後藤健 『メソポタミアとインダスのあいだ 知られざる海洋の古代文明』
筑摩選書の一冊として、筑摩書房より2015年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、紀元前三千年紀~紀元前二千年紀のアラビア湾、とくにアラビア半島東部沿岸地方やイラン高原などメソポタミアの隣接地域の「文明(「当ブログでは原則として文明という用語を使いませんが、この記事では本書に従って文明と表記します)」の興亡を検証します。まず本書は、日本の学校教育で取り上げられる「古代の四大文明」なる用語が、「学説」ではなく尤もらしい言い回しにすぎない、と指摘します。こうした指摘は、現代日本社会においてそれなりに浸透してきたようでが、まだ根強く残っているようにも思います。
本書の主題は、「古代文明」の起源を、灌漑農耕による生産性の飛躍的向上とそれにより生じた余剰の蓄積、さらにはそれを可能とした労働力の集中と社会・政治的階層の確立などの側面から説明することが多かったこれまでの有力説に対して、そうではない「古代文明」も存在し、それはなぜ可能だったのか、またそうした「古代文明」はなぜ崩壊したのか、ということです。具体的には、ウンム・ン=ナール「文明」は、農耕文化が発達していなかった地域に突然出現したように見える都市「文明」でした。本書は、「世界最古の文明」の発祥地とされるメソポタミアにしても、金属など農産物以外の「文明」に必要な物資が乏しかったため、イラン高原やアラビア半島湾岸部といった他地域との交易が必要だったことと、農耕文化が発達していなかった地域における「四大文明」以外の「古代文明」出現との関連を指摘します。さらに本書は、メソポタミアがイラン高原と湾岸地域だけではなく、その先のアジア中央部やインダス川流域と関わっていることも指摘します。
メソポタミアでは、「文明」成立前のウバイド文化の頃から、湾岸との交流があった、と考古学的記録から示されています。初期メソポタミア「文明」にとって重要な近隣地域の一方となったイラン高原は、当時メソポタミアでは「エラム」と呼ばれていました。イラン高原とその東方からメソポタミアへの交易経路では、その位置からスーサが重要だったようです。エラム地方は、メソポタミアとイランの勢力が直接的に接触する場所で、考古学的記録から両勢力間の恒常的な争いが窺えます。エラムにおける原初的な都市は、メソポタミアのような農耕社会の発展の結果ではなく、交易拠点としての発展の結果という側面が強かったようです。一方で、メソポタミアは当初湾岸には、イラン高原に対するほどには積極的に関与しなかったようです。
本書でとくに深く取り上げられているウンム・ン=ナール「文明」は、紀元前2500年頃にオマーン半島に成立し、メソポタミアとインダスとの間の海域を支配しました。本書はウンム・ン=ナール「文明」を、イラン東南部と一体で、トランス・エラム「文明」の交流網がさらに一段階進展したものとして把握します。ウンム・ン=ナール「文明」は、新たな勢力による交易網の創出ではなく、それ以前の交易網の発展だった、というわけです。アラビア湾の海上交易を支配したウンム・ン=ナール「文明」は紀元前2000年頃の前後に「衰退した」ようで、局所的なワーディー・スーク文化へと変容します。
しかし本書はこれを、オマーン半島における「文明」の「衰退」もしくは「縮小」を示しているものの、アラビア湾岸最古の「文明」は「首都」機能をウンム・ン=ナール島から湾岸中部に位置するバハレーン島に移転させたのであり、湾岸地域全体では「文明」発展の一局面にすぎなかった、と指摘します。こうして紀元前三千年紀末に成立したのがバールバール文明で、メソポタミアでは、ウンム・ン=ナール「文明」が「マガン」、バールバール「文明」がディルムンと呼ばれました。
紀元前18世紀におけるバールバール「文明」の「衰退」は、広い視野では発展の一局面にすぎなかったウンム・ン=ナール「文明」の「衰退」とは異なり、シリアからインダス川流域にいたる広範囲での政治・経済的大変動の一部で、本物の「衰退」だった、と本書は指摘します。この後しばらく、バールバール「文明」のように「国際的な」活動を湾岸の人々が担うことはなかったわけです。インダス「文明」は紀元前1900~紀元前1800年頃に終焉し、地方的な諸文化がインダス「文明」の一部を継承しました。インダス「文明」の衰退はバールバール「文明」にとって、最大の顧客であるメソポタミアにインダス方面の物資を供給することが困難になったことで、大きな影響となっただろう、と本書は指摘します。さらに、カッシートによるバビロン支配など、メソポタミア情勢の不安定化も、バールバール「文明」の終焉につながっていたようです。
本書の主題は、「古代文明」の起源を、灌漑農耕による生産性の飛躍的向上とそれにより生じた余剰の蓄積、さらにはそれを可能とした労働力の集中と社会・政治的階層の確立などの側面から説明することが多かったこれまでの有力説に対して、そうではない「古代文明」も存在し、それはなぜ可能だったのか、またそうした「古代文明」はなぜ崩壊したのか、ということです。具体的には、ウンム・ン=ナール「文明」は、農耕文化が発達していなかった地域に突然出現したように見える都市「文明」でした。本書は、「世界最古の文明」の発祥地とされるメソポタミアにしても、金属など農産物以外の「文明」に必要な物資が乏しかったため、イラン高原やアラビア半島湾岸部といった他地域との交易が必要だったことと、農耕文化が発達していなかった地域における「四大文明」以外の「古代文明」出現との関連を指摘します。さらに本書は、メソポタミアがイラン高原と湾岸地域だけではなく、その先のアジア中央部やインダス川流域と関わっていることも指摘します。
メソポタミアでは、「文明」成立前のウバイド文化の頃から、湾岸との交流があった、と考古学的記録から示されています。初期メソポタミア「文明」にとって重要な近隣地域の一方となったイラン高原は、当時メソポタミアでは「エラム」と呼ばれていました。イラン高原とその東方からメソポタミアへの交易経路では、その位置からスーサが重要だったようです。エラム地方は、メソポタミアとイランの勢力が直接的に接触する場所で、考古学的記録から両勢力間の恒常的な争いが窺えます。エラムにおける原初的な都市は、メソポタミアのような農耕社会の発展の結果ではなく、交易拠点としての発展の結果という側面が強かったようです。一方で、メソポタミアは当初湾岸には、イラン高原に対するほどには積極的に関与しなかったようです。
本書でとくに深く取り上げられているウンム・ン=ナール「文明」は、紀元前2500年頃にオマーン半島に成立し、メソポタミアとインダスとの間の海域を支配しました。本書はウンム・ン=ナール「文明」を、イラン東南部と一体で、トランス・エラム「文明」の交流網がさらに一段階進展したものとして把握します。ウンム・ン=ナール「文明」は、新たな勢力による交易網の創出ではなく、それ以前の交易網の発展だった、というわけです。アラビア湾の海上交易を支配したウンム・ン=ナール「文明」は紀元前2000年頃の前後に「衰退した」ようで、局所的なワーディー・スーク文化へと変容します。
しかし本書はこれを、オマーン半島における「文明」の「衰退」もしくは「縮小」を示しているものの、アラビア湾岸最古の「文明」は「首都」機能をウンム・ン=ナール島から湾岸中部に位置するバハレーン島に移転させたのであり、湾岸地域全体では「文明」発展の一局面にすぎなかった、と指摘します。こうして紀元前三千年紀末に成立したのがバールバール文明で、メソポタミアでは、ウンム・ン=ナール「文明」が「マガン」、バールバール「文明」がディルムンと呼ばれました。
紀元前18世紀におけるバールバール「文明」の「衰退」は、広い視野では発展の一局面にすぎなかったウンム・ン=ナール「文明」の「衰退」とは異なり、シリアからインダス川流域にいたる広範囲での政治・経済的大変動の一部で、本物の「衰退」だった、と本書は指摘します。この後しばらく、バールバール「文明」のように「国際的な」活動を湾岸の人々が担うことはなかったわけです。インダス「文明」は紀元前1900~紀元前1800年頃に終焉し、地方的な諸文化がインダス「文明」の一部を継承しました。インダス「文明」の衰退はバールバール「文明」にとって、最大の顧客であるメソポタミアにインダス方面の物資を供給することが困難になったことで、大きな影響となっただろう、と本書は指摘します。さらに、カッシートによるバビロン支配など、メソポタミア情勢の不安定化も、バールバール「文明」の終焉につながっていたようです。
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