朝鮮半島の前期および中期旧石器時代の大型両面石器

 朝鮮半島の前期および中期旧石器時代の大型両面石器に関する研究(洪., 2024)が公表されました。朝鮮半島の更新世の考古学にはひじょうに疎いので、本論文は有益でした。本論文は、朝鮮半島に限らず日本列島も含めてアジア東部を視野に入れており、日本列島の4万年以上前の人類の痕跡については、旧石器捏造事件(関連記事)もあって懐疑的な意見の方が有力かもしれませんが、本論文でも言及されている岩手県遠野市の金取遺跡もありますから、存在した可能性の方が高い、と私は考えています。

 なお、本論文では「韓半島」と表記されていますが、この記事では「朝鮮半島」で統一します。また、本論文では旧石器時代の区分は前期・中期・後期とされていますが、当ブログでは旧石器時代の区分は、下部・中部・上部と訳してきました。ただ、ヨーロッパ起源の下部・中部・上部という旧石器時代の区分をアジア東部に当てはめることには慎重であるべきだ、と私は考えてきたので、ヨーロッパ起源の時代区分を単純に当てはめないという意味で、この記事ではアジア東部旧石器時代の区分について前期・中期・後期を用います。ただ、ユーラシア西部については、下部・中部・上部という旧石器時代区分を用います。以下、敬称は省略します。


●要約

 朝鮮半島の旧石器時代は日本列島の状況とは少し異なり、後期旧石器時代の資料以外にも、前期および中期旧石器時代遺跡が多く分布しています。これは、1978年に漣川全谷里遺跡でいわゆるアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)式握斧(Handaxe)が確認されたことを契機に、活発な研究が行なわれたからでもあります。握斧類石器は広い意味で大型両面石器(Biface)という概念でも言えますが、このような大型両面石器は朝鮮半島の前期および中期旧石器時代だけではなく、全世界的に広い地域で、広範な時間幅で分布しています。本論文は、朝鮮半島の前期および中期旧石器時代における大型両面石器研究の流れや特徴、および今後の研究課題を考察しました。これは、朝鮮半島の前期および中期旧石器時代の研究だけではなく、アジア東部における古人類の生活相を理解するために重要な作業と考えられます。


●研究史

 日本列島における旧石器時代研究は後期旧石器時代(4万年前頃以降)を中心に活発に行なわれています。後期旧石器時代に該当する遺跡や資料が多く存在するのも一因ですが、2000年に発覚した旧石器捏造事件の影響も大きくあります。そのため、日本列島における後期旧石器時代よりも前の研究は事実上ほぼ止まっている状況です。しかし、新資料の更新がない限り、これ以上この時期を検討できる手段はなくなるでしょう。また新たな資料が検出されるとしても、今後の研究をつなげる接点がじょじょになくなる懸念もあります。

 そうした状況で、朝鮮半島や中国大陸の資料により後期旧石器時代以前の時期を検討する研究者もおり、近年では、長野県の香坂山遺跡(関連記事)や群馬県の善上遺跡のような初期石刃技術や大型石器という特徴が目立つ遺跡も確認されつつあります。また金取遺跡や長野県飯田市の竹佐中原遺跡など、今でも後期旧石器時代より前の可能性があるとして、検討される遺跡もあります。今後の研究のためにも多様な資料の確保が必要になるでしょうが、そのためにはまず、日本列島と近接している朝鮮半島の前期および中期旧石器時代研究の現況を確認するのも一つの方法でしょう。したがって本論文では、朝鮮半島の前期および中期旧石器時代の現況を確認しながら、この時期の研究の画期となった握斧類石器を中心とする石器工作を検討します。

 日本列島から近い朝鮮半島では、後期旧石器時代より前となる前期および中期旧石器時代が確認されています。日本列島で確認されているほぼ90%の旧石器遺跡が後期旧石器時代に該当することと比較して、朝鮮半島の旧石器時代はる前期および中期旧石器時代遺跡と後期旧石器時代遺跡の数がほぼ同じくらいで、多くのる前期および中期旧石器時代遺跡が確認されています。その中でも、前期旧石器時代研究を加速させたのは握斧の発見でした。朝鮮半島の旧石器時代研究では、1933年最初に豆満江流域で潼關鎭遺跡が確認され、1963年には雄基屈浦里遺跡の調査が始まりました。両地域とも、現在は朝鮮民主主義人民共和国領です。1964年には石壮里遺跡の発掘調査が行なわれ、具体的な旧石器研究が始まり、それ以後50年間にわたって持続的に調査が進められてきました。とくに1980年代後半以降は、遺跡と遺物の数が急速に増加しました。このように朝鮮半島旧石器時代研究を活発化させた契機は、1978年に漣川全谷里遺跡でアシューリアン握斧と類似した石器が発見されたことです。

●握斧の発見と全谷里遺跡

 全谷里遺跡は、大韓民国に駐屯していたアメリカ合衆国軍の兵士であるグレッグ・ボーウェン(G. Bowen)が、1978年に漢灘江周辺で石器を採取したことで発見されました。ボーウェンは大学時代にアメリカ合衆国で考古学を専攻しており、そのため全谷里遺跡から握斧を発見できました。これを契機に、全谷里遺跡は1979年から現在に至るまで各地点が調査されており、地表採取だけ発見されていた握斧が、2006年の発掘調査において層位上でも確認され、朝鮮半島の古い時期の旧石器時代の典型的な遺物として位置づけられました。

 全谷里遺跡で発見された握斧は、当時モヴィウス(Movius)仮説に反論できる事例としても注目を集めました。その後、朝鮮半島の中部に位置する臨津−漢灘江流域や漢江流域を中心に新しい資料が追加され始め、この地域は前期および中期旧石器時代研究において重要とみなされるようになりました。また裵基同は、全谷里遺跡から出土した握斧の技術形態学的特性はヨーロッパのアシューリアンと類似しているものの、共伴する石器組成の特徴などを考慮して、チョンゴクリアンと命名し、アジア東部でもこのような古い段階の特徴的な石器群が存在することを明らかにしました。


●モヴィウス仮説とアシューリアン

 握斧は170万年前頃、最初にアフリカで確認され【最近の研究(関連記事)は、アシューリアンが195万年前頃にまでさかのぼる可能性を示しています】、ヨーロッパおよびアジア大陸に広がりました。ヨーロッパでは100万年前頃から握斧あるいは両面石器文化が始まりますが、その中でも代表的な石器インダストリーとしてアシューリアンが挙げられます。ハラム・レオナルド・モヴィウス(Hallam Leonard Movius)は前期旧石器時代【下部旧石器時代】を二分し、ヨーロッパとアフリカは両面石器文化圏、つまりアシューリアン文化圏に属するものの、アジア南部を基準として東側に位置するアジア東部地域はチョッパー(礫器)文化圏に属する、と主張しました。これは、ヨーロッパおよびアフリカと比較してアジア東部の石器文化が発達してないことと認識され、学界で議論となりました。このようなモヴィウス仮説を再検討できる一つの契機となったのが、全谷里遺跡です。当時はまだ中国大陸の資料が完全に公開されていなかった状況でもあり、アジア東部において実質的に検討できる資料でした。それ以後、全谷里遺跡では関連資料を含めて20回以上の発掘調査や多くの研究が行なわれ、朝鮮半島における前期旧石器時代研究の中心軸の役割を果たすことになりました。

 アシューリアン握斧インダストリーは、ヨーロッパとアフリカの前期旧石器インダストリーを代表する技術複合体です。アジア地域では長い間このような石器類型が見つからなかったため、モヴィウス仮説が提示されました。それ以後に、朝鮮半島も含めてアジア東部地域でも多くの遺跡から類似した石器が発見され、中国大陸でもその確認範囲が広くなっています。しかし、この2地域の文化伝統に関してはまださまざまな議論があります。最も目立つ差異には、ヨーロッパおよびアフリカのような典型的なアシューリアン握斧があまりないことや、その数の少なさがあります。握斧の形態的パターンの類似性はありますが、「アシューリアン」という石器インダストリーの地理的および時間的分布や地域的特性などについての議論と研究は不足しています。

 またヨーロッパの旧石器考古学では、「アシューリアン」という文化規定は、大型石器を計画的に製作した技術的側面から、文化進化のほとんどの段階に至るまでの広い範囲を示しているため、状況によってはかなり異なる意味を有する概念として用いられる可能性があります。さらに、「アシューリアン技術複合体(Acheulean Techno-complex)」という用語も使われることがありますが、これは握斧の製作技術と様式の多様性、握斧の出現頻度を全て含める概念で、技術的意味と認知的意味のどちらにも傾かないよう、中立的用語として活用されることもあります。


●時期区分と編年問題

 朝鮮半島の旧石器時代は前期と中期と後期の3期間に区分されることが多かったものの、こうした区分は学術的検討によるというよりも、世界の考古学の最も普遍的な体制を導入し、他地域と用語を統一するための意図が大きくありました。しかし、最近の多くの研究者は、朝鮮半島の旧石器時代の編年で前期と中期を一つの時期に統合して前期あるいは初期と命名し、これを後期と区分して2期間に分けることが最も合理的な方法と考えています。これは石器製作技術上で、前期と中期を区分できる特徴的な技術の変化が把握されていないためです。ただ、このような認識が定着するまで多くの論争があり、現在でも「前期」と「中期」の表現が完全には整理されていないまま混在しています。

 しかし、石刃石器群が確認され始める時期を後期旧石器時代に、それより前を前期および中期旧石器、あるいは初期旧石器時代に分類すべきとの意見はおおむね同意されています。詳細な編年についてはまだ早い側面もあり、そのためにはさまざまなデータがもっと蓄積されねばならない状況です。最近、一部の日本研究者たちの研究では、朝鮮半島の石器群の細部編年の試みもありますが、石器製作技術に基づく区分より具体的な検討や地域や研究者間の共通の基準をもって編年しない限り、さらに混乱を招く懸念があります。日本列島の後期旧石器時代を論じるさいに、細かい編年が行なわれているため、朝鮮半島の資料に対しても同じような手法が適用されるように見えますが、朝鮮半島の資料については地域的な状況や特徴に関する理解を前提にすべきです。


●石器群の特性と両面石器

 朝鮮半島において前期および中期旧石器遺跡は全体的に分布していますが、比較的古い年代の遺跡が多数分布している地域として、臨津−漢灘江流域が挙げられます。この地域は朝鮮民主主義人民共和国と隣接しており、臨津−漢灘江は灘江と合流した後でソウルを通過して西海に流れます。この地域ではとくに握斧を含む遺跡が多く、おもに古い特徴を見せる石器が確認されます。鐵原長興里遺跡のように黒曜石製石器がおもに出土する後期旧石器時代遺跡も一部含まれますが、ほとんどは前期および中期旧石器時代遺跡が分布する地域です。

 「握斧」という用語は文字通り手で握られる斧という意味で幅広く使用されていますが、形態や機能的要素よりも製作技術上の特性を考えて使用する、両面石器(Biface)という用語も広く使われています。またアフリカを中心として、大型切断用石器(Large Cutting Tool、略してLCT)という用語も使われています。ほとんどの石器用語が機能や形を考慮して命名されているため、その点らも握斧という用語が固有名詞のように長く通用されてきましたが、場合によっては、石器を総合的な観点から検討する側面でより包括的な概念である両面石器が好まれる傾向も見られます。このように、両面石器は握斧類石器を全て含む、少し広義の概念とも言えます。

 これらの用語の整理は、特定の器種が出土したのか、存在するのか、という問題でより包括的な観点から議論できます。とくに製作技法上の概念の投入は、分類基準が異なる広範囲の領域での比較研究がひじょうに容易になります。このような側面から、両面石器としての手法は日本列島で出土した類似石器をともに分析し、比較研究をするさいにも有効に活用できると考えられます。

 両面石器は詳細にいくつかの種類に分けられ、形態や製作技術や機能推定においても少しずつ差異が見られますが、そのほとんどには、握斧やピック(Pick、打俸)、鉈状石器(Cleaver)LCT、大型掻器(Large Scraper, Heavy Duty Scraper) などの器種が含まれます。この中でも朝鮮半島における両面石器研究はおもに握斧に焦点を当てて進められており、他の両面石器に関しては概念整理や分類にとどまる水準で、注目すべき研究が多くはありませんでした。これらの両面石器のうち、朝鮮半島で確認されている代表的な握斧類石器の種類は以下の通りです。

 握斧(図2)は最も一般的な手斧の形で、全体の握斧類石器を含める表現でもあります。初めて全谷里遺跡で握斧が発見された時、アシューリアン握斧と類似した形で注目され、ヨーロッパのアシューリアン握斧と似た形状です。基本的に対称性が強調される石器で、両面加工を基本とします。ヨーロッパの典型的なアシューリアン握斧のように、ひじょうに精巧な加工が施されたとは言えませんが、粗いながらも石器全体に加工が施された石器も確認されます。しかし、多くの握斧が先端側に加工を集中させ、手で握る部分は自然面のまま活用する形を有しています。

 ピック(図3)は、握斧とともにかなり多くの量が確認されています。とくに2000年以降、江原道地域の旧石器資料が多く、崔承燁はこの地域のピック資料を集めて整理しました。製作技術の点では、握斧のように素材剥片や砂利石を整形して製作した斧形の石器です。先端部を尖らせるように加工して,尖頭器のような役割を果たしたと推定している。

 鉈状石器(図5)には、他の握斧類石器の製作過程とは異なる特徴があります。鉈状石器は先端部が横に平らな刃をもつ形態ですが、この刃部はほぼ加工せずに、剥離された時に自然に生じた刃を活用する場合がほとんどです。そのため、最初から刃部を考慮しないと製作できない石器であるので、事前に計画とそれを実行できる技術が共存しなければなりません(図4)。このような側面から、鉈状石器は握斧類石器の中でも高度な認知と計画的な製作技術を示す遺物です。

 楕円形石器(Ovate、図6)は、数が著しく多いわけではないものの、坡州瓦洞里遺跡や漣川全谷里遺跡などで一部確認されています。石器の全面をすべて加工し、形態上楕円型の丸い両面石器で製作されました。ほとんどの握斧類石器が質のよい珪岩を中心に製作されたのと比較して、全面加工をしたにも関わらず石英岩で製作された事例が注目されます。


●地域的パターン

 このような朝鮮半島を含むアジア東部で出土されている握斧類、つまりアシューリアン握斧の研究における課題として、以下の点が挙げられます。ヨーロッパとアフリカとアジア東部で観察されるアシューリアンの性格は類似しているものの、ある程度の差異も観察されます。ヨーロッパとアフリカのアシューリアンではLCTの出現頻度が高いものの、アジア東部のアシューリアン握斧類ではあまり観察されず、ほとんど先頭形の握斧が主流になっています。また機能的な面を反映している場合もありますが、形態自体に執着して製作された握斧類も確認されています。もっと特徴的なのは、アジア東部で確認される握斧類には、完成品なのか、それとも製作過程段階のものなのか、区分困難なものもかなりあることです。

 では、アジア東部の握斧製作技術がヨーロッパやアフリカと比較して足りないと断定するのも危ない観点です。ヨーロッパとは異なるものの、アフリカと類似している様相も観察され、一例として、アジアやアフリカでは多く観察される鉈状石器がヨーロッパで確認される頻度は低くなっています。また、かなり多様な類型の握斧類石器が確認されるヨーロッパと比較して、典型的な様相と数は異なるものの、ヨーロッパに劣らないアフリカやアジアなりの多様性があります。結局のところ、伝統的なアシューリアン地域と非アシューリアン地域で現れる握斧インダストリーや両面石器インダストリーの多様性のパターンについて考慮すべきです。

 アジア東部の握斧は、まずその出現が遅く、出現頻度も低い方で、ヨーロッパやアフリカと比較して、典型性が落ちる傾向もあります。しかし、単純に握斧製作の技術的理解度や知的能力の差で認識するよりも、各地域の環境と文化的要素の影響も考えるべきです。握斧類石器や両面石器に対する研究はいまだに、機能形態的および製作技術面に集中して行なわれています。しかし、握斧という石器がもっている象徴性と代表性を考えると、もう少し広い範囲と広い視点で総合的な検討を試みるべき時期と考えられます。


●まとめ

 日本列島で前期および中期旧石器時代を論じることはまだ難しい状況で、新資料がほとんど追加されないこの状況において、既知の資料だけ検討し続けていてはいけないでしょう。しかし、前期および中期旧石器時代の可能性が言及される遺跡や遺物は、まだ少数ではあるものの存在しており、後期旧石器時代の早い時期、あるいは後期旧石器時代への移行期に関する資料も少しずつ蓄積されています。また少し別の側面となりますが、後期旧石器時代の石器でも両面石器が含まれており、前期および中期旧石器時代の可能性のある資料にも、両面石器や大型石器が含まれています。比較的注目されていないこのような資料を、アジア東部規模でともに研究し、議論していくのが、アジア東部における古人類の生活相を研究する長期計画の中で必要な作業と考えられます。


参考文献:
洪惠媛(2024)「韓半島前・中期旧石器時代における大型両面石器の特性と研究課題」『半田山地理考古』11号P19-25
https://doi.org/10.34552/0002000117

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