河西回廊の人口史

 河西回廊の人口史に関する研究(Xiong et al., 2024)が公表されました。本論文は、河西回廊の漢代から魏晋南北朝時代を経て唐代までの人類30個体のゲノムデータを報告するとともに、既知の古代人および現代人のゲノムデータと統合し、先史時代から現代にかけての河西回廊の人口史を推測しています。河西回廊の人類集団においては、新石器時代と歴史時代の間に大きな遺伝的変化があったものの、歴史時代から現代までは遺伝的構成が比較的安定していたようです。河西回廊の歴史時代以降の人類集団は、黄河流域中期新石器時代集団的な遺伝的構成要素の割合が高いものの、比較的高い割合のユーラシア西部集団的な遺伝的構成要素を有する外れ値個体も見られます。河西回廊は、その地理を反映し、歴史的文献からも示されているように、ユーラシアの東西交流の交差点として長く機能してきたようです。


●研究史

 中国北西部の河西回廊は何千年間も、アジア東部とアジア中央部とさらに西方の土地間の相互作用の交差点として機能してきましたが、一方で、中国中心部とモンゴル草原北部と南方のチベット高原(Tibetan Plateau、略してTP)をつないできました(図1a)。先行研究は、早ければ青銅器時代以降となる、この大陸横断の物質と文化の伝播の詳細を明らかにしてきました。古代シルクロード(絹の道)沿いに交換された物質と技術には、アジア東部の雑穀や彩色土器、アジア西部のコムギおよびオオムギや青銅の冶金や家畜化されたヒツジとウマとウシが含まれていました。

 これまで古ゲノム研究は、河西回廊東部(関連記事)、および中国北部や現在の新疆となる西方地域(関連記事)やチベット高原(関連記事)やモンゴル(関連記事)などの近隣人口集団を、その形成期の新石器時代と青銅器時代について調べてきました。ゲノム規模の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)研究は、現在の河西回廊の東西の混合の遺伝的景観を明らかにしました(関連記事)。しかし、より長い期間にわたる河西回廊の人口動態は、ひじょうに過小評価されてきました。


●標本

 上述のこの限界に対処するため、河西回廊全域の古代人30個体が標本抽出され、配列決定されました(図1a・b)。河西回廊中央部からは、黒水国(Heishuiguo)遺跡の17個体が標本抽出され、その年代は前漢(西漢、紀元前202~紀元後8年)から後漢(東漢、25~200年)にわたります。河西回廊西部からは、曹魏(Cao-Wei、220~265年)~唐王朝(618~907年)と年代測定された、佛爺廟湾(Foyemiaowan)墓地の13個体が標本抽出されました。この研究の年代を確立するため、考古学と放射性炭素年代測定両方の証拠に依拠しました。各標本の詳細な情報は補足表S1Aに掲載されています。以下は本論文の図1です。
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 研究対象の個体群について、歯もしくは側頭骨錐体部から二本鎖DNAライブラリが構築されました。ショットガン配列決定データが生成され、それは高水準のDNA保存を明らかにし、内在性DNA含有量の範囲は0.95~83.60%でした。全標本は死後損傷パターンの特徴を示しました。疑似半数体遺伝子型が124万のSNPパネルで呼び出され、14387~1141519ヶ所のSNP部位がえられました。配列決定された河西回廊の30個体のうち、3通りの手法により1組の2親等の親族関係が検出され、より少ないSNP数の親族の方が除去されました。最終的には、3%未満の汚染率で5万超のSNPのある25個体が、集団遺伝学的分析に用いられました。


●全体的な遺伝的構造

 本論文における個体の遺伝的背景を説明するためまず、ユーラシア現代人から計算された主成分分析(principal component analysis、略してPCA)空間へと本論文の古代人のゲノムを投影することにより、PCAが実行されました(図1c)。黒水国および佛爺廟湾の両遺跡の人々は、地理的に近い大槽子(Dacaozi)遺跡(DCZ-M17IV、DCZM22IV、DCZ-M21II)、および黄河(Yellow River、略してYR)流域の中流~下流区間の古代人(YR_後期新石器時代とYR_後期青銅器時代~鉄器時代)や、現代漢人集団と密にクラスタ化していました(まとまっていました)。注目すべきことに、このYR_関連クラスタ、つまりYR_後期新石器時代(LN)とYR_後期青銅器時代~鉄器時代(LBIA)に由来する佛爺廟湾の2個体(G32712とG40803)は主成分1(PC1)に沿ってクラスタ化し、ユーラシア西部人との遺伝的類似性はさまざまで、外来祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)同化の可能性を示唆しています。この結果は、モデルに基づく教師無ADMIXTUREで再現されました(図1d)。

 異なる5祖先系統が関連するユーラシア人口集団に寄与した、とし仮定すると、本論文の時間横断区の個体群は、大槽子遺跡個体群および黄河流域中流~下流区間の古代人(YR_LNとYR_LBIAに代表されます)と類似した遺伝的特性を示し、例外であるG32712とG40803は高い割合のYR_祖先系統だけではなく、ユーラシア西部人で豊富な桃色の構成要素もわずかにありました。標本G32712とG40803は、標本抽出地域ではさほど一般的ではない祖先系統を有する遺伝的外れ値(outlier、略してo)でした。考古学的背景を考慮して、個体G32712およびG40803はそれぞれ、佛爺廟湾_曹魏_oおよび佛爺廟湾_唐_oと表記されました。その後の定量分析では、黒水国遺跡個体群と他の佛爺廟湾遺跡個体群から外れ値個体が別に分析されました。


●歴史時代の河西回廊人口集団の遺伝子プールへの中原からの歴史的に記録された軍事拡大の顕著な影響

 数世紀にわたる時空間的規模での遺伝的差異の可能性を調べるため、対でのf₄形式(ヨルバ人、X:歴史時代の河西回廊下部集団i、歴史時代の河西回廊下部集団j)のf₄統計が実行され、Xにはユーラシア系統古代人が含まれ、iとjは地理と王朝により分類された黒水国/佛爺廟湾/大槽子人口集団の組み合わせです。多様なユーラシア人を人口集団Xとして用いると、Z得点<3の有意ではないf₄値が観察され、歴史時代における河西回廊全体の最小限の遺伝的異質性を示唆しています。対でのqpWave分析では、黒水国/佛爺廟湾/大槽子集団の各組み合わせ間の遺伝的分化も区別できませんでした。これらの調査結果は、他系統からの河西回廊の遺伝子プールへの遺伝的影響が、とくに多様なユーラシア西部関連祖先系統について、分析された歴史時代の河西回廊集団間の時空間的差異にも関わらず、僅かだった或いはなかったことを示唆しています。

 f統計を用いて、黒水国/佛爺廟湾/大槽子集団とユーラシア東西の古代人との間の遺伝的類似性がさらに調べられました。外群f₃統計は、歴史時代の河西回廊古代人とアジア東部北方古代人、とくにYR_関連祖先系統を有する古代人との間の強い遺伝的つながりとの見解を裏づけました。次に、Xにはユーラシア系統古代人を含むf₄(ヨルバ人、X;歴史時代の河西回廊下部集団、アジア東部北方古代人)とqpWave検定が実行され、YRおよび歴史時代の河西回廊人口集団が一貫して単一の遺伝的供給源に由来するのかどうか、調べられました。

 後期新石器時代斉家(Qijia)文化関連の人々(YR上流_LN)により表される新石器時代河西回廊関連祖先系統と歴史時代の河西回廊の人々との間の遺伝的分化が検出され、それはf₄(ヨルバ人、中国南部古代人;歴史時代の河西回廊の下部集団、YR上流_LN)における有意な負のf₄値から推測されます。しかし、西遼河(WLR)_LNやYR_LBIAやYR_LNにより表される黄河の中流~下流区間の古代農耕民は、有意なf₄値の欠如を考えると、全ての歴史時代の河西回廊の下部集団と比較的遺伝的に均一でした。本論文における124万データセットでの1方向qpWaveモデル化も、全ての歴史時代の河西回廊の下部集団はWLR_LNかYR_LBIAかYR_LNの混合していない子孫かもしれない、との見解を裏づけました。

 単一の供給源としてWLR_LNかYR_LBIAかYR_LNを用いて、本論文の1方向モデルの堅牢性を検証するため、歴史時代の河西回廊人口集団とわずかにより多くのアレル(対立遺伝子)を共有するf₄(ヨルバ人、X;歴史時代の河西回廊の下部集団、WLR_LN/YR_LBIA/YR_LN)で特定された人口集団のそれぞれが、qpAdm分析での外群一覧にさらに追加されました。YR_LBIA/WLR_LN/YR_LN での1方向モデルのすべてが、これら追加の外群を含めてさえ依然として充分に適合する、と観察されました。さらに、代替の2方向qpAdmモデルから、黒水国(黒水国下部集団の共同人口集団)と大槽子とYR_LBIAとYR_LNは、仰韶(Yangshao)文化のYR_関連祖先系統(YR_中期新石器時代)、および現在のオーストロネシア語族話者であるアミ人(Ami)のアジア東部沿岸部南方関連祖先系統の同様の割合を有している、と示唆されました。これらの結果から、YR_LBIA/YR_LN関連祖先系統は歴史時代の河西回廊集団の遺伝的特性を充分に説明している、と示唆されました。

 以前の古代ゲノム研究は、河西回廊と、北方ではモンゴル西部や南方ではチベット高原や西方では西部地域や東方では中原を含めて、近隣地域との間の遺伝的違いを明らかにしてきました(図2a)。中原では、YR_LNとYR_LBIAは、アミ人に代表されるアジア東部南方沿岸部祖先系統(7~10%)と、YR_中期新石器時代(MN)の同様の割合(90~93%)を有していました。西方地域(現在の新疆)では、タリム盆地の前期~中期青銅器時代(EMBA)となる在来の小河(Xiaohe)文化関連祖先系統(タリム_ EMBA1により表されます)、シャマンカ(Shamanka)文化の前期青銅器時代(EBA)となるユーラシア東部関連祖先系統(シャマンカ_EBAにより表されます)、多様なユーラシア西部人関連祖先系統が、高い遺伝的多様性のある青銅器時代人口集団の遺伝子プールで検出されました(関連記事1および関連記事2)。

 モンゴル西部は、多様なユーラシア東西の祖先系統間の混合を伴う、動的な人口史を示しました(関連記事1および関連記事2)。チベット高原では、現代と古代両方の個体群はおもに初期古代チベット祖先系統で、アジア東部北方古代人と未知の深く分岐した系統からの寄与が伴い(関連記事)、この初期古代チベット祖先系統は、チベット高原北東部の青海省玉樹(Yushu)県の2800年前頃の個体や、チベット高原南東部の2800年前頃のチャムド(Chamdo)の2800年前頃の個体や、チベット高原南西部のルブラク(Lubrak)の個体により表されます。河西回廊東部では、後期新石器時代の斉家文化関連の氐羌(Di-Qiang)人(YR上流_LNにより表されます)が、本論文のqpAdm モデル下では、64~66%の新石器時代YR農耕民(YR_MNにより表されます)と34~25%のアジア北東部古代人(ancient Northeast Asian、略してANA)の混合でした。この場合のANAは、アムール川(AR)_前期新石器時代(EN)とウランズーク石板墓(Ulaanzuukh_SlabGrave)文化により表されます。

 本論文では(図2b)、歴史時代の、河西回廊東部の大槽子遺跡3個体と、河西回廊中央部の黒水国遺跡13個体と、河西回廊西部の佛爺廟湾のほとんどの個体(12個体のうち10個体)と、新疆東部の石城子(Shichengzi)遺跡の半数の個体(4個体のうち2個体、石城子_1と表記されます)は、比較的遺伝的均一性を示している、と発見され、遠く西方の新疆東部にまで広がる、歴史時代の河西回廊全域にわたる相対的に均一な遺伝子プールの存在を示唆しています。これらの個体は、YR上流_LNにより表される新石器時代河西回廊関連祖先系統ではなく、黄河中流~下流区間の後期新石器時代および青銅器時代(YR_LNとYR_LBIA)の混合していない子孫としてモデル化できます。このデータは、新石器時代と漢王朝との間の河西回廊における少なくとも1回の大きな遺伝的変化を強く示唆しました。本論文は節約モデル下(つまり、より複雑なモデルに対してより供給源人口集団の少ないモデルを選好します)での遺伝学的証拠の分析に基づいて、追加の遺伝子流動を伴う在来新石器時代人口集団の子孫とのモデルに対して、歴史時代の河西回廊の人々は黄河中流~下流からの移民だった、とのモデルの方が確率は高かった、と主張します。以下は本論文の図2です。
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 河西回廊における時間横断区の間隙のため、この祖先系統の変化の正確な時期を特定できません。複数の一連の証拠から、黒水国/佛爺廟湾/大槽子により表される比較的単一化した遺伝子プールは、漢王朝期に北西部で確立された大規模な農耕守備隊を伴う漢帝国の急速な拡大により支えられていた可能性が高い、と示唆されました。第一に、歴史的記録によると、匈奴の人々は前漢王朝において河西回廊を紀元前121年以前には占拠しており、ユーラシア東部草原地帯の匈奴と本論文における歴史時代の河西回廊の時系列(全て、前漢王朝と重なっているか、その後です)は、区別可能な遺伝的特性を示しました。第二に、中原は歴史時代の河西回廊祖先系統の最も可能性の高い地理的起源で、WLR_LN/ YR_LN/YR_LBIA関連の遺伝的特性(YR_LBIAにより表されます)は、前漢王朝とほぼ重なる少なくとも紀元前1550~紀元前50年頃までは残っていました。第三に、黒水国と大槽子と石城子と佛爺廟湾の遺跡はそれぞれ、甘粛省張掖(Zhangye)郡と金城郡(Jincheng County)と疏勒城(Shule City)と敦煌(Dunhuang)市に位置しており、それ自体が重要な漢王朝守備隊でした。

 歴史文書や竹簡は黄河流域の20以上の県から河西回廊の県への、地域的管理および統制強化としての人口移住を記載しており、絹の道の北方経路の安全を担当して、比較的少数の人口が疏勒城に駐屯しました。本論文は利用可能な学際的証拠に基づいて、古代漢帝国の拡大と本論文の歴史時代の河西回廊時間横断区で見られるYR_祖先系統との間のつながりを、合理的に推測できます。本論文のゲノム結果は、歴史時代の河西回廊を通って遠く西方では新疆東部に至る黄河中流~下流農耕民関連系統の拡大をもたらした、大規模な移住を伴う急速な軍事拡大との見解を裏づけました。これは、古代帝国の拡大により促進された移住の主要な事例となります。


●河西回廊最西端の敦煌で観察された東西の混合の遺伝学的証拠

 定性的分析で最初に特定された外れ値2個体、つまり佛爺廟湾_曹魏_oと佛爺廟湾_唐_oの遺伝的特性が定量化されました。外群f₃統計では、外れ値は他の歴史時代の河西回廊下部集団と最高の遺伝的浮動を共有していました。したがって、佛爺廟湾/黒水国/大槽子が外れ値の最初の近位アジア東部関連供給源として用いられました。f₄(ヨルバ人、佛爺廟湾外れ値;ANA、歴史時代河西回廊)で示された有意ではない値から、外れ値はANAおよび黒水国/佛爺廟湾/大槽子と類似の水準の遺伝的浮動の共有を示した、と示唆されました。

 したがって、アジア東部関連供給源の第二の代理として、ANA関連集団(その大きな標本規模のためウランズーク石板墓により表されます)が含められました。f₄(ヨルバ人、ユーラシア西部古代人;佛爺廟湾外れ値、佛爺廟湾/黒水国/大槽子/ANA)における有意な負のf₄値は、それら外れ値がユーラシア西部関連祖先系統を有している、と確証しました。佛爺廟湾外れ値とより多くの派生的アレルを共有するこのf₄から識別されたユーラシア西部の各要素は、第三の候補供給源として用いられました。常染色体データに基づく全ての妥当な2方向および3方向qpAdmモデルで、佛爺廟湾_曹魏_oと佛爺廟湾_唐_oは、在来の確立した歴史時代の河西回廊と関連する祖先系統(それぞれ、約50%と約70%)と、おそらく侵入してきたユーラシア西部の代表の2方向混合として最適に説明され、追加のANA関連祖先系統は必要ない、と分かりました。

 混合年代を判断するため、単一の個体群から得られた古代DNAに適用すし、単一波の混合モデルを仮定する、DATESが用いられました。よく適合するqpAdmモデルでの供給源として佛爺廟湾/黒水国/大槽子関連祖先系統とユーラシア西部関連祖先系統を用いると、佛爺廟湾_曹魏_oと佛爺廟湾_唐_oについてそれぞれ、その死の10~20世代前と5~10世代前に、混合事象は11回のうち10回と41回のうち40回が起きた、と推定されました。これらの年代はそれぞれ、戦国時代(紀元前475/紀元前403~紀元前221年)から【秦も含めての】前漢王朝(紀元前220~紀元後8年)と、東晋(317~420年)から唐王朝(618~907年)の帰還と密接に一致します。佛爺廟湾_曹魏_oと佛爺廟湾_唐_oの混合年代は歴史時代、とくに河西回廊の【中華王朝による】奪還、および漢帝国による古代の絹の道の確立に続く期間と一致しました。これらの調査結果は、東西間の遺伝的交換の促進における、絹の道の顕著な役割を強調します。

 これは現代中国の最東端における最古のユーラシア西部関連祖先系統です。多様なユーラシア西部系統と黒水国/佛爺廟湾/大槽子の2方向混合は外れ値個体とよく近似したものの、ユーラシア西部関連の代理の格組み合わせは、本論文で選択された外群を通じて対でのJqpWave分析では区別可能な遺伝的特性を有している、と分かりました。したがって、どの種類のユーラシア西部関連祖先系統が佛爺廟湾の外れ値個体の遺伝子プールを形成したのか、判断できません。しかし本論文は、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化およびシンタシュタ(Sintashta)文化個体群により表される、高い割合の青銅器時代西方草原地帯牧畜民(western steppe herders、略してWSH)ユーラシア西部関連の人々がこのモデルによく適合する傾向にあることにも気づきました。ただ、新疆西部のイリ川流域でアファナシェヴォ文化関連個体(新疆BA5_oSte)などの新疆、チャンドマン(Chandman)文化鉄器時代個体などのユーラシア東部草原地帯、ロシアのアンドロノヴォ(Andronovo)文化個体などアジア内陸部、ヤムナヤ(Yamnaya)文化のサマラ(Samara)の前期青銅器時代(EBA)個体などユーラシア西部草原地帯を含む、WSH関連祖先系統の広範な地理的分布は、ユーラシア西部関連供給源の地理的起源の決定を不可能としました。

 さらに、本論文の分析は、約55%のANA関連祖先系統と約45%のWSH関連祖先系統を有する古代トゥプト(Tubo、吐蕃)帝国の都蘭(Dulan)遺跡の外れ値1個体(都蘭_o)を、佛爺廟湾遺跡外れ値個体における祖先系統のユーラシア西部関連供給源として裏づけません。漢王朝から唐王朝までの敦煌の「国際的」重要性と、この期間におけるさらに西方からの商人の到来と仏教の導入を考えると、ある程度は、観察されたユーラシア東西の祖先系統の混合は驚くべきではありません。そうした商人の活動は、敦煌洞窟向けで発掘された敦煌石窟(Dunhuang Grottes)の芸術や複数言語の何千点もの文書において、実質的に不滅となりました。

 驚くべきことに、結果が示したのは、佛爺廟湾_曹魏_oと佛爺廟湾_唐_oの両方における、常染色体と比較してのX染色体におけるユーラシア西部関連祖先系統の割合増加でした。これらの外れ値個体は、単一の波動の混合モデル下では、ユーラシア西部関連祖先系統について顕著な女性の偏りを示しました。興味深いことに、同様のパターンはキタイ帝国(契丹)やモンゴル帝国で観察されました(関連記事)。しかし、河西回廊における社会文化的パターン(たとえば、父方居住もしくは母方居住や、一夫多妻もしくは一妻多夫)に関する考古学および古代DNA研究の不足は、ユーラシア西部関連祖先系統との女性に偏った混合の説明能力を妨げました。

 ただ、歴史的文書や唐の土器から、漢人【という分類を13世紀以前に用いてよいのか、疑問は残りますが】男性と非漢人女性との間の結婚は一般的だった、と示唆されます。さらに、絹の道の繁栄は、東西間の経済的および文化的交流を促進しただけではなく、「国家」を越えた人口移動の増加にも寄与しました。他の敦煌文書記録における唐定興等戸残巻(Fragments of the household registers of Tang Dingxing)の断片には、西方地域からの使用人を雇っていた人々の事例が記録されていました。この慣行は、漢人男性と非漢人女性との間の結婚に重要な役割を果たしたかもしれません。


●現在の河西回廊民族集団の遺伝子プールにおける5~20%のユーラシア西部系統

 河西回廊に暮らす現在の民族集団への歴史時代の河西回廊系統の遺伝的寄与を定量化するため、現在の甘粛省の漢人、および甘粛省の先住民であるアルタイ諸語話者(関連記事)のユグル人(Yugur)とバオアン人(Baoan、保安)とドンシャン人(Dongxiang)の、刊行されているゲノム規模SNPデータが分析されました。2方向qpAdmモデル化では、甘粛省の民族集団が80~95%の歴史時代の河西回廊関連祖先系統(黒水国/佛爺廟湾/大槽子により表されます)と5~20%のユーラシア西部関連祖先系統を有している(図2c)のに対して、有意な性別の偏った混合パターンは、本論文の限定的な解像度内では観察されなかった、と分かりました。現在の漢人や朝鮮人やヨーロッパ人やアジア内陸部人を供給源として用いた本論文の分析によると、ALDERで推定された現在の甘粛省の民族集団の混合事象は、現在の600~1000年前頃となり、宋王朝および元王朝(960~1368年)に相当します。

 この期間に、モンゴルはユーラシア全域で急速に拡大し、広大な帝国を形成しました。この拡大は、ユーラシア全域の文化的および遺伝的混合において重要な役割を果たしました。ヨーロッパやアラビア半島やアフリカ北部やアフリカの東岸から「中国」に到来した隊商の数は増加しました。さらに、モンゴルはアジア中央部および西部から兵士の軍隊と職人を徴集したモンゴルには、1219~1260年にかけてのチンギス・カン(Genghis Khan 、1162?~1227年)とオゴデイ・カアン(Ögedei Khan、1186~1241年)とモンケ・カアン(Möngke Khan、1209~1259年)による3回の西方遠征が含まれていました。これらの遠征には、オトラル(Otrar)やジェンド(Jend)やホージェント(Khojend)やサマルカンド(Samarqand)などの地域が含まれていました。

 選軍(Hashar)として知られる集団は、後にカアンに従って、現代の寧夏(Ningxia)回族自治区周辺の西夏(Western Xia)への攻撃に加わりました。現代の甘粛省南部に位置する河州(Hezhou)はその後も重要なモンゴル軍の駐屯地となりました。アジア中央部および西部の多数の個体が、これらの事象の後にこの地域に永住したかもしれません。元政府(大元ウルス)が、陸地の開墾目的のため、西方地域から河西回廊へと多数の軍人と民間人を移住させたことも記録されています。これらの移住は、現在の河西回廊の遺伝的組成に影響を及ぼした可能性が高そうです。重要なことに、それ以前の歴史時代の敦煌において見られる女性に偏ったユーラシア西部系との混合事象とは異なり、有意な性別の偏った混合パターンは、現在の河西回廊人口集団では特定されませんでした。


●まとめ

 本論文が、単一の波動的な混合のみを検討したことに要注意です。実際の人口集団の混合は連続的な過程だったかもしれません。本論文で用いられた単純化されたモデルは、連鎖不平衡(Linkage disequilibrium、略してLD)に基づく推定におけるより最近の混合年代をもたらすでしょう。換言すると、上述の頻繁なユーラシア東西の接触期間の開始は宋および元(大元ウルス)ら先行するかもしれず、絹の道の確立がモンゴル帝国の拡大のずっと前となる双方向の遺伝的および文化的交流を促進してきた、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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 本論文では、過去2000年間にわたる河西回廊の人口集団が調べられました。本論文は、異なる歴史時代の人口集団の構成について、新視点を提供してきました。歴史時代の河西回廊人口集団は黄河の中流~下流区間の古代農耕民と遺伝的にほぼ同一だった、と観察されました。古代絹の道の発展における重要な事象である、漢王朝による西方地域の「開拓」後の、河西回廊最西端における古代「中国」での女性に偏ったユーラシア西部系との混合の最初の証拠が見つかりました。現在の河西回廊人口集団は、おもに歴史時代の河西回廊祖先系統を示す傾向にあり、約5~20%の遺伝的構成がユーラシア西部起源です。これは、モンゴル帝国の拡大に続く、絹の道沿いの地域的繁栄と関連している可能性が高そうです。これらの結果は、河西回廊の祖先人口集団の人口統計学への新たな洞察を提供し、ユーラシア東西の人口集団および文化間交流と統合に関する理解を深めます。


参考文献:
Xiong J. et al.(2024): Inferring the demographic history of Hexi Corridor over the past two millennia from ancient genomes. Science Bulletin, 69, 5, 606-611.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2023.12.031

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