大石泰史『今川氏滅亡』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2018年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は今川氏の滅亡過程だけではなく広く戦国時代の今川氏を対象とし、戦国大名としての今川氏の滅亡を広い観点から考察しています。今川氏は足利氏一門で、鎌倉時代前期の足利義氏の庶長子である吉良長氏の次男である国氏が今川を称し、南北朝時代に駿河守護となります。今川氏が戦国大名として台頭していったのは氏親(龍王丸)の代ですが、氏親は父の義忠が幕府より「逆賊」とされた状況から家督継承争いを勝ち抜いて今川氏の当主になっており、これに貢献したのが伊勢宗瑞(北条早雲)でした(関連記事)。

 今川当主となった氏親は駿河の安定化を進めていくとともに、1494年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)には遠江への侵攻を開始します。この過程で氏親は三河勢とも通じて遠江の斯波氏を尾張に退去させています。氏親は1526年に没し、氏輝が後を継ぎます。氏輝の代には、その母親である寿桂尼が「家督代行者」として文書を発給していますが、寿桂尼は氏親の代にはまだ政治の前面には出ていなかっただろう、と本書は推測します。また本書は、寿桂尼が氏親の路線を継承して福嶋氏と提携しており、実子の義元(栴岳承芳)と福嶋氏の娘を母親とする花蔵殿(玄広恵探)とが今川家の後継者の座を争った花蔵の乱では、福嶋氏と「同心」していた可能性を指摘します。

 花蔵の乱の結果、義元が今川氏当主となり、都との提携、さらには外交路線も変わっていったことを本書は指摘します。たとえば、武田氏と提携し、家督継承争いでも支持を受けた後北条氏と対立するようになったことなどです。ただ、義元は後に後北条氏も含めて、今川・武田・後北条の「三国同盟」を締結しています。戦国大名としての今川氏が没落する契機となった1560年の桶狭間合戦について、義元の「三河守」任官は尾張侵攻とは関連しておらず、義元の意図は上洛ではなく、西三河安定のための尾張攻撃と橋頭保確保という二つの可能性があり、それは相互に排他的ではない、と本書は指摘します。

 桶狭間合戦の時点で、今川氏の家督はすでに氏真が継承していました。義元が桶狭間合戦で討ち死にした後、今川氏の領国では、まず三河で、次に遠江で国衆が今川氏から離反していき、それぞれ「三州錯乱」や「遠州忩劇」と呼ばれています。こうして混乱した今川領国に武田氏と徳川氏が攻め込み、今川氏は戦国大名として没落するわけですが、本書は、氏真がその前の1566年頃には遠江を一度はある程度安定化させたことや、用水や楽市など、氏真の代における積極的な領国経営があったことを指摘します。また本書は、氏真の没落の一因とされる上杉氏との提携およびそれに伴う武田氏との決定的な関係悪化について、氏真がそれ以前の1562年時点で、今川氏に対して軍事協力に消極的であり、織田氏とも提携しつつあった武田信玄に不信を抱いていたからではないか、と推測しています。ただ本書は、今川氏が戦国大名として没落した決定的な要因として、外交方針の転換ではなく、「家中」を担える人材の不足、さらには「家中」の数度にわたる再構成を挙げています。

この記事へのコメント