鮮卑の遺伝的起源

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、鮮卑の遺伝的起源に関する研究(Cai et al., 2023)が公表されました。本論文は、長きにわたって議論されてきた鮮卑の起源について、古代ゲノムデータに基づく解明を試みています。本論文の結論は、鮮卑の起源はアムール川地域の大興安嶺山脈周辺にある、というものです。また本論文は、鮮卑が南下して中原へと勢力を拡大する過程の当初には、拡大先の在来集団からの遺伝的寄与は限定的だったものの、華北に定住し、遊牧民から定住農耕民へと変容するにつれて、地元住民との遺伝的混合が進んでいったことも指摘します。鮮卑についての近年の日本語の一般向け書籍では、講談社選書メチエの松下憲一『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』がたいへん有益だと思います(関連記事)。古代ゲノム研究が、考古学や歴史学などとの学際的研究により人類史をさらに詳細に解明していくことは、ヨーロッパではもう珍しくなく、中国でも近年の進展は目覚ましく、今後は日本列島での研究の大きな進展も期待されます。


●要約

 鮮卑は、匈奴帝国の崩壊以降では、ユーラシア東部における最も強力な遊牧民集団の一つでした。しかし、直接的に書かれた記録の不足のため、鮮卑の起源および周辺人口集団との関係は謎めいているままです。本論文は、中国北部の鮮卑9個体(200~300年頃)を提供します。文献で利用可能なゲノムを組み合わせることにより、鮮卑のほぼ全期間やその前後を網羅するデータベースが構築され、時代背景に鮮卑を位置づけることが可能になります。本論文は長きにわたる仮説に決定的に取り組み、鮮卑はアムール川地域、より具体的には大興安嶺山脈周辺の中国のはるか北東部の起源だった、と裏づけます。中原への南進の最初の過程において、鮮卑は遭遇した在来の人口集団から限定的な外来の遺伝的寄与しか受け取らなかったものの、中国北部に定住した後には、遊牧民部族から定住農耕民へと変わっただけではなく、地元住民と遺伝的に混合もした、という直接的な遺伝学的証拠も本論文は提供します。要するに、本論文は、鮮卑の起源への初のゲノム調査を表しており、鮮卑と古代漢人共同体との間の顕著な歴史的つながりを確証し、中国北部の動的な人口史を解明します。


●研究史

 南方の定住雑穀農耕民と北方の遊牧民の交差点に位置する中国北部は、古代のさまざまな部族連合の起源地だけではなく、異なる2社会【定住雑穀農耕民と遊牧民】間の物質文化と農耕と技術の交換の坩堝でもありました。鉄器時代以降、ユーラシア東部草原地帯における一連の遊牧民集団は、匈奴や鮮卑や柔然など、中国北部およびその周辺に居住した政治的部族を確立しました。その多くは中原へと南方に移動し、自身の王朝さえ樹立しました。これらの遊牧民連合のうち、鮮卑はおそらく最も著名で、中国の北方国境における最長で最も強力な王朝の一つである北魏王朝(386~534年)を樹立しました。

 鮮卑は中国の歴史記録にまず現れ、具体的には49年に『後漢書(Hou Han Shu)』に見え、最盛期にはモンゴル高原および中国北部全体にまたがる広範な領土を支配しました。非文字社会なので、鮮卑に関して利用可能な情報のほとんどは、外部の碑文、とくに中国の歴史家のみから知られているので、鮮卑の起源に関して議論が続いています。『後漢書』などの歴史的記述から、鮮卑は古代遊牧民である東胡(Donghu)部族の子孫で、東胡は紀元前206年頃に匈奴に敗れ、その後で、現在ではアムール川(Amur River、略してAR)地域の大興安嶺山脈と考えられている「大鮮卑山」へと北方に移動した、と示唆されています。したがって、大興安嶺地域が匈奴の元々の故地だった、と仮定されています(図1)。さらに、山戎(Shanrong)および東夷(Dongyi)仮説を含む他の理論が他の学者により提案されてきており、鮮卑の起源は、山戎説では中国北部、東夷説では中国東部に鮮卑の起源が求められました。

 人類学的証拠では、鮮卑は多民族集団から構成されていた可能性が高い、と示唆されており、複雑な人口構造が提案されています。文字記録の欠如のため、鮮卑の話していた言語についてほとんど知られておらず、利用可能な証拠はおもに、宇文(Yuwen)や慕容(Murong)や吐谷渾(Tuyuhun)など部族名の限定的な数に由来しており、多くの学者が、鮮卑語は祖型モンゴル語族と関連している可能性が高い、と考えているにも関わらず、鮮卑の言語を決定的に分類するには不十分です。以下は本論文の図1です。
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 匈奴帝国の崩壊後に、鮮卑は迅速に権力を高め、西方と南方への移動に乗り出し、最終的にはモンゴル高原全体と中国北部の広大な地域を支配しました。遊牧民連合として、鮮卑は多様な部族を統一し、その中には、匈奴の残党やバイカル湖地域周辺の丁零(Dingling)や中国北部の烏桓(Wuhuan)が含まれます。この同化の注目すべき事例は歴史的記録に見られ、鮮卑は匈奴により以前支配されていた土地を吸収し、『後漢書』によると、91年に鮮卑への帰属意識を採用した、10万人以上の匈奴の戦士を組み込みました。これは、考古学的調査結果と人類学的証拠により実証されています。同時に、鮮卑の南方への移動はその歴史の重要な側面です。歴史的記録によると、鮮卑はその最初の故地である「大鮮卑山」から、現在の中華人民共和国内モンゴル自治区のフルンボイル(Hulunbuir)草原へと移動し、すぐに南方へと移住して、最終的には中原に定住しました。

 これまでに発見されている多くの遺跡が鮮卑の南方への移動に関する重要な情報を提供していますが、鮮卑人口集団からの直接的なゲノムデータの欠如は、これらの移動事象の詳細なパターンと、その根底にある人口混合事象が依然として不明確であることを意味します。拓跋(Tuoba)氏族により樹立された魏王朝は、鮮卑連合内において支配的な派閥で、隋および唐王朝の下での中国再統一に先行する中国北部の諸王朝で重要な影響を有していました。その恐るべき軍事力にも関わらず、北魏の指導者は、定住している中国の人口集団との民族的緊張を意図した一連の政策を実行しました。これらの政策には、中国名の採用、中国語の促進、鮮卑とエリート漢人家系との通婚の奨励が含まれていました。これらの変化は、鮮卑と古代中国人【という分類を千年紀前半に用いることが適切なのか、疑問も残りますが】との間の相互作用を加速させましたが、この文化的移行と関連する人口統計学的変化は、充分には理解されていません。

 中国史における鮮卑の顕著な重要性にも関わらず、鮮卑に関する知識は、とくに、その起源と、複雑な人口移動事象が中国化の過程において遺伝的混合を伴っていたのかどうかに関して、比較的限られています。考古遺伝学的研究の最近の進歩は、モンゴル高原およびバイカル湖地域や中国北部の長期の時系列の標本からの多くのゲノムデータをもたらし、鮮卑の起源の追跡、鮮卑とその近隣の遊牧民部族および定住農耕人口集団との間の遺伝的混合の再構築への貴重な機会を提起しています(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020)。

 本論文では、初期鮮卑期となる、中華人民共和国内モンゴル自治区の乃仁陶力盖(Nairentaoligai、略してNRG)遺跡で発見された、当初検査された21個体のうち9個体の古代ゲノム配列の回収に成功しました。これらの新たに得られたゲノム配列を、以前に刊行された鮮卑のゲノムや、鮮卑の前後の該当地域および周辺地域(図1)のゲノム(Ning et al., 2020)と組み合わせることにより、独特で包括的なデータベースが確立されました。このデータベースにより、鮮卑の遺伝的起源への洞察の取得、および鮮卑の複雑な人口移動における一連の人口集団の遺伝的混合解明が可能となります。


●標本と手法

 調査対象遺骸の歯と骨からDNAが抽出され、9個体で分析に充分な古代DNAが確認されました。これら新たに得られたデータは、刊行されている124万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)から、無作為標本抽出戦略により、疑似二倍体遺伝子型が呼び出されました。分子的性別は、X染色体とY染色体の網羅率の評価により実行されました。つまり、X染色体とY染色体の網羅率がほぼ同等の場合は男性、Y染色体の網羅率の方が低い場合は女性と分類されました。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)も分析され、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。NRG個体間の親族関係は、READソフトウェアを用いて推定されました。同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)は、hapROHを用いて推定されました。NRG人口集団の遺伝的特性を特徴づけるため、新たに生成されたデータセットが、以前に刊行された世界規模の現代および古代の人口集団と統合されました。

 集団遺伝学的分析では、まず主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行され、f3およびf4統計では、アフリカのムブティ人集団が外群としてもいられました。可能性のある供給源人口集団とその割合は、qpAdmソフトウェアで推定されました。外群として用いられた人口集団に含まれるのは、ムブティ人の5個体、イスラエルのナトゥーフィアン(Natufian、ナトゥーフ文化)の6個体(イスラエル_ナトゥーフィアン)、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡の1個体、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代(Neolithic、略してN)の5個体(イラン_ガンジュ・ダレー_N)、メキシコ南部のミヘー人(Mixe)の3個体、台湾先住民のアミ人(Ami)の2個体、アンダマン諸島のオンゲ人の2個体、シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45900~42900年前頃の1個体、ロシア西部のコステンキ・ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された38000年前頃の1個体、パプア人の16個体、アナと雪の女王半島新石器時代の23個体(アナトリア_N)、シベリアの上部旧石器時代のアフォントヴァ・ゴラ(Afontova Gora)遺跡の1個体(AG3)です。


●考古学的背景と古代DNAデータ

 NRG墓地は、中国北部の内モンゴル自治区の鑲黄旗(Xianghuang Banner)の南西約30km(北緯42.5415度、東経114.0634度)に位置しています(図1)。NRG遺跡は北方から南方にかけて長さ260m、東方から西方にかけて長さ300mで、標高1336mにあるなだらかな傾斜が特徴の墓地です。NRG遺跡には17基の垂直の細い穴状の墓があり、鮮卑の一般的な埋葬形態です。そのうち、4基は共同埋葬(M4とM6とM9とM17)、10基は単葬、3基には骨格要素がありません。

 考古学者は、土器や青銅や骨やヒツジの骨や銅製飾り板や五銖銭(Wu Zhu cash coin)やカバノキの樹皮や瑪瑙やトルコ石のビーズなど、多様な埋葬品を発見しました。注目すべきことに、M4で発見された五銖銭は、後漢(東漢)王朝期の桓帝(Emperor Huan、132~168年)の治世にさかのぼりました(図1)。NRG017個体のさらなる放射性炭素年代測定分析は、1819~1709年前の範囲の年代を示しました。さまざまな考古学的証拠の包括的な評価に基づくと、この墓群は後漢王朝後期の2世紀後半にさかのぼり、NRG人口集団は鮮卑連合の初期に位置づけられます。

 中国の吉林大学の考古学部の古代DNAに特化して設計された専用研究室で、合計21点の骨格要素(18点の歯と3点の骨)からDNAが抽出されました。最初の浅い検査の後で、より良好なDNA保存状態(内在性のヒトDNAが4%超)の9個体が、その後のゲノム分析のため低網羅率(個体あたり0.02~0.5倍)でさらに配列決定されました。全ての標本は古代DNAに特徴的なDNA損傷パターンと、低水準のミトコンドリアおよび核汚染(4%未満)を示しました。次に、新たに生成されたゲノムが、ヒト起源(Human Origins、略してHO)データセットおよび124万SNPデータセットで構成される、以前に刊行された2点の参照データセットと統合されました。統合されたHOデータセットは、PCAとADMIXTUREを含めて世界的な人口構造分析実行のため用いられ、それはおもに、より多くの現在の世界規模の人口集団が含まれているからです。124万データセットは、f統計やqpAdmなど残りの分析に用いられました。


●mtDNAとY染色体DNAの結果

 鮮卑の標本21点で11系統のマクロmtHgが検出され、C(C4a1a4とC5d1)、D4(D4とD4a1とD4c2bとD4e1とD4e5aとD4j+16288とD4m)、M32′56、N9a1が含まれます。そのうち、mtHg-CおよびD4は内モンゴル自治区のモンゴル人集団において一般的でしたが、mtHg-M32′56およびN9a1は現代の地元の人口集団では報告されてきませんでした。mtHg-D4の下位クレード(単系統群)はアジア東部北方の古代人や、オロチョン人(Oroqen)およびエヴェンキ人(Evenk)などアムール川流域のツングース語族話者民族集団において一般的です(Ning et al., 2020、Ning et al., 2021)。

 mtHg-Cはアジア東部北方で検出されます(Ning et al., 2020)。mtHg-N9a1は古代の2個体で見つかり、西遼河(West Liao River、略してWLR)の後期新石器時代となる夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化の1個体や、黄河(Yellow River、略してYR)上流地域の青海省の鉄器時代となる大槽子(Dacaozi)遺跡の1個体が含まれ、mtHg-N9a1は古代にはおもに中国北部に分布していたかもしれない、と示唆されます(Ning et al., 2020)。mtHg-M32′56はタイおよび他のアジア東部南方でのみ報告されており、NRG人口集団がアジア東部南方人と母系の遺伝的関係を共有しているかもしれない、と示唆されます。

 さらに、中国のアムール川流域の以前に刊行された鮮卑の3個体のmtHgは、それぞれC5a1とZ3a1とC4a1a4aです(Ning et al., 2020)。モンゴル北部の1400年前頃にさかのぼる鮮卑の1個体(ZHS5_鮮卑_1400年前)はmtHg-C4a2a1に分類され、これら3系統のmtHgはすべて、アジア東部北方人およびアジア北部人でも見つかりました。したがって、これらの結果から、鮮卑人口集団はおもにアジア東部北方関連のmtHgを有しているものの、一部の個体はアジア東部南方の人口集団と母系の遺伝的類似性を共有している、と示唆されます。

 NRG人口集団のYHgの多様性は、mtHgの多様性より低くなっていました。低網羅率の標本2点をのぞいて、6個体の全男性のYHgはCで、そのうち4個体は下位クレードのC2a1a1b1(F1756)です。YHg-C2a1a1b1は内モンゴル自治区の在来人口集団のわずか1.96%を構成しており、ユーラシア東部人で検出されましたが、刊行されている鮮卑の3個体や、鮮卑の子孫と考えられている柔然(Rouran)や室韋(Shiwei)などその後の古代遊牧民も有しており、そのうち他の2個体は、Y染色体SNPの利用可能な網羅量が限定的なため、YHg-C2(M217)およびC2a1a(F1699)までしか分類できませんでした。それ以前の古代DNAデータと組み合わせると、本論文の結果から、YHg-C2a1a1b1は古代の東胡や鮮卑や柔然や室韋の部族の主要な父系かもしれない、と示唆されます。しかし、本論文における限定的な男性個体数と、鮮卑人口集団と関連する刊行されているY染色体データの不足のため、鮮卑人口集団の父系遺伝構造に関するさらなる研究は、追加の古代DNAデータから大きな恩恵を受けるだろう、と強調する必要があります。


●親族関係推定とROH

 READソフトウェアを用いて、以前に刊行された初期鮮卑個体群とともに、全てのNRG個体の親族関係性が推定されました。READは、ゲノムの重複しない100万塩基対(1Mb)内の標本間の同一ではないアレル(対立遺伝子)比を計算し(P0)、より低いP0値はより多くの共有された常染色体断片を意味します。それによりまず、9個体のゲノムはどれも相互に同一ではないか、密接な関係を共有していなかった、と確証されました。さらに、以前に刊行された1親等の親族関係の1組(MGS-M7LとMGS-M7R)が再現され、以前の結果と一致します。片親性遺伝標識と組み合わせると、両者が父親と息子の関係かもしれない、と確認されました。プログラムhapROHの適用により、鮮卑のROHがさらに評価されました。ROHはゲノムにおける差異のない連続領域で、これらの長いDNA断片長は、家系の近親交配を反映しているかもしれません。本論文の結果から、鮮卑社会における近親交配の遺伝学的証拠はない、と示されます。


●NRG鮮卑人口集団の遺伝的起源

 NRG鮮卑個体群の遺伝的特性を特徴づけるため、まず常染色体ゲノムデータでPCAが実行されました。NRG個体群は、刊行されている情報源からの関連する古代ゲノムとともに、ユーラシア現代人から構築された背景に投影されました。その結果、本論文で生成された9個体のゲノム全てが、現在のアジア東部人口集団で観察される遺伝的差異内に収まる、と明らかになりました(図2A)。外れ値(outlier、略してo)2個体を除いて、NRG個体の大半(NRG_鮮卑_1750年前、7個体)は、最近刊行された初期鮮卑標本群(AR_鮮卑_1850年前)とアムール川流域の前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)および後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)の人口集団(AR_ENとAR_LN)を含む1群とクラスタ化しました(まとまりました)。

 これらの全個体は以前に、アジア北部古代人(Ancient Northeast Asians、略してANA)と総称される共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有している、と確認されました。これらの個体は全て、地理的には大興安嶺周辺のアムール川流域内に地理的に分布しており、NRGの鮮卑はこれらの地域の起源だった可能性が最も高い、と示唆されます。モンゴルの遊牧民2個体、つまり鮮卑後期の1個体(ZHS5_鮮卑_1400年前)および鮮卑の子孫と考えられている柔然と関連するもう一方の個体(柔然_1400年前)は両方、NRG_鮮卑_1750年前と1クラスタを形成することも観察され、鮮卑は1400年前頃以前にモンゴル高原の中央部および東部へと西方に移動したかもしれない、と示唆されます(図2A)。

 NRGの外れ値2個体は、主成分(PC)空間では主要クラスタと顕著に異なる位置にあります。個体NRG04(NRG_鮮卑_o1)は、夏家店下層文化と関連する青銅器時代(Bronze Age、略してBA)個体群(WLR_BA)など、西遼河下流域の古代の雑穀農耕共同体の方へとわずかに南方へ動いていました。個体NRG05(NRG_鮮卑_o2)は主要集団よりもPC1に沿って西方へと動き、現在のモンゴル語族話者人口集団の差異内に収まります(図2A)。以下は本論文の図2です。
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 外群としてアフリカ中央部の現在のムブティ人での外群f3統計を用いて、NRG鮮卑クラスタと世界規模の人口集団との間の遺伝的類似性へのさらなる調査が実行されました。本論文は、NRGの主要なクラスタ(NRG_鮮卑_1750年前)が、アジア北東部の古代人集団と最高水準のアレル共有を示すことに気づきました。これらの集団には、AR_鮮卑_1850年前、AR_LN、柔然_1400年前、WLR_BA_oが含まれ、その全てが同等のANA関連祖先系統を有しています(図2B)。

 次に、qpAdm を用いて、NRG_鮮卑_1750年前のあり得る祖先系統構成要素がモデル化されました。その結果、NRG_鮮卑_1750年前は、AR_鮮卑_1850年前やAR_LNなどの単一の供給源として古代の遊牧民人口集団を用いると、さまざまな1方向モデルで適切にモデル化できる(p値0.05超)、と分かりました。一方の供給源としてAR_鮮卑_1850年前、もう一方の供給源として他のあり得るユーラシア人口集団を用いることにより、2方向モデルも試み続けられました。一部のモデルは適切なp値(0.05超)を示しましたが、第二の祖先系統について観察された祖先系統の割合は、標準誤差より明らかに小さくかったものの、そうした観察は、中国北部のNRG_鮮卑_1750年前集団がAR_鮮卑_1850年前とAR_LN、および大興安嶺周辺のアムール川流域の他の個体群と強い遺伝的類似性を共有する、と示すPCAと一致します。これらの調査結果から、鮮卑の起源はこの地域である可能性が高い、と示唆され、大興安嶺仮説へのさらなる裏づけを提供します。


●NRG鮮卑人口集団における遺伝的混合

 主要クラスタとは別に、NRG集団内の遺伝的な外れ値2個体も確認されました。PCAの結果から、これら2個体はそれぞれ、ユーラシア西部人およびアムール川のさらに南方の他のアジア東部個体群と微妙な遺伝的類似性を示した、と明らかになりました。これは、図2Aで示されているように、NRG鮮卑個体群への周辺地域からの遺伝子流動の可能性を示唆します。これらの人口移動と遺伝的混合をより詳しく調べるため、f4形式(NRG_鮮卑_o1/ NRG_鮮卑_o2、NRG_鮮卑_1750年前:X、ムブティ人)のf4統計がまず採用されました。NRG_鮮卑_o1に関しては、PCA分析の結果と一致して、台湾の漢本(Hanben)人口集団(台湾_漢本)、福建省の亮島(Liangdao)遺跡の個体(亮島2号)、モンゴルの漢帝国の兵士2個体(漢_2200年前)など、多くのアジア東部南方人が、正のf4統計値を示した、と観察されます(図3A)。これらの結果から、NRG_鮮卑_1750年前と比較して、NRG_鮮卑_o1はアジア東部南方人口集団と関連する追加の祖先系統を有している、と示唆されます。

 PCA分析での位置と一致するNRG_鮮卑_o2に関しては、f4統計は、NRG_鮮卑_o2と、球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)個体群や、アラクル・リサコスフスキー(Alakul Lisakovskiy)遺跡の中期~後期青銅器時代(Middle to Late Bronze Age、略してMLBA)個体群(リサコスフスキー_アラクル_MLBA)や、ルークプンド(Rookpund)遺跡個体群(ルークプンド_B)など、古代のユーラシア西部およびアジア中央部人口集団との間で共有されるアレルの増加を推定しました。これらの調査結果から、主要クラスタとの比較において、ユーラシア西部もしくは隣接するユーラシア草原地帯からの追加の遺伝子流動が、鮮卑人口集団、とくにNRG_鮮卑_o2の事例ではその遺伝的構成に寄与した、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
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 これら遺伝的な外れ値2個体について、あり得る祖先系統供給源と混合割合のより詳細な理解を得るため、qpAdm手法を用いてこの2個体がモデル化されました。一方の代理供給源としてNRG_鮮卑_1750年前が、他の供給源としてユーラシア全域の関連するかもしれない古代の22人口集団が選択されました。全体的にqpAdmの結果から、これら外れ値2個体は、鮮卑とおもに関連する祖先系統と、周辺人口集団との微妙な遺伝的混合として説明できる、と論証されました。

 具体的には、NRG_鮮卑_o2はNRG_鮮卑_1750年前(77.4~86.1%)と、後期匈奴_サルマティア(Sarmatian)文化(18.3±6.7%)や初期匈奴_西方(22.6±9%)やシンタシュタ(Sintashta)文化_MLBA(13.9±5.3%)やバクトリア・ マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)関連個体群(15.9±5.6%)など、モンゴル高原およびアジア中央部の複数の人口集団での2方向混合モデルによく適合しました(図4)。NRG_鮮卑_o2と同様に、NRG_鮮卑_o1も、その祖先系統の大半はNRG_鮮卑_1750年前(86.1%)に由来し、祖先系統の残りは、13.9%のYR_後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)により適切に特徴づけられ(図4)、f4統計の結果と一致します。以下は本論文の図4です。
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 要するに、包括的な分析は一貫して、NRG鮮卑の遺伝的外れ値2個体におけるアジア中央部とアジア東部南方の両方からの、重要ではあるものの微妙な寄与の存在を示しました。これらの調査結果から、NRGの期間に鮮卑と周辺人口集団との間でじっさいに遺伝的混合があった、と示唆されます。重要なことに、これらの結果は考古学的発見および歴史的記録と一致しており、この期間のこの地域における複雑な人口集団の相互作用および移動との見解への、さらなる裏づけを提供します。


●初期鮮卑時代以降の中原からの遺伝的混合の増加

 大興安嶺山脈近くの最初の故地からの南方への移動に続いて、鮮卑の最も影響力の強い派閥の一つである拓跋氏族は、現在の内モンゴル自治区中央部に位置する北魏王朝を386年に樹立しました。最終的に、拓跋氏族は現在の中華人民共和国山西省大同市に相当する、平城(Pingcheng)市に定住しました。平城市における北魏支配期の5世紀には、鮮卑と古代中国人との間の一連の顕著な文化的相互作用がありました。この期間に、鮮卑は経済慣行や文化的特徴や葬儀慣習の観点がかなりの変化を経ました。これらの相互作用と変容は、鮮卑の人々の歴史、およびより広範な中国文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】との相互作用において重要な期間を示しました。

 5世紀【6世紀の間違いと思われます】半ばにおける北魏王朝の崩壊に続いて、中国北部は、室韋やモンゴル帝国など、さまざまな歴史的に記録されている遊牧民勢力の興亡があった地域であり続けました。この期間に、定住農耕人口集団と遊牧民部族との間で商品や技術や思想が好感され、それは人々の移動に広範な影響を及ぼしました。これらの重要な変化とその遺伝的影響を理解するため、平城期にさかのぼる以前に刊行された鮮卑のゲノム(QL11_鮮卑_1600年前)が、中国北部の鮮卑後の遊牧民個体群(GG3_室韋_1200年前、YK15_モンゴル_700年前)とともに再分析されました。

 まず、単一個体(QL11_鮮卑_1600年前)は初期鮮卑人口集団(NRG個体群やAR_鮮卑_1850年前など)と顕著に異なる遺伝的特性を示し、中原の古代黄河農耕民により形成されるクラスタへと収まる、と観察され、中原の古代農耕共同体からの祖先系統流入の増加が示唆されます(図2A)。中原の古代中国農耕共同体との強い類似性は外群f3統計によっても反映されており、QL11_鮮卑_1600年前は、現在のミャオ人(Miao)やシェ人(She)などアジア東部南方人や、中国の古代の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)の内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡個体(廟子溝_MN)やYR_LBIAやYR_LNと最も多くの遺伝的類似性を共有していました。直接的な1方向qpAdmモデルも、中原の古代農耕民が代理供給源として選択されると、有効な適合をもたらしました(図4)。

 しかし、QL11_鮮卑_1600年前と比較すると、モンゴル東部の単一の室韋個体(GG3_室韋_1200年前)は、大きく異なる遺伝的特性を示し、PCA図ではNRG_鮮卑_1750年前およびAR_鮮卑_1850年前とともにクラスタ化し(図2A)、強いアジア東部北方の遺伝的類似性を示唆します。f4形式のf4統計(GG3_室韋_1200年前、NRG_鮮卑_1750年前;X、ムブティ人)から、この単一個体【GG3_室韋_1200年前】は主要なNRG集団とクレードを形成し、さらにqpAdm分析も、GG3_室韋_1200年前はNRG_鮮卑_1750年前を用いて単一の供給源としてモデル化に成功できることを示唆した、と示されました(図4)。中国北部におけるモンゴル文化と関連するより新しいYK15_モンゴル_700年前の1個体は、以前の室韋個体群との鋭い不連続性を示し、PCAではQL11_鮮卑_1600年前および中原のYR_LBIAにより形成されるクラスタ内に収まり、qpAdmで代理供給源としてYR_LBIAを用いて、1方向混合としてモデル化でき(図4)、QL11_鮮卑_1600年前により記録されている、鮮卑後期以降の中原からの強く連続的な遺伝的影響を示唆しています。


●考察

 ユーラシア東部草原地帯における鮮卑の重要性は歴史的記録により証明されてきており、とくに中国北部に帝国を樹立した最初の遊牧民連合として、鮮卑は最盛期には、中国北部のほぼ全域と広大なモンゴル高原を支配しました。しかし、鮮卑の遺伝的起源および周辺人口集団との関係は謎めいたままです。本論文は、内モンゴル自治区の鮮卑初期にさかのぼる鮮卑の9個体の新たなゲノムデータを提示し、このデータを以前に刊行されたユーラシアの古代ゲノムと組み合わせ、鮮卑の前後の年代の人口集団を含むデータセットが組み立てられました。この新たな研究を通じて、鮮卑の遺伝的起源が追跡され、その遺伝的構造が特徴づけられ、より重要なことに、鮮卑の南方への移動期における在来人口集団との遺伝的交換や、遊牧民部族から定住農耕民への変容期における文化的同化と遺伝的交換との間の相互作用が理解されました。

 第一に、鮮卑の人々の起源は、研究者の間で不確実性の話題となってきました。鮮卑の人々は、今ではアムール川地域の大興安嶺山脈と特定されている「大鮮卑山」起源だった、と示唆した研究者もいます。一方で、他の研究者は、中国の東部もしくは北部の人口集団が鮮卑の祖先だった、と仮定しました。以前のゲノム研究から、中国北東部のフルンボイルの1850年前頃にさかのぼる初期鮮卑個体群は、アムール川地域の新石器時代狩猟採集民の均質な遺伝的特性を共有していた、と示されています(Ning et al., 2020)。本論文でも、鮮卑人口集団はAR_鮮卑_1850年前およびアムール川地域の大興安嶺山脈周辺の新石器時代のそれ以前の人口集団と最も密接な遺伝的つながりを示す、と示唆されました。これらの観察は、ひじょうに均質な父系とも一致しました。したがって、本論文の遺伝学的結果は、他の仮説ではなく、以前に提案された大興安嶺仮説とより適した一致を示します。

 第二に、中国の歴史家により証明されているように、鮮卑は複数回南方へ移動し、最終的には漢人【という分類を千年紀前半に用いてよいのか、疑問は残りますが】社会の近くに定住しました。この長い移住の過程において、鮮卑はユーラシア草原地帯と定住漢人の両方からの文化的影響を吸収しました。鮮卑は周辺地域のさまざまな人口集団も統合し、最終的には強力な遊牧民連合を形成しました。しかし、鮮卑とその隣人との間の遺伝的相互作用は、おもに古代ゲノムデータの直接的証拠の不足のため、不明なままでした。本論文では、鮮卑と時系列のデータを組み合わせることにより、事例としてNRGを用いて、鮮卑の南方への移動中に、主要なNRG集団はそれ以前の鮮卑個体群と類似した遺伝的特性を示すものの、近隣地域からの遺伝的影響が現れ始めていた、と論証されます。

 NRG鮮卑において周辺地域から少量の遺伝子流動を受け取った遺伝的外れ値2個体はおそらく、鮮卑と南方の農耕人口集団やモンゴル高原の牧畜民との間の相互作用から生じました。さらに、鮮卑個体群におけるmtHgの高度な多様性とは対照的に、その父系は比較的均一だった、と観察されました。鮮卑の男性はその移動期に異なる母系人口集団と通婚した、と本論文は推測します。考古学的証拠から、鮮卑は早ければ1世紀には周辺地域と文化的および経済的交流があった、と示されます。たとえば、中原に特徴的な漆器類や青銅鏡や土器が、フルンボイルの鮮卑墓地で頻繁に発掘されました。さらに、鮮卑のシカの飾り板は、匈奴の動物芸術伝統に刺激を受けたかもしれず、NRGで発見された漢帝国の五銖銭は、鮮卑と漢人との間の広範な文化的相互作用を示唆します。しかし、漢人からの顕著な文化的影響にも関わらず、初期鮮卑個体群への【漢人からの】遺伝的寄与は低い割合でしか見つかりませんでした。これは、鮮卑の歴史の初期段階において、周辺の文化からの影響がおもに着想の拡大に起因していることを示唆しています。

 最後に、初期鮮卑人口集団とは対照的に、1600年前頃の鮮卑の1個体(QL11_鮮卑_1600年前)は遺伝的に、後期新石器時代の龍山(Longshan)文化までに形成された黄河流域遺伝子プールや河南省の青銅器時代から鉄器時代にさかのぼる個体群に分類され、とくに鮮卑が中国北部に定住した後の、南方の農耕人口集団からの直接的な移住が明らかになります。この南方からの移民は、南方の文明と北方の遊牧民である鮮卑との間の広範な文化的つながりを記録する歴史的文献も裏づけます。386年に、鮮卑の最も強力な氏族の一つである拓跋氏族は北魏王朝を樹立し、平城(現在の中華人民共和国山西省大同市)を首都としました。鮮卑の皇帝は自らを伝統的な中国王朝の最高支配者の最高権威の称号である「天子(Son of Heaven)」と宣言し、均田制(equal field system)や中国式の官僚制と法律と金融制度など、さまざまな中国式の政治制度を導入しました。

 494年に、孝文帝(Emperor Xiaowen)は平城の貴族や役人や住民のほとんどを新たな首都である洛陽【現在の行政区分では中華人民共和国河南省】へと移住させ、拓跋貴族に中国式の姓を名乗り、中国語を話し、中国式の服を着て中国の貴族と結婚し、中国の慣習および儀式に従うよう、命じました。これは、初期鮮卑が主食として動物性タンパク質を消費し、雑穀消費はわずかだった、鮮卑の安定同位体分析と一致します。しかし鮮卑後期には、雑穀農耕が急速に発展し、おそらくは漢人の経済と文化の影響のため、鮮卑にとって最重要の経済活動の一つになりました。本論文の結果から、文化的慣習と食性習慣における変化とともに、鮮卑は南方の農耕文明からの移民も受け入れ始めた、と示されます。


●まとめ

 本論文は、アムール川地域内の大興安嶺山脈に鮮卑の人々の起源があることを裏づける、説得力のある証拠を提供します。この証拠は、以前に提案された「山戎」もしくは「東夷」起源仮説と矛盾します。さらに、本論文では、鮮卑は初期の南方への移動期に、外部人口集団との遺伝的相互作用は限定的だった、と示唆されます。それにも関わらず、鮮卑が中国北部で定住を確立するにつれて、中原の漢人集団からのかなりの遺伝的影響が検出されました。とくに中国北部における定住後に、鮮卑の遺伝的構成は古代漢人と次第に類似してきました。この観察から、鮮卑は漢人集団と顕著な文化的および遺伝的混合を経た、と示唆されます。父系継承となるY染色体における低い多様性と、母系継承となるmtDNAにおける高い多様性も観察され、これは父方居住の結婚パターンを示唆しているかもしれません。しかし、本論文の分析は鮮卑のゲノムの限定的な数に基づいていることを認識する必要があります。鮮卑人口集団からの追加のデータの取得は、鮮卑社会の理解に大きく貢献するでしょう。


参考文献:
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Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.
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Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
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Ning C. et al.(2021): Ancient genome analyses shed light on kinship organization and mating practice of Late Neolithic society in China. iScience, 24, 11, 103352.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2021.103352
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