アジア北東部の初期現生人類

 アジア北東部の初期現生人類(Homo sapiens)に関する解説(Bae., 2024)が公表されました。この解説はオンライン版での先行公開となります。本論文はおもに、中国北東部の峙峪(Shiyu)遺跡の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)が45000年前頃までさかのぼることを報告した研究(以下、Yang論文)について解説しています。Yang論文は最近当ブログで取り上げました(関連記事)。本論文は、その他の研究も取り上げ、アジア北東部における初期現生人類の拡散を検証しており、現時点では未解明なところが多いだけに、今後の学際的研究の進展が大いに期待されます。とくに、他地域(おもにヨーロッパ)の考古学的枠組みを単純にアジア北東部に適用することが問題との指摘は、重要だと思います。


●要約

 中国北部の峙峪遺跡の学際的研究は、現時点でアジア北東部におけるそうした行動の最古の事例であり、アジア全域にわたる現生人類の北方への拡散の性質への洞察を提供する、複雑なヒトの行動の記録を明らかにしています。


●解説

 現生人類の起源が発展し続けるにつれて、アジア東部(アジア東部と南東部の両方が含まれます)はますます重要な役割を果たしつつあります。アフリカからのユーラシア全域への複数回拡散が6万年前頃ずっと前にあったことは、今では明らかです(関連記事)。しかし、現生人類のアフリカからの拡散経路(およびその年代)に関する問題が残っています。現時点では、アフリカからの中期更新世後期最初期(30万年前頃以降)のアフリカからのヒトの移動はレヴァントへと広がり(関連記事)、アジア南部全域により後半に拡大する前にヨーロッパ南東部に達し(関連記事)、最終的には中国も含めて12万~6万年前頃のある時点でアジア南東部に到来したようです【この年代をめぐっては議論があります】。

 アジア北部全域への初期の拡大は、さほど明らかになっていません。ほとんどのデータでは、現生人類のアジア北部の拡大はほぼ6万年前頃以後に起き、5万年前頃の直後にシベリアとモンゴルと中国北部と朝鮮半島と日本列島に現れる(関連記事)、と示唆されています(図1)。この後期の北方への拡大には、ヨーロッパへの西方拡散が含まれます。Yang論文は、中国北部の峙峪遺跡の学際的研究を報告しており、これはアジア北東部全域の現生人類の拡散の性質をある程度明らかにしています。以下は本論文の図1です。
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 峙峪遺跡の潜在的重要性は1963年の発見以降明らかで、それは峙峪遺跡では15000点以上の石器が発見されてきたからで、その中には石刃やルヴァロワ(Levallois)式剥片や他の人工遺物(たとえば、穿孔された黒い円盤や骨器)や少なくとも1点のヒト化石も含めて何千もの脊椎動物遺骸が含まれています。峙峪遺跡は伝統的に、中国北部の最重要遺跡の一つ、とくに「小さな道具伝統」の一部として考えられてきましたが、Yang論文による峙峪遺跡とその資料の学際的な再調査は、峙峪遺跡の重要性を完全に明らかにしています。Yang論文は多方面の地質年代学的手法(加速器質量放射性炭素年代測定および光刺激ルミネッセンス発光年代測定)を用いて、峙峪遺跡の最古の文化的堆積物は45000年前頃で、峙峪遺跡の西方数百kmに位置する水洞溝(Shuidonggou)遺跡の最古の文化的堆積物より数千年古い、と明らかにしています。この新たな年代測定再構築の結果として、峙峪遺跡はこの地域の最古のIUP遺跡となり、ヨーロッパのIUP遺跡群と同年代となります。より古い堆積物が峙峪遺跡には存在するものの、これらより古い層序には現時点で文化的資料が欠けていることに注意すべきです。

 その年代を確証したことで、峙峪遺跡における考古学の本質は何でしょうか?石刃などIUP技術の特徴的な要素に加えて、一般的に微小規模の石器はより高水準の技術的洗練を表している、と考えることができるかもしれません。しかし、峙峪遺跡における小さな石核剥片製作物の存在はじっさいには、地元で利用可能な石塊の大きさを反映しているのかもしれません。たとえば、最近の先行研究では、小型化された石器が中国北部の内モンゴル自治区にある薩拉烏蘇(Salawusu)遺跡の范家溝湾(Fanjiagouwan)地点で定期的に作られていたものの、おもに40km程度離れている入手可能な小さな石塊産地とのみ関連していた、と示されました。范家溝湾の年代は10万~9なので、先行研究では、石器は現生人類か種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)かネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が残した、と控えめに結論づけることしかできませんでした。

 峙峪遺跡の石器の一般的に地元産の性質は、中国北東部の長白山(Changbai Mountains、白頭山)および極東ロシアのグラドゥカヤ(Gladkaya)の、それぞれ800kmと1000km離れた場所で地球化学的に鑑別された黒曜石製人工遺物の存在と興味深い対照となっています。Yang論文では、これは黒曜石のような石材資源の長距離輸送のかなり初期(45000年前頃)の証拠で、これらの採食民の長距離移動もしくは何らかの交易相互作用圏を表しているかもしれない、と示唆されています。それ以前の先行研究では、当時は400~600km程度離れていただろう沿岸由来だったと見られる周口店上洞(Zhoukoudian Upper Cave)の貝殻の存在を用いて、これらの可能性が提起されていました。日本列島のさまざまな地域における黒曜石の初期の移動も、周口店上洞と同じくらいの年代です。周口店上洞がより新しいこと(35000~33000年前頃)を考えると、この地域における物質の長距離輸送が峙峪遺跡から得られた新たな結果で優に1万年ほどさかのぼる可能性があるのは、明らかです。

 峙峪遺跡で特定された唯一のヒト化石が失われてしまったことは不幸で、それは、そのヒト化石から入手できたかもしれない多くの情報が、おそらくは追加の分析から得られた可能性があるからです。とくに、どの人類種が峙峪遺跡で人工遺物を作ったのか、より明確な見解が得られたかもしれません。アジア東部の他地域では、中国の周口店上洞および田園洞(Tianyuandong)や北朝鮮の龍谷洞窟(Ryonggok Cave)のような遺跡から発見された化石の形態学的および遺伝学的研究は、地域的な後期更新世中期のヒト進化の記録をより明確にしてきました。他のヒト化石を特定できるのかどうか確かめるため、峙峪遺跡から得られた何千もの脊椎動物遺骸についてZooMS(Zooarchaeology by Mass Spectrometry、質量分光測定による動物考古学)を用いて、プロテオーム(タンパク質の総体)研究を調査する価値があるかもしれません。

 将来の研究は、モデルの開発ではなく、ヨーロッパの記録で開発されたモデルの使用と、それらを単純にアジア東部の記録に適用することの有用性も評価しなければなりません。アジアの専門家は、過去数十年にわたってこの実践に関する一連の問題を提起してきており、この問題への関心は、古人類学と旧石器時代考古学が脱植民地化を経るにつれて、高まりつつあります。峙峪遺跡の資料が、先行研究により提案されたように2段階(前期と後期)の旧石器時代層序に適合するのかどうか、あるいは何か別のことが起きているのか、確認することは有益でしょう。石刃(通常は上部旧石器時代を表します)と同じ層におけるルヴァロワ剥片の存在(通常は中部旧石器時代を表します)は、峙峪遺跡における明確なより早期の中部旧石器時代の欠如を示唆しています。それにも関わらず、アジア東部の研究者にとっては、世界の他地域で作られた行動学的モデルに依存することなく、自身の資料を再調査する時期なのかもしれません。

 峙峪遺跡は大きな可能性を秘めています。峙峪遺跡と資料に関する最新の学際的研究(Yang論文)は、アジア北東部における後期旧石器時代の複雑さの理解の深化に大いに貢献します。この地域の類似の遺跡のより詳しく学際的な調査は、さらなる驚きを提供する可能性が高そうです。


参考文献:
Bae CJ.(2024): Modern humans in Northeast Asia. Nature Ecology & Evolution, 8, 3, 368–369.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02316-1

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