中期青銅器時代ヨーロッパ中央部東方の人類社会
取り上げるのが遅れてしまいましたが、古代ゲノムデータに基づいて中期青銅器時代ヨーロッパ中央部東方の人類社会を推測した研究(Chyleński et al., 2023)が公表されました。本論文は、おもに現在のポーランドとウクライナを対象に、文化的変容の見られる中期青銅器時代の人類集団が、比較的高い割合の狩猟採集民と関連する遺伝的構成要素を有する人口集団とも混合しており、その社会構造が、おもに父方居住で多世代にわたる親族集団に基づいていた、と明らかにしました。日本人の私としては、今後アジア東部でも同様の水準で先史時代の社会構造の研究が進むよう、期待しています。
●要約
新石器時代後のヨーロッパ中央部東方の人口史は、この地域がさまざまな生態学的地帯と文化的実態の合流点に位置しているにも関わらず、あまり調べられていません。この地域では、前期青銅器時代の草原地帯牧畜民と関連する社会の子孫が、独特な特徴を示す中期青銅器時代人口集団へと続きました。とくに、集団埋葬の盛行は、その規模において、以前には新石器時代でしか見られませんでした。より古い伝統のこの再出現がどの程度中期青銅器時代における遺伝的変化もしくは社会的変化の結果なのかは、議論の余地があります。本論文では、現在のポーランドとウクライナで発見された青銅器時代個体群の新たに生成された91個体の分析により、中期青銅器時代人口集団は、ヨーロッパ狩猟採集民と関連する遺伝的構成要素の割合が比較的高い1人口集団を含む追加の混合事象により形成され、その社会的構造は、おもに父方居住で多世代にわたる親族集団に基づいていた、と分かりました。
●研究史
現在、ヨーロッパ人の遺伝子プールは、狩猟採集民の氷期後の拡大を含む、何回かの大きな人口統計学的事象により形成されてきた、と充分に確証されており(関連記事)、それは、ヨーロッパにおいて新石器時代の始まりを示す初期農耕民のその後の移住と、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)牧畜民のその後の到来です。しかし、これらの人口統計学的事象の規模と性格な性質、およびそうした人口統計学的事象がヨーロッパ全域のさまざまな地域の遺伝的構成にどのように影響を及ぼしたのかに関して、依然として広範な議論があります。
ヨーロッパ中央部東方はとくに、これらの事象の境界地帯となることが多い地域で、さまざまな文化的実体と関連する遺伝的に異なる人口集団の混在が生じました。青銅器時代の変わり目までに、この地域は縄目文土器文化(Corded Ware Culture、略してCWC)および鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、略してBBC)と関連する人口集団により支配され、高水準の草原地帯祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)により特徴づけられます(関連記事)。
草原地帯牧畜民の子孫は、低水準から中程度の水準の追加の狩猟採集民祖先系統を有する大量のアナトリア半島農耕民祖先系統により特徴づけられる後期新石器時代人口集団を置換し、混合した、と考えられています(関連記事1および関連記事2)。しかし、この地域の後期新石器時代と関連する草原地帯牧畜民の到来に先行する主要な実体である、漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRBもしくはFBC)と球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)は、長く存続したと考えられており、その局所的な亜種の一部は前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)までよく続いており、GACの場合は最長で紀元前2000年頃まで続きました。
その後の人口集団と関連する個体群から古代DNAデータは利用できないので、その遺伝的構成は紀元前三千年紀の同時代の個体群からしか推測できません。ヨーロッパ中央部東方の北部と東部はわずかに異なる軌跡をたどっており、半新石器時代森林地帯と関連する人口集団は、新石器時代を通じて高水準の狩猟採集民祖先系統(および大半はその生活様式)により特徴づけられます。これらの地域では、アナトリア半島農耕民祖先系統は青銅器時代の開始期に草原地帯祖先系統とともにもたらされました。
類似のパターンは、スカンジナビア半島南部やゴットランド島などバルト海周辺の他地域で観察されており、こうした地域では円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)の狩猟採集民個体群(生活様式と遺伝的組成の両方の観点で)が、紀元前四千年紀にはFBCと(ただし、顕著な遺伝子流動はありません)、紀元前三千年紀前半にはCWCのスカンジナビア半島の亜種である戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)と近い距離で共存していました。
ヨーロッパ中央部東方のEBA(紀元前2400~紀元前1800年頃)の文化的計画は、EBA開始期に始まった過程の直接的な継続と広く考えられています。たとえば、ミェシャノヴィツェ文化(Mierzanowice culture、略してMC)やイヴノ文化(Iwno culture、略してIC)やストシジュフ文化(Strzyżów culture、略してSC)など、この地域に存在する文化的実体は、CWCおよびBBCと関連する集団の連続と主にみなされています。さらに、草原地帯もしくは北方森林地帯の文化は、ある程度SCに影響を及ぼした、と示唆されてきました。
この地域における紀元前1800~紀元前1200年頃となる中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)は、次にトシュチニェツ文化圏(Trzciniec Cultural Circle、略してTCC)により支配されました。この文化現象はオーデル川流域からデスナ川およびセイム川流域まで(約1200km)、およびバルト海沿岸からプルート川流域まで(約750km)まで広がっており、いくつかの地域的亜種を示しています。本論文は、これらのうち2亜種と関連するMBA個体群に焦点を当てます。
その2亜種とは、現代のポーランドとウクライナ西部中央に属する地域を占めたトシュチニェツ文化(Trzciniec Culture、略してTC)と、現在のウクライナ南西部とルーマニアおよびモルドヴァの近隣地域で見られるコマルフ文化(Komarów Culture、略してKC)です。これらのMBA文化は、土器様式や青銅製工芸品や塚の下の墓と火葬などの葬儀慣行のような、EBAの多くの文化的側面を保持していました。この文化的類似性は、ミトコンドリアゲノムデータで見られるように、CWCとEBAおよびMBA両方の人口集団間の遺伝的連続性と一致します。しかし、TCCの一部の要素はEBAもしくはMBAに特有で、とくに集団埋葬の盛行と規模です。
複数個体の集団埋葬も、FBCもしくはGACの局所的亜種と関連するヨーロッパ中央部および中央部東方の中期および後期新石器時代人口集団では盛行していました。最近の研究では、新石器時代の集団埋葬は、ほとんどの場合に父方居住の親族集団に属する複数個体の遺骸を含むことが多い、と示されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。TCCと関連するこれらMBA集団埋葬で発見された個体間の生物学的近縁性は、まだ調査されていません。しかし、これら人口集団における親族関係の有無は、これらの社会の組織と構造の理解を大きく深めるでしょう。
集団埋葬の再出現は、TCCにおけるこの盛行した埋葬慣行が、青銅器時代人口集団内において遺伝的変化もしくは社会的変化の結果だったのか、という問題に関する別の議論の主題です。本論文は、さまざまなEBAとMBAの個体間の遺伝的類似性、および先行する文化複合体の人口集団との遺伝的関係や、MBA社会内のあり得る親族関係構造を調べます。この達成のため、現代のポーランド南部および東部南方とウクライナ西部のEBAおよびMBA文化と関連する青銅器時代の個体から新たに生成された91点のゲノムを用いて、集団遺伝学的分析が実行されました。
●標本
検査された青銅器時代の175個体のうち92個体で、さらなる分析および/もしくはより深い配列決定のため保持するのに充分なデータ(ゲノム網羅率が0.018倍超)が生成されました。37点のウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理ライブラリを含む追加の100点のライブラリが、選択された個体について生成されて配列決定されました。異なる2個体から得られた2点のライブラリを除いて、充分な網羅率が得られた男性におけるミトコンドリア配列とX染色体配列により推定されるように、全てのライブラリは古代DNA断片の3′末端および5′末端で特徴的な死後損傷を示しました。
ひじょうに低水準の死後損傷を示した個体poz751の1点のライブラリと、高水準のミトコンドリアDNA(mtDNA)汚染が検出された個体poz664の2点のライブラリのうち1点のみが、さらなる分析から除外されました。したがって、親族関係および集団遺伝学的分析に用いられた最終的なデータセットは、中央値のゲノム網羅率0.2倍の91個体で構成され、その内訳は、IC(イヴノ文化)が3個体、MC(ミェシャノヴィツェ文化)が15個体、SC(ストシジュフ文化)が6個体、TC(トシュチニェツ文化)が62個体、KC(コマルフ文化)が5個体です。
●EBAにおける開始期以降の遺伝的連続性
本論文におけるMCおよびICおよびSCと関連するEBA(紀元前2200~紀元前1850年頃)個体の大半は、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)図(図1D)により示唆されるように、その直接的な文化的先行者(BBCやCWCなど)と遺伝的に類似しています。選択された人口集団のK(系統構成要素数)=7での教師無混合分析の結果は、同様の水準の混合構成要素を示すので(図1C)、これらの関係を裏づけます。これらの調査結果は、一番的な考古学的総意およびミトコンドリアデータの以前の分析と一致します。
IC(イヴノ文化)はBBCと関連する集団と最大の文化的類似性を有している、と考えられていますが、本論文で分析された1個体(poz929)は、f3およびD統計によると、BBC人口集団ではなくさまざまなCWC集団と関連する個体群とより密接な類似性を示します。同様の傾向はMC(ミェシャノヴィツェ文化)に分類される個体群の事例で観察され、他のEBA集団に対してエストニアのCWC個体群とより密接な類似性を示しました。しかし、BBCとCWCの間の区分(および異なる人口集団と関連する関連する独立した文化的実体としてのその定義)は議論になっており、上述のD統計の大半のZ得点は低くなっています。草原地帯牧畜民到来後のヨーロッパ中央部および東部の地域と文化と遺伝の複雑さを完全に理解するには、さらなる研究が必要です。以下は本論文の図1です。
ウォイェボ(Łojewo)遺跡のIC関連の男性1個体(poz502)は一般的なパターンから逸れており、それは、poz502が中期および後期新石器時代人口集団と遺伝的に最も近いからで、PCA図で同じ空間を占めており、類似の混合割合を示しました。f3統計の結果から、この個体(poz502)と最も多く遺伝的浮動を共有している人口集団はGACで、FBCがそれに続く、と示唆されます。そうした一見すると新石器時代の個体は時に草原地帯牧畜民の到来の後の人口集団で観察され、中期新石器時代の遺伝的構成を遅ければ紀元前三千年紀の末まで維持していた孤立した人口集団から青銅器時代社会に組み込まれた、外来人と仮定されてきました(関連記事)。この解釈が放射性炭素年代測定でEBAとMBAの境界(紀元前2008~紀元前1750年頃)と推定された個体poz502に適用されるならば、そうした孤立した人口集団は以前に報告されたよりもずっと長く存続した、と示唆されるかもしれません。この仮説は考古学的記録により裏づけられ、一部の新石器時代文化、とくに顕著なのはGACですが、青銅器時代へとよく続いた、と示されています。
個体poz502と同様に、SC(ストシジュフ文化)関連の男性2個体(poz794とpoz758)は他のEBA個体と遺伝的に異なっていました。この男性2個体(poz794とpoz758)はPCA図では狩猟採集民空間により近く(図1D)、混合分析ではさまざまなヨーロッパ狩猟採集民人口集団で最大化される遺伝的構成要素の割合増加を示しました(図1C)。しかし、これら2個体のうち1個体(poz794)の直接的な放射性年代測定(紀元前1921~紀元前1697年頃)や、本論文で分析されたMBA人口集団との遺伝的類似性から、この男性2個体(poz794とpoz758)はMBAで観察された遺伝的変化の一部として考察されねばならない、と示唆されます。とくに、SCは混合した文化的特徴を有する地域的な文化的現象と一般的に考えられており、個体の埋葬もしくは遺跡のSCとの関連についての頻繁な論争につながります。したがって、遺伝的に異なる人口集団とのSCの定義と関連づけは、SCに分類された個体群のより広範な選択を対象とする、さらなる調査に正当な根拠を与えます。
●MBAにおけるヨーロッパ中央部での狩猟採集民祖先系統の増加
本論文で分析されたMBA個体群の年代範囲は紀元前1750~紀元前1200年頃で、TC(トシュチニェツ文化)とKC(コマルフ文化)の両方を表すTCC(トシュチニェツ文化圏)と関連していました。これらの個体の大半はPCA空間でともにクラスタ化し(まとまり)、類似の混合割合を共有していました(図1C・D)。この明らかな遺伝的関連は、f3およびD統計によりさらに浮き彫りになり、別々に分析すると、KCとTCの個体群は多くの場合で2人口集団のどちらかとの統計的に有意でより密接な遺伝的類似性を示さない、と示唆されます。これらの結果は、TCとKCの分離に疑問を呈し、両者を同じ現象の地域的亜種として扱うことを支持する、考古学的解釈と一致します。
興味深いことにEBA人口集団と比較して、MBA個体群はPCA空間ではヨーロッパのさまざまな狩猟採集民人口集団とより近く、これはミトコンドリアゲノムデータだけの分析では以前に検出されなかったものです。させに、混合分析は狩猟採集民で最大化される遺伝的構成要素量の増加を示唆しました(図1C)。これは、この遺伝的構成要素の相対的に高い割合を有する人口集団と関わる、MBAの開始における追加の混合事象を示唆します。しかし、この傾向には顕著な逸脱があり、ピエルグジモビツェ(Pielgrzymowice)遺跡のTCと関連する3個体と、ベレミアニー(Beremiany)遺跡の比較的初期の男性1個体(poz643)は、PCA空間ではEBA人口集団の方とより近くでクラスタ化し、最低水準のTCおよび狩猟採集民の両人口集団と共有される遺伝的浮動を示します。
qpAdmを用いて、MBA人口集団の形成をもたらしたあり得る2方向混合モデルを検証すると、いくつかのモデルが妥当と判断され、最高のp値(0.21)はICと新石器時代バルト海地域狩猟採集民(Neolithic Baltic hunter-gatherers、略してNBL)で構成される組み合わせで得られました。同様に、高いp値はICと他の狩猟採集民人口集団を含む他の組み合わせで見つかりました。それは、ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter Gatherers、略してWHG)、ゴットランド島のPWC狩猟採集民、ブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、略してBKG)の背景で埋葬された狩猟採集民(BKGout)、NBLに先行する狩猟採集民人口集団(HGBL)です(p値はそれぞれ、0.207、0.204、0.164、0.160)。これらの結果は、ICがTCの出現に大きく寄与した、という考古学的仮説と一致します。しかし、この調査結果は慎重に解釈すべきで、それは、IC と関連する1個体のみが、qpAdmに含めるのに充分な網羅率だったからです。高い適合値は、EBAの先行集団としてのCWCおよび狩猟採集民祖先系統の供給源としてのPWCと関連する現代のエストニアの個体群を含む、人口集団の組み合わせでも得られました(p=0.11)。
新石器時代人口集団を加えた3方向混合モデルにより示唆されるように、混合の過程はより複雑だった可能性が高そうです。これらのモデルは、2方向モデルより良好な適合さえもたらしました。複数の妥当な仮定的状況が見つかり、その全ては、さまざまな狩猟採集民と新石器時代人口集団に加えてCWCを含む、高い適合値(p>0.9)を示します。2方向と3方向両方のモデルで用いられたqpAdmに対するより識別地下のある循環外群手法は、妥当な仮定的状況の数を絞り込むのに役立ちました。1個体で構成される供給源を含むモデルの除外後に、CWCと新石器時代としてGACもしくはFBCと狩猟採集民人口集団としてNBLもしくはHGBLを含む3方向の仮定的状況のみが、妥当と分かりました。地理的および時間的近さと、各MBA個体についてあり得る祖先系統供給源を直接的に比較するD統計の結果に基づくと、CWCとNBLとGACが混合過程に関わる人口集団にとって最適な代理と分かりました。しかし、高い適合値とBKG背景で埋葬された狩猟採集民祖先系統のある個体との遺伝的類似性から、将来の研究はこの仮定に関わる人口集団をより適切に定義するのに役立つかもしれない、と示唆されます。
最も可能性の高そうな仮説は、これら混合したMBA人口集団が、優勢なWHG祖先系統を有する人口集団および草原地帯祖先系統の高い割合により特徴づけられるCWC後の集団と関連する、半新石器時代森林地帯の合流点に起源があった、というものです。半新石器時代森林地帯は、ヨーロッパ北東部のさまざまな考古学的文化を含む広義の用語で、おもに狩猟採集民の生活様式の長期の保存と、新石器時代および青銅器時代起源の文化的要素の組み込みにより特徴づけられます。
これらの人口集団は新石器時代および新石器時代後の人口集団と遺伝的に異なっているままでしたが、一定数以上の長期の文化的および経済的交流を維持しました(関連記事)。これは、草原地帯牧畜民のEBA子孫とのその後の接触が続いた、ゴットランド島のPWCで観察された事例(関連記事1および関連記事2)と同様に、そうした人口集団間のある程度の遺伝子流動につながったかもしれません。さらに、TCCと半新石器時代森林地帯は、おもに土器形式と技術で同様の文化的特徴を示しました。これらの類似性は、おもに文化的交流の兆候として解釈されることが多くなっています。MBAにおけるWHG祖先系統の増加を示す本論文の結果から、少なくとも一定水準の混合がこれらの相互作用期間に起きた、と示唆されます。
注目すべきことに、SC と関連するEBAの2個体(poz794とpoz758)は、MBA人口集団とより密接な遺伝的類似性を示し、両個体とも現代のポーランドの南東部で発見されており、この2個体のうち直接的な年代のある1個体(poz794)は、本論文で分析されたMBA標本群に先行します。この観察から、上述の接触地帯は、混合が起きた、および/もしくは混合の過程が地理的により分散していた唯一の場所ではなかった、と示唆されます。EBAで見られる交流網の範囲と期間を考えると、どちらも妥当です。個体poz794は観察された遺伝子流動の開始を示している可能性さえあり、それは紀元前1800年頃にさかのぼるでしょう。
SCは通常、地下墓地文化(Catacomb Culture)など草原地帯文化からの追加要素を伴う、CWC伝統の連続とみなされています。しかし、WHG祖先系統の増加への遺伝的変化は、草原地帯からの追加の移住により説明できず、この見解は以前にミトコンドリアデータのみに基づいて提案されました。この見解は、ヨーロッパ人の遺伝子プールにおける主要な祖先系統の最適な代理として、WHGやアナトリア半島新石器時代農耕民やヤムナヤ文化集団を含む3方向qpAdmモデル化により計算された、草原地帯祖先系統増加の兆候により裏づけられません。さらに、EBA個体群と狩猟採集民人口集団を含むMBA人口集団の出現をもたらした仮定的状況を調べた2方向モデルでは、アンドロノヴォ(Andronovo)文化やアファナシェヴォ(Afanasievo)文化やシンタシュタ(Sintashta)文化やポルタフカ(Poltavka)文化やカラスク(Karasuk)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化など、追加の草原地帯人口集団を含むモデルよりも高い確率が得られました。
紀元前1800年頃に始まった混合の過程は、本論文で分析されたMBA標本の全時間範囲を通じて、狩猟採集民祖先系統のひじょうに高いもしくは低い割合を有する個体群の存在により証明されるように、単一の移住事象の結果ではなく連続的だったようです。しかし、遺伝子流動はMBA開始期により広範だった可能性が高そうで、それは、共有された遺伝的浮動(f3統計により確認されます)と混合割合(qpAdmで計算されます)の両方で、狩猟採集民祖先系統の割合は経時的にわずかに減少した、と示されているからです(図2A・C)。この事象の結果は長く続いたに違いなく、それは、現代のラトヴィアおよびリトアニアの後期青銅器時代(Late Bronze Age、略してLBA)個体群が、半世紀近く後に生きていたにも関わらず、本論文で分析されたMBA個体と同じ遺伝的組成を保持しており、f3統計に基づくと、全ての青銅器時代人口集団のうち本論文で表されているMBA個体群と最も密接な遺伝的類似性を有している、と分かったからです。以下は本論文の図2です。
さらに、いくつかの一連の論拠は、この混合事象では高水準の狩猟採集民祖先系統により特徴づけられる人口集団起源の男性が優位だった、という見解を裏づけます。第一に、以下に示される本論文の直接的な親族関係分析により示されるように、出現した人口集団はおもに父方居住でした。第二に、Y染色体ハプログループ(YHg)のMBAの組成は、選好する人口集団とわずかに異なっており、それは、YHg-I2a1aおよびI2a1bの優勢がナルヴァ文化(Narva Culture)の2個体を含めてさまざまな狩猟採集民人口集団において以前には散発的にしか見られなかったのに、MBA個体群においては高頻度で見られるようになったからです。ただ、GAC集団埋葬では、異なる下位系統のYHgがあります(関連記事)。
YHg-I2a1は、検出された各親族集団から1個体のみ選択した後でさえ、TC関連MBA個体群の75%で見つかりました。さらに、この変化は、mtDNAハプログループ(mtHg)で検索したさいには明らかではありませんでした。最後に、先行研究により提案された手法を用いてのf3統計により決定される、X染色体データにおける遺伝的距離の直接的分析から、常染色体上ではTCはX染色体上の場合よりも狩猟採集民人口集団との相対的に類似していた、と示されました(図2D)。さらに、X染色体に基づくf3値で時間的変化を探すと、常染色体データで見られたように、紀元前1800~紀元前1500年頃の間ではWHG個体群と共有された遺伝的浮動量の増加は観察されませんでした(図2B)。
MBAにおける遺伝的変化につながる事象の正確な軌跡は、現在の知識では再構築できません。バルト海地域東部の狩猟採集民人口集団は、千年にわたって新石器時代農耕民と直接的に接触していた複数の考古学的文化と関連していました。この共存のある時点で移住事象が起き、混合人口集団の出現につながり、次に、その人口集団が草原地帯牧畜民もしくはそのヨーロッパ中央部の子孫と混合して、本論文で分析されたMBA人口集団の形成をもたらした、という可能性を除外できません。
ヨーロッパ中央部東方からのより多様な遺伝的データの欠如が、この混合に関わった正確な人口集団の特定を妨げています。考古学的記録から、農耕民と狩猟採集民という文化的に異なる集団間の接触はかなり続き、かなりの文化的変化につながった、と示されているので、集団埋葬と父方居住の慣行はそれらの変化の一部だったかもしれません。これは、中期新石器時代のGACと関連した一部の集団埋葬における高頻度のYHg-I2a1b(関連記事)に反映されているかもしれません。この観察された変化は、複数の人口集団を含む、いくつかの過程から生じたかもしれません。本論文の観察は、それらの過程の合計を表しています。
●青銅器時代の集団埋葬における父方親族構造
TCCは集団埋葬されたTCおよびKC関連個体の多さのため、ヨーロッパ中央部東方の他の青銅器時代人口集団から際立っています。本論文では、12ヶ所の遺跡から62個体が分析され、そのうち52個体は少なくとも2個体の遺骸を含む構造内に埋葬されていました。さらに、ダハジュフ(Dacharzów)遺跡の2個体の事例のように、単葬墓は集団埋葬に近接していることが多く、たとえば、単葬墓の上に埋葬塚が築かれました。本論文のデータから、TCC と関連するMBA集団埋葬には多くの遺伝的に親族関係にある個体が含まれており、複数の1親等および2親等の親族関係がそれらの構造内で見つかった、と明確に示されます。
密接な関係が最も多く検出されたのは、最良の全体的な古代DNA保存を示したジェルニキ・グルネ(Żerniki Górne)遺跡の個体群です。9ヶ所の建造物に埋葬された28個体のうち、17個体は親族集団に属すると分かり、一部の事例では、少なくとも4世代にまたがる家系が再構築されました(図3)。興味深いことに、直接的な遺伝的親族関係は、異なるものの隣接している玄室に埋葬された個体間でも見つかりました。これが示すのは、墓自体が人口集団内の親族集団を表しているだけではなく、墓地内の墓の空間的関係が親族関係を表してもいた、ということです。成人女性と比較しての成人男性の子孫間の密接な親族関係の盛行から、父方居住が支配的な結婚の取り決めだった、と示唆されます。この見解は、Y染色体DNAと比較してより高いmtDNAの多様性と、男性間より女性間で平均的な遺伝的距離が大きいことによりさらに裏づけられます。後者はD統計により裏づけられ、男性は一般的にTCC関連人口集団に対して、他のジェルニキ・グルネ遺跡個体とクレード(単系統群)を形成するより大きな傾向を示した、と分かりました(図2E)。以下は本論文の図3です。
しかし、同じ集団墓内の分析された全個体が遺伝的に親族関係だったわけではありません。この調査結果は、全個体を標本抽出できないことか、あるいは不充分なDNAの保存状態に起因して、そうした個体を特徴づけることができないことを反映しているかもしれません。さらに、墓地で親族関係が検出されなかった個体はほぼ女性で(ジェルニキ・グルネ遺跡で親族関係が検出されなかったのは、男性2個体と女性9個体)、これは父方居住との見解をさらに裏づけます。ピエルグジモビツェ遺跡の第9号墓など一部の事例では、小さい穴状の遺構/玄室の埋葬は長期間、おそらくは複数世代にわたって使用されたので、複数の1親等および2親等の親族関係の検出の可能性は低くなります。とはいえ、分析された5個体のうち2個体は1親等の親族関係を共有しており、母親とその成人の息子だった可能性が高そうです。
ブロジツァ(Brodzica)遺跡の集団埋葬は、一つの核家族の遺骸を含んでいるようで、充分な量のデータが4個体のうち3個体で利用可能で、その全個体は親族関係にありました。これらの個体は、父親とその2人の子供を表している可能性が最も高そうです。成人女性と解釈された第四の個体(ただ、遺骸からは親族関係分析に充分な核DNAデータが得られませんでした)は、子供2人と同じmtHgに属するので、その母親もしくは追加のキョウダイかもしれません。TCと関連するMBA人口集団は、多様性推定のため用いられた集団内の対でのf3統計によると、そのEBAの先行者よりもわずかに多様性が低いようです。この結果は、複数の親族関係にある個体のいる遺跡により引き起こされたわけではなく、それは、類似のf3距離分布が異なる遺跡の個体の組み合わせで見つかったからです。
集団埋葬は父方親族集団を表している、という見解は、ヨーロッパにおけるMBA以前の新石器時代人口集団に関する以前の観察と一致します(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。親族関係に基づく集団埋葬の盛行は、新石器時代と青銅器時代の変わり目における草原地帯牧畜民の到来により中断され、BBCやCWCと関連する社会など、より個人化された社会の発展につながりました。集団埋葬はEBAを通じて存在したので、集団埋葬の慣行は決して完全に消え去ったわけではなく、これらの墓は親族集団の遺骸を含んでいる、と示されてきました。エレベンヌ(Hrebenne)遺跡墓地においてそうした1事例が、ズボヴィツェ(Zubowice)遺跡で他の親族集団埋葬の可能性(ただ、一塩基多型の重複が少ないので、この推定は不確実です)が確認され、これら集団墓の両方ともMC(ミェシャノヴィツェ文化)と関連していました。しかし、TCにおけるこの現象の規模は新石器時代社会に存在するものとより類似しており、より古い伝統の再出現の証明として解釈できるかもしれません。
父方居住の社会構造と男性中心の移住は、草原地帯牧畜民およびその子孫と関連する人口集団および事象と関連づけられてきました(関連記事1および関連記事2)。一方で、狩猟採集民社会は結婚後の居住選好においてずっと流動的だった、と一般的に考えられており、現代および歴史時代の狩猟採集民集団の多くは双系的な慣行を示しています。標本不足のため、古代ヨーロッパ狩猟採集民が好んだ結婚後の居住を評価できません。一方で、ヨーロッパ西部および中央部の中期新石器時代農耕民で得られた最近のデータから、これらの人口集団における集団埋葬は通常、父方居住の子孫の親族関係にある個体で構成されている、と示されており(関連記事1および関連記事2)、それらの人口集団もしくは子孫も、MBAにおける遺伝的変化をもたらした事象に役割を果たした、という見解が裏づけられます。
参考文献:
Chyleński M. et al.(2023): Patrilocality and hunter-gatherer-related ancestry of populations in East-Central Europe during the Middle Bronze Age. Nature Communications, 14, 4395.
https://doi.org/10.1038/s41467-023-40072-9
●要約
新石器時代後のヨーロッパ中央部東方の人口史は、この地域がさまざまな生態学的地帯と文化的実態の合流点に位置しているにも関わらず、あまり調べられていません。この地域では、前期青銅器時代の草原地帯牧畜民と関連する社会の子孫が、独特な特徴を示す中期青銅器時代人口集団へと続きました。とくに、集団埋葬の盛行は、その規模において、以前には新石器時代でしか見られませんでした。より古い伝統のこの再出現がどの程度中期青銅器時代における遺伝的変化もしくは社会的変化の結果なのかは、議論の余地があります。本論文では、現在のポーランドとウクライナで発見された青銅器時代個体群の新たに生成された91個体の分析により、中期青銅器時代人口集団は、ヨーロッパ狩猟採集民と関連する遺伝的構成要素の割合が比較的高い1人口集団を含む追加の混合事象により形成され、その社会的構造は、おもに父方居住で多世代にわたる親族集団に基づいていた、と分かりました。
●研究史
現在、ヨーロッパ人の遺伝子プールは、狩猟採集民の氷期後の拡大を含む、何回かの大きな人口統計学的事象により形成されてきた、と充分に確証されており(関連記事)、それは、ヨーロッパにおいて新石器時代の始まりを示す初期農耕民のその後の移住と、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)牧畜民のその後の到来です。しかし、これらの人口統計学的事象の規模と性格な性質、およびそうした人口統計学的事象がヨーロッパ全域のさまざまな地域の遺伝的構成にどのように影響を及ぼしたのかに関して、依然として広範な議論があります。
ヨーロッパ中央部東方はとくに、これらの事象の境界地帯となることが多い地域で、さまざまな文化的実体と関連する遺伝的に異なる人口集団の混在が生じました。青銅器時代の変わり目までに、この地域は縄目文土器文化(Corded Ware Culture、略してCWC)および鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、略してBBC)と関連する人口集団により支配され、高水準の草原地帯祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)により特徴づけられます(関連記事)。
草原地帯牧畜民の子孫は、低水準から中程度の水準の追加の狩猟採集民祖先系統を有する大量のアナトリア半島農耕民祖先系統により特徴づけられる後期新石器時代人口集団を置換し、混合した、と考えられています(関連記事1および関連記事2)。しかし、この地域の後期新石器時代と関連する草原地帯牧畜民の到来に先行する主要な実体である、漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRBもしくはFBC)と球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)は、長く存続したと考えられており、その局所的な亜種の一部は前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)までよく続いており、GACの場合は最長で紀元前2000年頃まで続きました。
その後の人口集団と関連する個体群から古代DNAデータは利用できないので、その遺伝的構成は紀元前三千年紀の同時代の個体群からしか推測できません。ヨーロッパ中央部東方の北部と東部はわずかに異なる軌跡をたどっており、半新石器時代森林地帯と関連する人口集団は、新石器時代を通じて高水準の狩猟採集民祖先系統(および大半はその生活様式)により特徴づけられます。これらの地域では、アナトリア半島農耕民祖先系統は青銅器時代の開始期に草原地帯祖先系統とともにもたらされました。
類似のパターンは、スカンジナビア半島南部やゴットランド島などバルト海周辺の他地域で観察されており、こうした地域では円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)の狩猟採集民個体群(生活様式と遺伝的組成の両方の観点で)が、紀元前四千年紀にはFBCと(ただし、顕著な遺伝子流動はありません)、紀元前三千年紀前半にはCWCのスカンジナビア半島の亜種である戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)と近い距離で共存していました。
ヨーロッパ中央部東方のEBA(紀元前2400~紀元前1800年頃)の文化的計画は、EBA開始期に始まった過程の直接的な継続と広く考えられています。たとえば、ミェシャノヴィツェ文化(Mierzanowice culture、略してMC)やイヴノ文化(Iwno culture、略してIC)やストシジュフ文化(Strzyżów culture、略してSC)など、この地域に存在する文化的実体は、CWCおよびBBCと関連する集団の連続と主にみなされています。さらに、草原地帯もしくは北方森林地帯の文化は、ある程度SCに影響を及ぼした、と示唆されてきました。
この地域における紀元前1800~紀元前1200年頃となる中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)は、次にトシュチニェツ文化圏(Trzciniec Cultural Circle、略してTCC)により支配されました。この文化現象はオーデル川流域からデスナ川およびセイム川流域まで(約1200km)、およびバルト海沿岸からプルート川流域まで(約750km)まで広がっており、いくつかの地域的亜種を示しています。本論文は、これらのうち2亜種と関連するMBA個体群に焦点を当てます。
その2亜種とは、現代のポーランドとウクライナ西部中央に属する地域を占めたトシュチニェツ文化(Trzciniec Culture、略してTC)と、現在のウクライナ南西部とルーマニアおよびモルドヴァの近隣地域で見られるコマルフ文化(Komarów Culture、略してKC)です。これらのMBA文化は、土器様式や青銅製工芸品や塚の下の墓と火葬などの葬儀慣行のような、EBAの多くの文化的側面を保持していました。この文化的類似性は、ミトコンドリアゲノムデータで見られるように、CWCとEBAおよびMBA両方の人口集団間の遺伝的連続性と一致します。しかし、TCCの一部の要素はEBAもしくはMBAに特有で、とくに集団埋葬の盛行と規模です。
複数個体の集団埋葬も、FBCもしくはGACの局所的亜種と関連するヨーロッパ中央部および中央部東方の中期および後期新石器時代人口集団では盛行していました。最近の研究では、新石器時代の集団埋葬は、ほとんどの場合に父方居住の親族集団に属する複数個体の遺骸を含むことが多い、と示されてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。TCCと関連するこれらMBA集団埋葬で発見された個体間の生物学的近縁性は、まだ調査されていません。しかし、これら人口集団における親族関係の有無は、これらの社会の組織と構造の理解を大きく深めるでしょう。
集団埋葬の再出現は、TCCにおけるこの盛行した埋葬慣行が、青銅器時代人口集団内において遺伝的変化もしくは社会的変化の結果だったのか、という問題に関する別の議論の主題です。本論文は、さまざまなEBAとMBAの個体間の遺伝的類似性、および先行する文化複合体の人口集団との遺伝的関係や、MBA社会内のあり得る親族関係構造を調べます。この達成のため、現代のポーランド南部および東部南方とウクライナ西部のEBAおよびMBA文化と関連する青銅器時代の個体から新たに生成された91点のゲノムを用いて、集団遺伝学的分析が実行されました。
●標本
検査された青銅器時代の175個体のうち92個体で、さらなる分析および/もしくはより深い配列決定のため保持するのに充分なデータ(ゲノム網羅率が0.018倍超)が生成されました。37点のウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理ライブラリを含む追加の100点のライブラリが、選択された個体について生成されて配列決定されました。異なる2個体から得られた2点のライブラリを除いて、充分な網羅率が得られた男性におけるミトコンドリア配列とX染色体配列により推定されるように、全てのライブラリは古代DNA断片の3′末端および5′末端で特徴的な死後損傷を示しました。
ひじょうに低水準の死後損傷を示した個体poz751の1点のライブラリと、高水準のミトコンドリアDNA(mtDNA)汚染が検出された個体poz664の2点のライブラリのうち1点のみが、さらなる分析から除外されました。したがって、親族関係および集団遺伝学的分析に用いられた最終的なデータセットは、中央値のゲノム網羅率0.2倍の91個体で構成され、その内訳は、IC(イヴノ文化)が3個体、MC(ミェシャノヴィツェ文化)が15個体、SC(ストシジュフ文化)が6個体、TC(トシュチニェツ文化)が62個体、KC(コマルフ文化)が5個体です。
●EBAにおける開始期以降の遺伝的連続性
本論文におけるMCおよびICおよびSCと関連するEBA(紀元前2200~紀元前1850年頃)個体の大半は、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)図(図1D)により示唆されるように、その直接的な文化的先行者(BBCやCWCなど)と遺伝的に類似しています。選択された人口集団のK(系統構成要素数)=7での教師無混合分析の結果は、同様の水準の混合構成要素を示すので(図1C)、これらの関係を裏づけます。これらの調査結果は、一番的な考古学的総意およびミトコンドリアデータの以前の分析と一致します。
IC(イヴノ文化)はBBCと関連する集団と最大の文化的類似性を有している、と考えられていますが、本論文で分析された1個体(poz929)は、f3およびD統計によると、BBC人口集団ではなくさまざまなCWC集団と関連する個体群とより密接な類似性を示します。同様の傾向はMC(ミェシャノヴィツェ文化)に分類される個体群の事例で観察され、他のEBA集団に対してエストニアのCWC個体群とより密接な類似性を示しました。しかし、BBCとCWCの間の区分(および異なる人口集団と関連する関連する独立した文化的実体としてのその定義)は議論になっており、上述のD統計の大半のZ得点は低くなっています。草原地帯牧畜民到来後のヨーロッパ中央部および東部の地域と文化と遺伝の複雑さを完全に理解するには、さらなる研究が必要です。以下は本論文の図1です。
ウォイェボ(Łojewo)遺跡のIC関連の男性1個体(poz502)は一般的なパターンから逸れており、それは、poz502が中期および後期新石器時代人口集団と遺伝的に最も近いからで、PCA図で同じ空間を占めており、類似の混合割合を示しました。f3統計の結果から、この個体(poz502)と最も多く遺伝的浮動を共有している人口集団はGACで、FBCがそれに続く、と示唆されます。そうした一見すると新石器時代の個体は時に草原地帯牧畜民の到来の後の人口集団で観察され、中期新石器時代の遺伝的構成を遅ければ紀元前三千年紀の末まで維持していた孤立した人口集団から青銅器時代社会に組み込まれた、外来人と仮定されてきました(関連記事)。この解釈が放射性炭素年代測定でEBAとMBAの境界(紀元前2008~紀元前1750年頃)と推定された個体poz502に適用されるならば、そうした孤立した人口集団は以前に報告されたよりもずっと長く存続した、と示唆されるかもしれません。この仮説は考古学的記録により裏づけられ、一部の新石器時代文化、とくに顕著なのはGACですが、青銅器時代へとよく続いた、と示されています。
個体poz502と同様に、SC(ストシジュフ文化)関連の男性2個体(poz794とpoz758)は他のEBA個体と遺伝的に異なっていました。この男性2個体(poz794とpoz758)はPCA図では狩猟採集民空間により近く(図1D)、混合分析ではさまざまなヨーロッパ狩猟採集民人口集団で最大化される遺伝的構成要素の割合増加を示しました(図1C)。しかし、これら2個体のうち1個体(poz794)の直接的な放射性年代測定(紀元前1921~紀元前1697年頃)や、本論文で分析されたMBA人口集団との遺伝的類似性から、この男性2個体(poz794とpoz758)はMBAで観察された遺伝的変化の一部として考察されねばならない、と示唆されます。とくに、SCは混合した文化的特徴を有する地域的な文化的現象と一般的に考えられており、個体の埋葬もしくは遺跡のSCとの関連についての頻繁な論争につながります。したがって、遺伝的に異なる人口集団とのSCの定義と関連づけは、SCに分類された個体群のより広範な選択を対象とする、さらなる調査に正当な根拠を与えます。
●MBAにおけるヨーロッパ中央部での狩猟採集民祖先系統の増加
本論文で分析されたMBA個体群の年代範囲は紀元前1750~紀元前1200年頃で、TC(トシュチニェツ文化)とKC(コマルフ文化)の両方を表すTCC(トシュチニェツ文化圏)と関連していました。これらの個体の大半はPCA空間でともにクラスタ化し(まとまり)、類似の混合割合を共有していました(図1C・D)。この明らかな遺伝的関連は、f3およびD統計によりさらに浮き彫りになり、別々に分析すると、KCとTCの個体群は多くの場合で2人口集団のどちらかとの統計的に有意でより密接な遺伝的類似性を示さない、と示唆されます。これらの結果は、TCとKCの分離に疑問を呈し、両者を同じ現象の地域的亜種として扱うことを支持する、考古学的解釈と一致します。
興味深いことにEBA人口集団と比較して、MBA個体群はPCA空間ではヨーロッパのさまざまな狩猟採集民人口集団とより近く、これはミトコンドリアゲノムデータだけの分析では以前に検出されなかったものです。させに、混合分析は狩猟採集民で最大化される遺伝的構成要素量の増加を示唆しました(図1C)。これは、この遺伝的構成要素の相対的に高い割合を有する人口集団と関わる、MBAの開始における追加の混合事象を示唆します。しかし、この傾向には顕著な逸脱があり、ピエルグジモビツェ(Pielgrzymowice)遺跡のTCと関連する3個体と、ベレミアニー(Beremiany)遺跡の比較的初期の男性1個体(poz643)は、PCA空間ではEBA人口集団の方とより近くでクラスタ化し、最低水準のTCおよび狩猟採集民の両人口集団と共有される遺伝的浮動を示します。
qpAdmを用いて、MBA人口集団の形成をもたらしたあり得る2方向混合モデルを検証すると、いくつかのモデルが妥当と判断され、最高のp値(0.21)はICと新石器時代バルト海地域狩猟採集民(Neolithic Baltic hunter-gatherers、略してNBL)で構成される組み合わせで得られました。同様に、高いp値はICと他の狩猟採集民人口集団を含む他の組み合わせで見つかりました。それは、ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western Hunter Gatherers、略してWHG)、ゴットランド島のPWC狩猟採集民、ブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、略してBKG)の背景で埋葬された狩猟採集民(BKGout)、NBLに先行する狩猟採集民人口集団(HGBL)です(p値はそれぞれ、0.207、0.204、0.164、0.160)。これらの結果は、ICがTCの出現に大きく寄与した、という考古学的仮説と一致します。しかし、この調査結果は慎重に解釈すべきで、それは、IC と関連する1個体のみが、qpAdmに含めるのに充分な網羅率だったからです。高い適合値は、EBAの先行集団としてのCWCおよび狩猟採集民祖先系統の供給源としてのPWCと関連する現代のエストニアの個体群を含む、人口集団の組み合わせでも得られました(p=0.11)。
新石器時代人口集団を加えた3方向混合モデルにより示唆されるように、混合の過程はより複雑だった可能性が高そうです。これらのモデルは、2方向モデルより良好な適合さえもたらしました。複数の妥当な仮定的状況が見つかり、その全ては、さまざまな狩猟採集民と新石器時代人口集団に加えてCWCを含む、高い適合値(p>0.9)を示します。2方向と3方向両方のモデルで用いられたqpAdmに対するより識別地下のある循環外群手法は、妥当な仮定的状況の数を絞り込むのに役立ちました。1個体で構成される供給源を含むモデルの除外後に、CWCと新石器時代としてGACもしくはFBCと狩猟採集民人口集団としてNBLもしくはHGBLを含む3方向の仮定的状況のみが、妥当と分かりました。地理的および時間的近さと、各MBA個体についてあり得る祖先系統供給源を直接的に比較するD統計の結果に基づくと、CWCとNBLとGACが混合過程に関わる人口集団にとって最適な代理と分かりました。しかし、高い適合値とBKG背景で埋葬された狩猟採集民祖先系統のある個体との遺伝的類似性から、将来の研究はこの仮定に関わる人口集団をより適切に定義するのに役立つかもしれない、と示唆されます。
最も可能性の高そうな仮説は、これら混合したMBA人口集団が、優勢なWHG祖先系統を有する人口集団および草原地帯祖先系統の高い割合により特徴づけられるCWC後の集団と関連する、半新石器時代森林地帯の合流点に起源があった、というものです。半新石器時代森林地帯は、ヨーロッパ北東部のさまざまな考古学的文化を含む広義の用語で、おもに狩猟採集民の生活様式の長期の保存と、新石器時代および青銅器時代起源の文化的要素の組み込みにより特徴づけられます。
これらの人口集団は新石器時代および新石器時代後の人口集団と遺伝的に異なっているままでしたが、一定数以上の長期の文化的および経済的交流を維持しました(関連記事)。これは、草原地帯牧畜民のEBA子孫とのその後の接触が続いた、ゴットランド島のPWCで観察された事例(関連記事1および関連記事2)と同様に、そうした人口集団間のある程度の遺伝子流動につながったかもしれません。さらに、TCCと半新石器時代森林地帯は、おもに土器形式と技術で同様の文化的特徴を示しました。これらの類似性は、おもに文化的交流の兆候として解釈されることが多くなっています。MBAにおけるWHG祖先系統の増加を示す本論文の結果から、少なくとも一定水準の混合がこれらの相互作用期間に起きた、と示唆されます。
注目すべきことに、SC と関連するEBAの2個体(poz794とpoz758)は、MBA人口集団とより密接な遺伝的類似性を示し、両個体とも現代のポーランドの南東部で発見されており、この2個体のうち直接的な年代のある1個体(poz794)は、本論文で分析されたMBA標本群に先行します。この観察から、上述の接触地帯は、混合が起きた、および/もしくは混合の過程が地理的により分散していた唯一の場所ではなかった、と示唆されます。EBAで見られる交流網の範囲と期間を考えると、どちらも妥当です。個体poz794は観察された遺伝子流動の開始を示している可能性さえあり、それは紀元前1800年頃にさかのぼるでしょう。
SCは通常、地下墓地文化(Catacomb Culture)など草原地帯文化からの追加要素を伴う、CWC伝統の連続とみなされています。しかし、WHG祖先系統の増加への遺伝的変化は、草原地帯からの追加の移住により説明できず、この見解は以前にミトコンドリアデータのみに基づいて提案されました。この見解は、ヨーロッパ人の遺伝子プールにおける主要な祖先系統の最適な代理として、WHGやアナトリア半島新石器時代農耕民やヤムナヤ文化集団を含む3方向qpAdmモデル化により計算された、草原地帯祖先系統増加の兆候により裏づけられません。さらに、EBA個体群と狩猟採集民人口集団を含むMBA人口集団の出現をもたらした仮定的状況を調べた2方向モデルでは、アンドロノヴォ(Andronovo)文化やアファナシェヴォ(Afanasievo)文化やシンタシュタ(Sintashta)文化やポルタフカ(Poltavka)文化やカラスク(Karasuk)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化など、追加の草原地帯人口集団を含むモデルよりも高い確率が得られました。
紀元前1800年頃に始まった混合の過程は、本論文で分析されたMBA標本の全時間範囲を通じて、狩猟採集民祖先系統のひじょうに高いもしくは低い割合を有する個体群の存在により証明されるように、単一の移住事象の結果ではなく連続的だったようです。しかし、遺伝子流動はMBA開始期により広範だった可能性が高そうで、それは、共有された遺伝的浮動(f3統計により確認されます)と混合割合(qpAdmで計算されます)の両方で、狩猟採集民祖先系統の割合は経時的にわずかに減少した、と示されているからです(図2A・C)。この事象の結果は長く続いたに違いなく、それは、現代のラトヴィアおよびリトアニアの後期青銅器時代(Late Bronze Age、略してLBA)個体群が、半世紀近く後に生きていたにも関わらず、本論文で分析されたMBA個体と同じ遺伝的組成を保持しており、f3統計に基づくと、全ての青銅器時代人口集団のうち本論文で表されているMBA個体群と最も密接な遺伝的類似性を有している、と分かったからです。以下は本論文の図2です。
さらに、いくつかの一連の論拠は、この混合事象では高水準の狩猟採集民祖先系統により特徴づけられる人口集団起源の男性が優位だった、という見解を裏づけます。第一に、以下に示される本論文の直接的な親族関係分析により示されるように、出現した人口集団はおもに父方居住でした。第二に、Y染色体ハプログループ(YHg)のMBAの組成は、選好する人口集団とわずかに異なっており、それは、YHg-I2a1aおよびI2a1bの優勢がナルヴァ文化(Narva Culture)の2個体を含めてさまざまな狩猟採集民人口集団において以前には散発的にしか見られなかったのに、MBA個体群においては高頻度で見られるようになったからです。ただ、GAC集団埋葬では、異なる下位系統のYHgがあります(関連記事)。
YHg-I2a1は、検出された各親族集団から1個体のみ選択した後でさえ、TC関連MBA個体群の75%で見つかりました。さらに、この変化は、mtDNAハプログループ(mtHg)で検索したさいには明らかではありませんでした。最後に、先行研究により提案された手法を用いてのf3統計により決定される、X染色体データにおける遺伝的距離の直接的分析から、常染色体上ではTCはX染色体上の場合よりも狩猟採集民人口集団との相対的に類似していた、と示されました(図2D)。さらに、X染色体に基づくf3値で時間的変化を探すと、常染色体データで見られたように、紀元前1800~紀元前1500年頃の間ではWHG個体群と共有された遺伝的浮動量の増加は観察されませんでした(図2B)。
MBAにおける遺伝的変化につながる事象の正確な軌跡は、現在の知識では再構築できません。バルト海地域東部の狩猟採集民人口集団は、千年にわたって新石器時代農耕民と直接的に接触していた複数の考古学的文化と関連していました。この共存のある時点で移住事象が起き、混合人口集団の出現につながり、次に、その人口集団が草原地帯牧畜民もしくはそのヨーロッパ中央部の子孫と混合して、本論文で分析されたMBA人口集団の形成をもたらした、という可能性を除外できません。
ヨーロッパ中央部東方からのより多様な遺伝的データの欠如が、この混合に関わった正確な人口集団の特定を妨げています。考古学的記録から、農耕民と狩猟採集民という文化的に異なる集団間の接触はかなり続き、かなりの文化的変化につながった、と示されているので、集団埋葬と父方居住の慣行はそれらの変化の一部だったかもしれません。これは、中期新石器時代のGACと関連した一部の集団埋葬における高頻度のYHg-I2a1b(関連記事)に反映されているかもしれません。この観察された変化は、複数の人口集団を含む、いくつかの過程から生じたかもしれません。本論文の観察は、それらの過程の合計を表しています。
●青銅器時代の集団埋葬における父方親族構造
TCCは集団埋葬されたTCおよびKC関連個体の多さのため、ヨーロッパ中央部東方の他の青銅器時代人口集団から際立っています。本論文では、12ヶ所の遺跡から62個体が分析され、そのうち52個体は少なくとも2個体の遺骸を含む構造内に埋葬されていました。さらに、ダハジュフ(Dacharzów)遺跡の2個体の事例のように、単葬墓は集団埋葬に近接していることが多く、たとえば、単葬墓の上に埋葬塚が築かれました。本論文のデータから、TCC と関連するMBA集団埋葬には多くの遺伝的に親族関係にある個体が含まれており、複数の1親等および2親等の親族関係がそれらの構造内で見つかった、と明確に示されます。
密接な関係が最も多く検出されたのは、最良の全体的な古代DNA保存を示したジェルニキ・グルネ(Żerniki Górne)遺跡の個体群です。9ヶ所の建造物に埋葬された28個体のうち、17個体は親族集団に属すると分かり、一部の事例では、少なくとも4世代にまたがる家系が再構築されました(図3)。興味深いことに、直接的な遺伝的親族関係は、異なるものの隣接している玄室に埋葬された個体間でも見つかりました。これが示すのは、墓自体が人口集団内の親族集団を表しているだけではなく、墓地内の墓の空間的関係が親族関係を表してもいた、ということです。成人女性と比較しての成人男性の子孫間の密接な親族関係の盛行から、父方居住が支配的な結婚の取り決めだった、と示唆されます。この見解は、Y染色体DNAと比較してより高いmtDNAの多様性と、男性間より女性間で平均的な遺伝的距離が大きいことによりさらに裏づけられます。後者はD統計により裏づけられ、男性は一般的にTCC関連人口集団に対して、他のジェルニキ・グルネ遺跡個体とクレード(単系統群)を形成するより大きな傾向を示した、と分かりました(図2E)。以下は本論文の図3です。
しかし、同じ集団墓内の分析された全個体が遺伝的に親族関係だったわけではありません。この調査結果は、全個体を標本抽出できないことか、あるいは不充分なDNAの保存状態に起因して、そうした個体を特徴づけることができないことを反映しているかもしれません。さらに、墓地で親族関係が検出されなかった個体はほぼ女性で(ジェルニキ・グルネ遺跡で親族関係が検出されなかったのは、男性2個体と女性9個体)、これは父方居住との見解をさらに裏づけます。ピエルグジモビツェ遺跡の第9号墓など一部の事例では、小さい穴状の遺構/玄室の埋葬は長期間、おそらくは複数世代にわたって使用されたので、複数の1親等および2親等の親族関係の検出の可能性は低くなります。とはいえ、分析された5個体のうち2個体は1親等の親族関係を共有しており、母親とその成人の息子だった可能性が高そうです。
ブロジツァ(Brodzica)遺跡の集団埋葬は、一つの核家族の遺骸を含んでいるようで、充分な量のデータが4個体のうち3個体で利用可能で、その全個体は親族関係にありました。これらの個体は、父親とその2人の子供を表している可能性が最も高そうです。成人女性と解釈された第四の個体(ただ、遺骸からは親族関係分析に充分な核DNAデータが得られませんでした)は、子供2人と同じmtHgに属するので、その母親もしくは追加のキョウダイかもしれません。TCと関連するMBA人口集団は、多様性推定のため用いられた集団内の対でのf3統計によると、そのEBAの先行者よりもわずかに多様性が低いようです。この結果は、複数の親族関係にある個体のいる遺跡により引き起こされたわけではなく、それは、類似のf3距離分布が異なる遺跡の個体の組み合わせで見つかったからです。
集団埋葬は父方親族集団を表している、という見解は、ヨーロッパにおけるMBA以前の新石器時代人口集団に関する以前の観察と一致します(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。親族関係に基づく集団埋葬の盛行は、新石器時代と青銅器時代の変わり目における草原地帯牧畜民の到来により中断され、BBCやCWCと関連する社会など、より個人化された社会の発展につながりました。集団埋葬はEBAを通じて存在したので、集団埋葬の慣行は決して完全に消え去ったわけではなく、これらの墓は親族集団の遺骸を含んでいる、と示されてきました。エレベンヌ(Hrebenne)遺跡墓地においてそうした1事例が、ズボヴィツェ(Zubowice)遺跡で他の親族集団埋葬の可能性(ただ、一塩基多型の重複が少ないので、この推定は不確実です)が確認され、これら集団墓の両方ともMC(ミェシャノヴィツェ文化)と関連していました。しかし、TCにおけるこの現象の規模は新石器時代社会に存在するものとより類似しており、より古い伝統の再出現の証明として解釈できるかもしれません。
父方居住の社会構造と男性中心の移住は、草原地帯牧畜民およびその子孫と関連する人口集団および事象と関連づけられてきました(関連記事1および関連記事2)。一方で、狩猟採集民社会は結婚後の居住選好においてずっと流動的だった、と一般的に考えられており、現代および歴史時代の狩猟採集民集団の多くは双系的な慣行を示しています。標本不足のため、古代ヨーロッパ狩猟採集民が好んだ結婚後の居住を評価できません。一方で、ヨーロッパ西部および中央部の中期新石器時代農耕民で得られた最近のデータから、これらの人口集団における集団埋葬は通常、父方居住の子孫の親族関係にある個体で構成されている、と示されており(関連記事1および関連記事2)、それらの人口集団もしくは子孫も、MBAにおける遺伝的変化をもたらした事象に役割を果たした、という見解が裏づけられます。
参考文献:
Chyleński M. et al.(2023): Patrilocality and hunter-gatherer-related ancestry of populations in East-Central Europe during the Middle Bronze Age. Nature Communications, 14, 4395.
https://doi.org/10.1038/s41467-023-40072-9
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