ダウニア人の遺伝的起源

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ダウニア人(Daunian)の起源に関する研究(Aneli et al., 2022)が公表されました。本論文は、イタリア南部の鉄器時代のダウニア人の遺伝的起源を、古代ゲノムデータから検証しています。ダウニア人は、ローマが共和政から帝政にかけて版図を拡大し、「帝国」となっていく過程で、版図の各地からの人口流入もあって増加していった遺伝的多様性に匹敵するだけの遺伝的不均一性を示しており、同じ地域の現代人とは異なる遺伝的構成が明らかになりました。紀元前の地中海は政治情勢と連動して人口移動が起きていたようで、古代ゲノム研究は歴史学や考古学と組み合わされることで、紀元前の地中海の歴史をより詳細に解明していくでしょう。


●要約

 イタリア南部の海に伸びる狭い土地であるアプリア(Apulia)の地理的位置と形状のため、この地域はヨーロッパ西部とバルカン半島をつなぐ地中海の十字路となりました。そうした移動は鉄器時代の始まりにおいてイアピギア「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】」(Iapygian civilization)で頂点に達しました。イアピギア「文明」は3種の文化で構成され、それはペウケティア(Peucetian)とメサッピア(Messapian)とダウニアです。そのうち、ダウニア人は固有の文化的遺産を伝え、特有の石碑や土器がありましたが、広範な考古学的文献にも関わらず、その起源は時の流れで失われてしまいました。

 これに光を当て、鉄器時代イタリア半島南部の遺伝的全体像を提供するため、アプリア北部(歴史的にダウニア人が居住していた地域です)に地理的に位置し、紀元前1157~紀元前275年頃と放射性炭素年代測定された、3ヶ所の遺跡からヒトの遺骸が収集され、配列決定されました。その結果、鉄器時代アプリア標本はアプリア現代人の遺伝的多様性からは依然として遠く、数kmおよび数世紀離れていてさえ、「国際的な」共和政および帝政ローマ「文明」と匹敵する遺伝的不均一性の程度を示し、代わりに鉄器時代汎地中海遺伝的景観に入る、と分かりました。本論文では、先ローマ期アプリアの遺伝的構成への窓を初めて提供し、それは地中海の景観内で接続性が増加し、現代の遺伝的多様性の基礎を築くのに寄与したでしょう。この観点で、ダウニア人の遺伝的特性は、少なくとも部分的には在来起源かもしれず、バルカン半島からの寄与があったようです。 


●研究史

 紀元前1100~紀元前600年頃の間となる地中海の鉄器時代人口集団は、前代未聞の接続性の時代に生きていました。航海技術の進歩はわずか数千年前に長距離移動の大きな機会を可能としましたが、地中海(Mare Nostrum、「我らが海」、文化や商品や言語や技術的進歩や遠く広範な地域から到来した異質な祖先の遺伝的構成要素の拡大によって、古代ローマでの地中海の呼称)の「国際的な」役割が生じたのは鉄器時代のことでした。そうした遠いつながりの顕著な事例は、紀元前9世紀および紀元前8世紀から始まった、地中海中央部と西部の海岸にわたるギリシア人とフェニキア人の植民でした(関連記事1および関連記事2)。

 鉄器時代はこれまで、イタリア半島とそのティレニア諸島では紀元前950年頃に始まる、と示されています。これらの地域も、海岸沿いに多くの交易所を設置することにより、ヨーロッパ南部全域に押し寄せた「国際的」な波に加わりました。イタリア半島の境界内ではこの期間に共同体が散在して出現し、それぞれ独特でよく定義された文化と独自性により特徴づけられ、そうした文化と独自性はその後でローマ「文明」により組み込まれて、霞んでしまいました。ローマの共和政から帝政への移行は、イタリア半島内外の非ローマ「文明」の結果として生じた包摂とともに、イタリア半島中央部の標本群における大きな東方への遺伝的変化とつながっていた、とすでに示されてきました(関連記事)。イタリア半島中央部の帝政ローマの遺伝的資料はじっさい、主成分空間においてイタリア現代人と共存する初めての資料で、イタリア現代人の遺伝的構成の形成における重要時期としてこの期間(紀元前27年以後)を示します。そうした変化がイタリア半島の他地域でも観察できるのかどうか、ローマの共和政から帝政への移行は在来の先ローマ期人口集団の遺伝的景観にどのように影響を及ぼしたかもしれないのかは、未解決の問題です。

 多くの文書記録や考古学的調査結果にも関わらず、鉄器時代の人口集団やその起源や相互関係に関する問題が未解決です。鉄器時代のイタリア半島に居住していた多くの集団のうち、アプリア北部のイアピギア人口集団であるダウニア人(Daunian)は、紀元前7~紀元前6世紀に初めて言及されました。近隣人口集団であるペウケティア人(Peucetian)やメサッピア人(Messapian)と同様に、ダウニア人の名称は古代ギリシアの記録に由来し、ダウニア人の文書記録がないことを考えると、その社会と政治と宗教生活に関する乏しい情報は、その特有の石碑などの物質記録に完全に依存しています。たとえば、ダウニア人はおもに農耕民や家畜飼育者や馬乗りや海上貿易商で、イリュリア部族と海を越えて広がる交易網を確立していました。

 この人口集団の魅力的な側面は、アプリアの近隣集団とは対照的に、外部からの影響に対する頑強な抵抗でした。たとえば、ダウニア人は社会的もしくは文化的な場リシア要素を獲得せず、ギリシア文字の碑文はダウニア人の集落では発見されていません。じっさい、ダウニア人は紀元前4世紀後半~紀元前3世紀前半におけるローマの到来まで、強い文化的独自性と政治的自立性を保持していました。広範な考古学的文献にも関わらず、ダウニア人の起源は時とともに早くもヘレニズム時代には失われ、ダウニア人をイリュリア(バルカン半島と広く特定できる古代の地域)かアルカディア(現在のペロポネソス半島)かクレタ島に結びつける、さまざまな伝説がすでに存在していました。

 ダウニア人集団に光を当て、イタリア南部の鉄器時代の遺伝的景観を一瞥するため、ダウニア人が歴史的に共住していた地域内に地理的に位置する鉄器時代のネクロポリス(大規模共同墓地)からヒト遺骸が収集されました。そのネクロポリスは、600haと推定されている最大級集落の一つである、古代にはヘルドニア(Herdonia)と呼ばれていたオルドーナ(Ordona、略してORD)と、サラピア(Salapia、略してSAL)と、サン・ジョヴァンニ・ロトンド(San Giovanni Rotondo、略してSGR)にあります(図1A)。本論文は、ダウニア文化と関連する鉄器時代アプリア個体群の遺伝的調査を初めて提供し、先ローマ期イタリア半島南部のり遺伝的景観への洞察を提示します。


●結果

 3ヶ所のネクロポリスから34点のヒト骨格遺骸(錐体骨が23点、歯が11点)がエストニアのタルトゥ大学ゲノミクス研究所の古代DNA研究室で抽出され(ORDが19点、SALが12点、SGRが3点)、各標本について骨物質の250~1200mgで処理されました。3ヶ所のネクロポリスは全て、イタリア半島南東部の現代のアプリアにおいて、相互に50km未満に位置しています。ORDとSALは、1個体(ORD010)を除いて考古学的にはダウニア期(紀元前6~紀元前3世紀)と年代測定されており、ORD010地中海期(ヨーロッパでは紀元後5~15世紀頃)と考古学的に年代測定されています(図1B)。以下は本論文の図1です。
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 博物館の記録に基づいて、SGRのネクロポリスの標本は、鉄器時代に由来する、と考古学的に推測されました。低いDNA濃度(<0.5 ng/µl)のため13点を除外し、低深度(ライブラリごとに±20Mの読み取り)での21点のライブラリを選別した後で、内在性DNAが1.81~38.82%の間で存在し、ミトコンドリアDNA(mtDNA)汚染の推定が2.89%未満である、より高深度の16点のライブラリへとさらに配列決定されました。配列決定の実行は、統合され、ゲノム規模分析で16個体が得られました。その内訳は、ORDが8個体、SALが5個体、SGRが3個体です。最終的なデータセットは、平均ゲノム網羅率が0.031~0.995倍で、ヒト起源124万と一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)が4万~81万ヶ所重複する個体群を含みます。

 それら16個体のうち、放射性炭素年代測定のため主成分分析(principal component analysis、略してPCA)空間(図1C)内の近さに基づいて10個体が選択され、その年代は紀元前1157~紀元前275年頃で、中央値は紀元前521年と推定されました。放射性炭素年代は、SALとORDの個体群の考古学的年代が、SGRの標本2点の鉄器時代の分類とともに確証されました。PCAでは近東へと動く追加の標本2点(ORD010とSGR001)は、放射性炭素年代測定でそれぞれ、紀元前1156~紀元前995年頃(95.4%)と紀元前774~紀元前670年頃(95.4%)と推定されました。これらの標本はその年代に基づいて、鉄器時代アプリア(Iron Age Apulia、略してIAA)に焦点を当てるさらなる分析のため、外部対照として用いられました。

 各個体のmtDNAハプロタイプと男性9個体でY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。mtDNAハプロタイプはほぼmtDNA系統H1とH5とK1とU5に属しており、これらはイタリア半島のこの期間の個体群に関する先行研究(関連記事)で見られたハプロタイプです。イタリア半島青銅器時代とサルデーニャ島およびシチリア島において最高頻度となるYHg-R1b(関連記事1および関連記事2)の他に、YHg-I1(M253)やI2a1b1(M223)やJ2b2a(M241)が見つかりました。YHg-I2a1b1(M223)が後期新石器時代までヨーロッパ西部における主要なY染色体系統だったのに対して、YHg-J2b2a(M241)は青銅器時代に初めて出現します。ヨーロッパ北部において一般的で、以前にはイタリア北部の紀元後6世紀のランゴバルド人(Langobard)の埋葬でも検出された、YHg-I1(M253)に属す中世前期の1個体(SGR001)が見つかりました。

 READを用いて、常染色体データから遺伝的近縁性の1親等もしくは2親等の組み合わせが特定されました。ORD のORD001(9~11歳、95.4%の確率で紀元前779~紀元前544年頃)とORD009(40~45歳、95.4%の確率で紀元前749~紀元前406年頃)という女性2個体間で1親等の関係1組が見つかり、この2個体は同一のmtDNAハプログループ(mtHg)H5cを共有しており、母親と娘もしくは全姉妹(両親が同じ)の関係が示唆されます。


●イタリア現代人の構成

 IAA(鉄器時代アプリア)人口集団の遺伝的構成を調べるため、ユーラシア現代人標本の遺伝的差異に古代の個体群を投影したPCAが実行されました(図1C)。本論文の標本はおもに、イタリアとサルデーニャ島の現代人に分散しており、他のヨーロッパ鉄器時代(Iron Age、略してIA)人口集団(たとえば、図1Cにおける、ヨーロッパ北部_IAやヨーロッパ西部_IAやレヴァント_IA)についての一般的な説明とは対照的で、そうした鉄器時代人口集団は明らかに、アプリアの現在の住民の遺伝的多様性から離れています。アプリアの現代人からの鉄器時代人の下方への移動は、有意な負のf4(アプリア現代人、IAアプリア人;X、ムブティ人)によりさらに確証され、ここでのXは、新石器時代/銅器時代人口集団です(図2A)。

 遺跡を反映していない、PCAにより報告された不均一性のうち、中世の2個体(ORD010とSGR001)は現代の中東およびコーカサスの人口集団に向かって動いていますが、他の個体は主成分2(PC2)に沿って伸びています。このパターンは、最新の個体がヨーロッパ南部現代人とより類似している年代データを部分的に反映しており、PC3の分布を考慮すると、さらに強化されます。PCAの底部に位置する標本3点(ORD004とORD019とSAL007)と中間に位置する標本1点(SAL010)は、f3外群分析の上位25件の結果ではアプリアの現代人を含んでいません。これらの標本の全ては、銅器時代および青銅器時代のイタリア半島人(関連記事)およびエーゲ海や地中海世界(ミノアやギリシアやクロアチアやジブラルタルが含まれます)の人々との類似性を示しました。

 同様の分布は、f3外群測定から構築された多次元尺度構成法(multidimensional scaling、略してMDS)に反映されており、最古のIAアプリア(IAA)個体(95.4%の確率で紀元前1260~紀元前1048年頃のSAL001)が現代の標本から最も離れているのに対して、中世の標本(ORD010とSGR001)は現代の標本と最も密接です。追加のMDS図は補足図5で報告されており、IAA標本(中世の標本2点は除かれます)と帝政ローマと共和政ローマの重心からの中央値の距離が計算され、それぞれ0.0093と0.0140と0.0101でした。

 注目すべきことに、分布距離は統計的に異なっていなかったので、IAA個体群の遺伝的不均一性の程度は、「国際的な」共和政ローマおよび帝政ローマの標本と同等で、帝政ローマは強い地政学的偶発によりもたらされた「外国」の地中海集団との顕著な程度の混合を経た、と示唆されます。網羅率が同じ標本分散に影響を及ぼしたのかどうかも、網羅率自体とIAA重心からの距離との間のピアソン相関の計算により調べられました。その結果、2点の測定は相関していないと分かったので、標本の差異のほとんどは技術的理由に起因しない、と示されました。以下は本論文の図2です。
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 IAA個体群の特異な位置は、現代イタリア人の遺伝的組成をもたらした大きな人口変化がいつ起きたのか、疑問を投げかけます。現代イタリア人の遺伝的多様性への変化は、共和政および帝政ローマ標本で見ることができ(関連記事)、帝政ローマ期の標本は現代イタリア人とより「類似」しています(図1C)。共和政ローマもしくは帝政ローマにさかのぼるアプリア個体群も、現代人の遺伝的多様性へと向かう位置を示すのかどうかは、未解決の問題ですが、本論文の帝政ローマ期の地中海標本は、地中海において鉄器時代後に起きた人口変化を示します。


●IAAの汎地中海的な遺伝的景観

 アプリアの地理的位置は、イタリア半島南部の海に伸びる狭い半島で、この地域は、ヨーロッパ西部とバルカン半島とエーゲ海とレヴァント世界をつなぐ重要な地中海の交差点でした。これはPCAに反映されており、IAA個体群は地中海およびその周辺地域(たとえば、モンテネグロやブルガリアやサルデーニャ島)の他の鉄器時代人口集団と密接に関連しています(図1C)。遊牧民もしくは「国際的な」集団はIAAのように散在しており、それは、サルデーニャ島のカルタゴ人3個体(イタリア_サルデーニャ_IA_カルタゴ、関連記事)、ヨーロッパ南部人と遺伝的に類似しているとすでに報告されている(関連記事)モルドヴァのスキタイ人3個体、ヘレニズム期とローマ期のスペインの個体群(関連記事)、ORD001とクラスタ化する(まとまる)鉄器時代アシュケロン(Ashkelon)の紀元前12世紀の1個体(関連記事)です。

 IAA個体群の遺伝的組成に光を当てるため、IAA個体群がヨーロッパ西部全域で記録されている主要な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の組み合わせとしてモデル化されました。それは、ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter-Gatherers、略してWHG)、アナトリア半島新石器時代(Anatolian Neolithic、略してAN)、草原地帯関連および後漢的にコーカサス狩猟採集民(Caucasus Hunter–Gatherers、略してCHG)、イラン新石器時代(Iranian Neolithic、略してIN)で、qpWave/qpAdmの枠組みが用いられました(図2B)。大まかには、古代ヨーロッパ人口集団の遺伝的多様性へのそうした祖先系統の組み合わせは、その地理的位置に応じて異なります。

 とくに、北端地域では、WHG祖先系統、草原地帯関連祖先系統、したがってCHG祖先系統がより高い割合で見られるのに対して、ヨーロッパ南部集団はさまざまな割合のINもしくはCHGの痕跡がありました。この観点では、IAA個体群は一般的にAN(0.63±0.08)と草原地帯(0.37±0.08)との間の2方向混合としてモデル化できるものの、AN+CHG/INの代替的なモデルもその部分集合、とくにずっと高いかどうとうのP値を有する標本(ORD004とORD010とSAL010)の事例でも適合できる、と観察されました。3もしくは4供給源が検証されると、本論文における個体の大半でWHG祖先系統の存在が出現し、ANや草原地帯やCHG/INとともに、IAA標本群の裏づけられたモデルを形成します(図2B)。

 注目すべきことに、PCAでは下方に伸びている個体群(ORD004とORD019とSGR002とORD010)について、ANと草原地帯とCHG/INを含む3方向混合モデルが一般的にはより適切です。より新しい人口集団の推定される寄与をより深く理解するため、本論文の標本が、基本供給源(WHGとANと草原地帯関連とCHG/IN)および、代替的にオディギトリア(Odigitria)遺跡とラシティ(Lasithi)遺跡のミノア文化個体群、アムハラ人(Amhara)_NAF、共和政ローマ人でモデル化されました(図2C)。アムハラ_NAFは青銅器時代の遊動的な航海人口集団である「海の民」との関連が推測されていた、現代のエチオピア個体群における非アフリカ構成要素の代理として使用できます。

 ミノア人および共和政ローマ人とともに、この構成要素はおもに、共和政ローマ人におけるWHGおよび草原地帯関連祖先系統の追加を伴う、汎地中海人口集団(ANおよびIN/CHG構成要素により構成されています)でモデル化できます。同じ祖先痕跡を代理とするミノア人およびアムハラ_NAFでもモデル化すると、標本の大半は追加のCHG/IN(2方向混合)や草原地帯関連やWHGの寄与を必要とします。以前に見られたように、WHGの寄与はPCAでは下方に伸びるそれらの標本でさほど明らかではない、とさらに観察されました。追加のCHG/INの寄与はIAAでは単純に草原地帯関連祖先系統の存在を代理しているかもしれませんが、ミノア人においてすでに報告されている草原地帯関連祖先系統の欠如(関連記事)は、同じことが共和政ローマ人では言うことはできず(2方向混合)、共和政ローマ人にはかなりの量の草原地帯構成要素があります(関連記事)。しかし、この兆候はf4分析では確証されず、ミノア人集団は単に本論文の標本よりCHG祖先系統が少ない、と報告されます。

 とくにより低い網羅率の標本について、ある程度の不確実性を考慮に入れてさえ、qpAdm分析から示されるより広い全体像は、同年代のイタリア祖先系統(共和政ローマ人)や以前の青銅器時代供給源(ミノア人や「海の民」)の広範な存在が、地中海全域に広く拡大しました。そうした坩堝的な仮定的状況では、時空間的に共和政ローマの近くで生きていたIAA個体群の遺伝的不均一性は際立っています(図1C)。鉄器時代地中海の「国際的な」性質の事例はORD009とORD001との間の1親等の関係で、両者のPCAでの位置は顕著に異なっており、個体ORD001は中東およびコーカサスの現代の人口集団に向かって伸びており、したがって、父親が外来起源の、母親と娘の事例かもしれません(図1C)。f4形式(ORD009、ORD001;X、ムブティ人)のf4分析は、ORD001における、ギリシアNやポルトガル_LN(後期新石器時代)_Cやレバノン_ローマ期やイタリア_シチリア_前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)わずかに有意な過剰を報告しており、これは東方への移動を説明できるかもしれません。さらに、ORD001は、バノン_ヘレニズム期およびレバノン_鉄器時代(Iron Age、略してIA)3標本と比較すると、SGR002とともにより多くのCHG祖先系統を有しているものの、ORD009とはそうではありません。

 PCAでの散在がさまざまなアフリカもしくはレヴァントからの寄与に起因するのかどうか、f4(共和政ローマ人、IAA、レヴァント_N/ヨルバ人、ムブティ人)で調べられ、中世アプリア人(ORD010とSGR001)で同じことが試みられました。しかし、検証された古代アプリア人はいずれも、同時代の共和政ローマ人と比較すると、ORD014とSAL007とSAL011が−2~−3のZ得点で負のf4値を示してさえ、ヨルバ人祖先系統の有意な過剰を示しません。


●ダウニア人の起源

 ダウニア人集団および鉄器時代地中海人口集団の「国際的な景観」とつながっているIAA個体群の明らかな遺伝的不均一性は、ダウニア人につながる人口統計学的過程の完全な再構築を妨げます。それにも関わらず、いくつかの画期的出来事を見つけることができます。f3分析を実行し、ミノア人と鉄器時代クロアチア人と地元の共和政ローマ人を用いて、各IAA個体について最も近いあり得る供給源を調べると、IAA個体群のどれもミノア人とより高い類似性を示さない、と分かりました。IAA個体群のうち3個体(ORD001とORD014とSGR003)は、PCAでは現代イタリア人の近くでクラスタ化し(図1C)、鉄器時代クロアチアの標本1点とより高い類似性を示します(ORD004もこのパターンに従いましたが、f3値はより低い者でした)。しかし、残りの大半の個体は共和政ローマ人と最も近く、これは、本論文のMDSの結果により示唆されるように、在来の鉄器時代イタリア半島祖先系統の代表として解釈できます。

 さらに、WHGの寄与は、qpAdmの結果によると、IAA個体群および共和政ローマ人を説明する必要な構成要素で、ミノア人と鉄器時代クロアチア人には存在しないので、少なくとも部分的な在来起源の推定される痕跡となります(図2B)。これらの結果はf4分析により、ミノア人では確証されますが、クロアチア_前期鉄器時代では確証されません(図3B)。じっさい、ミノアのラッシティ(Lassithi)高原やピュロス(Pylos)、スイスのビション(Bichon)遺跡などの個体を用いると、f4(ミノア人、IAA;WHG、ムブティ人)やf4(ギリシア_ミノア_ラッシティ/ギリシア_青銅器時代_ミケーネ/ギリシア_青銅器時代_ミケーネ_ピュロス、IAA;X、ムブティ人)は、全てのIAA個体でWHG祖先系統の有意な過剰を報告し、例外はORD004とSAL001とSGR003でした(および中世標本のORD010とSGR001はこのパターンから逸れていました)。ここでのXは、イタリアの17000年前頃のリパロ・タグリエント(Riparo Tagliente)遺跡2号、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の上部旧石器時代個体、イタリア_中央部_中石器時代、スイスのビション遺跡個体です。青銅器時代の草原地帯関連構成要素の過剰は、その人ですでにイタリア花等沿いに存在しており(関連記事)、f4(IAA、ギリシア_ミノア_ラッシティ;X、ムブティ人)によると、SGR002とORD006とORD009には明確に存在します。以下は本論文の図3です。
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 在来起源を暫定的に示唆するWHG祖先系統の過剰は、最も可能性の高い2供給源、つまりイリュリア人(クロアチア_前期鉄器時代)と在来集団(共和政ローマ人)の遺伝的類似性によりやや曖昧になっており、これらはとこに同じ地中海連続体の一部を構成しています。じっさい、f4(クロアチア_前期鉄器時代、IAA;X、ムブティ人)の有意に負の値は、SAL007においてXがイタリア_銅器時代~青銅器時代やイタリア_アイスマン(Iceman)_銅器時代やポルトガル_中期青銅器時代やアナトリア半島_中期~後期青銅器時代だった場合を除いて見つかりませんでしたが、同じパターンは、IAA個体群をf4(共和政ローマ人、IAA;X、ムブティ人)で共和政ローマ人と比較すると得られます。数世紀後の帝政ローマ期個体群は、f4(帝政ローマ人、IAA;X、ムブティ人)では、正反対のパターンを示しており、正の結果は、ORD004(Xはレバノン_ローマ期)、SAL001(Xはイタリア_サルデーニャ島_ローマ期_外れ値)、SAL010(Xはロシア_後期マイコープ文化)、ORD010を除いて得られませんでした。逆に、負のf4値はWHGと新石器時代と青銅器時代草原地帯の関連祖先系統の方を示します。

 qpAdmから得られる別の兆候は、IAA個体群におけるCHG祖先系統の明らかな過剰ですが、鉄器時代までにすでに地中海へと拡大していた草原地帯関連祖先系統へのCHGの顕著な寄与のため、恐らくは汎地中海の流入によりもたらされた、草原地帯の波とは別のCHGの痕跡を適切に検出することは困難です。f4の枠組みで直接的に調べると、IAA個体群は一般的に、ミノア人よりCHG祖先系統が多く、同時代のクロアチア_前期鉄器時代よりはCHG祖先系統が少ない、と示されており、一部の事例(ORD019とSGR002と中世のSGR001)では、より古いクロアチアの標本(新石器時代や中期新石器時代)よりCHG祖先系統が多くなります。


●考察

 ダウニア人標本の新たなゲノム配列から、鉄器時代(先ローマ期)イタリア南部(アプリア)は、クレタ島およびレヴァントから共和政ローマおよびイベリア半島へと伸びる、おもにイタリア大陸部における追加のWHGおよび草原地帯関連の影響の追加がある、ANおよびIN/CHG遺伝的特徴により構成される汎地中海遺伝的連続体内に位置づけることができる、と明らかになります。先ローマ期イタリア人口集団は、このより広範な景観の一部で、代わりに帝石ローマおよび古代末期の事象の効果の均質化により影響を受けているようである、現在のイタリア人と直接的に重ね合わせることはできません。

 記述の汎地中海景観内で、IAA個体群/ダウニア人はかなりの不均一性を示し、それはより広範で「国際的」な共和政ローマや、さらに広範で「国際的」な帝政ローマの市民にさえ匹敵し、共和政ローマ人および鉄器時代クロアチア人と最高の遺伝的類似性を示しますが、ミノア人や他の鉄器時代ギリシア標本は、IAA個体群と比較すると、WHGからの寄与の欠如もしくは減少を示します。いくつかの物語がダウニア人をギリシアの英雄ディオメデスに結びつけ、多くの歴史家が近隣のメサッピアおよびペウケティア人についてそうした起源を主張したとしても、これにより、ダウニア人がクレタ島もしくはアルカディア起源である可能性は低くなります。

 ダウニア人はイリュリア人と強い商業的および政治的関係を維持し、ダルマチアからがルガーノ半島にまたがる地域をともに支配し、そうした地域の人々と多くの文化的類似性を有していました。擬人化された彫像の石碑を含めてその物質文化は、ダウニア人の文化に関するいくらかの情報を提供し、その謎めいた起源の解明にも役立つかもしれません。とくに、女性の石碑の前腕の装飾は、黥と解釈されてきており、一方で黥の習慣はギリシア人の間では野蛮と考えられていましたが、黥の慣行はトラキアやイリュリアでは習慣的で、バルカン半島の高位の女性ではより一般的でした。

 これらのつながりが人々の移動を示唆しているのか、あるいは文化的着想の共有を示しているのか、明らかではなく、ダウニア人の起源への決定的な回答は分かりにくいままです。節約の観点から、遺伝学的結果は在来起源を示唆しており(たとえば、調査対象の歴史時代より前に居住していた人口集団とダウニア人との遺伝的連続性)、本論文ではおもにWHGの痕跡の存在により示されていますが、利用可能な歴史資料や遺物により報告されているように、クロアチア(古代イリュリア人)からの追加の影響を除外できません。


参考文献:
Aneli S. et al.(2022): The Genetic Origin of Daunians and the Pan-Mediterranean Southern Italian Iron Age Context. Molecular Biology and Evolution, 39, 2, msac014.
https://doi.org/10.1093/molbev/msac014

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