『卑弥呼』第129話「ゴリ」
『ビッグコミックオリジナル』2024年5月5日号掲載分の感想です。前回は、馬韓の湖南(コナム)国の王から、倭人が扇動して叛乱を起こしたので、蘇塗(ソト)の邑を討伐するよう、命じられたヤノハ一行が、無人の蘇塗の邑に入ったところ、騎馬武者の大柄な倭人男性が一人でやって来てゴリと名乗ったところで終了しました。今回は、蘇塗の邑でヤノハとゴリが対面し、それをオオヒコとヌカデとナツハ(チカラオ)が見守っている場面から始まります。ヤノハに出自を問われたゴリは、父が日向(ヒムカ)の出身、母は馬韓人で、自分は馬韓生まれの倭人だ、と答えます。父が馬韓に行った理由をヤノハから問われたゴリは、父は暈(クマ)国のイサオ王の命により大陸に差し向けられた図師(ズシ、地理を記憶する匠)だった、と答えます。ゴリの父は、地図と呼んでいました。ヤノハは、それが命がけの仕事であることを悟ります。国々にとって最大の秘密は、都の場所とそこに通ずる道と国の形だからです。ゴリの父は、地元民に悟られないよう、地図を自分と子供の身体に刻みました。つまり、ゴリの彫り物はすべて地図というわけです。父の死後、ゴリは中土(中華地域のことでしょう)までの地図をイサオ王に届けるため帰国し、その後で馬韓に戻りました。
日下(ヒノモト)国では、吉備津彦(キビツヒコ)と名乗るようになったイサセリを、甥であるネコからビビと改名した次期王君(記紀の開花天皇、つまり稚日本根子彦大日日天皇でしょうか)が野原に呼び出していました。叔父の吉備津彦に王君と呼びかけられたビビ王子は、即位式の日取りも決まっておらず、自分はまだ王君ではない、と言います。自分のことをどう思うか、とビビ王子に問われた吉備津彦は、その意味を理解できません。吉備津彦が自分の改めた名であるビビをすでに知っていることから、吉備津彦が双子の姉のモモソと会っていた、とビビ王子は悟り、仲の良い姉弟で羨ましい、と言います。ビビ王子は、自分を神輿に担ぐ気があるのか、と吉備津彦に尋ねます。ビビ王子は、自分は先の王君、つまりクニクル王君(記紀の孝元天皇、つまり大日本根子彦国牽天皇でしょうか)と異なり、担ぐには軽くない、と毅然として言います。初登場時には気弱そうな感じのビビ(ネコ)王子でしたが、豪気なところがあるようです。あれほど担ぎやすかった父(クニクル王君)が神罰とやらであっという間に亡くなるとは、叔父上(吉備津彦)や叔母上(モモソ)に気に入られなくては自分の命も危うい、と言うビビ王子に、吉備津彦は慌てたよう手図、先の王君(クニクル王君)やビビ王君に神のご加護があるのかどうか、決めるのはモモソでも自分でもない、と否定します。するとビビ王子は、モモソの叔母上は天照様に取り入り、都合の良い言葉を引き出しているように思える、と指摘します。モモソはただの日見子(ヒミコ)で、そうした大それたことはしない、と言いかける吉備津彦に、天照様は日下の王をどうしろなどとは言わないと申すのか、と念押しし、吉備津彦は即座に肯定します。天照の神は、今年旱魃があるのか、大雨はないのか、地は揺れるか、米は採れるかなど、未来を占うだけで、それをモモソに伝える、と吉備津彦はビビ王子に説明します。つまり、神はこの先の吉凶を告げるだけで、人の殺生を決めないのだな、とビビ王子に問われた吉備津彦は肯定します。ビビ王子はその返答に安心し、畝火山(ウネビノヤマ)を指差して、神が棲んでいると言われており、この時期にイチシの赤い花々が咲き乱れ、本当に平和な場所だ、と言い、確かに美しい野原だ、と吉備津彦も同意します。するとビビ王子は、イチシの鼻が死人花もしくは墓花とも言われているのを知っているか、と吉備津彦に問いかけます。つまり、平和は死と隣り合わせで、永久に泰平を得たいなら、まだ戦と死が必要だ、と説明したビビ王子は、吉備津彦とモモソの姉弟とは仲良くしたい、と言って、戦をやるのか否かはすべて吉備津彦将軍に任せる、と告げ、吉備津彦は満足そうに頷きます。
馬韓では、ゴリがヤノハに、自分は人を殺しすぎた、と打ち明けます。ヤノハはその話を後回しにして、石積みの上にある、気高くとてもよい微笑みの木像が誰なのか、ゴリに尋ねます。ゴリは、古の身毒(シンドウ)もしくは天竺(テンジク)と言われる王子で、天竺とは中土の隣にある中土と同じくらい大きな国で、その天竺の安息(アルケサス)という国のお方だと聞いている、と答えます。その王子の名をヤノハに問われたゴリは、漢字で浮屠(ブット)、正確には「ブッダ」と呼ぶそうだ、と答えます。このお方が木像とされている理由を問われたゴリは、教えを広められた偉大な方だからで、中土では浮屠教と呼ばれている、と答えます。浮屠教がどのような教えなのか、問われたゴリは、この世は永遠ではなく一瞬で、万物はもちろん、人の力も富も欲望もすべて幻にすぎないと説かれたそうだ、と答えます。その教えにより浮屠様は神になったのか、と問われたゴリは、神ではなくあくまで人だ、と答えます。神と浮屠はどう違うのか、ヤノハに問われたゴリは、まず浮屠は人故に人の苦しみをよく知っているので、戦い、とりわけ殺生を禁じている、と答えます。浮屠の教えを信じているのか、とヤノハに問われたゴリは肯定し、ヤノハは改めて、なぜ人を殺すのか、ゴリに尋ねます。ヤノハに大勢の馬韓の民を殺すのはなぜか、問われたゴリは、民は殺していない、と否定します。自分が立ち寄った邑には、20人の屈強な若者の屍があった、と指摘するヤノハに、それは湖南王の兵士で、邑人を皆殺しにしたので自分が成敗した、とゴリは説明します。湖南王と戦っているのか、とヤノハに問われたゴリは、自分が戦っているのは湖南王とその背後にいる強大な敵だ、と答えます。湖南王は月支(ゲッシ)国の辰王を亡き者として、自ら王を名乗るべく謀叛を起こし、まずは馬韓50余国を統一し、次に弁韓と辰韓を支配しようと考え、それを焚きつけたのが遼東の公孫淵だった、とゴリはヤノハに説明します。つまり、遼東公孫氏が湖南王の背後にいるわけです。公孫淵の目的は三韓の完全支配と倭への侵略だ、と説明するゴリに、暴君を倒すため立ち上がったのか、とヤノハは尋ねます。ゴリはそうだと答え、中土にある「義」という言葉を知っているか、とヤノハに問いかけますが、ヤノハは知りません。義とは天の道、民に尽くす道で、正しい道筋のことだ、と説明するゴリに、義があれば浮屠は戦も許すのか、とヤノハは尋ねます。自分はそう信じている、と答えるゴリに、この戦が終わった後はどうするのか、とヤノハは尋ねます。馬韓と弁韓と辰韓を巡り、人々に浮屠の教えを広めようと考えているゴリに、ヤノハは改めて、神と浮屠の違いが何なのか、問いかけます。するとゴリは、神は先に起こる吉凶をただ人に告げるだけの存在で、浮屠(ブッダ)は人の心を救う、と答えます。人がどうしたら救われるのか、どう生きるべきか、浮屠は道を示してくれる、というわけです。人の心を救う、という浮屠の教えを聞き、ヤノハが考え込んでいるところで今回は終了です。
今回は、日下の新体制と、馬韓でのヤノハとゴリのやり取りが描かれました。日下では、次の王君となるビビ王子の人となりが詳しく描かれ、豪気で聡明な人物のようです。ビビ王子は、父親である先代のクニクル王君の急死には吉備津彦とモモソが関わっていることも察しているようで、その上で、吉備津彦に軍権を委ねて、日下による倭国統一を進めるようです。この点では、ビビ王子は父親よりも祖父で先々代のフトニ王(大日本根子彦太瓊天皇、つまり記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)の方と似ているようです。吉備津彦はかなり野心的で好戦的な人物ですから、日下とヤノハを擁立する山社(ヤマト)連合との対立の構図は今後も変わらず、再度の戦いも起きそうです。
ヤノハとゴリの会話から、さまざまな情報が明かされました。ゴリは暈のイサオ王に中土までの地図を届けた後で馬韓に戻りましたが、そのことを悔やんでもいるようで、浮屠(ブッダ)の教え、つまり仏教に傾倒し、広めようと考えているようです。ゴリはおそらく『三国志』に見える都市牛利で、難升米(おそらく本作のトメ将軍)とともに、倭国から魏へと派遣されています。ゴリに暈への忠誠がどの程度あるのか、明示されませんでしたが、ゴリは仏教を広めたいと考えているので、暈への忠誠は高くないように思います。本作で仏教が深く関わってくることは予想していませんでしたが、仏教がヤノハの世界観や今後の方針にどう影響を及ぼすのか、注目されます。その意味で、神と浮屠(ブッダ)の違いを、日下での吉備津彦とビビ王子のやり取りも踏まえて示した今回の構成は、よく練られているように思います。ヤノハとゴリにとって、公孫淵は共通の敵となりそうですから、この点で両者は共闘し、ゴリがヤノハに仕えるようになるのでしょうか。
今後しばらくは、ヤノハと遼東公孫氏の対峙が中心に描かれそうで、その後はついに魏が本格的に登場しそうで、安息(パルティア)も言及され、ますます壮大な話になってきて楽しみですが、まずは、公孫淵がどのような人物として描かれるのか、注目しています。公孫淵は、野心的で好戦的な人物で、同じ作画者の『天智と天武~新説・日本書紀~』の鬼室福信のような外見で描かれるのではないか、と予想しています。なお、次号は休載とのことで残念ですが、その間に読み直すなどして最近の展開を整理しようと考えています。
日下(ヒノモト)国では、吉備津彦(キビツヒコ)と名乗るようになったイサセリを、甥であるネコからビビと改名した次期王君(記紀の開花天皇、つまり稚日本根子彦大日日天皇でしょうか)が野原に呼び出していました。叔父の吉備津彦に王君と呼びかけられたビビ王子は、即位式の日取りも決まっておらず、自分はまだ王君ではない、と言います。自分のことをどう思うか、とビビ王子に問われた吉備津彦は、その意味を理解できません。吉備津彦が自分の改めた名であるビビをすでに知っていることから、吉備津彦が双子の姉のモモソと会っていた、とビビ王子は悟り、仲の良い姉弟で羨ましい、と言います。ビビ王子は、自分を神輿に担ぐ気があるのか、と吉備津彦に尋ねます。ビビ王子は、自分は先の王君、つまりクニクル王君(記紀の孝元天皇、つまり大日本根子彦国牽天皇でしょうか)と異なり、担ぐには軽くない、と毅然として言います。初登場時には気弱そうな感じのビビ(ネコ)王子でしたが、豪気なところがあるようです。あれほど担ぎやすかった父(クニクル王君)が神罰とやらであっという間に亡くなるとは、叔父上(吉備津彦)や叔母上(モモソ)に気に入られなくては自分の命も危うい、と言うビビ王子に、吉備津彦は慌てたよう手図、先の王君(クニクル王君)やビビ王君に神のご加護があるのかどうか、決めるのはモモソでも自分でもない、と否定します。するとビビ王子は、モモソの叔母上は天照様に取り入り、都合の良い言葉を引き出しているように思える、と指摘します。モモソはただの日見子(ヒミコ)で、そうした大それたことはしない、と言いかける吉備津彦に、天照様は日下の王をどうしろなどとは言わないと申すのか、と念押しし、吉備津彦は即座に肯定します。天照の神は、今年旱魃があるのか、大雨はないのか、地は揺れるか、米は採れるかなど、未来を占うだけで、それをモモソに伝える、と吉備津彦はビビ王子に説明します。つまり、神はこの先の吉凶を告げるだけで、人の殺生を決めないのだな、とビビ王子に問われた吉備津彦は肯定します。ビビ王子はその返答に安心し、畝火山(ウネビノヤマ)を指差して、神が棲んでいると言われており、この時期にイチシの赤い花々が咲き乱れ、本当に平和な場所だ、と言い、確かに美しい野原だ、と吉備津彦も同意します。するとビビ王子は、イチシの鼻が死人花もしくは墓花とも言われているのを知っているか、と吉備津彦に問いかけます。つまり、平和は死と隣り合わせで、永久に泰平を得たいなら、まだ戦と死が必要だ、と説明したビビ王子は、吉備津彦とモモソの姉弟とは仲良くしたい、と言って、戦をやるのか否かはすべて吉備津彦将軍に任せる、と告げ、吉備津彦は満足そうに頷きます。
馬韓では、ゴリがヤノハに、自分は人を殺しすぎた、と打ち明けます。ヤノハはその話を後回しにして、石積みの上にある、気高くとてもよい微笑みの木像が誰なのか、ゴリに尋ねます。ゴリは、古の身毒(シンドウ)もしくは天竺(テンジク)と言われる王子で、天竺とは中土の隣にある中土と同じくらい大きな国で、その天竺の安息(アルケサス)という国のお方だと聞いている、と答えます。その王子の名をヤノハに問われたゴリは、漢字で浮屠(ブット)、正確には「ブッダ」と呼ぶそうだ、と答えます。このお方が木像とされている理由を問われたゴリは、教えを広められた偉大な方だからで、中土では浮屠教と呼ばれている、と答えます。浮屠教がどのような教えなのか、問われたゴリは、この世は永遠ではなく一瞬で、万物はもちろん、人の力も富も欲望もすべて幻にすぎないと説かれたそうだ、と答えます。その教えにより浮屠様は神になったのか、と問われたゴリは、神ではなくあくまで人だ、と答えます。神と浮屠はどう違うのか、ヤノハに問われたゴリは、まず浮屠は人故に人の苦しみをよく知っているので、戦い、とりわけ殺生を禁じている、と答えます。浮屠の教えを信じているのか、とヤノハに問われたゴリは肯定し、ヤノハは改めて、なぜ人を殺すのか、ゴリに尋ねます。ヤノハに大勢の馬韓の民を殺すのはなぜか、問われたゴリは、民は殺していない、と否定します。自分が立ち寄った邑には、20人の屈強な若者の屍があった、と指摘するヤノハに、それは湖南王の兵士で、邑人を皆殺しにしたので自分が成敗した、とゴリは説明します。湖南王と戦っているのか、とヤノハに問われたゴリは、自分が戦っているのは湖南王とその背後にいる強大な敵だ、と答えます。湖南王は月支(ゲッシ)国の辰王を亡き者として、自ら王を名乗るべく謀叛を起こし、まずは馬韓50余国を統一し、次に弁韓と辰韓を支配しようと考え、それを焚きつけたのが遼東の公孫淵だった、とゴリはヤノハに説明します。つまり、遼東公孫氏が湖南王の背後にいるわけです。公孫淵の目的は三韓の完全支配と倭への侵略だ、と説明するゴリに、暴君を倒すため立ち上がったのか、とヤノハは尋ねます。ゴリはそうだと答え、中土にある「義」という言葉を知っているか、とヤノハに問いかけますが、ヤノハは知りません。義とは天の道、民に尽くす道で、正しい道筋のことだ、と説明するゴリに、義があれば浮屠は戦も許すのか、とヤノハは尋ねます。自分はそう信じている、と答えるゴリに、この戦が終わった後はどうするのか、とヤノハは尋ねます。馬韓と弁韓と辰韓を巡り、人々に浮屠の教えを広めようと考えているゴリに、ヤノハは改めて、神と浮屠の違いが何なのか、問いかけます。するとゴリは、神は先に起こる吉凶をただ人に告げるだけの存在で、浮屠(ブッダ)は人の心を救う、と答えます。人がどうしたら救われるのか、どう生きるべきか、浮屠は道を示してくれる、というわけです。人の心を救う、という浮屠の教えを聞き、ヤノハが考え込んでいるところで今回は終了です。
今回は、日下の新体制と、馬韓でのヤノハとゴリのやり取りが描かれました。日下では、次の王君となるビビ王子の人となりが詳しく描かれ、豪気で聡明な人物のようです。ビビ王子は、父親である先代のクニクル王君の急死には吉備津彦とモモソが関わっていることも察しているようで、その上で、吉備津彦に軍権を委ねて、日下による倭国統一を進めるようです。この点では、ビビ王子は父親よりも祖父で先々代のフトニ王(大日本根子彦太瓊天皇、つまり記紀の第7代孝霊天皇でしょうか)の方と似ているようです。吉備津彦はかなり野心的で好戦的な人物ですから、日下とヤノハを擁立する山社(ヤマト)連合との対立の構図は今後も変わらず、再度の戦いも起きそうです。
ヤノハとゴリの会話から、さまざまな情報が明かされました。ゴリは暈のイサオ王に中土までの地図を届けた後で馬韓に戻りましたが、そのことを悔やんでもいるようで、浮屠(ブッダ)の教え、つまり仏教に傾倒し、広めようと考えているようです。ゴリはおそらく『三国志』に見える都市牛利で、難升米(おそらく本作のトメ将軍)とともに、倭国から魏へと派遣されています。ゴリに暈への忠誠がどの程度あるのか、明示されませんでしたが、ゴリは仏教を広めたいと考えているので、暈への忠誠は高くないように思います。本作で仏教が深く関わってくることは予想していませんでしたが、仏教がヤノハの世界観や今後の方針にどう影響を及ぼすのか、注目されます。その意味で、神と浮屠(ブッダ)の違いを、日下での吉備津彦とビビ王子のやり取りも踏まえて示した今回の構成は、よく練られているように思います。ヤノハとゴリにとって、公孫淵は共通の敵となりそうですから、この点で両者は共闘し、ゴリがヤノハに仕えるようになるのでしょうか。
今後しばらくは、ヤノハと遼東公孫氏の対峙が中心に描かれそうで、その後はついに魏が本格的に登場しそうで、安息(パルティア)も言及され、ますます壮大な話になってきて楽しみですが、まずは、公孫淵がどのような人物として描かれるのか、注目しています。公孫淵は、野心的で好戦的な人物で、同じ作画者の『天智と天武~新説・日本書紀~』の鬼室福信のような外見で描かれるのではないか、と予想しています。なお、次号は休載とのことで残念ですが、その間に読み直すなどして最近の展開を整理しようと考えています。
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