バスク人の人口史
取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、バスク人の人口史に関する研究(Bertranpetit., 2022)が公表されました。バスク人は、ほぼインド・ヨーロッパ語族の言語が話されている現代ヨーロッパにおいて、インド・ヨーロッパ語族と大きく異なるだけではなく、どの現代の言語もしくは記録にある消滅言語とも系統関係が証明されていないバスク語を話していることで、その起源と人口史に高い関心が寄せられてきました。バスク語がどの人口集団に由来するのか、現在でも不明ですが、言語学や歴史学だけではなく、遺伝学や考古学も含めて学際的な研究により、解明が進むのではないか、と期待されます。
●要約
ヒト集団遺伝学の主要な課題の一つは、現生人類(Homo sapiens)の起源から特定集団の歴史まで、さまざまな規模でのヒトの人口史の再構築でした。全ての事例で、他の歴史学(考古学と言語学と形質人類学を含みます)からの情報は、人口史の独特な枠組みで一致するはずです。カヴァッリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)氏は、この問題の定義と、古典的な遺伝子標識のデータベースと統計的手法をまとめて、高度な妥当性の遺伝学的手法を構築する上で、先駆的役割を果たしました。研究された問題の一つはバスク人集団で、その独自性と「起源」を確立することです。
多くの他の事例のように、過去数十年におけるこの地域の研究は、当初の仮説を裏づけるか修正する、多くのDNA情報と統計的分析の追加により盛んになりました。バスク人の場合、強い外部からの遺伝的影響なしでの分化が、孤立に起因すると確証されており、新石器時代の前ではなく、現在では、分化はわずか2500年前頃の鉄器時代とされています。本論文は、カヴァッリ=スフォルツァ氏とジャウマ・ベルトランペティト(Jaume Bertranpetit)氏による1991年の論文「イベリア半島の人口史の遺伝学的再構築」に基づいています。本論文は、2018年8月31日に亡くなった、著名な集団遺伝学者であるカヴァッリ=スフォルツァ氏の生誕100年を記念しての特集号に掲載されています。
●研究史
カヴァッリ=スフォルツァ氏とパオロ・メノッツィ氏(Paolo Menozzi)氏とアルベルト・ピアッツァ(Alberto Piazza)氏による『ヒトの遺伝子の歴史と地理』の1994年の刊行は、人口集団の進化史の再構築に集団遺伝学の適用という、真に新たな分野の画期的出来事でした。その範囲は世界規模で、解剖学的現代人(現生人類)の起源から複数の大陸【ユーラシアやオーストラリアやアメリカ】や特定の地域への移住にいたる過去の再構築でした。歴史的な問題が充分に関連しており、もちろん、遺伝的データが利用可能ならば、その分析は微細規模に達しましたカヴァッリ=スフォルツァ氏とメノッツィ氏とピアッツァの手法の主要な新規性は、さまざまな分野、つまり歴史学や形質人類学や言語学からの証拠が、遺伝子水準で検証可能な仮説の提示と、それらの検証の結果の解釈の両方に用いられたことでした。
この過去の再構築において重要である基本的な一連の出来事は、人口集団の人口統計学的歴史であり、それは、その遺伝子、したがって出生と繁殖と死を通じて回収される、人々の歴史です。次に、これら個々の過程は人口の増加もしくは減少、需要側の人口集団との移住や混合、社会的慣行を通じて若しくはそうではない配偶パターンや、子供の平均出生数や夫婦間の違いの両方が問題となるかもしれない、生殖パターンにつながるかもしれません。じっさい、アレル(対立遺伝子)頻度のパターンの研究により、人口集団の人口統計学的歴史への貴重な洞察が得られます。伝統的に、分析は現代人集団に当てられており、現代人集団からは、遺伝子(あるいは今やゲノム)情報を回収できますが、過去数年間に、古代DNA技術の拡張により、考古学的標本の膨大な量の遺伝子型と配列が可能となり、これらは数年前から数十万年前の化石にさかのぼるかもしれません。ある意味で、カヴァッリ=スフォルツァ氏とその同僚による本から始まり、ここ数年の任務は、カヴァッリ=スフォルツァ氏の研究の強化と確認と修正のための、新たな遺伝学および統計的分析の開発でした。
●遺伝子と歴史学
遺伝学が対処に役立てる主要な問題は、特定の人口集団において主要な社会的変化を引き起こした先史時代と歴史時代の出来事に関係しています。文化的変化が主要な経済的変化の根底にあり、次に経済的変化が人口動態に強い影響を及ぼしていることは間違いありません。しかし、考古学的データには、文化的水準のみで起きた変化(たとえば、ある人口集団から他の人口集団への新技術の伝播)と人口統計学的過程を伴う変化(たとえば、新技術の拡散が、その技術を有していた人々による移住を介していた場合)との間を区別する力はほとんどありません。
新石器時代への移行は、先史時代における文化的もしくは経済的変化の最も明確な論証された事例です。食料収集から食料生産への移行は、ヒトの暮らし方と食べ方と相互作用を永続的に変えて、現代「文明」【当ブログでは原則として文明という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】への道を敷きました。今では、文化的変化が家畜への近さから生じる新たな一連の感染症に対応して現代人のゲノムを変えた、免疫学的変化さえ認識できるようになりました。
主要な方法論上の問題の一つは、人口集団分化のほとんどの遺伝学的証拠は、時間的枠組みに当てはめることがひじょうに困難であることです。たとえば、ひじょうに厳密な理論的モデル化でのみ、2人口集団間の孤立に起因する分化過程(つまり、浮動)の年代を計算できます。理論では、浮動は人口規模に強く依存する、と示されるので、人口規模が小さいほど、人口集団の分岐の過程はより速くなります。これが、人口集団規模が小さい場合に、古代の事象が、人口集団の遺伝的分化において顕著な足跡を残した可能性が高い理由です。
1988年の論文においてかなり詩的な方法で書かれているように、「歴史的資料から得られ、言語学的記録と比較された情報の少ない人口統計学的断片は、イタリアの遺伝的構造は依然として先ローマ期の民族階層を反映している、という仮説を裏づけます」と述べられており、その論文での結論は、「その起源から何千年も後にやって来た星の光をちょうど見るように、同じ方法で、現在のイタリアの遺伝的構造は、何世紀も凍ったままであるかのように、遠い過去の歴史を反映しています」というものでした。
したがって、ヒトの集団遺伝学の遺伝的分析における適切な証拠なしの所与の意見として、最古の人口統計学的事象は、ヒトの遺伝的景観を顕著に変えた可能性がより高いので、現在見られる違いは人口史におけるひじょうに古い事象としはて解釈されてきた、と仮定されてきました。しかし、現代人についての遺伝的情報から正確な年代を推測することは不可能で、古代DNA研究時間的枠組みの証拠を与えるのに不可欠でした。バスク人の分化の時間的深度を考察しながら、この点に戻ることになります。
●遺伝子と言語
ヒトにおける言語学的分化は、言語における類似性が、過去においてはなされており、分化してきた、共通の言語に由来すると解釈されてきた類似性の認識に用いられてきた、仮想的な過程です。この分析により、語族(インド・ヨーロッパ語族など)もしくは孤立した言語(バスク語など)を認識できました。時間的枠組みを設定することは、多くの議論となってきました(そして、依然として議論になっています)が、最近では、系統発生的手法の適用により、インド・ヨーロッパ語族の事例においてひじょうに正確な枠組みが作成されてきました。ここで考慮すべき重要な点は、どの社会構造とどの社会変化が、言語変化と言語置換の速度の基礎になったかもしれないのか、ということです。以前に話されていた言語の拡大後の分化(および通常は消滅)としての特定の語族の拡大の理解は、とくに興味深いことです。一部の言語が何世紀も続き、他の言語がそうではない理由も、興味深い問題です。
●遺伝子と形質人類学
「人種」と呼ばれているものへの人々の分類を含めて、形態におけるヒトの分化の研究は、ヒトの進化史の再構築において論争となってきました。形態学的特徴に基づく手法での主要な問題は、系統発生的分析をそうした手法に適用することの難しさです。じっさい、形態学はほぼ、根底にある進化的基盤なしに、分類学的目的で使用されてきました。主要な問題は、形態学的変化についての進化的時計の欠如で、一部の特徴はより速く、他の特徴はより遅く進化史、それは選択圧の違いのためです。系統発生的手法を形態学的分析に強制した場合、結果は使用された特徴と統計的手法に応じて異なりました。形態学的特徴における差異は、間違いなく重要な情報を含んでいますが、仮説の駆動体として使用できません。さらに、形態学的差異は、世界規模もしくはひじょうに広範な規模で興味深いものの、大陸内ではそうではありません。
●バスク人の起源に関する影響力のある論文
カヴァッリ=スフォルツァ氏が世界規模で人口集団を分析した方法と土曜に、多くの科学者は小規模な分析に焦点を当て、それは地理的地域もしくは民族的に興味深い集団でした。1991年に、カヴァッリ=スフォルツァ氏とジャウマ・ベルトランペティト氏(本論文の著者)は、イベリア半島の人口史の再構築に関する論文を刊行し、その後でピレネー山脈とヨーロッパ南西部に拡張されました。これは、バスク人の人口史解明のため、多くの遺伝子座について遺伝的データを用いた、最初の論文とみなすことができます。
他の著者は、1個もしくは数個の遺伝子標識を用いた論文を刊行しました。ABO式血液型に関するアーサー・エルネスト・マウラント(Arthur Ernest Mourant)氏の初期の研究が、「バスク人は、少なくともスペインにおいて、一般的なヨーロッパ西部人口集団と類似した顕著な混合を承けなかった残存人口集団です」、との提案により基礎を築いたことに、疑問の余地はありません。その後、マウラント氏は研究団の構成員とともに、Rh式血液型アレルについてバスク人の強い分化を認識し、自身の提案に裏づけを追加しました。
他の著者は、近隣人口集団と比較してのバスク人の既知の血液型における遺伝的違いは、人口史におけるいくらかの特殊性を示唆している、と認識してきました。じっさい、ベルトランペティト氏とカヴァッリ=スフォルツァ氏は1991年の論文で、「バスク人の特異性は、より広範な地理的地域を取り上げ、できるだけ多くの遺伝子標識を用いたならば、確証されるでしょうか」、と問うて問題をひっくり返しました。その研究は、イベリア半島の合計635集団の研究において、54ヶ所(そのうち34ヶ所は独立しています)のアレル(対立遺伝子)を有する20ヶ所の遺伝子体系についてのアレル頻度収集から構成されていました。各アレルについて、平準化技術を用いて、格子の分岐点の頻度が計算され、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が完全なデータ行率に適用されました。この研究の要点は、バスク人の分化は近隣人口集団において明確に強く現れ、(驚くべきではありませんが)ABO式血液型とRh式血液型は第1主成分(PC1)と強い相関があり、総差異の27.1%を占める、というものでした。したがって、バスク地域には、イベリア半島およびより広くヨーロッパの枠組みにおいて、分化のひじょうに強い兆候が保持されていました(図1)。以下は本論文の図1です。
この兆候の解釈は、先史時代と言語学に基づいて単純で、バスク人の分化は新石器時代の前の分化の残存だった、というものでした。上述のように、遺伝的データは信頼できる時間的枠組みを備えていないので、その解釈は他分野に基づかねばなりません。発展の新石器時代の波のモデルが裏づけを得つつあったヨーロッパの状況内では、バスク人集団の起源の新石器時代前仮説を仮定するのに充分なようである、と結論づけられました。したがって、バスク人の祖先が新石器時代前の帰還にすでにいくらか分化しており、新石器時代の波から近隣人口集団よりも少ない影響を受けた、と仮定することが論理的でした。じっさい、バスク地域には、文化的革新の大半の吸収で遅れがあり、それはヨーロッパのほとんどの人口置換なしの文化的吸収につながったかもしれません。特別な文化的側面、おもに疑いの余地のない古さの言語の恒久的存続がありました。
●古典的論文の批判
現在の有利な立場の視点から、人口史の古典的な遺伝学的研究から学んだことを振り返るのは、興味深いことです。まず、遺伝子標識と種類と数については、古典的な遺伝子標識での遺伝学的研究は長く疑問を呈されてきており、それは、機能的に関連する標識が自然選択の作用を受けるかもしれないからです。結果として、地理的分布は人口史ではなく、むしろ適応を反映しているかもしれません。この異議への古典的な応答は、選択はさまざまな遺伝子多様体についてさまざまな方法で作用したでしょうから、その影響は多くの標識の分析により補うことができる、というものでした。それにも関わらず、現実には、選択が遺伝的差異の空間的パターンの決定に役割を果たした可能性の除外はできません。さらに、標識の数はタンパク質田和謳いの発見を超えて増加できないので、いくらかは制約されました。他の種類の遺伝子標識は、ずっと多い数と明確な中立性で改名されるべきで、高情報量のDNA配列決定の技術が、解決を提供するでしょう。
人口集団の標本抽出については、古典的な遺伝子標識で、さまざまな研究者がさまざまな人口集団のさまざまな多型を分類しました。同じ人口集団における同じ標識一式の分類のより一般的な方法が必要でした。統計的手法とPCAと補間法については、PCAの使用が、多くの異なるアレルで観察された遺伝的差異から得られた情報の最大量の抽出に用いられた主要な手法でした。人口集団一式についてアレル頻度一式に適用されたこの手法は、遺伝的データの地理の当初の解釈において基礎的でした。それにも関わらず、この手法は批判されてきており、それはおもに、データにおける地理的構造が、移住があったことを必ずしも意味しないからです。一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)技術の出現とともに、PCAの使用は以前よりも盛んになり、それは、PCAが、ゲノム情報を要約し、人口集団の代わりに個体群を用いて、2次元の見取り図に投影するのに効率的だからです。差異の拡大とともに個体群の直接的な見取り図を有することが、詳細な遺伝的分析の最近の成功にとって重要でした。
●片親性遺伝標識
人口史の推測について古典的な遺伝子標識を用いての問題解決のため、組換えのないヒトゲノムの領域を分析する可能性とともに、新たな窓が開かれました。この技術の主要な利点は、全ての既存の差異が同じDNA分子上の変異により生じたことです。この手法は、ヒトの集団遺伝学が、面倒な主導のサンガー(Sanger)配列決定技術DNA配列の直接的照合を通じての分子的観点を含んでいったので、可能になりました。
ヒトゲノムの二つの要素が、組換えはないと知られていました。一方は母系で伝わるミトコンドリアDNA(mtDNA)で、もう一方は父系で伝わるNRY(non-recombinant fraction of the human Y chromosome、ヒトY染色体の非組換え断片、全体の約95%)です。両事例とも、当初の技術的能力ではこれらの領域の完全な分析はできませんでした。取り組めたのは部分集団だけで、mtDNA(16569塩基対のmtDNAの完全な分析は2010年代初期に一般的になりました)の制御領域の360~1000塩基対(bp)と、数ヶ所から50ヶ所未満の事前に確認されているSNPに、NRYについて10~20のSTR(Short Tandem Repeat、常染色体縦列型反復配列)が加わり、2010年代後半には配列が約900万塩基対(Mb)まで拡張されました。
mtDNAの差異の分析は、実証的(分子数の多さ、短い長さ、多様性の遼河費となる領域、核ゲノムより高い変異率など)および生物情報学的分析の水準の両方、とくに遺伝子系統手法の適用の可能性の点で有利です。その手法では、配列多様体一式から始まり、全体的な進化系統樹が再構築され、それには祖先の絶滅した配列の再構築が含まれます。最重要なのは、系統樹が、大量のデータがある場合に、ひじょうに複雑な計算になる場合でさえ、(大きな信頼区画での)変異発生の瞬間の推定を提供することです。包括的な系統樹が今では利用可能でmtDNAとY染色体の系統における、最も浅い枝を除いて、全てを示しています。
しかし、いくつかの問題もあります。mtDNAとNRYは2ヶ所の遺伝子座にすぎず、浮動および恐らくは選択に強く影響を受け、そこから人口史水準の一般的結論を導きだには小さく偏った標本です。遺伝子系統の分岐点の年代は、人口集団の年代について参照として採用されますが、その年代は、人口拡大など人口統計学的に関連する事象のずっと前であることが多くあります。移動年代とそうした拡大の年代は、稀に同じです。したがって、非組換えゲノム領域の集団遺伝学における関心は否定できませんが、その適用は過剰解釈の多くの事例により損なわれました。さらなる問題は系統のより深い枝、いわゆるハプログループの具体化にあり、ハプログループは、実際の人口集団に取って代わる自立的な進化的実態であるかのように、示されることが多くありました。バスク人における特定のハプログループの存在もしくは頻度の分布は本論文の範囲を超えており、考察を豊かにしないでしょう。
バスク人の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)に関する研究は豊富にあり、バスク人を完全にヨーロッパ人と説明してきました。中核的なヨーロッパ人の差異以外の下位分枝はバスク人には存在しませんが、他の下位分枝は高頻度で見つかっており、一部はその場所で分化した明確な兆候があります。それにも関わらず、いくつかの研究の結論は、バスク自治州の人々の新石器時代前の背景の存続に関する息の長い仮説により導かれました。本論文では、影響力が強く、より現代的な研究のみが考察されます。
mtDNAに関する当初の研究は、他のヨーロッパの人口集団と比較してわずかな違いのある、バスク人の顕著な均一性を示し、強い創始者効果が示唆され、「血液型やタンパク質多型など古典的な遺伝子標識は他のヨーロッパの人口集団から明確にバスク人(とサルデーニャ島人)を分離しますが、この特徴はmtDNAを用いては見つかりませんでした」、と結論づけられました。この「ハプログループ」手法は、他の人口集団の解釈に分野を開き、その多くは不正確と判明しました。たとえば、バスク人のハプログループを「旧石器時代」もしくは「新石器時代」と解釈した2013年の研究では、「これらの調査結果は、フランコ・カンタブリア地域の現在の在来人口集団、具体的にはバスク人と、旧石器時代/中石器時代狩猟採集民集団との間の父系の遺伝的連続性の堅牢な証拠を提供し、(中略)現存ヨーロッパ人口集団における優勢な旧石器時代の遺伝的基盤との見解をさらに裏づける」、と結論づけられました。いくつかの他の論文は同様の結論を提供してきましたが、データは他の解釈とも一致しました。
人口史の観点からのバスク人のY染色体に関する最初の研究は、ヨーロッパの多様性景観内におけるバスク人の低いY染色体多様性を明らかにし、その論文の著者はこれを、世代を通じて維持された低い有効人口規模のためとしました。その論文では、現代バスク人の一部のY染色体系統は新石器時代前の期間に起源があり、それ以降進化し続けてきた、と認識されました。これらの結果は、その後の移住と強い浮動を伴う、部分的に古い背景との一般的見解と一致しました。Y染色体に関する最近の研究(およびその引用文献)は、「青銅器時代に、インド・ヨーロッパ語族のY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b1a1a2(S116)によるヨーロッパ西部における旧石器時代/新石器時代のY染色体組成の置換につながった拡散が起きた、という仮説を裏づけます」。ここでの興味深い点は、置換の時期が以前の提案より新しく、これは以下で考察される古代DNA研究(関連記事)の主要な結論であることです。したがって、二つの独立した研究が、バスク人の遺伝的特徴は一般的に仮定されているよりも最近になって形成された、と示唆した点で収束しました。
●遺伝子標識の顕著な増加
分子生物学的技術の発展により、DNA配列の直接的な調査が可能となり、ゲノム全体にわたる遺伝子標識の一覧が増加しました。いくつかの研究では、Alu挿入とSTR(依然として法医学で広く使用されています)を用いて、バスク人集団を分析しました。それらは主に歴史的に興味深いものです。
SNPは以前も今も、遺伝子標識としてひじょうに強力な手法です。影響力の強い2009年の論文は、フランスとスペインの南北とアフリカ北部のバスク人のDNA標本で144ヶ所のSNPを分析しました。その論文では、バスク人と非バスク人との間の遺伝的違いが見つからず、それは驚くべき結果でしたが、SNPの数は少なかったことが示されています。SNP配列の利用により大規模なSNPの調査が可能になると、この分野で研究の新時代が開かれました。数十万の両アレル(対立遺伝子)標識が単一の実験で検査でき、そのほとんどは明らかに中立的で、人口集団の遺伝的記述において大きな前進を可能としました。バスク人に関する当初の研究では、個体の分類の代わりに、研究対象となった10人口集団のそれぞれで30個体のDNAプールが検討されました。その結果は明確で、「分析から、ゲノム規模の手観点が適用される場合、バスク人は他のイベリア半島の人口集団ととくに区別されない、と示されました」。
翌年(2010年)すぐに、同じ雑誌の別の論文では、矛盾する結果が見つかり、「スペインとフランスの州のバスク人を含む最初の高出力分析が提示され、バスク人は漸進均質な集団を構成し、他のヨーロッパの人口集団と明確に区別できる、と示されます」と指摘されました。それ以降の多くの研究で見られたように、この両研究間の相違は、最初の研究で使用された標本の共同計算方法に起因する可能性が高そうで、バスク人の遺伝的分化は全ゲノム手法で完全に確証されました。
スペイン全域にわたる1413個体の広範なSNP分析は、遺伝的分化の主要な動因として歴史的出来事を報告し、人口移動の明確な遺伝的影響はイスラム教徒の征服およびその後のレコンキスタ(再征服)と関連していました。遠い過去とバスク人の分化は、とくに議論されませんでした。しかし、これら充分な標識一式でさえ、分析は人口集団の過去の起源の詳細な観点を提示できませんでした。複数の先史時代と歴史時代の期間における遺伝的多様性を説明できるようにするには、古代DNA研究に頼る必要がありました。本論文は、古代の片親性遺伝標識の研究を報告するつもりはなく、それは、古代の片親性遺伝標識の研究が、過去の人口史の明確で充分な全体像を提供してこなかったからです。
●バスク人の論争における古代DNA研究の力
古代DNAの抽出および配列決定の能力は、大きく前進してきました。これらの方法論の完全な開発には長い時間を要し、それはおもに、DNA抽出とPCR(polymerase chain reaction、ポリメラーゼ連鎖反応)増幅と死後のDNA損傷および汚染と関連する、技術的困難に起因します。新たな配列決定技術の出現で、古代の標本におけるDNA研究の手法はより多くの科学者によってより標準化され、利用可能になりました。二つの主要な手法が競合しており、それぞれ、古い遺骸からの全ゲノム配列の取得と、混合捕獲と呼ばれるようになった手法を通じての事前に定義されたSNP一式の分類に依拠しています。
この二つの手法にはそれぞれ特質があります。純粋に科学的な観点からは、原則として、全ての利用可能な情報を提供するだろう、全ゲノム配列決定が最適な選択です。しかし、莫大な費用と汚染および分解に起因する全ゲノム配列取得の困難によって、他のより限定的な手法が技術的および経済的には望ましいものとなります。選択されたSNPにおける確証の偏りと稀な多様体の分析不可能の認識にも関わらず、混合捕獲は、短期間で何千もの古代DNA標本からの遺伝的データの獲得を可能として、古い遺骸からさらに多く得られるようになる技術です。
バスク人の研究では、古代DNAはmtDNA解析で始まり、新石器時代のアタプエルカの個体の全ゲノム配列決定が続き(関連記事)、バスク人とその言語は新石器時代における農耕拡大と関連していたかもしれない、と示唆する決定的ではない結果が得られました。その主要な結果はハーヴァード大学のデイヴィッド・ライク(David Reich)研究室でおもに行なわれたイベリア半島の大規模な研究(関連記事)に由来し、中石器時代から最近の歴史時代まで約8000年間を網羅する400個体からデータが得られました。この研究では、バスカードの遺伝的基盤は以前に仮定されたような古代ではなかった、と明確に示されたものの、紀元前2200~紀元前900年頃の青銅器時代以降バスク人の遺伝的孤立が確証されました。
図2で見られるように、イベリア半島の全ての人口集団は青銅器時代まで類似の人口史を共有しており、第一に、ヨーロッパ中央部狩猟採集民と関連する旧石器時代祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)、第二に、カヴァッリ=スフォルツァ氏により仮定された、進歩の新石器時代の波のひじょうに強い影響、第三に、青銅器時代における、ヤムナヤ(Yamnaya)文化とも呼ばれるヨーロッパ中央部草原地帯関連祖先系統です。イベリア半島へのこの最後の人口移動は、イベリア半島への骨壺墓地(Urnfield)伝統およびインド・ヨーロッパ語族言語の導入と相関している可能性が高そうです。
イベリア半島では、いくつかの人口集団がインド・ヨーロッパ語族言語を採用せず、それにはその後のイベリア半島の文化的集団と現在バスク人集団と呼ばれる集団が含まれており、バスク人集団のみがその後も、時代の転換期にラテン語やロマンス語が拡大しても、自身の言語を保持しました。この混合後に、生じた人口集団が有していた祖先系統の割合は、草原地帯関連祖先系統が40%、すでに存在していた祖先系統が60%と推定されました。これは、バスク人を含めて、イベリア半島の全ての人々の共通の遺伝的基盤です。その後バスク人は、ローマの拡大やイスラム教徒征服の影響を伴う、イベリア半島の他地域に強い影響を及ぼした遺伝子流動仮定から孤立したままでした(図2)。以下は本論文の図2です。
●現在の人口集団の全ゲノム配列決定
これらの調査結果と解釈は、現生人口集団について、バスク自治州の微細地理的分析(関連記事)を含めて、全ゲノム水準で確証されました。これまでに実行された最大の研究では、現代人と古代人ほぼ2000個体から得られたDNA標本と、4人の祖父母が同じ地域で生まれた190個体のDNAで、ヨーロッパにおけるバスク人の遺伝的独自性が確証されました。もっと重要なのは、この独自性が特別な起源ではなく、単に2500年前頃の鉄器時代以降のより大きな孤立に起因することです。
この研究は明確に、バスク人は単に新石器時代より前の期間の狩猟採集民や新石器時代集団の連続ではなく、もっと新しい鉄器時代人口集団の連続だった、と論証しました。微細地理的水準で実行された分析は、バスク語(Euskara)の歴史的な地理的分布とこの地域で現在検出される遺伝的不均一性との間の相関を示しました。これが示唆するのは、言語が、たとえばローマ期やイスラム教徒支配期などにおいて、鉄器時代以来のバスク人の孤立を促進した文化的障壁として作用したかもしれない、ということです。これらの遺伝的特徴の保存は、バスク地域と強い相関があったヨーロッパ南西部における鉄器時代祖先系統のモデル化された影響と見ることができます(図3)。以下は本論文の図3です。
したがって、バスク人の遺伝的独自性は、現在のバスク自治州に頂点があり、南西部と北東部への勾配がある、とみなすことができます(図4)。以下は本論文の図4です。
●まとめ
カヴァッリ=スフォルツァ氏は、ヒトの集団遺伝学の分野に独特な影響を及ぼしてきました。現在主流と考えられている見解の多くは、30年前にはまだ揺籃期にあるか、存在しませんでした。そうした見解の多くには、遺伝学がヒトの(人口統計学的)歴史、もしくは人口集団間の遺伝的差異の根底にある要因の認識と測定をどのように回収するのか、など、ひじょうに一般的な論題が含まれます。遺伝学や人口統計学や人類学や考古学や言語学から得られたデータと概念を用いて、ヒト進化の研究への学際的手法の適用を、おもにカヴァッリ=スフォルツァ氏の功績と認めるのは公平です。カヴァッリ=スフォルツァ氏は、分子および生物統計両方の技術における多くの新たな開発を含めて、集団遺伝学の全側面の深い知識のおかげで、学際的観点を発展させました。重要な一側面は、図5で見ることができるように、遺伝的差異系統樹使用の重要性で、これは、研究中の昼食のカフェテリアの紙の食卓布の写真で、カヴァッリ=スフォルツァ氏はそこに1990年時点の会話の要点を描いていました。以下は本論文の図5です。
カヴァッリ=スフォルツァ氏がイタリア語「librone(本)」で呼んでいた本が刊行されると、本論文の著者(ジャウマ・ベルトランペティト氏)を含む多くの研究者が、新たな時代が到来し、使用された遺伝子標識が拡張され、人口集団の標本抽出が増加し、カヴァッリ=スフォルツァ氏の提案を検証し、新たな調査結果に基づいて訂正および拡張するための洗練された手法が採用されつつある、と認識しました。これは、バスク人の遺伝的特異性と、文化的事象と関連する人口史の観点での解釈に当てはまりました。
バスク人の特異性に関する影響力のある論文と、古典的な遺伝子標識の研究に関する共同論文が刊行されてからの30年間に、多くの関連研究が刊行されました。バスク人の遺伝的特異性の主な全体像は変わっておらず(それが存在しない、と主張した数本の論文にも関わらず)、浮動と孤立は依然として、バスク人の分化の主因と考えられています。最近変わったのは、バスク人の孤立につながる人口統計学的過程の時期の正確な位置づけで、それは新石器時代の前ではなく、鉄器時代の2500年前頃でした。
参考文献:
Bertranpetit J.(2022): Genetics and population history. The case of the Iberian Peninsula and the “origin” of Basques. Human Population Genetics and Genomics, 2, 1, 0002.
https://doi.org/10.47248/hpgg2202010002
●要約
ヒト集団遺伝学の主要な課題の一つは、現生人類(Homo sapiens)の起源から特定集団の歴史まで、さまざまな規模でのヒトの人口史の再構築でした。全ての事例で、他の歴史学(考古学と言語学と形質人類学を含みます)からの情報は、人口史の独特な枠組みで一致するはずです。カヴァッリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)氏は、この問題の定義と、古典的な遺伝子標識のデータベースと統計的手法をまとめて、高度な妥当性の遺伝学的手法を構築する上で、先駆的役割を果たしました。研究された問題の一つはバスク人集団で、その独自性と「起源」を確立することです。
多くの他の事例のように、過去数十年におけるこの地域の研究は、当初の仮説を裏づけるか修正する、多くのDNA情報と統計的分析の追加により盛んになりました。バスク人の場合、強い外部からの遺伝的影響なしでの分化が、孤立に起因すると確証されており、新石器時代の前ではなく、現在では、分化はわずか2500年前頃の鉄器時代とされています。本論文は、カヴァッリ=スフォルツァ氏とジャウマ・ベルトランペティト(Jaume Bertranpetit)氏による1991年の論文「イベリア半島の人口史の遺伝学的再構築」に基づいています。本論文は、2018年8月31日に亡くなった、著名な集団遺伝学者であるカヴァッリ=スフォルツァ氏の生誕100年を記念しての特集号に掲載されています。
●研究史
カヴァッリ=スフォルツァ氏とパオロ・メノッツィ氏(Paolo Menozzi)氏とアルベルト・ピアッツァ(Alberto Piazza)氏による『ヒトの遺伝子の歴史と地理』の1994年の刊行は、人口集団の進化史の再構築に集団遺伝学の適用という、真に新たな分野の画期的出来事でした。その範囲は世界規模で、解剖学的現代人(現生人類)の起源から複数の大陸【ユーラシアやオーストラリアやアメリカ】や特定の地域への移住にいたる過去の再構築でした。歴史的な問題が充分に関連しており、もちろん、遺伝的データが利用可能ならば、その分析は微細規模に達しましたカヴァッリ=スフォルツァ氏とメノッツィ氏とピアッツァの手法の主要な新規性は、さまざまな分野、つまり歴史学や形質人類学や言語学からの証拠が、遺伝子水準で検証可能な仮説の提示と、それらの検証の結果の解釈の両方に用いられたことでした。
この過去の再構築において重要である基本的な一連の出来事は、人口集団の人口統計学的歴史であり、それは、その遺伝子、したがって出生と繁殖と死を通じて回収される、人々の歴史です。次に、これら個々の過程は人口の増加もしくは減少、需要側の人口集団との移住や混合、社会的慣行を通じて若しくはそうではない配偶パターンや、子供の平均出生数や夫婦間の違いの両方が問題となるかもしれない、生殖パターンにつながるかもしれません。じっさい、アレル(対立遺伝子)頻度のパターンの研究により、人口集団の人口統計学的歴史への貴重な洞察が得られます。伝統的に、分析は現代人集団に当てられており、現代人集団からは、遺伝子(あるいは今やゲノム)情報を回収できますが、過去数年間に、古代DNA技術の拡張により、考古学的標本の膨大な量の遺伝子型と配列が可能となり、これらは数年前から数十万年前の化石にさかのぼるかもしれません。ある意味で、カヴァッリ=スフォルツァ氏とその同僚による本から始まり、ここ数年の任務は、カヴァッリ=スフォルツァ氏の研究の強化と確認と修正のための、新たな遺伝学および統計的分析の開発でした。
●遺伝子と歴史学
遺伝学が対処に役立てる主要な問題は、特定の人口集団において主要な社会的変化を引き起こした先史時代と歴史時代の出来事に関係しています。文化的変化が主要な経済的変化の根底にあり、次に経済的変化が人口動態に強い影響を及ぼしていることは間違いありません。しかし、考古学的データには、文化的水準のみで起きた変化(たとえば、ある人口集団から他の人口集団への新技術の伝播)と人口統計学的過程を伴う変化(たとえば、新技術の拡散が、その技術を有していた人々による移住を介していた場合)との間を区別する力はほとんどありません。
新石器時代への移行は、先史時代における文化的もしくは経済的変化の最も明確な論証された事例です。食料収集から食料生産への移行は、ヒトの暮らし方と食べ方と相互作用を永続的に変えて、現代「文明」【当ブログでは原則として文明という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】への道を敷きました。今では、文化的変化が家畜への近さから生じる新たな一連の感染症に対応して現代人のゲノムを変えた、免疫学的変化さえ認識できるようになりました。
主要な方法論上の問題の一つは、人口集団分化のほとんどの遺伝学的証拠は、時間的枠組みに当てはめることがひじょうに困難であることです。たとえば、ひじょうに厳密な理論的モデル化でのみ、2人口集団間の孤立に起因する分化過程(つまり、浮動)の年代を計算できます。理論では、浮動は人口規模に強く依存する、と示されるので、人口規模が小さいほど、人口集団の分岐の過程はより速くなります。これが、人口集団規模が小さい場合に、古代の事象が、人口集団の遺伝的分化において顕著な足跡を残した可能性が高い理由です。
1988年の論文においてかなり詩的な方法で書かれているように、「歴史的資料から得られ、言語学的記録と比較された情報の少ない人口統計学的断片は、イタリアの遺伝的構造は依然として先ローマ期の民族階層を反映している、という仮説を裏づけます」と述べられており、その論文での結論は、「その起源から何千年も後にやって来た星の光をちょうど見るように、同じ方法で、現在のイタリアの遺伝的構造は、何世紀も凍ったままであるかのように、遠い過去の歴史を反映しています」というものでした。
したがって、ヒトの集団遺伝学の遺伝的分析における適切な証拠なしの所与の意見として、最古の人口統計学的事象は、ヒトの遺伝的景観を顕著に変えた可能性がより高いので、現在見られる違いは人口史におけるひじょうに古い事象としはて解釈されてきた、と仮定されてきました。しかし、現代人についての遺伝的情報から正確な年代を推測することは不可能で、古代DNA研究時間的枠組みの証拠を与えるのに不可欠でした。バスク人の分化の時間的深度を考察しながら、この点に戻ることになります。
●遺伝子と言語
ヒトにおける言語学的分化は、言語における類似性が、過去においてはなされており、分化してきた、共通の言語に由来すると解釈されてきた類似性の認識に用いられてきた、仮想的な過程です。この分析により、語族(インド・ヨーロッパ語族など)もしくは孤立した言語(バスク語など)を認識できました。時間的枠組みを設定することは、多くの議論となってきました(そして、依然として議論になっています)が、最近では、系統発生的手法の適用により、インド・ヨーロッパ語族の事例においてひじょうに正確な枠組みが作成されてきました。ここで考慮すべき重要な点は、どの社会構造とどの社会変化が、言語変化と言語置換の速度の基礎になったかもしれないのか、ということです。以前に話されていた言語の拡大後の分化(および通常は消滅)としての特定の語族の拡大の理解は、とくに興味深いことです。一部の言語が何世紀も続き、他の言語がそうではない理由も、興味深い問題です。
●遺伝子と形質人類学
「人種」と呼ばれているものへの人々の分類を含めて、形態におけるヒトの分化の研究は、ヒトの進化史の再構築において論争となってきました。形態学的特徴に基づく手法での主要な問題は、系統発生的分析をそうした手法に適用することの難しさです。じっさい、形態学はほぼ、根底にある進化的基盤なしに、分類学的目的で使用されてきました。主要な問題は、形態学的変化についての進化的時計の欠如で、一部の特徴はより速く、他の特徴はより遅く進化史、それは選択圧の違いのためです。系統発生的手法を形態学的分析に強制した場合、結果は使用された特徴と統計的手法に応じて異なりました。形態学的特徴における差異は、間違いなく重要な情報を含んでいますが、仮説の駆動体として使用できません。さらに、形態学的差異は、世界規模もしくはひじょうに広範な規模で興味深いものの、大陸内ではそうではありません。
●バスク人の起源に関する影響力のある論文
カヴァッリ=スフォルツァ氏が世界規模で人口集団を分析した方法と土曜に、多くの科学者は小規模な分析に焦点を当て、それは地理的地域もしくは民族的に興味深い集団でした。1991年に、カヴァッリ=スフォルツァ氏とジャウマ・ベルトランペティト氏(本論文の著者)は、イベリア半島の人口史の再構築に関する論文を刊行し、その後でピレネー山脈とヨーロッパ南西部に拡張されました。これは、バスク人の人口史解明のため、多くの遺伝子座について遺伝的データを用いた、最初の論文とみなすことができます。
他の著者は、1個もしくは数個の遺伝子標識を用いた論文を刊行しました。ABO式血液型に関するアーサー・エルネスト・マウラント(Arthur Ernest Mourant)氏の初期の研究が、「バスク人は、少なくともスペインにおいて、一般的なヨーロッパ西部人口集団と類似した顕著な混合を承けなかった残存人口集団です」、との提案により基礎を築いたことに、疑問の余地はありません。その後、マウラント氏は研究団の構成員とともに、Rh式血液型アレルについてバスク人の強い分化を認識し、自身の提案に裏づけを追加しました。
他の著者は、近隣人口集団と比較してのバスク人の既知の血液型における遺伝的違いは、人口史におけるいくらかの特殊性を示唆している、と認識してきました。じっさい、ベルトランペティト氏とカヴァッリ=スフォルツァ氏は1991年の論文で、「バスク人の特異性は、より広範な地理的地域を取り上げ、できるだけ多くの遺伝子標識を用いたならば、確証されるでしょうか」、と問うて問題をひっくり返しました。その研究は、イベリア半島の合計635集団の研究において、54ヶ所(そのうち34ヶ所は独立しています)のアレル(対立遺伝子)を有する20ヶ所の遺伝子体系についてのアレル頻度収集から構成されていました。各アレルについて、平準化技術を用いて、格子の分岐点の頻度が計算され、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が完全なデータ行率に適用されました。この研究の要点は、バスク人の分化は近隣人口集団において明確に強く現れ、(驚くべきではありませんが)ABO式血液型とRh式血液型は第1主成分(PC1)と強い相関があり、総差異の27.1%を占める、というものでした。したがって、バスク地域には、イベリア半島およびより広くヨーロッパの枠組みにおいて、分化のひじょうに強い兆候が保持されていました(図1)。以下は本論文の図1です。
この兆候の解釈は、先史時代と言語学に基づいて単純で、バスク人の分化は新石器時代の前の分化の残存だった、というものでした。上述のように、遺伝的データは信頼できる時間的枠組みを備えていないので、その解釈は他分野に基づかねばなりません。発展の新石器時代の波のモデルが裏づけを得つつあったヨーロッパの状況内では、バスク人集団の起源の新石器時代前仮説を仮定するのに充分なようである、と結論づけられました。したがって、バスク人の祖先が新石器時代前の帰還にすでにいくらか分化しており、新石器時代の波から近隣人口集団よりも少ない影響を受けた、と仮定することが論理的でした。じっさい、バスク地域には、文化的革新の大半の吸収で遅れがあり、それはヨーロッパのほとんどの人口置換なしの文化的吸収につながったかもしれません。特別な文化的側面、おもに疑いの余地のない古さの言語の恒久的存続がありました。
●古典的論文の批判
現在の有利な立場の視点から、人口史の古典的な遺伝学的研究から学んだことを振り返るのは、興味深いことです。まず、遺伝子標識と種類と数については、古典的な遺伝子標識での遺伝学的研究は長く疑問を呈されてきており、それは、機能的に関連する標識が自然選択の作用を受けるかもしれないからです。結果として、地理的分布は人口史ではなく、むしろ適応を反映しているかもしれません。この異議への古典的な応答は、選択はさまざまな遺伝子多様体についてさまざまな方法で作用したでしょうから、その影響は多くの標識の分析により補うことができる、というものでした。それにも関わらず、現実には、選択が遺伝的差異の空間的パターンの決定に役割を果たした可能性の除外はできません。さらに、標識の数はタンパク質田和謳いの発見を超えて増加できないので、いくらかは制約されました。他の種類の遺伝子標識は、ずっと多い数と明確な中立性で改名されるべきで、高情報量のDNA配列決定の技術が、解決を提供するでしょう。
人口集団の標本抽出については、古典的な遺伝子標識で、さまざまな研究者がさまざまな人口集団のさまざまな多型を分類しました。同じ人口集団における同じ標識一式の分類のより一般的な方法が必要でした。統計的手法とPCAと補間法については、PCAの使用が、多くの異なるアレルで観察された遺伝的差異から得られた情報の最大量の抽出に用いられた主要な手法でした。人口集団一式についてアレル頻度一式に適用されたこの手法は、遺伝的データの地理の当初の解釈において基礎的でした。それにも関わらず、この手法は批判されてきており、それはおもに、データにおける地理的構造が、移住があったことを必ずしも意味しないからです。一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)技術の出現とともに、PCAの使用は以前よりも盛んになり、それは、PCAが、ゲノム情報を要約し、人口集団の代わりに個体群を用いて、2次元の見取り図に投影するのに効率的だからです。差異の拡大とともに個体群の直接的な見取り図を有することが、詳細な遺伝的分析の最近の成功にとって重要でした。
●片親性遺伝標識
人口史の推測について古典的な遺伝子標識を用いての問題解決のため、組換えのないヒトゲノムの領域を分析する可能性とともに、新たな窓が開かれました。この技術の主要な利点は、全ての既存の差異が同じDNA分子上の変異により生じたことです。この手法は、ヒトの集団遺伝学が、面倒な主導のサンガー(Sanger)配列決定技術DNA配列の直接的照合を通じての分子的観点を含んでいったので、可能になりました。
ヒトゲノムの二つの要素が、組換えはないと知られていました。一方は母系で伝わるミトコンドリアDNA(mtDNA)で、もう一方は父系で伝わるNRY(non-recombinant fraction of the human Y chromosome、ヒトY染色体の非組換え断片、全体の約95%)です。両事例とも、当初の技術的能力ではこれらの領域の完全な分析はできませんでした。取り組めたのは部分集団だけで、mtDNA(16569塩基対のmtDNAの完全な分析は2010年代初期に一般的になりました)の制御領域の360~1000塩基対(bp)と、数ヶ所から50ヶ所未満の事前に確認されているSNPに、NRYについて10~20のSTR(Short Tandem Repeat、常染色体縦列型反復配列)が加わり、2010年代後半には配列が約900万塩基対(Mb)まで拡張されました。
mtDNAの差異の分析は、実証的(分子数の多さ、短い長さ、多様性の遼河費となる領域、核ゲノムより高い変異率など)および生物情報学的分析の水準の両方、とくに遺伝子系統手法の適用の可能性の点で有利です。その手法では、配列多様体一式から始まり、全体的な進化系統樹が再構築され、それには祖先の絶滅した配列の再構築が含まれます。最重要なのは、系統樹が、大量のデータがある場合に、ひじょうに複雑な計算になる場合でさえ、(大きな信頼区画での)変異発生の瞬間の推定を提供することです。包括的な系統樹が今では利用可能でmtDNAとY染色体の系統における、最も浅い枝を除いて、全てを示しています。
しかし、いくつかの問題もあります。mtDNAとNRYは2ヶ所の遺伝子座にすぎず、浮動および恐らくは選択に強く影響を受け、そこから人口史水準の一般的結論を導きだには小さく偏った標本です。遺伝子系統の分岐点の年代は、人口集団の年代について参照として採用されますが、その年代は、人口拡大など人口統計学的に関連する事象のずっと前であることが多くあります。移動年代とそうした拡大の年代は、稀に同じです。したがって、非組換えゲノム領域の集団遺伝学における関心は否定できませんが、その適用は過剰解釈の多くの事例により損なわれました。さらなる問題は系統のより深い枝、いわゆるハプログループの具体化にあり、ハプログループは、実際の人口集団に取って代わる自立的な進化的実態であるかのように、示されることが多くありました。バスク人における特定のハプログループの存在もしくは頻度の分布は本論文の範囲を超えており、考察を豊かにしないでしょう。
バスク人の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)に関する研究は豊富にあり、バスク人を完全にヨーロッパ人と説明してきました。中核的なヨーロッパ人の差異以外の下位分枝はバスク人には存在しませんが、他の下位分枝は高頻度で見つかっており、一部はその場所で分化した明確な兆候があります。それにも関わらず、いくつかの研究の結論は、バスク自治州の人々の新石器時代前の背景の存続に関する息の長い仮説により導かれました。本論文では、影響力が強く、より現代的な研究のみが考察されます。
mtDNAに関する当初の研究は、他のヨーロッパの人口集団と比較してわずかな違いのある、バスク人の顕著な均一性を示し、強い創始者効果が示唆され、「血液型やタンパク質多型など古典的な遺伝子標識は他のヨーロッパの人口集団から明確にバスク人(とサルデーニャ島人)を分離しますが、この特徴はmtDNAを用いては見つかりませんでした」、と結論づけられました。この「ハプログループ」手法は、他の人口集団の解釈に分野を開き、その多くは不正確と判明しました。たとえば、バスク人のハプログループを「旧石器時代」もしくは「新石器時代」と解釈した2013年の研究では、「これらの調査結果は、フランコ・カンタブリア地域の現在の在来人口集団、具体的にはバスク人と、旧石器時代/中石器時代狩猟採集民集団との間の父系の遺伝的連続性の堅牢な証拠を提供し、(中略)現存ヨーロッパ人口集団における優勢な旧石器時代の遺伝的基盤との見解をさらに裏づける」、と結論づけられました。いくつかの他の論文は同様の結論を提供してきましたが、データは他の解釈とも一致しました。
人口史の観点からのバスク人のY染色体に関する最初の研究は、ヨーロッパの多様性景観内におけるバスク人の低いY染色体多様性を明らかにし、その論文の著者はこれを、世代を通じて維持された低い有効人口規模のためとしました。その論文では、現代バスク人の一部のY染色体系統は新石器時代前の期間に起源があり、それ以降進化し続けてきた、と認識されました。これらの結果は、その後の移住と強い浮動を伴う、部分的に古い背景との一般的見解と一致しました。Y染色体に関する最近の研究(およびその引用文献)は、「青銅器時代に、インド・ヨーロッパ語族のY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b1a1a2(S116)によるヨーロッパ西部における旧石器時代/新石器時代のY染色体組成の置換につながった拡散が起きた、という仮説を裏づけます」。ここでの興味深い点は、置換の時期が以前の提案より新しく、これは以下で考察される古代DNA研究(関連記事)の主要な結論であることです。したがって、二つの独立した研究が、バスク人の遺伝的特徴は一般的に仮定されているよりも最近になって形成された、と示唆した点で収束しました。
●遺伝子標識の顕著な増加
分子生物学的技術の発展により、DNA配列の直接的な調査が可能となり、ゲノム全体にわたる遺伝子標識の一覧が増加しました。いくつかの研究では、Alu挿入とSTR(依然として法医学で広く使用されています)を用いて、バスク人集団を分析しました。それらは主に歴史的に興味深いものです。
SNPは以前も今も、遺伝子標識としてひじょうに強力な手法です。影響力の強い2009年の論文は、フランスとスペインの南北とアフリカ北部のバスク人のDNA標本で144ヶ所のSNPを分析しました。その論文では、バスク人と非バスク人との間の遺伝的違いが見つからず、それは驚くべき結果でしたが、SNPの数は少なかったことが示されています。SNP配列の利用により大規模なSNPの調査が可能になると、この分野で研究の新時代が開かれました。数十万の両アレル(対立遺伝子)標識が単一の実験で検査でき、そのほとんどは明らかに中立的で、人口集団の遺伝的記述において大きな前進を可能としました。バスク人に関する当初の研究では、個体の分類の代わりに、研究対象となった10人口集団のそれぞれで30個体のDNAプールが検討されました。その結果は明確で、「分析から、ゲノム規模の手観点が適用される場合、バスク人は他のイベリア半島の人口集団ととくに区別されない、と示されました」。
翌年(2010年)すぐに、同じ雑誌の別の論文では、矛盾する結果が見つかり、「スペインとフランスの州のバスク人を含む最初の高出力分析が提示され、バスク人は漸進均質な集団を構成し、他のヨーロッパの人口集団と明確に区別できる、と示されます」と指摘されました。それ以降の多くの研究で見られたように、この両研究間の相違は、最初の研究で使用された標本の共同計算方法に起因する可能性が高そうで、バスク人の遺伝的分化は全ゲノム手法で完全に確証されました。
スペイン全域にわたる1413個体の広範なSNP分析は、遺伝的分化の主要な動因として歴史的出来事を報告し、人口移動の明確な遺伝的影響はイスラム教徒の征服およびその後のレコンキスタ(再征服)と関連していました。遠い過去とバスク人の分化は、とくに議論されませんでした。しかし、これら充分な標識一式でさえ、分析は人口集団の過去の起源の詳細な観点を提示できませんでした。複数の先史時代と歴史時代の期間における遺伝的多様性を説明できるようにするには、古代DNA研究に頼る必要がありました。本論文は、古代の片親性遺伝標識の研究を報告するつもりはなく、それは、古代の片親性遺伝標識の研究が、過去の人口史の明確で充分な全体像を提供してこなかったからです。
●バスク人の論争における古代DNA研究の力
古代DNAの抽出および配列決定の能力は、大きく前進してきました。これらの方法論の完全な開発には長い時間を要し、それはおもに、DNA抽出とPCR(polymerase chain reaction、ポリメラーゼ連鎖反応)増幅と死後のDNA損傷および汚染と関連する、技術的困難に起因します。新たな配列決定技術の出現で、古代の標本におけるDNA研究の手法はより多くの科学者によってより標準化され、利用可能になりました。二つの主要な手法が競合しており、それぞれ、古い遺骸からの全ゲノム配列の取得と、混合捕獲と呼ばれるようになった手法を通じての事前に定義されたSNP一式の分類に依拠しています。
この二つの手法にはそれぞれ特質があります。純粋に科学的な観点からは、原則として、全ての利用可能な情報を提供するだろう、全ゲノム配列決定が最適な選択です。しかし、莫大な費用と汚染および分解に起因する全ゲノム配列取得の困難によって、他のより限定的な手法が技術的および経済的には望ましいものとなります。選択されたSNPにおける確証の偏りと稀な多様体の分析不可能の認識にも関わらず、混合捕獲は、短期間で何千もの古代DNA標本からの遺伝的データの獲得を可能として、古い遺骸からさらに多く得られるようになる技術です。
バスク人の研究では、古代DNAはmtDNA解析で始まり、新石器時代のアタプエルカの個体の全ゲノム配列決定が続き(関連記事)、バスク人とその言語は新石器時代における農耕拡大と関連していたかもしれない、と示唆する決定的ではない結果が得られました。その主要な結果はハーヴァード大学のデイヴィッド・ライク(David Reich)研究室でおもに行なわれたイベリア半島の大規模な研究(関連記事)に由来し、中石器時代から最近の歴史時代まで約8000年間を網羅する400個体からデータが得られました。この研究では、バスカードの遺伝的基盤は以前に仮定されたような古代ではなかった、と明確に示されたものの、紀元前2200~紀元前900年頃の青銅器時代以降バスク人の遺伝的孤立が確証されました。
図2で見られるように、イベリア半島の全ての人口集団は青銅器時代まで類似の人口史を共有しており、第一に、ヨーロッパ中央部狩猟採集民と関連する旧石器時代祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)、第二に、カヴァッリ=スフォルツァ氏により仮定された、進歩の新石器時代の波のひじょうに強い影響、第三に、青銅器時代における、ヤムナヤ(Yamnaya)文化とも呼ばれるヨーロッパ中央部草原地帯関連祖先系統です。イベリア半島へのこの最後の人口移動は、イベリア半島への骨壺墓地(Urnfield)伝統およびインド・ヨーロッパ語族言語の導入と相関している可能性が高そうです。
イベリア半島では、いくつかの人口集団がインド・ヨーロッパ語族言語を採用せず、それにはその後のイベリア半島の文化的集団と現在バスク人集団と呼ばれる集団が含まれており、バスク人集団のみがその後も、時代の転換期にラテン語やロマンス語が拡大しても、自身の言語を保持しました。この混合後に、生じた人口集団が有していた祖先系統の割合は、草原地帯関連祖先系統が40%、すでに存在していた祖先系統が60%と推定されました。これは、バスク人を含めて、イベリア半島の全ての人々の共通の遺伝的基盤です。その後バスク人は、ローマの拡大やイスラム教徒征服の影響を伴う、イベリア半島の他地域に強い影響を及ぼした遺伝子流動仮定から孤立したままでした(図2)。以下は本論文の図2です。
●現在の人口集団の全ゲノム配列決定
これらの調査結果と解釈は、現生人口集団について、バスク自治州の微細地理的分析(関連記事)を含めて、全ゲノム水準で確証されました。これまでに実行された最大の研究では、現代人と古代人ほぼ2000個体から得られたDNA標本と、4人の祖父母が同じ地域で生まれた190個体のDNAで、ヨーロッパにおけるバスク人の遺伝的独自性が確証されました。もっと重要なのは、この独自性が特別な起源ではなく、単に2500年前頃の鉄器時代以降のより大きな孤立に起因することです。
この研究は明確に、バスク人は単に新石器時代より前の期間の狩猟採集民や新石器時代集団の連続ではなく、もっと新しい鉄器時代人口集団の連続だった、と論証しました。微細地理的水準で実行された分析は、バスク語(Euskara)の歴史的な地理的分布とこの地域で現在検出される遺伝的不均一性との間の相関を示しました。これが示唆するのは、言語が、たとえばローマ期やイスラム教徒支配期などにおいて、鉄器時代以来のバスク人の孤立を促進した文化的障壁として作用したかもしれない、ということです。これらの遺伝的特徴の保存は、バスク地域と強い相関があったヨーロッパ南西部における鉄器時代祖先系統のモデル化された影響と見ることができます(図3)。以下は本論文の図3です。
したがって、バスク人の遺伝的独自性は、現在のバスク自治州に頂点があり、南西部と北東部への勾配がある、とみなすことができます(図4)。以下は本論文の図4です。
●まとめ
カヴァッリ=スフォルツァ氏は、ヒトの集団遺伝学の分野に独特な影響を及ぼしてきました。現在主流と考えられている見解の多くは、30年前にはまだ揺籃期にあるか、存在しませんでした。そうした見解の多くには、遺伝学がヒトの(人口統計学的)歴史、もしくは人口集団間の遺伝的差異の根底にある要因の認識と測定をどのように回収するのか、など、ひじょうに一般的な論題が含まれます。遺伝学や人口統計学や人類学や考古学や言語学から得られたデータと概念を用いて、ヒト進化の研究への学際的手法の適用を、おもにカヴァッリ=スフォルツァ氏の功績と認めるのは公平です。カヴァッリ=スフォルツァ氏は、分子および生物統計両方の技術における多くの新たな開発を含めて、集団遺伝学の全側面の深い知識のおかげで、学際的観点を発展させました。重要な一側面は、図5で見ることができるように、遺伝的差異系統樹使用の重要性で、これは、研究中の昼食のカフェテリアの紙の食卓布の写真で、カヴァッリ=スフォルツァ氏はそこに1990年時点の会話の要点を描いていました。以下は本論文の図5です。
カヴァッリ=スフォルツァ氏がイタリア語「librone(本)」で呼んでいた本が刊行されると、本論文の著者(ジャウマ・ベルトランペティト氏)を含む多くの研究者が、新たな時代が到来し、使用された遺伝子標識が拡張され、人口集団の標本抽出が増加し、カヴァッリ=スフォルツァ氏の提案を検証し、新たな調査結果に基づいて訂正および拡張するための洗練された手法が採用されつつある、と認識しました。これは、バスク人の遺伝的特異性と、文化的事象と関連する人口史の観点での解釈に当てはまりました。
バスク人の特異性に関する影響力のある論文と、古典的な遺伝子標識の研究に関する共同論文が刊行されてからの30年間に、多くの関連研究が刊行されました。バスク人の遺伝的特異性の主な全体像は変わっておらず(それが存在しない、と主張した数本の論文にも関わらず)、浮動と孤立は依然として、バスク人の分化の主因と考えられています。最近変わったのは、バスク人の孤立につながる人口統計学的過程の時期の正確な位置づけで、それは新石器時代の前ではなく、鉄器時代の2500年前頃でした。
参考文献:
Bertranpetit J.(2022): Genetics and population history. The case of the Iberian Peninsula and the “origin” of Basques. Human Population Genetics and Genomics, 2, 1, 0002.
https://doi.org/10.47248/hpgg2202010002
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