初期人類の研究の進展
初期人類の研究の進展に関する解説(Gibbons., 2024)が公表されました。この解説記事は、「ルーシー(Lucy)」と呼ばれる保存状態の良好なアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)化石の発見から50年となることで、ホモ属の出現以前となる初期人類の研究の進展を概説しています。初期人類に関する最新の研究については、近年ではほとんど把握できていないので、この解説記事により新たな知見を得るとともに、自分の知識を整理しようと思って、読みました。以下、この解説記事の翻訳ですが、敬称は省略します。
ゼレゼネイ・アレムゼゲド(Zeresenay Alemseged)は、エチオピアのハダール(Hadar)の有名な化石ルーシーの1974年の発見を覚えておらず、それは彼が当時5歳で、600km離れたエチオピアのアクスム(Axum)に暮らしていたからです。その後、彼はルーシーの名前をカフェやタクシーで見かけましたが、エチオピア国立博物館で働く地質学者になるまで、ルーシーについてほとんど知りませんでした。その後、ルーシーは彼の人生を変えました。2000年に、アレムゼゲドはルーシーの軌道に押し込まれました。つまり、彼はハダールから10kmほどのディキカ(Dikika)で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の子供の部分骨格である「ルーシーの子供」を発見したわけです(関連記事)。
2015年、すでに有名な科学者であった彼は、エチオピアの国立宮殿での国賓晩餐会の前に、アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマ(Barack Obama)【当時】にルーシーを見せる栄誉に浴しました。アレムゼゲドはオバマに、ルーシーの貴重な骨格に触れることを許可し、その化石はエチオピアが人類の発祥地であることを示しており、地球上の「どの個人」もアフリカにおける起源を共有している、と語りました。アレムゼゲドはオバマに、「ドナルド・トランプ(Donald Trump)を含めて」と冗談を言いました【トランプが、オバマはエチオピア生まれでアメリカ合衆国大統領への就任資格がない、と確たる根拠なく疑問を呈したことへの揶揄の意味もあったのでしょう】。
発見から50年後、「ルーシーは象徴です」と、今ではシカゴ大学の古人類学者であるアレムゼゲドは語ります。じっさい、318万年前頃のルーシーは、ホモ属やルーシーの後の他の全人類の最初の既知の祖先として発表されて以来、ヒトの家系の女性家長として君臨してきました。諸国の首脳がルーシーに謁見しました。ルーシーがアメリカ合衆国に貸し出された2006年には、多くのテキサス人がルーシーを見るために列に並び、多くの科学者がルーシーは旅をするにはあまりにも脆弱と考えていたため、議論となりました。イヴァンカ・トランプ(Ivanka Trump)さえ、聴衆を集めました。しかし、多くの高齢の君主のように、ルーシーは今や、その拡大家族からの注目と地位をめぐる競争の広まった、新たな世界に直面しています。
50年間にわたる研究により、ルーシーには生命が吹き込まれ、ルーシーが、小さな脳と、おそらくは食事や巣籠や保釈者からの逃走のための木に登ることを可能とした類人猿的な上半身を、依然として有していても、どのように直立したのか、示されています。雄と雌の400点以上の新たな化石や、ディキカの子供は、ルーシーの種、つまりアウストラロピテクス・アファレンシスが地球上で385万~295万年前頃までの100万年間にどのように、成長し、社会化して、進化したのか、明らかにしてきました。
しかし、ルーシーに関する研究者の見解とその位置づけは変わってきました。ルーシーはもはや、ヒトの家系の最古の既知の構成員ではありません。ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の構成員は、ルーシーの発見者が考えていたような、開けたサバンナの草原で最初に直立の一歩を踏み出したわけではなかったものの、落葉樹の草の茂った森林を最初に歩きました。ルーシーとその近縁は気候変動を切り抜け、何千年にもわたってさまざまな生息地に適応しました。最も重要なのは、ルーシーだけがその景観にいたわけではなかったことです。「同じ期間に複数の‘人類’種がいます」と、アリゾナ州立大学のヒト起源研究所(Institute of Human Origins、略してIHO)の所長で、ヒト起源の研究へのルーシーの影響に関する今週の討論会を共催したヨハネス・ハイレ=セラシエ(Yohannes Haile-Selassie)は述べています。
400万~300万年前頃、ヒトの家系図は盆栽というよりも灌木的で、単一の幹ではなく複数の茎が並んで成長していた、とハイレ=セラシエと他の一部の研究者は考えています。ハイレ=セラシエと他の一部の研究者はルーシーを、直接的なヒトの祖先というよりも高祖父母の姉妹以上のものとみなしています。しかし、アレムゼゲドと他の研究者は、これまで、現代人全員の母親についてより適した候補の化石は他にない、と指摘します。
古人類学者はヒトの家系図におけるルーシーの位置を議論していますが、ルーシーほどの影響を有している既知のヒトの祖先はいない、という点で一致しています。古人類学者は、ルーシーの骨格により明らかになった我々の過去の詳細な見解に驚嘆しています。40%が回収されたルーシーの骨格は、未完成のパズルのピースのように、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の他の構成威信の数十点の遊離した骨をともに組み合わせるための雛形として機能してきました。「世界の他のどの化石よりも多くの人が、ルーシーの骨格を観察して分析するようになりました」と、IHOの古人類学者であるケイ・リード(Kaye Reed)は述べています。
1974年の時点で、研究者は、そうした保存状態良好な人類骨格がどれほど珍しいものになるのか、理解していませんでした。「運命は酷い悪戯をしました。初期に最良の化石を与えてくれたのです」と、ジョージ・ワシントン大学の古人類学者であるバーナード・ウッド(Bernard Wood)は述べています。「まるで、自分の誕生日で、自分が最初の贈り物を開けて、それがまさに望みのものだったかのようで(中略)それ故に、あなたは全ての他の贈り物がこれと同じくらい良いものだと考えます」と、バーナード・ウッドは述べています。
一生に一度の化石の贈り物は、ドナルド・カール・ジョハンソン(Donald Carl Johanson)によって最初に開けられました。当時、クリーブランド自然史博物館の若いアメリカ合衆国の古人類学者だったジョハンソンは、今は亡きフランスの地質学者であるモーリス・タイーブ(Maurice Taieb)により組織されたハダール探検隊に参加しました。1974年11月24日、第二発掘期の半ばで、ジョハンソンと学生のトム・グレイ(Tom Gray)は、ほとんど興味を見出だせなかった落胆した朝の後に、ランドローバー(Land Rover)【社の自動車】に歩いて戻っていました。その後、ジョハンソンは乾燥した小峡谷の丘でルーシーの腕の骨の一部を見つけました。ジョハンソンは次に、頭骨の無断片と大腿骨と骨盤の一部と椎骨を見つけ、これは珍しい部分骨格でした。
研究団は野営地で一晩中、ビールを飲み、ビートルズの歌「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」を歌いながら、その発見を祝いました。誰かがこの骨格をルーシーと呼び始め、その名前が定着しました。「ルーシーの本当の重要性は、初期のヒトの祖先がどのような姿をしていたのか、我々が知らなったことです」と、IHOの創設者であるジョハンソンは述べています。ジョハンソンは、ルーシーが、南アフリカ共和国でほぼ1世紀前に発見された人類で、ルーシーの発見時には200万年前頃と考えられていたアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)など、アウストラロピテクス属の既知の構成員と比較してどれくらい小さく祖先的だったのか、すぐに感銘を受けた、回想しています。「私はルーシーがより類人猿的な特徴だったことに衝撃を受けました」と、ジョハンソンは述べています。
ルーシーは300万年という時間的障壁を破った最初の人類で、ヒトの家系の年代を、遺伝学者が、ヒトの祖先がチンパンジーの祖先と分岐したと考えている年代により近い時代にさかのぼらせました。ルーシーは「チンパンジーとヒトの分岐の古さを活発に議論している分野に参入した」と、カリフォルニア大学バークレー校の古人類学者で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】をジョハンソンやイヴ・コパン(Yves Coppens)とともに記載した1978年の画期的論文の共著者である、古人類学者のティム・ホワイト(Tim White)は述べています。
ルーシーの発見から最初の20年間、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】はヒトの家系の最古の既知の構成員でした。アウストラロピテクス・アファレンシスは400万~300万年前頃の間の「唯一の存在」でした、とミズーリ大学の古人類学者であるキャロル・ウォード(Carol Ward)は述べています。ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】は、ホモ属と、アウストラロピテクス・アフリカヌスと、パラントロプス・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)やパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)やパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)などヒト家系のより頑丈な構成員を含めて、その後に出現した全人類、と多を生み出した、と多くの研究者は結論づけました。
「かつて、人類は比較的単純でした。それは、300万年以上前の人類はアウストラロピテクス・アファレンシスで(中略)我々全員の母親だったからです。それは絶対の真理でした」と、ロンドンの自然史博物館の古人類学者であるフレッド・スポア(Fred Spoor)は述べています。しかし、それ以来、他の種が影から現れ、その一部はずっと古いものでした。ルーシーひじょうに類人猿的だったので、「暗黙の仮説は、次にさかのぼった段階はチンパンジーだろう、というものでした。今ではそれが、どれだけ古風に見えることでしょう」と、タンザニアのラエトリ(Laetoli)でルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の足跡を分析したティム・ホワイトは述べています。
1990年代半ばに、ティム・ホワイトと当時院生だったハイレ=セラシエと他の研究者は、エチオピアのミドルアワシュ(Middle Awash)地域においてルーシーの祖先の集中的な探索を始めました。彼らは驚くほど完全ではあるものの、部分的に砕けていた440万年前頃の骨格を発見し、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)と命名しました。その近くで、ハイレ=セラシエはその後、580万年前頃となる、アルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)の下顎と歯と手や足や腕の関節の外れた骨を見つけました。これらの祖先的な人類は、ヒトよりも直立した類人猿のようでした。「あなたは‘彼ら’を夕食には招待しないでしょう」と、ティム・ホワイトは冗談を言いました。アルディピテクス属と「比較すると、ルーシーなどが本当に人間的に見えます」と、ティム・ホワイトは述べています。
他の新たな化石はヒト系統をさらにさかのぼらせ、ケニアで発見された明らかに直立歩行をしていた600万年前頃の大腿骨は、千年期のヒトもしくはオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)と呼ばれ、チャドで発見されたサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)の魅力的な頭蓋骨の年代は700万~600万年前頃でした。人類学者は、これらの種すべてが人類なのかどうか、これらの種がホモ属はもちろんアウストラロピテクス属とどのように関連しているのか、激しく議論しています。しかし、化石は明らかにヒトの家系の起源を少なくとも600万年前頃にまでさかのぼらせており、この年代は、我々の系統とチンパンジーおよびボノボの系統との間の分岐年代の最新の遺伝学的証拠と一致します。
一方で、他の研究者は400万年前頃の重要な期間の化石を探し続け、ルーシーの曾祖母と思われる化石を発見しました。1994年に、ケニアの古人類学者であるミーヴ・リーキー(Meave Leakey)とその研究団は、ケニアのトゥルカナ湖近くの2ヶ所の遺跡で、80点以上の歯と顎と部分的な腕と脛骨の化石を発見しました。この研究団は、化石の年代を420万年前頃~390万年前頃の間と年代測定し、その種をアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)と命名しました。研究団はその化石の歯と顎の特徴に基づいて、この新種はルーシーおよびその近縁の直接的祖先だった、と提案しました。
その後2016年に、ウォランソミル(Woranso-Mille)と呼ばれるハダールからわずか30kmの丘陵地帯で、ハイレ=セラシエは全体像を複雑にした発見をしました。地元のヤギ飼いの協力を得て、ハイレ=セラシエはアウストラロピテクス・アナメンシスの最初の完全な頭骨を発見しました(関連記事)。その魅力的な頭骨の年代は380年前頃で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】に分類される最古の化石よりやや新しく、顎の年代は385万年前頃でした。アウストラロピテクス・アナメンシスがルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】へと直接的に進化し、その後で絶滅した、との考えは考慮から外れました。代わりに、恐らくはアウストラロピテクス・アナメンシスのより早期の構成員、あるいは別の密接に関連した種がアウストラロピテクス・アファレンシスを生み出し、この2系統が一定期間共存しました。
古人類学者はルーシーの祖先を探す一方で、ルーシーの子孫も探し続け、ルーシーの属【アウストラロピテクス属】から我々自身の属【ホモ属】への経路を探しました。ホモ属の直接的な祖先の特定は困難で、キャロル・ウォードは、それが部分的には「初期ホモ属について多くを知らない」からです、と述べています。ホモ属の最古の既知の化石は摩耗した大臼歯のある280万年前頃の下顎で、ハダールからわずか30kmに位置するエチオピアのアファール州のレディゲラル(Ledi-Geraru)調査区域の荒涼とした場所で発見されました(関連記事)。「それは説得力のある事例ですが、200万年前頃までの唯一の下顎にすぎません」と、キャロル・ウォードは述べます。200万年前頃には、ホモ属の少なくとも2系統、つまりホモ・ハビリス(Homo habilis)とホモ・エレクトス(Homo erectus)がアフリカ東部のどこかに出現しています(関連記事)。
その顎の年代から、ホモ属はルーシーが生きていた時代からさほど経過していない300万年前頃に出現した、と示唆されます。しかし、ホモ属の祖先の新たな候補がおり、それは、その時点で、アフリカ東部は多様な人類の故地になっていたようだからです。350万年前頃の奇妙な潰れた頭骨が知られており、1999年にトゥルカナ湖の西側のロメクウィ(Lomekwi)でリーキーの調査団が発見しました。リーキーとスポアは3Dパズルのピースのように丹念にその頭骨断片を復元しました。リーキーの調査団の結論は、それが新種ケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】よりも平たい顔面と小さな大臼歯を有しており、それはルーシーとホモ属との中間だったことを示唆する、というものでした。
しかし、その潰れた頭骨だけだったで、ケニアントロプス属はさまざまな反応を受けました。ティム・ホワイトはその頭骨を轢死と呼び、砕けたアウストラロピテクス・アファレンシスだった、と示唆しました。より最近では、スポアとリーキーは三次元形態計測手法を適用して、ケニアントロプス属【とされる】上顎を他の6分類群の人類と比較し、多くの研究者に、それをアウストラロピテクス・アファレンシスとは別の種として真剣に考えるよう、説得しました。研究者はロメクウィでケニアントロプス・プラティオプスの追加の遊離した歯を特定しましたが、その種についてはまだよく分かっていません。
一方で、ハイレ=セラシエはウォランソミルの遺跡で追加の2種類の人類を発見し、それはホモ属出現の直前のヒトの家系図をさらにもつれさせました。その一方は、発見された、ウォランソミル研究地域の堆積物の340万年前頃の堆積物層に因んで命名されたブルテレ(Burtele)の足(BRT-VP-2/73)で、アウストラロピテクス・アファレンシスと同じ頃に生きていたものの、より祖先的で、木登りをしていたアルディピテクス属のような対向性の大きな足指を有していました(関連記事)。ハイレ=セラシエの研究団は、歯と2点の上顎と2点の下顎も発見し、それを350万~330万年前頃に生きていた新種アウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda)と命名しました。ハイレ=セラシエが2015年にその発見を公表すると(関連記事)、反応はさまざまでした。ティム・ホワイトやゼレゼネイ・アレムゼゲドや他の研究者は、その顎は発見場所から5km以内で発見されているアウストラロピテクス・アファレンシスの多様な形態だった、と考えました。
しかし、フレッド・スポアとその博士研究員は最近、ハイレ=セラシエの主張を支持しました。彼らはアウストラロピテクス・アファレンシスとアウストラロピテクス・デイレメダとケニアントロプス・プラティオプスの上顎骨における発達の違いの三次元形態計測分析を行ない、ルーシーが発見されて以来のこの分野における方法論的発展を浮き彫りにしました。その比較は「重要な違いを論証する」と、スポアは2023年6月にフランスの大学での講演で主張しました。「その比較は、ケニアントロプス・プラティオプスとアウストラロピテクス・デイレメダの地位をアウストラロピテクス・アファレンシスとは異なる有効な種として確証します」と、スポアは述べます。
アウストラロピテクス・デイレメダがルーシーよりもホモ属の祖先に近い、と主張する人はいません。しかし、新たな化石群は350万年前頃の多様性の爆発を示唆しており、ルーシーがかつて単独で立っていた舞台に押し寄せています。ルーシーはかつて研究者が考えていたよりも早く起きた適応放散の一部だったかもしれず、それは恐らく、人類が直立歩行を始めて、その生息地と食性を拡大した後のことでした、とキャロル・ウォードは述べます。
そうした人類の一部は、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】と同じ地を歩いたかもしれません。2020年に、デンバー大学の古人類学者であるチャールズ・ムシバ(Charles Musiba)とその同僚は、1976年にタンザニアのラエトリで発見された有名な足跡を再分析しました(関連記事)。一部の痕跡は、370万年前頃のアウストラロピテクス・アファレンシスの足跡と考えられています。同じ年代の他の痕跡は、【非ヒト】動物によるものと考えられていました。しかし、ムシバとその同僚は、その痕跡が直立歩行者、つまり人類によるもので、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】とは異なる足と歩様だった、と提案しました。
一方で、祖先探索の別の手がかりは南アフリカ共和国で現れ、そこでは研究者が200万年前頃と年代測定され、おそらくはもっと早いアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)など、アウストラロピテクス属の他の初期構成員を発見しました。昨年【2023年】の『Journal of Human Evolution』の新たな分析では、アウストラロピテクス・セディバが初期ホモ属を生み出した祖先を居有していたことが除外できず、我々の祖先がアフリカ東部から南部へと広がっていた、という可能性が提起されました。
現時点では、新たな人類のどれも、ホモ属の直接的な祖先として説得力はありません。ゼレゼネイ・アレムゼゲドと一部の他の研究者は依然として、ルーシーを推しています。彼らは、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】を初期ホモ属およびアウストラロピテクス属のその後の構成員の推定される祖先としての主要な場所から明確に押しのける化石はない、と指摘します。
他の研究者は、我々が知らないだけです、と述べます。「不完全な化石記録から現時点で知られている種から祖先と子孫を創り出すのは単純すぎます」と、フレッド・スポアは述べます。人類遺骸の化石化の希少性と、発見された化石の少なさを考えると、我々の直近の直接的祖先を垣間見ることは決してできないかもしれません、とバーナード・ウッドは述べます。「かつて生息していた全人類が、偶然化石の発見されたアフリカの地表の約1%を占めていた」可能性は低そうです、とバーナード・ウッドは述べます。
ヒトの祖先としてのルーシーの立場は不確かかもしれませんが、別の意味でルーシーはより鮮明な焦点になりつつあります。「ルーシーが発見された時、我々は、ホモ・ハビリスが最古級の道具を作った人類だった、と考えていた」と、フランス国立科学研究機関(Centre national de la recherche scientifique、略してCNRS)の考古学者であるソニア・ハーモンド(Sonia Harmand)は述べています。しかし、ケニアントロプス属が発見されたロメクウィにおいて、ハーモンドとその同僚は、330万年前頃の粗放な石器を発掘し、それは、ケニアントロプス属もしくはアウストラロピテクス属のどちらかがそうした石器を掴んだのに充分な早さです。ルーシーの脳はその身体サイズとの比較で類人猿よりわずかに大きいだけですが、その手とアウストラロピテクス属の他の構成威信の手はおそらく、骨髄のために粗放な石器で骨を砕くことができました、とハーモンドは述べています。「ルーシーが道具製作者だったのかどうか、分かりません」とハーモンドは強調します。ルーシーにとって残念なことに、ルーシーにはその時点で生きていた他の人類の多くの競合者がいました。これまでハーモンドの研究団は、道具とともに発見された、単一の奇妙な外見の大臼歯を1点のみ報告してきましたが、他の歯と化石がすぐに刊行され、道具製作者の身元を明らかにできるかもしれません。
ルーシーの近縁が道具を作っていたかもしれない、と示唆してきた人もいます。2010年に戻ると、ゼレゼネイ・アレムゼゲドとマックス・プランク進化人類学研究所のシャノン・マクフェロン(Shannon McPherron)は『Nature』に、有蹄類の脚の骨の肋骨と骨幹には、ヒトの家系の構成員にわる340万年前頃となる石器の痕跡の「明確な証拠」がある、と書きました(関連記事)。屠殺された骨は、アレムゼゲドが驚くほど完全なディキカの子供を発見した地点からわずか222mのディキカで発見されました。しかし、ティム・ホワイトや他の研究者は、その解体痕は石器ではなくワニの歯によるものかもしれない、と主張します。アウストラロピテクス・アファレンシス化石のほとんどが発見されてきたラエトリもしくはハダールでは道具が見つかっていません、とニューヨーク大学の古人類学者であるテリー・ハリソン(Terry Harrison)は述べています。
それでも、ルーシーの適応力は、何十万年間も暮らしていた古代の環境に関する研究から明らかです。研究団は、骨とタンパク質から古代の動物を同定し、花粉と植物蝋と同位体を調べて、植生と降雨量を再構築します。研究団は、370万年前頃にハダールで最古級のアウストラロピテクス・アファレンシスが暮らしていた時、そこには古代の川岸に沿って森林が含まれており、そこで動物は洪水へと進み、アウストラロピテクス・アファレンシスの全家族はともに死んだ、と発見しました。
その後、320万年前頃に、ハダールはずっと乾燥化し、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】は、スゲや根や草などより硬い食物の新たな食性に適応しました。これに明らかに対応して、アウストラロピテクス・アファレンシスの雄の構成員の顎はより大きく進化しました。さらに南方のラエトリでは、生息地はいっそう乾燥しており、アウストラロピテクス・アファレンシスが存在した時には流れのない「限界環境」でした、とIHOの古人類学者であるデニス・スー(Denise Su)は述べています。「基本的に、アウストラロピテクス・アファレンシスは万能家で」、さまざまに環境で生存できました、とケイ・リードは述べています。
ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】は、ハダールで唯一の既知の人類でした。しかし、わずか30km離れたウォランソミル研究地域では、より険しく、より森林に覆われた地形を、アウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・デイレメダとブルテレの足の人類が共有していました。ケイ・リードとヨハネス・ハイレ=セラシエは、1ヶ所にそんなに多くの人類が存在し、他の場所には1種類しか存在しない理由の解明を目指しています。ヨハネス・ハイレ=セラシエは、ウォランソミル研究地域の生息地のより大きな多様性により、さまざまな人類のさまざまな生態的地位での共存が可能になったかもしれない、と考えています。ヨハネス・ハイレ=セラシエは、【2024年】2月に発掘現場に戻り、より多くの骨と道具を探しています。
しかし、ルーシーに取って代わる化石を探しても、ルーシーの支配は続いている、とヨハネス・ハイレ=セラシエや他の研究者は述べています。「私は、ルーシーの置換に成功した化石があったとは考えていません。それは、ルーシーがホモ属の祖先だったことを意味していません。しかし、ルーシーは依然として最有力候補です」と、バーナード・ウッドは述べています。
現在80歳で、エチオピアから戻ったばかりのドナルド・カール・ジョハンソンは、そこで多くの若者がルーシーの発見者【ドナルド・カール・ジョハンソン】と自撮りをしたがることに気づきました。ルーシーが最終的にヒト家系図のどこに位置づけられるとしても、ドナルド・カール・ジョハンソンはただ一つ後悔しています。それは、ルーシーをビートルズに紹介できなかったことです【ルーシーの発見当時、ビートルズはすでに解散していたため】。
参考文献:
Gibbons A.(2024): LUCY’S WORLD. Science, 384, 6691, 20–25.
https://doi.org/10.1126/science.zr6fwrp
ゼレゼネイ・アレムゼゲド(Zeresenay Alemseged)は、エチオピアのハダール(Hadar)の有名な化石ルーシーの1974年の発見を覚えておらず、それは彼が当時5歳で、600km離れたエチオピアのアクスム(Axum)に暮らしていたからです。その後、彼はルーシーの名前をカフェやタクシーで見かけましたが、エチオピア国立博物館で働く地質学者になるまで、ルーシーについてほとんど知りませんでした。その後、ルーシーは彼の人生を変えました。2000年に、アレムゼゲドはルーシーの軌道に押し込まれました。つまり、彼はハダールから10kmほどのディキカ(Dikika)で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の子供の部分骨格である「ルーシーの子供」を発見したわけです(関連記事)。
2015年、すでに有名な科学者であった彼は、エチオピアの国立宮殿での国賓晩餐会の前に、アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマ(Barack Obama)【当時】にルーシーを見せる栄誉に浴しました。アレムゼゲドはオバマに、ルーシーの貴重な骨格に触れることを許可し、その化石はエチオピアが人類の発祥地であることを示しており、地球上の「どの個人」もアフリカにおける起源を共有している、と語りました。アレムゼゲドはオバマに、「ドナルド・トランプ(Donald Trump)を含めて」と冗談を言いました【トランプが、オバマはエチオピア生まれでアメリカ合衆国大統領への就任資格がない、と確たる根拠なく疑問を呈したことへの揶揄の意味もあったのでしょう】。
発見から50年後、「ルーシーは象徴です」と、今ではシカゴ大学の古人類学者であるアレムゼゲドは語ります。じっさい、318万年前頃のルーシーは、ホモ属やルーシーの後の他の全人類の最初の既知の祖先として発表されて以来、ヒトの家系の女性家長として君臨してきました。諸国の首脳がルーシーに謁見しました。ルーシーがアメリカ合衆国に貸し出された2006年には、多くのテキサス人がルーシーを見るために列に並び、多くの科学者がルーシーは旅をするにはあまりにも脆弱と考えていたため、議論となりました。イヴァンカ・トランプ(Ivanka Trump)さえ、聴衆を集めました。しかし、多くの高齢の君主のように、ルーシーは今や、その拡大家族からの注目と地位をめぐる競争の広まった、新たな世界に直面しています。
50年間にわたる研究により、ルーシーには生命が吹き込まれ、ルーシーが、小さな脳と、おそらくは食事や巣籠や保釈者からの逃走のための木に登ることを可能とした類人猿的な上半身を、依然として有していても、どのように直立したのか、示されています。雄と雌の400点以上の新たな化石や、ディキカの子供は、ルーシーの種、つまりアウストラロピテクス・アファレンシスが地球上で385万~295万年前頃までの100万年間にどのように、成長し、社会化して、進化したのか、明らかにしてきました。
しかし、ルーシーに関する研究者の見解とその位置づけは変わってきました。ルーシーはもはや、ヒトの家系の最古の既知の構成員ではありません。ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の構成員は、ルーシーの発見者が考えていたような、開けたサバンナの草原で最初に直立の一歩を踏み出したわけではなかったものの、落葉樹の草の茂った森林を最初に歩きました。ルーシーとその近縁は気候変動を切り抜け、何千年にもわたってさまざまな生息地に適応しました。最も重要なのは、ルーシーだけがその景観にいたわけではなかったことです。「同じ期間に複数の‘人類’種がいます」と、アリゾナ州立大学のヒト起源研究所(Institute of Human Origins、略してIHO)の所長で、ヒト起源の研究へのルーシーの影響に関する今週の討論会を共催したヨハネス・ハイレ=セラシエ(Yohannes Haile-Selassie)は述べています。
400万~300万年前頃、ヒトの家系図は盆栽というよりも灌木的で、単一の幹ではなく複数の茎が並んで成長していた、とハイレ=セラシエと他の一部の研究者は考えています。ハイレ=セラシエと他の一部の研究者はルーシーを、直接的なヒトの祖先というよりも高祖父母の姉妹以上のものとみなしています。しかし、アレムゼゲドと他の研究者は、これまで、現代人全員の母親についてより適した候補の化石は他にない、と指摘します。
古人類学者はヒトの家系図におけるルーシーの位置を議論していますが、ルーシーほどの影響を有している既知のヒトの祖先はいない、という点で一致しています。古人類学者は、ルーシーの骨格により明らかになった我々の過去の詳細な見解に驚嘆しています。40%が回収されたルーシーの骨格は、未完成のパズルのピースのように、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の他の構成威信の数十点の遊離した骨をともに組み合わせるための雛形として機能してきました。「世界の他のどの化石よりも多くの人が、ルーシーの骨格を観察して分析するようになりました」と、IHOの古人類学者であるケイ・リード(Kaye Reed)は述べています。
1974年の時点で、研究者は、そうした保存状態良好な人類骨格がどれほど珍しいものになるのか、理解していませんでした。「運命は酷い悪戯をしました。初期に最良の化石を与えてくれたのです」と、ジョージ・ワシントン大学の古人類学者であるバーナード・ウッド(Bernard Wood)は述べています。「まるで、自分の誕生日で、自分が最初の贈り物を開けて、それがまさに望みのものだったかのようで(中略)それ故に、あなたは全ての他の贈り物がこれと同じくらい良いものだと考えます」と、バーナード・ウッドは述べています。
一生に一度の化石の贈り物は、ドナルド・カール・ジョハンソン(Donald Carl Johanson)によって最初に開けられました。当時、クリーブランド自然史博物館の若いアメリカ合衆国の古人類学者だったジョハンソンは、今は亡きフランスの地質学者であるモーリス・タイーブ(Maurice Taieb)により組織されたハダール探検隊に参加しました。1974年11月24日、第二発掘期の半ばで、ジョハンソンと学生のトム・グレイ(Tom Gray)は、ほとんど興味を見出だせなかった落胆した朝の後に、ランドローバー(Land Rover)【社の自動車】に歩いて戻っていました。その後、ジョハンソンは乾燥した小峡谷の丘でルーシーの腕の骨の一部を見つけました。ジョハンソンは次に、頭骨の無断片と大腿骨と骨盤の一部と椎骨を見つけ、これは珍しい部分骨格でした。
研究団は野営地で一晩中、ビールを飲み、ビートルズの歌「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」を歌いながら、その発見を祝いました。誰かがこの骨格をルーシーと呼び始め、その名前が定着しました。「ルーシーの本当の重要性は、初期のヒトの祖先がどのような姿をしていたのか、我々が知らなったことです」と、IHOの創設者であるジョハンソンは述べています。ジョハンソンは、ルーシーが、南アフリカ共和国でほぼ1世紀前に発見された人類で、ルーシーの発見時には200万年前頃と考えられていたアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)など、アウストラロピテクス属の既知の構成員と比較してどれくらい小さく祖先的だったのか、すぐに感銘を受けた、回想しています。「私はルーシーがより類人猿的な特徴だったことに衝撃を受けました」と、ジョハンソンは述べています。
ルーシーは300万年という時間的障壁を破った最初の人類で、ヒトの家系の年代を、遺伝学者が、ヒトの祖先がチンパンジーの祖先と分岐したと考えている年代により近い時代にさかのぼらせました。ルーシーは「チンパンジーとヒトの分岐の古さを活発に議論している分野に参入した」と、カリフォルニア大学バークレー校の古人類学者で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】をジョハンソンやイヴ・コパン(Yves Coppens)とともに記載した1978年の画期的論文の共著者である、古人類学者のティム・ホワイト(Tim White)は述べています。
ルーシーの発見から最初の20年間、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】はヒトの家系の最古の既知の構成員でした。アウストラロピテクス・アファレンシスは400万~300万年前頃の間の「唯一の存在」でした、とミズーリ大学の古人類学者であるキャロル・ウォード(Carol Ward)は述べています。ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】は、ホモ属と、アウストラロピテクス・アフリカヌスと、パラントロプス・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)やパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)やパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)などヒト家系のより頑丈な構成員を含めて、その後に出現した全人類、と多を生み出した、と多くの研究者は結論づけました。
「かつて、人類は比較的単純でした。それは、300万年以上前の人類はアウストラロピテクス・アファレンシスで(中略)我々全員の母親だったからです。それは絶対の真理でした」と、ロンドンの自然史博物館の古人類学者であるフレッド・スポア(Fred Spoor)は述べています。しかし、それ以来、他の種が影から現れ、その一部はずっと古いものでした。ルーシーひじょうに類人猿的だったので、「暗黙の仮説は、次にさかのぼった段階はチンパンジーだろう、というものでした。今ではそれが、どれだけ古風に見えることでしょう」と、タンザニアのラエトリ(Laetoli)でルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】の足跡を分析したティム・ホワイトは述べています。
1990年代半ばに、ティム・ホワイトと当時院生だったハイレ=セラシエと他の研究者は、エチオピアのミドルアワシュ(Middle Awash)地域においてルーシーの祖先の集中的な探索を始めました。彼らは驚くほど完全ではあるものの、部分的に砕けていた440万年前頃の骨格を発見し、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)と命名しました。その近くで、ハイレ=セラシエはその後、580万年前頃となる、アルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)の下顎と歯と手や足や腕の関節の外れた骨を見つけました。これらの祖先的な人類は、ヒトよりも直立した類人猿のようでした。「あなたは‘彼ら’を夕食には招待しないでしょう」と、ティム・ホワイトは冗談を言いました。アルディピテクス属と「比較すると、ルーシーなどが本当に人間的に見えます」と、ティム・ホワイトは述べています。
他の新たな化石はヒト系統をさらにさかのぼらせ、ケニアで発見された明らかに直立歩行をしていた600万年前頃の大腿骨は、千年期のヒトもしくはオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)と呼ばれ、チャドで発見されたサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)の魅力的な頭蓋骨の年代は700万~600万年前頃でした。人類学者は、これらの種すべてが人類なのかどうか、これらの種がホモ属はもちろんアウストラロピテクス属とどのように関連しているのか、激しく議論しています。しかし、化石は明らかにヒトの家系の起源を少なくとも600万年前頃にまでさかのぼらせており、この年代は、我々の系統とチンパンジーおよびボノボの系統との間の分岐年代の最新の遺伝学的証拠と一致します。
一方で、他の研究者は400万年前頃の重要な期間の化石を探し続け、ルーシーの曾祖母と思われる化石を発見しました。1994年に、ケニアの古人類学者であるミーヴ・リーキー(Meave Leakey)とその研究団は、ケニアのトゥルカナ湖近くの2ヶ所の遺跡で、80点以上の歯と顎と部分的な腕と脛骨の化石を発見しました。この研究団は、化石の年代を420万年前頃~390万年前頃の間と年代測定し、その種をアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)と命名しました。研究団はその化石の歯と顎の特徴に基づいて、この新種はルーシーおよびその近縁の直接的祖先だった、と提案しました。
その後2016年に、ウォランソミル(Woranso-Mille)と呼ばれるハダールからわずか30kmの丘陵地帯で、ハイレ=セラシエは全体像を複雑にした発見をしました。地元のヤギ飼いの協力を得て、ハイレ=セラシエはアウストラロピテクス・アナメンシスの最初の完全な頭骨を発見しました(関連記事)。その魅力的な頭骨の年代は380年前頃で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】に分類される最古の化石よりやや新しく、顎の年代は385万年前頃でした。アウストラロピテクス・アナメンシスがルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】へと直接的に進化し、その後で絶滅した、との考えは考慮から外れました。代わりに、恐らくはアウストラロピテクス・アナメンシスのより早期の構成員、あるいは別の密接に関連した種がアウストラロピテクス・アファレンシスを生み出し、この2系統が一定期間共存しました。
古人類学者はルーシーの祖先を探す一方で、ルーシーの子孫も探し続け、ルーシーの属【アウストラロピテクス属】から我々自身の属【ホモ属】への経路を探しました。ホモ属の直接的な祖先の特定は困難で、キャロル・ウォードは、それが部分的には「初期ホモ属について多くを知らない」からです、と述べています。ホモ属の最古の既知の化石は摩耗した大臼歯のある280万年前頃の下顎で、ハダールからわずか30kmに位置するエチオピアのアファール州のレディゲラル(Ledi-Geraru)調査区域の荒涼とした場所で発見されました(関連記事)。「それは説得力のある事例ですが、200万年前頃までの唯一の下顎にすぎません」と、キャロル・ウォードは述べます。200万年前頃には、ホモ属の少なくとも2系統、つまりホモ・ハビリス(Homo habilis)とホモ・エレクトス(Homo erectus)がアフリカ東部のどこかに出現しています(関連記事)。
その顎の年代から、ホモ属はルーシーが生きていた時代からさほど経過していない300万年前頃に出現した、と示唆されます。しかし、ホモ属の祖先の新たな候補がおり、それは、その時点で、アフリカ東部は多様な人類の故地になっていたようだからです。350万年前頃の奇妙な潰れた頭骨が知られており、1999年にトゥルカナ湖の西側のロメクウィ(Lomekwi)でリーキーの調査団が発見しました。リーキーとスポアは3Dパズルのピースのように丹念にその頭骨断片を復元しました。リーキーの調査団の結論は、それが新種ケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)で、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】よりも平たい顔面と小さな大臼歯を有しており、それはルーシーとホモ属との中間だったことを示唆する、というものでした。
しかし、その潰れた頭骨だけだったで、ケニアントロプス属はさまざまな反応を受けました。ティム・ホワイトはその頭骨を轢死と呼び、砕けたアウストラロピテクス・アファレンシスだった、と示唆しました。より最近では、スポアとリーキーは三次元形態計測手法を適用して、ケニアントロプス属【とされる】上顎を他の6分類群の人類と比較し、多くの研究者に、それをアウストラロピテクス・アファレンシスとは別の種として真剣に考えるよう、説得しました。研究者はロメクウィでケニアントロプス・プラティオプスの追加の遊離した歯を特定しましたが、その種についてはまだよく分かっていません。
一方で、ハイレ=セラシエはウォランソミルの遺跡で追加の2種類の人類を発見し、それはホモ属出現の直前のヒトの家系図をさらにもつれさせました。その一方は、発見された、ウォランソミル研究地域の堆積物の340万年前頃の堆積物層に因んで命名されたブルテレ(Burtele)の足(BRT-VP-2/73)で、アウストラロピテクス・アファレンシスと同じ頃に生きていたものの、より祖先的で、木登りをしていたアルディピテクス属のような対向性の大きな足指を有していました(関連記事)。ハイレ=セラシエの研究団は、歯と2点の上顎と2点の下顎も発見し、それを350万~330万年前頃に生きていた新種アウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda)と命名しました。ハイレ=セラシエが2015年にその発見を公表すると(関連記事)、反応はさまざまでした。ティム・ホワイトやゼレゼネイ・アレムゼゲドや他の研究者は、その顎は発見場所から5km以内で発見されているアウストラロピテクス・アファレンシスの多様な形態だった、と考えました。
しかし、フレッド・スポアとその博士研究員は最近、ハイレ=セラシエの主張を支持しました。彼らはアウストラロピテクス・アファレンシスとアウストラロピテクス・デイレメダとケニアントロプス・プラティオプスの上顎骨における発達の違いの三次元形態計測分析を行ない、ルーシーが発見されて以来のこの分野における方法論的発展を浮き彫りにしました。その比較は「重要な違いを論証する」と、スポアは2023年6月にフランスの大学での講演で主張しました。「その比較は、ケニアントロプス・プラティオプスとアウストラロピテクス・デイレメダの地位をアウストラロピテクス・アファレンシスとは異なる有効な種として確証します」と、スポアは述べます。
アウストラロピテクス・デイレメダがルーシーよりもホモ属の祖先に近い、と主張する人はいません。しかし、新たな化石群は350万年前頃の多様性の爆発を示唆しており、ルーシーがかつて単独で立っていた舞台に押し寄せています。ルーシーはかつて研究者が考えていたよりも早く起きた適応放散の一部だったかもしれず、それは恐らく、人類が直立歩行を始めて、その生息地と食性を拡大した後のことでした、とキャロル・ウォードは述べます。
そうした人類の一部は、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】と同じ地を歩いたかもしれません。2020年に、デンバー大学の古人類学者であるチャールズ・ムシバ(Charles Musiba)とその同僚は、1976年にタンザニアのラエトリで発見された有名な足跡を再分析しました(関連記事)。一部の痕跡は、370万年前頃のアウストラロピテクス・アファレンシスの足跡と考えられています。同じ年代の他の痕跡は、【非ヒト】動物によるものと考えられていました。しかし、ムシバとその同僚は、その痕跡が直立歩行者、つまり人類によるもので、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】とは異なる足と歩様だった、と提案しました。
一方で、祖先探索の別の手がかりは南アフリカ共和国で現れ、そこでは研究者が200万年前頃と年代測定され、おそらくはもっと早いアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)など、アウストラロピテクス属の他の初期構成員を発見しました。昨年【2023年】の『Journal of Human Evolution』の新たな分析では、アウストラロピテクス・セディバが初期ホモ属を生み出した祖先を居有していたことが除外できず、我々の祖先がアフリカ東部から南部へと広がっていた、という可能性が提起されました。
現時点では、新たな人類のどれも、ホモ属の直接的な祖先として説得力はありません。ゼレゼネイ・アレムゼゲドと一部の他の研究者は依然として、ルーシーを推しています。彼らは、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】を初期ホモ属およびアウストラロピテクス属のその後の構成員の推定される祖先としての主要な場所から明確に押しのける化石はない、と指摘します。
他の研究者は、我々が知らないだけです、と述べます。「不完全な化石記録から現時点で知られている種から祖先と子孫を創り出すのは単純すぎます」と、フレッド・スポアは述べます。人類遺骸の化石化の希少性と、発見された化石の少なさを考えると、我々の直近の直接的祖先を垣間見ることは決してできないかもしれません、とバーナード・ウッドは述べます。「かつて生息していた全人類が、偶然化石の発見されたアフリカの地表の約1%を占めていた」可能性は低そうです、とバーナード・ウッドは述べます。
ヒトの祖先としてのルーシーの立場は不確かかもしれませんが、別の意味でルーシーはより鮮明な焦点になりつつあります。「ルーシーが発見された時、我々は、ホモ・ハビリスが最古級の道具を作った人類だった、と考えていた」と、フランス国立科学研究機関(Centre national de la recherche scientifique、略してCNRS)の考古学者であるソニア・ハーモンド(Sonia Harmand)は述べています。しかし、ケニアントロプス属が発見されたロメクウィにおいて、ハーモンドとその同僚は、330万年前頃の粗放な石器を発掘し、それは、ケニアントロプス属もしくはアウストラロピテクス属のどちらかがそうした石器を掴んだのに充分な早さです。ルーシーの脳はその身体サイズとの比較で類人猿よりわずかに大きいだけですが、その手とアウストラロピテクス属の他の構成威信の手はおそらく、骨髄のために粗放な石器で骨を砕くことができました、とハーモンドは述べています。「ルーシーが道具製作者だったのかどうか、分かりません」とハーモンドは強調します。ルーシーにとって残念なことに、ルーシーにはその時点で生きていた他の人類の多くの競合者がいました。これまでハーモンドの研究団は、道具とともに発見された、単一の奇妙な外見の大臼歯を1点のみ報告してきましたが、他の歯と化石がすぐに刊行され、道具製作者の身元を明らかにできるかもしれません。
ルーシーの近縁が道具を作っていたかもしれない、と示唆してきた人もいます。2010年に戻ると、ゼレゼネイ・アレムゼゲドとマックス・プランク進化人類学研究所のシャノン・マクフェロン(Shannon McPherron)は『Nature』に、有蹄類の脚の骨の肋骨と骨幹には、ヒトの家系の構成員にわる340万年前頃となる石器の痕跡の「明確な証拠」がある、と書きました(関連記事)。屠殺された骨は、アレムゼゲドが驚くほど完全なディキカの子供を発見した地点からわずか222mのディキカで発見されました。しかし、ティム・ホワイトや他の研究者は、その解体痕は石器ではなくワニの歯によるものかもしれない、と主張します。アウストラロピテクス・アファレンシス化石のほとんどが発見されてきたラエトリもしくはハダールでは道具が見つかっていません、とニューヨーク大学の古人類学者であるテリー・ハリソン(Terry Harrison)は述べています。
それでも、ルーシーの適応力は、何十万年間も暮らしていた古代の環境に関する研究から明らかです。研究団は、骨とタンパク質から古代の動物を同定し、花粉と植物蝋と同位体を調べて、植生と降雨量を再構築します。研究団は、370万年前頃にハダールで最古級のアウストラロピテクス・アファレンシスが暮らしていた時、そこには古代の川岸に沿って森林が含まれており、そこで動物は洪水へと進み、アウストラロピテクス・アファレンシスの全家族はともに死んだ、と発見しました。
その後、320万年前頃に、ハダールはずっと乾燥化し、ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】は、スゲや根や草などより硬い食物の新たな食性に適応しました。これに明らかに対応して、アウストラロピテクス・アファレンシスの雄の構成員の顎はより大きく進化しました。さらに南方のラエトリでは、生息地はいっそう乾燥しており、アウストラロピテクス・アファレンシスが存在した時には流れのない「限界環境」でした、とIHOの古人類学者であるデニス・スー(Denise Su)は述べています。「基本的に、アウストラロピテクス・アファレンシスは万能家で」、さまざまに環境で生存できました、とケイ・リードは述べています。
ルーシーの種【アウストラロピテクス・アファレンシス】は、ハダールで唯一の既知の人類でした。しかし、わずか30km離れたウォランソミル研究地域では、より険しく、より森林に覆われた地形を、アウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・デイレメダとブルテレの足の人類が共有していました。ケイ・リードとヨハネス・ハイレ=セラシエは、1ヶ所にそんなに多くの人類が存在し、他の場所には1種類しか存在しない理由の解明を目指しています。ヨハネス・ハイレ=セラシエは、ウォランソミル研究地域の生息地のより大きな多様性により、さまざまな人類のさまざまな生態的地位での共存が可能になったかもしれない、と考えています。ヨハネス・ハイレ=セラシエは、【2024年】2月に発掘現場に戻り、より多くの骨と道具を探しています。
しかし、ルーシーに取って代わる化石を探しても、ルーシーの支配は続いている、とヨハネス・ハイレ=セラシエや他の研究者は述べています。「私は、ルーシーの置換に成功した化石があったとは考えていません。それは、ルーシーがホモ属の祖先だったことを意味していません。しかし、ルーシーは依然として最有力候補です」と、バーナード・ウッドは述べています。
現在80歳で、エチオピアから戻ったばかりのドナルド・カール・ジョハンソンは、そこで多くの若者がルーシーの発見者【ドナルド・カール・ジョハンソン】と自撮りをしたがることに気づきました。ルーシーが最終的にヒト家系図のどこに位置づけられるとしても、ドナルド・カール・ジョハンソンはただ一つ後悔しています。それは、ルーシーをビートルズに紹介できなかったことです【ルーシーの発見当時、ビートルズはすでに解散していたため】。
参考文献:
Gibbons A.(2024): LUCY’S WORLD. Science, 384, 6691, 20–25.
https://doi.org/10.1126/science.zr6fwrp
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