小田部雄次『昭和天皇と弟宮』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2011年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、昭和天皇(裕仁親王)とその弟宮、つまり秩父宮(雍仁親王)と高松宮(宣仁親王)と三笠宮(崇仁親王)との関係を検証しますが、昭和天皇とやや年齢が離れている三笠宮(昭和天皇は1901年、秩父宮は1902年、高松宮は1905年、三笠宮は1915年生まれとなります)の分量は少なく、戦後の皇族の兄弟関係にも1章が割かれています。本書冒頭で、現在の皇室典範では皇統が皇太子(現天皇)の徳仁親王から弟の文仁親王およびその息子の悠仁親王へと継承されることから、皇族の兄弟間の相克として世間で騒がれたことが取り上げられ、また天皇位継承予定者とその弟との間の格差も注目され、皇族のそうした観点から皇族の兄弟関係として、昭和天皇と弟宮との間の事例が検証されています。
幕末から近代の天皇では、孝明天皇と明治天皇と大正天皇には成人した弟はおらず、昭和天皇が成人した弟のいる初めての天皇となります。幕末から近代にかけての皇族で重要なのは、一度出家した皇族の還俗などにより、新たな宮家が多く設置されたことです。幕末の前までは4親王家だけだったのに、幕末から近代にかけて11の宮家が新設され、その後に整理されたものの、第二次世界大戦の時点では合計11の宮家が存在しました。孝明天皇と明治天皇と大正天皇に成人した弟がいなかったように、男系での皇位継承のため、宮家の存在意義は大きかった、と本書は指摘します。第二次世界大戦後は、大正天皇の直系男子のみが宮家を立てることになりました。
昭和天皇と弟宮との関係で重要になるのは、昭和天皇が皇太子から摂政を兼任して即位当初まで、その立場が確たるものではなかったことです。その一因として、昭和天皇と香淳皇后との間になかなか男子が生まれないことにもあった、と本書は指摘します。そうした中で、1933年12月23日に昭和天皇と香淳皇后との間に男子(明仁親王、現上皇)が生まれ、これにより高松宮は重荷が下りたように感じて喜びます。仮に昭和天皇に男子がずっといなければ、秩父宮が即位し、さらは高松宮が即位する可能性もあったからです。
昭和天皇と陸軍へと進んだ秩父宮との微妙な関係は、比較的よく知られているように思います。秩父宮(雍仁親王)は当初海軍を希望していたようですが、陸軍主体の時代で、陸軍側が秩父宮を強く求めた事情もあったそうです。秩父宮は母親の貞明皇后と誕生日が同じで、それもあったのか、貞明皇后には雍仁への親近感があったようです。秩父宮は幼少期より生真面目な人物で、それが無理を重ねることにつながったようです。軍隊は一般人が皇族と直に接することのできる唯一の場で、それを積極的に利用する者もおり、後に二・二六事件で死刑となった西田税もその一人で、秩父宮に接近しました。秩父宮は士官候補生の教官時代には、西田と同様に二・二六事件で死刑となった安藤輝三とも親しくしていました。秩父宮は陸軍で、国家改造といった革新的志向の人々とも直接的に接していたわけで、そうした人々に対して、過激化を懸念しつつ、容認していた様子は、陸軍大学に入った後に校長を務めていた荒木貞夫からの課題への回答にも表れていました。そのため、秩父宮は革新派の軍人からの評判がよかったわけですが、一方で、昭和天皇はそうした人々との直接的交流の場はなかったようです。こうした秩父宮の立場と姿勢に、期待をする革新派軍人も、懸念する高官もいました。秩父宮は革新派軍人に全面的に肩入れしたわけではありませんが、その構想に同意するところや親近感はあったようで、昭和天皇に親政を求めて激論になったこともあったようです。
二・二六事件への秩父宮の関わりについては、もちろん首謀者ではありませんでしたし、「帝位簒奪」を狙ったわけではないとしても、無関与で無関心だったとも断定できないようです。1936年の二・二六事件勃発直後、秩父宮は鉄路で東京へと向かいますが、その途中で平泉澄が乗車してきて、東京の状況を報告しています。秩父宮は2月27日16時59分に上野駅に到着し、そのまま参内してまず弟で海軍に進んだ高松宮と会い、その後で兄弟ともに昭和天皇に会い、蹶起部隊の行動を詫びています。秩父宮の真意は不明ですが、秩父宮は西田や安藤などと親しかったので、その関わりについて詫びたのではないか、と本書は推測します。二・二六事件の収束後、秩父宮はこうした風評を気にしてか、兄の昭和天皇に対してさらに謙譲の姿勢を示したようです。1937年、イギリスのジョージ6世の戴冠式に秩父宮は昭和天皇の名代として参列し、陸軍では高評価のヒトラーがイギリスではひどく悪評なのを知り、その人物を確かめるためもあって、ヒトラーと実際に会うことにします。秩父宮は、自身の前でスターリンを罵倒するヒトラーを英語で窘めたようです。ドイツから帰国した秩父宮は、出国以前ほどドイツ一辺倒ではなくなったようです。しかし、当時の報道では秩父宮が日本とドイツの提携の象徴とされ、昭和天皇も秩父宮が日本とドイツの提携を強く主張した、と(少なくとも後年には)認識していました。秩父宮は1940年に入結核と診断され、表舞台から降り、それに代わって注目されるようになったのが、秩父宮の弟で海軍に進んでいた高松宮でした。
高松宮は軍務に馴染めないところがあったようで、皇族が軍人となることへの強い懐疑がありました。高松宮にはさらに、皇族が多数いることへの疑問もありました。これは、自身が皇太子から天皇となる兄(裕仁親王、昭和天皇)の「予備」にすぎない、との強い自覚から生じた煩悶でもあるようです。近年、イギリス王室でもそうした告白がありましたが、私のような庶民から見ると恵まれている立場のように思えても、そうした人々にはまた庶民とは異なる悩みもあるわけです。高松宮は結婚直後の1930年4月~1931年6月にかけて欧米諸国を歴訪し、ロンドン軍縮問題など困難な政治情勢に巻き込まれずにすんだようです。
次兄の秩父宮が強硬的な革新派軍人にも比較的好意的だったのに対して、高松宮は長兄の昭和天皇と同じく強硬派に批判的でした。ただ、昭和天皇とは時局認識でやや異なるところもあり、「ファッショ」を完全には排除せず、昭和天皇が絶対的に信頼していた元老の西園寺公望に対しては、不信感も抱いていたようです。さらに、高松宮は五・一五事件の実行犯への同情もありました。日中戦争が長期化していく過程で、上海視察の問題などから、高松宮と昭和天皇の情勢認識や判断に齟齬が生じていき、それは対米開戦をめぐる議論でも解消されませんでした。対英米開戦後、軍令部と大本営参謀部にいた高松宮は、昭和天皇より海軍の情報を有していたこともあり、戦局認識は昭和天皇より悲観的になっていきます。高松宮は皇統安泰のための戦争終結を考え、それは昭和天皇も同様でしたが、その具体案には相手の犠牲を前提とするものもあったようです。戦後になって、高松宮は1975年に雑誌で、昭和天皇に対米開戦を避けるよう進言し、ミッドウェー海戦後は早期和平を目指した、と述べました。昭和天皇はこの記事に不満だったようで、さらに、高松宮が雑誌で妻や甥(寛仁親王)とともに皇室の不自由さをかたったことに怒りを募らせます。しかし、高松宮は昭和天皇が怒った理由を理解できず、両者は戦後さらに溝を深めたようです。
幕末から近代の天皇では、孝明天皇と明治天皇と大正天皇には成人した弟はおらず、昭和天皇が成人した弟のいる初めての天皇となります。幕末から近代にかけての皇族で重要なのは、一度出家した皇族の還俗などにより、新たな宮家が多く設置されたことです。幕末の前までは4親王家だけだったのに、幕末から近代にかけて11の宮家が新設され、その後に整理されたものの、第二次世界大戦の時点では合計11の宮家が存在しました。孝明天皇と明治天皇と大正天皇に成人した弟がいなかったように、男系での皇位継承のため、宮家の存在意義は大きかった、と本書は指摘します。第二次世界大戦後は、大正天皇の直系男子のみが宮家を立てることになりました。
昭和天皇と弟宮との関係で重要になるのは、昭和天皇が皇太子から摂政を兼任して即位当初まで、その立場が確たるものではなかったことです。その一因として、昭和天皇と香淳皇后との間になかなか男子が生まれないことにもあった、と本書は指摘します。そうした中で、1933年12月23日に昭和天皇と香淳皇后との間に男子(明仁親王、現上皇)が生まれ、これにより高松宮は重荷が下りたように感じて喜びます。仮に昭和天皇に男子がずっといなければ、秩父宮が即位し、さらは高松宮が即位する可能性もあったからです。
昭和天皇と陸軍へと進んだ秩父宮との微妙な関係は、比較的よく知られているように思います。秩父宮(雍仁親王)は当初海軍を希望していたようですが、陸軍主体の時代で、陸軍側が秩父宮を強く求めた事情もあったそうです。秩父宮は母親の貞明皇后と誕生日が同じで、それもあったのか、貞明皇后には雍仁への親近感があったようです。秩父宮は幼少期より生真面目な人物で、それが無理を重ねることにつながったようです。軍隊は一般人が皇族と直に接することのできる唯一の場で、それを積極的に利用する者もおり、後に二・二六事件で死刑となった西田税もその一人で、秩父宮に接近しました。秩父宮は士官候補生の教官時代には、西田と同様に二・二六事件で死刑となった安藤輝三とも親しくしていました。秩父宮は陸軍で、国家改造といった革新的志向の人々とも直接的に接していたわけで、そうした人々に対して、過激化を懸念しつつ、容認していた様子は、陸軍大学に入った後に校長を務めていた荒木貞夫からの課題への回答にも表れていました。そのため、秩父宮は革新派の軍人からの評判がよかったわけですが、一方で、昭和天皇はそうした人々との直接的交流の場はなかったようです。こうした秩父宮の立場と姿勢に、期待をする革新派軍人も、懸念する高官もいました。秩父宮は革新派軍人に全面的に肩入れしたわけではありませんが、その構想に同意するところや親近感はあったようで、昭和天皇に親政を求めて激論になったこともあったようです。
二・二六事件への秩父宮の関わりについては、もちろん首謀者ではありませんでしたし、「帝位簒奪」を狙ったわけではないとしても、無関与で無関心だったとも断定できないようです。1936年の二・二六事件勃発直後、秩父宮は鉄路で東京へと向かいますが、その途中で平泉澄が乗車してきて、東京の状況を報告しています。秩父宮は2月27日16時59分に上野駅に到着し、そのまま参内してまず弟で海軍に進んだ高松宮と会い、その後で兄弟ともに昭和天皇に会い、蹶起部隊の行動を詫びています。秩父宮の真意は不明ですが、秩父宮は西田や安藤などと親しかったので、その関わりについて詫びたのではないか、と本書は推測します。二・二六事件の収束後、秩父宮はこうした風評を気にしてか、兄の昭和天皇に対してさらに謙譲の姿勢を示したようです。1937年、イギリスのジョージ6世の戴冠式に秩父宮は昭和天皇の名代として参列し、陸軍では高評価のヒトラーがイギリスではひどく悪評なのを知り、その人物を確かめるためもあって、ヒトラーと実際に会うことにします。秩父宮は、自身の前でスターリンを罵倒するヒトラーを英語で窘めたようです。ドイツから帰国した秩父宮は、出国以前ほどドイツ一辺倒ではなくなったようです。しかし、当時の報道では秩父宮が日本とドイツの提携の象徴とされ、昭和天皇も秩父宮が日本とドイツの提携を強く主張した、と(少なくとも後年には)認識していました。秩父宮は1940年に入結核と診断され、表舞台から降り、それに代わって注目されるようになったのが、秩父宮の弟で海軍に進んでいた高松宮でした。
高松宮は軍務に馴染めないところがあったようで、皇族が軍人となることへの強い懐疑がありました。高松宮にはさらに、皇族が多数いることへの疑問もありました。これは、自身が皇太子から天皇となる兄(裕仁親王、昭和天皇)の「予備」にすぎない、との強い自覚から生じた煩悶でもあるようです。近年、イギリス王室でもそうした告白がありましたが、私のような庶民から見ると恵まれている立場のように思えても、そうした人々にはまた庶民とは異なる悩みもあるわけです。高松宮は結婚直後の1930年4月~1931年6月にかけて欧米諸国を歴訪し、ロンドン軍縮問題など困難な政治情勢に巻き込まれずにすんだようです。
次兄の秩父宮が強硬的な革新派軍人にも比較的好意的だったのに対して、高松宮は長兄の昭和天皇と同じく強硬派に批判的でした。ただ、昭和天皇とは時局認識でやや異なるところもあり、「ファッショ」を完全には排除せず、昭和天皇が絶対的に信頼していた元老の西園寺公望に対しては、不信感も抱いていたようです。さらに、高松宮は五・一五事件の実行犯への同情もありました。日中戦争が長期化していく過程で、上海視察の問題などから、高松宮と昭和天皇の情勢認識や判断に齟齬が生じていき、それは対米開戦をめぐる議論でも解消されませんでした。対英米開戦後、軍令部と大本営参謀部にいた高松宮は、昭和天皇より海軍の情報を有していたこともあり、戦局認識は昭和天皇より悲観的になっていきます。高松宮は皇統安泰のための戦争終結を考え、それは昭和天皇も同様でしたが、その具体案には相手の犠牲を前提とするものもあったようです。戦後になって、高松宮は1975年に雑誌で、昭和天皇に対米開戦を避けるよう進言し、ミッドウェー海戦後は早期和平を目指した、と述べました。昭和天皇はこの記事に不満だったようで、さらに、高松宮が雑誌で妻や甥(寛仁親王)とともに皇室の不自由さをかたったことに怒りを募らせます。しかし、高松宮は昭和天皇が怒った理由を理解できず、両者は戦後さらに溝を深めたようです。
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