榎村寛之『謎の平安前期 桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2023年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本の「古典的国制」の確立期で、多くの古代集落の消滅など大規模な社会変化があったと推測され、重要ではあるものの、日本史でも一般的な人気が低く、よく理解されていないだろう平安時代前期を扱っています。具体的には、本書では一条天皇の頃までが扱われています。もちろん、私も平安時代前期についての理解はあやふやなので、最近の知見を得るために読みました。以下、本書のとくに興味深い見解を備忘録として取り上げます。
平安時代前期の重要な特徴の一つは、「国史」編纂が行なわれなくなったことです。それまで、行政記録は最終的に「国史」に編纂されていましたが、「国史」編纂は難事業で、そこから先例を導くのは苦労するため、行政担当者の残した事務記録が日記に残され、「先例」として重視されるようになります。また、そもそも漢字文化圏の史書には王朝交替を批判的に検証する目的もあったものの、天皇と摂関が一体になり、王権簒奪のような形での王朝交替が強く意識されないようになったため、王朝交替を批判的に評価するための歴史書は、日本において価値を完全に失ったのではないか、とも指摘されています。また本書は、平安時代前期の大きな特徴として、「大きな政府」から「小さな政府」への転換を挙げています。
平安時代は桓武天皇に始まり、桓武はその出自から皇位継承の可能性はほとんどなく、それ故に劣等感が強かったので、さまざまな自己正当化を図った、との見解は広く浸透しているように思います。本書はそれを、天皇を「中華皇帝」に近づけるなどの「漢風化」として把握しますが、それが多分に場当たり的だったことも指摘します。本書は桓武朝の特徴の一つとして、出自が低くても学識のある人物の登用を挙げています。こうした流れの延長に、菅原道真の出世もあったようです。また本書はこの頃の官人登用試験も取り上げ、8~9世紀にかけては、現場の課題解決のための秀才確保という性格が明確にあったことを指摘します。このように、平安時代初期には人材登用に流動性がありましたが、それが次第に失われていき、それは菅原道真が失脚した901年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の昌泰の変で決定的となります。この後、貴族は公卿になれる上層とそうではない下層との格差が大きくなり、平安時代でも後期は前期とかなり異なる社会へと変容していきます。
女官の地位も、平安時代前期には変容していきます。奈良時代には女官の身分は高く、自立性が高かったわけですが、8世紀後半以降に変容していき、重要な転機となったのが、810年の平城天皇の乱(薬子の変)で、女官の役職は形骸化していきます。女性関連では、桓武天皇と嵯峨天皇の時代に本格的な後宮が形成されていったことや、内親王が結婚しなくなっていったことも、平安時代前期の重要な変化です。全体的に、平安時代前期には奈良時代と比較して女性の地位が低下していったようです。摂関政治期における「女流文学者」の続出にしても、9世紀前半までと異なり、その実名はほぼ伝わっていないことにも、それは現れているようです。
本書は、現在では地味な天皇の一人と一般的には認識されているだろう、文徳天皇にも1章を割いています。本書は、文徳天皇をめぐる背景として、嵯峨天皇以降とくに、儒教思想に基づく、礼を重視した秩序意識の強調が挙げられています。高圧的・専制的ではなく、謙譲的で文化的な態度が規範とされていった、というわけです。奈良時代には、瑞祥は天皇の徳の現れと認識されていましたが、そうした単純素朴な認識は低下していきました。これは、儒教的な知性と理性で政治を行なう「文章経国思想」と通じている、と本書は指摘します。また文徳朝の前後で、名前(諱)には縁起のよい二文字をつける、という発想が定着していったようで、つまりは「馬子」というような名前はこの頃に消えていきました。
本書は、紀貫之にも1章を割いています。紀貫之は『古今和歌集』の撰者の一人ですが、当時の和歌は漢詩と比較して地位が低く、『古今和歌集』の撰者にも上級貴族はいません。こうした意識は藤原道長の頃にも続いており、天皇や上級貴族も和歌を詠むものの、歌合の場にでるようなことはありませんでした。この点で、平安時代末~鎌倉時代初期の藤原定家が上級貴族だったこととは対照的でした。本書は、歌合に始まる「歌壇」の形成が、歌紀行としての『土佐日記』や歌物語としての『伊勢物語』といった新たな分野の文学を生み出し、平安文学の根源にもなった、と評価しています。8世紀以前の口承に基づく「神話」や「歌謡」による表現から、平仮名を記録媒体として文字化された「物語」や「和歌」に基づく社会へと変容していき、その延長線上に『枕草子』や『源氏物語』があった、というわけです。
平安時代前期の重要な特徴の一つは、「国史」編纂が行なわれなくなったことです。それまで、行政記録は最終的に「国史」に編纂されていましたが、「国史」編纂は難事業で、そこから先例を導くのは苦労するため、行政担当者の残した事務記録が日記に残され、「先例」として重視されるようになります。また、そもそも漢字文化圏の史書には王朝交替を批判的に検証する目的もあったものの、天皇と摂関が一体になり、王権簒奪のような形での王朝交替が強く意識されないようになったため、王朝交替を批判的に評価するための歴史書は、日本において価値を完全に失ったのではないか、とも指摘されています。また本書は、平安時代前期の大きな特徴として、「大きな政府」から「小さな政府」への転換を挙げています。
平安時代は桓武天皇に始まり、桓武はその出自から皇位継承の可能性はほとんどなく、それ故に劣等感が強かったので、さまざまな自己正当化を図った、との見解は広く浸透しているように思います。本書はそれを、天皇を「中華皇帝」に近づけるなどの「漢風化」として把握しますが、それが多分に場当たり的だったことも指摘します。本書は桓武朝の特徴の一つとして、出自が低くても学識のある人物の登用を挙げています。こうした流れの延長に、菅原道真の出世もあったようです。また本書はこの頃の官人登用試験も取り上げ、8~9世紀にかけては、現場の課題解決のための秀才確保という性格が明確にあったことを指摘します。このように、平安時代初期には人材登用に流動性がありましたが、それが次第に失われていき、それは菅原道真が失脚した901年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の昌泰の変で決定的となります。この後、貴族は公卿になれる上層とそうではない下層との格差が大きくなり、平安時代でも後期は前期とかなり異なる社会へと変容していきます。
女官の地位も、平安時代前期には変容していきます。奈良時代には女官の身分は高く、自立性が高かったわけですが、8世紀後半以降に変容していき、重要な転機となったのが、810年の平城天皇の乱(薬子の変)で、女官の役職は形骸化していきます。女性関連では、桓武天皇と嵯峨天皇の時代に本格的な後宮が形成されていったことや、内親王が結婚しなくなっていったことも、平安時代前期の重要な変化です。全体的に、平安時代前期には奈良時代と比較して女性の地位が低下していったようです。摂関政治期における「女流文学者」の続出にしても、9世紀前半までと異なり、その実名はほぼ伝わっていないことにも、それは現れているようです。
本書は、現在では地味な天皇の一人と一般的には認識されているだろう、文徳天皇にも1章を割いています。本書は、文徳天皇をめぐる背景として、嵯峨天皇以降とくに、儒教思想に基づく、礼を重視した秩序意識の強調が挙げられています。高圧的・専制的ではなく、謙譲的で文化的な態度が規範とされていった、というわけです。奈良時代には、瑞祥は天皇の徳の現れと認識されていましたが、そうした単純素朴な認識は低下していきました。これは、儒教的な知性と理性で政治を行なう「文章経国思想」と通じている、と本書は指摘します。また文徳朝の前後で、名前(諱)には縁起のよい二文字をつける、という発想が定着していったようで、つまりは「馬子」というような名前はこの頃に消えていきました。
本書は、紀貫之にも1章を割いています。紀貫之は『古今和歌集』の撰者の一人ですが、当時の和歌は漢詩と比較して地位が低く、『古今和歌集』の撰者にも上級貴族はいません。こうした意識は藤原道長の頃にも続いており、天皇や上級貴族も和歌を詠むものの、歌合の場にでるようなことはありませんでした。この点で、平安時代末~鎌倉時代初期の藤原定家が上級貴族だったこととは対照的でした。本書は、歌合に始まる「歌壇」の形成が、歌紀行としての『土佐日記』や歌物語としての『伊勢物語』といった新たな分野の文学を生み出し、平安文学の根源にもなった、と評価しています。8世紀以前の口承に基づく「神話」や「歌謡」による表現から、平仮名を記録媒体として文字化された「物語」や「和歌」に基づく社会へと変容していき、その延長線上に『枕草子』や『源氏物語』があった、というわけです。
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