小川原正道 『福沢諭吉 変貌する肖像 文明の先導者から文化人の象徴へ』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2023年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、1万円札の肖像にも起用され、有名ではあるものの、現代日本社会において私も含めて大衆にはその思想と言動が詳しく知られておらず、またその評価をめぐって現在も議論となっている福沢の評価の変遷を、その生前にまでさかのぼって検証します。福沢をめぐっては、著名な社会思想史研究者が、福沢を憎悪するあまりなのか、福沢を腐せる根拠に使えるとして、福沢の著書『学問のすゝめ』の有名な一節「天は人の上に人を造らず」は(現在ではほぼ間違いなく偽書と考えられている)『東日流外三郡誌』から引用した、と主張したことさえありました(この主張の頃にはすでに、偽書との指摘がありました)。福沢の評価は近代日本の評価とも直結する側面が多分にあり、それ故に感情的とも思える反応を呼ぶこともあるのかな、とも思います。以下、敬称は省略します。
本書は、福沢に対する知識人の批評対象の起点として『学問のすゝめ』を挙げています。幕臣だった福沢は明治政府からの出仕要請を断り、それには幕臣時代の政治への挫折と官民に対する不信感があった、と本書は指摘します。『学問のすゝめ』は1874年1月に刊行され、福沢も属していた明六社の加藤弘之や森有礼や津田真道や西周が福沢に反論しています。この論争において、福沢は為政者の補佐という漢学者的発想への嫌悪感があり、文明化のための学際的な情報交換を求めていたのに対して、おもに「官」の側にあった加藤たちは専門知の自覚とその有用性や求心的変革への警戒といった側面を強調し、議論があまりかみ合わず生産的ではなかった、と本書は評価しています。
自由民権運動が盛り上がっていくなかで、福沢は民会(地方議会)の設置を提案し、人民と政府の権力の均衡の中での文明化促進を主張しました。加藤弘之はこれに対して時期尚早と反論し、福沢はそれに対して、時期尚早というなら廃藩置県も同様だ、と再反論しています。「民」にあった福沢の活動基盤は学問と教育にあり、元田永孚に代表される儒教的な道徳教育の重視には批判的でした。福沢は個人の独立の重要性を強調し、それに儒教的な徳目である父母への孝行や長幼の序なども包含される、と主張しました。これは、福沢が知識人から批判される重要な論点となります。
福沢は表面的には教育勅語を歓迎していますが、内心では違っていたようで、『時事新報』の社説では儒教主義教育への強い嫌悪感が示されていました。そのため、福沢の門下生が修身処世要綱として「修身要領」を作成し、「独立自尊」が強調されましたが、倫理学や教育勅語やキリスト教や社会主義など、さまざまな立場の人からに批判されました。とくに、東京帝国大学文科大学長だった井上哲次郎からの批判の影響は大きかったようです。この議論が始まって間もなく、福沢は没しました。福沢の官民調和論は、すでに生前から同時代の知識人に批判されており、福沢が教育勅語に批判的ながら正面から挑戦しなかったような、現状維持的もしくは穏健的姿勢は、第二次世界大戦後に歴史学から厳しく指弾されます。福沢の晩年の宗教観は、仏教でもキリスト教でも民心を和らげてもらいたい、というもので、あくまでも品行維持のための手段として宗教を把握していました。
福沢は1901年2月3日に没し、その直後から全国の新聞や雑誌に多くの追悼記事が寄せられました。もちろん、それらの記事における福沢に対する評価には違いがあり、「拝金宗」との批判もありましたが、福沢が「官」に頼らずこれに対抗し、自立した「民」の側に立って「文明」化を先導した「大平民」だった点では共通していました。福沢の没後しばらくは、賛否いずれにしてもこうした福沢論が活発でしたが、1910年代になると福沢を論じる知識人は慶応義塾関係者の他には急速に減っていき、福沢は時代遅れの存在として忘却されつつありました。その傾向は1920年代にますます強くなり、福沢はもはや過去の人物とみなされ、その把握も専門分化していき、総体としての福沢像を描きにくくなっていました。
1930年代には福沢の著書の一部が国体毀損の観点から削除されるなど、福沢の評価自体が以前よりもさらに難しくなったところもあり、1940年代になると、当時の風潮を反映して、個人主義的自由主義と考えられていた福沢の思想に国権拡張論者・愛国者としての側面があった、と強調されるようにもなります。太平洋戦争勃発後には、福沢に対してイギリスとアメリカ合衆国の思想のいわば輸入元として批判が高まり、それに対する「福沢弁護論」では、福沢の国家主義者・国権拡張論者としての側面がさらに強調されていきます。一方で、第二次世界大戦後に福沢を論じた代表的な知識人の一人である丸山真男は戦中において、福沢の独立自由と国権主義との結合は反儒教主義を媒介にしていた、と指摘しました。
第二次世界大戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による民主化政策推進において、福沢はその旗頭の一人に位置づけられました。民主主義や自由平等主義が叫ばれ、個人主義や功利主義が復活し、女性の権利や学問の自由が求められる中で、福沢の再登場が期待されたわけです。ただ、福沢の文章における朝鮮への侮蔑的・批判的表現が削除されることはありました。一方で、戦前の国家主義立場とは異なる福沢批判も提示され、たとえば家永三郎は福沢の時代的限界を指摘し、それは福沢の思想が「典型的な資本主義的精神」に裏づけられていることでした。戦後歴史学の側からは遠山茂樹が、福沢の基調は国権の伸長と国家・国民の対外的独立であり、そのための自由自主の精神の主張だった、と指摘します。こうした福沢批判は、とくに左派においてその後で高まっていき、福沢の「労働者軽視」や「脱亜論」が厳しく批判されるようになります。とくに「脱亜論」は左派において、福沢を特徴づける重要な思想と位置づけられ、厳しい批判の対象とされました。一方で坂野潤治は、「脱亜論」の史料批判的理解から、福沢の対外論は「脱亜論」よりもその前の朝鮮改造論の方がはるかに「侵略的」で、「脱亜論」は福沢が朝鮮改造論を放棄した宣言にすぎず、それ以降の福沢はむしろ朝鮮進出論を放棄した、と指摘しました。これが現在の「脱亜論」の通説的解釈となっています。
本書は、福沢に対する知識人の批評対象の起点として『学問のすゝめ』を挙げています。幕臣だった福沢は明治政府からの出仕要請を断り、それには幕臣時代の政治への挫折と官民に対する不信感があった、と本書は指摘します。『学問のすゝめ』は1874年1月に刊行され、福沢も属していた明六社の加藤弘之や森有礼や津田真道や西周が福沢に反論しています。この論争において、福沢は為政者の補佐という漢学者的発想への嫌悪感があり、文明化のための学際的な情報交換を求めていたのに対して、おもに「官」の側にあった加藤たちは専門知の自覚とその有用性や求心的変革への警戒といった側面を強調し、議論があまりかみ合わず生産的ではなかった、と本書は評価しています。
自由民権運動が盛り上がっていくなかで、福沢は民会(地方議会)の設置を提案し、人民と政府の権力の均衡の中での文明化促進を主張しました。加藤弘之はこれに対して時期尚早と反論し、福沢はそれに対して、時期尚早というなら廃藩置県も同様だ、と再反論しています。「民」にあった福沢の活動基盤は学問と教育にあり、元田永孚に代表される儒教的な道徳教育の重視には批判的でした。福沢は個人の独立の重要性を強調し、それに儒教的な徳目である父母への孝行や長幼の序なども包含される、と主張しました。これは、福沢が知識人から批判される重要な論点となります。
福沢は表面的には教育勅語を歓迎していますが、内心では違っていたようで、『時事新報』の社説では儒教主義教育への強い嫌悪感が示されていました。そのため、福沢の門下生が修身処世要綱として「修身要領」を作成し、「独立自尊」が強調されましたが、倫理学や教育勅語やキリスト教や社会主義など、さまざまな立場の人からに批判されました。とくに、東京帝国大学文科大学長だった井上哲次郎からの批判の影響は大きかったようです。この議論が始まって間もなく、福沢は没しました。福沢の官民調和論は、すでに生前から同時代の知識人に批判されており、福沢が教育勅語に批判的ながら正面から挑戦しなかったような、現状維持的もしくは穏健的姿勢は、第二次世界大戦後に歴史学から厳しく指弾されます。福沢の晩年の宗教観は、仏教でもキリスト教でも民心を和らげてもらいたい、というもので、あくまでも品行維持のための手段として宗教を把握していました。
福沢は1901年2月3日に没し、その直後から全国の新聞や雑誌に多くの追悼記事が寄せられました。もちろん、それらの記事における福沢に対する評価には違いがあり、「拝金宗」との批判もありましたが、福沢が「官」に頼らずこれに対抗し、自立した「民」の側に立って「文明」化を先導した「大平民」だった点では共通していました。福沢の没後しばらくは、賛否いずれにしてもこうした福沢論が活発でしたが、1910年代になると福沢を論じる知識人は慶応義塾関係者の他には急速に減っていき、福沢は時代遅れの存在として忘却されつつありました。その傾向は1920年代にますます強くなり、福沢はもはや過去の人物とみなされ、その把握も専門分化していき、総体としての福沢像を描きにくくなっていました。
1930年代には福沢の著書の一部が国体毀損の観点から削除されるなど、福沢の評価自体が以前よりもさらに難しくなったところもあり、1940年代になると、当時の風潮を反映して、個人主義的自由主義と考えられていた福沢の思想に国権拡張論者・愛国者としての側面があった、と強調されるようにもなります。太平洋戦争勃発後には、福沢に対してイギリスとアメリカ合衆国の思想のいわば輸入元として批判が高まり、それに対する「福沢弁護論」では、福沢の国家主義者・国権拡張論者としての側面がさらに強調されていきます。一方で、第二次世界大戦後に福沢を論じた代表的な知識人の一人である丸山真男は戦中において、福沢の独立自由と国権主義との結合は反儒教主義を媒介にしていた、と指摘しました。
第二次世界大戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による民主化政策推進において、福沢はその旗頭の一人に位置づけられました。民主主義や自由平等主義が叫ばれ、個人主義や功利主義が復活し、女性の権利や学問の自由が求められる中で、福沢の再登場が期待されたわけです。ただ、福沢の文章における朝鮮への侮蔑的・批判的表現が削除されることはありました。一方で、戦前の国家主義立場とは異なる福沢批判も提示され、たとえば家永三郎は福沢の時代的限界を指摘し、それは福沢の思想が「典型的な資本主義的精神」に裏づけられていることでした。戦後歴史学の側からは遠山茂樹が、福沢の基調は国権の伸長と国家・国民の対外的独立であり、そのための自由自主の精神の主張だった、と指摘します。こうした福沢批判は、とくに左派においてその後で高まっていき、福沢の「労働者軽視」や「脱亜論」が厳しく批判されるようになります。とくに「脱亜論」は左派において、福沢を特徴づける重要な思想と位置づけられ、厳しい批判の対象とされました。一方で坂野潤治は、「脱亜論」の史料批判的理解から、福沢の対外論は「脱亜論」よりもその前の朝鮮改造論の方がはるかに「侵略的」で、「脱亜論」は福沢が朝鮮改造論を放棄した宣言にすぎず、それ以降の福沢はむしろ朝鮮進出論を放棄した、と指摘しました。これが現在の「脱亜論」の通説的解釈となっています。
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