中国北部で発見された45000年前頃までさかのぼるIUP石器群(追記有)
中国北部において発見された45000年前頃までさかのぼる初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)を報告した研究(Yang et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、中国北部の山西省にある峙峪(Shiyu)遺跡で発見されたIUP石器群が45000年前頃までさかのぼり、石材の長距離輸送など、現生人類(Homo sapiens)に見られる「先進的行動」一式が確認されたことを報告しています。IUPは現生人類拡散の考古学的指標かもしれませんが、IUPが全て同じ人類により製作されていた証拠は技術類型学的類似以外にはない、とも指摘されています(関連記事)。それも含めて、本論文が指摘するように、現生人類のアジア東部への拡散はかなり複雑な様相だったようで、非現生人類ホモ属との生物学的および文化的関係も注目されます。
●要約
ヨーロッパ南東部への現生人類集団の地理的拡大は47000年前頃までに起き、IUP技術により特徴づけられます。現生人類はシベリア西部に45000年前頃までに存在しており、IUPインダストリーはロシアのアルタイ山脈における5万年前頃までの、モンゴル北部における46000~45000年前頃までの初期進出を示唆しています。現生人類はアジア北東部には4万年前頃までには存在しており、中国の1ヶ所のIUP遺跡は43000~41000年前頃と年代測定されています。本論文は、45000年前頃となる中国北部の峙峪遺跡のIUP遺物群を報告します。峙峪遺跡には、ルヴァロワ(Levallois)および容積的石刃製作(Volumetric Blade Reduction)技法により製作された石器群や、中国とロシア極東の産地からの黒曜石の長距離輸送(800~1000km離れています)や、成体のウマ類のみの選択的殺害と衝撃破砕の証拠を有する有舌および柄のある投擲尖頭器により示される狩猟技術の向上、加工された骨器と成形された黒鉛円盤の存在が含まれます。峙峪遺跡は、今では失われたヒトの頭蓋骨の回収とともに、先進的な文化的行動の一式を示しており、その記録は45000年前頃に現生人類がアジア東部に拡大したことを裏づけています。
●研究史
現生人類の起源と世界規模の拡散は、ヒトの進化研究において最重要問題の一つであり続けています。化石と遺伝学と考古学の情報は今や、現生人類集団のアフリカからおよびユーラシアへの複数回の移動を裏づけており、その年代は20万年以上前までさかのぼります(関連記事)。IUPインダストリーはユーラシア全域にわたる現生人類の広範な拡大を示しているかもしれないので、考古学的注目が寄せられていますが、収束や文化的および適応的変動性のため、これは議論の余地のある問題です。ヨーロッパ南東部では、IUPは現生人類と直接的に関連しており、古代DNA回収から、初期現生人類はその拡散中にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と混合した、と示唆されています(関連記事)。
アジアの北方緯度地帯への現生人類集団の拡大の年代と経路は未解決で、在来の古代型人類【非現生人類ホモ属】との生物学的および文化的交流の程度についての問題が残っています(関連記事)。アジア北部の広範な地理的領域にわたって数点の現生人類化石が回収されてきており、シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体(関連記事)は、較正年代では45900~42900年前頃となり、この地域における最初の決定的なヒトの1個体を表しています(図1)。
4万年前頃までに、現生人類は中国北東部に存在しており、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で発見された化石とDNA証拠により表されています(関連記事)。現生人類の化石は中国では、周口店上洞(Zhoukoudian Upper Cave)では35600~33900年前頃、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)では35400~34300年前頃(関連記事)のものが発見されています。34300~32400年前頃の1個体を含む中国北東部のアムール川地域の25個体の古代DNA研究では、田園洞窟関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前にはアジア東部の北方に広がっていた、と示唆されています(関連記事)。以下は本論文の図1です。
IUP石器群はロシア南部とモンゴルにおいて、5万~3万年前頃に見られます(図1)。ユーラシア北部におけるIUP遺跡群の最少負荷経路モデル化では、人口拡大の複数の回廊があり得たものの、後期更新世の環境変動の結果として変化した、と論証されています(関連記事)。IUPインダストリーが在来の革新もしくは拡大する採食民人口集団と関連する文化的特徴の拡散をどの程度表しているのかは、依然として議論となっている問題です。シベリアのアルタイ山脈とバイカル湖地域とモンゴル北部の間に位置する石刃製作手法の評価では、石器群は派生的な技術的特徴を共有しており、IUPは広範な地理的領域で特定できる(骨器と装飾品を含む)文化的単位を表していると示唆される、と結論づけられました。
6万~3万年前頃の中国北部の生物学的および文化的記録は、複雑な人口統計学的歴史を示唆しています。中国ではこれまでIUP遺跡は1ヶ所だけしか確認されておらず(図1)、それはモンゴル高原の端に位置する水洞溝(Shuidonggou)遺跡第1および第2地点で、広く認められた42000~41000年前頃との年代の大型石刃技術により特徴づけられますが、46000±3000年前という孤立した発光年代があり、考古学的堆積物との関連およびその測定と計算過程を考慮すると、この年代には疑問が呈されています。中国における最も一般的で長く続いた石器インダストリーは、周口店上洞では35600~33900年前頃までに現生人類と関連している、石核および剥片石器群で構成されています。
革新的な小型化された小石刃石器群と顕著な顔料加工は4万年前頃までに下馬碑(Xiamabei)遺跡で見られましたが、下馬碑遺跡は広く石核・剥片石器群と分類できます。象徴的な遺物が他の石核・剥片遺跡群で見つかっており、その中には、周口店上洞(35600~33900年前頃)や小孤山(Xiaogushan)遺跡(3万~2万年前頃)や水洞溝上層(33000~31000年前頃)の、製作されたビーズや穿孔された貝殻と歯や骨製の円盤や下げ飾りが含まれます。新疆ウイグル自治区の通天(Tongtian)洞窟や金斯太(Jinsitai)洞窟(関連記事)における遺跡中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)インダストリーの特定は、ネアンデルタール人の存在を示すかもしれない、と解釈されてきましたが、人類化石が欠けています。
本論文は、中国北部の泥河湾盆地(Nihewan Basin)の西端に位置する峙峪遺跡(統計112度20分48.59秒、北緯39度24分19.45秒)を報告します(図2)。峙峪遺跡は1963年に発見されて発掘され、1971年に中国語で短く報告されました。現地調査では、50日にわたって70m²の堆積物が発掘され、15000点以上の石器、5000点の歯の破片を含む何万点もの哺乳類の骨、骨器かもしれない遺物、穿孔された黒い円盤と1点のみの人類化石が得られました。報告では、生物人類学者により現生人類と同定された人類化石は後頭骨の断片だった、と示唆されています。以下は本論文の図2です。
発掘調査団は、750点の石器や152点の動物遺骸断片や黒い円盤や骨器など峙峪遺跡の発見物の収集物を選択し、北京の中国科学院古脊椎動物古人類研究所(Institute of Vertebrate Paleontology and Paleoanthropology、略してIVPP)に輸送しました。残念ながら、地元の歯石に残っていた収集物は、人類の後頭骨を含めて失われました。2013年には、学際的調査団の構成員が峙峪遺跡で新たな現地調査を実施し、収集標本を再調査して、放射性炭素と発光年代測定のための標本を収集し、また粒子規模および花粉分析を実行し、峙峪遺跡の堆積物と環境の歴史を再構築しました。この学際的調査団はIVPP収集物も再調査し、人工遺物と動物遺骸の詳細な分析研究を実行しました。本論文の全体的な調査結果から、峙峪は中国において現時点で最古の既知となるIUP遺跡と、アジアにおけるIUP遺跡の最東端の出現を表している、と示唆され、高緯度および北方経路沿いの現生人類拡大の可能性について更新された情報を提供します。
●層序と年代
峙峪遺跡は、その西側の山に源のある切り立った小峡谷沿いの河岸段丘に位置しており、水は東方へと流れて、最終的には桑乾河(Sanggan)に合流します。峙峪遺跡における堆積物層序は深さが約30mで、1960年の発掘団によって主要な4層にさらに区分されています。第1層~第4層は現在容易に観察でき、層序の底から上部へと番号が付けられています(図2)。最下部の堆積物である第1層は、河川作用による砂利の多い砂で構成されています。第2層は約1mの厚さで、砂質粘土の沈泥で構成されています。第2層は層序の唯一の文化層で、豊富な石器と動物化石が得られています。灰の水晶体が第2層で報告されていますが、燃焼の特徴はありませんでした。第2層の上部と底部の接触面は鋭くなっています。第3艘は水平の成層を伴う氾濫原の沈泥と河床の砂で構成されています。第4層は砂に挟まれた黄土で構成されています。
峙峪遺跡の体系的で堅牢な年代測定計画が実行されました。全層序(第1層~第4層)から得られた15点の堆積物標本が、光刺激ルミネッセンス発光(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)を用いて年代測定され、文化層(第2層)から直接的に得られた10点の標本(哺乳類の9点の骨と1点の歯)がオックスフォード大学加速器質量実験室で放射性炭素年代測定されました。7点の骨標本が2013年にその区画から回収されました。3点の骨標本は1963年の最初の発掘で回収され、解体痕により示唆されているように、人為的に改変されています。11点の放射性炭素年代(1点の標本は繰り返し測定されました)は内部的には一貫しており、較正年代では54300~43200年前頃から46300~42300年前頃の範囲となります(以下、95.4%信頼区間もしくは2σ)。
堆積物標本は、石英の複数粒子標本やカリウム(K)の豊富な長石(K長石)や石英の等価線量推定を用いて、光学的に年代測定されました。第2層から得られた2点の堆積物標本の加重平均OSL年代は、それぞれ42700±3000年前と42900±3000年前でした。第2層の下に位置する第1層の標本1点は50800±5600年前と年代測定され、第2層の上に位置する第3層の標本5点の年代は44800±3800~38500±3200年前でした。
全てのOSL年代は層序的に一貫しており、第2層の標本2点のOSL年代は、較正された放射性炭素年代と一致します。この年代測定結果から、第2層はひじょうに短期間で急速に堆積した、と明確に示唆されます。ベイズ年代モデル(図3)が用いられ、個々の層序の境界年代が推定されました。そのモデル化の結果から、第1層は62500~45800年前頃と53200~44700年前頃の間に堆積した、と示唆されます。この後に、第2層のより急速な蓄積が続き、その年代は46700~44200年前頃から45000~42500年前頃で、44600±1200年前に集中しました。第3層は43900~40400年前頃と43100~39300年前頃の間に堆積し、その後に続いて第4層が42600~37000年前頃と35800~4400年前頃の間に風成蓄積しました。以下は本論文の図3です。
●狩猟技術と輸送距離
先行研究では文化的痕跡のある第2層における哺乳類12種の存在が報告されており、それに含まれるのは、ケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)、モウコノウマ(Equus ferus przewalskiiもしくはEquus przewalskii)、アジアノロバ(Equus hemionus)、河套オオツノジカ(Megaloceros ordosianus)、スイギュウ(Bubalus wansjocki)、オーロックス(Bos primigenius)、シベリアアカシカ(Cervus elaphus)、コウジョウセンガゼル(Gazella subgutturosa)、チベットガゼル(Procapra picticaudata przewalskii)、ブチハイエナ(Crocuta crocuta)、トラ(Panthera tigris)、チュウゴクモグラネズミ(Myospalax fontanieri)です。哺乳類の特性は、比較的寒冷で乾燥した草原環境を示唆しており、ヨモギ属(Artemisia)やキク科(Asteraceae)やイネ科(Poaceae)の優占する草原地帯の景観を示唆する、第2層の花粉記録と一致しています。
本論文や先行研究で行なわれた化石生成論的分析から、峙峪遺跡の動物遺骸はよく保存されており、ウマ類、とくに成体により最も表されている、と示唆されます。肉食動物の歯の痕跡が確認された標本は1点だけで、解体痕はIVPP収集物における152点の動物遺骸のうち67点において、とくに肉のある上部(上腕骨と大腿骨)と中間的な四肢骨(脛骨と橈骨)で確認され、肉を削ぎ落す行為が示唆されました。打撃痕は47点の骨で確認され、75点の破片には剥離上の傷もしくは新鮮な骨で見られる刻み目がありました。元々の動物遺骸群の第二次標本から回収されていますが、動物遺骸に関する情報は、これらの骨の蓄積者が、それ以外にいたとしてもおもにヒトだった、との見解を裏づけます。峙峪遺跡の住民は熟練した狩猟民で、これら大型で高度な移動性の動物の狩猟の難しさにも関わらず、ウマ類を獲物とし、その死骸を肉や骨髄に処理しました。
峙峪遺跡の石器収集物は、肉眼的観察および岩石学的分析に基づいて分類された、さまざまな石材から構成されています。IVPP石器群では燵岩(432点)が優占し、それに続くのが変泥岩(176点)と珪岩(49点)と他の6種の岩石(93点)です。全ての石材は地元で入手可能ですが、例外は地元の産地が知られていない黒曜石で作られた人工遺物です。その黒曜石の人工遺物には、錐(SY20-315)や掻器(SY20-314)や鋸歯縁(SY20-226)や背付き内府が含まれています。黒曜石製の人工遺物は泥河湾盆地の更新世遺跡ではこれまで報告されておらず、これら4点の人工遺物の回収は例外的です。
この4点の人工遺物の微量元素分析および既知の火山源との比較が行なわれました。その結果、黒曜石の破片SY-315は峙峪遺跡の北東約800kmに位置するチャンバイ山(Changbai Mountain、長白山、白頭山)地域からもたらされ、他の3点の黒曜石製の人工遺物(SY-56とSY-315とSY-226)は、峙峪遺跡の北東約1000kmに位置する極東ロシアのグラドゥカヤ(Gladkaya)に由来する、と示唆されます。黒曜石製掻器の使用摩耗分析は、剥片隆起の端が丸くなっていることを示しており、輸送中に生じた摩耗を示唆しています。起源調査によって、4点の黒曜石製人工遺物は後期更新世のアジア東部における長距離の黒曜石予想の最古の事例となり、狩猟採集民が1000km以上の範囲に存在したか、集団間の長距離交換網が45000年前頃にあった、と示唆されます。
●IUP石器群
峙峪遺跡の石器群の分析は、以前には知られていなかった技術を明らかにします。IVPPで所蔵されている収集物は750点の石器から構成されており、剥離生産物の全範囲(302点、たとえば、石核や剥片や石刃)、比較的高い割合の再加工された破片(412点、たとえば、有舌石器やムステリアン尖頭器や掻器や彫器や石錘や抉入石器や鋸歯縁、少数の特定されていない壊れた断片(36点)が含まれています。鎚撃(635点)および両極(80点)打撃技術が、石材縮小に適用されました。収集物の選択された性質から、さまざまな縮小手法の元々の比率を正確に確証することはできません。石器群の大半は石核剥片(584点)産物で構成されており、泥河湾盆地層序の人類により一般的に製作さ、それは利用可能な燵岩段階の規模が小さい結果です。泥河湾盆地の全ての他の石器群とは対照的に、ルヴァロワ式および容積的石刃製作(30点)手法とその副産物は充分に証明されており、ルヴァロワ式尖頭器や再加工石器製作に修正された石刃が含まれます。
最も注目に値する発見物のうち、調整警官帽状打面(chapeau de gendarme striking platform)のあるルヴァロワ式尖頭器(12点)が、ルヴァロワ式剥片とともによく表されています。剥片について尖頭器と比較すると、ルヴァロワ式尖頭器はより大きく、平均長が35mmで、より大きな長さと幅の比率になっておれ、ルヴァロワ式尖頭器がより標準化された輪郭と標準的な三角形を有している、と示唆されます。容積的石刃製作手法は、石刃石核と石核稜付と破損した石刃により表されます。1点の石刃のみが全体的でしたが、他の石刃は全て、道具もしくは道具の断片へと製作されました。石刃原形のほとんどは、長い刃のある道具として機能し、掻器や鋸歯縁が含まれます(図4b)。以下は本論文の図4です。
39点の石器の選択された標本で行なわれた機能分析は、全ての人工遺物で明確な使用摩耗の痕跡を特定しました。6点の有舌石器と4点のルヴァロワ式尖頭器は、着柄の証拠を示します。1点のルヴァロワ式尖頭器(SY20-362)には舌部分における着柄の痕跡と、先端における顕著な彫器的特徴があれ、恐らくは衝撃による破壊です。全体的に機能分析から、峙峪遺跡の石器群は、骨や皮や木に対する削り取り、肉処理や皮の加工における鋸引き作業、皮や角に対する切断、さまざまな物質の穿孔や穴開けを含む、さまざまな活動に用いられていた、と示唆されます。
●黒鉛円盤と骨器
峙峪遺跡の第2層から回収された最も顕著な文化的人工遺物の一つは、中心に大きな穿孔のある円盤型物質の破片です(図4d)。ラマン分光法はその素材を、中程度から高度の変成作用を受けた、よく結晶化した黒鉛と特定しました。この円盤は、平らな破片に近い端の小さな部分を除いて、残っている端のほとんどで丸く斜角がついています。その穿孔は、最良の保存面から損傷面にかけて先細になる円錐形の輪郭をしています。その穿孔は元々約9mmで、円盤の直系は6~6.4cmでした。損傷を受けていない表面の顕微鏡分析から、この円盤は丸砥石での研磨により作成された、と明らかになります。平面や丸みのある端の形成により製作された溝は、ほぼ完全に使用摩耗により消えていまする。中心の穿孔沿いの用摩耗は光沢のある鈍い跡を形成し、それは疑いなく通過した紐の作用に起因します。穿孔の断面は、裾広がりの壁面での大きな穿孔製作の目的での、頑丈で裾広がりの先端の使用を示唆します。圧力がこの物体の破壊の原因ならば、円盤は、外套や袋を占めるためのボタンのような、実用的機能を有していたかもしれません。同様の目的で機能したかもしれない中国の旧石器時代における他の玉人工遺物は2点だけで、峙峪遺跡で推測された衣服を留めることや装飾の方法はアジア東部において何千年も使用され続けた、と示唆されます。
峙峪遺跡の第2層から回収されたもう一つの特徴的な文化的遺物は、敲打により形成された大型哺乳類の四肢骨の骨幹薄片です(図4dの2)。元々の原形の腹面は段階的な割れ目を示しており、求心性剥片跡によりほぼ除去されており、その右側では、わずかに凸状の端を作る強い段階形再加工により除去されています。その皮質面の特徴は、骨膜表面の大半を除去した2点の侵入的剥片跡です。骨器は遺物群の残りとは、そのより小さな大きさ、皮質および髄質の両側に存在する剥片跡の数がより多いこと、その侵襲性で異なっています。微細構造水準では、骨はおもに縦方向の血管と放射状吻合により特徴づけられる線維層板型組織で構成されています。この骨構造は中型および大型哺乳類ではより一般的ですが(約7mmとなるその密な骨の厚さ)、特定の分類群への帰属は困難な課題です。多くのアジア東部の遺跡で報告された、推定上の、時には議論となっている、打ち砕かれた骨器と比較すると、峙峪遺跡の人工遺物は、両面対称の道具製作を目的とする、その小さな大きさと再加工の強度で際立っています。
●考察
峙峪遺跡は、アジア東部におけるIUPの最古で最東端の出現を記録します。しかし、そうした発想を現生人類拡散の明確な仮定的状況と結びつけることには問題があります。峙峪遺跡の地理的位置とIUP人口集団拡散の潜在的な経路(図1)を考えると、水洞溝IUP遺跡の位置が峙峪遺跡から500km西方であることは注目に値します。しかし、水洞溝遺跡は峙峪遺跡より3000年ほど新しいので、西方から東方への拡散は論証されません。その他には、最も地理的に近いIUP遺物群はモンゴルの南端で見られ、峙峪遺跡から約1000km離れています。
最少負荷経路分析から、ロシアのトランスバイカル地域からモンゴル、その後の中国北部への南方の移動が、拡散の最も実行可能な経路だった、と論証されてきました(関連記事)。しかし、年代が主要な問題で、峙峪遺跡はトランスバイカル地域とモンゴルのほとんどのIUP遺跡よりも古い、と示されています。トルボル16(Tolbor 16)遺跡は例外で、それはトルボル16遺跡の年代が46000~43500年前頃と43700~41200年前頃との間で、峙峪遺跡とほぼ同年代だからです(関連記事)。
より古く時間的に重複しているIUP遺跡群については、トランスバイカル地域やモンゴルや中国のその後の遺跡の起源と考えられることが多い、ロシアのアルタイ山脈を参照する必要があります。ロシアのアルタイ地域が中国北部の西側で隣接していることを考えると、峙峪遺跡の証拠から、IUPの拡散経路と東方への移動年代に関する最も有力な枠組みは、南方への同時代の拡散を含むよう、再考されるべきである、と示唆されます。さらに東方の朝鮮半島と日本列島では、IUP遺物群は特定されていませんが【長野県佐久市の香坂山遺跡の石器群は、ユーラシアIUP石器群である可能性が指摘されています(関連記事)】、上部旧石器時代前期(Early Upper Palaeolithic、略してEUP)インダストリーは40000~35000年前頃に出現し、ユーラシアIUPの局所的な異形と考えられています(図1)。峙峪遺跡では、極東ロシアのグラドゥカヤからの黒曜石の顕著な長距離輸送の証拠が、33000~25000年前頃の記録よりずっと古く、狩猟採集民人口集団の広範な東方への初期拡大を示唆しているかもしれません。
峙峪遺跡(45000年前頃)と水洞溝遺跡(42000~41000年前頃)は、中国北部のムステリアンおよび石核剥片の遺跡群の存在と一致します(図1)。ムステリアンの存在は時間的にIUPと重複しますが、これらの遺跡は稀で、峙峪遺跡の北方800kmに位置しています。ムステリアンおよび石核剥片の遺跡群は、アジアにおける現生人類集団との混合により証明されているように、ネアンデルタール人の一時的な南方への侵略を表しているかもしれませんが、中国ではこれまで、ネアンデルタール人の化石は知られていません。石核剥片インダストリーはアジア東部における最も一般的な考古学的インダストリーで、長期のインダストリーを表しており、空間的には峙峪遺跡から200~300kmと近い場所に位置しています(図1)。
石核剥片インダストリーは時間的に、アジア東部全域に存在した種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など古代型人類【非現生人類ホモ属】の存在に対応しており、それには中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)が含まれ、白石崖溶洞ではデニソワ人のDNAがおそらく新しければ45000の堆積物で見つかりました(関連記事)。さもなければ、石核剥片インダストリーは、間接的には44000~40000年前頃となる田園洞窟や石門山(Shimenshan)遺跡や骨頭溝(Gutougou)遺跡などの現生人類の存在と、直接的には35000年前頃以後の周口店上洞の現生人類化石と一致します。
峙峪遺跡の石核剥片インダストリーにより確証されるルヴァロワ式および容積的石刃石器群の存在は、これらの遺跡を中国の全ての他の遺跡から区別し、おそらくは化石と遺伝学と考古学の証拠から浮かび上がる複雑な人口統計学的全体像を表しており、人類種間の生物学と文化両方の相互作用を示唆しています。草原地帯環境における峙峪遺跡人類の優れた狩猟技術は、約1000kmの広い移動範囲および外来の黒曜石製の人工遺物の発見と組み合わされて、モンゴル南部とシベリア南東部と朝鮮半島の遠く離れた人類集団間の顕著な相互作用を強く示唆します。
峙峪遺跡の記録が、アジア東部における現生人類集団の到来の時期において明らかにするのは、これまでの独特な文化的適応、上部旧石器時代に典型的な技術と象徴の革新の組み合わせ(たとえば、外来石材の長距離交換、この期間に特徴的な石刃縮小道具)、もう存在しないとされてきた中部旧石器時代の文化的特徴(この期間に特徴的なルヴァロワ式縮小や加工された道具)、中国の石核剥片インダストリー石器の伝統、独特か同時代の遺物群では稀にしか見られない要素(つまり、実用的で象徴的な機能に用いられた大型黒鉛円盤や、小さな両面石器製作のため打ち砕かれた骨)です。
人工遺物物における改変されたオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)や赤い顔料残留物、骨特有の技術で作られた骨器、多様で小型の個人的装飾品の欠如も、峙峪遺跡をアジア東部のより新しい遺跡群と区別します。泥河湾盆地の下馬碑遺跡に関する最近刊行された研究(関連記事)と同様に、峙峪遺跡は、外来性の特徴を作用し、過去の文化的遺産の本質的な要素を保持しながら、新たな特徴を発明した、現生人類集団の到来と関連する文化的融合の過程を反映しているようです。峙峪遺跡は、現生人類集団の世界規模の拡大に関するより複雑ではなく単純なモデルとは対照的に、アジア東部に関するより複雑な人口統計学的および進化的な仮定的状況を裏づけ、強化します。
参考文献:
Yang SX. et al.(2024): Initial Upper Palaeolithic material culture by 45,000 years ago at Shiyu in northern China. Nature Ecology & Evolution, 8, 3, 552–563.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02294-4
追記(2024年1月26日)
本論文の解説記事をブログに掲載しました。
●要約
ヨーロッパ南東部への現生人類集団の地理的拡大は47000年前頃までに起き、IUP技術により特徴づけられます。現生人類はシベリア西部に45000年前頃までに存在しており、IUPインダストリーはロシアのアルタイ山脈における5万年前頃までの、モンゴル北部における46000~45000年前頃までの初期進出を示唆しています。現生人類はアジア北東部には4万年前頃までには存在しており、中国の1ヶ所のIUP遺跡は43000~41000年前頃と年代測定されています。本論文は、45000年前頃となる中国北部の峙峪遺跡のIUP遺物群を報告します。峙峪遺跡には、ルヴァロワ(Levallois)および容積的石刃製作(Volumetric Blade Reduction)技法により製作された石器群や、中国とロシア極東の産地からの黒曜石の長距離輸送(800~1000km離れています)や、成体のウマ類のみの選択的殺害と衝撃破砕の証拠を有する有舌および柄のある投擲尖頭器により示される狩猟技術の向上、加工された骨器と成形された黒鉛円盤の存在が含まれます。峙峪遺跡は、今では失われたヒトの頭蓋骨の回収とともに、先進的な文化的行動の一式を示しており、その記録は45000年前頃に現生人類がアジア東部に拡大したことを裏づけています。
●研究史
現生人類の起源と世界規模の拡散は、ヒトの進化研究において最重要問題の一つであり続けています。化石と遺伝学と考古学の情報は今や、現生人類集団のアフリカからおよびユーラシアへの複数回の移動を裏づけており、その年代は20万年以上前までさかのぼります(関連記事)。IUPインダストリーはユーラシア全域にわたる現生人類の広範な拡大を示しているかもしれないので、考古学的注目が寄せられていますが、収束や文化的および適応的変動性のため、これは議論の余地のある問題です。ヨーロッパ南東部では、IUPは現生人類と直接的に関連しており、古代DNA回収から、初期現生人類はその拡散中にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と混合した、と示唆されています(関連記事)。
アジアの北方緯度地帯への現生人類集団の拡大の年代と経路は未解決で、在来の古代型人類【非現生人類ホモ属】との生物学的および文化的交流の程度についての問題が残っています(関連記事)。アジア北部の広範な地理的領域にわたって数点の現生人類化石が回収されてきており、シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された個体(関連記事)は、較正年代では45900~42900年前頃となり、この地域における最初の決定的なヒトの1個体を表しています(図1)。
4万年前頃までに、現生人類は中国北東部に存在しており、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で発見された化石とDNA証拠により表されています(関連記事)。現生人類の化石は中国では、周口店上洞(Zhoukoudian Upper Cave)では35600~33900年前頃、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)では35400~34300年前頃(関連記事)のものが発見されています。34300~32400年前頃の1個体を含む中国北東部のアムール川地域の25個体の古代DNA研究では、田園洞窟関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)前にはアジア東部の北方に広がっていた、と示唆されています(関連記事)。以下は本論文の図1です。
IUP石器群はロシア南部とモンゴルにおいて、5万~3万年前頃に見られます(図1)。ユーラシア北部におけるIUP遺跡群の最少負荷経路モデル化では、人口拡大の複数の回廊があり得たものの、後期更新世の環境変動の結果として変化した、と論証されています(関連記事)。IUPインダストリーが在来の革新もしくは拡大する採食民人口集団と関連する文化的特徴の拡散をどの程度表しているのかは、依然として議論となっている問題です。シベリアのアルタイ山脈とバイカル湖地域とモンゴル北部の間に位置する石刃製作手法の評価では、石器群は派生的な技術的特徴を共有しており、IUPは広範な地理的領域で特定できる(骨器と装飾品を含む)文化的単位を表していると示唆される、と結論づけられました。
6万~3万年前頃の中国北部の生物学的および文化的記録は、複雑な人口統計学的歴史を示唆しています。中国ではこれまでIUP遺跡は1ヶ所だけしか確認されておらず(図1)、それはモンゴル高原の端に位置する水洞溝(Shuidonggou)遺跡第1および第2地点で、広く認められた42000~41000年前頃との年代の大型石刃技術により特徴づけられますが、46000±3000年前という孤立した発光年代があり、考古学的堆積物との関連およびその測定と計算過程を考慮すると、この年代には疑問が呈されています。中国における最も一般的で長く続いた石器インダストリーは、周口店上洞では35600~33900年前頃までに現生人類と関連している、石核および剥片石器群で構成されています。
革新的な小型化された小石刃石器群と顕著な顔料加工は4万年前頃までに下馬碑(Xiamabei)遺跡で見られましたが、下馬碑遺跡は広く石核・剥片石器群と分類できます。象徴的な遺物が他の石核・剥片遺跡群で見つかっており、その中には、周口店上洞(35600~33900年前頃)や小孤山(Xiaogushan)遺跡(3万~2万年前頃)や水洞溝上層(33000~31000年前頃)の、製作されたビーズや穿孔された貝殻と歯や骨製の円盤や下げ飾りが含まれます。新疆ウイグル自治区の通天(Tongtian)洞窟や金斯太(Jinsitai)洞窟(関連記事)における遺跡中部旧石器時代のムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)インダストリーの特定は、ネアンデルタール人の存在を示すかもしれない、と解釈されてきましたが、人類化石が欠けています。
本論文は、中国北部の泥河湾盆地(Nihewan Basin)の西端に位置する峙峪遺跡(統計112度20分48.59秒、北緯39度24分19.45秒)を報告します(図2)。峙峪遺跡は1963年に発見されて発掘され、1971年に中国語で短く報告されました。現地調査では、50日にわたって70m²の堆積物が発掘され、15000点以上の石器、5000点の歯の破片を含む何万点もの哺乳類の骨、骨器かもしれない遺物、穿孔された黒い円盤と1点のみの人類化石が得られました。報告では、生物人類学者により現生人類と同定された人類化石は後頭骨の断片だった、と示唆されています。以下は本論文の図2です。
発掘調査団は、750点の石器や152点の動物遺骸断片や黒い円盤や骨器など峙峪遺跡の発見物の収集物を選択し、北京の中国科学院古脊椎動物古人類研究所(Institute of Vertebrate Paleontology and Paleoanthropology、略してIVPP)に輸送しました。残念ながら、地元の歯石に残っていた収集物は、人類の後頭骨を含めて失われました。2013年には、学際的調査団の構成員が峙峪遺跡で新たな現地調査を実施し、収集標本を再調査して、放射性炭素と発光年代測定のための標本を収集し、また粒子規模および花粉分析を実行し、峙峪遺跡の堆積物と環境の歴史を再構築しました。この学際的調査団はIVPP収集物も再調査し、人工遺物と動物遺骸の詳細な分析研究を実行しました。本論文の全体的な調査結果から、峙峪は中国において現時点で最古の既知となるIUP遺跡と、アジアにおけるIUP遺跡の最東端の出現を表している、と示唆され、高緯度および北方経路沿いの現生人類拡大の可能性について更新された情報を提供します。
●層序と年代
峙峪遺跡は、その西側の山に源のある切り立った小峡谷沿いの河岸段丘に位置しており、水は東方へと流れて、最終的には桑乾河(Sanggan)に合流します。峙峪遺跡における堆積物層序は深さが約30mで、1960年の発掘団によって主要な4層にさらに区分されています。第1層~第4層は現在容易に観察でき、層序の底から上部へと番号が付けられています(図2)。最下部の堆積物である第1層は、河川作用による砂利の多い砂で構成されています。第2層は約1mの厚さで、砂質粘土の沈泥で構成されています。第2層は層序の唯一の文化層で、豊富な石器と動物化石が得られています。灰の水晶体が第2層で報告されていますが、燃焼の特徴はありませんでした。第2層の上部と底部の接触面は鋭くなっています。第3艘は水平の成層を伴う氾濫原の沈泥と河床の砂で構成されています。第4層は砂に挟まれた黄土で構成されています。
峙峪遺跡の体系的で堅牢な年代測定計画が実行されました。全層序(第1層~第4層)から得られた15点の堆積物標本が、光刺激ルミネッセンス発光(Optically Stimulated Luminescence、略してOSL)を用いて年代測定され、文化層(第2層)から直接的に得られた10点の標本(哺乳類の9点の骨と1点の歯)がオックスフォード大学加速器質量実験室で放射性炭素年代測定されました。7点の骨標本が2013年にその区画から回収されました。3点の骨標本は1963年の最初の発掘で回収され、解体痕により示唆されているように、人為的に改変されています。11点の放射性炭素年代(1点の標本は繰り返し測定されました)は内部的には一貫しており、較正年代では54300~43200年前頃から46300~42300年前頃の範囲となります(以下、95.4%信頼区間もしくは2σ)。
堆積物標本は、石英の複数粒子標本やカリウム(K)の豊富な長石(K長石)や石英の等価線量推定を用いて、光学的に年代測定されました。第2層から得られた2点の堆積物標本の加重平均OSL年代は、それぞれ42700±3000年前と42900±3000年前でした。第2層の下に位置する第1層の標本1点は50800±5600年前と年代測定され、第2層の上に位置する第3層の標本5点の年代は44800±3800~38500±3200年前でした。
全てのOSL年代は層序的に一貫しており、第2層の標本2点のOSL年代は、較正された放射性炭素年代と一致します。この年代測定結果から、第2層はひじょうに短期間で急速に堆積した、と明確に示唆されます。ベイズ年代モデル(図3)が用いられ、個々の層序の境界年代が推定されました。そのモデル化の結果から、第1層は62500~45800年前頃と53200~44700年前頃の間に堆積した、と示唆されます。この後に、第2層のより急速な蓄積が続き、その年代は46700~44200年前頃から45000~42500年前頃で、44600±1200年前に集中しました。第3層は43900~40400年前頃と43100~39300年前頃の間に堆積し、その後に続いて第4層が42600~37000年前頃と35800~4400年前頃の間に風成蓄積しました。以下は本論文の図3です。
●狩猟技術と輸送距離
先行研究では文化的痕跡のある第2層における哺乳類12種の存在が報告されており、それに含まれるのは、ケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)、モウコノウマ(Equus ferus przewalskiiもしくはEquus przewalskii)、アジアノロバ(Equus hemionus)、河套オオツノジカ(Megaloceros ordosianus)、スイギュウ(Bubalus wansjocki)、オーロックス(Bos primigenius)、シベリアアカシカ(Cervus elaphus)、コウジョウセンガゼル(Gazella subgutturosa)、チベットガゼル(Procapra picticaudata przewalskii)、ブチハイエナ(Crocuta crocuta)、トラ(Panthera tigris)、チュウゴクモグラネズミ(Myospalax fontanieri)です。哺乳類の特性は、比較的寒冷で乾燥した草原環境を示唆しており、ヨモギ属(Artemisia)やキク科(Asteraceae)やイネ科(Poaceae)の優占する草原地帯の景観を示唆する、第2層の花粉記録と一致しています。
本論文や先行研究で行なわれた化石生成論的分析から、峙峪遺跡の動物遺骸はよく保存されており、ウマ類、とくに成体により最も表されている、と示唆されます。肉食動物の歯の痕跡が確認された標本は1点だけで、解体痕はIVPP収集物における152点の動物遺骸のうち67点において、とくに肉のある上部(上腕骨と大腿骨)と中間的な四肢骨(脛骨と橈骨)で確認され、肉を削ぎ落す行為が示唆されました。打撃痕は47点の骨で確認され、75点の破片には剥離上の傷もしくは新鮮な骨で見られる刻み目がありました。元々の動物遺骸群の第二次標本から回収されていますが、動物遺骸に関する情報は、これらの骨の蓄積者が、それ以外にいたとしてもおもにヒトだった、との見解を裏づけます。峙峪遺跡の住民は熟練した狩猟民で、これら大型で高度な移動性の動物の狩猟の難しさにも関わらず、ウマ類を獲物とし、その死骸を肉や骨髄に処理しました。
峙峪遺跡の石器収集物は、肉眼的観察および岩石学的分析に基づいて分類された、さまざまな石材から構成されています。IVPP石器群では燵岩(432点)が優占し、それに続くのが変泥岩(176点)と珪岩(49点)と他の6種の岩石(93点)です。全ての石材は地元で入手可能ですが、例外は地元の産地が知られていない黒曜石で作られた人工遺物です。その黒曜石の人工遺物には、錐(SY20-315)や掻器(SY20-314)や鋸歯縁(SY20-226)や背付き内府が含まれています。黒曜石製の人工遺物は泥河湾盆地の更新世遺跡ではこれまで報告されておらず、これら4点の人工遺物の回収は例外的です。
この4点の人工遺物の微量元素分析および既知の火山源との比較が行なわれました。その結果、黒曜石の破片SY-315は峙峪遺跡の北東約800kmに位置するチャンバイ山(Changbai Mountain、長白山、白頭山)地域からもたらされ、他の3点の黒曜石製の人工遺物(SY-56とSY-315とSY-226)は、峙峪遺跡の北東約1000kmに位置する極東ロシアのグラドゥカヤ(Gladkaya)に由来する、と示唆されます。黒曜石製掻器の使用摩耗分析は、剥片隆起の端が丸くなっていることを示しており、輸送中に生じた摩耗を示唆しています。起源調査によって、4点の黒曜石製人工遺物は後期更新世のアジア東部における長距離の黒曜石予想の最古の事例となり、狩猟採集民が1000km以上の範囲に存在したか、集団間の長距離交換網が45000年前頃にあった、と示唆されます。
●IUP石器群
峙峪遺跡の石器群の分析は、以前には知られていなかった技術を明らかにします。IVPPで所蔵されている収集物は750点の石器から構成されており、剥離生産物の全範囲(302点、たとえば、石核や剥片や石刃)、比較的高い割合の再加工された破片(412点、たとえば、有舌石器やムステリアン尖頭器や掻器や彫器や石錘や抉入石器や鋸歯縁、少数の特定されていない壊れた断片(36点)が含まれています。鎚撃(635点)および両極(80点)打撃技術が、石材縮小に適用されました。収集物の選択された性質から、さまざまな縮小手法の元々の比率を正確に確証することはできません。石器群の大半は石核剥片(584点)産物で構成されており、泥河湾盆地層序の人類により一般的に製作さ、それは利用可能な燵岩段階の規模が小さい結果です。泥河湾盆地の全ての他の石器群とは対照的に、ルヴァロワ式および容積的石刃製作(30点)手法とその副産物は充分に証明されており、ルヴァロワ式尖頭器や再加工石器製作に修正された石刃が含まれます。
最も注目に値する発見物のうち、調整警官帽状打面(chapeau de gendarme striking platform)のあるルヴァロワ式尖頭器(12点)が、ルヴァロワ式剥片とともによく表されています。剥片について尖頭器と比較すると、ルヴァロワ式尖頭器はより大きく、平均長が35mmで、より大きな長さと幅の比率になっておれ、ルヴァロワ式尖頭器がより標準化された輪郭と標準的な三角形を有している、と示唆されます。容積的石刃製作手法は、石刃石核と石核稜付と破損した石刃により表されます。1点の石刃のみが全体的でしたが、他の石刃は全て、道具もしくは道具の断片へと製作されました。石刃原形のほとんどは、長い刃のある道具として機能し、掻器や鋸歯縁が含まれます(図4b)。以下は本論文の図4です。
39点の石器の選択された標本で行なわれた機能分析は、全ての人工遺物で明確な使用摩耗の痕跡を特定しました。6点の有舌石器と4点のルヴァロワ式尖頭器は、着柄の証拠を示します。1点のルヴァロワ式尖頭器(SY20-362)には舌部分における着柄の痕跡と、先端における顕著な彫器的特徴があれ、恐らくは衝撃による破壊です。全体的に機能分析から、峙峪遺跡の石器群は、骨や皮や木に対する削り取り、肉処理や皮の加工における鋸引き作業、皮や角に対する切断、さまざまな物質の穿孔や穴開けを含む、さまざまな活動に用いられていた、と示唆されます。
●黒鉛円盤と骨器
峙峪遺跡の第2層から回収された最も顕著な文化的人工遺物の一つは、中心に大きな穿孔のある円盤型物質の破片です(図4d)。ラマン分光法はその素材を、中程度から高度の変成作用を受けた、よく結晶化した黒鉛と特定しました。この円盤は、平らな破片に近い端の小さな部分を除いて、残っている端のほとんどで丸く斜角がついています。その穿孔は、最良の保存面から損傷面にかけて先細になる円錐形の輪郭をしています。その穿孔は元々約9mmで、円盤の直系は6~6.4cmでした。損傷を受けていない表面の顕微鏡分析から、この円盤は丸砥石での研磨により作成された、と明らかになります。平面や丸みのある端の形成により製作された溝は、ほぼ完全に使用摩耗により消えていまする。中心の穿孔沿いの用摩耗は光沢のある鈍い跡を形成し、それは疑いなく通過した紐の作用に起因します。穿孔の断面は、裾広がりの壁面での大きな穿孔製作の目的での、頑丈で裾広がりの先端の使用を示唆します。圧力がこの物体の破壊の原因ならば、円盤は、外套や袋を占めるためのボタンのような、実用的機能を有していたかもしれません。同様の目的で機能したかもしれない中国の旧石器時代における他の玉人工遺物は2点だけで、峙峪遺跡で推測された衣服を留めることや装飾の方法はアジア東部において何千年も使用され続けた、と示唆されます。
峙峪遺跡の第2層から回収されたもう一つの特徴的な文化的遺物は、敲打により形成された大型哺乳類の四肢骨の骨幹薄片です(図4dの2)。元々の原形の腹面は段階的な割れ目を示しており、求心性剥片跡によりほぼ除去されており、その右側では、わずかに凸状の端を作る強い段階形再加工により除去されています。その皮質面の特徴は、骨膜表面の大半を除去した2点の侵入的剥片跡です。骨器は遺物群の残りとは、そのより小さな大きさ、皮質および髄質の両側に存在する剥片跡の数がより多いこと、その侵襲性で異なっています。微細構造水準では、骨はおもに縦方向の血管と放射状吻合により特徴づけられる線維層板型組織で構成されています。この骨構造は中型および大型哺乳類ではより一般的ですが(約7mmとなるその密な骨の厚さ)、特定の分類群への帰属は困難な課題です。多くのアジア東部の遺跡で報告された、推定上の、時には議論となっている、打ち砕かれた骨器と比較すると、峙峪遺跡の人工遺物は、両面対称の道具製作を目的とする、その小さな大きさと再加工の強度で際立っています。
●考察
峙峪遺跡は、アジア東部におけるIUPの最古で最東端の出現を記録します。しかし、そうした発想を現生人類拡散の明確な仮定的状況と結びつけることには問題があります。峙峪遺跡の地理的位置とIUP人口集団拡散の潜在的な経路(図1)を考えると、水洞溝IUP遺跡の位置が峙峪遺跡から500km西方であることは注目に値します。しかし、水洞溝遺跡は峙峪遺跡より3000年ほど新しいので、西方から東方への拡散は論証されません。その他には、最も地理的に近いIUP遺物群はモンゴルの南端で見られ、峙峪遺跡から約1000km離れています。
最少負荷経路分析から、ロシアのトランスバイカル地域からモンゴル、その後の中国北部への南方の移動が、拡散の最も実行可能な経路だった、と論証されてきました(関連記事)。しかし、年代が主要な問題で、峙峪遺跡はトランスバイカル地域とモンゴルのほとんどのIUP遺跡よりも古い、と示されています。トルボル16(Tolbor 16)遺跡は例外で、それはトルボル16遺跡の年代が46000~43500年前頃と43700~41200年前頃との間で、峙峪遺跡とほぼ同年代だからです(関連記事)。
より古く時間的に重複しているIUP遺跡群については、トランスバイカル地域やモンゴルや中国のその後の遺跡の起源と考えられることが多い、ロシアのアルタイ山脈を参照する必要があります。ロシアのアルタイ地域が中国北部の西側で隣接していることを考えると、峙峪遺跡の証拠から、IUPの拡散経路と東方への移動年代に関する最も有力な枠組みは、南方への同時代の拡散を含むよう、再考されるべきである、と示唆されます。さらに東方の朝鮮半島と日本列島では、IUP遺物群は特定されていませんが【長野県佐久市の香坂山遺跡の石器群は、ユーラシアIUP石器群である可能性が指摘されています(関連記事)】、上部旧石器時代前期(Early Upper Palaeolithic、略してEUP)インダストリーは40000~35000年前頃に出現し、ユーラシアIUPの局所的な異形と考えられています(図1)。峙峪遺跡では、極東ロシアのグラドゥカヤからの黒曜石の顕著な長距離輸送の証拠が、33000~25000年前頃の記録よりずっと古く、狩猟採集民人口集団の広範な東方への初期拡大を示唆しているかもしれません。
峙峪遺跡(45000年前頃)と水洞溝遺跡(42000~41000年前頃)は、中国北部のムステリアンおよび石核剥片の遺跡群の存在と一致します(図1)。ムステリアンの存在は時間的にIUPと重複しますが、これらの遺跡は稀で、峙峪遺跡の北方800kmに位置しています。ムステリアンおよび石核剥片の遺跡群は、アジアにおける現生人類集団との混合により証明されているように、ネアンデルタール人の一時的な南方への侵略を表しているかもしれませんが、中国ではこれまで、ネアンデルタール人の化石は知られていません。石核剥片インダストリーはアジア東部における最も一般的な考古学的インダストリーで、長期のインダストリーを表しており、空間的には峙峪遺跡から200~300kmと近い場所に位置しています(図1)。
石核剥片インダストリーは時間的に、アジア東部全域に存在した種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など古代型人類【非現生人類ホモ属】の存在に対応しており、それには中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)が含まれ、白石崖溶洞ではデニソワ人のDNAがおそらく新しければ45000の堆積物で見つかりました(関連記事)。さもなければ、石核剥片インダストリーは、間接的には44000~40000年前頃となる田園洞窟や石門山(Shimenshan)遺跡や骨頭溝(Gutougou)遺跡などの現生人類の存在と、直接的には35000年前頃以後の周口店上洞の現生人類化石と一致します。
峙峪遺跡の石核剥片インダストリーにより確証されるルヴァロワ式および容積的石刃石器群の存在は、これらの遺跡を中国の全ての他の遺跡から区別し、おそらくは化石と遺伝学と考古学の証拠から浮かび上がる複雑な人口統計学的全体像を表しており、人類種間の生物学と文化両方の相互作用を示唆しています。草原地帯環境における峙峪遺跡人類の優れた狩猟技術は、約1000kmの広い移動範囲および外来の黒曜石製の人工遺物の発見と組み合わされて、モンゴル南部とシベリア南東部と朝鮮半島の遠く離れた人類集団間の顕著な相互作用を強く示唆します。
峙峪遺跡の記録が、アジア東部における現生人類集団の到来の時期において明らかにするのは、これまでの独特な文化的適応、上部旧石器時代に典型的な技術と象徴の革新の組み合わせ(たとえば、外来石材の長距離交換、この期間に特徴的な石刃縮小道具)、もう存在しないとされてきた中部旧石器時代の文化的特徴(この期間に特徴的なルヴァロワ式縮小や加工された道具)、中国の石核剥片インダストリー石器の伝統、独特か同時代の遺物群では稀にしか見られない要素(つまり、実用的で象徴的な機能に用いられた大型黒鉛円盤や、小さな両面石器製作のため打ち砕かれた骨)です。
人工遺物物における改変されたオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)や赤い顔料残留物、骨特有の技術で作られた骨器、多様で小型の個人的装飾品の欠如も、峙峪遺跡をアジア東部のより新しい遺跡群と区別します。泥河湾盆地の下馬碑遺跡に関する最近刊行された研究(関連記事)と同様に、峙峪遺跡は、外来性の特徴を作用し、過去の文化的遺産の本質的な要素を保持しながら、新たな特徴を発明した、現生人類集団の到来と関連する文化的融合の過程を反映しているようです。峙峪遺跡は、現生人類集団の世界規模の拡大に関するより複雑ではなく単純なモデルとは対照的に、アジア東部に関するより複雑な人口統計学的および進化的な仮定的状況を裏づけ、強化します。
参考文献:
Yang SX. et al.(2024): Initial Upper Palaeolithic material culture by 45,000 years ago at Shiyu in northern China. Nature Ecology & Evolution, 8, 3, 552–563.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02294-4
追記(2024年1月26日)
本論文の解説記事をブログに掲載しました。
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