千葉聡『ダーウィンの呪い 人類が魅入られた進化論の「迷宮」』
講談社現代新書の一冊として、講談社より2023年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、進化学の学説史というか、ダーウィンの提唱した進化論がどのような背景で提示され、批判や反発も含めてどのように人々に解釈されて、近現代社会に影響を及ぼしたのか、検証しています。現在一般的に「進化」と訳されている「evolution」を、ダーウィンは当初ほぼ使用しておらず、「transmutation(変化)」という用語を使っていました。「evolution」自体は、ダーウィンが『種の起源』を執筆する前の19世紀前半には使用されており、改良や複雑化や発達などといった意味で使用されていました。「evolution」はラテン語の「evolutio(展開する、繰り広げる)」に由来し、密集して折りたたまれていたものが一方向に展開するような減少の表現に用いられており、それが転じて17世紀以降には、個体発生を意味する言葉として「evolution」が使われました。19世紀前半には、「evolution」は内的な力によって生起する一定の方向への時間的変化や、単純なものから複雑なものへと発達・発展する現象を広く表現する言葉として使われるようになります。
ラマルクなど当時の学者も、「evolution」という言葉は使わなかったものの、地球上の生命の発展はあらかじめ決められた目標に向けた首尾一貫した計画の展開と考えていた点では、一致しており、生物の進歩的な変化との考えは、19世紀前半にはイギリス社会でかなりの程度受け入れられていました。この意味で「evolution」を用いて、宇宙の発達や生物の複雑・多様化や人間と西進の発達や社会の発展・進歩を自然法則として統一的に説明しようとしたのが、ハーバート・スペンサーでした。スペンサーが生物の「evolution」を駆動する力として重視したのは、ラマルク的な獲得形質の遺伝を主とする内的な力でした。つまり、ダーウィンが用いた「transmutation」は、自然界の秩序ある発展となる「evolution」を否定するものでした。ただ、ダーウィンが方向性のない進化にこだわり、進化を進歩と見る考えを常に拒否していたわけではなく、後に獲得形質の遺伝の考えも大きく取り入れ、方向性のない変化との主張も後退させていき、それに合わせるかのように「evolution」を使うようになった、と本書は指摘します。
ダーウィンは進化を、生物学者としては方向性のないものと認識していたものの、社会哲学者としては進歩の意味で説明しており、それは自説が社会に受容されるには、19世紀イギリス社会の進歩主義に貢献できねばならないと考えていたからだ、との指摘もあります。そのため、ダーウィンの進化論が当時の進歩観に衝撃を与えたわけではなく、対立したわけでもありませんでした。社会はダーウィンの進化論を進歩主義の推進力に利用し、ダーウィンもそれを利用した結果、ダーウィンの「transmutation」と「evolution」は同義となりました。
20世紀半ば以降、自然選択を中心に据えた進化の総合説が広く定着し、生物の進化が当初のダーウィンの主張通り、方向性のない変化の意味で理解されるようになった時には、生物学者はそれを本来違う意味だったはずの「evolution」で呼ぶようになった、というわけです。本書はこうした事情を踏まえて、生物学以外で自然現象や事物や社会の発展・発達・進歩を表す用語として「evolution」が使われると、それは誤用と指摘する生物学者もいるものの、本来の意味に近いのはそうした用法で、生物学での意味の方こそ異端である、と指摘します。「進歩せよ」を意味する「進化の呪い」は進歩史観に由来し、生物学の原理を社会に当てはめて生まれたのではなく、初めから自然と生物と社会を遍く支配し、進歩を善とするか置換として存在していた、というわけです。
進化論の言葉として有名ながら、現在の進化学として使われる機会が少ない「適者生存」についても、本書ではやや詳しく取り上げられています。『種の起源』原書初版では、「適者生存」という言葉は使われておらず、この言葉が最初に見られるのはその5年後に刊行されたスペンサーの『生物学原理』です。ダーウィンは表向きにはスペンサーを評価する一方で、生物学、とくに生殖についてはスペンサーの見解はでたらめと考えてようで、「適者生存」という言葉も無視していました。スペンサーは「適者生存」と「自然選択」を同じ意味と考えていましたが、実際には大きな違いがあった、と本書は指摘します。自然選択とよく似た過程は、ダーウィンとウォレス以前から提唱されていましたが、そこでは有害な変異除去のために変化が起きない、と想定されていたのに対して、自然選択では特定の環境下での有利な変異の維持と不利な変異の除去により新たな性質の出現が想定されており、創造的な意味があった、というわけです。
しかしウォレスは、「自然選択」という用語により選択が誰かによる目的のある能動的な仕組みと誤解されることを恐れて、「適者生存」という用語を採用するよう、1866年にダーウィンに提案します。1869年に刊行された『種の起源』第5版では、自然選択が適者生存と同じような意味で用いられていました。本書はこれを、当時厳しく批判されていた進化論を守るためだった、と推測していますが、これが後に大きな問題をもたらした、と指摘しています。適者も進化と同様に生物学的と日常用語とで意味合いが異なっており、生物学での適者(出生率と生存率の高さ)は強さや賢さといった性質とは必ずしも一致しませんが、人々には、弱者や愚者が排除され、強者や賢者だけが生き残る、と解釈されました。これは、進化論が当時の風潮だった進歩史観に合流する道を開き、自由放任主義の経済と結びついていきます。ハクスリーは、自然選択を適者生存と置き換えたことにより多くの害がもたらされた、と指摘します。
一方で本書は、社会進化論の代表とされるスペンサーが、実は適者生存を重視していなかったことも指摘します。スペンサーの進化論はダーウィンの進化論とほとんど関係がなく、適者生存という用語で取り入れた自然選択(の一部)はあまり重視されず、創造的な役割を担ったのはラマルク的な獲得形質の遺伝だった、というわけです。スペンサーは、適者生存に創造的な力は乏しく、それが作用するのは植物などあまり「進歩」していない段階の生物に限られ、人間の進化には関係しない、と考えていました。本書はスペンサーの進化論を、ダーウィンの革新的な進化論を取り入れたわけでも、適者生存を人間社会に適用し、弱肉強食型の社会を創ろうとしたわけでもなく、伝統的な進化の観点から導かられたものと評価しています。スペンサーは、ダーウィン以前の進化観に基づいて壮大な思想を展開した、最後の古典的進化思想家だった、というわけです。スペンサーの進化論は自由放任主義を基調として、当時のイギリス社会の進歩史観や古典的自由主義と合致し、現代の自由至上主義(リバタリアニズム)の源流とされています。スペンサーの進化論では、「進化した社会と人間」は協調的で利他性を重んじると想定され、ある意味で楽園思想に基づくものだった、と本書は評価しています。また、スペンサーはイギリスの植民地支配を批判しており、スペンサー自身が「人種」差別による搾取や植民地主義を正当化したことはありませんでした。
ダーウィンの進化論は大衆に広く知られるようになりましたが、それは『種の起源』が当時の科学的書籍としてはなかなかの水準で売れたからというよりも、当時出現し始めていたサイエンスライターが取り上げたからでした。すでに1872年までに、一部の保守派を除いて進化論は受け入れられていたようです。ただ当時、自然選択説は一時的に注目を集めたものの、間もなく失速し、代わって支持を得たのはラマルク的な獲得形質の遺伝で、祖先から子孫へ一方向的に形態変化が進む、とのネオ・ラマルキズムが広がりました。ただ、ラマルク説を支持する科学者でさえ、ダーウィンの支持者と自称し、その功績を称えていました。大衆に受け入れられたのも進歩の意味での進化で、ダーウィンの独創的な自然選択はほとんど受け入れられていませんでした。そもそも、当時のイギリスとアメリカ合衆国では、ダーウィン説を正しく紹介した知識人もほとんどいなかったようです。つまり、19世紀において、ダーウィンの進化論が当時の社会や思想を変革したり、自然選択説で当時の常識を覆したりといった、「ダーウィン革命」は起きなかったわけです。
19世紀末に大衆への進化論の啓蒙に最も大きな役割を果たしたのがベンジャミン・キッドで、その著書『社会進化論』では、人間とその社会の進化(進歩)は競争と生存闘争による適者生存(自然選択)の結果で、最も産業化を遂げた民族が最も進化(進歩)した民族とされました。本書はキッド説について、スペンサー進化論の枠組みだけ利用し、その過程をラマルク的な獲得形質の遺伝から粗雑な自然選択に変えたとして、以後の社会に大きな影響を与えた、と評価しています。キッド説では、社会は1個体の生物のような有機体で、個人の利益より社会の利益の方が重視され、それが民族や国家間の闘争と適者生存に結びつけられました。キッド説では、個人と社会の利益の対立関係は宗教により緩和される、と想定されました。キッドの『社会進化論』は世界中で大きな反響を呼び、日本では内村鑑三が強い感銘を受けましたが、夏目漱石は愚論と評価しました。ダーウィン的進化論と、幸福な社会の実現という理想との折り合いのつけ方には2通りあって、一方は人間社会を発展させる精神活動は進化と独立に作用する、という立場で、もう一方はダーウィン的な進化論を拡大解釈し、それを理想の実現に合致する、としてしまう立場です。
上述のように、ダーウィンの自然選択説は提唱後間もなく失速し、ラマルク的な見解が優勢になりましたが、19世紀末には両者が曖昧な理解に基づくいわば共存状態(これには、晩年のダーウィンが獲得形質の遺伝も取り入れていたためでもありました)から決定的に対立するようになります。この激しい論争においてダーウィンの自然選択説が優勢になっていったのに、遺伝学が大きく貢献したようです。その延長線上に、統計学の多大な貢献もあり、20世紀半ばに進化の総合説が成立します。とはいえ、19世紀末から20世紀半ばの総合説の成立、さらにはその後でも進化と進歩を同一視する観念は根強く残り、さらには人間の進化が進歩でないならば、人間自らが進化を進歩に変えねばならない、との思考が現れます。これは、イギリスにおいて上層階級よりも下層階級の方で出生率が高いことへの危機感に由来していました。
この過程で猛威を振るったのが優生思想で、分かりやすく改変されたダーウィン進化論が正当化に利用されました。ドイツのナチ体制がおぞましい形で優生思想を現実の政策に反映しようとしたことはよく知られているでしょうが、そのさいにナチ体制が参考にしたのはアメリカ合衆国だったことも、今では日本社会で割とよく知られるようになったかもしれません。優生思想は、ドイツのナチ体制ほど極端ではないにしても、20世紀前半の欧米には広く浸透していたわけです。優生思想の「創始者」的人物は、ダーウィンの従弟で進化論を支持し、統計学の発展に大きく貢献したフランシス・ゴルトンでした。本書は、ゴルトンにより提示された「優れている能力」が恣意的な指標だったことを指摘します。総合説の成立に直接的ではないとしても貢献したと言えるゴルトンが優生思想を提唱したように、総合説の成立に直接的に貢献した偉大な科学者の中にも、優生思想の信奉者はいました。しかし、イギリスでは早くも1910年代には優生思想の勢いは失われ、初期に優生思想を批判した一人が、晩年のベンジャミン・キッドでした。
一方、イギリスとは対照的にアメリカ合衆国では、1910年代半ばから優生思想が急速に定着していき、ナチ体制が参考とするに至ります。優生思想で問題となったのが、イギリスではおもに階級だったのに対して、アメリカ合衆国では「人種」でした。こうした「人種」の違いの起源は古く、その進化過程に起因すると考えられ、北方で進化した「人種」が最も優れている、と考えられました。一方でアメリカ合衆国においても、優生学者が主張する性質と遺伝子の関係は単純すぎる、との批判もありました。遺伝子間で複雑な相互作用がある、というわけです。しかし、政財官学に深く根付いた優勢思想とそれに基づく活動は、そうした批判では容易に揺らがなかったようです。アメリカ合衆国において政治家や大衆媒体や遺伝学者の多くが優生学と距離を取り始めたり批判的になったりし始めたのは、1930年代になってからでした。また本書は、優勢思想的な観念は古典期ギリシアなどで古代から見られたものの、強力な武器を与えたのが科学だった、と指摘します。
本書は、ナチ体制の崩壊とともに優勢思想が消滅したわけではなく、いつでも復活する可能性がある、と懸念しています。というよりも、「穏やかな」優勢思想はナチ体制の確立から崩壊の後でも残ったことを、本書は指摘します。今では日本社会でも割とよく知られるようになったかもしれませんが、「進歩的な福祉国家」とされる数量でも、1975年まで強制不妊が行なわれており、日本でも1948~1996年まで優生保護法により25000人ほどが不妊化された、と推測されています。本書は、第二次世界大戦後に優生学が「ステルス化」した、と指摘します。1970年代以降に、優生学という用語を進化学者や遺伝学者は避けるようになったものの、消え去ったわけではなく、見えなくなっただけだ、というわけです。本書は最後に、ゲノム編集技術の進歩など、現在でも優生思想がすでに克服された問題ではないことを指摘しており、これは私も含めて現代人が考えねばならないと改めて思います。
参考文献:
千葉聡(2023)『ダーウィンの呪い 人類が魅入られた進化論の「迷宮」』(講談社)
ラマルクなど当時の学者も、「evolution」という言葉は使わなかったものの、地球上の生命の発展はあらかじめ決められた目標に向けた首尾一貫した計画の展開と考えていた点では、一致しており、生物の進歩的な変化との考えは、19世紀前半にはイギリス社会でかなりの程度受け入れられていました。この意味で「evolution」を用いて、宇宙の発達や生物の複雑・多様化や人間と西進の発達や社会の発展・進歩を自然法則として統一的に説明しようとしたのが、ハーバート・スペンサーでした。スペンサーが生物の「evolution」を駆動する力として重視したのは、ラマルク的な獲得形質の遺伝を主とする内的な力でした。つまり、ダーウィンが用いた「transmutation」は、自然界の秩序ある発展となる「evolution」を否定するものでした。ただ、ダーウィンが方向性のない進化にこだわり、進化を進歩と見る考えを常に拒否していたわけではなく、後に獲得形質の遺伝の考えも大きく取り入れ、方向性のない変化との主張も後退させていき、それに合わせるかのように「evolution」を使うようになった、と本書は指摘します。
ダーウィンは進化を、生物学者としては方向性のないものと認識していたものの、社会哲学者としては進歩の意味で説明しており、それは自説が社会に受容されるには、19世紀イギリス社会の進歩主義に貢献できねばならないと考えていたからだ、との指摘もあります。そのため、ダーウィンの進化論が当時の進歩観に衝撃を与えたわけではなく、対立したわけでもありませんでした。社会はダーウィンの進化論を進歩主義の推進力に利用し、ダーウィンもそれを利用した結果、ダーウィンの「transmutation」と「evolution」は同義となりました。
20世紀半ば以降、自然選択を中心に据えた進化の総合説が広く定着し、生物の進化が当初のダーウィンの主張通り、方向性のない変化の意味で理解されるようになった時には、生物学者はそれを本来違う意味だったはずの「evolution」で呼ぶようになった、というわけです。本書はこうした事情を踏まえて、生物学以外で自然現象や事物や社会の発展・発達・進歩を表す用語として「evolution」が使われると、それは誤用と指摘する生物学者もいるものの、本来の意味に近いのはそうした用法で、生物学での意味の方こそ異端である、と指摘します。「進歩せよ」を意味する「進化の呪い」は進歩史観に由来し、生物学の原理を社会に当てはめて生まれたのではなく、初めから自然と生物と社会を遍く支配し、進歩を善とするか置換として存在していた、というわけです。
進化論の言葉として有名ながら、現在の進化学として使われる機会が少ない「適者生存」についても、本書ではやや詳しく取り上げられています。『種の起源』原書初版では、「適者生存」という言葉は使われておらず、この言葉が最初に見られるのはその5年後に刊行されたスペンサーの『生物学原理』です。ダーウィンは表向きにはスペンサーを評価する一方で、生物学、とくに生殖についてはスペンサーの見解はでたらめと考えてようで、「適者生存」という言葉も無視していました。スペンサーは「適者生存」と「自然選択」を同じ意味と考えていましたが、実際には大きな違いがあった、と本書は指摘します。自然選択とよく似た過程は、ダーウィンとウォレス以前から提唱されていましたが、そこでは有害な変異除去のために変化が起きない、と想定されていたのに対して、自然選択では特定の環境下での有利な変異の維持と不利な変異の除去により新たな性質の出現が想定されており、創造的な意味があった、というわけです。
しかしウォレスは、「自然選択」という用語により選択が誰かによる目的のある能動的な仕組みと誤解されることを恐れて、「適者生存」という用語を採用するよう、1866年にダーウィンに提案します。1869年に刊行された『種の起源』第5版では、自然選択が適者生存と同じような意味で用いられていました。本書はこれを、当時厳しく批判されていた進化論を守るためだった、と推測していますが、これが後に大きな問題をもたらした、と指摘しています。適者も進化と同様に生物学的と日常用語とで意味合いが異なっており、生物学での適者(出生率と生存率の高さ)は強さや賢さといった性質とは必ずしも一致しませんが、人々には、弱者や愚者が排除され、強者や賢者だけが生き残る、と解釈されました。これは、進化論が当時の風潮だった進歩史観に合流する道を開き、自由放任主義の経済と結びついていきます。ハクスリーは、自然選択を適者生存と置き換えたことにより多くの害がもたらされた、と指摘します。
一方で本書は、社会進化論の代表とされるスペンサーが、実は適者生存を重視していなかったことも指摘します。スペンサーの進化論はダーウィンの進化論とほとんど関係がなく、適者生存という用語で取り入れた自然選択(の一部)はあまり重視されず、創造的な役割を担ったのはラマルク的な獲得形質の遺伝だった、というわけです。スペンサーは、適者生存に創造的な力は乏しく、それが作用するのは植物などあまり「進歩」していない段階の生物に限られ、人間の進化には関係しない、と考えていました。本書はスペンサーの進化論を、ダーウィンの革新的な進化論を取り入れたわけでも、適者生存を人間社会に適用し、弱肉強食型の社会を創ろうとしたわけでもなく、伝統的な進化の観点から導かられたものと評価しています。スペンサーは、ダーウィン以前の進化観に基づいて壮大な思想を展開した、最後の古典的進化思想家だった、というわけです。スペンサーの進化論は自由放任主義を基調として、当時のイギリス社会の進歩史観や古典的自由主義と合致し、現代の自由至上主義(リバタリアニズム)の源流とされています。スペンサーの進化論では、「進化した社会と人間」は協調的で利他性を重んじると想定され、ある意味で楽園思想に基づくものだった、と本書は評価しています。また、スペンサーはイギリスの植民地支配を批判しており、スペンサー自身が「人種」差別による搾取や植民地主義を正当化したことはありませんでした。
ダーウィンの進化論は大衆に広く知られるようになりましたが、それは『種の起源』が当時の科学的書籍としてはなかなかの水準で売れたからというよりも、当時出現し始めていたサイエンスライターが取り上げたからでした。すでに1872年までに、一部の保守派を除いて進化論は受け入れられていたようです。ただ当時、自然選択説は一時的に注目を集めたものの、間もなく失速し、代わって支持を得たのはラマルク的な獲得形質の遺伝で、祖先から子孫へ一方向的に形態変化が進む、とのネオ・ラマルキズムが広がりました。ただ、ラマルク説を支持する科学者でさえ、ダーウィンの支持者と自称し、その功績を称えていました。大衆に受け入れられたのも進歩の意味での進化で、ダーウィンの独創的な自然選択はほとんど受け入れられていませんでした。そもそも、当時のイギリスとアメリカ合衆国では、ダーウィン説を正しく紹介した知識人もほとんどいなかったようです。つまり、19世紀において、ダーウィンの進化論が当時の社会や思想を変革したり、自然選択説で当時の常識を覆したりといった、「ダーウィン革命」は起きなかったわけです。
19世紀末に大衆への進化論の啓蒙に最も大きな役割を果たしたのがベンジャミン・キッドで、その著書『社会進化論』では、人間とその社会の進化(進歩)は競争と生存闘争による適者生存(自然選択)の結果で、最も産業化を遂げた民族が最も進化(進歩)した民族とされました。本書はキッド説について、スペンサー進化論の枠組みだけ利用し、その過程をラマルク的な獲得形質の遺伝から粗雑な自然選択に変えたとして、以後の社会に大きな影響を与えた、と評価しています。キッド説では、社会は1個体の生物のような有機体で、個人の利益より社会の利益の方が重視され、それが民族や国家間の闘争と適者生存に結びつけられました。キッド説では、個人と社会の利益の対立関係は宗教により緩和される、と想定されました。キッドの『社会進化論』は世界中で大きな反響を呼び、日本では内村鑑三が強い感銘を受けましたが、夏目漱石は愚論と評価しました。ダーウィン的進化論と、幸福な社会の実現という理想との折り合いのつけ方には2通りあって、一方は人間社会を発展させる精神活動は進化と独立に作用する、という立場で、もう一方はダーウィン的な進化論を拡大解釈し、それを理想の実現に合致する、としてしまう立場です。
上述のように、ダーウィンの自然選択説は提唱後間もなく失速し、ラマルク的な見解が優勢になりましたが、19世紀末には両者が曖昧な理解に基づくいわば共存状態(これには、晩年のダーウィンが獲得形質の遺伝も取り入れていたためでもありました)から決定的に対立するようになります。この激しい論争においてダーウィンの自然選択説が優勢になっていったのに、遺伝学が大きく貢献したようです。その延長線上に、統計学の多大な貢献もあり、20世紀半ばに進化の総合説が成立します。とはいえ、19世紀末から20世紀半ばの総合説の成立、さらにはその後でも進化と進歩を同一視する観念は根強く残り、さらには人間の進化が進歩でないならば、人間自らが進化を進歩に変えねばならない、との思考が現れます。これは、イギリスにおいて上層階級よりも下層階級の方で出生率が高いことへの危機感に由来していました。
この過程で猛威を振るったのが優生思想で、分かりやすく改変されたダーウィン進化論が正当化に利用されました。ドイツのナチ体制がおぞましい形で優生思想を現実の政策に反映しようとしたことはよく知られているでしょうが、そのさいにナチ体制が参考にしたのはアメリカ合衆国だったことも、今では日本社会で割とよく知られるようになったかもしれません。優生思想は、ドイツのナチ体制ほど極端ではないにしても、20世紀前半の欧米には広く浸透していたわけです。優生思想の「創始者」的人物は、ダーウィンの従弟で進化論を支持し、統計学の発展に大きく貢献したフランシス・ゴルトンでした。本書は、ゴルトンにより提示された「優れている能力」が恣意的な指標だったことを指摘します。総合説の成立に直接的ではないとしても貢献したと言えるゴルトンが優生思想を提唱したように、総合説の成立に直接的に貢献した偉大な科学者の中にも、優生思想の信奉者はいました。しかし、イギリスでは早くも1910年代には優生思想の勢いは失われ、初期に優生思想を批判した一人が、晩年のベンジャミン・キッドでした。
一方、イギリスとは対照的にアメリカ合衆国では、1910年代半ばから優生思想が急速に定着していき、ナチ体制が参考とするに至ります。優生思想で問題となったのが、イギリスではおもに階級だったのに対して、アメリカ合衆国では「人種」でした。こうした「人種」の違いの起源は古く、その進化過程に起因すると考えられ、北方で進化した「人種」が最も優れている、と考えられました。一方でアメリカ合衆国においても、優生学者が主張する性質と遺伝子の関係は単純すぎる、との批判もありました。遺伝子間で複雑な相互作用がある、というわけです。しかし、政財官学に深く根付いた優勢思想とそれに基づく活動は、そうした批判では容易に揺らがなかったようです。アメリカ合衆国において政治家や大衆媒体や遺伝学者の多くが優生学と距離を取り始めたり批判的になったりし始めたのは、1930年代になってからでした。また本書は、優勢思想的な観念は古典期ギリシアなどで古代から見られたものの、強力な武器を与えたのが科学だった、と指摘します。
本書は、ナチ体制の崩壊とともに優勢思想が消滅したわけではなく、いつでも復活する可能性がある、と懸念しています。というよりも、「穏やかな」優勢思想はナチ体制の確立から崩壊の後でも残ったことを、本書は指摘します。今では日本社会でも割とよく知られるようになったかもしれませんが、「進歩的な福祉国家」とされる数量でも、1975年まで強制不妊が行なわれており、日本でも1948~1996年まで優生保護法により25000人ほどが不妊化された、と推測されています。本書は、第二次世界大戦後に優生学が「ステルス化」した、と指摘します。1970年代以降に、優生学という用語を進化学者や遺伝学者は避けるようになったものの、消え去ったわけではなく、見えなくなっただけだ、というわけです。本書は最後に、ゲノム編集技術の進歩など、現在でも優生思想がすでに克服された問題ではないことを指摘しており、これは私も含めて現代人が考えねばならないと改めて思います。
参考文献:
千葉聡(2023)『ダーウィンの呪い 人類が魅入られた進化論の「迷宮」』(講談社)
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