北周武帝のゲノムデータ
北周の武帝(Wudi、Emperor Wu)のゲノムデータを報告した研究(Du et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。北周の武帝、つまり宇文邕(Yuwen Yong)は、ともに北魏に由来する北斉を滅ぼし、北周の全盛期を築いたとも言えますが、30代半ばでの若すぎる死の数年後に、北周王朝は楊堅に簒奪され(隋王朝)、滅亡しました。本論文は、北周武帝(宇文邕)のゲノムを解析し、その祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の多くがアジア北東部古代人(Ancient Northeast Asian、略してANA)関連に由来し、1/3程度は黄河(Yellow River、略してYR)農耕民関連で、わずかなユーラシア西部関連もある、と推定します。また本論文は、武帝が脳卒中など特定の疾患にかかりやすかったことや、武帝の顔の復元図も示します。また、武帝の皇后だった突厥の阿史那(Ashina)氏の女性(阿史那皇后)のゲノムデータも、最近の研究で報告されています(関連記事)。
本論文は、鮮卑が周辺人口集団と混合しながら形成されたことも指摘し、南下するにつれて漢人【という分類を千年紀前半に用いることが適切なのか、疑問も残りますが】集団と混合したことを示し、これは最近の研究でも同様です(関連記事)。ただ、こうした鮮卑などユーラシア東部北方の遊牧民的な集団が現在の中国北部に残した遺伝的影響については、地域差があったかもしれません。たとえば、黄河流域の中原(関連記事)では後期新石器時代と現代との、アムール川流域(関連記事)では14000年前頃から現在までの、高い遺伝的連続性が指摘されています。
つまり、アムール川流域には黄河流域からの新石器時代以降の大規模な人口移動がなく、中原に関しては、中原の方がユーラシア東部北方の遊牧民的な集団よりも人口が圧倒的に多かったため、集団遺伝学的観点では、ユーラシア東部北方の遊牧民的な集団は中原の人類集団に大きな遺伝的影響を残さなかった、と考えられます。一方で、黄河流域とアムール川流域の中間に位置する西遼河地域では、新石器時代以降に黄河流域集団的な遺伝的構成要素とアムール川流域集団的な遺伝的構成要素の変動と生業の変化が関連している、と指摘されており(関連記事)、中原よりも人口が少なかったため、人口移動の影響を集団遺伝学で検出しやすくなっているかもしれません。
現代の漢人には地理と相関した遺伝的差異があり(関連記事)、その形成過程を単純に図式化することはできませんが、ユーラシア東部北方の遊牧民的な集団が黄河流域やそれより南方の地域よりも人口が少なかったことを考えると、現代の漢人の形成におけるユーラシア東部北方の遊牧民的な集団の寄与を高く評価することはできないように思います。もちろん、これは集団遺伝学的な観点で、言語や文化などの影響は、ユーラシア東部北方の遊牧民的な集団が支配層だっただけに、集団遺伝学的な観点よりずっと大きかったかもしれず、その意味で、現代漢人の形成におけるユーラシア東部北方の遊牧民的な集団の影響を無視してはならないかもしれません。
●要約
鮮卑が率いた北周王朝の武帝(543~578年)は、名前を宇文邕と言い、地方軍制度を改革し、突厥と和平を結び、国家【中華地域全体】の北部を統一した、影響力のある皇帝でした。外見や疾患の可能性を含めて武帝理遺伝的特性や身体的特徴は、学界や一般市民から大きな関心を集めています。この研究では、124万パネルで1011419ヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を有する、武帝の網羅率0.343倍のゲノムの生成に成功しました。色素沈着関連SNPの分析と、コンピュータ断層撮影(Computed Tomography、略してCT)に基づく顔面再構築の実行により、武帝は典型的なアジア東部人もしくは北東部人の外見だった、と本論文は判断しました。さらに、病原性SNPから、武帝は脳卒中など特定の疾患にかかりやすかった、と示唆されます。
武帝は、古代のキタイ(Khitan、契丹)および黒水靺鞨(Heishui Mohe)標本や現代のダウール人(Daur)およびモンゴル人集団と最も密接な遺伝的関係を共有していたものの、追加の黄河(Yellow River、略してYR)農耕民との類似性も示します。本論文は、武帝の祖先系統の、61%がANA、ほぼ1/3が黄河農耕民関連に由来する、と推定しました。これは、鮮卑王族と地元の漢人貴族との間の継続的な族間婚に起因する可能性が高そうです。本論文はさらに、さまざまな地域から得られた利用可能な古代鮮卑個体群における遺伝的多様性を明らかにし、鮮卑の形成は周辺人口集団との混合により影響を受けた動的な過程だった、と示唆します。
●研究史
中華皇帝は2000年以上にわたって象徴的な意味を与えられ、「天命(Mandate of Heaven)」を授けられた「天子(Son of Heaven)」と館得られていたので、国家に対する神に定められた統治とみなされるものを享受しました。「皇帝」という称号が初めて登場したのは紀元前221年で、嬴政が「始皇帝(First Emperor)」と自称したことに始まります。皇帝の地位は、ダイチン・グルン(大清帝国)の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(Aisin-Gioro Puyi)の退位まで続き、合計2132年間、83の封建王朝となります。そのうち、魏(220~266年)と晋(266~420年)と南北朝(420~589年)は、政治権力の頻繁な交代の時代で、中国の南北で別の皇帝が統治しました。
中国北部では、遊牧集団と農耕集団との間の統合がこの期間に頂点に達し、遊牧集団の中国化とその逆があった、と歴史家は指摘してきました。皇帝も王朝の興亡に伴って、この数世紀に頻繁に交替しました。この期間の中核部族もしくは民族集団の代表としての皇族は、歴史的な家系やゲノミクスにおいてかなりの関心を、中国内において広範な国民の注目を集めてきました。しかし現時点では、わずかな遺伝学的研究しかなく、たとえば、3世紀の皇帝である曹操(Cao Cao)【生前に皇帝には即位していませんが】や、ダイチン・グルン(清王朝)の愛新覚羅一族やモンゴルのチンギス・カン(Genghis Khan)です。これらの研究は、現代の人口集団の分布頻度を通じて推定されるあり得る父方の遺伝的系統のため、議論になることが多くなっています。これらの皇族と関連する古代ゲノムデータは、依然として不足しています。
鮮卑は中国史におけるひじょうに重要な少数集団で、少なくとも7世紀にわたって中国史で活発な役割を果たしました。鮮卑はさまざまな王朝を樹立し、それには燕や南涼(Southern Liang)や北魏や北斉や北周が含まれます。わずか24年間続いただけですが、北周政権は中国の北部を統一し、さらなる統一への強固な基盤を築きました。北周政権は第二の中華帝国(隋と唐)の先駆者でした。本論文の主題である北周の武帝は、北周王朝の第3代の皇帝でした。『北史(Beishi、History of Northern Dynasties)』によると、武帝は地方軍の制度を改革し、突厥と和平を結び、国家【中華地域全体】の北部を統一し、楊堅(Yang Jian)、つまり隋の文帝(Emperor Wen of Sui)による中国全土の統一の基盤を築きました。武帝の卓越した才能と戦略は、中国史に顕著な影響を及ぼしました。中原支配後の鮮卑の人々の代表として、武帝と以前に研究された鮮卑の人々の遺伝的構成間に違いはあるでしょうか?さらに、武帝が36歳で急死し、その息子【宣帝】が21歳で死亡したことを考えると、武帝の身体的特徴と疾患感受性はどのようなものだったのでしょうか?
●武帝の古代ゲノム規模データ
武帝の遺骸から得られた内在性DNAの割合は0.16%と低水準でしたが、古代DNAに特徴的な損傷パターンが確認され、124万SNPパネルでゲノム規模のデータが生成され、最終的に網羅率0.343倍のゲノムデータが得られました。武帝のゲノムデータの汚染率は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では1%未満、常染色体では0.6%未満でした。武帝のゲノムは遺伝的に男性と決定され、そのY染色体ハプログループ(YHg)はC2a1a1b1a2a1(FGC28857)でした。mtDNAは網羅率507.08倍で配列決定され、mtDNAハプログループ(mtHg)はC4a1a+195です。武帝の父系(YHg)と母系(mtHg)は両方ともアジア北東部にたどることができ、現在でも依然として中程度の頻度に達しています。次に、アフィメトリクス(Affymetrix)社ヒト起源(Human Origins、略してHO)とイルミナ(Illumina)社124万という2点のSNPパネルを用いて、疑似半数体データが生成され、それぞれ合計で511109ヶ所と1011419ヶ所のSNPを網羅しています。
●顔面復元と表現型予測
武帝の顔面は、現代中国人の軟組織深度平均に基づくBlenderソフトウェアのオープンソース三次元環境を用いて復元されました(図1A・B)。顔面の詳細を復元するため、41ヶ所のSNPを用いて外部から見えるヒトの特徴を予測する、HIrisPlex-Sシステムが活用されました。これらの手順に従って、本論文のデータ内の2ヶ所の欠落SNPが該当なしに設定されます。HIrisPlex-Sシステムでは、鮮卑の武帝は、茶色の目で、濃い黒髪の可能性が最も高く、肌は濃い色と中間色の中間だった、と予測します(図1C)。これらの特徴の追加により、顔面復元が補完されました(図1D)。本論文は、仮想モデルとアジア北部および東部現代人との間の強い類似性に気づきました。以下は本論文の図1です。
次に、Prometheaseを用いて、鮮卑の武帝に関する個人情報がさらに明確にされました。この遺伝的分析手法は、特定の状態もしくは形質に対する祖先系統と健康危険性と潜在的な遺伝的傾向についての情報を提供します。その結果はデータS2Bに示されています。合計で698個の一塩基変異が見つかり、そのうち42個は、痛風や脳卒中や慢性リンパ性白血病の危険性増加など、病原性多様体と関連していました。注意点として、これらの結果は比較的稀なデータに由来し、より高深度の配列決定のあるさらなる研究が、これらの観察の確証には必要です。
●全体的な定性的ゲノム構造は武帝のアジア北東部起源を示します
全体的な遺伝的構造は、おもに主成分分析(principal component analysis、略してPCA)を通じて調べられました(図2A)。PCAの結果は、PCAの三角形の隅で、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)関連およびアジア南東部関連およびチベット関連の人口集団とのパターンを示しました。鮮卑_武帝個体は、NEA関連人口集団とクラスタ化し(まとまり)、現代のモンゴル語族話者のダウール人、および現代のツングース語族話者のオロチョン人(Oroqen)およびホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)個体群と最大の近さを示します。以下は本論文の図2です。
この個体【鮮卑_武帝】は、20~30%の祖先系統が漢人に由来すると以前にモデル化された、中世後期_キタイや匈奴後期_漢人などモンゴル高原東部の古代の個体群(関連記事)とも密接でした(図2A)。鮮卑_武帝個体は、他の代表的な鮮卑関連の古代の個体群と比較して、古代黄河農耕民のより近くに投影されました。モデルに基づくADMIXTURE分析では、最小交差検証誤差であるK(系統構成要素数)=3が観察され、鮮卑_武帝はアムール川関連の古代および現代の人口集団で最大化される青色の構成要素で構成されます。黄色の構成要素はタイヤル人(Atayal)で最大化され、橙色の構成要素はユーラシア草原地帯人口集団で最大化されます。中世後期_キタイとの鮮卑_武帝の密接な祖先系統組成が観察されました。
●武帝におけるゲノム特性の詳細な調査
定量的なf₄統計とqpAdm分析を用いて、鮮卑_武帝個体のゲノム特性が調べられました。f₄形式(ムブティ人、参照;X、鮮卑_武帝)の対称f₄統計は、鮮卑_武帝の遺伝的特性を人口集団Xと直接的に比較し、Xにはアジア東部とユーラシア草原地帯の96の現代および古代の人口集団が、参照にはさまざまな場所の84の人口集団が含まれます(図2B)。その結果、より低いZ得点を示すXの人口集団のほとんどはNEAに由来する、と観察され、NEA関連人口集団との鮮卑_武帝の遺伝的類似性を示しています。アムール川(Amur River、略してAR)の鉄器時代(関連記事)および中世後期のキタイ(関連記事)の古代の個体群は、鮮卑_武帝と最も密接な遺伝的類似性を示し、それはf₄(ムブティ人、参照;AR_鉄器時代/中世後期_キタイ、鮮卑_武帝)のZ得点により表されている、と観察されました。
次に、鮮卑_武帝の遺伝的特性がと他の鮮卑関連個体群と比較されました。その結果、AR_鮮卑_鉄器時代(Iron Age、略してIA)個体群はAR_前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)と類似の遺伝的特性を有しており(図2A)、対称f₄統計ではAR_ENと同様のパターンを示す、と観察されました。モンゴルのさらに西方の古代鮮卑関連個体群は、モンゴル高原中央部の古代の個体群とより多くの遺伝的類似性を示し、それぞれ、−8.79のZ得点のf₄(ムブティ人、初期中世_突厥;モンゴル_鮮卑_ZHS5、鮮卑_武帝)と、中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)のモングンタイガ(Mongun Taiga)個体を含めた、−4.27のZ得点のf₄(ムブティ人、モンゴル_LBA_3_モングンタイガ;モンゴル_IA_鮮卑、鮮卑_武帝)により表されています。
次に、qpAdmを用いて鮮卑_武帝の祖先系統の割合が推定されました。東胡(Donghu)は商(殷)王朝(紀元前1600年頃以降)から西漢(前漢)王朝(紀元前206年以降)まで中国の北東部を支配した部族同盟でした。さらに、烏桓(Wuhuan)や鮮卑や柔然(Rouran)やキタイの部族は、東胡に起源があった、と広く考えられていました(以後、これらは東胡関連人口集団と呼ばれます)。本論文は、鮮卑_武帝個体を、4集団、つまりANA、古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)、ユーラシア西部草原地帯集団(western Eurasian steppe、略してWES)、黄河(YR)集団を用いて、以前に刊行された東胡関連人口集団とともにモデル化しました(図3A)。最古級の鮮卑関連個体であるAR_IA_鮮卑は、年代が50~250年頃で、ANA集団から約85%、黄河集団から約13%、残りはWES集団に由来する、とモデル化できます【最近の研究(関連記事)では、鮮卑の遺伝的起源はアムール川地域の大興安嶺山脈周辺にあり、黄河集団的構成要素はほぼなかった、と推測されています】。以下は本論文の図3です。
対照的に、AR_IA_鮮卑の約200年後の1個体である拓跋(Tuoba)_鮮卑_QL11は、単一の供給源として黄河集団を用いてモデル化できます(関連記事)。さらに、550年頃となる同時代の鮮卑関連の4人口集団も、異なる祖先構成を明らかにしました。柔然_TL1とモンゴル_鮮卑_ZHS5は、ANA集団に96~100%由来するとモデル化でき、残りはWES集団に由来します。一方で、モンゴル_IA_鮮卑と鮮卑_武帝には黄河集団からの遺伝的影響が観察され、ANA 集団の61~77%と黄河集団の14~32%と残りのWES集団でモデル化3方向混合としてモデル化できます(関連記事)。中世後期_キタイの1個体は、年代が鮮卑_武帝の約460年後となる1020年前頃で、鮮卑_武帝とほぼ同じ遺伝的構成を有していました。
●考察
先行研究では、父系の観点から、高い繁殖成功は富および社会政治的権力の両方と関連している、と提案されました。したがって、古代の王族は、人口集団の遺伝子プールに顕著な影響を及ぼした、と考えられていました。皇族の父系の遺伝学的研究は、この仮説を検証するのに重要です。しかし、武帝の父系はアジア東部および北東部の人口集団において低頻度(5%未満)でしか見られません【北周が短期間で簒奪されたことも影響しているのかもしれません】。父系遺伝子プールへの文化的選択の影響に関するさらなる研究は、より多くの家系の観察を必要とするかもしれません。
武帝自身に関して、いくつかの疑問が自然人類学者や歴史家や考古学者や国民一般を魅了しました。武帝はどのような姿なのでしょうか?最近の顔面復元ソフトウェアを用いて、宇文邕(武帝)のゲノムデータに基づき北周のそれ以前の皇帝の肖像画を描くことも試みられました。武帝の唯一の現存する完全な肖像画は、閻立本(Yan Liben、601~673年)の作とされている、有名な歴代帝王図巻(Thirteen Emperors Scroll)に含まれています。本論文の顔面復元は、CTデータとSNP予測の結果に基づいて、さらなる詳細を提供します。本論文は、武帝がアジア東部もしくは北東部の現代人の表現型と一致して、茶色の目と濃い黒髪と濃い色から中間色(濃い色と中間色との間)の肌を有していただろう、と学びました。さらに、鮮卑の外見は歴史的記録において依然として議論となっています。鮮卑の人々を、濃い髭や黄色の髪や突出した「高い」鼻など外来的特徴を有すると説明する人もいれば、ほとんどの鮮卑の人々はアジア北東部の一般的な人口集団と視覚的に大きく異なっていなかった、と考える人もいます。後者の見解は、本論文の遺伝学的予測と一致します。
第二に、本論文の分析、潜在的な重要性の古病理学的推測も可能とします。武帝の急死は、その後の中国史の軌跡に大きな変化をもたらしました。武帝の死因について、二つの主要な仮説があります。つまり、『周書(Zhoushu、Book of Zhou)』など公式王朝史で述べられているように、毒による潰瘍形成に起因する疾患か、宮廷史ではない毒物による死因です。後者は、突厥の人々に対する戦役の開始における武帝が疾患した時を用いており、さらなる情報の欠如を考えると、ほぼ陰謀論のように見えます。あるいは、『周書』は、宇文邕(武帝)が、失語症や瞼の垂れ(眼瞼下垂)や失明や片脚の跛行により影響を受けた歩様など、いくつかの深刻な症状を示していた、と付け加えています。これらは脳卒中の症状かもしれません。興味深いことに、配列決定深度は低いものの、Prometheaseにより報告された6点の危険性遺伝子座のうち1点は脳卒中と関連しています。
鮮卑の遺伝的歴史を理解しようとする場合、武帝のゲノムはこの問題に関する知識を広げるうえで重要で、それは、武帝が北周王朝の王族に属していたからです。第一に、本論文では、武帝は古代のキタイおよび黒水靺鞨の集団やダウール人やモンゴル人の集団と最も密接な関係を示した、と分かりました。本論文は遺伝学的観点から、アジア北東部の個体群と黄河流域の個体群との間の可能性の高い混合事象を推測できました。武帝の復元系図では、その祖母は王(Wang)という姓で、北部漢人もしくは高句麗人と考えられています。したがって、武帝における黄河集団関連祖先系統のほぼ1/3は、鮮卑王族と地元の漢人貴族との間の連続的な通婚により説明できます。対照的に、武帝の妻だった阿史那皇后については、その祖先系統はおもにANAに由来し、黄河関連の漢人からの影響はなく、漢人と古代突厥の王族限定的な遺伝的混合を示します(関連記事)。第二に、本論文の集団分析では、Qilangshanの鮮卑の拓跋の議論のある1個体を除いて、ゲノムデータは、ANA集団に由来する鮮卑の優勢な遺伝的祖先系統(少なくとも61%)を明らかにしました(図3A)。
第三に、鮮卑集団における遺伝的多様性に関して、地理的地域と密接に結びついた、鮮卑集団における遺伝的異質性が観察されました。これは、f統計とqpAdm分析の両方により証明できます(図3A)。具体的には、最南端の鮮卑_武帝は黄河集団から最高の割合の遺伝的祖先系統(約32%)を有していました。新疆北部およびアルタイ山脈地域の近くに位置する最西端のモンゴル_IA_鮮卑は、最大約7%となる最も多いWES集団の遺伝的構成要素を有していました。モンゴル東部からアムール川流域のモンゴル_鮮卑_ZHS5とAR_鮮卑_IAは、ほとんどの遺伝的祖先系統(最大96%)がANA集団に由来しました。観察された遺伝的景観は、アジア北東部からの大規模な移動、およびその後の移住してきたANA集団と地元の人口集団との間の混合を反映していた可能性が高そうです。要するに、武帝の遺伝的起源は、漢人の形成における漢人と非漢人貴族との間の混合過程の直接的証拠を提供し、鮮卑集団はおもに一貫した優勢な遺伝的祖先系統で構成されている可能性が高そうです。
参考文献:
Du P. et al.(2024): Ancient genome of the Chinese Emperor Wu of Northern Zhou. Current Biology, 34, 7, 1587–1595.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.02.059
本論文は、鮮卑が周辺人口集団と混合しながら形成されたことも指摘し、南下するにつれて漢人【という分類を千年紀前半に用いることが適切なのか、疑問も残りますが】集団と混合したことを示し、これは最近の研究でも同様です(関連記事)。ただ、こうした鮮卑などユーラシア東部北方の遊牧民的な集団が現在の中国北部に残した遺伝的影響については、地域差があったかもしれません。たとえば、黄河流域の中原(関連記事)では後期新石器時代と現代との、アムール川流域(関連記事)では14000年前頃から現在までの、高い遺伝的連続性が指摘されています。
つまり、アムール川流域には黄河流域からの新石器時代以降の大規模な人口移動がなく、中原に関しては、中原の方がユーラシア東部北方の遊牧民的な集団よりも人口が圧倒的に多かったため、集団遺伝学的観点では、ユーラシア東部北方の遊牧民的な集団は中原の人類集団に大きな遺伝的影響を残さなかった、と考えられます。一方で、黄河流域とアムール川流域の中間に位置する西遼河地域では、新石器時代以降に黄河流域集団的な遺伝的構成要素とアムール川流域集団的な遺伝的構成要素の変動と生業の変化が関連している、と指摘されており(関連記事)、中原よりも人口が少なかったため、人口移動の影響を集団遺伝学で検出しやすくなっているかもしれません。
現代の漢人には地理と相関した遺伝的差異があり(関連記事)、その形成過程を単純に図式化することはできませんが、ユーラシア東部北方の遊牧民的な集団が黄河流域やそれより南方の地域よりも人口が少なかったことを考えると、現代の漢人の形成におけるユーラシア東部北方の遊牧民的な集団の寄与を高く評価することはできないように思います。もちろん、これは集団遺伝学的な観点で、言語や文化などの影響は、ユーラシア東部北方の遊牧民的な集団が支配層だっただけに、集団遺伝学的な観点よりずっと大きかったかもしれず、その意味で、現代漢人の形成におけるユーラシア東部北方の遊牧民的な集団の影響を無視してはならないかもしれません。
●要約
鮮卑が率いた北周王朝の武帝(543~578年)は、名前を宇文邕と言い、地方軍制度を改革し、突厥と和平を結び、国家【中華地域全体】の北部を統一した、影響力のある皇帝でした。外見や疾患の可能性を含めて武帝理遺伝的特性や身体的特徴は、学界や一般市民から大きな関心を集めています。この研究では、124万パネルで1011419ヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)を有する、武帝の網羅率0.343倍のゲノムの生成に成功しました。色素沈着関連SNPの分析と、コンピュータ断層撮影(Computed Tomography、略してCT)に基づく顔面再構築の実行により、武帝は典型的なアジア東部人もしくは北東部人の外見だった、と本論文は判断しました。さらに、病原性SNPから、武帝は脳卒中など特定の疾患にかかりやすかった、と示唆されます。
武帝は、古代のキタイ(Khitan、契丹)および黒水靺鞨(Heishui Mohe)標本や現代のダウール人(Daur)およびモンゴル人集団と最も密接な遺伝的関係を共有していたものの、追加の黄河(Yellow River、略してYR)農耕民との類似性も示します。本論文は、武帝の祖先系統の、61%がANA、ほぼ1/3が黄河農耕民関連に由来する、と推定しました。これは、鮮卑王族と地元の漢人貴族との間の継続的な族間婚に起因する可能性が高そうです。本論文はさらに、さまざまな地域から得られた利用可能な古代鮮卑個体群における遺伝的多様性を明らかにし、鮮卑の形成は周辺人口集団との混合により影響を受けた動的な過程だった、と示唆します。
●研究史
中華皇帝は2000年以上にわたって象徴的な意味を与えられ、「天命(Mandate of Heaven)」を授けられた「天子(Son of Heaven)」と館得られていたので、国家に対する神に定められた統治とみなされるものを享受しました。「皇帝」という称号が初めて登場したのは紀元前221年で、嬴政が「始皇帝(First Emperor)」と自称したことに始まります。皇帝の地位は、ダイチン・グルン(大清帝国)の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(Aisin-Gioro Puyi)の退位まで続き、合計2132年間、83の封建王朝となります。そのうち、魏(220~266年)と晋(266~420年)と南北朝(420~589年)は、政治権力の頻繁な交代の時代で、中国の南北で別の皇帝が統治しました。
中国北部では、遊牧集団と農耕集団との間の統合がこの期間に頂点に達し、遊牧集団の中国化とその逆があった、と歴史家は指摘してきました。皇帝も王朝の興亡に伴って、この数世紀に頻繁に交替しました。この期間の中核部族もしくは民族集団の代表としての皇族は、歴史的な家系やゲノミクスにおいてかなりの関心を、中国内において広範な国民の注目を集めてきました。しかし現時点では、わずかな遺伝学的研究しかなく、たとえば、3世紀の皇帝である曹操(Cao Cao)【生前に皇帝には即位していませんが】や、ダイチン・グルン(清王朝)の愛新覚羅一族やモンゴルのチンギス・カン(Genghis Khan)です。これらの研究は、現代の人口集団の分布頻度を通じて推定されるあり得る父方の遺伝的系統のため、議論になることが多くなっています。これらの皇族と関連する古代ゲノムデータは、依然として不足しています。
鮮卑は中国史におけるひじょうに重要な少数集団で、少なくとも7世紀にわたって中国史で活発な役割を果たしました。鮮卑はさまざまな王朝を樹立し、それには燕や南涼(Southern Liang)や北魏や北斉や北周が含まれます。わずか24年間続いただけですが、北周政権は中国の北部を統一し、さらなる統一への強固な基盤を築きました。北周政権は第二の中華帝国(隋と唐)の先駆者でした。本論文の主題である北周の武帝は、北周王朝の第3代の皇帝でした。『北史(Beishi、History of Northern Dynasties)』によると、武帝は地方軍の制度を改革し、突厥と和平を結び、国家【中華地域全体】の北部を統一し、楊堅(Yang Jian)、つまり隋の文帝(Emperor Wen of Sui)による中国全土の統一の基盤を築きました。武帝の卓越した才能と戦略は、中国史に顕著な影響を及ぼしました。中原支配後の鮮卑の人々の代表として、武帝と以前に研究された鮮卑の人々の遺伝的構成間に違いはあるでしょうか?さらに、武帝が36歳で急死し、その息子【宣帝】が21歳で死亡したことを考えると、武帝の身体的特徴と疾患感受性はどのようなものだったのでしょうか?
●武帝の古代ゲノム規模データ
武帝の遺骸から得られた内在性DNAの割合は0.16%と低水準でしたが、古代DNAに特徴的な損傷パターンが確認され、124万SNPパネルでゲノム規模のデータが生成され、最終的に網羅率0.343倍のゲノムデータが得られました。武帝のゲノムデータの汚染率は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では1%未満、常染色体では0.6%未満でした。武帝のゲノムは遺伝的に男性と決定され、そのY染色体ハプログループ(YHg)はC2a1a1b1a2a1(FGC28857)でした。mtDNAは網羅率507.08倍で配列決定され、mtDNAハプログループ(mtHg)はC4a1a+195です。武帝の父系(YHg)と母系(mtHg)は両方ともアジア北東部にたどることができ、現在でも依然として中程度の頻度に達しています。次に、アフィメトリクス(Affymetrix)社ヒト起源(Human Origins、略してHO)とイルミナ(Illumina)社124万という2点のSNPパネルを用いて、疑似半数体データが生成され、それぞれ合計で511109ヶ所と1011419ヶ所のSNPを網羅しています。
●顔面復元と表現型予測
武帝の顔面は、現代中国人の軟組織深度平均に基づくBlenderソフトウェアのオープンソース三次元環境を用いて復元されました(図1A・B)。顔面の詳細を復元するため、41ヶ所のSNPを用いて外部から見えるヒトの特徴を予測する、HIrisPlex-Sシステムが活用されました。これらの手順に従って、本論文のデータ内の2ヶ所の欠落SNPが該当なしに設定されます。HIrisPlex-Sシステムでは、鮮卑の武帝は、茶色の目で、濃い黒髪の可能性が最も高く、肌は濃い色と中間色の中間だった、と予測します(図1C)。これらの特徴の追加により、顔面復元が補完されました(図1D)。本論文は、仮想モデルとアジア北部および東部現代人との間の強い類似性に気づきました。以下は本論文の図1です。
次に、Prometheaseを用いて、鮮卑の武帝に関する個人情報がさらに明確にされました。この遺伝的分析手法は、特定の状態もしくは形質に対する祖先系統と健康危険性と潜在的な遺伝的傾向についての情報を提供します。その結果はデータS2Bに示されています。合計で698個の一塩基変異が見つかり、そのうち42個は、痛風や脳卒中や慢性リンパ性白血病の危険性増加など、病原性多様体と関連していました。注意点として、これらの結果は比較的稀なデータに由来し、より高深度の配列決定のあるさらなる研究が、これらの観察の確証には必要です。
●全体的な定性的ゲノム構造は武帝のアジア北東部起源を示します
全体的な遺伝的構造は、おもに主成分分析(principal component analysis、略してPCA)を通じて調べられました(図2A)。PCAの結果は、PCAの三角形の隅で、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)関連およびアジア南東部関連およびチベット関連の人口集団とのパターンを示しました。鮮卑_武帝個体は、NEA関連人口集団とクラスタ化し(まとまり)、現代のモンゴル語族話者のダウール人、および現代のツングース語族話者のオロチョン人(Oroqen)およびホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)個体群と最大の近さを示します。以下は本論文の図2です。
この個体【鮮卑_武帝】は、20~30%の祖先系統が漢人に由来すると以前にモデル化された、中世後期_キタイや匈奴後期_漢人などモンゴル高原東部の古代の個体群(関連記事)とも密接でした(図2A)。鮮卑_武帝個体は、他の代表的な鮮卑関連の古代の個体群と比較して、古代黄河農耕民のより近くに投影されました。モデルに基づくADMIXTURE分析では、最小交差検証誤差であるK(系統構成要素数)=3が観察され、鮮卑_武帝はアムール川関連の古代および現代の人口集団で最大化される青色の構成要素で構成されます。黄色の構成要素はタイヤル人(Atayal)で最大化され、橙色の構成要素はユーラシア草原地帯人口集団で最大化されます。中世後期_キタイとの鮮卑_武帝の密接な祖先系統組成が観察されました。
●武帝におけるゲノム特性の詳細な調査
定量的なf₄統計とqpAdm分析を用いて、鮮卑_武帝個体のゲノム特性が調べられました。f₄形式(ムブティ人、参照;X、鮮卑_武帝)の対称f₄統計は、鮮卑_武帝の遺伝的特性を人口集団Xと直接的に比較し、Xにはアジア東部とユーラシア草原地帯の96の現代および古代の人口集団が、参照にはさまざまな場所の84の人口集団が含まれます(図2B)。その結果、より低いZ得点を示すXの人口集団のほとんどはNEAに由来する、と観察され、NEA関連人口集団との鮮卑_武帝の遺伝的類似性を示しています。アムール川(Amur River、略してAR)の鉄器時代(関連記事)および中世後期のキタイ(関連記事)の古代の個体群は、鮮卑_武帝と最も密接な遺伝的類似性を示し、それはf₄(ムブティ人、参照;AR_鉄器時代/中世後期_キタイ、鮮卑_武帝)のZ得点により表されている、と観察されました。
次に、鮮卑_武帝の遺伝的特性がと他の鮮卑関連個体群と比較されました。その結果、AR_鮮卑_鉄器時代(Iron Age、略してIA)個体群はAR_前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)と類似の遺伝的特性を有しており(図2A)、対称f₄統計ではAR_ENと同様のパターンを示す、と観察されました。モンゴルのさらに西方の古代鮮卑関連個体群は、モンゴル高原中央部の古代の個体群とより多くの遺伝的類似性を示し、それぞれ、−8.79のZ得点のf₄(ムブティ人、初期中世_突厥;モンゴル_鮮卑_ZHS5、鮮卑_武帝)と、中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)のモングンタイガ(Mongun Taiga)個体を含めた、−4.27のZ得点のf₄(ムブティ人、モンゴル_LBA_3_モングンタイガ;モンゴル_IA_鮮卑、鮮卑_武帝)により表されています。
次に、qpAdmを用いて鮮卑_武帝の祖先系統の割合が推定されました。東胡(Donghu)は商(殷)王朝(紀元前1600年頃以降)から西漢(前漢)王朝(紀元前206年以降)まで中国の北東部を支配した部族同盟でした。さらに、烏桓(Wuhuan)や鮮卑や柔然(Rouran)やキタイの部族は、東胡に起源があった、と広く考えられていました(以後、これらは東胡関連人口集団と呼ばれます)。本論文は、鮮卑_武帝個体を、4集団、つまりANA、古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)、ユーラシア西部草原地帯集団(western Eurasian steppe、略してWES)、黄河(YR)集団を用いて、以前に刊行された東胡関連人口集団とともにモデル化しました(図3A)。最古級の鮮卑関連個体であるAR_IA_鮮卑は、年代が50~250年頃で、ANA集団から約85%、黄河集団から約13%、残りはWES集団に由来する、とモデル化できます【最近の研究(関連記事)では、鮮卑の遺伝的起源はアムール川地域の大興安嶺山脈周辺にあり、黄河集団的構成要素はほぼなかった、と推測されています】。以下は本論文の図3です。
対照的に、AR_IA_鮮卑の約200年後の1個体である拓跋(Tuoba)_鮮卑_QL11は、単一の供給源として黄河集団を用いてモデル化できます(関連記事)。さらに、550年頃となる同時代の鮮卑関連の4人口集団も、異なる祖先構成を明らかにしました。柔然_TL1とモンゴル_鮮卑_ZHS5は、ANA集団に96~100%由来するとモデル化でき、残りはWES集団に由来します。一方で、モンゴル_IA_鮮卑と鮮卑_武帝には黄河集団からの遺伝的影響が観察され、ANA 集団の61~77%と黄河集団の14~32%と残りのWES集団でモデル化3方向混合としてモデル化できます(関連記事)。中世後期_キタイの1個体は、年代が鮮卑_武帝の約460年後となる1020年前頃で、鮮卑_武帝とほぼ同じ遺伝的構成を有していました。
●考察
先行研究では、父系の観点から、高い繁殖成功は富および社会政治的権力の両方と関連している、と提案されました。したがって、古代の王族は、人口集団の遺伝子プールに顕著な影響を及ぼした、と考えられていました。皇族の父系の遺伝学的研究は、この仮説を検証するのに重要です。しかし、武帝の父系はアジア東部および北東部の人口集団において低頻度(5%未満)でしか見られません【北周が短期間で簒奪されたことも影響しているのかもしれません】。父系遺伝子プールへの文化的選択の影響に関するさらなる研究は、より多くの家系の観察を必要とするかもしれません。
武帝自身に関して、いくつかの疑問が自然人類学者や歴史家や考古学者や国民一般を魅了しました。武帝はどのような姿なのでしょうか?最近の顔面復元ソフトウェアを用いて、宇文邕(武帝)のゲノムデータに基づき北周のそれ以前の皇帝の肖像画を描くことも試みられました。武帝の唯一の現存する完全な肖像画は、閻立本(Yan Liben、601~673年)の作とされている、有名な歴代帝王図巻(Thirteen Emperors Scroll)に含まれています。本論文の顔面復元は、CTデータとSNP予測の結果に基づいて、さらなる詳細を提供します。本論文は、武帝がアジア東部もしくは北東部の現代人の表現型と一致して、茶色の目と濃い黒髪と濃い色から中間色(濃い色と中間色との間)の肌を有していただろう、と学びました。さらに、鮮卑の外見は歴史的記録において依然として議論となっています。鮮卑の人々を、濃い髭や黄色の髪や突出した「高い」鼻など外来的特徴を有すると説明する人もいれば、ほとんどの鮮卑の人々はアジア北東部の一般的な人口集団と視覚的に大きく異なっていなかった、と考える人もいます。後者の見解は、本論文の遺伝学的予測と一致します。
第二に、本論文の分析、潜在的な重要性の古病理学的推測も可能とします。武帝の急死は、その後の中国史の軌跡に大きな変化をもたらしました。武帝の死因について、二つの主要な仮説があります。つまり、『周書(Zhoushu、Book of Zhou)』など公式王朝史で述べられているように、毒による潰瘍形成に起因する疾患か、宮廷史ではない毒物による死因です。後者は、突厥の人々に対する戦役の開始における武帝が疾患した時を用いており、さらなる情報の欠如を考えると、ほぼ陰謀論のように見えます。あるいは、『周書』は、宇文邕(武帝)が、失語症や瞼の垂れ(眼瞼下垂)や失明や片脚の跛行により影響を受けた歩様など、いくつかの深刻な症状を示していた、と付け加えています。これらは脳卒中の症状かもしれません。興味深いことに、配列決定深度は低いものの、Prometheaseにより報告された6点の危険性遺伝子座のうち1点は脳卒中と関連しています。
鮮卑の遺伝的歴史を理解しようとする場合、武帝のゲノムはこの問題に関する知識を広げるうえで重要で、それは、武帝が北周王朝の王族に属していたからです。第一に、本論文では、武帝は古代のキタイおよび黒水靺鞨の集団やダウール人やモンゴル人の集団と最も密接な関係を示した、と分かりました。本論文は遺伝学的観点から、アジア北東部の個体群と黄河流域の個体群との間の可能性の高い混合事象を推測できました。武帝の復元系図では、その祖母は王(Wang)という姓で、北部漢人もしくは高句麗人と考えられています。したがって、武帝における黄河集団関連祖先系統のほぼ1/3は、鮮卑王族と地元の漢人貴族との間の連続的な通婚により説明できます。対照的に、武帝の妻だった阿史那皇后については、その祖先系統はおもにANAに由来し、黄河関連の漢人からの影響はなく、漢人と古代突厥の王族限定的な遺伝的混合を示します(関連記事)。第二に、本論文の集団分析では、Qilangshanの鮮卑の拓跋の議論のある1個体を除いて、ゲノムデータは、ANA集団に由来する鮮卑の優勢な遺伝的祖先系統(少なくとも61%)を明らかにしました(図3A)。
第三に、鮮卑集団における遺伝的多様性に関して、地理的地域と密接に結びついた、鮮卑集団における遺伝的異質性が観察されました。これは、f統計とqpAdm分析の両方により証明できます(図3A)。具体的には、最南端の鮮卑_武帝は黄河集団から最高の割合の遺伝的祖先系統(約32%)を有していました。新疆北部およびアルタイ山脈地域の近くに位置する最西端のモンゴル_IA_鮮卑は、最大約7%となる最も多いWES集団の遺伝的構成要素を有していました。モンゴル東部からアムール川流域のモンゴル_鮮卑_ZHS5とAR_鮮卑_IAは、ほとんどの遺伝的祖先系統(最大96%)がANA集団に由来しました。観察された遺伝的景観は、アジア北東部からの大規模な移動、およびその後の移住してきたANA集団と地元の人口集団との間の混合を反映していた可能性が高そうです。要するに、武帝の遺伝的起源は、漢人の形成における漢人と非漢人貴族との間の混合過程の直接的証拠を提供し、鮮卑集団はおもに一貫した優勢な遺伝的祖先系統で構成されている可能性が高そうです。
参考文献:
Du P. et al.(2024): Ancient genome of the Chinese Emperor Wu of Northern Zhou. Current Biology, 34, 7, 1587–1595.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.02.059
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