山本博文『これが本当の「忠臣蔵」 赤穂浪士討ち入り事件の真相』
小学館101新書の一冊として、小学館より2012年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。赤穂事件は日本社会において、題材とした創作の忠臣蔵が長く大人気だったため、たいへん有名だと思います。赤穂事件というか江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』に基づく創作は、小説や映画やテレビドラマなどで多くあり、赤穂事件は日本人にとって馴染み深い歴史的事象と言えるでしょう。しかし、大河ドラマで忠臣蔵ものはもう四半世紀題材とされておらず、近年では時代劇自体が低調なこともあり、忠臣蔵、さらには赤穂事件の日本社会における知名度は、とくに若い世代で以前よりもかなり低下しているのではないか、とも思います。
1972年生まれの私が子供の頃には忠臣蔵ものの映画やテレビドラマは珍しくなく、私の世代くらいまでは忠臣蔵ものにある程度馴染んでいる割合が一定以上あったかもしれませんが、それでも、忠臣蔵と実際の赤穂事件に違いがあることも確かで、正直なところ私も、同世代以上の日本人の多くと同様に、忠臣蔵の視点で赤穂事件を見ており、赤穂事件の理解が実際とは大きく異なっているようにも思います。本書は、史料批判により赤穂事件を検証しており、一度赤穂事件について概要と基本的な情報を得ようと考えていたので、本書を読みました。
赤穂事件の発端は、1701年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)3月14日に、年始の礼のため京都から江戸に下校していた勅使と院使が当時の将軍である徳川綱吉に挨拶する儀式において、儀式全般を担当する高家筆頭の吉良義央(上野介)が、勅使饗応役の赤穂藩主である浅野長矩(内匠頭)に斬りつけられたことです。吉良義央は負傷したものの殺されることはなく、浅野長矩は周囲の者に取り押さえられます。浅野長矩が、吉良義央に対して遺恨があった、と発言していたことは、その場にいた者が書き留めています。吉良義央は刀に手をかけていなかった、と周囲の者が証言し、老中はこれを喧嘩として処理しませんでした。大切な儀式の場を血で汚されたことから、徳川綱吉は即日、浅野長矩に切腹を命じました。浅野長矩は、切腹を命じられても落ち着いた様子だったようです。本書は、打ち首にならず切腹だったことに、浅野長矩は安堵していたのではないか、と推測しています。浅野長矩の辞世の歌は、検使役の多門伝八郎の創作ではないか、と本書は推測します。
浅野長矩が吉良義央に斬りかかった理由は忠臣蔵もので広く知られているでしょうが、あくまでも創作です。ただ、当時の史料でも、吉良義央が自分に賄賂を贈らなかった浅野長矩に嫌がらせをしたとか、吉良義央は「横柄人」として有名で、強欲なところがあった、と見えます。ただ本書は、吉良義央が儀式などでの助言で諸大名から贈り物を受けるのはとくに悪事ではなく、浅野長矩から通常の贈り物しかなかったため、吉良義央は機嫌を損ねてしまい、浅野長矩は儀式で失敗したのではないか、と本書は推測します。また、浅野長矩の評判もよくなかったようで、赤穂藩は新田開発や塩田からの運上で裕福だったものの、浅野長矩は好色で、藩主として模範的とは言い難い、と本書は指摘します。ただ本書は、老中の面前で吉良義央が浅野長矩の面子を潰した、との史料が事実ならば、吉良義央の行動に問題があった、と指摘します。
浅野長矩の切腹後、赤穂藩の浅野家は取り潰しとなり、忠臣蔵ものの通りではないとしても、城を素直に明け渡すのか、それとも籠城するのか、あるいは切腹するのかなど、赤穂藩家臣の意見は分かれたようです。それでも、浅野宗家からの説得などもあり、1701年4月19日には赤穂城の明け渡しが行なわれました。ここからも、忠臣蔵ものの通りではないとしても、吉良邸に討ち入りするのか、それとも浅野長矩の弟である浅野長広(大学)よる御家再興を目指すのか、赤穂藩旧臣の意見は分かれたようです。赤穂藩国家老だった大石良雄(内蔵助)も、赤穂藩浅野家再興に動いていましたが、当の浅野長広は、御家再興の嘆願はできない、と冷淡だったようです。
1702年7月18日、浅野長広は閉門を許されたものの、妻子とともに広島藩の浅野本家に引き取られることになり、赤穂藩浅野家再興の望みは絶たれました。これで、大石良雄も吉良邸討ち入りを最終的に決断したようです。ただ、「同志」だった赤穂藩旧臣の脱盟が相次ぎ、討ち入りは1702年12月14日でしたが、中には同月6日に逃亡した赤穂藩旧臣もいました。大石良雄も、直前になって脱盟者が出たことを無念に思っていました。吉良邸討ち入りでは、吉良方では16人が討ち死にしましたが、赤穂藩旧臣で討たれた者はおらず、こうも首尾よく旧主の仇討ちができるとは、大石良雄も含めて吉良邸に討ち入りした赤穂藩旧臣も考えていなかったようです。討ち入りした赤穂藩旧臣の処分は、決定まで1ヶ月半を要していることから、幕府はかなり迷っていたようです。結局、吉良邸に討ち入りした赤穂藩旧臣は切腹処分となりましたが、この赤穂藩旧臣の行動が現在(もしくは20世紀末)まで高い人気を維持してきたのは、何かの目標のために命を捨てて行動する「自己犠牲の精神」があるからではないか、と本書は指摘します。
1972年生まれの私が子供の頃には忠臣蔵ものの映画やテレビドラマは珍しくなく、私の世代くらいまでは忠臣蔵ものにある程度馴染んでいる割合が一定以上あったかもしれませんが、それでも、忠臣蔵と実際の赤穂事件に違いがあることも確かで、正直なところ私も、同世代以上の日本人の多くと同様に、忠臣蔵の視点で赤穂事件を見ており、赤穂事件の理解が実際とは大きく異なっているようにも思います。本書は、史料批判により赤穂事件を検証しており、一度赤穂事件について概要と基本的な情報を得ようと考えていたので、本書を読みました。
赤穂事件の発端は、1701年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)3月14日に、年始の礼のため京都から江戸に下校していた勅使と院使が当時の将軍である徳川綱吉に挨拶する儀式において、儀式全般を担当する高家筆頭の吉良義央(上野介)が、勅使饗応役の赤穂藩主である浅野長矩(内匠頭)に斬りつけられたことです。吉良義央は負傷したものの殺されることはなく、浅野長矩は周囲の者に取り押さえられます。浅野長矩が、吉良義央に対して遺恨があった、と発言していたことは、その場にいた者が書き留めています。吉良義央は刀に手をかけていなかった、と周囲の者が証言し、老中はこれを喧嘩として処理しませんでした。大切な儀式の場を血で汚されたことから、徳川綱吉は即日、浅野長矩に切腹を命じました。浅野長矩は、切腹を命じられても落ち着いた様子だったようです。本書は、打ち首にならず切腹だったことに、浅野長矩は安堵していたのではないか、と推測しています。浅野長矩の辞世の歌は、検使役の多門伝八郎の創作ではないか、と本書は推測します。
浅野長矩が吉良義央に斬りかかった理由は忠臣蔵もので広く知られているでしょうが、あくまでも創作です。ただ、当時の史料でも、吉良義央が自分に賄賂を贈らなかった浅野長矩に嫌がらせをしたとか、吉良義央は「横柄人」として有名で、強欲なところがあった、と見えます。ただ本書は、吉良義央が儀式などでの助言で諸大名から贈り物を受けるのはとくに悪事ではなく、浅野長矩から通常の贈り物しかなかったため、吉良義央は機嫌を損ねてしまい、浅野長矩は儀式で失敗したのではないか、と本書は推測します。また、浅野長矩の評判もよくなかったようで、赤穂藩は新田開発や塩田からの運上で裕福だったものの、浅野長矩は好色で、藩主として模範的とは言い難い、と本書は指摘します。ただ本書は、老中の面前で吉良義央が浅野長矩の面子を潰した、との史料が事実ならば、吉良義央の行動に問題があった、と指摘します。
浅野長矩の切腹後、赤穂藩の浅野家は取り潰しとなり、忠臣蔵ものの通りではないとしても、城を素直に明け渡すのか、それとも籠城するのか、あるいは切腹するのかなど、赤穂藩家臣の意見は分かれたようです。それでも、浅野宗家からの説得などもあり、1701年4月19日には赤穂城の明け渡しが行なわれました。ここからも、忠臣蔵ものの通りではないとしても、吉良邸に討ち入りするのか、それとも浅野長矩の弟である浅野長広(大学)よる御家再興を目指すのか、赤穂藩旧臣の意見は分かれたようです。赤穂藩国家老だった大石良雄(内蔵助)も、赤穂藩浅野家再興に動いていましたが、当の浅野長広は、御家再興の嘆願はできない、と冷淡だったようです。
1702年7月18日、浅野長広は閉門を許されたものの、妻子とともに広島藩の浅野本家に引き取られることになり、赤穂藩浅野家再興の望みは絶たれました。これで、大石良雄も吉良邸討ち入りを最終的に決断したようです。ただ、「同志」だった赤穂藩旧臣の脱盟が相次ぎ、討ち入りは1702年12月14日でしたが、中には同月6日に逃亡した赤穂藩旧臣もいました。大石良雄も、直前になって脱盟者が出たことを無念に思っていました。吉良邸討ち入りでは、吉良方では16人が討ち死にしましたが、赤穂藩旧臣で討たれた者はおらず、こうも首尾よく旧主の仇討ちができるとは、大石良雄も含めて吉良邸に討ち入りした赤穂藩旧臣も考えていなかったようです。討ち入りした赤穂藩旧臣の処分は、決定まで1ヶ月半を要していることから、幕府はかなり迷っていたようです。結局、吉良邸に討ち入りした赤穂藩旧臣は切腹処分となりましたが、この赤穂藩旧臣の行動が現在(もしくは20世紀末)まで高い人気を維持してきたのは、何かの目標のために命を捨てて行動する「自己犠牲の精神」があるからではないか、と本書は指摘します。
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