フランス大西洋地域の最後の狩猟採集民のゲノムデータ
フランス大西洋地域の最後の狩猟採集民のゲノムデータを報告した研究(Simões et al., 2024)が公表されました。本論文は、フランス大西洋地域のブルターニュのテヴィエック(Téviec)遺跡およびオエディック(Hoedic)遺跡と、フランス北東部のシャンピニー(Champigny)のモン・サン=ピエール(Mont Saint-Pierre)遺跡の中石器時代狩猟採集民のゲノムデータを報告します。これらヨーロッパ西部でも後期の狩猟採集民は族外婚的慣行を維持していましたが、最初期農耕民と年代が重複する一部の狩猟採集民には、最初期農耕民からの遺伝的影響が確認されませんでした。恐らく世界各地で、侵入してきた初期農耕民と在来の狩猟採集民との関係は多様だったのでしょう。人類史を単純明快で「合理的」な「法則」から演繹的に語ることには、今後も慎重であるべきだと思います。
●要約
初期完新世以降、ヨーロッパ西部および中央部には、ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western European hunter-gatherer、略してWHG)の遺伝的に異なる集団が居住していました。この集団は最終的に、侵入してきた新石器時代農耕民により置換され、同化されました。大西洋正面(Atlantic façade)西部はヨーロッパ本土の最後の中石器時代のいくつかがあり、フランスのブルターニュ南部のオエディックおよびテヴィエックの代表的な開地遺跡により代表されます。これらの遺跡は、ひじょうに保存状態が良好で、埋葬が多いことで知られています。
中石器時代ヨーロッパ狩猟採集民のゲノム研究は、1ヶ所の遺跡あたり単一もしくは数個体に限られており、ヨーロッパの最後の中石器時代狩猟採集民の社会動態および侵入してきた農耕民との相互作用に関する理解は限定的です。本論文は、フランスのオエディックテヴィエックとシャンピニー)の最後の中石器時代遺跡で発見された10個体の完全なゲノムを配列決定して分析し、これら10個体のうち4個体はゲノム網羅率が8~23倍です。ゲノムと年代と食性のデータ分析から、ブルターニュにおける最後の中石器時代人口集団は配偶者交換網内で明確な社会単位を維持していた、と明らかになりました。これにより、後期中石器時代集団の小さな人口規模にも関わらず、近親婚を防ぐ低い集団内の生物学的近縁性がもたらされました。
分析された狩猟採集民では、その一部が近隣地域の最初の農耕民集団と共存していたかもしれない場合でさえ、新石器時代農耕民からの遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は見つかりませんでした。したがって、同じ遺跡から得られた安定同位体データに基づく以前の結論とは逆に、後期中石器時代採食民共同体は、配偶者交換では、新石器時代農耕民は除外され、近隣の狩猟採集民集団に限定されていました。
●研究史
11700年前頃となる完新世の開始は、ヨーロッパにおいてその市電の採食民に影響を及ぼした、温順な気候条件をもたらしました。この期間は、考古学的観点では旧石器時代から中石器時代への移行を定義する、新たな集落パターンや技術や生計や葬儀慣行や世界観により証明されるように、社会文化的慣行の顕著な変化により特徴づけられます。古代人遺骸の古ゲノム研究から、いくつかの遺伝的に異なる集団が旧石器時代にはヨーロッパ全体に存在した、と示されてきました(関連記事)。
ヨーロッパ西部では、上部旧石器時代のマグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)には優勢で、マグダレニアンはベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡の20000~14000年前頃となる個体(ゴイエQ2)に代表され、「マグダレニアン」祖先系統集団と呼ばれています。この集団はいわゆるWHG祖先系統集団により完新世初期にはほぼ置換され(関連記事)、例外はイベリア半島(関連記事)とある程度のフランス南西部(関連記事)です。
新石器時代農耕民の到来まで数千年間、WHGはヨーロッパのほとんどで最も一般的な集団でした。WHGと新石器時代農耕民の共存期間はヨーロッパ西部では短く、狩猟採集民(hunter-gatherers、略してHG)と侵入してきた農耕民人口集団との間の相互作用は解明困難で、それは部分的には、最後のHGの正確な年代が困難だったからです。ブルターニュー南部では、中石器時代生活様式は較正年代【以下、明記しない場合は基本的に較正年代です】で6750年前頃に終わり、ブルターニュにおける最初の新石器時代遺跡の年代は6950~6650年前頃の間です。ブルターニュ北部地域の新石器化は6850年前頃に始まり、これは、近隣のノルマンディーもしくはパリ盆地などフランスの他地域より約200年遅くなっています。
新石器時代人口集団の到来が長く確立されていたHGの社会文化的慣行をヨーロッパ全域で変えたことは、考古学的記録において明らかです。遺伝学的観点では、新石器時代人口集団がHGをある程度同化させたことは、今では明らかです(関連記事1および関連記事2)。この過程がどのように起きたのか分かっておらず、それは部分的には、重要な後期中石器時代遺跡の一部からの遺伝的データが依然として欠けているからです。接触と混合の地域的あるいはさらには局所的な微妙な差違の証拠が増えつつあります(関連記事)。たとえばシチリア島北西部のデッルッツォ洞窟(Grotta dell’Uzzo)では、食性パターンに基づいて、農耕民とHGとの間の相互作用の兆候があります(関連記事)。しかし、遺伝子流動も農耕民から存在していた後期中石器時代人口集団(まだ報告されていませんでした)へと起きたのかどうかは不明なままで、これは農耕民と同時代に暮らしていたHGのゲノムの調査によってのみ答えることができる問題です。
古代HGのゲノム研究はおもに、遺伝的多様性のパターンを形成した人口統計学的過程に焦点が当てられてきました(関連記事)。HG社会集団のゲノムデータセットを生成した研究はわずかで、そうした研究では年代的および空間的共存の確証された複数個体が分析されています。そうしたデータセットは、HG社会の社会的動態の研究の独特な機会を提供します(関連記事)。フランスのブルターニュ南部のオエディックおよびテヴィエック貝塚はヨーロッパの大西洋正面に位置しており、フランスの最重要中石器時代遺跡の一部で、それは、この地域では比類のないヒト遺骸の多さとひじょうに良好な保存状態のためです。
ポルトガルおよびスカンジナビア半島南部の後期中石器時代埋葬地とともに、オエディックとテヴィエックには新石器時代への移行までの、ヨーロッパ西部における最後の狩猟採集民の生死に関する重要な証拠があります。ヨーロッパ西部における最後の中石器時代HGの一部の遺伝的祖先系統と社会動態を調べるため、フランス北西部のテヴィエックおよびオエディック遺跡とフランス北東部のシャンピニーのモン・サン=ピエール遺跡の後期中石器時代10個体のゲノムが配列決定および分析され(図1)、こり新たなゲノム証拠が以前に刊行された食性データおよび新たな高解像度年代分析と統合されました。以下は本論文の図1です。
●埋葬活動の年表
炭素(C)と窒素(N)について、オエディック遺跡の配列決定された個体のうち4個体(hoe002、hoe004、hoe005、hoe006)について、信頼できる放射性炭素(¹⁴C)データと炭素(¹³C)および窒素(¹⁵N)安定同位体データが得られ、テヴィエック遺跡(tev001、tev003)とオエディック遺跡(hoe001)とシャンピニーのモン・サン=ピエール遺跡(spt001)で以前に刊行された測定値が用いられました(表1)。配列決定された2個体(tev002、hoe003)は保存状態良好なコラーゲンを得ることが困難だったため、依然として年代測定されていません。
包括的な年代分析のため、配列データセットから年代測定された個体(表1)が、遺伝学的分析のため標本抽出されなかった個体からの刊行されている放射性炭素年代と統合されました。海産食品のかなりの消費を示唆する、研究対象の個体群の高い栄養水準を考えて、海洋貯蔵効果のため¹⁴C年代が補正されました。テヴィエックおよびオエディック遺跡における埋葬活動の改訂年表は、すでに知られていたものと一致するものの、7200/7100~6500年前頃となるオエディック遺跡(図1B)の埋葬活動の後期、たとえばJ(11)-hoe005やJ(7)-hoe004やC-2(2)-hoe001やC-3-hoe002やB(1)は近隣地域と、恐らくはブルターニュに定住していた前期新石器時代農耕民と時間的に重なっていたかもしれない、とさらに論証します。
テヴィエックおよびオエディック遺跡では、複数埋葬の墓は比較的一般的です。ゲノム解析されたテヴィエック遺跡の3個体は全て、さまざまな深さで同じ墓(K)に埋葬されていました。オエディック遺跡では、成人1個体と子供1個体、つまりJ(7)hoe004とJ(11)-hoe005を含む墓Jや、C3-hoe002を含めて複数の子供と成人1個体C2(2)-hoe001の遺骸を含む墓Cが調べられました。放射性炭素年代と各墓の層序関係から、同じ墓に埋葬された個体は時間的に共存していたか、あるいは連続した世代と示唆されます。
●食性における海洋性タンパク質
オエディックおよびテヴィエック両遺跡に埋葬された人々は、かなりの海産物消費を示します。そのタンパク質のほとんどは、貝類など低栄養水準の食料と比較して、大型魚など高栄養の海洋性食料から得られました。具体的には、オエディック遺跡から得られた新規および以前に刊行されたデータから、ヒトのコラーゲン標本は、炭素(10個体)では−15.1‰~−13.0‰(平均±標準偏差では−13.9±0.7‰)の範囲の安定同位体値、窒素(7個体)では13.9‰~15.5‰(14.6±0.5‰)だった、と示されます。これらの値から、オエディック遺跡に埋葬された個体群は漁獲された海洋性食料からそのタンパク質のひじょうに高い割合を得ており(57±9%~78±9%)、歴史時代の記録および先史時代のHGのほとんどの報告されている栄養水準よりたかい、と示唆されます。テヴィエック遺跡に埋葬された個体群も、海洋性食料の消費の多さ(38±9%~60±13%)を示しますが、オエディック遺跡個体群と比較して陸生資源からのタンパク質消費がかなり多くなっています。炭素同位体値の利用可能な測定値の範囲は、8個体では−16.6‰~−14.6‰(−15.5±0.6‰)、窒素同位体値(3個体)では11.7‰~15.2‰(13.4±1.8‰)で、テヴィエック遺跡における海洋性食料と陸生食料の混合消費を示唆します。
オエディックおよびテヴィエック両遺跡では、δ¹³C値(図2)とδ¹⁵N値は経時的に変動し、特定の傾向には従いません。タンパク質消費の供給源について、明らかな年代もしくは年齢および性別の偏りはありませんが、いくらかの遺跡内の差異が観察されます。注目すべきことにオエディック遺跡では、墓Jに埋葬された女性(hoe004)と4~7歳の少女(hoe005)は、墓Cに同じ頃に埋葬された個体(hoe001およびhoe002、約69±9%)を含めてオエディック遺跡に埋葬された他の個体の主として海洋性の食性とは対照的に、海洋性と陸生の食料のより均衡のとれた消費(約56±9%)を示します。以下は本論文の図2です。
●古代DNAデータ
現代のフランスの3ヶ所の後期中石器時代遺跡で発見された10個体について、ウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理されたライブラリでの死後損傷と、古代DNAに典型的な断片化の最初の調査後に、UDG処理されたライブラリから全ゲノム配列決定が生成されました(図1および表1)。ミトコンドリアとX染色体の汚染推定値は、一貫してひじょうに低い(3%未満)ものでした(表1)。DNA保存はほとんどの個体でひじょうに良好であり、平均(10個体全体)ゲノム配列決定深度8.25倍(0.03~22.88倍)を可能としました(表1)。生成されたゲノム配列は、関連する古代の個体群やサイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)から得られた現在のユーラシア西部人口集団やヒト起源パネルの以前に刊行された遺伝的データと比較されました。
●同時代集団との遺伝的類似性
現代のフランスから得られた後期中石器時代HGは、遺伝的に他のWHGとひじょうに類似しており(図3Aおよび図4)、長期の地理的に安定した人口集団が示唆されます。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)およびY染色体ハプログループ(YHg)はそれぞれU5とI2a1で(表1)、これらは後期中石器時代WHGでは一般的です。さらに、テヴィエック遺跡とオエディック遺跡に埋葬された個体群は、後期更新世2系統、つまりマグダレニアン関連祖先系統とイタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるWHGヴィッラブルーナ関連祖先系統の勾配の北端に位置しており、これは以前に、他の西大西洋ヨーロッパ中石器時代HGで観察されました。以下は本論文の図3です。
フランス北西部の最初の農耕民と同時代にも関わらず、テヴィエックおよびオエディック遺跡の個体群は、新石器時代集団との混合の証拠を示しません(図3A)。テヴィエックおよびオエディック遺跡の個体群は、シャンピニーなど現代のフランスで発見された他のWHG(stp001)と比較して、自集団間でより大きな遺伝的類似性を示します(図4)。表現型的には、フランスの後期中石器時代におけるいくらかの多様性が見つかります。ほとんどの個体がWHGに特徴的な濃い肌と目を有していますが、オエディック遺跡のD(4)-hoe003とJ(11)-hoe005は薄い色素沈着から中間的な肌の色素沈着を有していた可能性が高い、と観察されます。以下は本論文の図4です。
●社会構造と生物学的近縁性
有効人口規模と近親婚の水準への洞察を得るため、より高い網羅率の後期中石器時代HGの4個体(stp001、hoe003、hoe005、tev003)と比較のための古代および現代の個体群について、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してRoH)が計算されました。ブルターニュのHGとstp001では長く高頻度のRoHが観察され、小さな有効人口規模と一致します。その地理的および時間的孤立からの予測とは逆に、後期中石器時代フランスHGは、類似しているものの、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の8000年前頃の個体やアイルランドの8000年前頃の個体SRA62(関連記事)などWHGの他の高網羅率個体のゲノムでの観察よりわずかに少ないRoHを示します。興味深いことに、長いRoHの合長やRoH断片数の比例的増加の代わりの、長いRoH断片の過剰など、中石器時代ブルターニュにおける近親婚の証拠は見つかりませんでした(図3B)。
広範な同時代性を考えて、テヴィエックおよびオエディック遺跡個体群における生物学的近縁性の程度が、古代DNAデータについて、最大で2親等および4親等までの関係推測を可能とする手法で調べられました。中石器時代ブルターニュの個体群はおもに血縁ではなく、1親等の親族関係は特定されませんでした(図5)。分析された全個体が同じ墓に由来するテヴィエック遺跡内では、2組(tev001とtev003、tev002とtev003)が2親等もしくは3親等の親族と推定されました(図5)。これらの家族関係は、テヴィエック遺跡内でのより密な遺伝的クラスタ化(まとまり)でも見ることができます(図4)。個体の他の全ての組み合わせは、ともに埋葬された個体間でさえ、3親等もしくはそれより遠い親族関係です。注目すべきことに、墓Jにともに埋葬された成人女性(hoe004)と4~7歳の少女(hoe005)は生物学的に血縁ではなく、異なる表現型の概観と一致します。以下は本論文の図5です。
●考察
過去のHG人口集団間の社会的相互作用の動態は遺伝学的にはあまり研究されておらず、それは部分的には、ヒト遺骸の少なさ、その結果としてのDNA配列データの少なさに起因します。これに対処するため、後期中石器時代HGの全ゲノムデータが生成され、人骨のコラーゲンでの新たな構成放射性炭素年代で、テヴィエックおよびオエディック遺跡に埋葬された個体群は空間的に近いだけてばなく、ほぼ同時代でもあり、恐らくは集団もしくは氏族に下部構造化される生物学的人口集団を形成する、と確証されました。これは、たとえ考古学的保存の偏りと埋葬する個体の選択の可能性を考慮してさえも、ゲノムと放射性炭素年代と安定同位体と考古学のデータの統合により、中石器時代HGの人口統計学的構造および社会文化的動態の調査の前例のない機会を提供しました。
本論文の遺伝学的データから、テヴィエックおよびオエディック遺跡に埋葬された人々は、遺伝的に他のWHGとよりも相互と関連している、と確証されますが、安定同位体は各遺跡で相対的に異なる生計戦略を示します(図2)。テヴィエックおよびオエディック両遺跡の個体群における海産物の多い消費から、両集団は海洋資源の利用に強く依拠していた、と示唆されます。テヴィエックおよびオエディック両遺跡が沿岸の小地域に位置し、HGの食性が、類似の食資源の利用可能性を示唆する、テヴィエックおよびオエディック遺跡で同様の環境条件と体系的に関連していることを考えると、これは驚くべきではありません。
しかし、各集団には異なる資源利用選好がありました。後期中石器時代には、海面は現在より5~10m低く、オエディックの現在の島がより大きな島の分割された結果だった一方で、テヴィエックは海岸にありました。これは恐らく、テヴィエック遺跡の採食民にとって陸生食料の利用をより容易にできました。歴史的に報告されたHG人口集団に関する食性データから、たとえばアルシー人(Alsea)やハイダ人(Haida)やマカ人(Makah)やイヌイット(Inuit)など、世界中のごく少数の集団がその食性の50%以上を海洋資源に依存しており、それは恐らく、小舟や網や罠や釣り針や釣り糸を含めて、水生資源の集中的使用と関連する技術的な初期費用に起因する、と示唆されます。オエディック遺跡に埋葬されたそれらの個体において特筆される海洋性タンパ基質のきょくたんに多い摂取から、漁撈が主要な生計活動だった一方で、テヴィエック遺跡に埋葬された個体群はおそらく、陸生食料の狩猟と採集に相対的により多くの時間を費やした、と示唆されます。各遺跡【オエディックとテヴィエック】の特有の食性パターンから、両者は別の社会的単位として生活していた、と示唆されます。
遺跡内の低い遺伝的近縁性が観察され、中石器時代ブルターニュのHGは一部の後期上部旧石器時代HGでの観察(関連記事)と同様に、直接的親族間での近親交配を避けるような社会制度を有していた、と示唆されます。このパターンは、居住集団には主要な親族が10%未満しかいない、歴史的に記録されているHG人口集団(関連記事)と一致します。興味深いことに、予測に反して、ともに埋葬された個体には密接な生物学的親族関係がありませんでした。
このパターンの例外は、テヴィエック遺跡の墓Kの底部に埋葬された成人男性個体K6(16)-tev003で、この個体はその上に埋葬された(標本抽出された5個体のうち)少なくとも2個体とより密接な生物学的親族関係がありましたが、これらの個体は相互と密接に関連していたわけではありませんでした。この調査結果は、墓および関連する考古学的資料の配置に基づいて、成人男性個体K6(16)-tev003が有していたかもしれない、重要性と特異性を裏づけます。さらに、骨学的分析は投射武器に由来する2点の細石器の接片を明らかにしており、これは第6および第11脊椎に突き刺さっており、そのうち最初のものは大動脈切断により側枝をもたらしたかもしれません。tev003の下顎には、より古くよく傷の癒えた骨折もあり、これはある種の暴力により示される生活様式の証拠として示唆されてきました。
テヴィエックおよびオエディック遺跡の社会的単位はおおむね密接な生物学的親族関係に基づいていなかった、と示す生物学的近縁性分析と一致して、RoHパターンは、直接的な近親婚ではなく、小さな人口規模に起因する出自近縁性の増加を示します(関連記事)。この観察は、ヨーロッパ西部の他の後期中石器時代人口集団と類似しており、この現象は、ヨーロッパ東部および北部(関連記事)および南部(関連記事)と比較して、ヨーロッパ西部(関連記事)においてより顕著なようです(図3)。現代の人口集団では、近親交配はアジア西部および南部など近親婚が文化的に好まれる地域においてより一般的ですが、任意交配がある場合でさえ、小さな人口規模と族内婚の結果としても起きます。ブルターニュにおけるより広範な中石器時代の景観は、小さなHG集団間の移動性と接触と配偶者の交換を促進したかもしれません。
食性同位体に基づいて、ブルターニュの後期中石器時代の遺跡では、族外婚慣行が以前に提案されました。以前の多数の個体の同位体分析では、テヴィエックおよびオエディック遺跡に埋葬されたより若い女性の食性は、遺跡の個体群の平均よりも陸生タンパク質に依存する傾向にあり、より年長の個体では集団の海洋性タンパク質と陸生タンパク質の値に向かって動く、と示唆されました。この食性変化は、父方居住族外婚を示唆しており、この場合、他のより内陸の集団の女性が、これら沿岸部共同体へと移住しました。これら最後のHG共同体と近隣地域の最初の新石器時代集団との間の年代重複の可能性は、オエディックおよびテヴィエック遺跡の若い女性は、そのより内陸的な食性を考えると、新石器時代農耕民集団から移動していた、との見解を提起しました。
本論文は今回、オエディック遺跡における埋葬活動の後期段階での年代的重複を確証し、これらの女性(本論文ではhoe004とhoe005により示されます)は新石器時代人口集団から来たのではなく、それは、これらの女性がHGの遺伝的差異内に収まらず、新石器時代農耕民関連祖先系統の混成を見せないからである、と示します(図3および図4)。オエディック遺跡において墓Jに埋葬されたこの女性と子供の食性特性は、オエディック遺跡で観察された平均値とは異なり、テヴィエック遺跡の平均値と一致していますが、その起源は不明ではあるものの、あり得る共通の外部起源は、親族関係なしの共埋葬を説明できるかもしれません。
民族誌データでは、ヒト社会、とくに採食民において、子供の世話は複数人で行なわれることが多い、と示されます。採食民の集落内の密度は農耕民よりも高いことが多いので、集団の複数の構成員が子供の養育に参加します。成人女性と子供の埋葬されている墓における生物学的関連性のなさは、他の状況および機関では一般的ではなく、これらの問題は社会全体で普遍的ではありませんが、本論文の調査結果から、社会的つながり(親族関係)は生物学的近縁性を超えて確立され、何らかの社会的重要性が死後のそうしたつながりの原因だった、と裏づけられます。
分析されたHGもとくにオエディック遺跡の後期の個体群における農耕民関連祖先系統の欠如は、これらの人口集団間の相互作用の動態と、最終的には中石器時代HG人口集団の運命を解明しつつあります。ヨーロッパ全域では、HGから農耕民人口集団への方向性の遺伝子流動が、農耕環境におけるHG一貫と関連する祖先系統の一貫した発見により論証されてきました。フランスでは、前期新石器時代農耕民は後期更新世狩猟採集民系統を有しており、フランスにおける新石器時代集団の到来前後の複数の混合事象が示唆される、と示されてきました(関連記事1および関連記事2)。
さらに、在来の土器伝統の発展とともに農耕民の最初の到来後わずか数世代で起きたフランス南部におけるHGと農耕民の混合の遅れの証拠は、HG集団による新石器時代一括の側面の地元の採用として解釈されてきました(関連記事1および関連記事2)。シチリア島では、HG祖先系統を有する1個体がシチリア島前期新石器時代農耕民と類似した食性兆候を示し、集団間の相互作用との見解を提起します(関連記事)。しかし、農耕民と共存していたHGの遺伝的データは稀なままです。
本論文では、オエディック遺跡における最後の埋葬事象の一部は、プリュヴィニヨン(Pluvignon)やケルヴーリック(Kervouric)やケルヴイエック(Kervouyec)など、ブルターニュにおける近隣の農耕民遺跡と同時代である、と確証されます。このHG人口集団はこの地域への新石器時代人の到来と重複する時間横断区を通じて混合していないままだった、と観察されます。ブルターニュにおける初期農耕民からり遺伝的データの欠如にも関わらず、農耕民はフランスの他地域ではHG関連祖先系統を有していました(関連記事1および関連記事2)。
まとめると、これらの結果から、採食民と農耕民との間の遺伝子流動は通常一方向であり、HG祖先系統を有する個体群が農耕民集団に加わることから生じ、その逆ではなかった、と示されます。新石器時代農耕民の到来に先行するHG集団ではなく初期農耕民と年代的に重なるHG集団の標本抽出により、混合した農耕民関連祖先系統の欠如についての説明として、標本抽出の偏りが排除されます。HGと農耕民の集団間の相互作用のそうしたパターンはブルターニュにおいて明らかですが、逆方向【農耕民からHG】の遺伝子流動は他の状況と地域では起きたかもしれません。
●まとめ
本論文におけるテヴィエックおよびオエディック遺跡における埋葬活動の年代の改訂は、ブルターニュにおける中石器時代の終焉についてより堅牢な解釈を提供し、オエディック遺跡をフランスにおける最後の既知の中石器時代遺跡と位置づけます。テヴィエックおよびオエディック遺跡の個体群は、ヨーロッパ西部中石器時代HG集団の地理的および年代的分布の末端で暮らしていました。こうした環境は、これらの集団をごく小さな人口規模に起因する深刻な遺伝的浮動に追い込み、近親婚とその有害な結果に代わる選択肢を残さなかったかもしれません。
遺伝学と放射性炭素と安定同位体の結果の統合により、これらの集団が近親婚回避のための戦略を実行しており、さまざまなHG下位集団間の集団間結婚網の維持を示していた、と観察されます。こうした慣行はこれらHG集団が最終的に新石器時代農耕民により同化もしくは置換されたその存在の終焉まで、ずっと活発だった可能性が高そうです。そうした戦略は前期上部旧石器時代以来のHGの慣行に起源があるかもしれず、前期上部旧石器時代には、族外婚と集団間の定期的な交換が近親婚を避けていたようです(関連記事)。遺伝学と食性の分析の組み合わせにより、HGの社会文化的制度の複雑さが明らかになり、そうした複雑さはその葬儀慣行に表れています。
参考文献:
Simões LG. et al.(2024): Genomic ancestry and social dynamics of the last hunter-gatherers of Atlantic France. PNAS, 121, 10, e2310545121.
https://doi.org/10.1073/pnas.2310545121
●要約
初期完新世以降、ヨーロッパ西部および中央部には、ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western European hunter-gatherer、略してWHG)の遺伝的に異なる集団が居住していました。この集団は最終的に、侵入してきた新石器時代農耕民により置換され、同化されました。大西洋正面(Atlantic façade)西部はヨーロッパ本土の最後の中石器時代のいくつかがあり、フランスのブルターニュ南部のオエディックおよびテヴィエックの代表的な開地遺跡により代表されます。これらの遺跡は、ひじょうに保存状態が良好で、埋葬が多いことで知られています。
中石器時代ヨーロッパ狩猟採集民のゲノム研究は、1ヶ所の遺跡あたり単一もしくは数個体に限られており、ヨーロッパの最後の中石器時代狩猟採集民の社会動態および侵入してきた農耕民との相互作用に関する理解は限定的です。本論文は、フランスのオエディックテヴィエックとシャンピニー)の最後の中石器時代遺跡で発見された10個体の完全なゲノムを配列決定して分析し、これら10個体のうち4個体はゲノム網羅率が8~23倍です。ゲノムと年代と食性のデータ分析から、ブルターニュにおける最後の中石器時代人口集団は配偶者交換網内で明確な社会単位を維持していた、と明らかになりました。これにより、後期中石器時代集団の小さな人口規模にも関わらず、近親婚を防ぐ低い集団内の生物学的近縁性がもたらされました。
分析された狩猟採集民では、その一部が近隣地域の最初の農耕民集団と共存していたかもしれない場合でさえ、新石器時代農耕民からの遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は見つかりませんでした。したがって、同じ遺跡から得られた安定同位体データに基づく以前の結論とは逆に、後期中石器時代採食民共同体は、配偶者交換では、新石器時代農耕民は除外され、近隣の狩猟採集民集団に限定されていました。
●研究史
11700年前頃となる完新世の開始は、ヨーロッパにおいてその市電の採食民に影響を及ぼした、温順な気候条件をもたらしました。この期間は、考古学的観点では旧石器時代から中石器時代への移行を定義する、新たな集落パターンや技術や生計や葬儀慣行や世界観により証明されるように、社会文化的慣行の顕著な変化により特徴づけられます。古代人遺骸の古ゲノム研究から、いくつかの遺伝的に異なる集団が旧石器時代にはヨーロッパ全体に存在した、と示されてきました(関連記事)。
ヨーロッパ西部では、上部旧石器時代のマグダレニアン(Magdalenian、マドレーヌ文化)が最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)には優勢で、マグダレニアンはベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡の20000~14000年前頃となる個体(ゴイエQ2)に代表され、「マグダレニアン」祖先系統集団と呼ばれています。この集団はいわゆるWHG祖先系統集団により完新世初期にはほぼ置換され(関連記事)、例外はイベリア半島(関連記事)とある程度のフランス南西部(関連記事)です。
新石器時代農耕民の到来まで数千年間、WHGはヨーロッパのほとんどで最も一般的な集団でした。WHGと新石器時代農耕民の共存期間はヨーロッパ西部では短く、狩猟採集民(hunter-gatherers、略してHG)と侵入してきた農耕民人口集団との間の相互作用は解明困難で、それは部分的には、最後のHGの正確な年代が困難だったからです。ブルターニュー南部では、中石器時代生活様式は較正年代【以下、明記しない場合は基本的に較正年代です】で6750年前頃に終わり、ブルターニュにおける最初の新石器時代遺跡の年代は6950~6650年前頃の間です。ブルターニュ北部地域の新石器化は6850年前頃に始まり、これは、近隣のノルマンディーもしくはパリ盆地などフランスの他地域より約200年遅くなっています。
新石器時代人口集団の到来が長く確立されていたHGの社会文化的慣行をヨーロッパ全域で変えたことは、考古学的記録において明らかです。遺伝学的観点では、新石器時代人口集団がHGをある程度同化させたことは、今では明らかです(関連記事1および関連記事2)。この過程がどのように起きたのか分かっておらず、それは部分的には、重要な後期中石器時代遺跡の一部からの遺伝的データが依然として欠けているからです。接触と混合の地域的あるいはさらには局所的な微妙な差違の証拠が増えつつあります(関連記事)。たとえばシチリア島北西部のデッルッツォ洞窟(Grotta dell’Uzzo)では、食性パターンに基づいて、農耕民とHGとの間の相互作用の兆候があります(関連記事)。しかし、遺伝子流動も農耕民から存在していた後期中石器時代人口集団(まだ報告されていませんでした)へと起きたのかどうかは不明なままで、これは農耕民と同時代に暮らしていたHGのゲノムの調査によってのみ答えることができる問題です。
古代HGのゲノム研究はおもに、遺伝的多様性のパターンを形成した人口統計学的過程に焦点が当てられてきました(関連記事)。HG社会集団のゲノムデータセットを生成した研究はわずかで、そうした研究では年代的および空間的共存の確証された複数個体が分析されています。そうしたデータセットは、HG社会の社会的動態の研究の独特な機会を提供します(関連記事)。フランスのブルターニュ南部のオエディックおよびテヴィエック貝塚はヨーロッパの大西洋正面に位置しており、フランスの最重要中石器時代遺跡の一部で、それは、この地域では比類のないヒト遺骸の多さとひじょうに良好な保存状態のためです。
ポルトガルおよびスカンジナビア半島南部の後期中石器時代埋葬地とともに、オエディックとテヴィエックには新石器時代への移行までの、ヨーロッパ西部における最後の狩猟採集民の生死に関する重要な証拠があります。ヨーロッパ西部における最後の中石器時代HGの一部の遺伝的祖先系統と社会動態を調べるため、フランス北西部のテヴィエックおよびオエディック遺跡とフランス北東部のシャンピニーのモン・サン=ピエール遺跡の後期中石器時代10個体のゲノムが配列決定および分析され(図1)、こり新たなゲノム証拠が以前に刊行された食性データおよび新たな高解像度年代分析と統合されました。以下は本論文の図1です。
●埋葬活動の年表
炭素(C)と窒素(N)について、オエディック遺跡の配列決定された個体のうち4個体(hoe002、hoe004、hoe005、hoe006)について、信頼できる放射性炭素(¹⁴C)データと炭素(¹³C)および窒素(¹⁵N)安定同位体データが得られ、テヴィエック遺跡(tev001、tev003)とオエディック遺跡(hoe001)とシャンピニーのモン・サン=ピエール遺跡(spt001)で以前に刊行された測定値が用いられました(表1)。配列決定された2個体(tev002、hoe003)は保存状態良好なコラーゲンを得ることが困難だったため、依然として年代測定されていません。
包括的な年代分析のため、配列データセットから年代測定された個体(表1)が、遺伝学的分析のため標本抽出されなかった個体からの刊行されている放射性炭素年代と統合されました。海産食品のかなりの消費を示唆する、研究対象の個体群の高い栄養水準を考えて、海洋貯蔵効果のため¹⁴C年代が補正されました。テヴィエックおよびオエディック遺跡における埋葬活動の改訂年表は、すでに知られていたものと一致するものの、7200/7100~6500年前頃となるオエディック遺跡(図1B)の埋葬活動の後期、たとえばJ(11)-hoe005やJ(7)-hoe004やC-2(2)-hoe001やC-3-hoe002やB(1)は近隣地域と、恐らくはブルターニュに定住していた前期新石器時代農耕民と時間的に重なっていたかもしれない、とさらに論証します。
テヴィエックおよびオエディック遺跡では、複数埋葬の墓は比較的一般的です。ゲノム解析されたテヴィエック遺跡の3個体は全て、さまざまな深さで同じ墓(K)に埋葬されていました。オエディック遺跡では、成人1個体と子供1個体、つまりJ(7)hoe004とJ(11)-hoe005を含む墓Jや、C3-hoe002を含めて複数の子供と成人1個体C2(2)-hoe001の遺骸を含む墓Cが調べられました。放射性炭素年代と各墓の層序関係から、同じ墓に埋葬された個体は時間的に共存していたか、あるいは連続した世代と示唆されます。
●食性における海洋性タンパク質
オエディックおよびテヴィエック両遺跡に埋葬された人々は、かなりの海産物消費を示します。そのタンパク質のほとんどは、貝類など低栄養水準の食料と比較して、大型魚など高栄養の海洋性食料から得られました。具体的には、オエディック遺跡から得られた新規および以前に刊行されたデータから、ヒトのコラーゲン標本は、炭素(10個体)では−15.1‰~−13.0‰(平均±標準偏差では−13.9±0.7‰)の範囲の安定同位体値、窒素(7個体)では13.9‰~15.5‰(14.6±0.5‰)だった、と示されます。これらの値から、オエディック遺跡に埋葬された個体群は漁獲された海洋性食料からそのタンパク質のひじょうに高い割合を得ており(57±9%~78±9%)、歴史時代の記録および先史時代のHGのほとんどの報告されている栄養水準よりたかい、と示唆されます。テヴィエック遺跡に埋葬された個体群も、海洋性食料の消費の多さ(38±9%~60±13%)を示しますが、オエディック遺跡個体群と比較して陸生資源からのタンパク質消費がかなり多くなっています。炭素同位体値の利用可能な測定値の範囲は、8個体では−16.6‰~−14.6‰(−15.5±0.6‰)、窒素同位体値(3個体)では11.7‰~15.2‰(13.4±1.8‰)で、テヴィエック遺跡における海洋性食料と陸生食料の混合消費を示唆します。
オエディックおよびテヴィエック両遺跡では、δ¹³C値(図2)とδ¹⁵N値は経時的に変動し、特定の傾向には従いません。タンパク質消費の供給源について、明らかな年代もしくは年齢および性別の偏りはありませんが、いくらかの遺跡内の差異が観察されます。注目すべきことにオエディック遺跡では、墓Jに埋葬された女性(hoe004)と4~7歳の少女(hoe005)は、墓Cに同じ頃に埋葬された個体(hoe001およびhoe002、約69±9%)を含めてオエディック遺跡に埋葬された他の個体の主として海洋性の食性とは対照的に、海洋性と陸生の食料のより均衡のとれた消費(約56±9%)を示します。以下は本論文の図2です。
●古代DNAデータ
現代のフランスの3ヶ所の後期中石器時代遺跡で発見された10個体について、ウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理されたライブラリでの死後損傷と、古代DNAに典型的な断片化の最初の調査後に、UDG処理されたライブラリから全ゲノム配列決定が生成されました(図1および表1)。ミトコンドリアとX染色体の汚染推定値は、一貫してひじょうに低い(3%未満)ものでした(表1)。DNA保存はほとんどの個体でひじょうに良好であり、平均(10個体全体)ゲノム配列決定深度8.25倍(0.03~22.88倍)を可能としました(表1)。生成されたゲノム配列は、関連する古代の個体群やサイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)から得られた現在のユーラシア西部人口集団やヒト起源パネルの以前に刊行された遺伝的データと比較されました。
●同時代集団との遺伝的類似性
現代のフランスから得られた後期中石器時代HGは、遺伝的に他のWHGとひじょうに類似しており(図3Aおよび図4)、長期の地理的に安定した人口集団が示唆されます。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)およびY染色体ハプログループ(YHg)はそれぞれU5とI2a1で(表1)、これらは後期中石器時代WHGでは一般的です。さらに、テヴィエック遺跡とオエディック遺跡に埋葬された個体群は、後期更新世2系統、つまりマグダレニアン関連祖先系統とイタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡個体に代表されるWHGヴィッラブルーナ関連祖先系統の勾配の北端に位置しており、これは以前に、他の西大西洋ヨーロッパ中石器時代HGで観察されました。以下は本論文の図3です。
フランス北西部の最初の農耕民と同時代にも関わらず、テヴィエックおよびオエディック遺跡の個体群は、新石器時代集団との混合の証拠を示しません(図3A)。テヴィエックおよびオエディック遺跡の個体群は、シャンピニーなど現代のフランスで発見された他のWHG(stp001)と比較して、自集団間でより大きな遺伝的類似性を示します(図4)。表現型的には、フランスの後期中石器時代におけるいくらかの多様性が見つかります。ほとんどの個体がWHGに特徴的な濃い肌と目を有していますが、オエディック遺跡のD(4)-hoe003とJ(11)-hoe005は薄い色素沈着から中間的な肌の色素沈着を有していた可能性が高い、と観察されます。以下は本論文の図4です。
●社会構造と生物学的近縁性
有効人口規模と近親婚の水準への洞察を得るため、より高い網羅率の後期中石器時代HGの4個体(stp001、hoe003、hoe005、tev003)と比較のための古代および現代の個体群について、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してRoH)が計算されました。ブルターニュのHGとstp001では長く高頻度のRoHが観察され、小さな有効人口規模と一致します。その地理的および時間的孤立からの予測とは逆に、後期中石器時代フランスHGは、類似しているものの、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の8000年前頃の個体やアイルランドの8000年前頃の個体SRA62(関連記事)などWHGの他の高網羅率個体のゲノムでの観察よりわずかに少ないRoHを示します。興味深いことに、長いRoHの合長やRoH断片数の比例的増加の代わりの、長いRoH断片の過剰など、中石器時代ブルターニュにおける近親婚の証拠は見つかりませんでした(図3B)。
広範な同時代性を考えて、テヴィエックおよびオエディック遺跡個体群における生物学的近縁性の程度が、古代DNAデータについて、最大で2親等および4親等までの関係推測を可能とする手法で調べられました。中石器時代ブルターニュの個体群はおもに血縁ではなく、1親等の親族関係は特定されませんでした(図5)。分析された全個体が同じ墓に由来するテヴィエック遺跡内では、2組(tev001とtev003、tev002とtev003)が2親等もしくは3親等の親族と推定されました(図5)。これらの家族関係は、テヴィエック遺跡内でのより密な遺伝的クラスタ化(まとまり)でも見ることができます(図4)。個体の他の全ての組み合わせは、ともに埋葬された個体間でさえ、3親等もしくはそれより遠い親族関係です。注目すべきことに、墓Jにともに埋葬された成人女性(hoe004)と4~7歳の少女(hoe005)は生物学的に血縁ではなく、異なる表現型の概観と一致します。以下は本論文の図5です。
●考察
過去のHG人口集団間の社会的相互作用の動態は遺伝学的にはあまり研究されておらず、それは部分的には、ヒト遺骸の少なさ、その結果としてのDNA配列データの少なさに起因します。これに対処するため、後期中石器時代HGの全ゲノムデータが生成され、人骨のコラーゲンでの新たな構成放射性炭素年代で、テヴィエックおよびオエディック遺跡に埋葬された個体群は空間的に近いだけてばなく、ほぼ同時代でもあり、恐らくは集団もしくは氏族に下部構造化される生物学的人口集団を形成する、と確証されました。これは、たとえ考古学的保存の偏りと埋葬する個体の選択の可能性を考慮してさえも、ゲノムと放射性炭素年代と安定同位体と考古学のデータの統合により、中石器時代HGの人口統計学的構造および社会文化的動態の調査の前例のない機会を提供しました。
本論文の遺伝学的データから、テヴィエックおよびオエディック遺跡に埋葬された人々は、遺伝的に他のWHGとよりも相互と関連している、と確証されますが、安定同位体は各遺跡で相対的に異なる生計戦略を示します(図2)。テヴィエックおよびオエディック両遺跡の個体群における海産物の多い消費から、両集団は海洋資源の利用に強く依拠していた、と示唆されます。テヴィエックおよびオエディック両遺跡が沿岸の小地域に位置し、HGの食性が、類似の食資源の利用可能性を示唆する、テヴィエックおよびオエディック遺跡で同様の環境条件と体系的に関連していることを考えると、これは驚くべきではありません。
しかし、各集団には異なる資源利用選好がありました。後期中石器時代には、海面は現在より5~10m低く、オエディックの現在の島がより大きな島の分割された結果だった一方で、テヴィエックは海岸にありました。これは恐らく、テヴィエック遺跡の採食民にとって陸生食料の利用をより容易にできました。歴史的に報告されたHG人口集団に関する食性データから、たとえばアルシー人(Alsea)やハイダ人(Haida)やマカ人(Makah)やイヌイット(Inuit)など、世界中のごく少数の集団がその食性の50%以上を海洋資源に依存しており、それは恐らく、小舟や網や罠や釣り針や釣り糸を含めて、水生資源の集中的使用と関連する技術的な初期費用に起因する、と示唆されます。オエディック遺跡に埋葬されたそれらの個体において特筆される海洋性タンパ基質のきょくたんに多い摂取から、漁撈が主要な生計活動だった一方で、テヴィエック遺跡に埋葬された個体群はおそらく、陸生食料の狩猟と採集に相対的により多くの時間を費やした、と示唆されます。各遺跡【オエディックとテヴィエック】の特有の食性パターンから、両者は別の社会的単位として生活していた、と示唆されます。
遺跡内の低い遺伝的近縁性が観察され、中石器時代ブルターニュのHGは一部の後期上部旧石器時代HGでの観察(関連記事)と同様に、直接的親族間での近親交配を避けるような社会制度を有していた、と示唆されます。このパターンは、居住集団には主要な親族が10%未満しかいない、歴史的に記録されているHG人口集団(関連記事)と一致します。興味深いことに、予測に反して、ともに埋葬された個体には密接な生物学的親族関係がありませんでした。
このパターンの例外は、テヴィエック遺跡の墓Kの底部に埋葬された成人男性個体K6(16)-tev003で、この個体はその上に埋葬された(標本抽出された5個体のうち)少なくとも2個体とより密接な生物学的親族関係がありましたが、これらの個体は相互と密接に関連していたわけではありませんでした。この調査結果は、墓および関連する考古学的資料の配置に基づいて、成人男性個体K6(16)-tev003が有していたかもしれない、重要性と特異性を裏づけます。さらに、骨学的分析は投射武器に由来する2点の細石器の接片を明らかにしており、これは第6および第11脊椎に突き刺さっており、そのうち最初のものは大動脈切断により側枝をもたらしたかもしれません。tev003の下顎には、より古くよく傷の癒えた骨折もあり、これはある種の暴力により示される生活様式の証拠として示唆されてきました。
テヴィエックおよびオエディック遺跡の社会的単位はおおむね密接な生物学的親族関係に基づいていなかった、と示す生物学的近縁性分析と一致して、RoHパターンは、直接的な近親婚ではなく、小さな人口規模に起因する出自近縁性の増加を示します(関連記事)。この観察は、ヨーロッパ西部の他の後期中石器時代人口集団と類似しており、この現象は、ヨーロッパ東部および北部(関連記事)および南部(関連記事)と比較して、ヨーロッパ西部(関連記事)においてより顕著なようです(図3)。現代の人口集団では、近親交配はアジア西部および南部など近親婚が文化的に好まれる地域においてより一般的ですが、任意交配がある場合でさえ、小さな人口規模と族内婚の結果としても起きます。ブルターニュにおけるより広範な中石器時代の景観は、小さなHG集団間の移動性と接触と配偶者の交換を促進したかもしれません。
食性同位体に基づいて、ブルターニュの後期中石器時代の遺跡では、族外婚慣行が以前に提案されました。以前の多数の個体の同位体分析では、テヴィエックおよびオエディック遺跡に埋葬されたより若い女性の食性は、遺跡の個体群の平均よりも陸生タンパク質に依存する傾向にあり、より年長の個体では集団の海洋性タンパク質と陸生タンパク質の値に向かって動く、と示唆されました。この食性変化は、父方居住族外婚を示唆しており、この場合、他のより内陸の集団の女性が、これら沿岸部共同体へと移住しました。これら最後のHG共同体と近隣地域の最初の新石器時代集団との間の年代重複の可能性は、オエディックおよびテヴィエック遺跡の若い女性は、そのより内陸的な食性を考えると、新石器時代農耕民集団から移動していた、との見解を提起しました。
本論文は今回、オエディック遺跡における埋葬活動の後期段階での年代的重複を確証し、これらの女性(本論文ではhoe004とhoe005により示されます)は新石器時代人口集団から来たのではなく、それは、これらの女性がHGの遺伝的差異内に収まらず、新石器時代農耕民関連祖先系統の混成を見せないからである、と示します(図3および図4)。オエディック遺跡において墓Jに埋葬されたこの女性と子供の食性特性は、オエディック遺跡で観察された平均値とは異なり、テヴィエック遺跡の平均値と一致していますが、その起源は不明ではあるものの、あり得る共通の外部起源は、親族関係なしの共埋葬を説明できるかもしれません。
民族誌データでは、ヒト社会、とくに採食民において、子供の世話は複数人で行なわれることが多い、と示されます。採食民の集落内の密度は農耕民よりも高いことが多いので、集団の複数の構成員が子供の養育に参加します。成人女性と子供の埋葬されている墓における生物学的関連性のなさは、他の状況および機関では一般的ではなく、これらの問題は社会全体で普遍的ではありませんが、本論文の調査結果から、社会的つながり(親族関係)は生物学的近縁性を超えて確立され、何らかの社会的重要性が死後のそうしたつながりの原因だった、と裏づけられます。
分析されたHGもとくにオエディック遺跡の後期の個体群における農耕民関連祖先系統の欠如は、これらの人口集団間の相互作用の動態と、最終的には中石器時代HG人口集団の運命を解明しつつあります。ヨーロッパ全域では、HGから農耕民人口集団への方向性の遺伝子流動が、農耕環境におけるHG一貫と関連する祖先系統の一貫した発見により論証されてきました。フランスでは、前期新石器時代農耕民は後期更新世狩猟採集民系統を有しており、フランスにおける新石器時代集団の到来前後の複数の混合事象が示唆される、と示されてきました(関連記事1および関連記事2)。
さらに、在来の土器伝統の発展とともに農耕民の最初の到来後わずか数世代で起きたフランス南部におけるHGと農耕民の混合の遅れの証拠は、HG集団による新石器時代一括の側面の地元の採用として解釈されてきました(関連記事1および関連記事2)。シチリア島では、HG祖先系統を有する1個体がシチリア島前期新石器時代農耕民と類似した食性兆候を示し、集団間の相互作用との見解を提起します(関連記事)。しかし、農耕民と共存していたHGの遺伝的データは稀なままです。
本論文では、オエディック遺跡における最後の埋葬事象の一部は、プリュヴィニヨン(Pluvignon)やケルヴーリック(Kervouric)やケルヴイエック(Kervouyec)など、ブルターニュにおける近隣の農耕民遺跡と同時代である、と確証されます。このHG人口集団はこの地域への新石器時代人の到来と重複する時間横断区を通じて混合していないままだった、と観察されます。ブルターニュにおける初期農耕民からり遺伝的データの欠如にも関わらず、農耕民はフランスの他地域ではHG関連祖先系統を有していました(関連記事1および関連記事2)。
まとめると、これらの結果から、採食民と農耕民との間の遺伝子流動は通常一方向であり、HG祖先系統を有する個体群が農耕民集団に加わることから生じ、その逆ではなかった、と示されます。新石器時代農耕民の到来に先行するHG集団ではなく初期農耕民と年代的に重なるHG集団の標本抽出により、混合した農耕民関連祖先系統の欠如についての説明として、標本抽出の偏りが排除されます。HGと農耕民の集団間の相互作用のそうしたパターンはブルターニュにおいて明らかですが、逆方向【農耕民からHG】の遺伝子流動は他の状況と地域では起きたかもしれません。
●まとめ
本論文におけるテヴィエックおよびオエディック遺跡における埋葬活動の年代の改訂は、ブルターニュにおける中石器時代の終焉についてより堅牢な解釈を提供し、オエディック遺跡をフランスにおける最後の既知の中石器時代遺跡と位置づけます。テヴィエックおよびオエディック遺跡の個体群は、ヨーロッパ西部中石器時代HG集団の地理的および年代的分布の末端で暮らしていました。こうした環境は、これらの集団をごく小さな人口規模に起因する深刻な遺伝的浮動に追い込み、近親婚とその有害な結果に代わる選択肢を残さなかったかもしれません。
遺伝学と放射性炭素と安定同位体の結果の統合により、これらの集団が近親婚回避のための戦略を実行しており、さまざまなHG下位集団間の集団間結婚網の維持を示していた、と観察されます。こうした慣行はこれらHG集団が最終的に新石器時代農耕民により同化もしくは置換されたその存在の終焉まで、ずっと活発だった可能性が高そうです。そうした戦略は前期上部旧石器時代以来のHGの慣行に起源があるかもしれず、前期上部旧石器時代には、族外婚と集団間の定期的な交換が近親婚を避けていたようです(関連記事)。遺伝学と食性の分析の組み合わせにより、HGの社会文化的制度の複雑さが明らかになり、そうした複雑さはその葬儀慣行に表れています。
参考文献:
Simões LG. et al.(2024): Genomic ancestry and social dynamics of the last hunter-gatherers of Atlantic France. PNAS, 121, 10, e2310545121.
https://doi.org/10.1073/pnas.2310545121
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