小林道彦『山県有朋 明治国家と権力』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。山県有朋の評伝は、当ブログでは伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(関連記事)と井上寿一『山県有朋と明治国家』(関連記事)を取り上げました。山県有朋は1838年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)閏4月22日、長州藩の足軽以下の身分となる蔵元付仲間である山県有稔の次男として生まれましたが、長男は早世しています。幼名は辰之助で、18歳の時に小助(子輔)、後に狂介と改めています。山県家は、公的場面意外では苗字を使用でき、帯刀も認められていましたが、武士階級では最下層です。山県有朋の母である松子も有稔と同じく仲間の出身で、山県有朋は母が5歳の時に死亡したため、父と祖母に育てられました。武士身分の周縁に位置していたことが、山県に武士らしく生きるよう強く意識させたのではないか、と本書は推測します。

 山県有朋は数え年16歳で元服し、蔵元両人所で出納関係の雑務に従事しました。当時の武士社会では、「算盤勘定」は卑賤視されていました。山県はさらに、藩校の明倫館で住み込みの雑用を務めており、明倫館は士族の師弟にしか門戸が開かれていないことに、向学心旺盛で自負心の強い山県有朋は大いに反発しただろう、と本書は推測します。山県は次に小郡代官所の打廻手小役、さらには御徒士目附の横目役に任ぜられ、横目役は、目附の配下で治安警察活動の末端を担います。蔵元付仲間は元々戦場での武具持役で、武芸を学ぶことになっており、山県有朋は武芸による立身を決意し、とくに槍術に励み、明倫館師範役の岡部半蔵に入門を許可され、23歳の頃には槍の遣い手として有名になっていたようです。山県は後年、19歳の頃には家督を甥に継承させ、自身は江戸に出て師弟を養おうと考えていたそうですが、本書はここに山県の疎外感と閉塞感を見ています。

 1858年6月、長州藩は政局把握のため吉田松陰の松下村塾の門弟を中心に青年を京都に送り込み、その中にまだ松下村塾の門人ではなかった山県が選ばれました。藩庁には、松下村塾の門弟たちへの内偵を山県に期待していたかもしれない、と本書は推測します。山県有朋は京都で高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と称された久坂玄瑞と親交を深め、久坂の推挙により1858年10月に萩に戻ったさいに松下村塾に入っています。幕府よりも朝廷への忠誠を説き、「気概」を強調するその塾風には門閥集団から侮蔑されることもありましたが、それ故に吉田松陰と門下生の結束はきわめて固かったようで、山県はこの同志的集団に自らの居場所を見出だした、と本書は推測します。尊王思想により、藩内のみならず全氏族階級を超越して、観念的には天皇と結びつくことができ、建前としての尊王には藩主でも公然とは異を唱えられなかったので、本書は尊王思想を、政治的原理とともに目的貫徹の政治的手段としても評価しています。吉田松陰は門下生に分け隔てなく接しており、山県は晩年まで吉田松陰の門弟としての立場を守りましたが、そこには政治的打算を超えた心情も含まれていたのだろう、と本書は推測します。

 吉田松陰は安政の大獄で斬首となり(1859年10月27日)、山県有朋も含めて松下村塾の門人の幕府に対する敵意は決定的なものとなりました。その後の3年間、山県は藩命により京都や薩摩や豊後などに派遣され、事実上の政情探索でしたが、山県にとっては、吉田松陰の遺志を継いで、各地で志士的連携の可能性を探る旅にもなった、と本書は指摘します。山県の活動は次第に志士的性格を強めていきますが、吉田松陰やその多くの門下生は「政治的テロル」を躊躇せず、久坂玄瑞はその最たる存在でした。ただ、久坂玄瑞と親しかった山県がそうした事件や計画に直接関与していた形跡は見当たらないそうで、それが偶然なのか、山県の慎重さを示しているのか、判断は難しいものの、そうしたテロ行為に否定的ではなかっただろう、と本書は指摘します。じっさい、1863年2月22日の足利将軍木像梟首事件を山県は「義挙」として高く評価し、首謀者への寛大な処分を求める建言書の起草もしています。本書はこの頃の山県を、思想的には尊攘過激派だったものの、その政略には当初から現実主義者としての片鱗も窺える、と評価しています。山県は1863年1月8日に、宿願だった士分に取り立てられています。

 1863年に長州藩が「攘夷」を「実行」し、山県も久坂玄瑞たちとともに、アメリカ合衆国の商船を関門海峡で砲撃しました。この危機的状況下で、下関の防御を任された高杉晋作が奇兵隊を編成しました。その隊士の多くは、階層上昇志向の強い下級武士と庶民(平百姓)でした。当時長州藩では、この奇兵隊と類似した部隊が多数編成され、「諸隊」と呼ばれていました。長州藩の尊攘過激路線の突出に脅威を抱いた孝明天皇と薩摩藩と「一会桑」により、1863年8月18日の政変により三条実美など尊攘過激派は京都から追放され、長州藩へと落ち延びます。この政変の余波により長州藩内では「俗論党(穏健派)」と「正義党(急進派)」の対立が激化し、長州藩上層部は奇兵隊を厄介視するようになります。山県は奇兵隊で総管に次ぐ軍監に任命されましたが、庶民出身の総管である赤禰武人が主張した、隊士全員の士分取り立て論には同調しなかったようです。山県は終生赤禰武人の名誉回復に反対し、それは山県にとって政治的立場の正当性とも関わっていたらかようです。奇兵隊のような「荒くれ者」集団の統率において、槍の遣い手である山県の強靭な身体能力と精神力は重要だっただろう、と本書は推測します。また本書は、山県が酒豪だったことも、奇兵隊の統率に有効だった、と指摘します。1864年7月19日の禁門の変では、山県も上洛を切願したものの許されず、下関警備を命じられました。もし山県が上洛していたならば、久坂玄瑞と同様に落命していた可能性は低くないでしょう。

 これにより、長州藩は明確な「朝敵」となって幕府と諸藩から攻められることになり(第一次長州戦争)、さらには前年の外国商船への砲撃の報復として、1864年8月、アメリカ合衆国とイギリスとフランスとオランダの連合艦隊にも砲撃を受けました。イギリスに留学していた伊藤博文と井上馨は攘夷の困難を山県に説いていましたが、山県は外国艦隊と戦うつもりで、約300人の奇兵隊の隊士も戦闘を熱狂的に支持していました。しかし、外国艦隊の砲撃は熾烈で、長州藩は砲台の破壊と外国兵の上陸を許してしまい、山県は負傷します。この時に山県を支えたのが三浦梧楼で、山県との親交は終生まで続きました。外国艦隊との戦いに敗れた長州藩は1864年8月14日に休戦協定を結び、山県も合意します。山県は西洋列強の高い軍事力を思い知ったこともありますが、高杉晋作や伊藤博文や井上馨が和平交渉の実務を担ったため、休戦協定に合意した側面もあったようで、それ以外の人物が和平交渉の担当者であれば、徹底抗戦したかもしれない、と本書は指摘します。戦いに敗れたとはいえ、最前線で戦った山県には藩主から感状が下され、隊士の山県への信望はますます厚くなり、山県は小規模とはいえ騎兵隊で確たる権力基盤を確立します。

 この敗戦で長州藩では「俗論党」が実権を掌握し、1864年10月には騎兵隊にも解散令が下されましたが、山県はこれに応じず、同年12月15日に高杉晋作が「俗論党」打倒のため挙兵すると、「俗論党」政権は崩壊します。高杉晋作は挙兵に成功し、「正義党」が実権を掌握しましたが、騎兵隊など諸隊の力が強くなりすぎたことを警戒していたようです。この時期には山県を育ててきた祖母が自殺しており、その理由は不明ですが、長州藩の内乱の中で山県家の将来を悲観したためかもしれない、と本書は推測します。「正義党」政権は幕府との軍事衝突に備えるべく本格的な軍制改革を進めましたが、それを担ったのは、西洋の軍事に関する最新の知識を有していない山県や高杉晋作ではなく、大村益次郎で、大村を抜擢したのが木戸孝允でした。大村は諸隊を正規軍に編入し、「農商兵」の本格的な徴兵を行ないます。これにより、山県にとって、門閥制度の一角を軍功により突き崩し、軍事官僚となる可能性が開けた、と本書は指摘します。長州藩では、この軍制改革と並行して薩摩藩などとの提携も図られますが、山県も諸隊も薩摩藩への反感が根強く、戦火の拡大(功名と表裏一体と言うべきでしょう)を強く志向します。1866年6月に始まった第二次長州戦争では、木戸孝允などの外交の成果もあり、薩摩藩など多くの藩が幕府の出兵命令に応じず、将軍である徳川家茂の死去もあり、同年末には幕府軍の崩壊後も単独で長州藩と戦っていた小倉藩との和議が成立します。1867年4月14日、高杉晋作が死亡し、それは山県にとって打撃となったものの、一方で政治的裁量の拡大も意味していた、と本書は指摘します。山県の名前は他藩や幕府にも知られるようになっており、勝海舟は木戸孝允や広沢真臣や伊藤博文や井上馨とともに、山県を長州藩の実力者としています。

 大政奉還から王政復古まで、大きな役割を果たしたわけではなかった山県にとって活躍の場となったのが、戊辰戦争でした。山県は黒田清隆とともに北陸道鎮撫総督(兼会津征討総督)の参謀に任じられましたが、山県と黒田の意見が合わないことは多かったようです。戊辰戦争で山県は諸藩の寄せ集めで構成される軍隊の限界を痛感しますが、漸進的改革論者で、「封建制」の廃止にも東京遷都にも慎重でした。ただ、山県は単に守旧的な人物ではなく、海外遊学を以前より望んでいて、1869年6月、西郷従道とともに日本を出立し、1年以上にわたってヨーロッパと北アメリカ大陸を訪れ、日本と西洋列強との落差に圧倒されたようです。この間、諸隊は叛乱により政治的に無力化されていきます。帰国後の山県は1870年8月28日、木戸孝允と三条実美によりに兵部少輔に起用され、上役や同輩の死去や失脚などにより、次第に中央政府の要人としての地位を確立していきます。山県は軍事至上主義の観点から「開化派」へと転身していき、要は軍強化のためには「封建制」を廃して「開明的な」政策を推進しなければならない、というわけです。山県は廃藩置県への過程で西郷隆盛との交渉を担い、その功績が認められたのか、兵部大輔に昇進します(1872年には兵部省が陸軍省と海軍省に分割されます)。順調に出世しているかに見えた山県ですが、醜聞(山城屋事件)により窮地に立たされます。この時、西郷隆盛が薩摩出身者をなだめ、山県は陸軍大輔に留まりました。1872年11月28日には徴兵令が布告されますが、武士階層の反発や醜聞もあり、山県は陸軍大輔を辞任しています。しかし、西郷隆盛や井上馨の調停によりすぐ復帰し、1873年6月には陸軍卿に任命されています。山県の徴兵構想は、識字率も踏まえて社会上層中心の小規模な編成とする漸進的なものでした。

 1873年10月の政変で西郷隆盛や板垣退助や江藤新平が下野し、西郷隆盛と板垣退助の配下の将兵も一斉に帰郷したため、陸軍は崩壊の危機に直面しました。本書は、山県がこの一連の政争から距離を置こうとしていたのではないか、と推測します。西郷隆盛たちの下野の直後、山県は陸軍卿辞任を表明し、山県を陸軍に留めるべく、政府首脳は陸軍卿辞任を認めるとともに、山県を近衛都督兼参謀局長に任命します。山県は、藩軍中心の近代軍建設を志向していた大久保利通や、陸軍省における軍人の台頭を警戒していた木戸孝允などに対して、信念である徴兵制導入と権力確保のためもあり、こうした駆け引きをしたようです。ただ、佐賀の乱を即座に鎮圧するなどした大久保利通の権力の前に、山県はなかなか抵抗できず、大久保利通が主導した台湾出兵に批判的だったにも関わらず、制止できませんでした。台湾出兵で日本が国際的にも困難な状況に置かれる中で、山県の政治的立場は急速に好転していき、参議を兼任するとともに、大久保利通も山県の構想に傾いていきます。西南戦争は一連の士族反乱の中でも群を抜いて最大住規模となり、山県は征討参軍として現地軍を指揮しました。ただ、大久保利通や伊藤博文も戦略策定に関わるなど、指揮命令系統は混乱していましたが、ある意味では柔軟だったことを本書は指摘します。西南戦争は1877年9月に終結し、西郷隆盛は自害しましたが、西郷隆盛と親しかった山県は、西郷のように同郷人中心の濃密な人間集団を配下に持つのではなく、官僚制的軍隊の建設こそ必要と確信したのだろう、と指摘します。

 西南戦争中に木戸孝允が、西南戦争の翌年(1878年)に大久保利通が相次いで死亡したことで、伊藤博文と山県と大隈重信が政治の第一線に立つことになりました。前途が開けてきたように見えた山県にとって衝撃だったのが、1878年8月23日の竹橋事件でした。竹橋事件による山県の精神的打撃は大きかったようで、陸軍卿の任務を一次は西郷従道に委ねて、療養しています。療養後の同年10月12日、山県は陸軍に「軍人訓誡」を頒布し、忠実と勇敢と服従から構成される軍人精神の三要素を抽出し、具体的な行動指針を示しました。また、西南戦争のさいに問題となった、指揮命令系統の混乱も課題となりました。1878年12月には、作戦準備を担当する軍令機関である参謀本部が山県の主導で設置されましたが、陸軍予算確保の思惑もあったのではないか、と本書は推測します。一方、ドイツから帰国した桂太郎は、軍人政治への警戒から、参謀本部の肥大化に否定的でした。参謀本部は帷幄上奏権を有しており、後に陸軍卿と陸軍大臣も帷幄上奏を行なうようになったことから、軍政と軍令の大半が内閣の確認なしに制定される問題が生じます。本書は、山県が藩閥内部の信頼関係を前提に、こうした制度を設計したのではないか、と推測します。

 陸軍の重鎮となったこの頃の山県は、軍事的には対外侵略ではなく自国防衛を重視し、そのための政治制度の整備でも知見を蓄積していきました。政治面では、山県は民心が政府から離れつつあることを率直に認めており、その要因として急進的改革と変革過程での経済的没落者の多さと法治志向の強さによる道徳や習慣の退廃を挙げています。山県が民心を得るために主張したのは国憲の確立で、つまりは憲法ですが、三権分立のために必要な議会について、急進的改革に批判的な山県は即時開設に否定的でした。山県は、議会制度の段階的発展を構想し、さらには地方制度自治への関心を高めていきます。山県の政治的見識は政府内でも認められていき、伊藤博文の1882年の海外視察中にはその留守を託されています。上述のように山県は自国防衛を重視しており、1882年の壬午事変や1884年の甲申事変など、朝鮮半島をめぐってダイチン・グルン(大清帝国)との戦争の危機に陥っても、受動的な会戦の覚悟をしつつも、戦争には慎重でした。しかし、1886年8月13日の長崎事件を機に、日本ではダイチン・グルンの軍事的脅威への警戒感が一気に高まり、海軍拡張が共通の政策課題となります。この頃、陸軍ではドイツへの傾斜が深まり、「ドイツ派」が新たな主流派となっていきます。その中心にいたのが、山県有朋や大山巌や桂太郎や川上操六や児玉源太郎や寺内正毅などでした。

 山県は、地方自治をめぐって、整備を急ぐよりも憲法実施を優先する伊藤博文や伊藤毅と対立することなどがありつつも、政治家としての力量を認められていき、1885年に導入された内閣制では内務大臣を務めます。地方自治を重視する山県は、1888年12月に外遊出て、西洋列強の地方自治を再調査します。1889年10月2日に帰国した山県は存在感を高めていき、同年12月24日、山県内閣が成立します。この時、伊藤博文が制定した内閣職権による「大宰相主義」は修正され、専任の行政事務に関する命令は各大臣が単独で副署することになり、帷幄上奏も軍部大臣の副署だけで出せるようになったため、内閣からの軍部、とくに陸軍の自立化傾向に法制的裏づけが与えられることになりました。この第一次山県内閣は、地方自治制の整備を進め、第1回の議会も解散なしで乗り切りました。本書は山県の地方長官への訓示を引用し、山県にとって政治とは私的利害の衝突で、それは極小化されねばならなかった、と指摘します。それ故に、山県は政党政治を忌み嫌ったわけです。山県は極力政治を相対化しようとして、全ての政治的対立を中和する、政治および文化的装置と考えられていた天皇を介しての国民道徳の制定に拘り、その成果が1890年10月30日に発布された教育勅語でした。山県は演説に苦手意識があったようで、読者が限定される「意見書」という形式を好んだため、山県の政治は国民から見えづらく、権威主義的な雰囲気がありました。ただ、山県は密室政治を得意としていたものの、それは当時の官僚政治家には一般的だったことも指摘されています。

 第一次山県内閣では、議会での施政方針演説で「主権線(領土)」と「利益線(主権線の安危に関係する周辺地域)」の保護が主張され、明言されなかったものの、「利益線」とは朝鮮半島が想定されていました。山県は、日本とダイチン・グルンとイギリスとドイツによる保障下で朝鮮をスイスのような「恒久中立国」にしようと好走しました。山県は、「利益線」保持のための軍備が整うには20年必要と想定していましたが、「利益線」である朝鮮をめぐる危機は、早くも1894年に訪れ、朝鮮での東学党の乱を契機に、日清戦争が勃発します。首相退任から日清戦争勃発までの間にも山県の権力は強化していき、第二次伊藤内閣で司法大臣を辞任すると、枢密院議長に任命されるなど、山県は明治天皇から信頼されていました。日清戦争は山県にとって早すぎる戦争でしたが、山県は出征を天皇に願い出て認められ、第一軍の指揮官として仁川から漢城に進軍します。実際の朝鮮を見た山県は、聞いていたよりもずっと酷い状況なので、援助により名実ともに独立を全うさせるのは難しいだろう、と考えを改めました。この時、山県は朝鮮縦貫鉄道を建設し、それをダイチン・グルンからインドへと延長する必要がある、と述べており、普段の慎重な姿勢とは大きく異なる「大風呂敷」めいた構想でした。本書は、日本近隣での帝国的秩序の動揺に直面すると、山県の議論が現実性を喪失していく傾向は、最晩年の軍備拡張論まで変わらず、周囲の人々を時に戸惑わせた、と指摘します。第一軍の指揮官として順調に進軍していた山県ですが、1894年末に胃腸病により帰国を余儀なくされます。この後、日清戦争は終結しますが、三国干渉による遼東半島返還もあり、山県は大きく落ち込んでいたようです。この失意の山県を明治天皇は論功行賞などにより慰労します。

 山県は政治的に立ち直っていき、1896年3月には、ロシアのニコライ2世の戴冠式参列のため、特命全権大使として日本を発ちます。同年5月26日の戴冠式は荘厳なもので、山県は強い感銘を受けたようです。山県は特命全権大使として、ロシアとの間で協定を成立させ、その秘密条款では、日本とロシアが朝鮮に出兵する場合の兵力や派兵地域について定められていました。山県は対ロシア宥和策を進めたわけですが、これは「利益線」論からの後退でもありました。この外遊で、山県とニコライ2世との謁見は終始儀礼的でしたが、ドイツのヴィルヘルム2世とは日清戦争の用兵などでかなり盛り上がったようです。ロシアの南下に伴い、日本では「北守南進論」が盛んになりましたが、「南進」の内容は多様でした。山県は1898年1月には元帥に任じられ、同年11月8日には大隈内閣の崩壊後に第二次山県内閣が成立しました。大隈内閣は4ヶ月ほどで崩壊したとはいえ、政党の政治的影響の増大を示しており、上述のように政党政治を忌み嫌っていた山県は、「純然たる」超前内閣で、地租増徴問題による政治的混乱の状況に臨みました。ただ、現実主義者でもある山県は、文官任用令改正で政党勢力による猟官を防ぎつつ、政党の取り込みも図っています。山県は2回組閣し、軍事から地方自治や外交にまで知見を積み重ねていく過程で、官僚とのつながりを強めていき、地縁と血縁を超えた「山県閥」が形成されていきます。このように第二次山県内閣は業績を積み重ねていきましたが、外交と軍事では、1900年の厦門事件で列強からの抗議により福建省への派兵を断念するなど、情勢判断を見誤ったこともありました。厦門事件後の9月26日、山県は政治的余力を残して首相を退任します。

 第二次山県内閣の後の第四次伊藤内閣が短命に終わった後、1901年6月2日、桂太郎内閣が成立し、閣僚のうち7人を山県系官僚が占めており、「小山県内閣」などと揶揄されました。ただ本書は、陸相の児玉源太郎、海相の山本権兵衛、外相の小村寿太郎の起用に、山県から距離を置く桂太郎の意向が見える、と指摘します。じっさい、桂太郎は山県からじょじょに政治的に自立していきます。大韓帝国への勢力拡大も志向しているように見えたロシアに対して、当時の日本政府要人では、山県がイギリスとの同盟で、伊藤博文はロシアとの直接交渉で事態打開を図ります。1902年1月30日に日英同盟が成立し、日本とロシアの開戦のさいにイギリスに参戦義務があるわけではないものの、イギリスが極東における海軍力の維持を約束し、日本側、とくに海軍にとっては軍事的利点が大きかった、と本書は指摘します。日英同盟ではダイチン・グルンと大韓帝国の独立と領土保全が主張され、ロシアが1902年4月8日に満洲撤兵に関する協定に調印するなど、対ロシア抑止効果が現れた、と日本では歓迎されましたが、山県は日英同盟の影響判断には慎重で、ロシアの動向によっては情勢急変もある、と指摘していました。じっさい、ロシアは撤兵期日になっても約束を履行せず、かえってダイチン・グルンに7項目の要求を突きつけました。この情勢急変に対して、1903年4月21日、山県の別宅で対ロシア方針が協議され、満洲はロシア、大韓帝国は日本の勢力範囲であることを相互承認する、「満韓交換」の対ロシア交渉原則が確認されました。山県は、伊藤博文を政友会から引き離すために伊藤の枢密院議長就任を画策し、伊藤もそれを受け入れたものの、山県と松方正義の宮中入りも要求し、山県も宮中に入ります。これにより、山県系官僚閥は、統括者である山県と首相である桂太郎という、権力の分裂した「二頭制」への移行が始まりました。当初の力関係は山県が圧倒的に有意でしたが、桂太郎は首相として実績を積み重ね、次第に勢力を拡大していき、山県は桂太郎による権力簒奪の脅威に曝されることになります。

 桂太郎は内相の児玉源太郎とともに府県削減など国制改革を進めようとしますが、山口県を分割するこの案は山県にはとても受け入れられず、対ロシア交渉が停滞する状況で、「軍国の政治」を優先すべきと主張して、急逝した参謀次長の後任を児玉源太郎とするよう、桂太郎を説得し、桂内閣の国制改革を阻止しました。対ロシア交渉が停滞する中で、山県の介入は桂太郎たちを困惑させましたが、桂太郎は児玉源太郎や寺内正毅とともにこれを受け流し、山県の権力基盤である陸軍でも、「山県の祭り上げ」が進みつつありました。しかし依然として、元老としての山県の権力は健在でした。ただ、日露戦争中に宮中では桂太郎が存在感を増していき、山県は桂太郎や児玉源太郎とも対立する局面が増えていきます。対ロシア開戦については、山県も含めて日本の要人は直前まで迷っていましたが、今開戦しないと1年後にはロシアに屈伏することになるので、極東の戦力比が1年後よりずっと有利な今開戦する、と最終的には判断したようです。本書は日露戦争の日本側の意義として、日本列島防衛、大韓帝国「独立」というかロシアなど西洋列強による支配阻止、中国の「保全」を挙げています。日露戦争では、山県は日本国内に留まり、参謀総長として戦争指導に関わります。日露戦争の講和交渉について、ハルビンまでの侵攻など強硬派も存在しましたが、山県は冷静で抑制的でした。

 日露戦争後の山県は、権力の点では「山県閥」と一般的には思われていた桂太郎への脅威を深めつつあり、内政では都市部の社会主義勢力に強い不安を抱くようになりました。山県は、日露戦争前にはかなり柔軟な政策的対応能力を示していたものの、日露戦争後には保守的な姿勢が目立つようになり、「尊王」精神に回帰していった、と本書は評価します。山県の関心は、「国体」と一体化した自らの権力を内外の敵対勢力から防衛することに向けられた、というわけです。「尊王」と関連して、山県は南北朝正閏問題では山県は、南朝正統論に強く肩入れしました。桂太郎と児玉源太郎への警戒から、桂太郎の後継首相を西園寺公望とすることに同意します。対外政策では、山県は日露戦争後も大陸への勢力拡大には慎重で、経済的に豊かな中国南部への関心は高かったものの、満洲への経済的関心は低く、満洲を「植民地」とする発想は強くなかったようです。山県にとって満洲はあくまでもロシアとの「戦場」で、それと関連して陸軍の拡張に意欲的でした。山県は陸軍拡張を巡って抑制派の児玉源太郎と激しく対立しますが、児玉源太郎の急逝により主導権を掌握します。大韓帝国については、日露戦争後には、併合に慎重だった伊藤博文に対して、山県は早くから積極的な併合論者でした。大韓帝国の併合により日本は大陸国家へと大きく傾斜し、山県は消極的だった満洲経営に積極的になっていきます。本書は、日本が大陸経営という「未知の政治的領域」に進出することで、政治的混乱が生じ、明治憲法体制が動揺していった、と指摘します。

 伊藤博文が殺害され、明治天皇が急逝したことで、属人的な政治体制は動揺します。第一次護憲運動で桂内閣は倒れ、世間には山県を桂太郎と一体とみなす認識が強かったものの、この頃には山県と桂太郎との関係はかなり悪化していました。山県の権力の拠点だった官僚も、大学から試験により採用された者が主流になり、政党政治志向が強くなって、山県の権力を突き崩していきました。桂内閣の後継の山本権兵衛内閣は、大陸への軍事的関与に否定的だったり、軍部大臣現役武官制を廃止したりと、山県の意向とは少なからぬ点で異なる政治方針でした。山県の権力はますます侵食されていき、山本内閣が汚職事件で倒れても、妥協して大隈重信を首相に推挙するしかありませんでした。第二次大隈内閣発足後すぐに第一次世界大戦が勃発し、山県は早期参戦に慎重でしたが、大隈内閣に押し切られ、日本はドイツに宣戦布告します。大隈内閣の加藤高明外相の大失態とされる対華二十一カ条要求について、山県はヨーロッパからの借款が途絶える袁世凱政権の苦境を予想し、対中関係改善も視野に入れていたものの、大隈内閣を抑えることはできなかった、と本書は指摘します。本書は山県と大隈重信の違いについて、民主主義者ではなく好戦的な世論を無視できた山県に対して、大隈重信は大衆政治家だった、と指摘します。

 加藤高明を後継首相考えていた大隈重信の宮中工作は山県により阻止され、寺内正毅が首相に就任します。寺内正毅も桂太郎とともに「山県閥」の要人とみなされていましたが、この頃にはすでに山県の影響からかなり脱していたようです。第一次世界大戦の見通しでは、山県はドイツの潜在的国力を高く評価していた一方で、アメリカ合衆国の参戦を過小評価していました。山県は国家総動員の意味、とくにアメリカ合衆国の巨大な産業動員を充分には認識できていなかった、と本書は指摘します。山県は、総動員体制に不向きな「天皇の軍隊」を総力戦に対応させるため、大規模な軍拡を主張し、寺内正毅と対立します。山県の構想には、寺内正毅とは異なり、工業動員能力への配慮が欠けていました。山県は権力外交を基調としており、門戸開放や機会均等など国際的外交原則を尊重する「価値観外交」とは対極で、同盟国の裏切りも想定した、軍備拡張志向がありました。シベリア出兵では、山県は当初、革命の起きたロシアがドイツと提携する、との危機感から慎重でしたが、ドイツの劣勢とアメリカ合衆国の出兵要請を受けて、「過激思想」拡大阻止のため、積極論に転向しました。寺内正毅は、米騒動や自身の病気もあり、退陣を決意しますが、すでに関係がかなり悪化していた山県には、原敬を後継に考えていることを伝えませんでした。山県も、革命の脅威に対処するためにも、原敬の首相就任を容認します。山県は、理想視していたドイツで革命が起きたことに大きな衝撃を受け、「過激思想」や社会運動をさらに危険視していったようで社会運動に「的確に対処」していく原敬を政治家として信用するようになります。山県は原内閣の施策を高く評価し、原内閣の国際協調路線にも接近します。

 この山県最晩年の原内閣で起きたのが、宮中某重大事件でした。大正天皇の健康が悪化し、皇室制度自体の動揺も懸念されていました。よく知られているように、山県と大正天皇の関係は悪く、大正天皇が比較的健康だった頃からすでに、両者の関係は良好とは言えなかったようです。そうした状況で、皇太子である裕仁親王(昭和天皇)婚約問題が生じます。1919年6月10日、裕仁親王と久邇宮良子女王(邦彦王の長女)との婚約内偵が発表されましたが、翌年夏頃に、良子女王の母方の家系(島津家)に色覚異常が見られる、と山県は陸軍軍医総監から知ります。山県は、「山県閥」の中村雄次郎を新たな宮内大臣として、問題解決を図ります。山県は他の二人の元老(松方正義と西園寺公望)とともに、婚約解消へと動き始めます。大正天皇に的確な判断は無理と判断したのか、1920年11月、山県は久邇宮に調査結果を見せ、婚約を辞退させようとしましたが、久邇宮は激怒し、貞明皇后に宮内省の不当を訴えました。しかし、貞明皇后はこれを不快に思います。同年12月には、西園寺公望から原敬にこの件が伝わり、原敬は山県に詳細な説明を求めて、この件は政治問題化していきます。久邇宮が要求した再鑑定でも、結果が覆らなかったことから、事態は収まりそうでしたが、東宮御学問所御用掛である杉浦重剛が、婚約破棄は国民道徳の模範たる天皇家がすべきではない、と反対論を明らかにしたことから、さらに大きな政治問題となります。対外硬派や右翼浪人などが杉浦重剛の主張に共鳴し、山県と原敬に攻撃が集中します。さらに、山県や原敬が頼りなさも感じさせていた皇太子の裕仁親王を外遊させようとしたことから、山県や原敬への攻撃はますます強くなり、ついに山県は譲歩し、1921年2月10日、婚約内定に変更はない、と宮内省は発表します。

 勤王家を自負していた山県にとって、「君側の奸」として死ぬことは耐えられず、右翼のテロを強く警戒します。山県とともに右翼テロの標的となっていた原敬は、1921年11月4日、東京駅で刺殺されます。現職首相の殺害でもあり、山県はたいへんな衝撃を受け、健康状態が急速に悪化し、1922年2月1日、死去しました。同月9日に行なわれた山県の国葬は、山県より少し前に死亡した大隈重信の国葬と比較して、民衆は無関心で寂しいものだった、と言われています。ただ、当時の新聞報道からは、日比谷公園沿いの街路に数万の群衆が押し寄せた、と窺えます。本書は、山県の権力を最終的に支えていたのは、時には緊張を伴いながら相互的な信頼感に支えられていた明治天皇との政治的・人間的関係で、明治天皇が死亡し、大正天皇の病状悪化により事実上の「大空位時代」が始まると、山県の権力も衰退し始めた、と評価しています。本書は最後に、第二次世界大戦後の軽武装・経済成長の中で山県は過去の人となったものの、中国の興隆による安全保障問題の緊迫化や、「皇統」をめぐる議論の活発化など、「山県的なるもの」が再度召喚されつつあるのではないか、と指摘します。

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