず、ウラエウスはコブラ神という点でインドのナーガと類似しており、悪蛇アペプ神は龍と蛇の中間「種」である中国の蛟のような段階で「進化」が止まった、と本書は評価します。
ヘブライ語聖書(旧約聖書)には、レヴィアタンと呼ばれる「龍」が登場し、世界秩序の創造にさいして退治されます。ユダヤ人にとってレヴィアタンは、ユダヤ人を迫害したとされるエジプト王国の象徴と考えられていたようです。「龍」の宇宙論は、メソポタミアからイスラエルへと伝わったようです。ギリシア語聖書(新約聖書)では、「ヨハネの黙示録」に、7つの頭と10本の角を有し、頭には7個の冠があるとされる、「赤い龍」が登場します。聖書世界では、龍は神の仇敵で悪魔的な存在と考えられていました。一方で、蛇はユダヤ人には必ずしも邪悪視されておらず、蛇崇拝もあり、それは初期キリスト教で「異端」とされたグノーシス派に継承されました。「悪龍」と「善蛇」の関係は、中国における「善龍」と「悪蛇」とは逆の関係になり、同様の関係はメソポタミアやエジプトともつながっている、と本書は指摘します。
ギリシア神話には多くの「龍」が登場し、英雄に打倒されます。「龍」を倒すことがギリシアの英雄に欠かせない資質だったわけです。ギリシアではさまざまな怪物がドラコーンと呼ばれており、自然の動物にはない霊力を有しており、爬虫類的な空想の怪物と考えられていました。ギリシアでは蛇的なドラコーンが一般的で、本書は、オリエント世界の「龍」退治の神話がギリシアへと伝播したのではないか、と推測します。ただ本書は、ギリシアのドラコーンには先住民の信仰も関係している、と推測されています。アテナイの守護神であるアテナには、蛇を産んだとか、養育したとかいった伝承が残され、ミノア文化には蛇を伴う女神像があります。ギリシアでは、蛇を守護神として崇拝していた人々がおり、紀元前2000年頃に到来したゼウスなど天の神々を信仰する人々により、蛇は敵役を担わされた一方で、オリエント世界からは「龍」退治の神話が伝播し、土着の蛇と外来の「龍」との混淆となるドラコーンが生まれた、と本書は推測します。ギリシア神話の蛇には、リンゴの樹や黄金の羊皮を見張る守護神的な性格もありますが、それは土着の蛇信仰を継承している、と推測されます。
中世ヨーロッパの代表的な「龍」はドラゴンで、キリスト教の聖人から退治される役割を担わされています。中世ヨーロッパの典型的なドラゴンは、緑や黒みがかった鱗に覆われた爬虫類的な動物で、コウモリに似た翼を有し、2本足で、火と毒を吐きます。ドラゴンは中世では実在の動物と考えられていましたが、動物分類学の進展とともに、空想の産物とみなされていきます。西方の「龍」の特徴は、善悪両方の性格を有していることです。形態面では、古代には多頭が一般的でしたが、中世には多頭の「龍」は消えます。西方の「龍」の特徴としては、翼が一般的であることも挙げられます。西方の「龍」の東方の「龍」との大きな違いは、両者ともに水と関係が深いものの、後者は雨との関係がないことで、雨をもたらすのが、東方では「龍」だったのに対して、西方では「龍」を退治する神々でした。
これら世界各地の「龍」の共通点と相違点から、本書は「龍」の起源を検証します。「龍らしい龍」が生まれたのは古代でも中国とメソポタミアで、インドやエジプトではありませんでした。また、「龍」と蛇の近縁性も見られます。そこで本書は、蛇信仰について検証します。ヨーロッパの新石器時代の遺跡からは、蛇を象った遺物が多数発掘されています。本書は、蛇を水と豊穣に結びつけたのは、旧石器時代以来豊穣の象徴だった男根像との類似性だった、と推測します。また本書は、蛇に対する人間の先天的な嫌悪感情も重視します。恐怖心が畏怖に変わるのではないか、というわけです。蛇の信仰は農耕開始より前にさかのぼるかもしれないものの、高揚したのは新石器時代以降だろう、と本書は推測します。蛇信仰は農耕文化とともに世界的に広がりましたが、蛇の遍在性も考えると、伝播だけではなく、あらゆる場所で蛇信仰が発生したこと可能性も考慮すべきである、と本書は指摘します。それでも、蛇信仰において農耕の影響は大きく、たとえば中国の龍とインドのナーガとの類似性については、稲作を通じた近い起源があったかもしれない、と本書は指摘します。蛇と水の結びつきについては、豊穣性による抽象的関係とともに、水を象徴する渦巻文との関連も本書は指摘します。
「龍らしい龍」が古代でも中国とメソポタミアのみで生まれた理由について、まずメソポタミアでは、先住民に信仰されていた蛇は退治されねばならず、大河による被害もあることから蛇が悪神視されるようになり、大河に小さな蛇は似合わず、蛇を基体としながら巨大な「龍らしい龍」が創造されたのではないか、と本書は推測します。中国も、大河流域で農耕文化が発達した点ではメソポタミアと同様ですが、聖なる動物と考えられており、自然を人間に敵対するものではなく、自然に従うことを理想とする思想とつながっているのではないか、と本書は推測します。こうした思想や文化の比較が妥当なのか、今後も調べていきたい問題ではあります。本書は、「龍」とは政治かされた蛇である、と定義します。
メソポタミアや中国と同様に大河で農耕文化や国家権力が発達したインドとエジプトで「龍らしい龍」が出現しなかった理由について、まずインドでは、大型の蛇(キングコブラなど)が棲息しており、あえて特別な怪獣を想像する必要がなかった、と指摘します。エジプトについては、ヒクソスによる一時的な支配はあったものの、在来集団による支配が長く続き、インドと同じく大型のコブラが棲息していたからではないか、と本書は推測します。つまり、コブラの不在が「龍らしい龍」を生んだ、というわけです。シュメール文化で生まれたメソポタミアの「龍」は、その後でユダヤ教やキリスト教に継承され、ヨーロッパでドラゴンが誕生しますが、その性格は一貫して反権力の象徴でした。アジア南東部は中国の龍とインドのナーガの接点でしたが、チョンソン山脈を境に東西に分かれていた、と本書は指摘します。中国の龍は、朝鮮半島と日本列島にも到来しました。
ここで問題となるのが、中国の龍とメソポタミアの「龍」との関係です。それぞれ独立して「龍」が現れたとも考えられますが、中国で龍が現れた殷代後期には、青銅器や馬車や天文や暦法が現れ、これらの多くが西方起源と推測されることから、本書は中国の龍における西方世界、とくにメソポタミアからの影響の可能性を考慮すべきと指摘します。ただ、中国には龍が独自に誕生する条件もあったので、影響というよりは、中国の龍の誕生を西方世界の文物が触発したのではないか、と本書は推測します。
また本書は、蛇以外の神聖視された動物について、ユーラシアの南北で違いが見られることも指摘し、具体的には南方のウシと北方のウマです。ウマを用いた軽戦車はユーラシアの東西に広がり、ウマはユーラシア世界で共通の権力の象徴となりました。本書はユーラシア以外の「龍」的存在の蛇の神も取り上げており、メソアメリカでは、オルメカ文化やテオティワカン文化やマヤ文化やアステカ文化などで、共通して蛇形の神が祀られていました。こうしたアメリカ大陸の蛇の神も、雨と関連していました。本書は、アメリカ大陸における農耕の発生、さらには蛇神信仰にユーラシア大陸集団が関わった可能性も指摘しますが、アメリカ大陸の人類集団の起源がユーラシア大陸にあるのは確かとしても、アメリカ大陸に人類集団が定着した後で、ユーラシアから到来した集団がアメリカ大陸の農耕開始に関わった可能性はきわめて低いように思います。
日本の龍は中国文化圏に位置づけられますが、龍の淵源である蛇信仰は世界各地で普遍的に見られ、本書は日本の龍の前史として、中国の龍の影響を受けない前の蛇信仰にも着目します。縄文時代中期の土器には、具象的な造形は少ないものの、その中で目立つのは蛇の装飾です。縄文時代にある程度の植物栽培が行なわれていた可能性は高いので、この蛇信仰はそれと関連しているかもしれません。なお、親本の刊行年代を考えると仕方のないことですが、本書は縄文時代における稲作の可能性も指摘しているものの、最近の考古学では、日本列島において縄文時代に穀物農耕は晩期最終末を除いてなかった、との見解が現在では有力になっています(関連記事)。
弥生時代には土器から蛇の文様が消え、それは、中国において龍が政治権力の象徴となり、雨乞いの対象となったのに対して、蛇が旱魃をもたらす反豊穣の動物と見られていたことと関連しているのではないか、と本書は推測します。弥生時代後期の土器には、龍と見られる図像が描かれ、銅鏡の図柄には龍が好んで使われました。弥生時代の土器では流水文が多く使われるようになり、縄文時代には主流だった渦巻文の数は少なくなりますが、これは湧水に依拠した栽培から灌漑への移行と関わっているかもしれない、と本書は推測します。銅鐸でも流水文は多用されました。文献では、八俣大蛇が龍と考えられますが、八俣大蛇退治には西方神話からの影響が指摘されています。この八俣大蛇神話は、「天」を奉ずる勢力が在来の蛇信仰の勢力を抑えた、という歴史的展開を反映している、と本書は推測します。また本書は、アマテラスが蛇の神だった可能性も指摘します。政治権力の点では、天皇は中国の皇帝と異なり、龍を避けた、と指摘されています。本書はその理由を、龍は土着の蛇と同類とみなされたから、と推測します。また本書は、龍や蛇が人間化していった結果として、河童が誕生した、と推測し、天狗は山に棲む河童と把握しています。
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