新石器時代における黄河流域からの農耕民の移住
取り上げるのが遅れてしまいましたが、新石器時代における黄河流域からの農耕民の移住に関する研究の解説(Bellwood., 2024)が公表されました。本論文はおもに、中国南西部の後期新石器時代遺跡の人類のゲノムデータを報告した研究(Tao et al., 2023)の解説で、考古学と言語学の研究成果も取り上げています。本論文の著者は、『農耕起源の人類史』(京都大学学術出版会、2008年)の著者でもあるピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)氏です。同書はほぼ拾い読みしかしていないので、当ブログでもまだ取り上げていませんが、データはすでに古くなっているとはいえ、得るところは多々ありそうなので、一度時間を作ってじっくり読む必要があります。
●要約
シナ・チベット語族とその話者の黄河の故地からの移動は、6000年間以上アジア東部においてヒトに影響を及ぼしてきました。中国南西部の古代DNAの新たな研究は、この移動史の重要な構成要素を明らかにします。
●解説
1万年前頃、最終氷期から完新世の温暖な気候条件に移行すると、中国の黄河および長江に暮らしていた人口集団は食料生産を始めました。黄河中流および下流の黄土(氷河風で運ばれます)の土壌で、人々はキビおよびアワの栽培化やブタの家畜化に注力しました。長江峡谷の下流である長江中流および下流の沖積湿地では、人々はイネの短粒のジャポニカ種(その植物名に関わらず、日本ではなく中国で最初に栽培化されました)の耕作に注力しました。8000年前頃までに、中国の雑穀とイネはその成長と成熟の周期へのヒトの介入を通じてますます栽培化されていき、人々は季節的に移動する狩猟および採集から恒久的な村への定住に変わりつつありました。
したがって、アジア東部新石器時代は、アジア南西部の肥沃な三日月地帯の新石器時代よりわずかに新しいだけでした。肥沃な三日月地帯のように、アジア東部の人口はその食料生産技術の結果として増加し始めました。言語学者と考古学者と遺伝学者が、ゲノム(古代と現代)と考古学的文化と関連する語族の比較により経時的に追跡しようと試みているひじょうに大きな人口集団の実態のいくつかの移住を通じて、最終的なアジア東部およびインド太平洋に出現するための舞台が整いました。
本誌(Current Biology)の最新号では、複数の遺伝学者とその同僚が中国南西部の四川省と雲南省への新石器時代の雑穀およびイネ農耕民の移動の追跡を試みました(Tao et al., 2023)。こうした人々はどこが起源だったのでしょうか?Tao et al., 2023は、北方約500~1000kmに位置する黄河流域の仰韶(Yangshao)文化(6500~5000年前頃)の雑穀栽培と養豚を行なっていた新石器時代共同体で調査した、少なくとも2つの考古学的人口集団について遺伝的供給源を示唆する、考古学的骨格から古代DNAを分析しました。
この話は、考古学とDNAだけではありません。黄河はシナ・チベット語族として知られている、世界の主要語族の一つの起源地域でもありました(図1)。この語族にはシナ語派とチベット・ビルマ語派の両方が含まれます。シナ語派とは、官話(Mandarin)と広東語(Cantonese)を含めての中国語です。チベット・ビルマ語派は、チベット高原や、ラダック(Ladakh)からアッサムまでのヒマラヤ山麓南部や、アジア南東部本土西部、とくにミャンマーとタイ西部に広がっています。再構築された系統発生史を通じて、シナ・チベット語族は世界の先史時代における最大の完新世のヒト拡散の一つを記録しています(Sagart et al., 2019、Zhang et al., 2019)。以下は本論文の図1です。
そうした重要な拡散がどのように展開したのか、理解を助けるため、Tao et al., 2023は2ヶ所の遺跡から発掘された11個体の骨格から古代DNAを分析しました。一方は4500年前頃の新石器時代集落である高山(Gaoshan)遺跡で、四川省の長江上流の成都平原の西端に位置しています。もう一方は3000年前頃の青銅器時代集落である海門口(Haimenkou)遺跡で、さらに南西の、ミャンマー北部に近い雲南省南西部に位置しています(図1)。両集落では、キビおよびアワといった雑穀やイネの遺骸が見つかりました。しかし、両集落ともそれぞれ、黄河と長江の中流および下流における雑穀とイネの栽培化の起源地からずっと遠くに位置していました。これらの作物と、それを最初に育てた新石器時代農耕民は、どのように現在の四川省と雲南省に到達したのでしょうか?
Tao et al., 2023は、高山および海門口の両遺跡の個体群のかなり顕著な90%の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、黄河新石器時代農耕民、とくに、6500~5000年前頃に黄河の中流沿いに存在した仰韶文化の個体群に由来することをを発見しました。これは完全に予想外ではなく、なぜならば、他の最近の考古学およびDNA研究がすでに、黄河かにチベットおよび中国南西部への新石器時代の移動を示していたからです(Liu et al., 2022)。高山および海門口遺跡個体群の遺伝的祖先系統の他の10%は、移住してきた農耕民のより大きな人口集団へと明らかに遺伝的に組み込まれた、在来の新石器時代前の狩猟採集民に由来しました。
おもな驚きは、Tao et al., 2023では、これら2ヶ所の遺跡【高山および海門口】において、中国南東部もしくはアジア南東部における古代DNAを通じて、検証された新石器時代のイネ栽培人口集団の遺伝的祖先系統の痕跡が見つからなかったことです。したがって、Tao et al., 2023は、これらの遺跡で栽培されたジャポニカ種のイネは、遺伝的相互作用なしの文化的導入(もしくは「文化拡散」)だった、と結論づけました。しかし、Tao et al., 2023は、文化的拡散モデルが、2ヶ所の遺跡のみからり古代DNAに基づいて決定的に論証できないことも認めています。
理由の一つは、Tao et al., 2023が、雲南省の一部の現代のチベット・ビルマ語派話者人口集団が、ベトナムの4000~3000年前頃となる新石器時代人口集団(Lipson et al., 2018)と遺伝的祖先系統の最大で30~50%を共有していることも見つけたからです。現在、ベトナム北部にはチベット・ビルマ語派話者のいくつかの小規模で地理的に周縁部の集団が存在しますが、ほとんどの在来のベトナム北部人はクラ・ダイ語族(タイ・カダイ語族)もしくはオーストロアジア語族の言語を話し、オーストロアジア語族言語話者には現代のベトナム人が含まれます。
いくつかのクラ・ダイ語族およびオーストロアジア語族の言語は、高山および海門口遺跡個体群の古代DNAにおけるラ・ダイ語族もしくはオーストロアジア語族話者との遺伝的つながりの欠如にも関わらず、現在雲南省でも話されています。これらの観察から、この2ヶ所の遺跡【高山および海門口】で調べられた古代DNAは、四川省と雲南省の先史時代について知りたいこと全てを語るのに充分ではないかもしれない、と示唆されます。一歩下がって、学際的な観点からより広い背景を検討しなければなりません。
民族言語学的観点では、現在の四川省と雲南省の人々はほぼ漢人で、その祖先は中国中央部から過去2000問間にいくつかの歴史的に記録されている移民の波で到来しました。その明白な黄河のDNA起源によると、高山および海門口遺跡のそれ以前の人々もシナ・チベット語族言語を話していた可能性が高そうですが、それはチベット・ビルマ語派内に属し、黄河のより近くで発達した祖先の中国語(シナ語派)とはかなり離れています。クラ・ダイ語族およびオーストロアジア語族を話す雲南省の稲作農耕民の祖先については、中国南西部にいつ最初に到来したのでしょうか?現在の遺伝学的証拠はこれをはっきりとは明らかにしていませんが、最近の考古学および言語学の分析は、確かにいくつかの示唆に富むデータに貢献します。
まず考古学については、雲南省には海門口遺跡の新石器時代層(つまり、海門口遺跡の古代DNA標本に先行します)を含めていくつかの遺跡があり、この層には考古学者により「刻み目および刻印」と呼ばれている装飾の特定の様式を伴う新石器時代土器があります。そうした装飾は、中国南東部やタイやベトナムの多くの新石器時代遺跡の典型で、そうした遺跡にはジャポニカ種のイネが含まれ、年代は5000年前頃以後です。現在、クラ・ダイ語族とオーストロアジア語族の両方が稲作農耕民により話されている、地域があります。この状況から、これら2語族【クラ・ダイ語族とオーストロアジア語族】の稲作栽培者は、その遺伝的祖先系統が高山もしくは海門口遺跡で見つからなかったとしても、少なくとも南方もしくは南東から雲南省に到達したかもしれない(図1)、と示唆されます。
では、高山および海門口遺跡の古代人のDNA特性について検証された人々は、どのようにそのジャポニカ種のイネを入手したのでしょうか?高山および海門口遺跡の古代DNAの痕跡の現時点での欠如により示唆されるように、文化的拡散のみだったのでしょうか?二番目の考古学的観察に戻りましょう。高山および海門口遺跡の人々の遺伝的祖先である黄河流域の仰韶文化の人々は、おもに雑穀を栽培し、家畜化されたブタを飼っていました。しかし、考古学的記録から、仰韶文化の人々の多くは、長江と黄河の間で初期新石器時代に、高山および海門口遺跡の居住の前となる6000年前頃に最初に広がっていたイネも栽培していた、と明らかになっています。黄河の近くに留まったそのような仰韶文化の人々は、最終的には歴史上の漢人になりました。
6000年前頃以後に、雑穀農耕およびチベット諸語とともにチベット高原へと移動した人々もいました。少し後には、四川省の成都平原、および高山遺跡の北方約150kmに位置する新石器時代の営盤山(Yingpanshan)遺跡へと南方に移動した人々もいました。黄河から四川省へのこれら初期移民も、雑穀やジャポニカ種のイネをもたらし、恐らく最初は営盤山遺跡(イネが見られません)ではなかったものの、4500年前頃までには確実に、イネ遺骸が見られる雲南省の高山および他の同時代の遺跡にもたらした、という可能性がひじょうに高そうです。これは、高山および海門口遺跡で見つかった最古のイネについて、中国南東部起源の代わりに、むしろ遠回りの黄河を示唆しています(図1)。これまでのところ遺伝学や考古学や言語学で、長江のかなり険しい三峡谷自体を通っての、イネ栽培者の上流への大きな移動について、明確な兆候はありません。
しかし上述のように、ジャポニカ種のイネは黄河経由だけではなく、中国南部およびアジア南東部北方の起源地からも四川省と雲南省に、とくにクラ・ダイ語族およびオーストロアジア語族話者人口集団が、高山もしくは海門口遺跡に定住していなかったとしても、これらの地域への移動とともに到来していたに違いありません。最近の言語学的研究は、クラ・ダイ語族の起源地を、中国南東部沿岸、とくに広東省と広西チワン族自治区にたどっており、この拡大は4000年前頃に始まりました。したがって、恐らく稲作農耕は四川省と雲南省に少なくとも2回、別々の方向から、別々の時期に、別の言語人口集団とともに到来しました。古代DNA研究はこれを明確には論証していませんが、考古学と言語学の研究は両方とも、全体的な状況についてひじょうに示唆的な手がかりを提供します。Tao et al., 2023を含めて、アジア東部の地元の学者の行動力のおかげで、現在「中国」と呼ばれているアジアの地域の民族模様を理解するための研究が本格的に始まりました。
参考文献:
Bellwood P.(2024): Archaeogenetics: Tracing ancient migrations from the Yellow River. Current Biology, 34, 1, R18–R20.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.11.024
Lipson M. et al.(2018): Ancient genomes document multiple waves of migration in Southeast Asian prehistory. Science, 361, 6397, 92–95.
https://doi.org/10.1126/science.aat3188
関連記事
Liu CC. et al.(2022): Ancient genomes from the Himalayas illuminate the genetic history of Tibetans and their Tibeto-Burman speaking neighbors. Nature Communications, 13, 1203.
https://doi.org/10.1038/s41467-022-28827-2
関連記事
Sagart L. et al.(2019): Dated language phylogenies shed light on the ancestry of Sino-Tibetan. PNAS, 116, 21, 10317–10322.
https://doi.org/10.1073/pnas.1817972116
関連記事
Tao L. et al.(2023): Ancient genomes reveal millet farming-related demic diffusion from the Yellow River into southwest China. Current Biology, 33, 22, 4995–5002.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.09.055
関連記事
Zhang M. et al.(2019): Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic. Nature, 569, 7754, 112–115.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1153-z
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●要約
シナ・チベット語族とその話者の黄河の故地からの移動は、6000年間以上アジア東部においてヒトに影響を及ぼしてきました。中国南西部の古代DNAの新たな研究は、この移動史の重要な構成要素を明らかにします。
●解説
1万年前頃、最終氷期から完新世の温暖な気候条件に移行すると、中国の黄河および長江に暮らしていた人口集団は食料生産を始めました。黄河中流および下流の黄土(氷河風で運ばれます)の土壌で、人々はキビおよびアワの栽培化やブタの家畜化に注力しました。長江峡谷の下流である長江中流および下流の沖積湿地では、人々はイネの短粒のジャポニカ種(その植物名に関わらず、日本ではなく中国で最初に栽培化されました)の耕作に注力しました。8000年前頃までに、中国の雑穀とイネはその成長と成熟の周期へのヒトの介入を通じてますます栽培化されていき、人々は季節的に移動する狩猟および採集から恒久的な村への定住に変わりつつありました。
したがって、アジア東部新石器時代は、アジア南西部の肥沃な三日月地帯の新石器時代よりわずかに新しいだけでした。肥沃な三日月地帯のように、アジア東部の人口はその食料生産技術の結果として増加し始めました。言語学者と考古学者と遺伝学者が、ゲノム(古代と現代)と考古学的文化と関連する語族の比較により経時的に追跡しようと試みているひじょうに大きな人口集団の実態のいくつかの移住を通じて、最終的なアジア東部およびインド太平洋に出現するための舞台が整いました。
本誌(Current Biology)の最新号では、複数の遺伝学者とその同僚が中国南西部の四川省と雲南省への新石器時代の雑穀およびイネ農耕民の移動の追跡を試みました(Tao et al., 2023)。こうした人々はどこが起源だったのでしょうか?Tao et al., 2023は、北方約500~1000kmに位置する黄河流域の仰韶(Yangshao)文化(6500~5000年前頃)の雑穀栽培と養豚を行なっていた新石器時代共同体で調査した、少なくとも2つの考古学的人口集団について遺伝的供給源を示唆する、考古学的骨格から古代DNAを分析しました。
この話は、考古学とDNAだけではありません。黄河はシナ・チベット語族として知られている、世界の主要語族の一つの起源地域でもありました(図1)。この語族にはシナ語派とチベット・ビルマ語派の両方が含まれます。シナ語派とは、官話(Mandarin)と広東語(Cantonese)を含めての中国語です。チベット・ビルマ語派は、チベット高原や、ラダック(Ladakh)からアッサムまでのヒマラヤ山麓南部や、アジア南東部本土西部、とくにミャンマーとタイ西部に広がっています。再構築された系統発生史を通じて、シナ・チベット語族は世界の先史時代における最大の完新世のヒト拡散の一つを記録しています(Sagart et al., 2019、Zhang et al., 2019)。以下は本論文の図1です。
そうした重要な拡散がどのように展開したのか、理解を助けるため、Tao et al., 2023は2ヶ所の遺跡から発掘された11個体の骨格から古代DNAを分析しました。一方は4500年前頃の新石器時代集落である高山(Gaoshan)遺跡で、四川省の長江上流の成都平原の西端に位置しています。もう一方は3000年前頃の青銅器時代集落である海門口(Haimenkou)遺跡で、さらに南西の、ミャンマー北部に近い雲南省南西部に位置しています(図1)。両集落では、キビおよびアワといった雑穀やイネの遺骸が見つかりました。しかし、両集落ともそれぞれ、黄河と長江の中流および下流における雑穀とイネの栽培化の起源地からずっと遠くに位置していました。これらの作物と、それを最初に育てた新石器時代農耕民は、どのように現在の四川省と雲南省に到達したのでしょうか?
Tao et al., 2023は、高山および海門口の両遺跡の個体群のかなり顕著な90%の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、黄河新石器時代農耕民、とくに、6500~5000年前頃に黄河の中流沿いに存在した仰韶文化の個体群に由来することをを発見しました。これは完全に予想外ではなく、なぜならば、他の最近の考古学およびDNA研究がすでに、黄河かにチベットおよび中国南西部への新石器時代の移動を示していたからです(Liu et al., 2022)。高山および海門口遺跡個体群の遺伝的祖先系統の他の10%は、移住してきた農耕民のより大きな人口集団へと明らかに遺伝的に組み込まれた、在来の新石器時代前の狩猟採集民に由来しました。
おもな驚きは、Tao et al., 2023では、これら2ヶ所の遺跡【高山および海門口】において、中国南東部もしくはアジア南東部における古代DNAを通じて、検証された新石器時代のイネ栽培人口集団の遺伝的祖先系統の痕跡が見つからなかったことです。したがって、Tao et al., 2023は、これらの遺跡で栽培されたジャポニカ種のイネは、遺伝的相互作用なしの文化的導入(もしくは「文化拡散」)だった、と結論づけました。しかし、Tao et al., 2023は、文化的拡散モデルが、2ヶ所の遺跡のみからり古代DNAに基づいて決定的に論証できないことも認めています。
理由の一つは、Tao et al., 2023が、雲南省の一部の現代のチベット・ビルマ語派話者人口集団が、ベトナムの4000~3000年前頃となる新石器時代人口集団(Lipson et al., 2018)と遺伝的祖先系統の最大で30~50%を共有していることも見つけたからです。現在、ベトナム北部にはチベット・ビルマ語派話者のいくつかの小規模で地理的に周縁部の集団が存在しますが、ほとんどの在来のベトナム北部人はクラ・ダイ語族(タイ・カダイ語族)もしくはオーストロアジア語族の言語を話し、オーストロアジア語族言語話者には現代のベトナム人が含まれます。
いくつかのクラ・ダイ語族およびオーストロアジア語族の言語は、高山および海門口遺跡個体群の古代DNAにおけるラ・ダイ語族もしくはオーストロアジア語族話者との遺伝的つながりの欠如にも関わらず、現在雲南省でも話されています。これらの観察から、この2ヶ所の遺跡【高山および海門口】で調べられた古代DNAは、四川省と雲南省の先史時代について知りたいこと全てを語るのに充分ではないかもしれない、と示唆されます。一歩下がって、学際的な観点からより広い背景を検討しなければなりません。
民族言語学的観点では、現在の四川省と雲南省の人々はほぼ漢人で、その祖先は中国中央部から過去2000問間にいくつかの歴史的に記録されている移民の波で到来しました。その明白な黄河のDNA起源によると、高山および海門口遺跡のそれ以前の人々もシナ・チベット語族言語を話していた可能性が高そうですが、それはチベット・ビルマ語派内に属し、黄河のより近くで発達した祖先の中国語(シナ語派)とはかなり離れています。クラ・ダイ語族およびオーストロアジア語族を話す雲南省の稲作農耕民の祖先については、中国南西部にいつ最初に到来したのでしょうか?現在の遺伝学的証拠はこれをはっきりとは明らかにしていませんが、最近の考古学および言語学の分析は、確かにいくつかの示唆に富むデータに貢献します。
まず考古学については、雲南省には海門口遺跡の新石器時代層(つまり、海門口遺跡の古代DNA標本に先行します)を含めていくつかの遺跡があり、この層には考古学者により「刻み目および刻印」と呼ばれている装飾の特定の様式を伴う新石器時代土器があります。そうした装飾は、中国南東部やタイやベトナムの多くの新石器時代遺跡の典型で、そうした遺跡にはジャポニカ種のイネが含まれ、年代は5000年前頃以後です。現在、クラ・ダイ語族とオーストロアジア語族の両方が稲作農耕民により話されている、地域があります。この状況から、これら2語族【クラ・ダイ語族とオーストロアジア語族】の稲作栽培者は、その遺伝的祖先系統が高山もしくは海門口遺跡で見つからなかったとしても、少なくとも南方もしくは南東から雲南省に到達したかもしれない(図1)、と示唆されます。
では、高山および海門口遺跡の古代人のDNA特性について検証された人々は、どのようにそのジャポニカ種のイネを入手したのでしょうか?高山および海門口遺跡の古代DNAの痕跡の現時点での欠如により示唆されるように、文化的拡散のみだったのでしょうか?二番目の考古学的観察に戻りましょう。高山および海門口遺跡の人々の遺伝的祖先である黄河流域の仰韶文化の人々は、おもに雑穀を栽培し、家畜化されたブタを飼っていました。しかし、考古学的記録から、仰韶文化の人々の多くは、長江と黄河の間で初期新石器時代に、高山および海門口遺跡の居住の前となる6000年前頃に最初に広がっていたイネも栽培していた、と明らかになっています。黄河の近くに留まったそのような仰韶文化の人々は、最終的には歴史上の漢人になりました。
6000年前頃以後に、雑穀農耕およびチベット諸語とともにチベット高原へと移動した人々もいました。少し後には、四川省の成都平原、および高山遺跡の北方約150kmに位置する新石器時代の営盤山(Yingpanshan)遺跡へと南方に移動した人々もいました。黄河から四川省へのこれら初期移民も、雑穀やジャポニカ種のイネをもたらし、恐らく最初は営盤山遺跡(イネが見られません)ではなかったものの、4500年前頃までには確実に、イネ遺骸が見られる雲南省の高山および他の同時代の遺跡にもたらした、という可能性がひじょうに高そうです。これは、高山および海門口遺跡で見つかった最古のイネについて、中国南東部起源の代わりに、むしろ遠回りの黄河を示唆しています(図1)。これまでのところ遺伝学や考古学や言語学で、長江のかなり険しい三峡谷自体を通っての、イネ栽培者の上流への大きな移動について、明確な兆候はありません。
しかし上述のように、ジャポニカ種のイネは黄河経由だけではなく、中国南部およびアジア南東部北方の起源地からも四川省と雲南省に、とくにクラ・ダイ語族およびオーストロアジア語族話者人口集団が、高山もしくは海門口遺跡に定住していなかったとしても、これらの地域への移動とともに到来していたに違いありません。最近の言語学的研究は、クラ・ダイ語族の起源地を、中国南東部沿岸、とくに広東省と広西チワン族自治区にたどっており、この拡大は4000年前頃に始まりました。したがって、恐らく稲作農耕は四川省と雲南省に少なくとも2回、別々の方向から、別々の時期に、別の言語人口集団とともに到来しました。古代DNA研究はこれを明確には論証していませんが、考古学と言語学の研究は両方とも、全体的な状況についてひじょうに示唆的な手がかりを提供します。Tao et al., 2023を含めて、アジア東部の地元の学者の行動力のおかげで、現在「中国」と呼ばれているアジアの地域の民族模様を理解するための研究が本格的に始まりました。
参考文献:
Bellwood P.(2024): Archaeogenetics: Tracing ancient migrations from the Yellow River. Current Biology, 34, 1, R18–R20.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.11.024
Lipson M. et al.(2018): Ancient genomes document multiple waves of migration in Southeast Asian prehistory. Science, 361, 6397, 92–95.
https://doi.org/10.1126/science.aat3188
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Liu CC. et al.(2022): Ancient genomes from the Himalayas illuminate the genetic history of Tibetans and their Tibeto-Burman speaking neighbors. Nature Communications, 13, 1203.
https://doi.org/10.1038/s41467-022-28827-2
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Sagart L. et al.(2019): Dated language phylogenies shed light on the ancestry of Sino-Tibetan. PNAS, 116, 21, 10317–10322.
https://doi.org/10.1073/pnas.1817972116
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Tao L. et al.(2023): Ancient genomes reveal millet farming-related demic diffusion from the Yellow River into southwest China. Current Biology, 33, 22, 4995–5002.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.09.055
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https://doi.org/10.1038/s41586-019-1153-z
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