デンマークの人口史
古代ゲノムデータにより現在のデンマークに相当する地域の人口史を推測した研究(Allentoft et al., 2024)が公表されました。本論文は、デンマークの中石器時代~前期青銅器時代の7300年間にわたる古代人100個体のゲノムデータを用いて、デンマークの人口史を推測しています。デンマークでは、新石器時代への移行がヨーロッパ中央部と比較して1000年以上遅れた急激なもので、在来の狩猟採集民からの遺伝的寄与は限定的でした。さらに、その1000年後には東方の草原地帯由来の人類集団の到来により第二の大規模な人口の入れ替わりが起き、これによって現代のデンマーク人と遺伝的により類似した集団が形成されました。なお、以下の年代は基本的に較正されています。
●要約
完新世ユーラシアにおける大きな移動事象は、広範な地理的規模で特徴づけられてきました。しかし、接触地帯における人口動態への洞察は、高い時空間的解像度で標本抽出された古代ゲノムデータの欠如により妨げられています。本論文はこの問題に取り組むため、デンマークにおける中石器時代と新石器時代と前期青銅器時代の7300年間にわたる100点の骨格から得られたショットガン配列決定されたゲノムを分析し、これらのデータを食性(炭素13窒素15)や移動性(ストロンチウム87/86比)や植生被覆率(花粉)の代理指標と統合しました。
マグレモーゼ(Maglemose)文化やコンゲモーゼ(Kongemose)やエルテベレ(Ertebølle)文化のデンマークの中石器時代の個体群は、他のヨーロッパ西部狩猟採集民(Western European hunter-gatherers、略してWHG)と関連する単一の独特な遺伝的クラスタ(まとまり)を形成する、と観察されます。物質文化の変化にも関わらず、デンマークの中石器時代個体群は、アナトリア半島由来の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有する農耕民が到来した、較正年代で10500~5900年前頃にかけて遺伝的均一性を示しました。新石器時代への移行はヨーロッパ中央部と比較して1000年以上遅れましたが、ひじょうに急激で、在来の狩猟採集民からの限定的な遺伝的寄与のある人口の入れ替わりをもたらしました。
漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRBもしくはFBC)と関連するその後の新石器時代人口集団は、東方の草原地帯由来の祖先系統が到来する前の約1000年間のみ存続しました。この第二の同様に急速な人口置換により、現在のデンマーク人とより類似した祖先系統特性を有する単葬墓文化(Single Grave Culture、略してSGC)が生まれました。本論文の多指標データセットでは、これらの主要な人口統計学的事象が、遺伝子型と表現型と食性と土地利用における並行的な移行として証明されています。
●研究史
スカンジナビア半島南部における中石器時代と新石器時代は、多くの重要でよく説明されている文化的移行により特徴づけられています。しかし、これらの事象の遺伝学的および人口統計学的影響はほぼ明らかにされていないままです。スカンジナビア半島(スウェーデンとノルウェー)の氷期後初期のヒトの入植は、少なくとも2回の異なる移住の波を構成する、と考えられています。一方は、南方からのWHGと関連する供給源、もう一方は、さらに北方へのヨーロッパ東部狩猟採集民(eastern European hunter-gatherer、略してEHG)供給源で、それはこの集団がノルウェーの大西洋岸に沿って南進する前のことでした(関連記事1および関連記事2)。しかし、スカンジナビア半島中石器時代人口集団の詳細な構造と移動性への洞察は限定的で、デンマークのマグレモーゼ文化やコンゲモーゼ文化やエルテベレ文化と関連するスカンジナビア半島南部の人口集団の遺伝的データはほぼ完全に欠如しています。
新石器時代への移行はヨーロッパ先史時代における分水嶺を表しており、アジア南西部からの栽培化された作物と家畜の11000年前頃に始まる拡大により特徴づけられます。この移行と関連している移動と人口の入れ替わりは広範な地理的および年代的規模で論証されてきましたが(関連記事1および関連記事2)、粗い標本抽出と遺伝学への一方的な焦点は、在来民と新参者との間の接触地帯における社会的な相互作用と詳細な人口統計学的過程に関する洞察を妨げてきました。
スカンジナビア半島南部は、この議論において謎めいた位置を占めています。新石器時代への移行はスカンジナビア半島南部ではヨーロッパ中央部と比較して1000年遅れており、この期間に狩猟採集民社会は較正年代で5900年前頃まで反映し続け、南方への農耕民人口集団による影響はわずかでした。かなりの遅れから、デンマークにおける農耕への移行は、ヨーロッパの他地域で観察された人々の移住(人口拡散)より強い文化的拡散の要素を含む異なる機序により起きた、と提案できます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。
広範な考古学的記録から、FBCはデンマークにおいて新石器時代の最初の1000年間存続し、それは明らかな衰退に続いてSGCが出現する前だった、と示唆されてきました。遺伝的データおよび堅牢な絶対年代の欠如のため、FBCとSGCとの間の関係は広く議論されてきました。新石器時代デンマークにおけるこの第二の文化的移行と関連する人口動態は同様に未解決で、それには同じ頃にヨーロッパの他地域の遺伝子プールを変容させた「草原地帯からの移住」(関連記事)とのつながりの可能性が含まれます。
これら決定的な事象を高い時空間的解像度で調べるため、デンマークの古代人100個体のショットガン配列決定されたゲノム(常染色体網羅率は0.01~7.1倍)の詳細で連続的なデータセットが分析され、その年代は前期中石器時代のマグレモーゼ文化、コンゲモーゼ文化および後期中石器時代のエルテベレ文化期、前期および中期新石器時代のFBCおよびSGCから、青銅器時代までの7300年間にまたがります(図1)。以下は本論文の図1です。
デンマークの考古学的記録は、広範な年代と地形と社会文化的状況から得られたねよく記載された中石器時代および新石器時代の骨格遺骸の大規模な収集を表しています。これは、骨格遺骸の地形的に好適な保存条件および考古学的研究の長くて豊かな歴史と組み合わさった、中石器時代の漁撈狩猟採集生活様式とその後の新石器時代の農耕実践の両方に適した環境と気候の結果です。本論文は、Y染色体ハプログループ(YHg)およびミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とともに常染色体の補完されたゲノム(関連記事)、遺伝学的な表現型予測、移動性や食性の代理としてストロンチウム(Sr)の同位体比(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)や炭素(C)の同位体(δ¹³C)や窒素(N)の同位体(δ¹⁵N)を組み合わせる、多代理手法を用いました。さらに、人口統計学的過程と環境過程との間の直接的つながりを調べるため、デンマークの人口集団において経時的に観察された遺伝学的変化を、花粉分析および定量的な植生被覆再構築に基づく局所的な植生と照合させました。
●中石器時代
スカンジナビア半島南部の物質文化における移行が、人口の連続性で起きたのか、あるいは流入移民により促進されたのか、不明です。デンマークの前期中石器時代集落は、幾何学的形状の小さな燧石製投擲具により考古学的に特徴づけられるマグレモーゼ文化(11000~8400年前頃)と関連しています。水中考古学の最近の発展まで、この文化はおもに湖や河川沿いの内陸部の場所で知られていました。その後に続いたコンゲモーゼ文化(8400~7400年前頃)期には、空中ブランコ型の燧石製尖頭器が高品質な長い石刃とともに鏃群では優勢でした。より大きな集落は海岸沿いの好適な漁場に集まっていますが、内陸部には特化した狩猟野営地もあります。後期中石器時代のエルテベレ文化(7400~5900年前頃)は、横方向の刃を有する燧石製尖頭器により特徴づけられます。土器は他の狩猟採集民集団から東方へと、および恐らくは南西へともたらされ(関連記事)、「外来」の柄孔斧はバルト海地域の南側の農耕民社会との交流を示唆しています。海岸沿いに密に点在するより大きな居住地遺跡はおそらく複数の家族と1年中の居住を表しており、この期間の形質人類学および精神文化への重要な洞察を提供します。
デンマークの狩猟採集民38個体のゲノム解析とその祖先系統の推測により、デンマークの考古学的記録で観察された文化的移行が人口集団における遺伝的変化と関連しているのかどうか、調べられます。もでるに基づくクラスタ化(ADMIXTURE)と主成分分析(principal component analysis、略してPCA)と同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)共有分析から、マグレモーゼ文化(4点)とコンゲモーゼ文化(8点)とエルテベレ文化(27点)の期間を通じて、現在のデンマーク地域は4500年間の横断区にわたって顕著な遺伝的均一性を示す(図1~図3)、と示され、一部の考古学者により支持されている人口統計学的連続性との解釈が裏づけられます。デンマークの最初の既知の骨格である「コエルブジェルグ(Koelbjerg)人」と呼ばれている個体(10648~10282年前頃のNEO254)から、本論文で含まれ目最新の中石器時代骨格である「ロドハルス(Rødhals)人」と呼ばれている個体(5916~5795年前頃のNEO645)まで、デンマークの中石器時代個体群の祖先系統はほぼ排他的に、中石器時代ヨーロッパ西部におけるWHG祖先系統で優勢だった同じヨーロッパ南部の供給源(イタリア_15000年前_9000年前)に由来します(関連記事)。
IBDに基づくPCAでは、デンマークの中石器時代個体群は共に密接にクラスタ化しましたが(まとまりましたが)、この緊密な局所的遺伝的つながりを超えて、最新の祖先系統をヨーロッパ西部の地理的および時間的に近い狩猟採集民個体群と共有しており、たとえばブリテン島のチェダー人(Cheddar Man)やルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡個体やフランスのビション(Bichon)遺跡個体で、これらの個体は一般的にWHGと呼ばれる遺伝的クラスタ(ヨーロッパW_135000年前_8000年前)です(図2)。最初期のデンマークの個体群のこれら西方個体群への微妙な移動はおそらく、IBD共有を通じて獲得されたより密接な時間的近さを反映しています。
マグレモーゼ文化における石刃の押圧削片群とエルテベレ文化における土器は両方とも東方起源と主張されてきましたが、本論文のデータはそれらの期間におけるより東方の狩猟採集民との混合の証拠を示しません。これは、デンマークにおけるこれらの導入の供給源として文化拡散を示しています。D統計で検証すると、全てのデンマークの中石器時代個体は、スウェーデンとの近さにも関わらず、スウェーデンの中石器時代狩猟採集民(スウェーデン_10000年前_7500年前)を除いて最古の個体(NEO254)とクレード(単系統群)を形成します。しかし、EHGとの遺伝子流動の弱い兆候がデンマークの中石器時代横断区全体で共有されており、中石器時代の前もしくは中石器時代の最初期におけるデンマークへの拡大に先行する、さらに東方の共同体との接触が示唆されます。以下は本論文の図2です。
遺伝学的表現型予測は、中石器時代を通じて青い目の色素沈着の高い確率を示唆しており、これは以前の調査結果と一致し、この特徴が初期中石器時代にはすでに存在していたものの、人口集団では固定されていなかった、と示されます。デンマークの中石器時代狩猟採集民はすべて、高い確率の茶色もしくは黒色の髪を示し、身長予測は一般的に、その後の新石器時代よりもわずかに低いおよび/もしくは変動が少ないことを示唆しています。しかし要注意なのは、ゲノム規模関連研究(genome-wide association studies、略してGWAS)パネルに含まれる現代の個体群との比較的大きな遺伝的距離のため、より最近の集団とよりも中石器時代の個体群の方と当てはまらない得点が生成される、ということです(関連記事)。
コラーゲンにおける安定同位体δ¹³C値が海洋と陸生に由来するタンパク質の割合について情報をもたらすことができるのに対して、δ¹⁵N値はタンパク質供給源の栄養水準を反映しています。最古の骨格(NEO254)は食性同位体値の減少を示しており(図3)、前期中石器時代の内陸部狩猟採集民の生活様式を表しています。この結果は、デンマークの2番目に古い既知の骨格、つまりトメルプガーヅ・モーズ(Tømmerupgårds Mose)遺跡の個体で反映されています。
その後のマグレモーゼ文化期(9500年前頃)からコンゲモーゼおよびエルテベレ文化期を通じて、δ¹³C値とδ¹⁵N値の漸進的増加が観察されます。これは、デンマークの海岸と内陸部両方の30個体以上の中石器時代のヒトとイヌから得られたデータに基づいて以前に提案されたように、海洋性食料がタンパク質の主要な供給源を構成するようになっていったことを示唆しています。この期間には、世界規模の海水面増加が次第に現在のデンマークを列島へと変容させ、そこでは全てのヒト集団がその年間の領域内で沿岸資源を広く利用できました。
在来の中石器時代人口集団はその食性と文化を変化する景観へと経時的に適応させ、本論文のデータから、これが連続的な人口集団で起き、4500年以上の期間にわたって移民の検出可能な流入はなかった、と示されます。中石器時代を通じての⁸⁷Sr/⁸⁶Sr同位体比の低い変動(図3)は、限定的な長距離移動および/もしくはその後の新石器時代よりも均質な環境(たとえば、海洋)に食資源が由来することを示唆しているかもしれません。以下は本論文の図3です。
注目すべきことに、デンマークの中石器時代個体の一部は近い親族関係にある、と証明されました(関連記事)。近い親族関係は、エルテベレ文化の標準的な貝塚遺跡で相互に隣り合って埋葬されている父親と息子の2個体(NEO568とNEO569)の事例と、ドラッグショルム(Dragsholm)遺跡でともに埋葬されている、母親と娘の2個体(NEO732とNEO733)の事例で論証されています。エルテベレ文化の墓はデンマークにおいて最初の発見された骨格で(1890年代の発掘)で、議論の余地なく狩猟採集民を表しています。この遺跡の発掘後に、スカンジナビア半島の初期先史時代に関する聖書の物語に由来する学界の推論は、勢いを失いました。発掘データから、これらの個体が同時に埋葬されたのかどうか、明らかにはできず、確証できるのは、少年(2歳未満の乳児)がその父親(エルテベレ人)から1m未満に位置していたことだけです。
1973年のドラッグショルム遺跡における発掘は、中石器時代の女性2個体および副葬品のある男性1個体の墓を含む、よく保存された二重埋葬を明らかにしており、副葬品のある男性1個体については前期新石器時代と示唆されています。形質人類学的観察に基づいて、近い親族関係がドラッグショルム遺跡の女性2個体について示唆されていました。この女性2個体は姉妹と示唆されていましたが。これは今では母親と娘の共同埋葬と訂正できます。本論文のデータから、隣接する埋葬の男性(ドラッグショルム人、NEO962)はこの女性2個体と親族関係になかったことも示されます。これらの事例から、近い生物学的親族関係はヨーロッパ北部では後期新石器時代集団と社会的に関連しており、その社会の死者の葬儀の扱いに影響した、と示されます。
●前期新石器時代への移行
デンマークにおける新石器時代のFBC(漏斗状ビーカー文化)の出現は、考古学的研究と過去175年間の議論において中心的位置を占めてきました。新石器時代の定義要素であるアジア南西部起源の栽培化および家畜化に基づく食料生産経済は、デンマークにおいて5900年前頃以降確実に存在していました。新石器化ではデンマークの物質文化にもたらされた新たな形状と種類の急発展が見られ、漏斗状のビーカーや燧石の磨製斧が含まれます。5800年前頃以降、木と土の記念碑的な塚がその文化目録に追加され、その約200年後、隆起した石に囲まれ、石室を含む土で作られた埋葬が、農地における主要な陸標として建設されました。
5300年前頃以後、巨大土製古墳におけるより大きくてより複雑な石で作られた羨道墓が出現しました。一方で、単儒で記念碑的ではない埋葬がFBC期全体を通じて巨石墓とともに続きました。多くの中石器時代エルテベレ文化の沿岸部の貝塚の上に位置する新石器時代の最初の数世紀と年代測定された居住堆積物は、海洋での採集と漁撈の局所的な存続と解釈できるかもしれません。対照的に、さらに内陸の農耕が容易な土壌に建てられた秩序だった長い家屋を有する他の集落は、それ以前の中石器時代のエルテベレ文化期とはひじょうに明確な区別を示唆する、栽培化植物および家畜化動物の遺骸と関連しています。
これらの微妙な差異に関わらず、5900年前頃には、本論文の多代理データセットは、遺伝学と表現型と食性と植生の媒介変数における顕著で急激な同時の変化を記録します(図3)。これは人口拡散の堅牢な証拠で、長年の議論を解決します。ヨーロッパの他地域で観察されているように(関連記事)、デンマークにおける農耕の導入はアナトリア半島農耕民関連祖先系統を有する人々の到来と明らかに関連していました。これは、在来の狩猟採集民からの限定的な遺伝的寄与を伴う人口置換をもたらしました。本論文のデンマークのデータセットにおけるこの典型的な新石器時代祖先系統の最古の事例は、5896~5718年前頃(95%の確率)となるヴィクソ・モーズ(Viksø Mose)遺跡で発見された女性1個体(NEO601)の湿原骨格で観察されます。
PCAでは、全てのデンマーク前期新石器時代個体はヨーロッパ新石器時代農耕民勾配の「後期」の端でクラスタ化し(まとまり)、含まれる全てのヨーロッパ新石器時代農耕民のゲノムにおいて、狩猟採集民祖先系統の最大量の一部(10~35%)を一貫して示します(図1および図3)。IBDクラスタ化分析では、デンマークの個体群はスウェーデンとポーランドのFBC関連個体群とともに遺伝的クラスタ(スカンジナビア_5600年前_4600年前)の一部を形成し、球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)のポーランドの個体群との密接な類似性も示します。これは、デンマークにおける前期新石器時代農耕民のヨーロッパ東部に近い起源を示唆しているかもしれません。
より近似的な祖先系統モデル化を用いると、デンマークとスウェーデンとポーランド全域の新石器時代のFBC関連個体群の狩猟採集民祖先系統構成要素はおもにWHGと関連する1供給源(ヨーロッパW_135000年前_8000年前)に由来する、と分かりました。デンマーク中石器時代狩猟採集民と関連する祖先系統(デンマーク_10500年前_6000年前)は、より低い割合(約10%未満)で、デンマークのFBC個体群の部分集合においてのみ見つかりました。さらに、これは5400年前頃以降とより新しい個体群で見られる傾向にあり、これらの個体群は、たとえば個体NEO945やNEO886などで、狩猟採集民祖先系統の合計の全体的な最大量も示しています(図3)。
DATESを用いると、デンマーク新石器時代個体群の大きな割合、とくに最初期の個体群についての混合年代は、デンマークにFBCが出現した5900年前頃に先行する、と分かりました。より新しい混合年代(デンマークにおけるFBCの到来後)はおもに5400年前頃以後の個体群で観察され、全体的なより高い割合の狩猟採集民の割合と関連しています。これらの観察は、混合年代と狩猟採集民祖先系統が経時的に変化せず、在来の狩猟採集民との混合が検出されなかったスウェーデンのFBC関連個体群とは著しく対照的です。
本論文の結果は、アナトリア半島新石器時代農耕民祖先系統と在来ではない狩猟採集民祖先系統を有する到来者による、新石器化の開始におけるデンマークでの人口入れ替わりを論証します。在来のデンマーク狩猟採集民と関連する祖先系統は、デンマーク新石器時代の遺伝子プールにおいて後期でのみ検出でき、セルビアの鉄門(Iron Gates)遺跡やヨーロッパ中央部(関連記事)やスペイン(関連記事)など他のヨーロッパ地域でも記録されているように、後期の存続していた狩猟採集民の集団との遺伝子流動が示唆されます。
中石器時代のエルテベレ文化人口集団がどのように消滅したのかは、分かりません。その一部は短期間存在した小さな「孤立地帯」で孤立した、および/もしくは新石器時代の生活様式に適応したのかもしれません。狩猟採集民祖先系統を有する本論文のデンマークのデータセットで最新の個体は上述のドラッグショルム人(NEO962)で、年代は5947~5664年前頃(95%信頼区間)となり、考古学的にはその副葬品に基づいてFBCに分類されています。本論文のデータは、文化的類似性と一致するものの、その狩猟採集民祖先系統とは対照的となる、典型的な新石器時代の食性を確証します。この男性個体(NEO962)は短い中石器時代から新石器時代への移行期に暮らしており、移住してきた農耕民の文化と食性を採用した、中石器時代祖先系統の局所的1個体を表しています。
デンマークにおける後期の狩猟採集民祖先系統の類似の事例は、5858~5661(95%信頼区間)年前頃となるデンマークのロラン島のシルソルム(Syltholm)遺跡で発見された噛まれたカバノキの樹脂片から得られたヒトDNAの分析のさいに観察されました(関連記事)。したがって、狩猟採集民祖先系統を有する個体群はデンマークにおいて農耕集団の到来後数十年および恐らくは数世紀存続していましたが、その後の数世紀の人口集団にはわずかなゲノム痕跡しか残していません。同様の「遺物」的な狩猟採集民祖先系統は、5913~5731年前頃となる、スウェーデン西岸のエヴェンサス(Evensås)遺跡個体(NEO260)でも見つかっています(関連記事)。
デンマークにおける新石器時代の開始以降、約−20‰のδ¹³C値と約10‰のδ¹⁵N値により証明されているように、食性は陸生起源の優勢へと急激に移行しました(図3)。考古学的証拠と一致して、これらの同位体データから、栽培化された作物と家畜化された動物がこの時点以降にタンパク質の主要な供給を提供した、と示されます。同位体値はその後の期間を通じてこれらの水準で安定したままでしたが、4500年前頃以後に幾分差異がより大きくなりました(図3)。新石器時代と前期青銅器時代の5個体のδ¹³C値とδ¹⁵N値から、高栄養性の海洋食物をかなり摂取していた、と示唆されます。これはとくに、スヴィニンゲ・ヴァイレ(Svinninge Vejle)遺跡の1個体(NEO898)について顕著で、NEO898はスウェーデンの後期狩猟採集民と関連する祖先系統を示すデンマーク新石器時代の2個体のうち1個体です(後述)。
新石器時代の開始とともに、個々の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値におけるかなりの変動を見ることができます。これはその後の期間において継続し、標本抽出の偏りによって容易には説明できません。それは、本論文の標本のほとんどが、祖先系統と期間に関わらず、骨の保存状態が一般的に良好なデンマークのより東方地域に集中しているからです(図1)。このパターンから、デンマークの新石器時代農耕民はより多様な景観からの食料を占めていた、および/もしくは消費していたか、あるいは先行する狩猟採集民よりも遊動的だった、と示唆できます。新石器時代への移行は、明るい髪の色素沈着と関連する主要な影響アレル(対立遺伝子)のかなりの上昇も示していますが、新石器時代の最初の千年紀(FBC期)を通じての予測はほぼ、現在より低い身長を示唆しており、以前の調査結果を繰り返します。
円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)はスカンジナビア半島とスウェーデン本土東側のバルト海諸島に起源がありますが、デンマークではその北部と東部において5100~4700年前頃に出現し、FBCと共存しました。PWCは窪みで装飾されることの多い粗い土器と、海洋種および農産物の組み合わせに基づく生計により特徴づけられます。PWCと関連する埋葬は、デンマークでは発見されてきませんでした。しかし、注目すべきことに、デンマークの湿地堆積物で発見された5200年前頃の男性2個体(NEO33とNEO898)のゲノムは、スウェーデンのゴットランド島のバルト海の島のアジュヴィーデ(Ajvide)遺跡のPWC個体群(関連記事)と関連する狩猟採集民祖先系統と証明されました。この2個体(NEO33とNEO898)のうち、ユトランド島北部のヴィトラップ(Vittrup)遺跡で発見されたNEO33も、外れ値のストロンチウム痕跡を示しており(図3)、恐らくはその異常な祖先系統と一致する外来起源を示唆します。全体的に本論文の結果は、この期間におけるデンマークとスカンジナビア半島との間の海を越えた直接的な接触を論証し、それは考古学的調査結果と一致します。
●後期新石器時代と青銅器時代
ヨーロッパは5000~4800年前頃に、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの大規模な移住により変容しました。これは、1000年以内にヨーロッパ大陸のほとんどに草原地帯関連祖先系統をもたらし、縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)複合が出現しました。デンマークでは、これはFBCからSGCへの移行と一致しており、SGCはCWC複合の地域的な現れです。円墳での単葬墓への移行は考古学的には二つの拡大段階により特徴づけられ、一方は4800年前頃に始まるユトランド半島(デンマーク西部)の中央部と西部と北部の第一の急速な占拠で、もう一方は4600年前頃に始まるデンマーク東部諸島全域におけるその後のより遅い拡大です。デンマークの東部では、SGCの特徴はあまり見られませんが、巨石墓玄室での埋葬などFBC伝統は存続しました。この文化的変化は、別の古典的な考古学的な謎を表しており、移民を支持する説明と文化的変容を支持する説明が何世代にもわたって競合しています。
数点の網羅率の低いゲノムから得られた洞察(関連記事)はじっさい、草原地帯からの拡大とのつながりを示してきましたが、古代人100個体のゲノムにおける祖先系統構成要素の図示により、今ではこま事象の完全な影響が解明され、デンマークにおける第二のほぼ完全に近い人口入れ替わりが論証されます。この遺伝的変化はPCAとADMIXTURE分析から明らかで、そうした分析では、SGCと後期新石器時代および前期青銅器時代(Late Neolithic and Early Bronze Age、略してLNBA)のデンマークの個体群は他のヨーロッパLNBA個体群とクラスタ化し、草原地帯から拡散したヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と関連する祖先系統構成要素を高い割合で示します(図1および図3)。草原地帯集団(草原地帯_5000年前_4300年前)と関連する祖先系統の割合は60~85%と推定され、残りはヨーロッパ東部GAC(ポーランド_5000年前_4700年前)と関連する農耕民関連祖先系統を要する個体群と、それより少ない割合(3~18%)の、在来の新石器時代スカンジナビア半島農耕民(スカンジナビア_5600年前_4600年前)からの祖先系統です。
SGCの出現はデンマークの人々の遺伝子プールにおいて大きな新しい祖先系統構成要素をもたらしましたが、それは食性の同位体比もしくはストロンチウム同位体比における明らかに変化を伴っていませんでした(図3)。しかし、本論文の複雑な形質予測は身長の上昇を示唆しており(図3)、これは、古代の草原地帯個体群が、草原地帯からの移住前の平均的なヨーロッパ新石器時代個体群よりも身長が高いと予測されていたことと一致します。
デンマーク西部のほとんどでは保存状態が悪いため、SGCの最初期段階(4800年前頃)の骨格はないので、これらの人々が草原地帯祖先系統を有していた、と明確には証明できません。SGCの埋葬慣行はユトランド半島の南部とGAC関連の北部ではそれぞれ異なる方法で実行されており、他地域の遺伝学的結果を考えると、異なる人口統計学的過程がデンマーク内で展開されたことは妥当です。しかし、草原地帯祖先系統はゲアイル(Gjerrild)遺跡の墓から発見されたSGC関連骨格において200年後に存在していた、と分かっています(関連記事)。ゲアイル遺跡骨格の年代(4600年前頃以降)は、ネス(Næs)遺跡の巨石墓で発見された骨格1点(NEO792)で特定された、本論文における草原地帯関連祖先系統の最古の事例と一致します。この個体(NEO792)では約85%の草原地帯関連祖先系統が推定され、全てのデンマークLNBA個体では最高量となります。
注目すべきことに、NEO792は、草原地帯関連祖先系統を有さずアナトリア半島農耕民関連祖先系統を示す本論文のデータセットにおける最新の2個体、つまりクロッケヘジュ(Klokkehøj)遺跡のNEO580およびステンダーアップ・ヘージ(Stenderup Hage)遺跡のNEO943とも同年代で、FBC消滅前の短期間の祖先系統共存を証明しており、これはその1000年ほど前の狩猟採集民祖先系統の中石器時代エルテベレ文化の人々の消滅と類似しています。ベイズモデル化を用いると、デンマークにおけるアナトリア半島農耕民関連祖先系統の最初の出現から草原地帯関連祖先系統の最初の出現までの期間は、876~1100年間(95%の確率)と推定され、アナトリア半島農耕民関連祖先系統が優勢だったのは50世代未満だった、と示唆されます。
デンマークにおけるその後の後期新石器時代の「短剣」期(4300~3700年前頃)は、文化的および遺伝的に異なる集団の統合時期として説明されてきました。青銅が武器の局所的生産において優勢になった一方で、燧石で優雅に表面が剥離された短剣は依然として、優勢な男性の副葬品でした。SGC期とは異なり、この期間はヒトの骨格資料が豊富です。広範な人口集団のゲノム痕跡はLNBAにおける遺伝的安定性を示唆しますが(図1および図3)、デンマークおよびスウェーデン南部のLNBAの38個体の時間横断区における対でのIBD共有とY染色体ハプログループ(YHg)分布のパターンは、約1000年間の範囲における少なくとも3つの異なる祖先系統段階を示唆します。
4600~4300年前頃となるLNBA第1段階では、スカンジナビア半島の個体群はヨーロッパ東部の初期CWC個体群とクラスタ化し、草原地帯関連祖先系統が豊富で、男性のYHgはR1aです。考古学的に、これらの個体はデンマークのSGCおよびスウェーデンの戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)の後半段階と関連しています。
短剣期(4300~3700年前頃)とほぼ一致する中間期となるLNBA第2段階では、デンマークの個体群は、YHg-R1b1a1b1a(L51)の独特な会計を有する男性が優勢な、ヨーロッパ中央部および西部のLNBAとクラスタ化します。その中には、ボレビー(Borreby)遺跡の2個体(NEO735とNEO737)やマデソ(Madesø)遺跡の1個体(NEO752)が含まれます。
4000年前頃以降となる最終期のLNBA第3段階では、YHg-I1を有する男性の優勢な、スカンジナビア半島個体群の異なるクラスタが出現します。YHg-I1はスカンジナビア半島現代人では優勢なYHgの1系統で、その最初の出現はスウェーデン南部のファルシェーピング(Falköping)遺跡の4000年前頃の1個体(NEO220)で記録されています。YHg-I1の急速な頻度増加と関連するゲノム規模祖先系統は、スウェーデンのストロンチウム同位体データで見られるヒトの移動性増加と一致し、スカンジナビア半島の東方もしくは北東部地域からの人々の流入と、その頃にデンマーク東部でも導入された、スウェーデン南部における石棺埋葬の出現を示唆します。
教師有祖先系統モデル化においてLNBA第3段階のゲノム(スカンジナビア_4000年前_3000年前)を用いると、これらのゲノムはその後の鉄器時代およびヴァイキング時代のスカンジナビア半島個体群、および記録されてきたスカンジナビア半島もしくはゲルマン人との関連を有するヨーロッパの他の古代人集団(たとえば、アングロ・サクソン人やゴート人)にとって優勢な祖先系統供給源を形成する、と分かりました。デンマークの現代人2000個体をユーラシア古代人のPCAに投影すると、現代の個体群はLNBAとヴァイキング時代の個体群間の勾配で中間的空間を占めています(図4)。この結果から、現在の遺伝子プールの基礎はすでに3000年前頃のLNBA集団に存在したものの、デンマーク人口集団の遺伝的構造はその後の数千年間で継続的に再形成された、と示されます。以下は本論文の図4です。
●環境の影響
よく記録された2回の主要な人口入れ替わりは、景観復元演算法(landscape-reconstruction algorithm、略してLRA)を用いて復元された、シェラン(Zealand)島ホジュビド湖(Lake Højby)の高解像度の花粉図表から明らかなように、土地利用におけるかなりの変化を伴っていました。人口集団の祖先系統特性と土地利用との間の、直接的な同時代の関係が明らかにされました。中石器時代には、景観はシナノキ属(Tilia)やニレ属(Ulmus)やコナラ属(Quercus)やトネリコ属(Fraxinus)やハンノキ属(Alnus)など、原生林の木により占められていました。
新石器時代の開始期には原生林が減少し、FBC農耕民により伐採されました。カバノキ属(Betula)、続いてハシバミ属(Corylus)のような、より二次的で初期の相続される樹木が出現しましたが、森林と開けた土地との間の割合はほぼ変わらないままでした。5650年前頃以降、森林伐採が強化され、開けた草原の優占する景観がもたらされました。この開けた段階は短く、第二次の森林拡大が5500~5000年前頃まで再度起き、それはFBC期の後半に起きた森林伐採の別の事象まで続きました。本論文では、FBC期における農耕慣行は森林伐採とその後の森林再成長の繰り返しにより特徴づけられていた、と結論づけられます。
4600年前頃以後、この戦略はデンマークにおけるSGCの出現および草原地帯関連祖先系統の到来とともに変わりました。デンマーク西部(ユトランド半島)では、SGCの到来は、牧草地を生み出した恒久的で大規模な開けた景観により特徴づけられ、ここでは4600年前頃のデンマーク東部のホジュビ・ソー(Højby Sø)遺跡における草原と農耕地の類似した増加が観察されます(図3)。注目すべきことに、これは原生林、具体的にはシナノキ属やニレ属の増加を伴っており、恐らくは開けた牧草地帯と原生林への景観のより恒久的な分離の発達を反映しています。
●変化の原動力
本論文は、デンマークの中石器時代と新石器時代における、文化拡散と人口拡散両方の事例を論証してきました。中石器時代の物質文化における変化は、祖先系統における検出可能な水準での変化なしに出現しましたが、新石器時代における2回の文化的変化は、明らかに新たに到来した人々によって引き起こされました。したがって、人工遺物や記念碑を考古学的文化に分類することは遺伝学的に異なる人口集団を常に表しているわけではなく、先史時代の文化的変化の原因となるその根底にある機序は、各事例に基づいて調べられねばなりません。
新石器時代の農耕拡大がスカンジナビア半島南部への到来前に1000年間停止した理由は、謎のままです。農耕拡大の停止は、ひじょうに生産的な海洋および沿岸環境に起因する、中石器時代狩猟採集民の高い人口密度により複雑化したのかもしれません。さらに、デンマークのエルテベレ文化人口集団は、侵入者に対する領土防衛を可能とする、武力紛争に精通していたかもしれません。あるいは、6000年前頃の変化する気候条件が、農耕のさらに北方への拡大可能性を増加させたので原動力になった、と主張されてきましたが、他の研究はこの主張を確証していません。
後期新石器時代における第二の人口入れ替わりは、デンマークにおいて短期の3つの競合する文化複合をもたらし、つまりはFBCとPWCとSGCです。SGCは現在まで優勢な草原地帯関連祖先系統をもたらしました。これがデンマークと他地域の両方において暴力的な時代だった、という考古学的証拠があります(関連記事)。さらに、古代DNAの証拠から、ペストがこの期間に広がった、と論証されてきました(関連記事)。人口減少の他の指標、および5000年前頃以後の再植林とともに、ヨーロッパ中央部および北部の在来人口集団が草原地帯関連祖先系統を有する新参者の到来前に深刻な影響を受けたかもしれない、と示唆されます。これは、急速な人口入れ替わりと、本論文で観察された在来集団との限定的な混合を説明できるかもしれません。
デンマークの中石器時代と新石器時代の物質文化における2回の大きな変化には、さまざまな原動力と理由があったかもしれませんが、その結果は最終的に同じで、新たな人々が到来し、急速にその領域を継承しました。この到来とともに、局所的な景観は移民の生活様式および文化に適合するよう改変されました。これは人新世の特徴で、本論文では先史時代のデンマークにおいて高解像度で観察されました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
ゲノミクス:古代ヨーロッパ人のゲノムは現代人集団のゲノムをどのように形作ったのか
古代ユーラシア人集団のゲノム史を洞察するための手掛かりが、古代DNAの解析によって得られた。この知見を報告する4編の論文が、今週、Natureに掲載される。これらの論文に示された研究では、合わせて1600人以上の古代人の遺伝的データが解析され、過去約1万5000年にわたるヨーロッパの人類集団史に関する知見がもたらされた。
現代の西ユーラシア人集団の遺伝的多様性は、3つの主要な移住現象によって形作られたと考えられている。すなわち、約4万5000年前以降の狩猟採集民の到来、約1万1000年前以降の中東からの新石器時代の農耕民の拡大、そして約5000年前のポントスステップからのステップ牧畜民の到来である。狩猟採集から農耕への転換は、人類の歴史における重要な移行であるが、この移行期におけるヨーロッパとアジアの集団の構造と人口動態の変化に関する詳細な情報は少ない。
Morten Allentoft、Martin Sikora、Eske Willerslevらは1つ目の論文で、こうした過程を大陸横断的な規模で調べるため、ユーラシア大陸の北部と西部で見つかった、主に中石器時代と新石器時代の古代人317人のゲノムデータについて塩基配列を決定したことを報告している(中石器時代には、狩猟採集民と新石器時代の農耕民との間の空白を埋めるという意義がある)。また、今回の研究では、既存の1300人以上の古代人の遺伝子データも解析された。その結果、狩猟採集民から農耕民への移行の遺伝的影響に関して、黒海からバルト海まで伸びる非常に明確な「ゲノムの境界線」が存在することが明らかになった。この境界線の西側では、農耕の導入によって血統の変化を示す大規模な遺伝的変化が起こったが、これと同じ時期に、境界線の東側では、大きな変化は起こらなかった。著者らは、こうした違いが生じたのは境界線の東側の地域の気候条件が中東の農耕技術にあまり適していなかったためで、そのため狩猟採集社会が境界線の西側より約3000年長く続いた可能性があると指摘している。ステップ牧畜民の到来と拡大は、このゲノムの境界線の消失と関連している。
この他に、今週のNatureには、こうした遺伝的変化が現代のヨーロッパ人にどのような形で残っているかを調べた複数の論文(1つ目の論文と著者が重複している)が同時掲載される。2つ目の論文では、神経系の自己免疫疾患である多発性硬化症(MS)に対するヨーロッパ人の遺伝的リスクが高い原因が特定されたことが報告されている。この研究では、古代ゲノムのデータセットの一部と現代の英国在住のヨーロッパ系白人(自己申告による)約41万人のゲノムが比較され、現代のヨーロッパ人において、異なる古代ヨーロッパ人集団由来の遺伝物質が占める割合が定量化された。その結果、MSの遺伝的リスクはポントスステップの牧畜民の間で生じ、約5000年前にヨーロッパに持ち込まれ、これが記録のある移住現象と同時期であったことが明らかになった。また、この論文では、MSに関連した遺伝的バリアントが、感染症の有病率が増加していた時期に、ステップ牧畜民の生活習慣と環境に関連する免疫的優位性をもたらした可能性が示唆されている。
3つ目の論文では、古代の祖先集団の形質と現代人の形質の関連性がさらに指摘されている。例えば、糖尿病とアルツハイマー病のリスクに関連する遺伝的バリアントは、西欧の狩猟採集民の祖先集団に関連しており、北ヨーロッパ人と南ヨーロッパ人の身長差は、異なるステップ牧畜民の祖先集団に関連していることが明らかになった。また、4つ目の論文では、古代デンマークの集団を対象とした研究で、デンマークで発見された100体のヒトの骨格(中石器時代、新石器時代、青銅器時代前期の7300年間にわたる)のゲノム解析の結果が報告されている。この研究では、人口動態、文化、土地利用、食生活の変化のパターンが解明された。
以上の知見は、古代人集団における遺伝的選択と移住現象が、現代のヨーロッパ人に見られる多様な形質にどのように顕著な寄与をしたかを示している。
古代DNA:100例の古代ゲノムから明らかになった新石器時代のデンマークで繰り返された集団の入れ替わり
Cover Story:ステップ起源の変化:先史時代のユーラシアにおける移動と生活様式の変化が多発性硬化症の遺伝的リスクの上昇に関連している
今週号の4報の論文でE Willerslevたちは、古代ユーラシアから得られた遺伝学的データを用いて、先史時代の集団に対する大陸横断的な移動の影響を調べている。その結果、古代のステップ集団、農耕民集団、狩猟採集民集団の間の混合に由来すると思われる遺伝的な変化の一部が解き明かされた。特に、ステップ集団の移動が、おそらく狩猟採集から農耕と牧畜に集団が切り替わった際の病原体からの保護に伴う進化的圧力の結果として、ヨーロッパに多発性硬化症への遺伝的リスクの増大をもたらしたことが見いだされている。表紙は、ユーラシアステップの古代墓地で発見された典型的なクルガンの石碑のイラストを用いて、多発性硬化症のリスクとの遺伝的関連性に関わるイメージを表現している。
参考文献:
Allentoft ME. et al.(2024): 100 ancient genomes show repeated population turnovers in Neolithic Denmark. Nature, 625, 7994, 329–337.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-06862-3
●要約
完新世ユーラシアにおける大きな移動事象は、広範な地理的規模で特徴づけられてきました。しかし、接触地帯における人口動態への洞察は、高い時空間的解像度で標本抽出された古代ゲノムデータの欠如により妨げられています。本論文はこの問題に取り組むため、デンマークにおける中石器時代と新石器時代と前期青銅器時代の7300年間にわたる100点の骨格から得られたショットガン配列決定されたゲノムを分析し、これらのデータを食性(炭素13窒素15)や移動性(ストロンチウム87/86比)や植生被覆率(花粉)の代理指標と統合しました。
マグレモーゼ(Maglemose)文化やコンゲモーゼ(Kongemose)やエルテベレ(Ertebølle)文化のデンマークの中石器時代の個体群は、他のヨーロッパ西部狩猟採集民(Western European hunter-gatherers、略してWHG)と関連する単一の独特な遺伝的クラスタ(まとまり)を形成する、と観察されます。物質文化の変化にも関わらず、デンマークの中石器時代個体群は、アナトリア半島由来の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有する農耕民が到来した、較正年代で10500~5900年前頃にかけて遺伝的均一性を示しました。新石器時代への移行はヨーロッパ中央部と比較して1000年以上遅れましたが、ひじょうに急激で、在来の狩猟採集民からの限定的な遺伝的寄与のある人口の入れ替わりをもたらしました。
漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRBもしくはFBC)と関連するその後の新石器時代人口集団は、東方の草原地帯由来の祖先系統が到来する前の約1000年間のみ存続しました。この第二の同様に急速な人口置換により、現在のデンマーク人とより類似した祖先系統特性を有する単葬墓文化(Single Grave Culture、略してSGC)が生まれました。本論文の多指標データセットでは、これらの主要な人口統計学的事象が、遺伝子型と表現型と食性と土地利用における並行的な移行として証明されています。
●研究史
スカンジナビア半島南部における中石器時代と新石器時代は、多くの重要でよく説明されている文化的移行により特徴づけられています。しかし、これらの事象の遺伝学的および人口統計学的影響はほぼ明らかにされていないままです。スカンジナビア半島(スウェーデンとノルウェー)の氷期後初期のヒトの入植は、少なくとも2回の異なる移住の波を構成する、と考えられています。一方は、南方からのWHGと関連する供給源、もう一方は、さらに北方へのヨーロッパ東部狩猟採集民(eastern European hunter-gatherer、略してEHG)供給源で、それはこの集団がノルウェーの大西洋岸に沿って南進する前のことでした(関連記事1および関連記事2)。しかし、スカンジナビア半島中石器時代人口集団の詳細な構造と移動性への洞察は限定的で、デンマークのマグレモーゼ文化やコンゲモーゼ文化やエルテベレ文化と関連するスカンジナビア半島南部の人口集団の遺伝的データはほぼ完全に欠如しています。
新石器時代への移行はヨーロッパ先史時代における分水嶺を表しており、アジア南西部からの栽培化された作物と家畜の11000年前頃に始まる拡大により特徴づけられます。この移行と関連している移動と人口の入れ替わりは広範な地理的および年代的規模で論証されてきましたが(関連記事1および関連記事2)、粗い標本抽出と遺伝学への一方的な焦点は、在来民と新参者との間の接触地帯における社会的な相互作用と詳細な人口統計学的過程に関する洞察を妨げてきました。
スカンジナビア半島南部は、この議論において謎めいた位置を占めています。新石器時代への移行はスカンジナビア半島南部ではヨーロッパ中央部と比較して1000年遅れており、この期間に狩猟採集民社会は較正年代で5900年前頃まで反映し続け、南方への農耕民人口集団による影響はわずかでした。かなりの遅れから、デンマークにおける農耕への移行は、ヨーロッパの他地域で観察された人々の移住(人口拡散)より強い文化的拡散の要素を含む異なる機序により起きた、と提案できます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。
広範な考古学的記録から、FBCはデンマークにおいて新石器時代の最初の1000年間存続し、それは明らかな衰退に続いてSGCが出現する前だった、と示唆されてきました。遺伝的データおよび堅牢な絶対年代の欠如のため、FBCとSGCとの間の関係は広く議論されてきました。新石器時代デンマークにおけるこの第二の文化的移行と関連する人口動態は同様に未解決で、それには同じ頃にヨーロッパの他地域の遺伝子プールを変容させた「草原地帯からの移住」(関連記事)とのつながりの可能性が含まれます。
これら決定的な事象を高い時空間的解像度で調べるため、デンマークの古代人100個体のショットガン配列決定されたゲノム(常染色体網羅率は0.01~7.1倍)の詳細で連続的なデータセットが分析され、その年代は前期中石器時代のマグレモーゼ文化、コンゲモーゼ文化および後期中石器時代のエルテベレ文化期、前期および中期新石器時代のFBCおよびSGCから、青銅器時代までの7300年間にまたがります(図1)。以下は本論文の図1です。
デンマークの考古学的記録は、広範な年代と地形と社会文化的状況から得られたねよく記載された中石器時代および新石器時代の骨格遺骸の大規模な収集を表しています。これは、骨格遺骸の地形的に好適な保存条件および考古学的研究の長くて豊かな歴史と組み合わさった、中石器時代の漁撈狩猟採集生活様式とその後の新石器時代の農耕実践の両方に適した環境と気候の結果です。本論文は、Y染色体ハプログループ(YHg)およびミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とともに常染色体の補完されたゲノム(関連記事)、遺伝学的な表現型予測、移動性や食性の代理としてストロンチウム(Sr)の同位体比(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)や炭素(C)の同位体(δ¹³C)や窒素(N)の同位体(δ¹⁵N)を組み合わせる、多代理手法を用いました。さらに、人口統計学的過程と環境過程との間の直接的つながりを調べるため、デンマークの人口集団において経時的に観察された遺伝学的変化を、花粉分析および定量的な植生被覆再構築に基づく局所的な植生と照合させました。
●中石器時代
スカンジナビア半島南部の物質文化における移行が、人口の連続性で起きたのか、あるいは流入移民により促進されたのか、不明です。デンマークの前期中石器時代集落は、幾何学的形状の小さな燧石製投擲具により考古学的に特徴づけられるマグレモーゼ文化(11000~8400年前頃)と関連しています。水中考古学の最近の発展まで、この文化はおもに湖や河川沿いの内陸部の場所で知られていました。その後に続いたコンゲモーゼ文化(8400~7400年前頃)期には、空中ブランコ型の燧石製尖頭器が高品質な長い石刃とともに鏃群では優勢でした。より大きな集落は海岸沿いの好適な漁場に集まっていますが、内陸部には特化した狩猟野営地もあります。後期中石器時代のエルテベレ文化(7400~5900年前頃)は、横方向の刃を有する燧石製尖頭器により特徴づけられます。土器は他の狩猟採集民集団から東方へと、および恐らくは南西へともたらされ(関連記事)、「外来」の柄孔斧はバルト海地域の南側の農耕民社会との交流を示唆しています。海岸沿いに密に点在するより大きな居住地遺跡はおそらく複数の家族と1年中の居住を表しており、この期間の形質人類学および精神文化への重要な洞察を提供します。
デンマークの狩猟採集民38個体のゲノム解析とその祖先系統の推測により、デンマークの考古学的記録で観察された文化的移行が人口集団における遺伝的変化と関連しているのかどうか、調べられます。もでるに基づくクラスタ化(ADMIXTURE)と主成分分析(principal component analysis、略してPCA)と同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)共有分析から、マグレモーゼ文化(4点)とコンゲモーゼ文化(8点)とエルテベレ文化(27点)の期間を通じて、現在のデンマーク地域は4500年間の横断区にわたって顕著な遺伝的均一性を示す(図1~図3)、と示され、一部の考古学者により支持されている人口統計学的連続性との解釈が裏づけられます。デンマークの最初の既知の骨格である「コエルブジェルグ(Koelbjerg)人」と呼ばれている個体(10648~10282年前頃のNEO254)から、本論文で含まれ目最新の中石器時代骨格である「ロドハルス(Rødhals)人」と呼ばれている個体(5916~5795年前頃のNEO645)まで、デンマークの中石器時代個体群の祖先系統はほぼ排他的に、中石器時代ヨーロッパ西部におけるWHG祖先系統で優勢だった同じヨーロッパ南部の供給源(イタリア_15000年前_9000年前)に由来します(関連記事)。
IBDに基づくPCAでは、デンマークの中石器時代個体群は共に密接にクラスタ化しましたが(まとまりましたが)、この緊密な局所的遺伝的つながりを超えて、最新の祖先系統をヨーロッパ西部の地理的および時間的に近い狩猟採集民個体群と共有しており、たとえばブリテン島のチェダー人(Cheddar Man)やルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡個体やフランスのビション(Bichon)遺跡個体で、これらの個体は一般的にWHGと呼ばれる遺伝的クラスタ(ヨーロッパW_135000年前_8000年前)です(図2)。最初期のデンマークの個体群のこれら西方個体群への微妙な移動はおそらく、IBD共有を通じて獲得されたより密接な時間的近さを反映しています。
マグレモーゼ文化における石刃の押圧削片群とエルテベレ文化における土器は両方とも東方起源と主張されてきましたが、本論文のデータはそれらの期間におけるより東方の狩猟採集民との混合の証拠を示しません。これは、デンマークにおけるこれらの導入の供給源として文化拡散を示しています。D統計で検証すると、全てのデンマークの中石器時代個体は、スウェーデンとの近さにも関わらず、スウェーデンの中石器時代狩猟採集民(スウェーデン_10000年前_7500年前)を除いて最古の個体(NEO254)とクレード(単系統群)を形成します。しかし、EHGとの遺伝子流動の弱い兆候がデンマークの中石器時代横断区全体で共有されており、中石器時代の前もしくは中石器時代の最初期におけるデンマークへの拡大に先行する、さらに東方の共同体との接触が示唆されます。以下は本論文の図2です。
遺伝学的表現型予測は、中石器時代を通じて青い目の色素沈着の高い確率を示唆しており、これは以前の調査結果と一致し、この特徴が初期中石器時代にはすでに存在していたものの、人口集団では固定されていなかった、と示されます。デンマークの中石器時代狩猟採集民はすべて、高い確率の茶色もしくは黒色の髪を示し、身長予測は一般的に、その後の新石器時代よりもわずかに低いおよび/もしくは変動が少ないことを示唆しています。しかし要注意なのは、ゲノム規模関連研究(genome-wide association studies、略してGWAS)パネルに含まれる現代の個体群との比較的大きな遺伝的距離のため、より最近の集団とよりも中石器時代の個体群の方と当てはまらない得点が生成される、ということです(関連記事)。
コラーゲンにおける安定同位体δ¹³C値が海洋と陸生に由来するタンパク質の割合について情報をもたらすことができるのに対して、δ¹⁵N値はタンパク質供給源の栄養水準を反映しています。最古の骨格(NEO254)は食性同位体値の減少を示しており(図3)、前期中石器時代の内陸部狩猟採集民の生活様式を表しています。この結果は、デンマークの2番目に古い既知の骨格、つまりトメルプガーヅ・モーズ(Tømmerupgårds Mose)遺跡の個体で反映されています。
その後のマグレモーゼ文化期(9500年前頃)からコンゲモーゼおよびエルテベレ文化期を通じて、δ¹³C値とδ¹⁵N値の漸進的増加が観察されます。これは、デンマークの海岸と内陸部両方の30個体以上の中石器時代のヒトとイヌから得られたデータに基づいて以前に提案されたように、海洋性食料がタンパク質の主要な供給源を構成するようになっていったことを示唆しています。この期間には、世界規模の海水面増加が次第に現在のデンマークを列島へと変容させ、そこでは全てのヒト集団がその年間の領域内で沿岸資源を広く利用できました。
在来の中石器時代人口集団はその食性と文化を変化する景観へと経時的に適応させ、本論文のデータから、これが連続的な人口集団で起き、4500年以上の期間にわたって移民の検出可能な流入はなかった、と示されます。中石器時代を通じての⁸⁷Sr/⁸⁶Sr同位体比の低い変動(図3)は、限定的な長距離移動および/もしくはその後の新石器時代よりも均質な環境(たとえば、海洋)に食資源が由来することを示唆しているかもしれません。以下は本論文の図3です。
注目すべきことに、デンマークの中石器時代個体の一部は近い親族関係にある、と証明されました(関連記事)。近い親族関係は、エルテベレ文化の標準的な貝塚遺跡で相互に隣り合って埋葬されている父親と息子の2個体(NEO568とNEO569)の事例と、ドラッグショルム(Dragsholm)遺跡でともに埋葬されている、母親と娘の2個体(NEO732とNEO733)の事例で論証されています。エルテベレ文化の墓はデンマークにおいて最初の発見された骨格で(1890年代の発掘)で、議論の余地なく狩猟採集民を表しています。この遺跡の発掘後に、スカンジナビア半島の初期先史時代に関する聖書の物語に由来する学界の推論は、勢いを失いました。発掘データから、これらの個体が同時に埋葬されたのかどうか、明らかにはできず、確証できるのは、少年(2歳未満の乳児)がその父親(エルテベレ人)から1m未満に位置していたことだけです。
1973年のドラッグショルム遺跡における発掘は、中石器時代の女性2個体および副葬品のある男性1個体の墓を含む、よく保存された二重埋葬を明らかにしており、副葬品のある男性1個体については前期新石器時代と示唆されています。形質人類学的観察に基づいて、近い親族関係がドラッグショルム遺跡の女性2個体について示唆されていました。この女性2個体は姉妹と示唆されていましたが。これは今では母親と娘の共同埋葬と訂正できます。本論文のデータから、隣接する埋葬の男性(ドラッグショルム人、NEO962)はこの女性2個体と親族関係になかったことも示されます。これらの事例から、近い生物学的親族関係はヨーロッパ北部では後期新石器時代集団と社会的に関連しており、その社会の死者の葬儀の扱いに影響した、と示されます。
●前期新石器時代への移行
デンマークにおける新石器時代のFBC(漏斗状ビーカー文化)の出現は、考古学的研究と過去175年間の議論において中心的位置を占めてきました。新石器時代の定義要素であるアジア南西部起源の栽培化および家畜化に基づく食料生産経済は、デンマークにおいて5900年前頃以降確実に存在していました。新石器化ではデンマークの物質文化にもたらされた新たな形状と種類の急発展が見られ、漏斗状のビーカーや燧石の磨製斧が含まれます。5800年前頃以降、木と土の記念碑的な塚がその文化目録に追加され、その約200年後、隆起した石に囲まれ、石室を含む土で作られた埋葬が、農地における主要な陸標として建設されました。
5300年前頃以後、巨大土製古墳におけるより大きくてより複雑な石で作られた羨道墓が出現しました。一方で、単儒で記念碑的ではない埋葬がFBC期全体を通じて巨石墓とともに続きました。多くの中石器時代エルテベレ文化の沿岸部の貝塚の上に位置する新石器時代の最初の数世紀と年代測定された居住堆積物は、海洋での採集と漁撈の局所的な存続と解釈できるかもしれません。対照的に、さらに内陸の農耕が容易な土壌に建てられた秩序だった長い家屋を有する他の集落は、それ以前の中石器時代のエルテベレ文化期とはひじょうに明確な区別を示唆する、栽培化植物および家畜化動物の遺骸と関連しています。
これらの微妙な差異に関わらず、5900年前頃には、本論文の多代理データセットは、遺伝学と表現型と食性と植生の媒介変数における顕著で急激な同時の変化を記録します(図3)。これは人口拡散の堅牢な証拠で、長年の議論を解決します。ヨーロッパの他地域で観察されているように(関連記事)、デンマークにおける農耕の導入はアナトリア半島農耕民関連祖先系統を有する人々の到来と明らかに関連していました。これは、在来の狩猟採集民からの限定的な遺伝的寄与を伴う人口置換をもたらしました。本論文のデンマークのデータセットにおけるこの典型的な新石器時代祖先系統の最古の事例は、5896~5718年前頃(95%の確率)となるヴィクソ・モーズ(Viksø Mose)遺跡で発見された女性1個体(NEO601)の湿原骨格で観察されます。
PCAでは、全てのデンマーク前期新石器時代個体はヨーロッパ新石器時代農耕民勾配の「後期」の端でクラスタ化し(まとまり)、含まれる全てのヨーロッパ新石器時代農耕民のゲノムにおいて、狩猟採集民祖先系統の最大量の一部(10~35%)を一貫して示します(図1および図3)。IBDクラスタ化分析では、デンマークの個体群はスウェーデンとポーランドのFBC関連個体群とともに遺伝的クラスタ(スカンジナビア_5600年前_4600年前)の一部を形成し、球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)のポーランドの個体群との密接な類似性も示します。これは、デンマークにおける前期新石器時代農耕民のヨーロッパ東部に近い起源を示唆しているかもしれません。
より近似的な祖先系統モデル化を用いると、デンマークとスウェーデンとポーランド全域の新石器時代のFBC関連個体群の狩猟採集民祖先系統構成要素はおもにWHGと関連する1供給源(ヨーロッパW_135000年前_8000年前)に由来する、と分かりました。デンマーク中石器時代狩猟採集民と関連する祖先系統(デンマーク_10500年前_6000年前)は、より低い割合(約10%未満)で、デンマークのFBC個体群の部分集合においてのみ見つかりました。さらに、これは5400年前頃以降とより新しい個体群で見られる傾向にあり、これらの個体群は、たとえば個体NEO945やNEO886などで、狩猟採集民祖先系統の合計の全体的な最大量も示しています(図3)。
DATESを用いると、デンマーク新石器時代個体群の大きな割合、とくに最初期の個体群についての混合年代は、デンマークにFBCが出現した5900年前頃に先行する、と分かりました。より新しい混合年代(デンマークにおけるFBCの到来後)はおもに5400年前頃以後の個体群で観察され、全体的なより高い割合の狩猟採集民の割合と関連しています。これらの観察は、混合年代と狩猟採集民祖先系統が経時的に変化せず、在来の狩猟採集民との混合が検出されなかったスウェーデンのFBC関連個体群とは著しく対照的です。
本論文の結果は、アナトリア半島新石器時代農耕民祖先系統と在来ではない狩猟採集民祖先系統を有する到来者による、新石器化の開始におけるデンマークでの人口入れ替わりを論証します。在来のデンマーク狩猟採集民と関連する祖先系統は、デンマーク新石器時代の遺伝子プールにおいて後期でのみ検出でき、セルビアの鉄門(Iron Gates)遺跡やヨーロッパ中央部(関連記事)やスペイン(関連記事)など他のヨーロッパ地域でも記録されているように、後期の存続していた狩猟採集民の集団との遺伝子流動が示唆されます。
中石器時代のエルテベレ文化人口集団がどのように消滅したのかは、分かりません。その一部は短期間存在した小さな「孤立地帯」で孤立した、および/もしくは新石器時代の生活様式に適応したのかもしれません。狩猟採集民祖先系統を有する本論文のデンマークのデータセットで最新の個体は上述のドラッグショルム人(NEO962)で、年代は5947~5664年前頃(95%信頼区間)となり、考古学的にはその副葬品に基づいてFBCに分類されています。本論文のデータは、文化的類似性と一致するものの、その狩猟採集民祖先系統とは対照的となる、典型的な新石器時代の食性を確証します。この男性個体(NEO962)は短い中石器時代から新石器時代への移行期に暮らしており、移住してきた農耕民の文化と食性を採用した、中石器時代祖先系統の局所的1個体を表しています。
デンマークにおける後期の狩猟採集民祖先系統の類似の事例は、5858~5661(95%信頼区間)年前頃となるデンマークのロラン島のシルソルム(Syltholm)遺跡で発見された噛まれたカバノキの樹脂片から得られたヒトDNAの分析のさいに観察されました(関連記事)。したがって、狩猟採集民祖先系統を有する個体群はデンマークにおいて農耕集団の到来後数十年および恐らくは数世紀存続していましたが、その後の数世紀の人口集団にはわずかなゲノム痕跡しか残していません。同様の「遺物」的な狩猟採集民祖先系統は、5913~5731年前頃となる、スウェーデン西岸のエヴェンサス(Evensås)遺跡個体(NEO260)でも見つかっています(関連記事)。
デンマークにおける新石器時代の開始以降、約−20‰のδ¹³C値と約10‰のδ¹⁵N値により証明されているように、食性は陸生起源の優勢へと急激に移行しました(図3)。考古学的証拠と一致して、これらの同位体データから、栽培化された作物と家畜化された動物がこの時点以降にタンパク質の主要な供給を提供した、と示されます。同位体値はその後の期間を通じてこれらの水準で安定したままでしたが、4500年前頃以後に幾分差異がより大きくなりました(図3)。新石器時代と前期青銅器時代の5個体のδ¹³C値とδ¹⁵N値から、高栄養性の海洋食物をかなり摂取していた、と示唆されます。これはとくに、スヴィニンゲ・ヴァイレ(Svinninge Vejle)遺跡の1個体(NEO898)について顕著で、NEO898はスウェーデンの後期狩猟採集民と関連する祖先系統を示すデンマーク新石器時代の2個体のうち1個体です(後述)。
新石器時代の開始とともに、個々の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値におけるかなりの変動を見ることができます。これはその後の期間において継続し、標本抽出の偏りによって容易には説明できません。それは、本論文の標本のほとんどが、祖先系統と期間に関わらず、骨の保存状態が一般的に良好なデンマークのより東方地域に集中しているからです(図1)。このパターンから、デンマークの新石器時代農耕民はより多様な景観からの食料を占めていた、および/もしくは消費していたか、あるいは先行する狩猟採集民よりも遊動的だった、と示唆できます。新石器時代への移行は、明るい髪の色素沈着と関連する主要な影響アレル(対立遺伝子)のかなりの上昇も示していますが、新石器時代の最初の千年紀(FBC期)を通じての予測はほぼ、現在より低い身長を示唆しており、以前の調査結果を繰り返します。
円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)はスカンジナビア半島とスウェーデン本土東側のバルト海諸島に起源がありますが、デンマークではその北部と東部において5100~4700年前頃に出現し、FBCと共存しました。PWCは窪みで装飾されることの多い粗い土器と、海洋種および農産物の組み合わせに基づく生計により特徴づけられます。PWCと関連する埋葬は、デンマークでは発見されてきませんでした。しかし、注目すべきことに、デンマークの湿地堆積物で発見された5200年前頃の男性2個体(NEO33とNEO898)のゲノムは、スウェーデンのゴットランド島のバルト海の島のアジュヴィーデ(Ajvide)遺跡のPWC個体群(関連記事)と関連する狩猟採集民祖先系統と証明されました。この2個体(NEO33とNEO898)のうち、ユトランド島北部のヴィトラップ(Vittrup)遺跡で発見されたNEO33も、外れ値のストロンチウム痕跡を示しており(図3)、恐らくはその異常な祖先系統と一致する外来起源を示唆します。全体的に本論文の結果は、この期間におけるデンマークとスカンジナビア半島との間の海を越えた直接的な接触を論証し、それは考古学的調査結果と一致します。
●後期新石器時代と青銅器時代
ヨーロッパは5000~4800年前頃に、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの大規模な移住により変容しました。これは、1000年以内にヨーロッパ大陸のほとんどに草原地帯関連祖先系統をもたらし、縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)複合が出現しました。デンマークでは、これはFBCからSGCへの移行と一致しており、SGCはCWC複合の地域的な現れです。円墳での単葬墓への移行は考古学的には二つの拡大段階により特徴づけられ、一方は4800年前頃に始まるユトランド半島(デンマーク西部)の中央部と西部と北部の第一の急速な占拠で、もう一方は4600年前頃に始まるデンマーク東部諸島全域におけるその後のより遅い拡大です。デンマークの東部では、SGCの特徴はあまり見られませんが、巨石墓玄室での埋葬などFBC伝統は存続しました。この文化的変化は、別の古典的な考古学的な謎を表しており、移民を支持する説明と文化的変容を支持する説明が何世代にもわたって競合しています。
数点の網羅率の低いゲノムから得られた洞察(関連記事)はじっさい、草原地帯からの拡大とのつながりを示してきましたが、古代人100個体のゲノムにおける祖先系統構成要素の図示により、今ではこま事象の完全な影響が解明され、デンマークにおける第二のほぼ完全に近い人口入れ替わりが論証されます。この遺伝的変化はPCAとADMIXTURE分析から明らかで、そうした分析では、SGCと後期新石器時代および前期青銅器時代(Late Neolithic and Early Bronze Age、略してLNBA)のデンマークの個体群は他のヨーロッパLNBA個体群とクラスタ化し、草原地帯から拡散したヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と関連する祖先系統構成要素を高い割合で示します(図1および図3)。草原地帯集団(草原地帯_5000年前_4300年前)と関連する祖先系統の割合は60~85%と推定され、残りはヨーロッパ東部GAC(ポーランド_5000年前_4700年前)と関連する農耕民関連祖先系統を要する個体群と、それより少ない割合(3~18%)の、在来の新石器時代スカンジナビア半島農耕民(スカンジナビア_5600年前_4600年前)からの祖先系統です。
SGCの出現はデンマークの人々の遺伝子プールにおいて大きな新しい祖先系統構成要素をもたらしましたが、それは食性の同位体比もしくはストロンチウム同位体比における明らかに変化を伴っていませんでした(図3)。しかし、本論文の複雑な形質予測は身長の上昇を示唆しており(図3)、これは、古代の草原地帯個体群が、草原地帯からの移住前の平均的なヨーロッパ新石器時代個体群よりも身長が高いと予測されていたことと一致します。
デンマーク西部のほとんどでは保存状態が悪いため、SGCの最初期段階(4800年前頃)の骨格はないので、これらの人々が草原地帯祖先系統を有していた、と明確には証明できません。SGCの埋葬慣行はユトランド半島の南部とGAC関連の北部ではそれぞれ異なる方法で実行されており、他地域の遺伝学的結果を考えると、異なる人口統計学的過程がデンマーク内で展開されたことは妥当です。しかし、草原地帯祖先系統はゲアイル(Gjerrild)遺跡の墓から発見されたSGC関連骨格において200年後に存在していた、と分かっています(関連記事)。ゲアイル遺跡骨格の年代(4600年前頃以降)は、ネス(Næs)遺跡の巨石墓で発見された骨格1点(NEO792)で特定された、本論文における草原地帯関連祖先系統の最古の事例と一致します。この個体(NEO792)では約85%の草原地帯関連祖先系統が推定され、全てのデンマークLNBA個体では最高量となります。
注目すべきことに、NEO792は、草原地帯関連祖先系統を有さずアナトリア半島農耕民関連祖先系統を示す本論文のデータセットにおける最新の2個体、つまりクロッケヘジュ(Klokkehøj)遺跡のNEO580およびステンダーアップ・ヘージ(Stenderup Hage)遺跡のNEO943とも同年代で、FBC消滅前の短期間の祖先系統共存を証明しており、これはその1000年ほど前の狩猟採集民祖先系統の中石器時代エルテベレ文化の人々の消滅と類似しています。ベイズモデル化を用いると、デンマークにおけるアナトリア半島農耕民関連祖先系統の最初の出現から草原地帯関連祖先系統の最初の出現までの期間は、876~1100年間(95%の確率)と推定され、アナトリア半島農耕民関連祖先系統が優勢だったのは50世代未満だった、と示唆されます。
デンマークにおけるその後の後期新石器時代の「短剣」期(4300~3700年前頃)は、文化的および遺伝的に異なる集団の統合時期として説明されてきました。青銅が武器の局所的生産において優勢になった一方で、燧石で優雅に表面が剥離された短剣は依然として、優勢な男性の副葬品でした。SGC期とは異なり、この期間はヒトの骨格資料が豊富です。広範な人口集団のゲノム痕跡はLNBAにおける遺伝的安定性を示唆しますが(図1および図3)、デンマークおよびスウェーデン南部のLNBAの38個体の時間横断区における対でのIBD共有とY染色体ハプログループ(YHg)分布のパターンは、約1000年間の範囲における少なくとも3つの異なる祖先系統段階を示唆します。
4600~4300年前頃となるLNBA第1段階では、スカンジナビア半島の個体群はヨーロッパ東部の初期CWC個体群とクラスタ化し、草原地帯関連祖先系統が豊富で、男性のYHgはR1aです。考古学的に、これらの個体はデンマークのSGCおよびスウェーデンの戦斧文化(Battle Axe Culture、略してBAC)の後半段階と関連しています。
短剣期(4300~3700年前頃)とほぼ一致する中間期となるLNBA第2段階では、デンマークの個体群は、YHg-R1b1a1b1a(L51)の独特な会計を有する男性が優勢な、ヨーロッパ中央部および西部のLNBAとクラスタ化します。その中には、ボレビー(Borreby)遺跡の2個体(NEO735とNEO737)やマデソ(Madesø)遺跡の1個体(NEO752)が含まれます。
4000年前頃以降となる最終期のLNBA第3段階では、YHg-I1を有する男性の優勢な、スカンジナビア半島個体群の異なるクラスタが出現します。YHg-I1はスカンジナビア半島現代人では優勢なYHgの1系統で、その最初の出現はスウェーデン南部のファルシェーピング(Falköping)遺跡の4000年前頃の1個体(NEO220)で記録されています。YHg-I1の急速な頻度増加と関連するゲノム規模祖先系統は、スウェーデンのストロンチウム同位体データで見られるヒトの移動性増加と一致し、スカンジナビア半島の東方もしくは北東部地域からの人々の流入と、その頃にデンマーク東部でも導入された、スウェーデン南部における石棺埋葬の出現を示唆します。
教師有祖先系統モデル化においてLNBA第3段階のゲノム(スカンジナビア_4000年前_3000年前)を用いると、これらのゲノムはその後の鉄器時代およびヴァイキング時代のスカンジナビア半島個体群、および記録されてきたスカンジナビア半島もしくはゲルマン人との関連を有するヨーロッパの他の古代人集団(たとえば、アングロ・サクソン人やゴート人)にとって優勢な祖先系統供給源を形成する、と分かりました。デンマークの現代人2000個体をユーラシア古代人のPCAに投影すると、現代の個体群はLNBAとヴァイキング時代の個体群間の勾配で中間的空間を占めています(図4)。この結果から、現在の遺伝子プールの基礎はすでに3000年前頃のLNBA集団に存在したものの、デンマーク人口集団の遺伝的構造はその後の数千年間で継続的に再形成された、と示されます。以下は本論文の図4です。
●環境の影響
よく記録された2回の主要な人口入れ替わりは、景観復元演算法(landscape-reconstruction algorithm、略してLRA)を用いて復元された、シェラン(Zealand)島ホジュビド湖(Lake Højby)の高解像度の花粉図表から明らかなように、土地利用におけるかなりの変化を伴っていました。人口集団の祖先系統特性と土地利用との間の、直接的な同時代の関係が明らかにされました。中石器時代には、景観はシナノキ属(Tilia)やニレ属(Ulmus)やコナラ属(Quercus)やトネリコ属(Fraxinus)やハンノキ属(Alnus)など、原生林の木により占められていました。
新石器時代の開始期には原生林が減少し、FBC農耕民により伐採されました。カバノキ属(Betula)、続いてハシバミ属(Corylus)のような、より二次的で初期の相続される樹木が出現しましたが、森林と開けた土地との間の割合はほぼ変わらないままでした。5650年前頃以降、森林伐採が強化され、開けた草原の優占する景観がもたらされました。この開けた段階は短く、第二次の森林拡大が5500~5000年前頃まで再度起き、それはFBC期の後半に起きた森林伐採の別の事象まで続きました。本論文では、FBC期における農耕慣行は森林伐採とその後の森林再成長の繰り返しにより特徴づけられていた、と結論づけられます。
4600年前頃以後、この戦略はデンマークにおけるSGCの出現および草原地帯関連祖先系統の到来とともに変わりました。デンマーク西部(ユトランド半島)では、SGCの到来は、牧草地を生み出した恒久的で大規模な開けた景観により特徴づけられ、ここでは4600年前頃のデンマーク東部のホジュビ・ソー(Højby Sø)遺跡における草原と農耕地の類似した増加が観察されます(図3)。注目すべきことに、これは原生林、具体的にはシナノキ属やニレ属の増加を伴っており、恐らくは開けた牧草地帯と原生林への景観のより恒久的な分離の発達を反映しています。
●変化の原動力
本論文は、デンマークの中石器時代と新石器時代における、文化拡散と人口拡散両方の事例を論証してきました。中石器時代の物質文化における変化は、祖先系統における検出可能な水準での変化なしに出現しましたが、新石器時代における2回の文化的変化は、明らかに新たに到来した人々によって引き起こされました。したがって、人工遺物や記念碑を考古学的文化に分類することは遺伝学的に異なる人口集団を常に表しているわけではなく、先史時代の文化的変化の原因となるその根底にある機序は、各事例に基づいて調べられねばなりません。
新石器時代の農耕拡大がスカンジナビア半島南部への到来前に1000年間停止した理由は、謎のままです。農耕拡大の停止は、ひじょうに生産的な海洋および沿岸環境に起因する、中石器時代狩猟採集民の高い人口密度により複雑化したのかもしれません。さらに、デンマークのエルテベレ文化人口集団は、侵入者に対する領土防衛を可能とする、武力紛争に精通していたかもしれません。あるいは、6000年前頃の変化する気候条件が、農耕のさらに北方への拡大可能性を増加させたので原動力になった、と主張されてきましたが、他の研究はこの主張を確証していません。
後期新石器時代における第二の人口入れ替わりは、デンマークにおいて短期の3つの競合する文化複合をもたらし、つまりはFBCとPWCとSGCです。SGCは現在まで優勢な草原地帯関連祖先系統をもたらしました。これがデンマークと他地域の両方において暴力的な時代だった、という考古学的証拠があります(関連記事)。さらに、古代DNAの証拠から、ペストがこの期間に広がった、と論証されてきました(関連記事)。人口減少の他の指標、および5000年前頃以後の再植林とともに、ヨーロッパ中央部および北部の在来人口集団が草原地帯関連祖先系統を有する新参者の到来前に深刻な影響を受けたかもしれない、と示唆されます。これは、急速な人口入れ替わりと、本論文で観察された在来集団との限定的な混合を説明できるかもしれません。
デンマークの中石器時代と新石器時代の物質文化における2回の大きな変化には、さまざまな原動力と理由があったかもしれませんが、その結果は最終的に同じで、新たな人々が到来し、急速にその領域を継承しました。この到来とともに、局所的な景観は移民の生活様式および文化に適合するよう改変されました。これは人新世の特徴で、本論文では先史時代のデンマークにおいて高解像度で観察されました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
ゲノミクス:古代ヨーロッパ人のゲノムは現代人集団のゲノムをどのように形作ったのか
古代ユーラシア人集団のゲノム史を洞察するための手掛かりが、古代DNAの解析によって得られた。この知見を報告する4編の論文が、今週、Natureに掲載される。これらの論文に示された研究では、合わせて1600人以上の古代人の遺伝的データが解析され、過去約1万5000年にわたるヨーロッパの人類集団史に関する知見がもたらされた。
現代の西ユーラシア人集団の遺伝的多様性は、3つの主要な移住現象によって形作られたと考えられている。すなわち、約4万5000年前以降の狩猟採集民の到来、約1万1000年前以降の中東からの新石器時代の農耕民の拡大、そして約5000年前のポントスステップからのステップ牧畜民の到来である。狩猟採集から農耕への転換は、人類の歴史における重要な移行であるが、この移行期におけるヨーロッパとアジアの集団の構造と人口動態の変化に関する詳細な情報は少ない。
Morten Allentoft、Martin Sikora、Eske Willerslevらは1つ目の論文で、こうした過程を大陸横断的な規模で調べるため、ユーラシア大陸の北部と西部で見つかった、主に中石器時代と新石器時代の古代人317人のゲノムデータについて塩基配列を決定したことを報告している(中石器時代には、狩猟採集民と新石器時代の農耕民との間の空白を埋めるという意義がある)。また、今回の研究では、既存の1300人以上の古代人の遺伝子データも解析された。その結果、狩猟採集民から農耕民への移行の遺伝的影響に関して、黒海からバルト海まで伸びる非常に明確な「ゲノムの境界線」が存在することが明らかになった。この境界線の西側では、農耕の導入によって血統の変化を示す大規模な遺伝的変化が起こったが、これと同じ時期に、境界線の東側では、大きな変化は起こらなかった。著者らは、こうした違いが生じたのは境界線の東側の地域の気候条件が中東の農耕技術にあまり適していなかったためで、そのため狩猟採集社会が境界線の西側より約3000年長く続いた可能性があると指摘している。ステップ牧畜民の到来と拡大は、このゲノムの境界線の消失と関連している。
この他に、今週のNatureには、こうした遺伝的変化が現代のヨーロッパ人にどのような形で残っているかを調べた複数の論文(1つ目の論文と著者が重複している)が同時掲載される。2つ目の論文では、神経系の自己免疫疾患である多発性硬化症(MS)に対するヨーロッパ人の遺伝的リスクが高い原因が特定されたことが報告されている。この研究では、古代ゲノムのデータセットの一部と現代の英国在住のヨーロッパ系白人(自己申告による)約41万人のゲノムが比較され、現代のヨーロッパ人において、異なる古代ヨーロッパ人集団由来の遺伝物質が占める割合が定量化された。その結果、MSの遺伝的リスクはポントスステップの牧畜民の間で生じ、約5000年前にヨーロッパに持ち込まれ、これが記録のある移住現象と同時期であったことが明らかになった。また、この論文では、MSに関連した遺伝的バリアントが、感染症の有病率が増加していた時期に、ステップ牧畜民の生活習慣と環境に関連する免疫的優位性をもたらした可能性が示唆されている。
3つ目の論文では、古代の祖先集団の形質と現代人の形質の関連性がさらに指摘されている。例えば、糖尿病とアルツハイマー病のリスクに関連する遺伝的バリアントは、西欧の狩猟採集民の祖先集団に関連しており、北ヨーロッパ人と南ヨーロッパ人の身長差は、異なるステップ牧畜民の祖先集団に関連していることが明らかになった。また、4つ目の論文では、古代デンマークの集団を対象とした研究で、デンマークで発見された100体のヒトの骨格(中石器時代、新石器時代、青銅器時代前期の7300年間にわたる)のゲノム解析の結果が報告されている。この研究では、人口動態、文化、土地利用、食生活の変化のパターンが解明された。
以上の知見は、古代人集団における遺伝的選択と移住現象が、現代のヨーロッパ人に見られる多様な形質にどのように顕著な寄与をしたかを示している。
古代DNA:100例の古代ゲノムから明らかになった新石器時代のデンマークで繰り返された集団の入れ替わり
Cover Story:ステップ起源の変化:先史時代のユーラシアにおける移動と生活様式の変化が多発性硬化症の遺伝的リスクの上昇に関連している
今週号の4報の論文でE Willerslevたちは、古代ユーラシアから得られた遺伝学的データを用いて、先史時代の集団に対する大陸横断的な移動の影響を調べている。その結果、古代のステップ集団、農耕民集団、狩猟採集民集団の間の混合に由来すると思われる遺伝的な変化の一部が解き明かされた。特に、ステップ集団の移動が、おそらく狩猟採集から農耕と牧畜に集団が切り替わった際の病原体からの保護に伴う進化的圧力の結果として、ヨーロッパに多発性硬化症への遺伝的リスクの増大をもたらしたことが見いだされている。表紙は、ユーラシアステップの古代墓地で発見された典型的なクルガンの石碑のイラストを用いて、多発性硬化症のリスクとの遺伝的関連性に関わるイメージを表現している。
参考文献:
Allentoft ME. et al.(2024): 100 ancient genomes show repeated population turnovers in Neolithic Denmark. Nature, 625, 7994, 329–337.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-06862-3
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